2017年01月21日
黒衣の外交官と呼ばれた名僧
戦国時代、田布施(鹿児島県金峰町)にいた、島津家15代貴久は跡目争いで薩州島津家実久を敗り、この場所に内城を築き、移り住みました。(現在の住所では、鹿児島市大龍町になります。)
以来50年、内城は島津氏の本城でしたが、18代家久の時、鶴丸城が築かれ廃城となりました。
その跡に建立されたのが、端雲山大龍寺です。臨済宗に属し、寺号は内城を居城とした貴久・義久のそれぞれの号「大中」と「龍伯」に因んでつけられました。
開視には、南浦文之(なんぽぶんし)が招かれ、朱子学をわが国にもたらした桂奉玄樹の学問を伝える儒僧として、その教えを広めました。
別名、文之玄昌(ぶんしげんしょう)和尚は、1555年・日向(宮崎県)飫肥に生まれ、幼少時から文珠童とよばれるほどの才児で、龍源寺の一翁玄心によって、桂庵の教えに触れました。
著作である南浦文集に収められた「鉄砲記」は、わが国への鉄砲伝来の経緯を知る上で貴重な資料です。
また、文之和尚は、義久・義弘・家久の三代に使えた政治顧問としても有名で、藩の琉球政策などに手腕を発揮し、黒衣の外交官ともいわれました。
元和6年(1620)9月30日、66歳で死去。墓所は鹿児島県加治木町の安国寺にあります。
大龍寺の在った場所は、現在では大龍小学校になっており、先年ノーベル賞を受賞された赤崎博士の出身校でもあります。
以来50年、内城は島津氏の本城でしたが、18代家久の時、鶴丸城が築かれ廃城となりました。
その跡に建立されたのが、端雲山大龍寺です。臨済宗に属し、寺号は内城を居城とした貴久・義久のそれぞれの号「大中」と「龍伯」に因んでつけられました。
開視には、南浦文之(なんぽぶんし)が招かれ、朱子学をわが国にもたらした桂奉玄樹の学問を伝える儒僧として、その教えを広めました。
別名、文之玄昌(ぶんしげんしょう)和尚は、1555年・日向(宮崎県)飫肥に生まれ、幼少時から文珠童とよばれるほどの才児で、龍源寺の一翁玄心によって、桂庵の教えに触れました。
著作である南浦文集に収められた「鉄砲記」は、わが国への鉄砲伝来の経緯を知る上で貴重な資料です。
また、文之和尚は、義久・義弘・家久の三代に使えた政治顧問としても有名で、藩の琉球政策などに手腕を発揮し、黒衣の外交官ともいわれました。
元和6年(1620)9月30日、66歳で死去。墓所は鹿児島県加治木町の安国寺にあります。
大龍寺の在った場所は、現在では大龍小学校になっており、先年ノーベル賞を受賞された赤崎博士の出身校でもあります。
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