大虫神社(おおむしじんじゃ)は、福井県越前市大虫町にある神社である。式内社(名神大)で、旧社格は県社。
天津日高彦火火出見命を祭神とする。
歴史
社伝によれば、崇神天皇7年、南越地方を平定・開拓した天津日高彦火火出見命の霊を鬼ヶ嶽の山頂に祀ったのに始まると伝える。垂仁天皇の時代にイナゴが大発生したが、当社に祈願した所たちまちイナゴは退散した。天皇はこれを喜び、当社を大虫神社と称し、山頂から現在地に遷座したという。
国史での初見は、『続日本紀』宝亀11年(780年)12月14日条の、越前国丹生郡大虫神ほかに従五位下の神階を授けるという記述である。天徳3年(959年)には最高位の正一位まで昇った。延喜式神名帳には「越前国丹生郡 大虫神社」と記載され、越前国で2社だけの名神大社に列している。
天正4年(1576年)、柴田勝家によって社殿が焼かれたが、神体・神宝は鬼ヶ嶽山頂に移され無事であった。その後、豊臣秀吉によって再建された。天正11年(1583年)、式内社の小虫神社・雨夜神社・雷神社を当社に合祀した。ただし、後二者については比定社がほかにもある。
現在の宮司は岡野吉則氏であり、伝承の時代を含めると同氏が100代目の宮司となる。創建より社家である岡野家が宮司を勤めるとされるが、信頼できる文献などで確認される範疇でも、遅くとも南北朝時代以降は岡野家が代々宮司を勤めてきたことが確認される。 その後の戦国時代は朝倉氏側に組みしていたことから、柴田勝家による兵火で社殿が焼かれ、一部の岡野家の者が柴田側に処刑されるに及んだが、その後も引き続き岡野家が宮司を勤め今日に至っている。 後に元豊臣秀吉配下であった大名の仲介により、同家の次男以下数名の者が、播州赤穂藩に取り立てられ武士として江戸期に及んだ。 江戸期より今日まで歌舞伎や文楽などで史実創作おりまぜた作品として演じられる【忠臣蔵】に47士の一人として登場する実在の岡野金右衛門父子は、その縁戚で同じく47士の一人である大高源五と共に、この社家から出た者の子孫である。
尚、平成時代終盤に至り、岡野家以外の者が実務上の宮司を勤めているが、諸般のやむなき事情が想定されるものの、本来的な宮司であるはずの岡野氏並びに縁戚の者により宮司の代替者になり得た経緯説明を求めてもなんら回答を得られておらず、現在も岡野氏が正当な宮司であるとの認識にある。
社後に岩石をまつる
祭事
8月15日には、松明を手に鬼ヶ嶽を登る「鬼ヶ嶽火祭り」が行われる。
所在地 福井県越前市大虫町21-28
位置 北緯35度54分3.23秒 東経136度7分35.71秒
主祭神 天津日高彦火火出見命
社格等 式内社(名神大)
旧県社
創建 崇神天皇7年
本殿の様式 流造
例祭 10月10日
主な神事 鬼ヶ嶽火祭り
2023年12月01日
2023年11月30日
円鏡寺(えんきょうじ)は、岐阜県本巣郡北方町にある高野山真言宗別格本山の寺院
円鏡寺(えんきょうじ)は、岐阜県本巣郡北方町にある高野山真言宗別格本山の寺院である。
本堂
概要
山号は池鏡山。本尊は木造聖観音菩薩立像、木造不動明王立像。
東海三十六不動尊第三十二番。美濃七福神(弁財天)。文化財を多く所有し、「美濃の正倉院」と呼ばれる。また、庭園が美しい。
沿革
寺伝によれば、811年(弘仁2年)、嵯峨天皇の勅命により、空海が創建したという。不動明王を本尊とし、定照寺と名づけられる。後に、補陀落上人により聖観音菩薩が安置されたことにより補陀落院と改称されたという。
988年(永延2年)、良祐により現在の伽藍の元が築かれ、一条天皇より「池鏡山 円鏡寺」の名を授かる。なお境内に池を造った際に明鏡が出土、これを献上したことによる。
1731年(享保16年)4月12日の火災で観音堂が焼失。1741年(寛保1年)3月 観音堂が再建された。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの歴代権力者からの保護を受けており、朱印状も受けている。
1914年(大正3年)楼門が修築された。
三重塔
魚供養観音菩薩
文化財
重要文化財(国指定)
楼門
1296年(永仁4年)建立。入母屋造、檜皮葺。明治神宮の南楼門のモデルとなったという。大工は八重則光、小工は八重則定。1909年(明治42年)4月5日指定。
木造聖観音立像
平安時代の作。像高166.7cm。1914年(大正3年)4月17日指定。
木造不動明王立像
平安時代の作。像高182.7cm。1914年(大正3年)4月17日指定。
木造金剛力士(仁王)立像
鎌倉時代の作。口を開く「阿形」(あぎょう)、口を閉じる「吽形」(うんぎょう)の1対で金剛力士と呼ばれる。像高各230.3cm。1925年(大正14年)4月24日指定。
楼門
交通アクセス
樽見鉄道樽見線 北方真桑駅より徒歩で約20分。
岐阜バス「北方円鏡寺前」バス停が最寄である。徒歩で約2分。
JR岐阜駅バスターミナル(JR東海道本線・高山本線 岐阜駅)
7番のりば:真正大縄場線 「大野バスセンター」「イオンタウン本巣」行き
7番のりば:北方河渡線 「芝原6丁目」行き
名鉄岐阜のりば(名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅)
5番のりば:真正大縄場線 「大野バスセンター」「イオンタウン本巣」行き
5番のりば:北方河渡線 「芝原6丁目」行き
所在地 岐阜県本巣郡北方町北方1345
位置 北緯35度26分9.97秒 東経136度41分12.15秒
山号 池鏡山
宗派 高野山真言宗
寺格 別格本山
本尊 聖観音菩薩、不動明王
創建年 伝・811年(弘仁2年)
開基 伝・空海、嵯峨天皇(勅願)
正式名 池鏡山円鏡寺
池鏡山圓鏡寺
札所等 西美濃三十三霊場3番
東海三十六不動尊32番
美濃四国札所51番
美濃三弘法1番
文化財 木造聖観音立像、木造不動明王立像、木造金剛力士立像、楼門(国の重要文化財)
金胎両界曼陀羅図など11点(県文化財)
織田信長朱印状など24点(町文化財)
本堂
概要
山号は池鏡山。本尊は木造聖観音菩薩立像、木造不動明王立像。
東海三十六不動尊第三十二番。美濃七福神(弁財天)。文化財を多く所有し、「美濃の正倉院」と呼ばれる。また、庭園が美しい。
沿革
寺伝によれば、811年(弘仁2年)、嵯峨天皇の勅命により、空海が創建したという。不動明王を本尊とし、定照寺と名づけられる。後に、補陀落上人により聖観音菩薩が安置されたことにより補陀落院と改称されたという。
988年(永延2年)、良祐により現在の伽藍の元が築かれ、一条天皇より「池鏡山 円鏡寺」の名を授かる。なお境内に池を造った際に明鏡が出土、これを献上したことによる。
1731年(享保16年)4月12日の火災で観音堂が焼失。1741年(寛保1年)3月 観音堂が再建された。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの歴代権力者からの保護を受けており、朱印状も受けている。
1914年(大正3年)楼門が修築された。
三重塔
魚供養観音菩薩
文化財
重要文化財(国指定)
楼門
1296年(永仁4年)建立。入母屋造、檜皮葺。明治神宮の南楼門のモデルとなったという。大工は八重則光、小工は八重則定。1909年(明治42年)4月5日指定。
木造聖観音立像
平安時代の作。像高166.7cm。1914年(大正3年)4月17日指定。
木造不動明王立像
平安時代の作。像高182.7cm。1914年(大正3年)4月17日指定。
木造金剛力士(仁王)立像
鎌倉時代の作。口を開く「阿形」(あぎょう)、口を閉じる「吽形」(うんぎょう)の1対で金剛力士と呼ばれる。像高各230.3cm。1925年(大正14年)4月24日指定。
楼門
交通アクセス
樽見鉄道樽見線 北方真桑駅より徒歩で約20分。
岐阜バス「北方円鏡寺前」バス停が最寄である。徒歩で約2分。
JR岐阜駅バスターミナル(JR東海道本線・高山本線 岐阜駅)
7番のりば:真正大縄場線 「大野バスセンター」「イオンタウン本巣」行き
7番のりば:北方河渡線 「芝原6丁目」行き
名鉄岐阜のりば(名鉄名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅)
5番のりば:真正大縄場線 「大野バスセンター」「イオンタウン本巣」行き
5番のりば:北方河渡線 「芝原6丁目」行き
所在地 岐阜県本巣郡北方町北方1345
位置 北緯35度26分9.97秒 東経136度41分12.15秒
山号 池鏡山
宗派 高野山真言宗
寺格 別格本山
本尊 聖観音菩薩、不動明王
創建年 伝・811年(弘仁2年)
開基 伝・空海、嵯峨天皇(勅願)
正式名 池鏡山円鏡寺
池鏡山圓鏡寺
札所等 西美濃三十三霊場3番
東海三十六不動尊32番
美濃四国札所51番
美濃三弘法1番
文化財 木造聖観音立像、木造不動明王立像、木造金剛力士立像、楼門(国の重要文化財)
金胎両界曼陀羅図など11点(県文化財)
織田信長朱印状など24点(町文化財)
2023年11月29日
安養院(あんよういん)は、神奈川県鎌倉市大町にある浄土宗の寺院
安養院(あんよういん)は、神奈川県鎌倉市大町にある浄土宗の寺院。山号は祇園山。寺号は長楽寺。本尊は阿弥陀如来。千手観音(田代観音)を安置し、坂東三十三観音・鎌倉三十三観音霊場第3番札所である。
歴史
この寺の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係している。この地は、元は浄土宗の僧・尊観が開いた浄土宗の善導寺であった。長楽寺は、1225年(嘉禄元年)北条政子が夫である源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷(はせささめがやつ、鎌倉文学館付近)に願行を開山として創建した寺と伝えられる。山号を祇園山と号し、律宗の寺院であった。長楽寺は1333年(元弘元年)兵火により焼失し、この地にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。なお、安養院は政子の法号から取られたものである。一方、田代寺は1192年(建久3年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷(ひきがやつ)に建立したのに始まると伝えられ、江戸時代になって安養院に統合された。千手観音は田代寺にあったもので、田代観音とも称されている。
交通
横須賀線(JR東日本)・江ノ島電鉄「鎌倉駅」から徒歩17分
宝篋印塔(重要文化財)
所在地 神奈川県鎌倉市大町3-1-22
位置 北緯35度18分51秒 東経139度33分19秒
山号 祇園山
院号 安養院
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1225年(嘉禄元年)
開山 願行[1]
正式名 祇園山 安養院 長楽寺
札所等 坂東三十三観音第3番
鎌倉三十三観音霊場第3番
鎌倉二十四地蔵霊場第24番
文化財 安養院宝篋印塔(重要文化財
歴史
この寺の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係している。この地は、元は浄土宗の僧・尊観が開いた浄土宗の善導寺であった。長楽寺は、1225年(嘉禄元年)北条政子が夫である源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷(はせささめがやつ、鎌倉文学館付近)に願行を開山として創建した寺と伝えられる。山号を祇園山と号し、律宗の寺院であった。長楽寺は1333年(元弘元年)兵火により焼失し、この地にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。なお、安養院は政子の法号から取られたものである。一方、田代寺は1192年(建久3年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷(ひきがやつ)に建立したのに始まると伝えられ、江戸時代になって安養院に統合された。千手観音は田代寺にあったもので、田代観音とも称されている。
交通
横須賀線(JR東日本)・江ノ島電鉄「鎌倉駅」から徒歩17分
宝篋印塔(重要文化財)
所在地 神奈川県鎌倉市大町3-1-22
位置 北緯35度18分51秒 東経139度33分19秒
山号 祇園山
院号 安養院
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1225年(嘉禄元年)
開山 願行[1]
正式名 祇園山 安養院 長楽寺
札所等 坂東三十三観音第3番
鎌倉三十三観音霊場第3番
鎌倉二十四地蔵霊場第24番
文化財 安養院宝篋印塔(重要文化財
2023年11月28日
新田神社(にったじんじゃ/にいたじんじゃ)は、鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社
新田神社(にったじんじゃ/にいたじんじゃ)は、鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社。薩摩国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
かつては八幡五所別宮の一つとして八幡神を祀っていた為、別に「新田八幡宮」「八幡新田宮」「川内八幡宮」「一宮八幡」「新田明神」等とも呼ばれていた。
社殿の背後にある墳墓は、1874年(明治7年)の宮内省により、皇孫・天津日高彦火邇邇杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト、ニニギノミコト)の陵墓とされる可愛山陵であると治定された。
新田神社 勅使殿
祭神
天津日高彦火邇邇杵尊
天照皇大御神
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていた。
参道の入り口
主な行事
武射祭 (1月7日)
早馬祭 (春分の日)
御田植祭 (入梅の日[6月10日頃]) - 倉野地区及び宮内地区の住民による「奴踊り」がある。(県無形文化財)
御神鏡清祭 (7月28日)
御宝物虫干祭 (8月7日)
例祭 (9月15日)
御通夜祭 (10月最終土曜日)
舞殿(左)と本殿(中央奥)
現地情報
交通アクセス
最寄駅:肥薩おれんじ鉄道 上川内駅から
徒歩:約17分
車:約4分
JR九州九州新幹線・鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道 川内駅から
車・路線バス:約5分
所在地 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2
位置 北緯31度49分39.5秒 東経130度17分33.6秒
主祭神 天津日高彦火邇邇杵尊
天照皇大御神
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
社格等 薩摩国一宮
旧国幣中社
別表神社
創建 伝神亀2年(725年)
本殿の様式 入母屋造
例祭 9月15日
主な神事 武射祭(1月7日)
御田植祭(6月10日頃)
御神鏡清祭(7月28日)
かつては八幡五所別宮の一つとして八幡神を祀っていた為、別に「新田八幡宮」「八幡新田宮」「川内八幡宮」「一宮八幡」「新田明神」等とも呼ばれていた。
社殿の背後にある墳墓は、1874年(明治7年)の宮内省により、皇孫・天津日高彦火邇邇杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト、ニニギノミコト)の陵墓とされる可愛山陵であると治定された。
新田神社 勅使殿
祭神
天津日高彦火邇邇杵尊
天照皇大御神
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていた。
参道の入り口
主な行事
武射祭 (1月7日)
早馬祭 (春分の日)
御田植祭 (入梅の日[6月10日頃]) - 倉野地区及び宮内地区の住民による「奴踊り」がある。(県無形文化財)
御神鏡清祭 (7月28日)
御宝物虫干祭 (8月7日)
例祭 (9月15日)
御通夜祭 (10月最終土曜日)
舞殿(左)と本殿(中央奥)
現地情報
交通アクセス
最寄駅:肥薩おれんじ鉄道 上川内駅から
徒歩:約17分
車:約4分
JR九州九州新幹線・鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道 川内駅から
車・路線バス:約5分
所在地 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2
位置 北緯31度49分39.5秒 東経130度17分33.6秒
主祭神 天津日高彦火邇邇杵尊
天照皇大御神
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
社格等 薩摩国一宮
旧国幣中社
別表神社
創建 伝神亀2年(725年)
本殿の様式 入母屋造
例祭 9月15日
主な神事 武射祭(1月7日)
御田植祭(6月10日頃)
御神鏡清祭(7月28日)
2023年11月27日
温泉寺(おんせんじ)は、兵庫県神戸市北区有馬町にある黄檗宗の寺院
温泉寺(おんせんじ)は、兵庫県神戸市北区有馬町にある黄檗宗の寺院。山号は有馬山。本尊は薬師如来。宗派はもとは真言宗であった。正式名は有馬山温泉禅寺。
歴史
縁起によれば、神亀元年(724年)、薬師如来に衰退しかかっていた有馬温泉を復興するように言われた行基によって、有馬温泉郷の傍、六甲山系愛宕山の中腹に薬師如来を本尊として開かれたとされる。
承徳元年(1097年)に有馬を襲った洪水によって温泉寺も壊滅するが、熊野権現のお告げによって有馬温泉を復興した仁西上人によって建久2年(1191年)に再興される。また、温泉寺の下に12の僧坊・宿坊が設けられたが、これは薬師如来の眷属である十二神将に因んでいるとされる。
天正4年(1576年)に火災で全山焼失したが直ちに再建された。その後再び火災にあい、天正18年(1590年)に北政所によって薬師堂が再建されている。江戸時代に焼失すると天明元年(1781年)に現在ある薬師堂が再建された。
しかし明治時代初めの廃仏毀釈で、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が有馬大茶会を開催したとされる阿弥陀堂も含め、真言宗温泉寺は廃寺とされ、薬師堂以外の堂塔は全て取り壊されてしまった。その後、廃寺となった旧温泉寺の奥の院であった黄檗宗清涼院が寺籍を継いで現代に至っている。
アクセス
神戸電鉄 有馬温泉駅 徒歩6分
六甲有馬ロープウェー 有馬温泉駅 徒歩10分
所在地 兵庫県神戸市北区有馬町1643
位置 北緯34度47分44.89秒 東経135度14分53.47秒
山号 有馬山
宗派 黄檗宗
本尊 薬師如来
創建年 伝・神亀元年(724年)
開山 伝・行基
中興 仁西上人
正式名 有馬山温泉禅寺
札所等 有馬郡西国観音霊場第3番
文化財 木造波夷羅大将立像、黒漆厨子(重要文化財)
温泉寺石造五輪塔 2基、木造毘沙門天立像(市指定有形文化財)
歴史
縁起によれば、神亀元年(724年)、薬師如来に衰退しかかっていた有馬温泉を復興するように言われた行基によって、有馬温泉郷の傍、六甲山系愛宕山の中腹に薬師如来を本尊として開かれたとされる。
承徳元年(1097年)に有馬を襲った洪水によって温泉寺も壊滅するが、熊野権現のお告げによって有馬温泉を復興した仁西上人によって建久2年(1191年)に再興される。また、温泉寺の下に12の僧坊・宿坊が設けられたが、これは薬師如来の眷属である十二神将に因んでいるとされる。
天正4年(1576年)に火災で全山焼失したが直ちに再建された。その後再び火災にあい、天正18年(1590年)に北政所によって薬師堂が再建されている。江戸時代に焼失すると天明元年(1781年)に現在ある薬師堂が再建された。
しかし明治時代初めの廃仏毀釈で、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が有馬大茶会を開催したとされる阿弥陀堂も含め、真言宗温泉寺は廃寺とされ、薬師堂以外の堂塔は全て取り壊されてしまった。その後、廃寺となった旧温泉寺の奥の院であった黄檗宗清涼院が寺籍を継いで現代に至っている。
アクセス
神戸電鉄 有馬温泉駅 徒歩6分
六甲有馬ロープウェー 有馬温泉駅 徒歩10分
所在地 兵庫県神戸市北区有馬町1643
位置 北緯34度47分44.89秒 東経135度14分53.47秒
山号 有馬山
宗派 黄檗宗
本尊 薬師如来
創建年 伝・神亀元年(724年)
開山 伝・行基
中興 仁西上人
正式名 有馬山温泉禅寺
札所等 有馬郡西国観音霊場第3番
文化財 木造波夷羅大将立像、黒漆厨子(重要文化財)
温泉寺石造五輪塔 2基、木造毘沙門天立像(市指定有形文化財)
2023年11月26日
太田家住宅(おおたけじゅうたく)は広島県福山市鞆町鞆にある歴史的建造物(民家)
太田家住宅(おおたけじゅうたく)は広島県福山市鞆町鞆にある歴史的建造物(民家)。元は福山藩の御用名酒屋を務めた保命酒の蔵元「中村家」の屋敷で、明治時代に太田家の所有となった。瀬戸内海の近世商家建築を代表するもので、1991年5月31日に国の重要文化財指定を受けた。また鞆七卿落遺跡(ともしちきょうおちいせき)として広島県指定史跡(1940年指定)となっている。
概要
本邸の「太田家住宅」と、東側の道路をはさんだ向かい側にある別邸の「太田家住宅朝宗亭(ちょうそうてい)」からなる。本邸は主屋、保命酒醸造蔵など9棟、朝宗亭は主屋など3棟の建造物が重要文化財に指定され、それぞれの宅地も建造物と一体となって価値を形成するものとして重要文化財に指定されている。
この住宅は前述のとおり、元は福山藩の御用名酒屋を務めた中村家の住宅であった。中村家は明暦元年(1655年)、当地に移り住み、酒造業を営んだ。本邸は南北に長い敷地の東南に2階建ての主屋が建ち、その西側には炊事場、蔵などの付属建物、敷地北側には3棟の「保命酒蔵」を含む土蔵群がある。道路をはさんで向かいにある別邸の朝宗亭は、隠居屋として使用されたほか、藩主御成りの際の本陣としても使用された。朝宗亭の敷地は、南側と東側が直接海に面している。江戸時代の商家の屋敷構えが良好に保存され、文化財としての価値が高い。
1996年から2001年まで行われた保存修理事業により、江戸時代末期から明治時代初期当時の状態に復元された。
鞆七卿落
1863年(文久3年)8月23日、尊皇攘夷派の三条実美ら7人の公卿が公武合体派によって京都を追われて長州に逃亡する際(七卿落ち)、および翌年の1864年(元治元年)に長州から船で京都に上る際に、鞆港に寄り上陸して当屋敷の中村家(当時)主屋と朝宗亭を宿泊所とした。
利用情報
開館時間 - 10:00〜17:00
定休日 - 火曜(祝日の場合は翌日)、12/29〜1/3
所在地 - 〒720-0201 広島県福山市鞆町鞆842
交通アクセス
JR山陽本線および山陽新幹線 福山駅から鞆鉄バスで約30分、終点下車、徒歩5分
鞆港から徒歩5分
所在地 広島県福山市鞆町鞆842
位置 北緯34度22分58.7秒 東経133度22分50.6秒
類型 商家
形式・構造 (主屋)木造二階建、入母屋造、瓦葺
敷地面積 1,375.19m2
延床面積 (主屋)桁行14.7m×梁間12.9m
建築年 江戸時代中期〜後期
文化財 国の重要文化財、県史跡
概要
本邸の「太田家住宅」と、東側の道路をはさんだ向かい側にある別邸の「太田家住宅朝宗亭(ちょうそうてい)」からなる。本邸は主屋、保命酒醸造蔵など9棟、朝宗亭は主屋など3棟の建造物が重要文化財に指定され、それぞれの宅地も建造物と一体となって価値を形成するものとして重要文化財に指定されている。
この住宅は前述のとおり、元は福山藩の御用名酒屋を務めた中村家の住宅であった。中村家は明暦元年(1655年)、当地に移り住み、酒造業を営んだ。本邸は南北に長い敷地の東南に2階建ての主屋が建ち、その西側には炊事場、蔵などの付属建物、敷地北側には3棟の「保命酒蔵」を含む土蔵群がある。道路をはさんで向かいにある別邸の朝宗亭は、隠居屋として使用されたほか、藩主御成りの際の本陣としても使用された。朝宗亭の敷地は、南側と東側が直接海に面している。江戸時代の商家の屋敷構えが良好に保存され、文化財としての価値が高い。
1996年から2001年まで行われた保存修理事業により、江戸時代末期から明治時代初期当時の状態に復元された。
鞆七卿落
1863年(文久3年)8月23日、尊皇攘夷派の三条実美ら7人の公卿が公武合体派によって京都を追われて長州に逃亡する際(七卿落ち)、および翌年の1864年(元治元年)に長州から船で京都に上る際に、鞆港に寄り上陸して当屋敷の中村家(当時)主屋と朝宗亭を宿泊所とした。
利用情報
開館時間 - 10:00〜17:00
定休日 - 火曜(祝日の場合は翌日)、12/29〜1/3
所在地 - 〒720-0201 広島県福山市鞆町鞆842
交通アクセス
JR山陽本線および山陽新幹線 福山駅から鞆鉄バスで約30分、終点下車、徒歩5分
鞆港から徒歩5分
所在地 広島県福山市鞆町鞆842
位置 北緯34度22分58.7秒 東経133度22分50.6秒
類型 商家
形式・構造 (主屋)木造二階建、入母屋造、瓦葺
敷地面積 1,375.19m2
延床面積 (主屋)桁行14.7m×梁間12.9m
建築年 江戸時代中期〜後期
文化財 国の重要文化財、県史跡
2023年11月25日
極楽寺(ごくらくじ)は香川県さぬき市長尾東に在する真言宗大覚寺派別格本山の寺院
極楽寺(ごくらくじ)は香川県さぬき市長尾東に在する真言宗大覚寺派別格本山の寺院。時に通称として院号の宝蔵院(ほうぞういん)が使われることがある。山号は紫雲山。本尊は薬師如来。さぬき三十三観音霊場第八番札所で、同巡礼における参拝本尊は聖観世音菩薩。
概要
寺の伝承によると729年(天平元年)行基によって寒川郡石田郷(現在のさぬき市寒川町石田東)によって法相宗の寺院として開基されたと伝わる。しかし809年(大同4年)に火災によって焼失。
821年(弘仁12年)に嵯峨天皇の勅命の元、空海によって寒川郡鴨部郷東山(現在のさぬき市鴨部(かべ))に真言宗の灌頂道場として再興され、上方に長福寺、下方に来覚寺を塔頭として設置した。824年(天長元年)に淳和天皇勅願所となり紫雲山の山号と宝蔵院の院号を賜る。903年(延喜3年)に醍醐天皇より法務門主の責務を賜り東讃4郡の談儀所となった。そして、天慶2年(929年)朱雀天皇の勅旨讃岐四談議所(他は、萩原寺・無量寿院・香西寺)の一つとなったが、1336年(延元元年)に再び火災により焼失、長福寺のみが残った。鴨部の現地には現在も小字名として「談儀所」の地名とその由来を記した石碑が残っている。
延元4年(1339)、現在の極楽寺の地に存在していた末寺に燈明を移して移転再興し現在に至っている。
アクセス
公共交通機関でのアクセス
大川バス引田線「清水」停留所下車。徒歩約650m、約10分。
バス停下車後、バス停東側の交差点を南下(右折)。さぬき東街道上の押ボタン信号交差点を横断したのち、同街道を東行(左折)して約220m。
高松琴平電気鉄道長尾線長尾駅下車。徒歩約2km、約25分。
長尾駅から南下直進。大川バス本社前交差点を東行(左折)して、長尾街道を直進し長尾東交差点(ハローワークさぬき前)にて香川県道・徳島県道3号志度山川線を大窪寺・亀鶴公園方面へと南下(右折)。さぬき東街道・長尾中央交差点を横断後に東行(左折)し650m直進。
自家用車等でのアクセス
さぬき東街道(香川県道10号高松長尾大内線バイパス本線)沿い。寺院山門前に駐車場あり。
さぬき東街道・下通り交差点より西へ150m
さぬき東街道・長尾中央交差点より東へ650m
所在地 さぬき市長尾東1194
位置 北緯34度15分38.1秒 東経134度10分59.8秒
山号 紫雲山
宗派 真言宗大覚寺派
寺格 別格本山
本尊 薬師如来
創建年 伝・天平元年(729年)
開基 伝・行基
中興年 伝・弘仁12年(821年)
中興 伝・空海
正式名 紫雲山 宝蔵院 極楽寺
札所等 さぬき三十三観音8番
文化財 絹本著色両界曼荼羅図
木造薬師如来立像
概要
寺の伝承によると729年(天平元年)行基によって寒川郡石田郷(現在のさぬき市寒川町石田東)によって法相宗の寺院として開基されたと伝わる。しかし809年(大同4年)に火災によって焼失。
821年(弘仁12年)に嵯峨天皇の勅命の元、空海によって寒川郡鴨部郷東山(現在のさぬき市鴨部(かべ))に真言宗の灌頂道場として再興され、上方に長福寺、下方に来覚寺を塔頭として設置した。824年(天長元年)に淳和天皇勅願所となり紫雲山の山号と宝蔵院の院号を賜る。903年(延喜3年)に醍醐天皇より法務門主の責務を賜り東讃4郡の談儀所となった。そして、天慶2年(929年)朱雀天皇の勅旨讃岐四談議所(他は、萩原寺・無量寿院・香西寺)の一つとなったが、1336年(延元元年)に再び火災により焼失、長福寺のみが残った。鴨部の現地には現在も小字名として「談儀所」の地名とその由来を記した石碑が残っている。
延元4年(1339)、現在の極楽寺の地に存在していた末寺に燈明を移して移転再興し現在に至っている。
アクセス
公共交通機関でのアクセス
大川バス引田線「清水」停留所下車。徒歩約650m、約10分。
バス停下車後、バス停東側の交差点を南下(右折)。さぬき東街道上の押ボタン信号交差点を横断したのち、同街道を東行(左折)して約220m。
高松琴平電気鉄道長尾線長尾駅下車。徒歩約2km、約25分。
長尾駅から南下直進。大川バス本社前交差点を東行(左折)して、長尾街道を直進し長尾東交差点(ハローワークさぬき前)にて香川県道・徳島県道3号志度山川線を大窪寺・亀鶴公園方面へと南下(右折)。さぬき東街道・長尾中央交差点を横断後に東行(左折)し650m直進。
自家用車等でのアクセス
さぬき東街道(香川県道10号高松長尾大内線バイパス本線)沿い。寺院山門前に駐車場あり。
さぬき東街道・下通り交差点より西へ150m
さぬき東街道・長尾中央交差点より東へ650m
所在地 さぬき市長尾東1194
位置 北緯34度15分38.1秒 東経134度10分59.8秒
山号 紫雲山
宗派 真言宗大覚寺派
寺格 別格本山
本尊 薬師如来
創建年 伝・天平元年(729年)
開基 伝・行基
中興年 伝・弘仁12年(821年)
中興 伝・空海
正式名 紫雲山 宝蔵院 極楽寺
札所等 さぬき三十三観音8番
文化財 絹本著色両界曼荼羅図
木造薬師如来立像
2023年11月24日
天久宮(あめくぐう)は、沖縄県那覇市にある神社
天久宮(あめくぐう)は、沖縄県那覇市にある神社。琉球八社の一つで、明治の近代社格制度では無格社。
鳥居
祭神
熊野権現
伊弉冉尊
速玉男命
事解男命
由緒
康熙52年(1713年、和暦では正徳3年)に成立した『琉球国由来記 巻11 密門諸寺縁起』の〔天久山聖現寺〕の段にある「天久山大権現縁起」では、当社の開基を成化年間(1465年 - 1487年)であるとし、その創始について次のような伝承を記している。
往古、銘苅村(めかるむら)に翁子と言う者がおり、日々を愉しんで暮らしていた。ある夕方、隣の里の天久野に出て佇んでいると、見れば山上から、気高い女人が威儀の正しい法師を送って下りて来た。山の中腹には、中に泉があって水が流れている小洞があり、二人はそこへ来た。また或る時は、法師が女人を送って山へ上がることがあった。翁子はこれを見て法師に「あなたは何者で、あの女人は誰なのですか」と尋ねた。法師の答えは「私は、ただ此処に住む者で、あの女性は山上の森に住む者です。名乗るほどの者ではありません。」と言うものであった。2人は、ある時は洞の中に入り、ある時は道の半ばで消えるときもあり、これを見るたび不思議に思った。そこで、これを王臣に奏上したところ、国王は諸官人をして虚実を確かめることとした。洞に向かって香をひねって置かせたところ自然に火がついたことから、この話が本当であることが分かり、後日、社殿を造営した。すると「我は熊野権現なり、衆生の利益のために顕現した。女人は国の守護神弁才天なり。」との神託があった。
この『琉球国由来記』の創建伝承が現在の社伝となっており、『沖縄の神社』においても成化年間の創建説を紹介している。また、慶安元年(1648年)に初版が開板された『琉球神道記 巻第5』の「天久権現事」にも、上記伝承とほぼ同様の内容が記載されている。
本殿
当社は真言宗8公寺の一つである聖現寺(現在も当社に隣接)に併置の神社として、官社の制により琉球八社とされた。官社へは王府から神職の役俸並びに営繕費が支給されたが、当社へは神職として祝部・内侍・宮童が置かれた。また、祝部・内侍が神楽の際に着用する服装は全て王府の寺社座から支給を受けた。
明治時代に入り、 琉球処分により琉球王国が廃され沖縄県が置かれると、当社は近代社格制度により無格社とされた。『琉球宗教史の研究』によれば、沖縄県行政府では当社を村社に列することを立案したが、経済的な理由から村社列格が出来ず、また社殿その他の設備においても不備な点が多々あって村社列格が事実上不可能であることから、とりあえず無格社として残置し、追々維持拡張整備して村社に引き直す根基を充実するよう努めることになったとしている。
さらに『琉球宗教史の研究』によれば、当時地元の民衆と信仰的に直接結合していたのは御嶽拝所であり、無格社となり日本政府の経済的保障がなかった当社は、その後経済的にも信仰的にも見るに耐えない無残な状態を呈することとなり、腐朽にまかせて拝殿は失せ、本殿は昭和12年(1937年)大音響と共に逆転倒壊して逆立状態となったとしている。しかし社頭の案内板『天久宮由緒』によれば、社殿は太平洋戦争の最中である昭和19年(1944年)の十・十空襲で焼失したと述べている。
『天久宮由緒』によれば、社殿を失って後、戦後しばらくは御嶽の形式で奉祀していたが、昭和47年(1972年)に現在の社殿を建立、同年に奉鎮祭を斎行している。
拝殿
所在地 沖縄県那覇市泊3丁目19-3
位置 北緯26度13分41.9秒 東経127度40分57.4秒
主祭神 伊弉冉尊
速玉男尊
事解男尊
社格等 旧無格社
創建 成化年間(1465年 - 1487年)
本殿の様式 神明造
札所等 琉球八社
例祭 5月15日(旧暦4月5日)
鳥居
祭神
熊野権現
伊弉冉尊
速玉男命
事解男命
由緒
康熙52年(1713年、和暦では正徳3年)に成立した『琉球国由来記 巻11 密門諸寺縁起』の〔天久山聖現寺〕の段にある「天久山大権現縁起」では、当社の開基を成化年間(1465年 - 1487年)であるとし、その創始について次のような伝承を記している。
往古、銘苅村(めかるむら)に翁子と言う者がおり、日々を愉しんで暮らしていた。ある夕方、隣の里の天久野に出て佇んでいると、見れば山上から、気高い女人が威儀の正しい法師を送って下りて来た。山の中腹には、中に泉があって水が流れている小洞があり、二人はそこへ来た。また或る時は、法師が女人を送って山へ上がることがあった。翁子はこれを見て法師に「あなたは何者で、あの女人は誰なのですか」と尋ねた。法師の答えは「私は、ただ此処に住む者で、あの女性は山上の森に住む者です。名乗るほどの者ではありません。」と言うものであった。2人は、ある時は洞の中に入り、ある時は道の半ばで消えるときもあり、これを見るたび不思議に思った。そこで、これを王臣に奏上したところ、国王は諸官人をして虚実を確かめることとした。洞に向かって香をひねって置かせたところ自然に火がついたことから、この話が本当であることが分かり、後日、社殿を造営した。すると「我は熊野権現なり、衆生の利益のために顕現した。女人は国の守護神弁才天なり。」との神託があった。
この『琉球国由来記』の創建伝承が現在の社伝となっており、『沖縄の神社』においても成化年間の創建説を紹介している。また、慶安元年(1648年)に初版が開板された『琉球神道記 巻第5』の「天久権現事」にも、上記伝承とほぼ同様の内容が記載されている。
本殿
当社は真言宗8公寺の一つである聖現寺(現在も当社に隣接)に併置の神社として、官社の制により琉球八社とされた。官社へは王府から神職の役俸並びに営繕費が支給されたが、当社へは神職として祝部・内侍・宮童が置かれた。また、祝部・内侍が神楽の際に着用する服装は全て王府の寺社座から支給を受けた。
明治時代に入り、 琉球処分により琉球王国が廃され沖縄県が置かれると、当社は近代社格制度により無格社とされた。『琉球宗教史の研究』によれば、沖縄県行政府では当社を村社に列することを立案したが、経済的な理由から村社列格が出来ず、また社殿その他の設備においても不備な点が多々あって村社列格が事実上不可能であることから、とりあえず無格社として残置し、追々維持拡張整備して村社に引き直す根基を充実するよう努めることになったとしている。
さらに『琉球宗教史の研究』によれば、当時地元の民衆と信仰的に直接結合していたのは御嶽拝所であり、無格社となり日本政府の経済的保障がなかった当社は、その後経済的にも信仰的にも見るに耐えない無残な状態を呈することとなり、腐朽にまかせて拝殿は失せ、本殿は昭和12年(1937年)大音響と共に逆転倒壊して逆立状態となったとしている。しかし社頭の案内板『天久宮由緒』によれば、社殿は太平洋戦争の最中である昭和19年(1944年)の十・十空襲で焼失したと述べている。
『天久宮由緒』によれば、社殿を失って後、戦後しばらくは御嶽の形式で奉祀していたが、昭和47年(1972年)に現在の社殿を建立、同年に奉鎮祭を斎行している。
拝殿
所在地 沖縄県那覇市泊3丁目19-3
位置 北緯26度13分41.9秒 東経127度40分57.4秒
主祭神 伊弉冉尊
速玉男尊
事解男尊
社格等 旧無格社
創建 成化年間(1465年 - 1487年)
本殿の様式 神明造
札所等 琉球八社
例祭 5月15日(旧暦4月5日)
2023年11月23日
北九州市旧門司三井倶楽部(きたきゅうしゅうし きゅうもじみついくらぶ)は、福岡県北九州市門司区港町にある歴史的建造物
北九州市旧門司三井倶楽部(きたきゅうしゅうし きゅうもじみついくらぶ)は、福岡県北九州市門司区港町にある歴史的建造物。国の重要文化財に指定されている。
概要
山あいの門司区谷町より門司港レトロ地区[2]に移築された。
1921年(大正10年)に三井物産門司支店の社交クラブとして建築。接客用の洋風の本館と、それと接続する和風の付属屋・倉庫からなる。1949年(昭和24年)から国鉄の所有となり、「門鉄会館」として利用された。 1987年(昭和62年)国鉄清算事業団に移管、その後北九州市に無償譲渡。
1990年(平成2年)3月19日重要文化財指定(本館及び付属屋)。同年7月解体工事開始、1994年(平成6年)12月完成。2007年(平成19年)11月30日には、近代化産業遺産(北九州炭鉱 - 筑豊炭田からの石炭輸送・貿易関連遺産)に認定された。
本館は木造2階建で、アインシュタインが1922年(大正11年)に宿泊した2階の部屋が当時の状態で「アインシュタインメモリアルルーム」として展示されている。また、門司区小森江が出生地とされる林芙美子にちなみ、林芙美子資料室(2階)がある。1階にはレストラン「三井倶楽部」がある。
交通
JR九州 門司港駅から徒歩1分。
関門汽船 門司港桟橋から徒歩2分。
関門橋 門司港ICから車で約5分。
九州自動車道 門司ICより車で約8分。
北九州高速 春日ランプより車で約5分。
設計者 松田昌平
建築主 三井物産
事業主体 北九州市
管理運営 B&A門司港(指定管理者)
構造形式 木造
延床面積
※本館:901m2、付属屋:182m2、倉庫46m2
階数 本館:地上2階、付属屋:地上1階、倉庫:地上1階
竣工 1921年(大正10年)
改築 1994年(平成6年)12月
所在地 〒801-0852
福岡県北九州市門司区港町7番1号
座標 北緯33度56分44.9秒 東経130度57分45.0秒
文化財 1990年(平成2年)3月19日(本館及び付属屋)
概要
山あいの門司区谷町より門司港レトロ地区[2]に移築された。
1921年(大正10年)に三井物産門司支店の社交クラブとして建築。接客用の洋風の本館と、それと接続する和風の付属屋・倉庫からなる。1949年(昭和24年)から国鉄の所有となり、「門鉄会館」として利用された。 1987年(昭和62年)国鉄清算事業団に移管、その後北九州市に無償譲渡。
1990年(平成2年)3月19日重要文化財指定(本館及び付属屋)。同年7月解体工事開始、1994年(平成6年)12月完成。2007年(平成19年)11月30日には、近代化産業遺産(北九州炭鉱 - 筑豊炭田からの石炭輸送・貿易関連遺産)に認定された。
本館は木造2階建で、アインシュタインが1922年(大正11年)に宿泊した2階の部屋が当時の状態で「アインシュタインメモリアルルーム」として展示されている。また、門司区小森江が出生地とされる林芙美子にちなみ、林芙美子資料室(2階)がある。1階にはレストラン「三井倶楽部」がある。
交通
JR九州 門司港駅から徒歩1分。
関門汽船 門司港桟橋から徒歩2分。
関門橋 門司港ICから車で約5分。
九州自動車道 門司ICより車で約8分。
北九州高速 春日ランプより車で約5分。
設計者 松田昌平
建築主 三井物産
事業主体 北九州市
管理運営 B&A門司港(指定管理者)
構造形式 木造
延床面積
※本館:901m2、付属屋:182m2、倉庫46m2
階数 本館:地上2階、付属屋:地上1階、倉庫:地上1階
竣工 1921年(大正10年)
改築 1994年(平成6年)12月
所在地 〒801-0852
福岡県北九州市門司区港町7番1号
座標 北緯33度56分44.9秒 東経130度57分45.0秒
文化財 1990年(平成2年)3月19日(本館及び付属屋)
2023年11月22日
上宇内薬師堂(かみうないやくしどう)は、福島県河沼郡会津坂下町にある寺院
上宇内薬師堂(かみうないやくしどう)は、福島県河沼郡会津坂下町にある寺院である。現在は浄泉寺が管理している。
歴史
往昔、高寺(石塔山恵隆寺)が繁栄した折の一坊である調合坊が起源。その後、高寺が廃され、調合寺として独立するが、堂宇は荒れていたものを、元禄年間、小田原の上人、道安が再興、御堂を建立し、現在に至る。昭和33年に薬師如来坐像を修理・調査し、収蔵庫を建立した。
文化財
重要文化財(国指定)
薬師如来坐像
平安時代の作。像高2m近い一木造。豊かな体躯は勝常寺薬師如来の影響を受けて製作されたものと思われる。会津五薬師の一つ。
仏像のセオリーからすると、坐像全体のうち下部が省略されたような形になっている。解体修理の際の調査も踏まえた上でこれは、前述の水害で浸水した後、時間経過により仏像の下部が腐食したため、腐食部分を除去し修復新造された時に省略されたのではないか、と推測されている。
所在地 福島県河沼郡会津坂下町大字大上字村北甲809
位置 北緯37度35分20.5秒 東経139度48分36.5秒
宗派 曹洞宗
本尊 薬師如来
創建年 不詳
中興年 元禄年間
中興 道安
歴史
往昔、高寺(石塔山恵隆寺)が繁栄した折の一坊である調合坊が起源。その後、高寺が廃され、調合寺として独立するが、堂宇は荒れていたものを、元禄年間、小田原の上人、道安が再興、御堂を建立し、現在に至る。昭和33年に薬師如来坐像を修理・調査し、収蔵庫を建立した。
文化財
重要文化財(国指定)
薬師如来坐像
平安時代の作。像高2m近い一木造。豊かな体躯は勝常寺薬師如来の影響を受けて製作されたものと思われる。会津五薬師の一つ。
仏像のセオリーからすると、坐像全体のうち下部が省略されたような形になっている。解体修理の際の調査も踏まえた上でこれは、前述の水害で浸水した後、時間経過により仏像の下部が腐食したため、腐食部分を除去し修復新造された時に省略されたのではないか、と推測されている。
所在地 福島県河沼郡会津坂下町大字大上字村北甲809
位置 北緯37度35分20.5秒 東経139度48分36.5秒
宗派 曹洞宗
本尊 薬師如来
創建年 不詳
中興年 元禄年間
中興 道安