大山田神社(おおやまだじんじゃ)は、長野県下伊那郡下條村に所在する神社で式内社であり、旧社格は郷社である。
祭神
主殿 大己貴命(大国主命)
相殿 応神天皇(八幡社)
相殿 八郎明神(源為朝) 江戸中期以前 建御名方命(諏訪社)
歴史
下條村陽皐(ひさわ)に鎮座する大山田神社は、創立年代は不明であるが、延喜式の撰上された延長5年(927年)以前の古社で、奈良末期か平安初期に創始されたと推定される。最初の鎮座地は数説があり、根本史料を欠くことより決定出来ない。移動後現在地に鎮座したと考えられる。
室町時代初期、武田氏の支流下条氏が伊那郡にきて、文明年間に下條村吉岡に城を築き、以前より祀られていた八幡宮を氏神として、鎮座地を鎮西野と改称する。永正4年(1507年)領主下条家氏が、京都より招いた宮大工吉村和泉により、八幡社殿、諏訪社殿が造営された。天正末年、下条氏は没落したが、近郷近在のこの神社に対する尊信は変わることなく、参拝者で賑わった。
慶安2年(1649年)徳川家光より鎮西野村八幡宮として、10石の朱印状が交付され、以後幕末に至るまで、代々将軍の継目朱印状が交付された。元文6年(1741年)神主鎮西清行は菅野 根ノ神社に祭られる大国主命を鎮西に移し、これを大山田神社と定め、主神とし、八幡神、諏訪神を相殿に祀り、かねて作成した、大山田神社并八幡宮記及び南部地方神主の賛同調印書を神祇管領長卜部兼雄(吉田家)に提出して承認を得た。
延享2年(1749年)、大山田神社の社殿が大工鈴木九良兵衛藤原重松によって再建された旨の棟札が残る。また、宝暦8年(1758年)、八郎明神の社殿を創建した旨の棟札が残る。八郎明神とは鎮西八郎源為朝の霊社で、元文年間には末社であった。神主鎮西家の祖とされる。江戸中期に至り、何らかの異変があり、諏訪社殿(永正4年建立)に諏訪明神の代わりに、八郎明神を祀ったと推定される。明治5年(1872年)郷社となる。
明治45年(1912年)、永正時代に造営された八幡社殿、諏訪社殿(現在は八郎明神に変更されている)が国の重要文化財に指定された。
鎮座地は長野県自然100選の一つである南限、北限の植物が約280種も繁茂していて、植物学上貴重な場所である。
文化財
重要文化財
大山田神社2棟 - 明治45年(1912年)に応神天皇社と為朝社が個別に重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定、昭和30年(1955年)に両者を統合して「大山田神社2棟」とした。
相殿応神天皇社本殿
相殿鎮西八郎為朝社本殿
所在地
長野県下伊那郡下條村陽皐4588
2024年05月17日
2024年05月16日
日石寺(にっせきじ)は、富山県中新川郡上市町にある真言密宗大本山の寺院
日石寺(にっせきじ)は、富山県中新川郡上市町にある真言密宗大本山の寺院。山号は大岩山(おおいわさん)で、山号から「大岩不動」の通称で知られる。別名・金剛不壊寺。
概要
寺伝では神亀2年(725年)、行基(ぎょうき)の開基と伝える。本尊は大岩壁面に刻まれた、磨崖仏の不動明王像で国の重要文化財に指定されている。岩壁に刻まれた磨崖仏に覆いをかける形で本堂が建造されているため、磨崖仏の保存状態は良い。三重塔と山門は町指定文化財。参道には名物のそうめんを売る店が多く並び、賑わっている。
また、一切衆生の六欲・根本煩悩を断つとされる、6つの龍頭から流れ落ちる六本瀧(ろっぽんだき)は、寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている。
「劔岳 点の記」の映画撮影の際には撮影提供を行った。
所在地と交通
大岩山日石寺(大岩不動尊) 富山県中新川郡上市町大岩163
富山地方鉄道上市駅→町営バス大岩行きで20分、終点下車、徒歩1分(1日5便)
北陸自動車道滑川IC 4km(10分)
所在地 富山県中新川郡上市町大岩163
位置 北緯36度39分43.7秒 東経137度23分27.9秒
山号 大岩山
宗旨 真言密宗
寺格 大本山
本尊 不動明王(磨崖仏、重要文化財)
創建年 神亀2年(725年)
開基 行基
正式名 大岩山 日石寺
別称 大岩不動・金剛不壊寺
文化財 大岩日石寺磨崖仏(重要文化財)
概要
寺伝では神亀2年(725年)、行基(ぎょうき)の開基と伝える。本尊は大岩壁面に刻まれた、磨崖仏の不動明王像で国の重要文化財に指定されている。岩壁に刻まれた磨崖仏に覆いをかける形で本堂が建造されているため、磨崖仏の保存状態は良い。三重塔と山門は町指定文化財。参道には名物のそうめんを売る店が多く並び、賑わっている。
また、一切衆生の六欲・根本煩悩を断つとされる、6つの龍頭から流れ落ちる六本瀧(ろっぽんだき)は、寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている。
「劔岳 点の記」の映画撮影の際には撮影提供を行った。
所在地と交通
大岩山日石寺(大岩不動尊) 富山県中新川郡上市町大岩163
富山地方鉄道上市駅→町営バス大岩行きで20分、終点下車、徒歩1分(1日5便)
北陸自動車道滑川IC 4km(10分)
所在地 富山県中新川郡上市町大岩163
位置 北緯36度39分43.7秒 東経137度23分27.9秒
山号 大岩山
宗旨 真言密宗
寺格 大本山
本尊 不動明王(磨崖仏、重要文化財)
創建年 神亀2年(725年)
開基 行基
正式名 大岩山 日石寺
別称 大岩不動・金剛不壊寺
文化財 大岩日石寺磨崖仏(重要文化財)
2024年05月15日
大雲院(だいうんいん)は、鳥取県鳥取市立川町にある天台宗の寺院
大雲院(だいうんいん)は、鳥取県鳥取市立川町にある天台宗の寺院。山号は乾向山、寺号は東隆寺。本尊は阿弥陀如来。中国三十三観音霊場第三十三番札所である。
歴史
1650年(慶安3年)鳥取藩主池田光仲の開基により創建された寺で、当初は淳光院と号していたが、1814年(文化11年)に大雲院と称した。鳥取東照宮(現在の樗谿神社)の別当寺であり東照宮に隣接していた。藩政時代は鳥取藩における徳川将軍家位牌所として繁栄した。明治時代になり神仏分離令により別当寺を解かれ、現在の地に移転された。
所在地 鳥取県鳥取市立川町四丁目24番地
位置 北緯35度29分32秒 東経134度14分41.7秒
山号 乾向山
院号 大雲院
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1650年
開山 1650年(慶安3年)
開基 池田光仲
正式名 乾向山東隆寺大雲院
別称 淳光院
札所等 中国三十三観音霊場第三十三番札所
歴史
1650年(慶安3年)鳥取藩主池田光仲の開基により創建された寺で、当初は淳光院と号していたが、1814年(文化11年)に大雲院と称した。鳥取東照宮(現在の樗谿神社)の別当寺であり東照宮に隣接していた。藩政時代は鳥取藩における徳川将軍家位牌所として繁栄した。明治時代になり神仏分離令により別当寺を解かれ、現在の地に移転された。
所在地 鳥取県鳥取市立川町四丁目24番地
位置 北緯35度29分32秒 東経134度14分41.7秒
山号 乾向山
院号 大雲院
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 1650年
開山 1650年(慶安3年)
開基 池田光仲
正式名 乾向山東隆寺大雲院
別称 淳光院
札所等 中国三十三観音霊場第三十三番札所
2024年05月14日
神橋(しんきょう)は、栃木県日光市上鉢石町にある、大谷川(だいやがわ)に架かる朱塗りの橋
神橋(しんきょう)は、栃木県日光市上鉢石町にある、大谷川(だいやがわ)に架かる朱塗りの橋。世界遺産「日光の社寺」を構成する文化財の1つ。日本の重要文化財に指定されている。
日光の社寺の入り口にあり、日光のシンボルとも、日光の表玄関とも称され、栃木県で最も美しい橋と讃える人もいる。神橋を境として、東側の商店街を東町(出町)、西側の日光山内を西町(入町)という。
概説
神橋は日光二荒山神社の神域に属し、二荒山神社が管理している。現代は一般に「しんきょう」と読まれるが、『日光名所図会』(石倉重継 著、1901年)は「みはし」と読むと記している。「みはし」という読みに対しては「御橋」の字を充てることもある。
橋の先に日光東照宮へ通じる参道がある。かつては将軍・日光例幣使と山伏しか渡れなかったが、現代は有料で一般人も渡ることができる。ただし橋を通って対岸は行けず、来た道を引き返さなければならない。
乳の木(ちのき)と呼ばれる橋桁を両岸の土中または岩盤中に埋め込み、斜め上向きに刎ね出し、その先端を石製の橋脚で支持するという珍しい工法でできており、重要文化財指定を受けた橋の中では唯一採用されている工法である。神橋を架け替える際、乳の木を取り除く儀式を「外遷宮」、新しい橋桁を架ける儀式を「正遷宮」といい、社殿を造り替えるのと同様の厳格な神事を執り行う。また橋が竣工すると、最初に葦毛のウマを渡らせる。神橋には橋姫明神を祀り、橋姫明神が縁結びの神とされることから、日光二荒山神社で結婚式を挙げた夫婦は神橋で渡り初めを行う。これらのことから神橋が単なる橋ではないことが窺える。
神橋は「渡る橋」というよりも「眺める橋」である。大谷川は中禅寺湖から華厳滝を流下し、支流を集めながら日光の社寺の前に流れ出る。日光の社寺の厳かな雰囲気の中、大谷川の青い急流と朱塗りの神橋の対照が独自の景観を形成する。背後の山々が紅葉した秋の神橋、雪の積もった冬の神橋が美観とされる。年末には、3 mの竹ほうきを使って神職や巫女がすす払いを行う。
日本三大奇橋(日本三奇橋)の1つとされることがある。ただし、一般的には錦帯橋・猿橋・愛本橋の3橋を指し、愛本橋の代わりに神橋を入れることがある。
伝説
日光を開山した勝道上人は、7歳の頃に明星天子(虚空蔵菩薩)から受けたお告げを実行するため、天平神護2年(766年)に補陀落山(男体山)を目指すも、大谷川を渡れず難儀した。この時勝道は護摩を焚いて神仏に加護を求めると、深沙大王(蛇王権現)が現れて赤と青の2匹のヘビを投げ、その上に山菅を敷き詰めて橋とし、勝道の渡河を助けた。この伝説から、神橋は「山菅の蛇橋」(やますげのじゃばし)とも呼ばれる。
神橋の南には明星天子を祀る岩裂神社(いわさくじんじゃ、星の宮とも)、神橋の北には深沙大王を祀る深沙王堂(深沙王祠)がある。また輪王寺は勝道が橋を渡った先に建立し、修行を積んだ四本龍寺(しほんりゅうじ)を起源とするという伝説がある。
国 日本の旗 日本
所在地 栃木県日光市上鉢石町1112
交差物件 大谷川
用途 人道橋
路線名 日光街道
管理者 日光二荒山神社
竣工 伝・天平神護2年(766年)
現橋:1904年(明治37年)
開通 1907年(明治40年)8月6日
座標 北緯36度45分12.1秒 東経139度36分14.4秒
構造諸元
形式 木造反橋[9]
材料 木(ケヤキ)、石
全長 28 m
幅 7.4 m
高さ 10.6 m
日光の社寺の入り口にあり、日光のシンボルとも、日光の表玄関とも称され、栃木県で最も美しい橋と讃える人もいる。神橋を境として、東側の商店街を東町(出町)、西側の日光山内を西町(入町)という。
概説
神橋は日光二荒山神社の神域に属し、二荒山神社が管理している。現代は一般に「しんきょう」と読まれるが、『日光名所図会』(石倉重継 著、1901年)は「みはし」と読むと記している。「みはし」という読みに対しては「御橋」の字を充てることもある。
橋の先に日光東照宮へ通じる参道がある。かつては将軍・日光例幣使と山伏しか渡れなかったが、現代は有料で一般人も渡ることができる。ただし橋を通って対岸は行けず、来た道を引き返さなければならない。
乳の木(ちのき)と呼ばれる橋桁を両岸の土中または岩盤中に埋め込み、斜め上向きに刎ね出し、その先端を石製の橋脚で支持するという珍しい工法でできており、重要文化財指定を受けた橋の中では唯一採用されている工法である。神橋を架け替える際、乳の木を取り除く儀式を「外遷宮」、新しい橋桁を架ける儀式を「正遷宮」といい、社殿を造り替えるのと同様の厳格な神事を執り行う。また橋が竣工すると、最初に葦毛のウマを渡らせる。神橋には橋姫明神を祀り、橋姫明神が縁結びの神とされることから、日光二荒山神社で結婚式を挙げた夫婦は神橋で渡り初めを行う。これらのことから神橋が単なる橋ではないことが窺える。
神橋は「渡る橋」というよりも「眺める橋」である。大谷川は中禅寺湖から華厳滝を流下し、支流を集めながら日光の社寺の前に流れ出る。日光の社寺の厳かな雰囲気の中、大谷川の青い急流と朱塗りの神橋の対照が独自の景観を形成する。背後の山々が紅葉した秋の神橋、雪の積もった冬の神橋が美観とされる。年末には、3 mの竹ほうきを使って神職や巫女がすす払いを行う。
日本三大奇橋(日本三奇橋)の1つとされることがある。ただし、一般的には錦帯橋・猿橋・愛本橋の3橋を指し、愛本橋の代わりに神橋を入れることがある。
伝説
日光を開山した勝道上人は、7歳の頃に明星天子(虚空蔵菩薩)から受けたお告げを実行するため、天平神護2年(766年)に補陀落山(男体山)を目指すも、大谷川を渡れず難儀した。この時勝道は護摩を焚いて神仏に加護を求めると、深沙大王(蛇王権現)が現れて赤と青の2匹のヘビを投げ、その上に山菅を敷き詰めて橋とし、勝道の渡河を助けた。この伝説から、神橋は「山菅の蛇橋」(やますげのじゃばし)とも呼ばれる。
神橋の南には明星天子を祀る岩裂神社(いわさくじんじゃ、星の宮とも)、神橋の北には深沙大王を祀る深沙王堂(深沙王祠)がある。また輪王寺は勝道が橋を渡った先に建立し、修行を積んだ四本龍寺(しほんりゅうじ)を起源とするという伝説がある。
国 日本の旗 日本
所在地 栃木県日光市上鉢石町1112
交差物件 大谷川
用途 人道橋
路線名 日光街道
管理者 日光二荒山神社
竣工 伝・天平神護2年(766年)
現橋:1904年(明治37年)
開通 1907年(明治40年)8月6日
座標 北緯36度45分12.1秒 東経139度36分14.4秒
構造諸元
形式 木造反橋[9]
材料 木(ケヤキ)、石
全長 28 m
幅 7.4 m
高さ 10.6 m
2024年05月13日
高越寺(こうつじ)は、徳島県吉野川市山川町の高越山に位置する寺院
高越寺(こうつじ)は、徳島県吉野川市山川町の高越山に位置する寺院である。本尊は蔵王権現(高越大権現)、脇仏(千手観音)。宗派は真言宗大覚寺派。土柱高越県立自然公園指定。
歴史
俗に阿波富士と呼ばれる高越山山頂部に所在し、衣笠山、摩尼珠山などの俗称がある。東の大和国大峰山(金峰山)に対して、自らを西上山と呼び、阿波国修験道の発祥地といわれている。
江戸時代の寛文5年当時の住職・宥尊の記した「摩尼珠山高越寺私記」によれば、役小角開創の古刹伝承をもつが、これを事実とするには疑問が残る。当寺の下寺的存在とみられる良蔵院の所蔵する「川田良蔵院文書」によると鎌倉時代には高越山を中心とした修験道の信仰圏が成立していたとみられる。
山川町山崎に位置する忌部神社を阿波忌部氏の守護神として年2回の会合を開き、本寺は忌部神社の別当としても活躍し、忌部修験道ともいうべき独特の形態を生んだ。
交通
JR徳島線「阿波山川駅」下車、車で約50分。
徳島自動車道「脇町インターチェンジ」より車と徒歩で70分。
所在地 徳島県吉野川市山川町木綿麻山310
位置 北緯34度1分8.6秒 東経134度11分48.2秒
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 蔵王権現
千手観音
創建年 伝・791年
開基 伝・役小角
文化財 絹本著色仏涅槃図(重要文化財)
歴史
俗に阿波富士と呼ばれる高越山山頂部に所在し、衣笠山、摩尼珠山などの俗称がある。東の大和国大峰山(金峰山)に対して、自らを西上山と呼び、阿波国修験道の発祥地といわれている。
江戸時代の寛文5年当時の住職・宥尊の記した「摩尼珠山高越寺私記」によれば、役小角開創の古刹伝承をもつが、これを事実とするには疑問が残る。当寺の下寺的存在とみられる良蔵院の所蔵する「川田良蔵院文書」によると鎌倉時代には高越山を中心とした修験道の信仰圏が成立していたとみられる。
山川町山崎に位置する忌部神社を阿波忌部氏の守護神として年2回の会合を開き、本寺は忌部神社の別当としても活躍し、忌部修験道ともいうべき独特の形態を生んだ。
交通
JR徳島線「阿波山川駅」下車、車で約50分。
徳島自動車道「脇町インターチェンジ」より車と徒歩で70分。
所在地 徳島県吉野川市山川町木綿麻山310
位置 北緯34度1分8.6秒 東経134度11分48.2秒
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 蔵王権現
千手観音
創建年 伝・791年
開基 伝・役小角
文化財 絹本著色仏涅槃図(重要文化財)
2024年05月12日
武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は、東京都青梅市(旧武蔵国多磨郡)にある御嶽神社
武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は、東京都青梅市(旧武蔵国多磨郡)にある御嶽神社。武蔵御岳山の山上に鎮座する。
御岳、御嶽とは修験道の中心地である吉野地方(奈良県)の金峯山を指している。蔵王権現、櫛真智命などを祀り、山岳信仰の霊場として中世以降発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得した。式内社の大麻止乃豆天神社(「武蔵国の式内社一覧」参照)であるという説があり、旧府社である。現在は神社本庁に属していない単立神社である。
ご眷属の大口真神(おいぬ様)も祀っていることから、祈願のため犬を連れた参拝客が近年増えており、御岳登山鉄道は、ケージを用いずに犬を乗車させることができる。
祭神
蔵王権現
櫛真智命
大己貴命
少彦名命
安閑天皇
日本武尊
由緒
崇神天皇7年(紀元前91年)の創建とされ、天平8年(736年)に行基が蔵王権現を勧請したといわれる。
文暦元年(1234年)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、以降は修験場として知られ、関東の武家政権や武士から多くの武具が奉納される。江戸時代には、慶長10年(1605年)に大久保長安を普請奉行として本社が、元禄13年(1700年)には幣殿と拝殿が建立された。
明治に入ると神仏分離によって、それまでの御嶽大権現(御嶽蔵王権現)から大麻止乃豆天神社に改称した。これは当社が延喜式に載せられている「大麻止乃豆天神社」に比定されたためであるが、同様に大麻止乃豆天神社であると比定される神社が他にもあったため(東京都稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社)、御嶽神社と改称した。昭和27年(1952年)に現在の武蔵御嶽神社に改称した。
交通
公共交通機関
JR東日本青梅線御嶽駅下車
御嶽駅より西東京バスで「ケーブル下」停留所下車(10分)
御岳登山鉄道滝本駅より御岳山駅下車(6分)
御岳山駅より徒歩(25分)
駐車場
「滝本駅」に有料駐車場有。
徒歩
「滝本駅」より山上まで参道を徒歩約1時間。
一般車は滝本駅まで乗り入れ可能。滝本駅から山頂までは指定車両以外は通行禁止。
所在地 東京都青梅市御岳山176
位置 北緯35度46分58.2秒 東経139度9分0秒
主祭神 櫛真智命
社格等 式内社(小)論社
旧府社
創建 (伝)崇神天皇7年(紀元前91年)
本殿の様式 一間社神明造
例祭 春季大祭(3月8日)
例大祭・日の出祭(5月7日・8日)
大祓(6月30日)
秋季大祭(11月8日)
御岳、御嶽とは修験道の中心地である吉野地方(奈良県)の金峯山を指している。蔵王権現、櫛真智命などを祀り、山岳信仰の霊場として中世以降発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得した。式内社の大麻止乃豆天神社(「武蔵国の式内社一覧」参照)であるという説があり、旧府社である。現在は神社本庁に属していない単立神社である。
ご眷属の大口真神(おいぬ様)も祀っていることから、祈願のため犬を連れた参拝客が近年増えており、御岳登山鉄道は、ケージを用いずに犬を乗車させることができる。
祭神
蔵王権現
櫛真智命
大己貴命
少彦名命
安閑天皇
日本武尊
由緒
崇神天皇7年(紀元前91年)の創建とされ、天平8年(736年)に行基が蔵王権現を勧請したといわれる。
文暦元年(1234年)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、以降は修験場として知られ、関東の武家政権や武士から多くの武具が奉納される。江戸時代には、慶長10年(1605年)に大久保長安を普請奉行として本社が、元禄13年(1700年)には幣殿と拝殿が建立された。
明治に入ると神仏分離によって、それまでの御嶽大権現(御嶽蔵王権現)から大麻止乃豆天神社に改称した。これは当社が延喜式に載せられている「大麻止乃豆天神社」に比定されたためであるが、同様に大麻止乃豆天神社であると比定される神社が他にもあったため(東京都稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社)、御嶽神社と改称した。昭和27年(1952年)に現在の武蔵御嶽神社に改称した。
交通
公共交通機関
JR東日本青梅線御嶽駅下車
御嶽駅より西東京バスで「ケーブル下」停留所下車(10分)
御岳登山鉄道滝本駅より御岳山駅下車(6分)
御岳山駅より徒歩(25分)
駐車場
「滝本駅」に有料駐車場有。
徒歩
「滝本駅」より山上まで参道を徒歩約1時間。
一般車は滝本駅まで乗り入れ可能。滝本駅から山頂までは指定車両以外は通行禁止。
所在地 東京都青梅市御岳山176
位置 北緯35度46分58.2秒 東経139度9分0秒
主祭神 櫛真智命
社格等 式内社(小)論社
旧府社
創建 (伝)崇神天皇7年(紀元前91年)
本殿の様式 一間社神明造
例祭 春季大祭(3月8日)
例大祭・日の出祭(5月7日・8日)
大祓(6月30日)
秋季大祭(11月8日)
2024年05月11日
旧堀田邸(きゅうほったてい)は、千葉県佐倉市にある旧佐倉藩主堀田正倫が明治時代に建造した邸宅
旧堀田邸(きゅうほったてい)は、千葉県佐倉市にある旧佐倉藩主堀田正倫が明治時代に建造した邸宅である。歴史的建造物、国の重要文化財。重要文化財指定名称は、旧堀田家住宅。
概要
佐倉藩の最後の藩主であった堀田正倫の邸宅として、1890年(明治23年)に建築された。現存する明治時代の旧大名家の屋敷として貴重な建造物である。庭園は当時の有名庭師・珍珠園の伊藤彦右衛門によるもの。現在は寄贈され佐倉市の所有となっている。
庭園を含む一帯が、1997年(平成9年)に佐倉市指定文化財(名勝)、2001年(平成13年)に千葉県指定文化財(名勝)に指定され、2006年(平成18年)7月には国の重要文化財(建造物)に住居部5棟(座敷棟・居間棟・書斎棟・玄関棟・湯殿)と門番所・土蔵が指定された。庭園は2015年に「旧堀田正倫庭園」として国の名勝に指定された。また、2008年には「旧堀田家住宅と庭園」が「ちば遺産100選」に選ばれた[1]。「つば造り」や「火打ち貫」といった伝統的な和風建築の工法と、ボルトやナットを使用した西洋建築の工法が混在しており、明治期の建築過渡期の様子が窺い知れる。
利用情報
所在地:千葉県佐倉市鏑木町274番地
開館時間:午前10時 - 午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日:月曜日(休日の場合は翌日)、年末年始(12月28日 - 1月4日)、臨時休館日
料金:一般大人320円
用途 さくら庭園
旧用途 旧佐倉藩主邸宅
建築主 堀田正倫
事業主体 佐倉市
管理運営 佐倉市
構造形式 木造、瓦葺
竣工 1890年(明治23年)
所在地 〒285-0025
千葉県佐倉市鏑木町274
座標 北緯35度42分50.39秒 東経140度14分9.04秒
文化財 国の重要文化財、国の名勝(庭園)
指定・登録等日 (重文)2006年(平成18年)7月5日
概要
佐倉藩の最後の藩主であった堀田正倫の邸宅として、1890年(明治23年)に建築された。現存する明治時代の旧大名家の屋敷として貴重な建造物である。庭園は当時の有名庭師・珍珠園の伊藤彦右衛門によるもの。現在は寄贈され佐倉市の所有となっている。
庭園を含む一帯が、1997年(平成9年)に佐倉市指定文化財(名勝)、2001年(平成13年)に千葉県指定文化財(名勝)に指定され、2006年(平成18年)7月には国の重要文化財(建造物)に住居部5棟(座敷棟・居間棟・書斎棟・玄関棟・湯殿)と門番所・土蔵が指定された。庭園は2015年に「旧堀田正倫庭園」として国の名勝に指定された。また、2008年には「旧堀田家住宅と庭園」が「ちば遺産100選」に選ばれた[1]。「つば造り」や「火打ち貫」といった伝統的な和風建築の工法と、ボルトやナットを使用した西洋建築の工法が混在しており、明治期の建築過渡期の様子が窺い知れる。
利用情報
所在地:千葉県佐倉市鏑木町274番地
開館時間:午前10時 - 午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日:月曜日(休日の場合は翌日)、年末年始(12月28日 - 1月4日)、臨時休館日
料金:一般大人320円
用途 さくら庭園
旧用途 旧佐倉藩主邸宅
建築主 堀田正倫
事業主体 佐倉市
管理運営 佐倉市
構造形式 木造、瓦葺
竣工 1890年(明治23年)
所在地 〒285-0025
千葉県佐倉市鏑木町274
座標 北緯35度42分50.39秒 東経140度14分9.04秒
文化財 国の重要文化財、国の名勝(庭園)
指定・登録等日 (重文)2006年(平成18年)7月5日
2024年05月10日
玉若酢命神社(たまわかすみこと じんじゃ/たまわかすのみことじんじゃ)は、島根県隠岐郡隠岐の島町下西にある神社
玉若酢命神社(たまわかすみこと じんじゃ/たまわかすのみことじんじゃ)は、島根県隠岐郡隠岐の島町下西にある神社。式内社で、旧・社格は県社。
古くは「若酢大明神」・「総社明神」とも言われた。
祭神
玉若酢命を主祭神とし、大己貴命・須佐之男命・稲田姫命・事代主命・須世理姫命を配祀する。
社伝によると、景行天皇が皇子を各国に分置し、隠岐国に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命であると伝えられている。玉若酢命は、この島の開拓にかかわる神と考えられ、当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し、玉若酢命の末裔とされる。ただし景行天皇の皇子に玉若酢命の名は見えず、『国造本紀』には観松彦色止命の裔・十挨彦命が応神天皇の御代に国造へ任命されたと見える。
『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』によれば、玉若酢命は『記紀』には全く登場しない地方神で、その語義は明らかではないのだと言う。しかし、同書では、島内北西部にある水若酢神社と鎮座地の地理的・歴史的条件が極めて似ていることから、両社祭神に共通する「ワカス」は、この島の開拓に係わる重要な意味を持つ語であったと推測されている。
歴史
創建の年代は不詳である。寛文7年(1667年)の成立と言われる『隠州視聴合紀 巻之二』の下西村の条には「(当社の)社司を国造と云ふ。渠(かれ)が言に曰く。天武天皇の勅命ありて之を奉ず。」と記されている。
『日本三代実録』貞観13年(871年)閏8月29日の条に正六位上蕤若酢神の神階を従五位下へ陞叙すると言う記事があるが、『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』によれば「蕤」は花が垂れたる様、または冠・旗などに付ける垂れ飾りの意なので、これをタマと訓み、蕤若酢神を当社のこととする意見が強いのだという。上記の『日本三代実録』における記事が当社のことであるなら、これが史料における初見となる。
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では周吉郡4座の1つとして小社に列格された。
文化財
重要文化財(国指定)
玉若酢命神社 3棟(建造物) - 1992年(平成4年)1月21日指定。
本殿(附 棟札6枚、普請文書19冊) - 江戸時代後期、寛政5年(1793年)造営。
随神門(附 棟札1枚、普請文書2冊、旧拝殿1棟、普請文書1冊、境内図1鋪) - 江戸時代末期、嘉永5年(1793年)造営。
社家億岐家住宅(附 福神社1基、家相図1鋪) - 江戸時代後期、享和元年(1801年)造営。
銅印 印文「隠伎倉印」(考古資料) - 社家億岐家伝世。1935年(昭和10年)4月30日指定。
隠岐国駅鈴(考古資料) - 社家億岐家伝世。1935年(昭和10年)4月30日指定。
所在地 島根県隠岐郡隠岐の島町下西701番地
位置 北緯36度12分25.5秒 東経133度18分45.2秒
主祭神 玉若酢命
社格等 式内社(小)
隠岐国総社
旧・県社
創建 不詳
本殿の様式 隠岐造茅葺
例祭 6月5日
主な神事 御霊会 (6月5日)
古くは「若酢大明神」・「総社明神」とも言われた。
祭神
玉若酢命を主祭神とし、大己貴命・須佐之男命・稲田姫命・事代主命・須世理姫命を配祀する。
社伝によると、景行天皇が皇子を各国に分置し、隠岐国に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命であると伝えられている。玉若酢命は、この島の開拓にかかわる神と考えられ、当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し、玉若酢命の末裔とされる。ただし景行天皇の皇子に玉若酢命の名は見えず、『国造本紀』には観松彦色止命の裔・十挨彦命が応神天皇の御代に国造へ任命されたと見える。
『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』によれば、玉若酢命は『記紀』には全く登場しない地方神で、その語義は明らかではないのだと言う。しかし、同書では、島内北西部にある水若酢神社と鎮座地の地理的・歴史的条件が極めて似ていることから、両社祭神に共通する「ワカス」は、この島の開拓に係わる重要な意味を持つ語であったと推測されている。
歴史
創建の年代は不詳である。寛文7年(1667年)の成立と言われる『隠州視聴合紀 巻之二』の下西村の条には「(当社の)社司を国造と云ふ。渠(かれ)が言に曰く。天武天皇の勅命ありて之を奉ず。」と記されている。
『日本三代実録』貞観13年(871年)閏8月29日の条に正六位上蕤若酢神の神階を従五位下へ陞叙すると言う記事があるが、『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』によれば「蕤」は花が垂れたる様、または冠・旗などに付ける垂れ飾りの意なので、これをタマと訓み、蕤若酢神を当社のこととする意見が強いのだという。上記の『日本三代実録』における記事が当社のことであるなら、これが史料における初見となる。
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では周吉郡4座の1つとして小社に列格された。
文化財
重要文化財(国指定)
玉若酢命神社 3棟(建造物) - 1992年(平成4年)1月21日指定。
本殿(附 棟札6枚、普請文書19冊) - 江戸時代後期、寛政5年(1793年)造営。
随神門(附 棟札1枚、普請文書2冊、旧拝殿1棟、普請文書1冊、境内図1鋪) - 江戸時代末期、嘉永5年(1793年)造営。
社家億岐家住宅(附 福神社1基、家相図1鋪) - 江戸時代後期、享和元年(1801年)造営。
銅印 印文「隠伎倉印」(考古資料) - 社家億岐家伝世。1935年(昭和10年)4月30日指定。
隠岐国駅鈴(考古資料) - 社家億岐家伝世。1935年(昭和10年)4月30日指定。
所在地 島根県隠岐郡隠岐の島町下西701番地
位置 北緯36度12分25.5秒 東経133度18分45.2秒
主祭神 玉若酢命
社格等 式内社(小)
隠岐国総社
旧・県社
創建 不詳
本殿の様式 隠岐造茅葺
例祭 6月5日
主な神事 御霊会 (6月5日)
2024年05月09日
興福寺(こうふくじ)は、長崎県長崎市寺町(てらまち)にある、日本最古の黄檗宗の寺院
興福寺(こうふくじ)は、長崎県長崎市寺町(てらまち)にある、日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。山門が朱塗りであるため、あか寺とも呼ばれる。
歴史
1624年(寛永元年)に中国僧の真円により創建された日本最初の唐寺である。崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の一つに数えられる。本寺には、福建省・浙江省・江蘇省出身の信徒が多いため、媽祖堂も置かれていて、南京寺とも称せられた。黄檗宗の開祖隠元隆gゆかりの寺院で、本堂にあたる大雄宝殿は国の重要文化財に指定されている。
福建省出身である隠元が黄檗宗・インゲンマメなど様々な文化を日本に伝えたことを縁として、黄檗文化交流が行われている。
文化財
重要文化財(国指定)
大雄宝殿 - 寛永9年(1632年)に2代如定が建立した最初の堂は大火で焼失し元禄2年(1689年)に再建された。慶応元年(1865年)暴風で大破し明治16年(1883年)に修復された。
旧唐人屋敷門(長崎市の所有)
所在地 長崎県長崎市寺町4-32
位置 北緯32度44分52.3秒 東経129度53分2.0秒
山号 東明山
宗派 黄檗宗
本尊 釈迦如来
創建年 1624年(寛永元年)
開基 真円
別称 あか寺、南京寺
文化財 大雄宝殿、旧唐人屋敷門(重要文化財)
山門、媽姐堂、鐘鼓楼ほか(県文化財)
境内(県史跡)
歴史
1624年(寛永元年)に中国僧の真円により創建された日本最初の唐寺である。崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の一つに数えられる。本寺には、福建省・浙江省・江蘇省出身の信徒が多いため、媽祖堂も置かれていて、南京寺とも称せられた。黄檗宗の開祖隠元隆gゆかりの寺院で、本堂にあたる大雄宝殿は国の重要文化財に指定されている。
福建省出身である隠元が黄檗宗・インゲンマメなど様々な文化を日本に伝えたことを縁として、黄檗文化交流が行われている。
文化財
重要文化財(国指定)
大雄宝殿 - 寛永9年(1632年)に2代如定が建立した最初の堂は大火で焼失し元禄2年(1689年)に再建された。慶応元年(1865年)暴風で大破し明治16年(1883年)に修復された。
旧唐人屋敷門(長崎市の所有)
所在地 長崎県長崎市寺町4-32
位置 北緯32度44分52.3秒 東経129度53分2.0秒
山号 東明山
宗派 黄檗宗
本尊 釈迦如来
創建年 1624年(寛永元年)
開基 真円
別称 あか寺、南京寺
文化財 大雄宝殿、旧唐人屋敷門(重要文化財)
山門、媽姐堂、鐘鼓楼ほか(県文化財)
境内(県史跡)
2024年05月07日
金峯神社(きんぷじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町にある神社
金峯神社(きんぷじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町にある神社。式内社(名神大)で、旧社格は郷社。吉野山最奥の青根ヶ峰のそばにあり、吉野山の地主神を祭る。
境内はユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部。
祭神
主祭神 - 金山毘古命(かなやまひこのみこと)。吉野山の地主神である。
歴史
この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(阿閦如来の2文字目(しゅく))が含まれています。
創建の経緯などは不明である。中世以降は修験道の修行場[であり、『栄花物語』には藤原道長が詣でたことが記されている。
明治時代以前の神仏習合時代には「金精明神(こんしょうみょうじん)」と呼ばれ、本地仏は阿閦如来、釈迦如来、大日如来(金剛界)とされていた。金精の名は金峯山は黄金を蔵する山という信仰があったことが背景にあると思われる。
アクセス
近鉄吉野線吉野駅より吉野ロープウェイ乗り換え「吉野山」下車、徒歩約1時間45分。または吉野山駅からバスで23分の「奥千本口」下車、徒歩5分。
所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山1651
位置 北緯34度20分33.3秒 東経135度52分54.5秒
主祭神 金山毘古命
社格等 式内社(名神大)、郷社
本殿の様式 流造
例祭 10月第3日曜日
境内はユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部。
祭神
主祭神 - 金山毘古命(かなやまひこのみこと)。吉野山の地主神である。
歴史
この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(阿閦如来の2文字目(しゅく))が含まれています。
創建の経緯などは不明である。中世以降は修験道の修行場[であり、『栄花物語』には藤原道長が詣でたことが記されている。
明治時代以前の神仏習合時代には「金精明神(こんしょうみょうじん)」と呼ばれ、本地仏は阿閦如来、釈迦如来、大日如来(金剛界)とされていた。金精の名は金峯山は黄金を蔵する山という信仰があったことが背景にあると思われる。
アクセス
近鉄吉野線吉野駅より吉野ロープウェイ乗り換え「吉野山」下車、徒歩約1時間45分。または吉野山駅からバスで23分の「奥千本口」下車、徒歩5分。
所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山1651
位置 北緯34度20分33.3秒 東経135度52分54.5秒
主祭神 金山毘古命
社格等 式内社(名神大)、郷社
本殿の様式 流造
例祭 10月第3日曜日