香椎宮(かしいぐう)は、福岡県福岡市東区香椎にある神社。勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
「香椎神宮」と誤記される場合もあるが、正しくは「香椎宮」である。
概要
福岡市北部、立花山南西麓に鎮座する。古代には神社ではなく霊廟に位置づけられ、仲哀天皇・神功皇后の神霊を祀り「香椎廟(かしいびょう)」や「樫日廟」などと称された。「廟」の名を持つ施設として最古の例であったが[1]、平安時代中頃からは神社化し、類例のない特殊な変遷を辿った。上記のように天皇・皇后の神霊を祀るという性格から、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられ、現在も勅祭社として10年に一度天皇からの勅使の参向を受ける神社である。
境内の社殿のうち、特に本殿は江戸時代後期の再建時のもので、「香椎造(かしいづくり)」と称される独特の構造であり国の重要文化財に指定されている。祭事としては、10年に一度勅祭が斎行されるほか、現在も仲哀天皇・神功皇后の命日に神事が行われている。
祭神
祭神は次の4柱。
主祭神
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇皇后。
配祀神
応神天皇(おうじんてんのう) - 第15代天皇。仲哀天皇皇子。
住吉大神(すみよしのおおかみ)
境内
社殿
主要社殿は本殿・幣殿・拝殿からなる。そのうち本殿は、享和元年(1801年)の福岡藩主10代黒田長順(黒田斉清)による再建で、南面して建てられている。身舎は桁行三間・梁間三間、入母屋造(正面に千鳥破風を付す)で、左右側面に各一間に車寄を付し、正面と左右側面にはそれぞれ向拝一間を付す。屋根は檜皮葺。内部は梁間三間を外陣・内陣・内々陣に分け、かつ外陣左右に「獅子間」一間を有する。このような構造の起源は明らかでなく、香椎宮本殿にしか見られない独特なもので「香椎造(かしいづくり)」と称される。この本殿は国の重要文化財に指定されている。
現地情報
所在地
福岡県福岡市東区香椎4-16-1
交通アクセス
鉄道
九州旅客鉄道(JR九州)香椎線 香椎神宮駅 (徒歩3分)
西日本鉄道(西鉄)貝塚線 香椎宮前駅 (徒歩約10分)
九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線・香椎線 香椎駅 (徒歩約20分)
バス
西鉄バスで「香椎宮しょうぶ園前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
車
福岡高速1号香椎線香椎浜出入口より2.5q。駐車場:有り
位置 北緯33度39分12.50秒 東経130度27分09.72秒
主祭神 仲哀天皇
神功皇后
社格等 廟(香椎廟)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 (伝)神亀元年(724年)
(神亀5年(728年)以前は確実)
本殿の様式 香椎造
別名 香椎廟・香椎廟宮
例祭 10月29日
主な神事 勅祭(10年に1度)
2024年06月05日
2024年06月04日
旧亀岡家住宅(きゅうかめおかけじゅうたく)は、かつて福島県伊達郡桑折町に所在し、同県伊達市保原町に移築された住宅建築
旧亀岡家住宅(きゅうかめおかけじゅうたく)は、かつて福島県伊達郡桑折町に所在し、同県伊達市保原町に移築された住宅建築。日本国の重要文化財に指定されている。
概要
明治37年(1904年)頃に蚕種製造を手掛けた亀岡家が桑折町に建築した。建物は昭和61年(1986年)に当時の保原町(現・伊達市の一部)に寄贈され、平成7年(1994年)に伊達市保原総合公園内に移築された。建物の外部は洋風だが、内部は和風の造作になる。、保原歴史文化資料館とともに伊達市が管理している。
建築
設計は福島県技手の江川三郎八、施工は飯坂町の大工小笠原国太郎。座敷部は木造2階建、寄棟造。居住部は木造平屋建、入母屋造。総桟瓦葺。正面中央に半八角形平面の塔屋状の突出部を持つ黄色を基調とする、外観は洋風建築である。一方で内部は和風となっており、座敷を中心に構成されている。銘木を多用して造作に技巧が凝らされており、主人居間の「折上げ格天井」など細部にまでこだわりが見られる。平成28年(2016年)7月25日、国の重要文化財に指定された。
利用情報
開館時間 - 9時から17時まで(最終入館16時30分まで)
休館日 - 毎週火曜日、年末年始
入館料 – 大人210円、小中高生100円(保原歴史文化資料館入館料に含まれる)
交通アクセス
阿武隈急行線大泉駅より徒歩7分
設計者 江川三郎八
施工 小笠原国太郎
建築主 亀岡正元
建築面積 222.99 m2
竣工 1904年
所在地 〒960-0634
福島県伊達市保原町大泉字宮脇265番地
座標 北緯37度49分10.3秒 東経140度34分10.4秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 2016年7月25日
概要
明治37年(1904年)頃に蚕種製造を手掛けた亀岡家が桑折町に建築した。建物は昭和61年(1986年)に当時の保原町(現・伊達市の一部)に寄贈され、平成7年(1994年)に伊達市保原総合公園内に移築された。建物の外部は洋風だが、内部は和風の造作になる。、保原歴史文化資料館とともに伊達市が管理している。
建築
設計は福島県技手の江川三郎八、施工は飯坂町の大工小笠原国太郎。座敷部は木造2階建、寄棟造。居住部は木造平屋建、入母屋造。総桟瓦葺。正面中央に半八角形平面の塔屋状の突出部を持つ黄色を基調とする、外観は洋風建築である。一方で内部は和風となっており、座敷を中心に構成されている。銘木を多用して造作に技巧が凝らされており、主人居間の「折上げ格天井」など細部にまでこだわりが見られる。平成28年(2016年)7月25日、国の重要文化財に指定された。
利用情報
開館時間 - 9時から17時まで(最終入館16時30分まで)
休館日 - 毎週火曜日、年末年始
入館料 – 大人210円、小中高生100円(保原歴史文化資料館入館料に含まれる)
交通アクセス
阿武隈急行線大泉駅より徒歩7分
設計者 江川三郎八
施工 小笠原国太郎
建築主 亀岡正元
建築面積 222.99 m2
竣工 1904年
所在地 〒960-0634
福島県伊達市保原町大泉字宮脇265番地
座標 北緯37度49分10.3秒 東経140度34分10.4秒
文化財 国の重要文化財
指定・登録等日 2016年7月25日
2024年06月03日
永祥寺(えいしょうじ)は、北海道十勝地方帯広市に所在する曹洞宗の寺院
永祥寺(えいしょうじ)は、北海道十勝地方帯広市に所在する曹洞宗の寺院。山号は十勝山(じっしょうざん)で、本尊は釈迦牟尼仏。創建年は1903年(明治36年)。
概史
1900年(明治33年)、愛知県額田郡より北海道に渡った織田活道が函館市高龍寺の支援を得て帯広に到着。西1条南11丁目に草庵を結び説教所とした。その後、現在の西2条南3丁目に地を移して堂宇を建立し1903年(明治36年)に寺号公称を得た。帯広として寺号公称を受けたのはこれが始まりで、寺院の草分けとなっている。
この頃の帯広は郡部に通じる道路も刈り分け程度で、昼も熊や狐、鹿が密林に遊んでいたという。
帯広の開拓者として晩成社を率いた依田勉三の菩提寺でもある。現住職は5世 織田秀道。
所在地 北海道帯広市西三条2丁目
位置 北緯42度55分47.2秒 東経143度12分0.6秒
山号 十勝山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
創建年 1900年(明治33年)
開基 織田活道
概史
1900年(明治33年)、愛知県額田郡より北海道に渡った織田活道が函館市高龍寺の支援を得て帯広に到着。西1条南11丁目に草庵を結び説教所とした。その後、現在の西2条南3丁目に地を移して堂宇を建立し1903年(明治36年)に寺号公称を得た。帯広として寺号公称を受けたのはこれが始まりで、寺院の草分けとなっている。
この頃の帯広は郡部に通じる道路も刈り分け程度で、昼も熊や狐、鹿が密林に遊んでいたという。
帯広の開拓者として晩成社を率いた依田勉三の菩提寺でもある。現住職は5世 織田秀道。
所在地 北海道帯広市西三条2丁目
位置 北緯42度55分47.2秒 東経143度12分0.6秒
山号 十勝山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
創建年 1900年(明治33年)
開基 織田活道
2024年06月02日
成願寺(じょうがんじ)は、三重県津市白山町上ノ村にある天台真盛宗の寺院
成願寺(じょうがんじ)は、三重県津市白山町上ノ村にある天台真盛宗の寺院で、同宗の中本山である。山号は慧命山。院号は発心院。
歴史
この寺は、明応年間(1492年 - 1501年)この地の領主新長門守が開基となり、天台宗真盛派の祖真盛を開山として創建されたと伝えられ、その後この地域における真盛派の中心的寺院のひとつとなった。1584年(天正12年)兵火により焼失、1639年(寛永16年)に復興された。
文化財
重要文化財
木造阿弥陀如来椅像
絹本著色涅槃図
三重県指定文化財
成願寺文書
所在地 三重県津市白山町上ノ村1361
位置 北緯34度40分09.0秒 東経136度19分52.0秒
山号 慧命山
宗旨 天台真盛宗
札所等 真盛上人二十五霊場 22番
文化財 木造阿弥陀如来椅像、絹本著色涅槃図(重要文化財)
成願寺文書(県文化財)
歴史
この寺は、明応年間(1492年 - 1501年)この地の領主新長門守が開基となり、天台宗真盛派の祖真盛を開山として創建されたと伝えられ、その後この地域における真盛派の中心的寺院のひとつとなった。1584年(天正12年)兵火により焼失、1639年(寛永16年)に復興された。
文化財
重要文化財
木造阿弥陀如来椅像
絹本著色涅槃図
三重県指定文化財
成願寺文書
所在地 三重県津市白山町上ノ村1361
位置 北緯34度40分09.0秒 東経136度19分52.0秒
山号 慧命山
宗旨 天台真盛宗
札所等 真盛上人二十五霊場 22番
文化財 木造阿弥陀如来椅像、絹本著色涅槃図(重要文化財)
成願寺文書(県文化財)
2024年06月01日
鹽竈神社(しおがまじんじゃ)は、宮城県塩竈市にある神社
鹽竈神社(しおがまじんじゃ)は、宮城県塩竈市にある神社である。志波彦神社(しわひこじんじゃ)との二社が同一境内に鎮座している。志波彦神社は式内社(名神大社)。鹽竈神社は式外社、陸奥国一宮。両社合わせて旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「塩竈桜」。
鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。
概要
元は当地には鹽竈神社のみが鎮座していたが、明治時代に志波彦神社が境内に遷座し、現在は正式名称を「志波彦神社・鹽竈神社」とし1つの法人となっている。鹽竈神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜(シオガマザクラ)があり、毎年当地の報道で取り上げられている。また塩竈みなと祭の際には、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社・鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて松島湾を巡幸する。東北開拓の守護神であり、多くの初詣客が集まることでも知られる。秋には大規模な菊花展が開催される。
祭神
志波彦神社
志波彦大神
鹽竈神社
別宮:塩土老翁神 - 主祭神
左宮:武甕槌神
右宮:経津主神
塩土老翁神は謎の多い神であるが、海や塩の神格化と考えられている。神武天皇や山幸彦を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願の神でもある。武甕槌神と経津主神は東北を平定するために派遣された朝廷の神。
志波彦神社 本殿
歴史
志波彦神社
志波彦神社は冠川(七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社である。中世までの詳細な所在地は不明だが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所で、軍事的にも岩切城などの重要な城がおかれた、宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していたと見られる。
鹽竈神社
鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。
鹽竈神社拝殿
文化財
重要文化財(国指定)
鹽竈神社 14棟1基
左宮本殿
左宮幣殿
右宮本殿
右宮幣殿
左右宮廻廊
左右宮瑞垣
左右宮拝殿
別宮本殿
別宮幣殿
別宮廻廊
別宮瑞垣
別宮拝殿
門及び廻廊
随身門
鳥居
附:棟札11枚
太刀 銘来国光 附:糸巻太刀拵
太刀 銘雲生 附:黒漆太刀拵(鵜飼派)
現地情報
所在地
宮城県塩竈市一森山1番1号
拝観時間・料金
開門時間:5:00 - 20:00
拝観は無料。ただし、鹽竈神社博物館は入館有料(令和5年現在、博物館屋上の展望台は閉鎖中につき、立入不可)。
交通アクセス
鉄道
最寄駅:JR東日本仙石線 本塩釜駅 (徒歩約10分)
JR東日本東北本線 塩釜駅 (徒歩約15分)
初詣時には、仙石線・東北本線とも深夜から早朝にかけて臨時列車が運行される。
車
無料駐車場:普通車用の第1・第2・第3、バス用の計4か所 - 合計300台収容可
最寄IC:三陸沿岸道路 利府塩釜IC
鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。
概要
元は当地には鹽竈神社のみが鎮座していたが、明治時代に志波彦神社が境内に遷座し、現在は正式名称を「志波彦神社・鹽竈神社」とし1つの法人となっている。鹽竈神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜(シオガマザクラ)があり、毎年当地の報道で取り上げられている。また塩竈みなと祭の際には、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社・鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて松島湾を巡幸する。東北開拓の守護神であり、多くの初詣客が集まることでも知られる。秋には大規模な菊花展が開催される。
祭神
志波彦神社
志波彦大神
鹽竈神社
別宮:塩土老翁神 - 主祭神
左宮:武甕槌神
右宮:経津主神
塩土老翁神は謎の多い神であるが、海や塩の神格化と考えられている。神武天皇や山幸彦を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願の神でもある。武甕槌神と経津主神は東北を平定するために派遣された朝廷の神。
志波彦神社 本殿
歴史
志波彦神社
志波彦神社は冠川(七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社である。中世までの詳細な所在地は不明だが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所で、軍事的にも岩切城などの重要な城がおかれた、宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していたと見られる。
鹽竈神社
鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。
鹽竈神社拝殿
文化財
重要文化財(国指定)
鹽竈神社 14棟1基
左宮本殿
左宮幣殿
右宮本殿
右宮幣殿
左右宮廻廊
左右宮瑞垣
左右宮拝殿
別宮本殿
別宮幣殿
別宮廻廊
別宮瑞垣
別宮拝殿
門及び廻廊
随身門
鳥居
附:棟札11枚
太刀 銘来国光 附:糸巻太刀拵
太刀 銘雲生 附:黒漆太刀拵(鵜飼派)
現地情報
所在地
宮城県塩竈市一森山1番1号
拝観時間・料金
開門時間:5:00 - 20:00
拝観は無料。ただし、鹽竈神社博物館は入館有料(令和5年現在、博物館屋上の展望台は閉鎖中につき、立入不可)。
交通アクセス
鉄道
最寄駅:JR東日本仙石線 本塩釜駅 (徒歩約10分)
JR東日本東北本線 塩釜駅 (徒歩約15分)
初詣時には、仙石線・東北本線とも深夜から早朝にかけて臨時列車が運行される。
車
無料駐車場:普通車用の第1・第2・第3、バス用の計4か所 - 合計300台収容可
最寄IC:三陸沿岸道路 利府塩釜IC
2024年05月31日
昌竜寺(しょうりゅうじ)は、宮崎県西臼杵郡日之影町にある曹洞宗の寺院
昌竜寺(しょうりゅうじ)は、宮崎県西臼杵郡日之影町にある曹洞宗の寺院。山号を雲峰山(うんぽうざん)と称し、本尊は釈迦如来。他に薬師如来・観世音菩薩・不動明王を奉り、霊場として八戸観音滝を護持している。九州四十九院薬師霊場第番十九番札所。
歴史
大永元年(1521年)に、肥後から招来した薬師仏を祀るべく八戸城主津隈越後守によって八戸地区に建立された薬現寺を前身とする。寛永2年(1625年)に、延岡領主有馬直純は舟の尾に代官所を置くこととなる。代官として重用された土地の有力者津隈宣次は、薬現寺を舟の尾の丘の上(尾の上)に移して、月山心甫和尚を迎えて開山法要をし、雲峰山・昌竜寺とした。享保19年(1734年)に、岩熊井堰(通称延岡用水)を開いた恩人の藤江監物(フジエケンモツ)父子の菩提寺でもある。
所在地
宮崎県西臼杵郡日之影町七折舟ノ尾2369-1
寺宝
肥後伝来薬師如来
延岡城牧野家書院天井絵
絶滅危惧種絵天井
交通アクセス
国道218号沿い。延岡市中心部より車で30分。
所在地 宮崎県西臼杵郡日之影町七折舟ノ尾2369-1
山号 雲峰山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
開基 津隈宣次 月山心甫和尚
札所等 九州四十九
歴史
大永元年(1521年)に、肥後から招来した薬師仏を祀るべく八戸城主津隈越後守によって八戸地区に建立された薬現寺を前身とする。寛永2年(1625年)に、延岡領主有馬直純は舟の尾に代官所を置くこととなる。代官として重用された土地の有力者津隈宣次は、薬現寺を舟の尾の丘の上(尾の上)に移して、月山心甫和尚を迎えて開山法要をし、雲峰山・昌竜寺とした。享保19年(1734年)に、岩熊井堰(通称延岡用水)を開いた恩人の藤江監物(フジエケンモツ)父子の菩提寺でもある。
所在地
宮崎県西臼杵郡日之影町七折舟ノ尾2369-1
寺宝
肥後伝来薬師如来
延岡城牧野家書院天井絵
絶滅危惧種絵天井
交通アクセス
国道218号沿い。延岡市中心部より車で30分。
所在地 宮崎県西臼杵郡日之影町七折舟ノ尾2369-1
山号 雲峰山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
開基 津隈宣次 月山心甫和尚
札所等 九州四十九
2024年05月30日
古熊神社(ふるくまじんじゃ)は、山口県山口市にある神社(天満宮)
古熊神社(ふるくまじんじゃ)は、山口県山口市にある神社(天満宮)である。「山口の天神様」と通称される。
祭神
菅原道真を主祭神とし、道真の子の菅原福部童子を配祀する。
福部童子は11歳のときに、左遷された父を慕って太宰府へ向ったが、山口で夏病みにかかり亡くなった。福部童子は今市の甘露院に葬られ、当社創建後は当社にも祀られた。福部童子が亡くなった8月25日には福部祭が行われる。
歴史
応安6年(1373年)10月、大内弘世が北野天満宮より勧請を受けて創建した。当初は山口・北野小路に鎮座していたが、後に数度の遷座を経て長者山の麓の御石の森に鎮座した。元和4年(1618年)、毛利秀就が現在地に社殿を移した。
祭事
山口天神祭(11月23日〜25日)
文化財
重要文化財
本殿 - 江戸時代前期(1618年)の建立。桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺。大正6年(1917)08月13日指定。
拝殿 - 江戸時代中期(1661年-1672年)頃の建立。桁行一間、梁間一間、楼造、入母屋造、向拝付、左右翼廊、各桁行一間、梁間二間、一重、切妻造、銅板葺。昭和24年(1949)02月18日指定。
紙本墨画天神図 - 室町時代(1429年)の作品。図は岩間を走る溪流や水波、あるいは梅花を配した自然景の中に、束帯姿の天神像を描いたもので、図上には五山文学史上著名な惟肖得巖の賛がある。それには、周防の大内盛見が、かねてから親しい惟肖得巖から秘蔵の天神像をもらいうけ、山口へ持ち帰ったとある。それが本図で、年記のある天神図の古作であるばかりでなく、得巖著賛の室町初期水墨画の作例としても貴重である。昭和48年(1973)06月06日指定。
アクセス
山口線山口駅から徒歩15分。途中椹野川にかかる天神橋を渡る。
所在地 山口県山口市古熊1丁目10-3
位置 北緯34度10分43.4秒 東経131度29分19.1秒
主祭神 菅原道真
社格等 県社
創建 応安6年(1373年)
本殿の様式 入母屋造
例祭 11月25日
主な神事 山口天神祭(11月23日〜25日)
祭神
菅原道真を主祭神とし、道真の子の菅原福部童子を配祀する。
福部童子は11歳のときに、左遷された父を慕って太宰府へ向ったが、山口で夏病みにかかり亡くなった。福部童子は今市の甘露院に葬られ、当社創建後は当社にも祀られた。福部童子が亡くなった8月25日には福部祭が行われる。
歴史
応安6年(1373年)10月、大内弘世が北野天満宮より勧請を受けて創建した。当初は山口・北野小路に鎮座していたが、後に数度の遷座を経て長者山の麓の御石の森に鎮座した。元和4年(1618年)、毛利秀就が現在地に社殿を移した。
祭事
山口天神祭(11月23日〜25日)
文化財
重要文化財
本殿 - 江戸時代前期(1618年)の建立。桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺。大正6年(1917)08月13日指定。
拝殿 - 江戸時代中期(1661年-1672年)頃の建立。桁行一間、梁間一間、楼造、入母屋造、向拝付、左右翼廊、各桁行一間、梁間二間、一重、切妻造、銅板葺。昭和24年(1949)02月18日指定。
紙本墨画天神図 - 室町時代(1429年)の作品。図は岩間を走る溪流や水波、あるいは梅花を配した自然景の中に、束帯姿の天神像を描いたもので、図上には五山文学史上著名な惟肖得巖の賛がある。それには、周防の大内盛見が、かねてから親しい惟肖得巖から秘蔵の天神像をもらいうけ、山口へ持ち帰ったとある。それが本図で、年記のある天神図の古作であるばかりでなく、得巖著賛の室町初期水墨画の作例としても貴重である。昭和48年(1973)06月06日指定。
アクセス
山口線山口駅から徒歩15分。途中椹野川にかかる天神橋を渡る。
所在地 山口県山口市古熊1丁目10-3
位置 北緯34度10分43.4秒 東経131度29分19.1秒
主祭神 菅原道真
社格等 県社
創建 応安6年(1373年)
本殿の様式 入母屋造
例祭 11月25日
主な神事 山口天神祭(11月23日〜25日)
2024年05月29日
熊野神社(くまのじんじゃ)は山梨県甲州市塩山熊野に鎮座する神社
熊野神社(くまのじんじゃ)は山梨県甲州市塩山熊野に鎮座する神社で、熊野郷一帯の鎮守社である。また、拝殿・本殿2棟は国の重要文化財に指定されている。
歴史
神社の創立は明らかではないが、江戸時代後期に成立した『甲斐国志』所収の「社記」によれば、朱鳥年中(686年-701年)紀州の熊野より勧請され、熊野郷の鎮守社として成立したとされるが、10世紀初頭の『延喜式』神名帳には当社に関する記載は見られないことから、朱鳥年中の創立を否定する説もある。
平安時代後期には後白河法皇の勅により、熊野本社の規矩をとって社殿を建立したものと伝えられている。
古来より熊野大権現と呼ばれて、周辺の人々の尊崇を受けてきた。近世には甲斐における熊野四所礼場の一社となる。
祭神
祭神は、伊弉冊尊・速玉男尊・事解男尊・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊の6座を祀っている。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 2棟 - 室町時代中期の建立。一間社隅木入春日造、檜皮葺。昭和24年(1949年)2月18日指定。
拝殿 - 室町時代後期の建立。桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、茅葺。昭和24年(1949年)2月18日指定。
所在地 山梨県甲州市塩山熊野174番地
位置 北緯35度41分30.8秒 東経138度43分31秒
主祭神 伊弉冊尊
速玉男尊
事解男尊
天忍穂耳尊
瓊瓊杵尊
彦火火出見尊
社格等 旧郷社
創建 (伝)大同2年(807年)
本殿の様式 春日造檜皮葺
例祭 10月15日
歴史
神社の創立は明らかではないが、江戸時代後期に成立した『甲斐国志』所収の「社記」によれば、朱鳥年中(686年-701年)紀州の熊野より勧請され、熊野郷の鎮守社として成立したとされるが、10世紀初頭の『延喜式』神名帳には当社に関する記載は見られないことから、朱鳥年中の創立を否定する説もある。
平安時代後期には後白河法皇の勅により、熊野本社の規矩をとって社殿を建立したものと伝えられている。
古来より熊野大権現と呼ばれて、周辺の人々の尊崇を受けてきた。近世には甲斐における熊野四所礼場の一社となる。
祭神
祭神は、伊弉冊尊・速玉男尊・事解男尊・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊の6座を祀っている。
文化財
重要文化財(国指定)
本殿 2棟 - 室町時代中期の建立。一間社隅木入春日造、檜皮葺。昭和24年(1949年)2月18日指定。
拝殿 - 室町時代後期の建立。桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、茅葺。昭和24年(1949年)2月18日指定。
所在地 山梨県甲州市塩山熊野174番地
位置 北緯35度41分30.8秒 東経138度43分31秒
主祭神 伊弉冊尊
速玉男尊
事解男尊
天忍穂耳尊
瓊瓊杵尊
彦火火出見尊
社格等 旧郷社
創建 (伝)大同2年(807年)
本殿の様式 春日造檜皮葺
例祭 10月15日
甘草屋敷(かんぞうやしき)は、山梨県甲州市塩山上於曽(えんざんかみおぞ)にある江戸時代後期に建築された民家
甘草屋敷(かんぞうやしき)は、山梨県甲州市塩山上於曽(えんざんかみおぞ)にある江戸時代後期に建築された民家で、国の重要文化財に指定されている。重要文化財指定名称は旧高野家住宅。
概要
高野家はこの地で長百姓(おさびゃくしょう)を務めた家柄で、代々「伊兵衛」を名乗り、幕末には名主として苗字帯刀が許されていた。高野家は江戸幕府に納める甘草を栽培していたことから、甘草屋敷と呼ばれている。
高野家住宅の主屋は切妻屋根の前面上部に2段の突き上げ屋根を設けた甲州民家と呼ばれる、この地方特有の建築である。江戸時代後期の建築で、蔵などの付属建物や宅地も含め、重要文化財に指定されている。
建築
主屋は江戸時代後期(19世紀前半)の建築。切妻造、屋根裏部屋を含め3階建てで、桁行13間半(24.8メートル)、梁間6間(10.9メートル)。現状は銅板葺きとするが、1960年までは茅葺きであった。切妻の大屋根には2段の突き上げ屋根を設ける。建物内部は三層構造になっており、上層階は甘草の乾燥に用いられた。上層階を設け、採光と通風のための突き上げ屋根を設けた形は、かつてこの地方で盛んに行われていた養蚕に使用された建築形式を受け継いだものである。
主屋は南向きに建てられ、東側(向かって右)を土間。西側を床上部とする。土間の右側(建物の東端)には2室からなる「蔵座敷」がある。これは、もとは馬屋だった場所を居室に改め、隠居部屋としたものである。
床上部は下手(土間寄り)の表側に「いどこ」、奥側(北)に「居間」があり、「居間」の東には土間に張り出す形で「台所」を設ける。「台所」と土間の境に立つ大黒柱は2階の屋根裏まで達する長大なものである。
「いどこ」「居間」の上手(西)は、床高を一段高め、田の字形に4室を配する。室名は南東が「中座敷」、南西が「奥座敷」、北東が「納戸」、北西が「仏間」となっている。「仏間」は藩の役人などの来客があった場合、仏壇を隠して床の間に変更できるように工夫されている。仏間の奥(北)には、長六畳の茶室を設ける。ここはもとは箪笥置き場であった。
文化財
以下の物件が「旧高野家住宅」として重要文化財に指定されている。
主屋
巽蔵
馬屋
東門
文庫蔵
小屋
宅地 4932.07平方メートル(敷地内の井戸、池、石橋、石垣を含む)
附(つけたり)指定物件:地実棚、裏門、屋敷門
交通
JR塩山駅北口より徒歩1分
JR中央本線塩山駅北口の正面にあり、交通の便は至って便利である。
所在地 山梨県甲州市塩山上於曽1651-15
位置 北緯35度42分23.08秒 東経138度44分05.4秒
類型 民家
形式・構造 (主屋)木造、切妻造、甲州民家
敷地面積 4932.07m2
建築年 江戸時代後期
文化財 国の重要文化財
概要
高野家はこの地で長百姓(おさびゃくしょう)を務めた家柄で、代々「伊兵衛」を名乗り、幕末には名主として苗字帯刀が許されていた。高野家は江戸幕府に納める甘草を栽培していたことから、甘草屋敷と呼ばれている。
高野家住宅の主屋は切妻屋根の前面上部に2段の突き上げ屋根を設けた甲州民家と呼ばれる、この地方特有の建築である。江戸時代後期の建築で、蔵などの付属建物や宅地も含め、重要文化財に指定されている。
建築
主屋は江戸時代後期(19世紀前半)の建築。切妻造、屋根裏部屋を含め3階建てで、桁行13間半(24.8メートル)、梁間6間(10.9メートル)。現状は銅板葺きとするが、1960年までは茅葺きであった。切妻の大屋根には2段の突き上げ屋根を設ける。建物内部は三層構造になっており、上層階は甘草の乾燥に用いられた。上層階を設け、採光と通風のための突き上げ屋根を設けた形は、かつてこの地方で盛んに行われていた養蚕に使用された建築形式を受け継いだものである。
主屋は南向きに建てられ、東側(向かって右)を土間。西側を床上部とする。土間の右側(建物の東端)には2室からなる「蔵座敷」がある。これは、もとは馬屋だった場所を居室に改め、隠居部屋としたものである。
床上部は下手(土間寄り)の表側に「いどこ」、奥側(北)に「居間」があり、「居間」の東には土間に張り出す形で「台所」を設ける。「台所」と土間の境に立つ大黒柱は2階の屋根裏まで達する長大なものである。
「いどこ」「居間」の上手(西)は、床高を一段高め、田の字形に4室を配する。室名は南東が「中座敷」、南西が「奥座敷」、北東が「納戸」、北西が「仏間」となっている。「仏間」は藩の役人などの来客があった場合、仏壇を隠して床の間に変更できるように工夫されている。仏間の奥(北)には、長六畳の茶室を設ける。ここはもとは箪笥置き場であった。
文化財
以下の物件が「旧高野家住宅」として重要文化財に指定されている。
主屋
巽蔵
馬屋
東門
文庫蔵
小屋
宅地 4932.07平方メートル(敷地内の井戸、池、石橋、石垣を含む)
附(つけたり)指定物件:地実棚、裏門、屋敷門
交通
JR塩山駅北口より徒歩1分
JR中央本線塩山駅北口の正面にあり、交通の便は至って便利である。
所在地 山梨県甲州市塩山上於曽1651-15
位置 北緯35度42分23.08秒 東経138度44分05.4秒
類型 民家
形式・構造 (主屋)木造、切妻造、甲州民家
敷地面積 4932.07m2
建築年 江戸時代後期
文化財 国の重要文化財
2024年05月28日
明王院(みょうおういん) は、和歌山県伊都郡高野町にある高野山真言宗の別格本山の寺院
明王院(みょうおういん) は、和歌山県伊都郡高野町にある高野山真言宗の別格本山の寺院。総本山金剛峯寺の塔頭、宿坊。山号は高野山。本尊は赤不動明王。高野山の中ほどにある本中院谷に所在。日本三不動のひとつである「赤不動」がある寺院として知られる。
歴史
寺伝によれば弘仁7年(816年)に空海(弘法大師)が高野山を開くにあたり、自ら刻んだ五大明王を安置し開創したという。高野山にある寺院の中でも最も初期に創建された寺院である。
現在の本尊である赤不動明王は、空海の甥で天台宗の僧である円珍(智証大師)が、修行中に感得した不動明王の姿を画いたものであるという。またその際に、円珍は自らの頭を岩に打ち付けて流れ出た血を岩絵の具に混ぜたのだという。
平安時代末期には衰微していたが、如法によって再興された。
本堂の内陣は左右に分かれており、向かって右には本尊「赤不動」、脇仏弘法大師像で、左には後醍醐天皇画像。左の内陣は不動明王立像による護摩壇になっている。
文化財
重要文化財
絹本着色不動明王二童子像 - 通称「赤不動」。園城寺を開いた円珍作と伝えられるが、実際の制作は鎌倉時代と推定される。後醍醐天皇が守り本尊として吉野に逃れる際にも所持したという。明王院開創当初の本尊・五大明王像の焼失後、当寺の本尊として祀られる。京都府・青蓮院の「青不動」、滋賀県・園城寺の「黄不動」とともに日本三不動のひとつとされる。通常は非公開であるが4月28日の赤不動大祭で開帳される。
所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山146
位置 北緯34度12分53.1秒 東経135度34分50.2秒
宗派 高野山真言宗
寺格 別格本山
本尊 赤不動明王(重要文化財)
創建年 弘仁7年(816年)
開山 空海
中興 如法
正式名 高野山別格本山明王院
別称 赤不動
札所等 近畿三十六不動尊霊場第35番
文化財 絹本著色不動明王二童子像一幅(重要文化財)
歴史
寺伝によれば弘仁7年(816年)に空海(弘法大師)が高野山を開くにあたり、自ら刻んだ五大明王を安置し開創したという。高野山にある寺院の中でも最も初期に創建された寺院である。
現在の本尊である赤不動明王は、空海の甥で天台宗の僧である円珍(智証大師)が、修行中に感得した不動明王の姿を画いたものであるという。またその際に、円珍は自らの頭を岩に打ち付けて流れ出た血を岩絵の具に混ぜたのだという。
平安時代末期には衰微していたが、如法によって再興された。
本堂の内陣は左右に分かれており、向かって右には本尊「赤不動」、脇仏弘法大師像で、左には後醍醐天皇画像。左の内陣は不動明王立像による護摩壇になっている。
文化財
重要文化財
絹本着色不動明王二童子像 - 通称「赤不動」。園城寺を開いた円珍作と伝えられるが、実際の制作は鎌倉時代と推定される。後醍醐天皇が守り本尊として吉野に逃れる際にも所持したという。明王院開創当初の本尊・五大明王像の焼失後、当寺の本尊として祀られる。京都府・青蓮院の「青不動」、滋賀県・園城寺の「黄不動」とともに日本三不動のひとつとされる。通常は非公開であるが4月28日の赤不動大祭で開帳される。
所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山146
位置 北緯34度12分53.1秒 東経135度34分50.2秒
宗派 高野山真言宗
寺格 別格本山
本尊 赤不動明王(重要文化財)
創建年 弘仁7年(816年)
開山 空海
中興 如法
正式名 高野山別格本山明王院
別称 赤不動
札所等 近畿三十六不動尊霊場第35番
文化財 絹本著色不動明王二童子像一幅(重要文化財)