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2017年10月16日
拓馬篇前記−拓馬4
拓馬は自宅のリビングにいた。心境は上の空。床に座り、ボーダーコリーにそっくりな雑種犬とたわむれている。
白黒の中型犬は拓馬の投げたボールを追いかける。ボールを口にくわえては拓馬のもとにもどり、またボールを投げるよう催促する。その繰り返しだ。拓馬の関心は犬になく、今日の出来事にある。
(他校の生徒とケンカしたって……先生にバレるかな?)
教員に知られれば、高確率で学校の品位を落とす行為をしたと判断される。そして咎められるだろう。罰として親を呼び出されたり、停学処分を受けたりと、自分たちが不良相当の扱いを受けるかもしれない。
(学校の連中がどう思おうとかまやしないけど……)
家族を心配させることは避けたい。とくに父は拓馬を不憫がっている。ことさら父の心労を増やす真似はしたくなかった。
(私服だったから『才穎高校の生徒がやった』と気付く人はいない。でも、あの校長はあなどれないしな)
拓馬が通う高校の校長は地獄耳で有名だ。同じクラス内の生徒も知らない生徒同士の交際まで把握するという。情報収集能力の高さは校長の嗜好の偏りにつき、おもに恋話にばかり活用された。
本来、校長は生徒との関わり合いを教師に委ねる存在。生徒との接点が少ない校長が、単独で生徒の恋愛事情を知りうるはずはない。そのため、校内に情報提供者がいるとの噂がまことしやかに流れた。教員は生徒の情事を報告するよう義務付けられているとか、各学年に一人は校長に加担する生徒がいるのだとか。程度の低いスパイものの物語のような憶測が飛び交う。なにが真実であろうと恋愛に無関心な拓馬には無害な情報能力だ。正直なところ、どうでもよかった。
しかし恋愛脳の校長とて学校の長である。普段は趣味に費やす力を、まっとうに教育方面で発揮することは充分に考えられる。
(いつバレるかビクつくよか、白状して一発怒られたほうがスッキリするかな)
いっそ周知の事実になればよいと開き直った。父は拓馬が乱暴者でないことを知っているし、話せばちゃんと理解してくれるのだ。
拓馬は手に握ったボールを自分の頭上へ投げる。やや前方へと上がったボールは、飼い犬がキャッチしやすい位置へ落下していく。落下地点で犬が待機しているだろう、と予測したがボールは床を跳ねた。遊び相手のいないボールは跳躍力を弱めていき、最終的に転がる。
(トーマ? もう飽きたのか)
リビングの引き戸は犬が通れるだけの幅が開いていた。飼い犬が自力で戸を開けることはままある。閉めることまで意識が回らないのが困りものだ。
廊下から冷たい空気が侵入する。拓馬は冷気を遮断しようと思い、腰をあげる。そこへ呼鈴が鳴った。来客だ。
(人を出迎えにいったか)
拓馬の予想は的中した。人感センサー付き照明の点灯した玄関を犬が見つめている。人間には聞こえぬ外からの足音などで気配を察知し、先回りしたのだ。その尻尾はゆっくり左右に揺れた。
すりガラスをはめこんだ玄関の戸が開く。そこには防寒着で身を包んだヤマダがいた。彼女が立つ背景は自然界が放つ光を失っている。
「ヤマダ、日が暮れたらうちには来ないんじゃなかったか?」
「ちょっと遅れちゃったね。でもパンは見つかったんだよ」
ヤマダは手にした紙袋を拓馬に差し出した。拓馬が中身を見てみると真っ黒いパンが目につく。これが姉の所望していた竹炭入りのパンだ。
「うわ、ホントに黒いな」
「うん、炭が混ざってるからそんな色になるんだとか。健康にはいいらしいよ」
両手の空いたヤマダは犬の背中や首をなでている。犬の尻尾はせわしなく揺れた。
「炭も竹も、食べようとする人がいるんだな」
「『健康』を売りにしたら欲しがる人はいっぱいいるんじゃない?」
拓馬はパンの入った袋を下足の棚に置いた。玄関に並べた自分の靴を履く。
「パンのお礼に家まで送ってく」
「そのカッコでいいの?」
「近いから平気だ」
送るまでもない距離なのだが、ほかに彼女の足労に報いる方法は思いつかない。ヤマダは「また来るからね」と犬の両頬をむにむに揉んだ。彼女が拓馬宅へ訪問する目当てはかなりの割合で犬にあった。ヤマダにとっては犬とのふれあいが充分な報酬に値するのかもしれないが、拓馬はそのことに触れなかった。
ヤマダが先に外へ出て拓馬があとに続く。玄関先の照明のおかげで確認できる道に、光を吸収する黒い物体があった。拓馬は警戒する。しかしヤマダはそのまま直進しようとした。拓馬はとっさに彼女の腕を引く。
「待て、変なのがいる」
「え、どこに?」
ヤマダの目は異変を捉えていない。同じ体験は過去に数えきれないほどあった。
またたくまに黒い異形がサーッとその場を引いた。照明は見慣れた通路をいつも通りに照らしている。
「……もう、どっかに行ったみたいだ」
「なんだろね、今日は……」
ヤマダの「今日は」発言を受けた拓馬は不良とのもめ事を連想した。それが本日一番の大事件だ。だがあれはある程度予想ができたこと。異形が出現する現象とは同列にできない。
(べつのことを言ってる? ……あ)
事件のさなかに拓馬が見かけた男を想起した。学校側の処分方法に気を揉んだかわりに、すっかり忘却していた対象だ。
「デパートの男はともかく、いまのやつはお前を追いかけてきたのかもしんないな」
何者も拓馬を追跡していないことは、犬の散歩の時にわかっていた。
「んー、また変なのに気に入られたかな?」
「あとでシズカさんに伝えてみるか」
シズカとは拓馬が信頼する知人のあだ名だ。表面上は普通の警官だが、不可解な事件に取り組むすべを持っている。ヤマダも拓馬の提案に同調し、二人はヤマダ宅へ向かった。
白黒の中型犬は拓馬の投げたボールを追いかける。ボールを口にくわえては拓馬のもとにもどり、またボールを投げるよう催促する。その繰り返しだ。拓馬の関心は犬になく、今日の出来事にある。
(他校の生徒とケンカしたって……先生にバレるかな?)
教員に知られれば、高確率で学校の品位を落とす行為をしたと判断される。そして咎められるだろう。罰として親を呼び出されたり、停学処分を受けたりと、自分たちが不良相当の扱いを受けるかもしれない。
(学校の連中がどう思おうとかまやしないけど……)
家族を心配させることは避けたい。とくに父は拓馬を不憫がっている。ことさら父の心労を増やす真似はしたくなかった。
(私服だったから『才穎高校の生徒がやった』と気付く人はいない。でも、あの校長はあなどれないしな)
拓馬が通う高校の校長は地獄耳で有名だ。同じクラス内の生徒も知らない生徒同士の交際まで把握するという。情報収集能力の高さは校長の嗜好の偏りにつき、おもに恋話にばかり活用された。
本来、校長は生徒との関わり合いを教師に委ねる存在。生徒との接点が少ない校長が、単独で生徒の恋愛事情を知りうるはずはない。そのため、校内に情報提供者がいるとの噂がまことしやかに流れた。教員は生徒の情事を報告するよう義務付けられているとか、各学年に一人は校長に加担する生徒がいるのだとか。程度の低いスパイものの物語のような憶測が飛び交う。なにが真実であろうと恋愛に無関心な拓馬には無害な情報能力だ。正直なところ、どうでもよかった。
しかし恋愛脳の校長とて学校の長である。普段は趣味に費やす力を、まっとうに教育方面で発揮することは充分に考えられる。
(いつバレるかビクつくよか、白状して一発怒られたほうがスッキリするかな)
いっそ周知の事実になればよいと開き直った。父は拓馬が乱暴者でないことを知っているし、話せばちゃんと理解してくれるのだ。
拓馬は手に握ったボールを自分の頭上へ投げる。やや前方へと上がったボールは、飼い犬がキャッチしやすい位置へ落下していく。落下地点で犬が待機しているだろう、と予測したがボールは床を跳ねた。遊び相手のいないボールは跳躍力を弱めていき、最終的に転がる。
(トーマ? もう飽きたのか)
リビングの引き戸は犬が通れるだけの幅が開いていた。飼い犬が自力で戸を開けることはままある。閉めることまで意識が回らないのが困りものだ。
廊下から冷たい空気が侵入する。拓馬は冷気を遮断しようと思い、腰をあげる。そこへ呼鈴が鳴った。来客だ。
(人を出迎えにいったか)
拓馬の予想は的中した。人感センサー付き照明の点灯した玄関を犬が見つめている。人間には聞こえぬ外からの足音などで気配を察知し、先回りしたのだ。その尻尾はゆっくり左右に揺れた。
すりガラスをはめこんだ玄関の戸が開く。そこには防寒着で身を包んだヤマダがいた。彼女が立つ背景は自然界が放つ光を失っている。
「ヤマダ、日が暮れたらうちには来ないんじゃなかったか?」
「ちょっと遅れちゃったね。でもパンは見つかったんだよ」
ヤマダは手にした紙袋を拓馬に差し出した。拓馬が中身を見てみると真っ黒いパンが目につく。これが姉の所望していた竹炭入りのパンだ。
「うわ、ホントに黒いな」
「うん、炭が混ざってるからそんな色になるんだとか。健康にはいいらしいよ」
両手の空いたヤマダは犬の背中や首をなでている。犬の尻尾はせわしなく揺れた。
「炭も竹も、食べようとする人がいるんだな」
「『健康』を売りにしたら欲しがる人はいっぱいいるんじゃない?」
拓馬はパンの入った袋を下足の棚に置いた。玄関に並べた自分の靴を履く。
「パンのお礼に家まで送ってく」
「そのカッコでいいの?」
「近いから平気だ」
送るまでもない距離なのだが、ほかに彼女の足労に報いる方法は思いつかない。ヤマダは「また来るからね」と犬の両頬をむにむに揉んだ。彼女が拓馬宅へ訪問する目当てはかなりの割合で犬にあった。ヤマダにとっては犬とのふれあいが充分な報酬に値するのかもしれないが、拓馬はそのことに触れなかった。
ヤマダが先に外へ出て拓馬があとに続く。玄関先の照明のおかげで確認できる道に、光を吸収する黒い物体があった。拓馬は警戒する。しかしヤマダはそのまま直進しようとした。拓馬はとっさに彼女の腕を引く。
「待て、変なのがいる」
「え、どこに?」
ヤマダの目は異変を捉えていない。同じ体験は過去に数えきれないほどあった。
またたくまに黒い異形がサーッとその場を引いた。照明は見慣れた通路をいつも通りに照らしている。
「……もう、どっかに行ったみたいだ」
「なんだろね、今日は……」
ヤマダの「今日は」発言を受けた拓馬は不良とのもめ事を連想した。それが本日一番の大事件だ。だがあれはある程度予想ができたこと。異形が出現する現象とは同列にできない。
(べつのことを言ってる? ……あ)
事件のさなかに拓馬が見かけた男を想起した。学校側の処分方法に気を揉んだかわりに、すっかり忘却していた対象だ。
「デパートの男はともかく、いまのやつはお前を追いかけてきたのかもしんないな」
何者も拓馬を追跡していないことは、犬の散歩の時にわかっていた。
「んー、また変なのに気に入られたかな?」
「あとでシズカさんに伝えてみるか」
シズカとは拓馬が信頼する知人のあだ名だ。表面上は普通の警官だが、不可解な事件に取り組むすべを持っている。ヤマダも拓馬の提案に同調し、二人はヤマダ宅へ向かった。
タグ:拓馬
2017年10月17日
拓馬篇前記−拓馬5
拓馬はヤマダを無事に家まで送りとどけた。懇意であるヤマダの家族とは会わず、すぐに帰宅する。玄関には白黒の飼い犬が待っていた。ほどほどに撫でてやる。皮膚に近い内側の毛は温かいが、外側の被毛は冷えている。
「もー部屋に入っとけ、な」
拓馬はリビングの戸を開けた。入室せずに立っていると犬がみずから暖かい室内へ入る。利口なやつだ。尻尾が引き戸のレール上を通過した頃合いに拓馬も進む。はたと足を止めた。ほかにも部屋へ入れるべきものがある。ヤマダがくれたパンだ。拓馬は下足棚の上に仮置きした紙袋をつかむ。
(今日中に食べないとな)
廃棄のタイミングを二度逃したものだ。明日になったら本当に棄てるはめになるかもしれない。リビング続きの台所にいる母に紙袋を見せ、その旨を伝えたあと、拓馬は自室へ行った。
自分専用のパソコンデスクの椅子に座った。連絡相手は就業時間の不安定な警官である。まずは話せる状況なのか確認する目的で携帯電話を操作した。電話はかけずに文章で伝えておき、返信を待つ。
拓馬はシズカと込み入った会話をする時はパソコンでやり取りすると決めていた。その支度としてパソコンの電源を入れるのはもちろんのこと、足元に設置した電気ヒーターを稼働し、椅子の背もたれにかけた室内用の上着を羽織った。
今日のシズカが携帯電話さえ確認できない可能性もある。時間を浪費しないために学校の宿題をやっておこうと拓馬は思った。数学の問題を解こうとして鞄を探す。するとパソコンからピコピコと電子音が鳴った。拓馬を通信相手として登録する者が鳴らす音だ。
拓馬はパソコンにヘッドホンを接続し、それを耳にあてた。
『こんばんは、拓馬くん。どんなことがあったか詳しく話せるかい』
拓馬はシズカに今日あったことを洗いざらい打ち明けた。一通り話し終え、シズカが不良との格闘を『豪儀だね』と感嘆する。拓馬は恥ずかしくなる。
「そこは問題じゃあないんです」
『わかってる。大きな体の男の人と、黒い生き物が危ないかもしれないってことだね』
「危険なのかわからないですけど、シズカさんには報告しておきたかったんです」
『うん、きみはおれが見えない人外も見えるからね。なんでも言ってくれるとありがたい』
「それで、どうします? ほうっておいても大丈夫だとは思うけど」
ヤマダが人外を引き連れることはたびたびあった。彼女は生まれつき異形に好かれるタイプだ。その魅力につられて亡くなった人物がついてきたり、妖怪のような生き物がくっついたりする。時間が経てば人外たちはヤマダに飽きて去っていく。放置してもよいのだが、あまり相手がしつこく居座るとヤマダが体調不良を起こす。その点、シズカに依頼すれば早期に人外を追い払える。拓馬はその判断を仰いだ。
『ヤマダさんにはアオちゃんを送るよ。茶色のワンコだ。それと拓馬くんには探索も兼ねてウーちゃんを預けよう。こっちは猫だ』
シズカが派遣するのは普通の動物ではない。彼が友と称する、化け物の類だ。この世界とは異なる世界へ訪れた際にシズカが仲間にした生物であり、世界を超えて呼び出すことができる。その能力は異世界においてありふれたものだという。ただしこちらの世界で使いこなす人は少ないそうだ。
『いっぺん二体とも拓馬くんの部屋に行かせる。着いたらおしえてね』
シズカの声が遠のいた。拓馬は一度ヘッドホンを外す。シズカの使いは部屋の窓に現れるため、窓をながめた。
(シズカさん、真剣に聞いてくれたな)
今日出会った人外はあまり危険性がないように拓馬には感じられた。そのことはシズカに伝えてある。本当に厄介な場合、拓馬が存在を見抜いた程度ではいなくならないのだ。
(何日かすぎたら猫たちに帰ってもらおう)
シズカと拓馬の家は離れている。シズカは隣県の人だ。普通の交通手段では最低でも一時間かかるだろう。だがシズカの使いには尋常でない速度で移動できる個体がいた。
五分と経たぬうちに部屋の窓に白く丸いものがひょっこり現れる。鳥の頭だ。形はカラスに似ている。その左右に黒猫と茶色のサモエド似の尨犬(むくいぬ)も並んだ。拓馬はヘッドホンを装着する。
「三体来ました。白いカラスのほかに、犬と猫です」
『よし、じゃあカラス以外がそっちに残るよ』
カラスと犬は窓から消える。黒猫が窓のガラスをすりぬけてきた。
「猫は、ずっと俺のとこにいるんですか?」
『今晩は念のために居させてくれ。なにも起きなかったら調査に回すから』
「はい、わかりました」
『ヤマダさんが不安がっているなら、彼女にもこのことは伝えてほしい。かわいいワンコがそばで守ってるってね』
「見えもさわれもしないのに『かわいい』犬がいると知らせたら、あいつは生殺しの気分になりますよ」
シズカの友らは通常、人には見えない姿で活動する。幽霊と同じだ。幽霊との違いは常人にも見える姿に変化できること。その変化は生身の動物に擬態するか危険物と相対した時に限定された。
『あはは、そのへんのニュアンスは拓馬くんに任せるよ。じゃ、ほかにおれに言うことはないかな?』
「はい、どうもありがとうございます」
『じゃあね、おやすみー』
通信は切れた。拓馬はパソコンの稼働を終了させる。あとにはベッドの端に座る黒猫が残った。布団やシーツに物が乗るとその近辺にシワが寄るはずだが、猫の回りにはない。それがこの動物に実体がないことを証明した。
「もー部屋に入っとけ、な」
拓馬はリビングの戸を開けた。入室せずに立っていると犬がみずから暖かい室内へ入る。利口なやつだ。尻尾が引き戸のレール上を通過した頃合いに拓馬も進む。はたと足を止めた。ほかにも部屋へ入れるべきものがある。ヤマダがくれたパンだ。拓馬は下足棚の上に仮置きした紙袋をつかむ。
(今日中に食べないとな)
廃棄のタイミングを二度逃したものだ。明日になったら本当に棄てるはめになるかもしれない。リビング続きの台所にいる母に紙袋を見せ、その旨を伝えたあと、拓馬は自室へ行った。
自分専用のパソコンデスクの椅子に座った。連絡相手は就業時間の不安定な警官である。まずは話せる状況なのか確認する目的で携帯電話を操作した。電話はかけずに文章で伝えておき、返信を待つ。
拓馬はシズカと込み入った会話をする時はパソコンでやり取りすると決めていた。その支度としてパソコンの電源を入れるのはもちろんのこと、足元に設置した電気ヒーターを稼働し、椅子の背もたれにかけた室内用の上着を羽織った。
今日のシズカが携帯電話さえ確認できない可能性もある。時間を浪費しないために学校の宿題をやっておこうと拓馬は思った。数学の問題を解こうとして鞄を探す。するとパソコンからピコピコと電子音が鳴った。拓馬を通信相手として登録する者が鳴らす音だ。
拓馬はパソコンにヘッドホンを接続し、それを耳にあてた。
『こんばんは、拓馬くん。どんなことがあったか詳しく話せるかい』
拓馬はシズカに今日あったことを洗いざらい打ち明けた。一通り話し終え、シズカが不良との格闘を『豪儀だね』と感嘆する。拓馬は恥ずかしくなる。
「そこは問題じゃあないんです」
『わかってる。大きな体の男の人と、黒い生き物が危ないかもしれないってことだね』
「危険なのかわからないですけど、シズカさんには報告しておきたかったんです」
『うん、きみはおれが見えない人外も見えるからね。なんでも言ってくれるとありがたい』
「それで、どうします? ほうっておいても大丈夫だとは思うけど」
ヤマダが人外を引き連れることはたびたびあった。彼女は生まれつき異形に好かれるタイプだ。その魅力につられて亡くなった人物がついてきたり、妖怪のような生き物がくっついたりする。時間が経てば人外たちはヤマダに飽きて去っていく。放置してもよいのだが、あまり相手がしつこく居座るとヤマダが体調不良を起こす。その点、シズカに依頼すれば早期に人外を追い払える。拓馬はその判断を仰いだ。
『ヤマダさんにはアオちゃんを送るよ。茶色のワンコだ。それと拓馬くんには探索も兼ねてウーちゃんを預けよう。こっちは猫だ』
シズカが派遣するのは普通の動物ではない。彼が友と称する、化け物の類だ。この世界とは異なる世界へ訪れた際にシズカが仲間にした生物であり、世界を超えて呼び出すことができる。その能力は異世界においてありふれたものだという。ただしこちらの世界で使いこなす人は少ないそうだ。
『いっぺん二体とも拓馬くんの部屋に行かせる。着いたらおしえてね』
シズカの声が遠のいた。拓馬は一度ヘッドホンを外す。シズカの使いは部屋の窓に現れるため、窓をながめた。
(シズカさん、真剣に聞いてくれたな)
今日出会った人外はあまり危険性がないように拓馬には感じられた。そのことはシズカに伝えてある。本当に厄介な場合、拓馬が存在を見抜いた程度ではいなくならないのだ。
(何日かすぎたら猫たちに帰ってもらおう)
シズカと拓馬の家は離れている。シズカは隣県の人だ。普通の交通手段では最低でも一時間かかるだろう。だがシズカの使いには尋常でない速度で移動できる個体がいた。
五分と経たぬうちに部屋の窓に白く丸いものがひょっこり現れる。鳥の頭だ。形はカラスに似ている。その左右に黒猫と茶色のサモエド似の尨犬(むくいぬ)も並んだ。拓馬はヘッドホンを装着する。
「三体来ました。白いカラスのほかに、犬と猫です」
『よし、じゃあカラス以外がそっちに残るよ』
カラスと犬は窓から消える。黒猫が窓のガラスをすりぬけてきた。
「猫は、ずっと俺のとこにいるんですか?」
『今晩は念のために居させてくれ。なにも起きなかったら調査に回すから』
「はい、わかりました」
『ヤマダさんが不安がっているなら、彼女にもこのことは伝えてほしい。かわいいワンコがそばで守ってるってね』
「見えもさわれもしないのに『かわいい』犬がいると知らせたら、あいつは生殺しの気分になりますよ」
シズカの友らは通常、人には見えない姿で活動する。幽霊と同じだ。幽霊との違いは常人にも見える姿に変化できること。その変化は生身の動物に擬態するか危険物と相対した時に限定された。
『あはは、そのへんのニュアンスは拓馬くんに任せるよ。じゃ、ほかにおれに言うことはないかな?』
「はい、どうもありがとうございます」
『じゃあね、おやすみー』
通信は切れた。拓馬はパソコンの稼働を終了させる。あとにはベッドの端に座る黒猫が残った。布団やシーツに物が乗るとその近辺にシワが寄るはずだが、猫の回りにはない。それがこの動物に実体がないことを証明した。
タグ:拓馬
2017年10月18日
拓馬篇前記−校長1
授業のない休日、学校には部活動にいそしむ生徒が集まる。その様子を一人の中年が見ていった。彼は才穎高校の羽田校長。業務はないが、部活動中の生徒を観察しに学校に訪れる。生徒の活き活きした姿は校長に活力を与えた。
(よし、今日もバスケ部は快調だった)
校長は体育館を拠点とする運動部員を見終えたばかり。とくにバスケ部所属の男子の動向に注目した。その男子はスポーツの技能の高さとルックスの良さによって人気を博す。マネージャーを務める女子の目当てでもあるともっぱら評判だ。
(これで赤点をとらなければいいんだが……)
彼は容姿と運動神経に優れる反面、頭は残念ときている。女子とのお付き合いが長続きしないのも、距離をちぢめすぎたことで目の当たりにする彼の馬鹿っぷりが原因だという。
(天は二物を与えず、とはよく言ったものだ)
天は人間にたくさんの長所を与えない。この言葉を否定する人は世の中にいるが、校長はおおむね異論を抱かなかった。完全無欠のように思えてもなにかが足りない生徒がいるのだ。容姿と運動神経、それに知性と人格も備えていながら、校長の思惑通りにいかない生徒が。
(仙谷三郎くんは本当に惜しい。ぜんぜん色恋に興味がないとは、不健全だ)
仙谷は一年生男子の有望な生徒である。剣道部員という経歴もまたかっこよさを際立たせていた。だが浮いた話が出ない。彼に思いを寄せる女子は多数いるにも関わらず、入学から一年近く経過しても恋人ができたとはとんと聞かなかった。
(彼のお姉さんもそうだったなぁ)
仙谷の姉は仙谷直子という才穎高校の卒業生。彼女も弟同様に恵まれた資質を有していながら恋話の提供には消極的姿勢をつらぬいた。
(血は争えないということか……?)
風の便りによると現在の彼女は警察官となり、職場の男性と親しいのだという。直子の場合、当時の彼女に見合う男子が不在だったとも言える。実際、校長は直子の同世代のうち、今なお印象に残る男子を思いつけなかった。
(直子くんは環境に恵まれなかったとしても……弟くんはそんなことはない!)
校長は自分専用の部屋──校長室へ入る。校舎ではめずらしく絨毯を敷きつめた一室だ。部屋の壁際に設置した本棚からファイルを一つ出す。それは学校関係の資料ではない。超個人的な資料集だ。「要チェック」のタグをつけた項目へ飛ぶ。そこに仙谷三郎をとりまく人物の解説が自筆で記録してあった。
仙谷と関連する主立った女子生徒は四名。一人は上級生、生徒会長を務める成績良好の子だ。彼女がもっとも仙谷への熱意をあらわにする。それに続くのが仙谷の同級生である良家の娘。彼女も仙谷を好いていることを公表する。この二人は男子人気が高く、魅力は十二分にある。残りの二人は仙谷への思いが不明確なものの、仙谷とは仲の良い同学年女子だ。一人はスポーツ万能の幼馴染、一人は仙谷と馬の合う生徒。とくに最後の女子は仙谷と同等に手強い、校長にとっての好敵手だ。
(これだけ個性的な子がそろっていながら……なげかわしい)
仙谷の世代には過去に類を見ないほどユニークな生徒がいる。そして来年度からの転入生も控えている。この女子も癖の強そうな子だった。
(次の年のクラス構成は攻めていくぞ!)
一年生はどうしても前情報が乏しい。クラスメイトには同じ出身校の者を固めるくらいしか融通がきかなかった。入学後の一年の間に情報収集しておき、二年生以降はベストな二人組が一組でも多く誕生するようクラス編成する。それがこの時期の校長が重要視する任務だ。
そのためには生徒にアンケートの回答をさせる。そのアンケートには次のクラスでも一緒になりたい友人を教えてもらい、大勢が納得する組み合わせに落としこむ目的がある。多くは同性の友人が記入された。だがもし異性の名前があったならその者とのセットは最優先にする。これらは校長の趣味から端を発した調査といえど、生徒には好評だった。
校長はアンケートを生徒にとらせる手順を考えた。クラス担任が生徒に配布する日はいつにするか。その用紙の印刷は誰にまかせるか、といった具合に。
コンコンと扉をノックされる。校長はファイルをあわてて閉じ、本棚へもどす。「どうぞ」と入室をうながすと別のファイルを手にする。さも今までその資料に目を通していたかのようにふるまった。
入室してきたのは一年生のクラス担任の女性。久間という教師は長方形の紙を見せる。
「校長、郵便受けにお手紙が入っていました。また、送り主がわかりませんけど……」
その手紙は校長の知り合いが送るもの。押印もないそれを久間は怪しんだ。
「私の手足となって教えてくれる人だよ」
「……この手紙を書く人がだれなのか教えてくれませんよね?」
「それは久間先生でも教えられない。敵を騙すにはまず味方から、と言うじゃないかね」
「だれが敵なんです?」
「なに、敵は敵でも良きライバルのほうだ」
校長は用のないファイルを棚に収納し、手紙を開封する。ざっと目を通した。今回のネタはあまり歓迎できない内容だ。退室しようとする久間を呼び止める。
「久間先生、月曜日の昼休みに校長室まで呼び出していただきたい生徒がいます」
「え? いったい、どんな理由があって?」
「他校の生徒と喧嘩をしたそうです。それが真実なのか問いたださなくては」
校長はこの一件に関わったとされる生徒の名前を読みあげた。この中に仙谷三郎の名があったことを、別段特異には感じなかった。その行為にいたるまでのいきさつも手紙には載ってある。それは仙谷を駆りたてるに充分な理由に思えた。
(良い子なんだが、シメるべきところはシメなくてはね)
それが子どもを導く教師、ひいては大人の務めである。趣味にうつつを抜かしてならないと、この時は自戒した。
(よし、今日もバスケ部は快調だった)
校長は体育館を拠点とする運動部員を見終えたばかり。とくにバスケ部所属の男子の動向に注目した。その男子はスポーツの技能の高さとルックスの良さによって人気を博す。マネージャーを務める女子の目当てでもあるともっぱら評判だ。
(これで赤点をとらなければいいんだが……)
彼は容姿と運動神経に優れる反面、頭は残念ときている。女子とのお付き合いが長続きしないのも、距離をちぢめすぎたことで目の当たりにする彼の馬鹿っぷりが原因だという。
(天は二物を与えず、とはよく言ったものだ)
天は人間にたくさんの長所を与えない。この言葉を否定する人は世の中にいるが、校長はおおむね異論を抱かなかった。完全無欠のように思えてもなにかが足りない生徒がいるのだ。容姿と運動神経、それに知性と人格も備えていながら、校長の思惑通りにいかない生徒が。
(仙谷三郎くんは本当に惜しい。ぜんぜん色恋に興味がないとは、不健全だ)
仙谷は一年生男子の有望な生徒である。剣道部員という経歴もまたかっこよさを際立たせていた。だが浮いた話が出ない。彼に思いを寄せる女子は多数いるにも関わらず、入学から一年近く経過しても恋人ができたとはとんと聞かなかった。
(彼のお姉さんもそうだったなぁ)
仙谷の姉は仙谷直子という才穎高校の卒業生。彼女も弟同様に恵まれた資質を有していながら恋話の提供には消極的姿勢をつらぬいた。
(血は争えないということか……?)
風の便りによると現在の彼女は警察官となり、職場の男性と親しいのだという。直子の場合、当時の彼女に見合う男子が不在だったとも言える。実際、校長は直子の同世代のうち、今なお印象に残る男子を思いつけなかった。
(直子くんは環境に恵まれなかったとしても……弟くんはそんなことはない!)
校長は自分専用の部屋──校長室へ入る。校舎ではめずらしく絨毯を敷きつめた一室だ。部屋の壁際に設置した本棚からファイルを一つ出す。それは学校関係の資料ではない。超個人的な資料集だ。「要チェック」のタグをつけた項目へ飛ぶ。そこに仙谷三郎をとりまく人物の解説が自筆で記録してあった。
仙谷と関連する主立った女子生徒は四名。一人は上級生、生徒会長を務める成績良好の子だ。彼女がもっとも仙谷への熱意をあらわにする。それに続くのが仙谷の同級生である良家の娘。彼女も仙谷を好いていることを公表する。この二人は男子人気が高く、魅力は十二分にある。残りの二人は仙谷への思いが不明確なものの、仙谷とは仲の良い同学年女子だ。一人はスポーツ万能の幼馴染、一人は仙谷と馬の合う生徒。とくに最後の女子は仙谷と同等に手強い、校長にとっての好敵手だ。
(これだけ個性的な子がそろっていながら……なげかわしい)
仙谷の世代には過去に類を見ないほどユニークな生徒がいる。そして来年度からの転入生も控えている。この女子も癖の強そうな子だった。
(次の年のクラス構成は攻めていくぞ!)
一年生はどうしても前情報が乏しい。クラスメイトには同じ出身校の者を固めるくらいしか融通がきかなかった。入学後の一年の間に情報収集しておき、二年生以降はベストな二人組が一組でも多く誕生するようクラス編成する。それがこの時期の校長が重要視する任務だ。
そのためには生徒にアンケートの回答をさせる。そのアンケートには次のクラスでも一緒になりたい友人を教えてもらい、大勢が納得する組み合わせに落としこむ目的がある。多くは同性の友人が記入された。だがもし異性の名前があったならその者とのセットは最優先にする。これらは校長の趣味から端を発した調査といえど、生徒には好評だった。
校長はアンケートを生徒にとらせる手順を考えた。クラス担任が生徒に配布する日はいつにするか。その用紙の印刷は誰にまかせるか、といった具合に。
コンコンと扉をノックされる。校長はファイルをあわてて閉じ、本棚へもどす。「どうぞ」と入室をうながすと別のファイルを手にする。さも今までその資料に目を通していたかのようにふるまった。
入室してきたのは一年生のクラス担任の女性。久間という教師は長方形の紙を見せる。
「校長、郵便受けにお手紙が入っていました。また、送り主がわかりませんけど……」
その手紙は校長の知り合いが送るもの。押印もないそれを久間は怪しんだ。
「私の手足となって教えてくれる人だよ」
「……この手紙を書く人がだれなのか教えてくれませんよね?」
「それは久間先生でも教えられない。敵を騙すにはまず味方から、と言うじゃないかね」
「だれが敵なんです?」
「なに、敵は敵でも良きライバルのほうだ」
校長は用のないファイルを棚に収納し、手紙を開封する。ざっと目を通した。今回のネタはあまり歓迎できない内容だ。退室しようとする久間を呼び止める。
「久間先生、月曜日の昼休みに校長室まで呼び出していただきたい生徒がいます」
「え? いったい、どんな理由があって?」
「他校の生徒と喧嘩をしたそうです。それが真実なのか問いたださなくては」
校長はこの一件に関わったとされる生徒の名前を読みあげた。この中に仙谷三郎の名があったことを、別段特異には感じなかった。その行為にいたるまでのいきさつも手紙には載ってある。それは仙谷を駆りたてるに充分な理由に思えた。
(良い子なんだが、シメるべきところはシメなくてはね)
それが子どもを導く教師、ひいては大人の務めである。趣味にうつつを抜かしてならないと、この時は自戒した。
タグ:羽田校長
2017年10月19日
拓馬篇前記−校長2
床一面に絨毯を敷いた校長室に四人の男女がいる。一人は中年の校長だ。横幅が十二分にある机に両肘をつき、手を組む。その校長に対面するのが三人の若者。学生服を着た彼らは横一列に並び、直立している。部屋にはソファがあるものの、三人は座ろうとしない。ねんごろな会話をする状況ではないせいだ。
この場には四人の生徒が集まる予定だ。残る一人が来るまで皆は私語を慎んでいた。だが待つのを耐えきれなくなった少年が隣人に話しかける。
「……なんでジモンは来ないんだ? 三郎と一緒だったろ」
鼻骨にそばかすを浮かべた男子が小声で尋ねた。彼は根岸という、背はいささか小柄だが身体能力の高い空手家だ。
「雉を撃ちに行った」
三郎と呼ばれた少年も小声で答えた。彼の名字は仙谷。警察官の姉がいる剣道部員だ。徒手での武術にも素養があり、容姿に秀でるがために校内の女子人気が高い。そんな彼が放った返答は「トイレへ行った」という隠語だ。それも時間のかかるほうである。質問した根岸は「タイミングが悪いな」とぼやいた。
廊下から騒がしい足音が近づくと、彼らのイライラは消し飛んだ。
「失礼します! いや〜、遅れてすんません!」
体格のよい男子が大声をあげながら駆けこんできた。ジモンというあだ名の男子だ。ジモンはポニーテールの女子の隣に並ぶ。待ちぼうけていた少年たちはこの男子の遅刻を不問に付し、さっそく本題に入るよう視線で校長へ意見する。そのボディランゲージを校長はしかと受け止めた。組んだ手を机にトンと置く。
「これで全員がそろった。きみらが集まった理由はわかるかね?」
少年らは不安気な顔をする。背の高いジモンが上体をちぢこませて「人助けをした表彰……だったら嬉しいがの」と言った。校長は苦笑する。
「残念ながら表彰状の準備はしていないのだよ。私がきみらに渡せる紙と言ったら、これだ」
校長は机にある印刷紙の束から一枚を取り、生徒たちに見せた。仙谷は大きく目を見開く。その目は「反省文」と印字した部分に向いていた。
「反省文? なんでです、オレたちは良いことをしたでしょう。店に迷惑をかける連中を追い払ったんですよ」
「つまり、乱闘があったのは本当なのだね?」
「そうです、それは否定しません」
仙谷は臆面もなく認めた。とぼけることは彼の信条にもとる行為だ。その純真さをわかったうえで校長は厳しく接する。
「きみたちが不届きな輩に立ちむかった勇気は称賛したい。ただ……それが生徒諸君のするべき行動かね?」
「誰も行動しないからオレたちは動いたんです。店の人に『ありがとう』とも言われました。校長はオレたちになにを反省させようと言うのですか?」
「自分が正しければ暴力をふるって良いという、野蛮な考えを反省しなさい」
「それはなりゆきです。最初から拳で戦うつもりは無く──」
「結果は結果だ。それはどう言葉をつくろっても変えられない」
両者がゆずらぬ熱い討論の中、ジモンが「作文はイヤじゃなあ」とポニーテールの女子に話しかけた。彼女は小山田という、あらゆる方面で手強い少女だ。
「校長のご意見、よくわかりました! 過激なことをやったと反省してます。それで今日はお開きにしませんか?」
「小山田くんの了解を得ても仕方がない。主動者に約束してもらおう」
校長は仙谷が騒動の火付け役だと断定した。仙谷は人一倍正義感が強く、行動力もある好男子だ。ほかの三人はその友人。友人らは仙谷に焚きつけられた可能性が高かった。
校長に意見を求められた仙谷の腕を、隣にいる根岸がつつく。
「ここは折れとけ。昼飯を食う時間がなくなるぞ」
生徒たちは遅刻者以外、昼休みになった直後に校長室へ集合していた。午後の授業開始まで残った時間は三十分ほど。生徒たちが説教から解き放たれたいと切望する頃合いだ。
小山田が一歩前へ出る。校長に物申すかと思いきや、その顔は仙谷へ向く。
「そういやサブちゃん、シエちゃんがお弁当を用意してたよ。早く行ってあげないと」
シエとは仙谷を好く女子生徒のあだ名だ。本姓を神宮司といい、才色兼備の淑女なのだが仙谷との進展は無い。校長は「タイミングが悪い」という生徒の言葉を自分自身にも感じた。恋する少女が大胆なアタックをくりだそうとする時に、意中の人が手の届かない場所へ捕まっている。その無慈悲な拘束は校長がしかけたものだ。
「ねえ校長、乙女の恋路を邪魔しちゃまずいですよね?」
「む……そう来たか」
校長は男女の色恋沙汰をいたく好む。小山田は校長の特徴を逆手にとり、この場を脱しようというのだ。
「……行きなさい」
校長は弁当を作った少女の顔を立てた。万が一にもお弁当アタックが功を成すかもしれぬ。難攻不落の男子との交遊がはじまるかもしれぬ。と思えばこそ校長は体面を捨てた。
小山田が男子の背中を叩き「行こう!」と急かす。仙谷は一礼して「失礼します」と律儀に別れの挨拶をした。彼らの背に校長は教育者としての威厳を浴びせる。
「ただし後日、呼び出しがあっても文句は言わないように」
この場は見逃すが、彼らの罪は消え去っていないという含みがあった。生徒たちは素直な返事をしたあと、廊下を出る。一人残った校長は「手作りかな……」と仙谷が食すであろう弁当に予想を立てた。だがふぬけた思考に浸ってはいられない。
(一度叱って解決できることじゃない。あの子たちの担任に相談しよう)
不良とはいえぬ問題児たちの対処をする。その方法は一筋縄ではいかないと感じられた。
この場には四人の生徒が集まる予定だ。残る一人が来るまで皆は私語を慎んでいた。だが待つのを耐えきれなくなった少年が隣人に話しかける。
「……なんでジモンは来ないんだ? 三郎と一緒だったろ」
鼻骨にそばかすを浮かべた男子が小声で尋ねた。彼は根岸という、背はいささか小柄だが身体能力の高い空手家だ。
「雉を撃ちに行った」
三郎と呼ばれた少年も小声で答えた。彼の名字は仙谷。警察官の姉がいる剣道部員だ。徒手での武術にも素養があり、容姿に秀でるがために校内の女子人気が高い。そんな彼が放った返答は「トイレへ行った」という隠語だ。それも時間のかかるほうである。質問した根岸は「タイミングが悪いな」とぼやいた。
廊下から騒がしい足音が近づくと、彼らのイライラは消し飛んだ。
「失礼します! いや〜、遅れてすんません!」
体格のよい男子が大声をあげながら駆けこんできた。ジモンというあだ名の男子だ。ジモンはポニーテールの女子の隣に並ぶ。待ちぼうけていた少年たちはこの男子の遅刻を不問に付し、さっそく本題に入るよう視線で校長へ意見する。そのボディランゲージを校長はしかと受け止めた。組んだ手を机にトンと置く。
「これで全員がそろった。きみらが集まった理由はわかるかね?」
少年らは不安気な顔をする。背の高いジモンが上体をちぢこませて「人助けをした表彰……だったら嬉しいがの」と言った。校長は苦笑する。
「残念ながら表彰状の準備はしていないのだよ。私がきみらに渡せる紙と言ったら、これだ」
校長は机にある印刷紙の束から一枚を取り、生徒たちに見せた。仙谷は大きく目を見開く。その目は「反省文」と印字した部分に向いていた。
「反省文? なんでです、オレたちは良いことをしたでしょう。店に迷惑をかける連中を追い払ったんですよ」
「つまり、乱闘があったのは本当なのだね?」
「そうです、それは否定しません」
仙谷は臆面もなく認めた。とぼけることは彼の信条にもとる行為だ。その純真さをわかったうえで校長は厳しく接する。
「きみたちが不届きな輩に立ちむかった勇気は称賛したい。ただ……それが生徒諸君のするべき行動かね?」
「誰も行動しないからオレたちは動いたんです。店の人に『ありがとう』とも言われました。校長はオレたちになにを反省させようと言うのですか?」
「自分が正しければ暴力をふるって良いという、野蛮な考えを反省しなさい」
「それはなりゆきです。最初から拳で戦うつもりは無く──」
「結果は結果だ。それはどう言葉をつくろっても変えられない」
両者がゆずらぬ熱い討論の中、ジモンが「作文はイヤじゃなあ」とポニーテールの女子に話しかけた。彼女は小山田という、あらゆる方面で手強い少女だ。
「校長のご意見、よくわかりました! 過激なことをやったと反省してます。それで今日はお開きにしませんか?」
「小山田くんの了解を得ても仕方がない。主動者に約束してもらおう」
校長は仙谷が騒動の火付け役だと断定した。仙谷は人一倍正義感が強く、行動力もある好男子だ。ほかの三人はその友人。友人らは仙谷に焚きつけられた可能性が高かった。
校長に意見を求められた仙谷の腕を、隣にいる根岸がつつく。
「ここは折れとけ。昼飯を食う時間がなくなるぞ」
生徒たちは遅刻者以外、昼休みになった直後に校長室へ集合していた。午後の授業開始まで残った時間は三十分ほど。生徒たちが説教から解き放たれたいと切望する頃合いだ。
小山田が一歩前へ出る。校長に物申すかと思いきや、その顔は仙谷へ向く。
「そういやサブちゃん、シエちゃんがお弁当を用意してたよ。早く行ってあげないと」
シエとは仙谷を好く女子生徒のあだ名だ。本姓を神宮司といい、才色兼備の淑女なのだが仙谷との進展は無い。校長は「タイミングが悪い」という生徒の言葉を自分自身にも感じた。恋する少女が大胆なアタックをくりだそうとする時に、意中の人が手の届かない場所へ捕まっている。その無慈悲な拘束は校長がしかけたものだ。
「ねえ校長、乙女の恋路を邪魔しちゃまずいですよね?」
「む……そう来たか」
校長は男女の色恋沙汰をいたく好む。小山田は校長の特徴を逆手にとり、この場を脱しようというのだ。
「……行きなさい」
校長は弁当を作った少女の顔を立てた。万が一にもお弁当アタックが功を成すかもしれぬ。難攻不落の男子との交遊がはじまるかもしれぬ。と思えばこそ校長は体面を捨てた。
小山田が男子の背中を叩き「行こう!」と急かす。仙谷は一礼して「失礼します」と律儀に別れの挨拶をした。彼らの背に校長は教育者としての威厳を浴びせる。
「ただし後日、呼び出しがあっても文句は言わないように」
この場は見逃すが、彼らの罪は消え去っていないという含みがあった。生徒たちは素直な返事をしたあと、廊下を出る。一人残った校長は「手作りかな……」と仙谷が食すであろう弁当に予想を立てた。だがふぬけた思考に浸ってはいられない。
(一度叱って解決できることじゃない。あの子たちの担任に相談しよう)
不良とはいえぬ問題児たちの対処をする。その方法は一筋縄ではいかないと感じられた。
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2017年10月20日
拓馬篇前記ー校長3
校長室に一年生の担任が二人招集された。一人は仙谷を受け持つ男性教師。彼は功刀(くぬぎ)といい、普段は物腰柔らかな性分だった。今は男性らしい剛健さをまとっている。もう一人は久間という女性教師。彼女は仙谷以外の三人を受け持つ。気立てが優しい常識人だ。
教師らはソファに座り、テーブルをはさんだ真向いに校長が座る。
「お二方に集まってもらったのはほかでもない、仙谷くんたちのことなんだがね」
功刀が「はい」と神妙に答える。
「事情は聞いています。他校の生徒とのトラブルがあった、と」
「そうなのだよ。他校の者が迷惑行為を長期にわたってし続け、それを仙谷くんたちがやめさせようとした」
「非は全面的に他校の生徒にあります。このことで仙谷たちを責めるのは気が進みません」
久間が「同意見です」と賛同した。校長も「気持ちはわかる」と二人の心を汲む。
「彼らが善良な心根を持つがゆえの行動だ。それはいい。だが乱暴な行為を認めるわけにはいかない」
校長が糾弾することは危険な行為、その一点。教師らは異を唱えない。
「今回は怪我人がいなかったようだが、次はどうかわからん。いずれまた同じ騒動が起きて、取り返しのつかない事態になってからでは遅い」
「再発を防ぐ方法は、あるんでしょうか?」
功刀がそう言ったきり、三人は黙った。主原因が外部にあるかぎり内部努力は効果的でない。校長は苦々しい声で「難しいね」とつぶやく。
「仙谷くんの熱意をおさえればいいんだろうが、それでは彼の良さを潰すことになる」
二人の担任はうなずいた。学校における仙谷は優等生そのもの。行事には率先して加わり、他者のいさかいを見れば仲を取り持ち、彼がいることで円滑に事が運んだことは多々ある。それらの動機は「皆の役に立ちたい」との思いから生まれる。その長所が不良退治にも活かされただけなのだ。
「他校の生徒の素行を正すのは、もっと難しい」
黙っていた久間が「そうですね」と同調する。
「仮に他校の先生がたへ、問題行為のある生徒の指導をお願いしても……『それができればとっくにやってる』と言われそうです」
「子どもたちの行動を変えさせるのは現実的でない、ということかな」
「はい。できるとしたら、この才穎の教員がうちの生徒を見守るくらいでしょうか」
「放課後や休日も?」
「毎日は厳しいですね。でも、事件が起きそうな時期を察知できるかも」
「ほう、どうやって?」
「校長先生の情報網を使って」
校長は盲点を突かれた。たしかに校長には生徒たちの近況を知らせる仲間がいる。しかし不良がたむろする場所を特定することは、その近辺に仲間を派遣することにつながる。仲間も危険にさらすはめになる。それでは元も子もない。仲間の中には現役の生徒もいる。
「少しリスクがあるな。私が雇う情報屋を危険な場所へやることはできない」
「できる範囲でいいんです。その情報屋さんがどんな人なのか知りませんが、主婦の噂話を拾うくらいでも」
「それはわかった、善処しよう。でも『どこそこに不良が出没する』と知ったとして、だれが対処するのだね?」
久間は返答に窮した。非力な彼女が不良をどうこうする技術を持つはずはなく、功刀も屈強とは言えない。
「……八巻先生はいかがです?」
功刀が提案したのは武芸の心得のある若い男性教師だ。体格もよく、彼なら荒っぽいことにも対応できるだろう。性格は仙谷に通じる部分があり、仙谷たちとの意思疎通の面でも不足はない。ただ現在の八巻は休職中だ。彼は半年前に交通事故に遭い、生死の境をさまよう重体を経ている。医者に言わせれば「生きていることが奇跡」という状態から復活を遂げた人だ。
「八巻先生は……いまどんな状態だろうか? 骨折は治ったそうだが」
「体に入れたボルトやプレートの除去をしに入院しているそうです」
「ふうむ、新学期から復帰できると考えてよいのかね?」
「そのように聞いています。ですが一度お会いになってはどうでしょう」
「そうだな、見舞いもかねて行ってみよう。彼に仙谷くんたちの監督を任せてもよいか、私が交渉する」
方針が一つ決まった。外はまだ明るい。校長はさっそく会いに行くことにし、その支度を整えはじめた。
教師らはソファに座り、テーブルをはさんだ真向いに校長が座る。
「お二方に集まってもらったのはほかでもない、仙谷くんたちのことなんだがね」
功刀が「はい」と神妙に答える。
「事情は聞いています。他校の生徒とのトラブルがあった、と」
「そうなのだよ。他校の者が迷惑行為を長期にわたってし続け、それを仙谷くんたちがやめさせようとした」
「非は全面的に他校の生徒にあります。このことで仙谷たちを責めるのは気が進みません」
久間が「同意見です」と賛同した。校長も「気持ちはわかる」と二人の心を汲む。
「彼らが善良な心根を持つがゆえの行動だ。それはいい。だが乱暴な行為を認めるわけにはいかない」
校長が糾弾することは危険な行為、その一点。教師らは異を唱えない。
「今回は怪我人がいなかったようだが、次はどうかわからん。いずれまた同じ騒動が起きて、取り返しのつかない事態になってからでは遅い」
「再発を防ぐ方法は、あるんでしょうか?」
功刀がそう言ったきり、三人は黙った。主原因が外部にあるかぎり内部努力は効果的でない。校長は苦々しい声で「難しいね」とつぶやく。
「仙谷くんの熱意をおさえればいいんだろうが、それでは彼の良さを潰すことになる」
二人の担任はうなずいた。学校における仙谷は優等生そのもの。行事には率先して加わり、他者のいさかいを見れば仲を取り持ち、彼がいることで円滑に事が運んだことは多々ある。それらの動機は「皆の役に立ちたい」との思いから生まれる。その長所が不良退治にも活かされただけなのだ。
「他校の生徒の素行を正すのは、もっと難しい」
黙っていた久間が「そうですね」と同調する。
「仮に他校の先生がたへ、問題行為のある生徒の指導をお願いしても……『それができればとっくにやってる』と言われそうです」
「子どもたちの行動を変えさせるのは現実的でない、ということかな」
「はい。できるとしたら、この才穎の教員がうちの生徒を見守るくらいでしょうか」
「放課後や休日も?」
「毎日は厳しいですね。でも、事件が起きそうな時期を察知できるかも」
「ほう、どうやって?」
「校長先生の情報網を使って」
校長は盲点を突かれた。たしかに校長には生徒たちの近況を知らせる仲間がいる。しかし不良がたむろする場所を特定することは、その近辺に仲間を派遣することにつながる。仲間も危険にさらすはめになる。それでは元も子もない。仲間の中には現役の生徒もいる。
「少しリスクがあるな。私が雇う情報屋を危険な場所へやることはできない」
「できる範囲でいいんです。その情報屋さんがどんな人なのか知りませんが、主婦の噂話を拾うくらいでも」
「それはわかった、善処しよう。でも『どこそこに不良が出没する』と知ったとして、だれが対処するのだね?」
久間は返答に窮した。非力な彼女が不良をどうこうする技術を持つはずはなく、功刀も屈強とは言えない。
「……八巻先生はいかがです?」
功刀が提案したのは武芸の心得のある若い男性教師だ。体格もよく、彼なら荒っぽいことにも対応できるだろう。性格は仙谷に通じる部分があり、仙谷たちとの意思疎通の面でも不足はない。ただ現在の八巻は休職中だ。彼は半年前に交通事故に遭い、生死の境をさまよう重体を経ている。医者に言わせれば「生きていることが奇跡」という状態から復活を遂げた人だ。
「八巻先生は……いまどんな状態だろうか? 骨折は治ったそうだが」
「体に入れたボルトやプレートの除去をしに入院しているそうです」
「ふうむ、新学期から復帰できると考えてよいのかね?」
「そのように聞いています。ですが一度お会いになってはどうでしょう」
「そうだな、見舞いもかねて行ってみよう。彼に仙谷くんたちの監督を任せてもよいか、私が交渉する」
方針が一つ決まった。外はまだ明るい。校長はさっそく会いに行くことにし、その支度を整えはじめた。
タグ:羽田校長
2017年10月21日
拓馬篇前記ー校長4
「二人部屋か……」
校長は総合病院の病室前にいた。壁にあるネームプレートは二つ。当たり前だがどちらも男性の名前だ。以前、八巻を訪ねた時は個室だった。今日も一対一で話せると思ってきたのだが、同室者がいるとなれば腹を割って話すことはためらわれた。
(なに、恥じることはない。うちの生徒は良い子なのだから)
仙谷たちは元気がよすぎるだけ。その手綱をうまく操ってほしいと八巻に頼む。その大筋に沿って会話を展開しよう、と校長はあらためて思った。
引き戸を軽くノックする。返事はないが入室した。学校を出発する際に、これから病院へ行くことは八巻に伝えてあった。
「あ、校長!」
久しい声が聞こえる。八巻は部屋の手前のベッドにいた。かつては赤色を混ぜた髪が真っ黒に変わっている。染髪は教師生徒ともに学校で禁止していないので彼の行ないに問題はない。大怪我をした間は髪染めをする気にならなかったのだろう。自身の負傷を「一生の不覚」と談じ、恥じ入っていた。
八巻は背もたれと化したリクライニングベッドに寄りかかっている。活力に満ちた顔つきは以前と比べものにならない。事故当時はこの世の終わりかとばかりに落ちこんでいた男だ。心身ともに立ちなおったようで、校長はほっとした。
「八巻くん、元気そうでよかった」
次に校長は八巻と同室になった者の様子をうかがおうとした。窓側のベッドは部屋中央の天井から吊るしたカーテンによってさえぎられている。人がいるのかよくわからない。
「隣りの人なら寝ていますよ。人がきたら話しかけてくるんで」
「へえ、気さくな人なのだね」
校長は備え付けの丸椅子に座った。ベッドのそばに車椅子があることに気付く。
「おや、歩けないのかな?」
「なるべく足に体重をかけないようにと注意を受けています。なにせ骨を支えていた物を抜きましたから」
「そうか……いつごろ復帰できそうかね? 四月からまたうちに来てほしいのだが」
「除去手術の入院は一週間で終わる予定です。じゅうぶん間に合いますよ」
自信満々の返答だ。校長は気を良くし、差し入れの紙袋を手渡す。中身は旬の苺のパックだ。
「ではいまのうちに英気を養っておいてくれ。次年度はきみにがんばってもらいたいことがあってね」
「はぁ、恋話以外ならなんでも」
八巻は仙谷と通じるものがあり、偉丈夫でいながら浮いた話に縁がない。彼の場合は職務上の出会いが少ないせいだった。学校職員の女性は男性と同程度いるが、異性の教員は仕事仲間、まして女子生徒を色目で見ることは言語道断だとする高潔な教師だ。彼の公私を分ける性格は好ましい長所だと校長は思っている。しかし、校長個人の観点ではおもしろみに欠けた。
「現一年生に、喧嘩っ早いと言っていいのか、とにかくやんちゃな子がいるのだよ。その指導と見守りをきみにお願いしたい」
「ケンカ、ですか。そんな素行の悪い生徒がいるとは……」
「ややこしいだろうが素行は良い子なんだ。外部のマナーの悪い子に注意をして、それから乱闘に発展する始末で」
「なるほど、うちの生徒は正しいことをしていると」
「根本的には逆ギレする子が悪い。かといってまた同じ争いごとを起こされても困る。どちらの子も怪我をしちゃ、後味が良くないだろう?」
「そういうことでしたら引き受けます。ですが心配事が──」
「なんだね?」
「体は治りましたが体力のほうは本調子じゃありません。元気な生徒たちに追いつける自信がまだないんです」
もっともな懸念だ。一年の半分をベッドの上ですごした人物が、急に全力疾走をこなせるはずはない。
「それは慌てなくていい。きみのペースで体力をもどしていってほしい」
「それまでその生徒たちが大人しくしているか……」
「反省文を書かせそびれたことだし、いつでも呼出しはできる。あやしい動きが見えたら牽制してみよう」
話しの目途が立ったところ、病室の戸がノックされる。入ってきたのは私服の若い女性だ。病院関係者ではなさそうな彼女は校長たちにお辞儀した。校長らもお辞儀をやり返し、女性は窓側のベッドへと行く。「リュウちゃん、ねてるの?」と親しげに同室者へ話しかける様子から、校長はその二人がカップルでないかと勘繰る。
「どういう御関係の人かね?」
校長はこっそり八巻に聞いた。八巻は伏し目がちに「話に聞いていた奥さんだと思います」と答える。
「いいですね、あの年でもう運命の人に巡りあえているとは」
「きみは男前なんだから、そのうち良い女性に出会えるとも」
八巻はふっと笑った。なんだか心当たりのありそうな反応である。
「お? この病院にいる間に、良い人を見つけたかね?」
「その、人かまぼろしかはわかりませんが、一人……」
校長は最初の目的とは異なる会話へのめりこんでいった。
校長は総合病院の病室前にいた。壁にあるネームプレートは二つ。当たり前だがどちらも男性の名前だ。以前、八巻を訪ねた時は個室だった。今日も一対一で話せると思ってきたのだが、同室者がいるとなれば腹を割って話すことはためらわれた。
(なに、恥じることはない。うちの生徒は良い子なのだから)
仙谷たちは元気がよすぎるだけ。その手綱をうまく操ってほしいと八巻に頼む。その大筋に沿って会話を展開しよう、と校長はあらためて思った。
引き戸を軽くノックする。返事はないが入室した。学校を出発する際に、これから病院へ行くことは八巻に伝えてあった。
「あ、校長!」
久しい声が聞こえる。八巻は部屋の手前のベッドにいた。かつては赤色を混ぜた髪が真っ黒に変わっている。染髪は教師生徒ともに学校で禁止していないので彼の行ないに問題はない。大怪我をした間は髪染めをする気にならなかったのだろう。自身の負傷を「一生の不覚」と談じ、恥じ入っていた。
八巻は背もたれと化したリクライニングベッドに寄りかかっている。活力に満ちた顔つきは以前と比べものにならない。事故当時はこの世の終わりかとばかりに落ちこんでいた男だ。心身ともに立ちなおったようで、校長はほっとした。
「八巻くん、元気そうでよかった」
次に校長は八巻と同室になった者の様子をうかがおうとした。窓側のベッドは部屋中央の天井から吊るしたカーテンによってさえぎられている。人がいるのかよくわからない。
「隣りの人なら寝ていますよ。人がきたら話しかけてくるんで」
「へえ、気さくな人なのだね」
校長は備え付けの丸椅子に座った。ベッドのそばに車椅子があることに気付く。
「おや、歩けないのかな?」
「なるべく足に体重をかけないようにと注意を受けています。なにせ骨を支えていた物を抜きましたから」
「そうか……いつごろ復帰できそうかね? 四月からまたうちに来てほしいのだが」
「除去手術の入院は一週間で終わる予定です。じゅうぶん間に合いますよ」
自信満々の返答だ。校長は気を良くし、差し入れの紙袋を手渡す。中身は旬の苺のパックだ。
「ではいまのうちに英気を養っておいてくれ。次年度はきみにがんばってもらいたいことがあってね」
「はぁ、恋話以外ならなんでも」
八巻は仙谷と通じるものがあり、偉丈夫でいながら浮いた話に縁がない。彼の場合は職務上の出会いが少ないせいだった。学校職員の女性は男性と同程度いるが、異性の教員は仕事仲間、まして女子生徒を色目で見ることは言語道断だとする高潔な教師だ。彼の公私を分ける性格は好ましい長所だと校長は思っている。しかし、校長個人の観点ではおもしろみに欠けた。
「現一年生に、喧嘩っ早いと言っていいのか、とにかくやんちゃな子がいるのだよ。その指導と見守りをきみにお願いしたい」
「ケンカ、ですか。そんな素行の悪い生徒がいるとは……」
「ややこしいだろうが素行は良い子なんだ。外部のマナーの悪い子に注意をして、それから乱闘に発展する始末で」
「なるほど、うちの生徒は正しいことをしていると」
「根本的には逆ギレする子が悪い。かといってまた同じ争いごとを起こされても困る。どちらの子も怪我をしちゃ、後味が良くないだろう?」
「そういうことでしたら引き受けます。ですが心配事が──」
「なんだね?」
「体は治りましたが体力のほうは本調子じゃありません。元気な生徒たちに追いつける自信がまだないんです」
もっともな懸念だ。一年の半分をベッドの上ですごした人物が、急に全力疾走をこなせるはずはない。
「それは慌てなくていい。きみのペースで体力をもどしていってほしい」
「それまでその生徒たちが大人しくしているか……」
「反省文を書かせそびれたことだし、いつでも呼出しはできる。あやしい動きが見えたら牽制してみよう」
話しの目途が立ったところ、病室の戸がノックされる。入ってきたのは私服の若い女性だ。病院関係者ではなさそうな彼女は校長たちにお辞儀した。校長らもお辞儀をやり返し、女性は窓側のベッドへと行く。「リュウちゃん、ねてるの?」と親しげに同室者へ話しかける様子から、校長はその二人がカップルでないかと勘繰る。
「どういう御関係の人かね?」
校長はこっそり八巻に聞いた。八巻は伏し目がちに「話に聞いていた奥さんだと思います」と答える。
「いいですね、あの年でもう運命の人に巡りあえているとは」
「きみは男前なんだから、そのうち良い女性に出会えるとも」
八巻はふっと笑った。なんだか心当たりのありそうな反応である。
「お? この病院にいる間に、良い人を見つけたかね?」
「その、人かまぼろしかはわかりませんが、一人……」
校長は最初の目的とは異なる会話へのめりこんでいった。
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2017年10月22日
拓馬篇前記−実澄1
寒々しい曇り空を中年の女性が見上げた。天気予報によると降水確率は半々。家を出た時よりも雲は濃くなったように見える。
(降ってくる前に帰りましょ)
スノーブーツを履いた足を心持ち速くうごかした。だがロングスカートが開く範囲はせまい。スカートのすそがパタパタとあおぐ。
(ズボンのほうがよかった? でもどうせ短足だものね)
彼女は背が小さいほうだ。それが娘にも遺伝したのを申し訳なく思っていた。父親に似たならそこそこ見栄えのする高身長になれただろうに、と。だが娘は「全部お母さん似がいい」と言う。その言葉がいくらか彼女の悔いを薄めた。
目のまえに白い綿花が落ちる。それは季節柄、空から落ちてくるものだ。女性は空をふたたび見る。
(やっぱり雪が……あら?)
視界の端に雪花とはべつの動くものをとらえる。町中の背景に溶けこんだマンションの上階に子どもの姿があった。小学校低学年くらいだろうか。ベランダにいる子どもの視線は、転落防止用にもうけた柵にある。そこには猫がいた。
(あのお宅の猫かしら)
猫は柵の上を器用に歩く。子どもは猫を追いかけるが、隣室続きのベランダに設置した仕切り板にはばまれた。猫は隣室の敷地内にあるベランダの柵へ渡る。子どもは板の向こう側へ懸命に手を伸ばすが猫には届かない。すると子どもはベランダにある椅子だかプランターだかに上がり、柵の上を四つん這いになって渡りはじめた。
(あぶない!)
女性は叫びそうになるのを我慢した。大声を出すことで子どもがびっくりし、転落するおそれがあったためだ。子どもは中層住宅の高さにいた。打ち所が悪ければ最悪の事態になりうる。
不慮の事故を想定した女性はベランダの下へ駆けた。ベランダは車が一台通れるほどの小道に面していて、部外者が立ち入っても平気な位置関係にある。万一、子どもが転落しても受け止められるように待機するのだ。ひ弱な女の身で、あれだけの大きさの子をキャッチしきれるとは思えないながらも、見過ごすことはできなかった。
人間の非常事態にも関わらず雪は落ちてくる。子どもの黒い髪に白い雪が乗った。あの様子では柵にも雪が積もり、解けて、水になる。その自然現象は子どもの行動をいっそう危なくさせた。
子どもが仕切り板を超えたあたりで猫が止まる。猫は自分を追いかけてくる子どもに振り返り、ベランダの敷地内に下りた。子どももそこへ着地しようとして体をよじらせる。ようやく安全な場所へ移ってくれた、と女性は安んじた。その安堵は一瞬しかもたなかった。
子どもがバランスを崩す。その重心は不運にも柵の外側にかたむく。まだ女性は落下予測地点に到達できていない。子どもの両手が柵から離れた時、女性は悲鳴をあげた。
その時、突風がなびいた。黒いなにかが女性の眼前をさえぎる。それは広い背中だった。
「?……」
黒の一部分を構成する帽子がはがれた。銀色の頭髪がむきだしになる。その人物は女性の目指していた位置へいち早くたどりつき、子どもを抱きとめた。よくよく見れば体躯のたくましい男性だ。彼が子どもを救出した。そうとわかった女性は緊張が解け、ひざに手をついた。
「はぁ〜、よかった……」
女性は地面に落ちた帽子を目にする。鍔の広い帽子を拾い、男性に返そうとした。
「あの、これ……」
女性は子どもを片腕で抱える人物の正面姿を見た。まず日本人とは異なる青い瞳が目に入る。その瞳と銀色の髪と褐色の肌の組み合わせはめずらしい。老いて白髪に変じた白人が日焼けすればこうなるかもしれないが、彼はせいぜい二十代前半の若者だった。
背の高い青年が銀色のこうべを垂れた。お辞儀かと女性は思ったが、数秒経っても頭が上がらない。もしや「頭に帽子をのせろ」という仕草かと察し、その通りにした。青年は背すじを正す。
「……帽子を拾ってくれて、ありがとう」
話しぶりが朴訥だが発声は流暢な日本語だ。女性は気安くなり、笑顔になる。
「お礼を言うのはこっちよ。子どもを助けてくれたんだもの」
「……あまり長話はできない」
「え?」
「この子は部屋着のままだ。体が冷える」
子どもはセーターとズボン姿だ。靴はなく、外を出歩ける状態ではない。
「あ、そうね。はやくお家にもどらなきゃ。何号室か、わかる?」
子どもは「わかるけど……」と言いよどむ。
「カギ、かかってるの。おるすばんしてて……」
「お家の人はいつごろ帰ってくるの?」
「ゆうがたの音楽がなるくらい、っていわれた」
定時の防災のチャイムまで二時間以上ある。その間、屋外で待つことは無理だ。
「んー、このあたりに仲良しの人はいる?」
「ううん、あたし、このへんの子じゃないの。あそびにきたから……」
「そう……じゃあお家の人が帰るまで、おばさんの家にいるのはどう?」
この提案には青年が難色を示す。
「それなら私はここで別れる。貴女の家には行けない」
「どうして? なにか用事があるの?」
「急ぎの用はないが、他人の家にあがることは控えたい」
彼がいなくては女性が裸足の子どもを抱いて移動することになる。二十キロはありそうな子どもを連れ回す体力は女性にない。この体格の良い青年の同行が必要だ。
「それじゃ、お店で時間を潰すのはいいのかしら?」
青年がうなずいた。子どもも「いいよ」と言う。意見の一致を得た女性はにっこり笑い、首に巻いたマフラーを外す。
「決まりね。わたしは実澄(みすみ)、あなたはなんていうお名前なの?」
「レイコっていうの」
実澄は半分に細長く折っていたマフラーを広げ、レイコを包む。
「きれいな音の名前ね。そうだ、この帽子も」
頭に被っていた手編みのボンボンニットをレイコに与える。小さな子どもには大きすぎて目が隠れてしまう。実澄は帽子の端を折りたたみつつ「お兄さんは?」と尋ねた。
「……ギン、とよく呼ばれた」
「あだ名なの?」
「そうだ、この髪だから」
「うちの子も、あなたを見たら『ギンくん』って呼びそうだわ。きれいな髪の色だもの」
なぜか青年は悲しそうに目元をくもらせた。くん付けは気に障ったのだろうか。
「えっと、『ギンくん』と呼ぶのはまずいのかしら?」
「いや、いい。その呼び方はひどく、なつかしかった」
青年はそれ以上説明しない。あまり話したくないのだろう。
「積もる話はあとにしましょう、ね。わたしの奢りで喫茶店に行きましょ」
接点のなかった三人が連れだって歩いた。道行く人はその奇異さに目を向けていくが、実澄もレイコも、気にとめずに談笑した。
(降ってくる前に帰りましょ)
スノーブーツを履いた足を心持ち速くうごかした。だがロングスカートが開く範囲はせまい。スカートのすそがパタパタとあおぐ。
(ズボンのほうがよかった? でもどうせ短足だものね)
彼女は背が小さいほうだ。それが娘にも遺伝したのを申し訳なく思っていた。父親に似たならそこそこ見栄えのする高身長になれただろうに、と。だが娘は「全部お母さん似がいい」と言う。その言葉がいくらか彼女の悔いを薄めた。
目のまえに白い綿花が落ちる。それは季節柄、空から落ちてくるものだ。女性は空をふたたび見る。
(やっぱり雪が……あら?)
視界の端に雪花とはべつの動くものをとらえる。町中の背景に溶けこんだマンションの上階に子どもの姿があった。小学校低学年くらいだろうか。ベランダにいる子どもの視線は、転落防止用にもうけた柵にある。そこには猫がいた。
(あのお宅の猫かしら)
猫は柵の上を器用に歩く。子どもは猫を追いかけるが、隣室続きのベランダに設置した仕切り板にはばまれた。猫は隣室の敷地内にあるベランダの柵へ渡る。子どもは板の向こう側へ懸命に手を伸ばすが猫には届かない。すると子どもはベランダにある椅子だかプランターだかに上がり、柵の上を四つん這いになって渡りはじめた。
(あぶない!)
女性は叫びそうになるのを我慢した。大声を出すことで子どもがびっくりし、転落するおそれがあったためだ。子どもは中層住宅の高さにいた。打ち所が悪ければ最悪の事態になりうる。
不慮の事故を想定した女性はベランダの下へ駆けた。ベランダは車が一台通れるほどの小道に面していて、部外者が立ち入っても平気な位置関係にある。万一、子どもが転落しても受け止められるように待機するのだ。ひ弱な女の身で、あれだけの大きさの子をキャッチしきれるとは思えないながらも、見過ごすことはできなかった。
人間の非常事態にも関わらず雪は落ちてくる。子どもの黒い髪に白い雪が乗った。あの様子では柵にも雪が積もり、解けて、水になる。その自然現象は子どもの行動をいっそう危なくさせた。
子どもが仕切り板を超えたあたりで猫が止まる。猫は自分を追いかけてくる子どもに振り返り、ベランダの敷地内に下りた。子どももそこへ着地しようとして体をよじらせる。ようやく安全な場所へ移ってくれた、と女性は安んじた。その安堵は一瞬しかもたなかった。
子どもがバランスを崩す。その重心は不運にも柵の外側にかたむく。まだ女性は落下予測地点に到達できていない。子どもの両手が柵から離れた時、女性は悲鳴をあげた。
その時、突風がなびいた。黒いなにかが女性の眼前をさえぎる。それは広い背中だった。
「?……」
黒の一部分を構成する帽子がはがれた。銀色の頭髪がむきだしになる。その人物は女性の目指していた位置へいち早くたどりつき、子どもを抱きとめた。よくよく見れば体躯のたくましい男性だ。彼が子どもを救出した。そうとわかった女性は緊張が解け、ひざに手をついた。
「はぁ〜、よかった……」
女性は地面に落ちた帽子を目にする。鍔の広い帽子を拾い、男性に返そうとした。
「あの、これ……」
女性は子どもを片腕で抱える人物の正面姿を見た。まず日本人とは異なる青い瞳が目に入る。その瞳と銀色の髪と褐色の肌の組み合わせはめずらしい。老いて白髪に変じた白人が日焼けすればこうなるかもしれないが、彼はせいぜい二十代前半の若者だった。
背の高い青年が銀色のこうべを垂れた。お辞儀かと女性は思ったが、数秒経っても頭が上がらない。もしや「頭に帽子をのせろ」という仕草かと察し、その通りにした。青年は背すじを正す。
「……帽子を拾ってくれて、ありがとう」
話しぶりが朴訥だが発声は流暢な日本語だ。女性は気安くなり、笑顔になる。
「お礼を言うのはこっちよ。子どもを助けてくれたんだもの」
「……あまり長話はできない」
「え?」
「この子は部屋着のままだ。体が冷える」
子どもはセーターとズボン姿だ。靴はなく、外を出歩ける状態ではない。
「あ、そうね。はやくお家にもどらなきゃ。何号室か、わかる?」
子どもは「わかるけど……」と言いよどむ。
「カギ、かかってるの。おるすばんしてて……」
「お家の人はいつごろ帰ってくるの?」
「ゆうがたの音楽がなるくらい、っていわれた」
定時の防災のチャイムまで二時間以上ある。その間、屋外で待つことは無理だ。
「んー、このあたりに仲良しの人はいる?」
「ううん、あたし、このへんの子じゃないの。あそびにきたから……」
「そう……じゃあお家の人が帰るまで、おばさんの家にいるのはどう?」
この提案には青年が難色を示す。
「それなら私はここで別れる。貴女の家には行けない」
「どうして? なにか用事があるの?」
「急ぎの用はないが、他人の家にあがることは控えたい」
彼がいなくては女性が裸足の子どもを抱いて移動することになる。二十キロはありそうな子どもを連れ回す体力は女性にない。この体格の良い青年の同行が必要だ。
「それじゃ、お店で時間を潰すのはいいのかしら?」
青年がうなずいた。子どもも「いいよ」と言う。意見の一致を得た女性はにっこり笑い、首に巻いたマフラーを外す。
「決まりね。わたしは実澄(みすみ)、あなたはなんていうお名前なの?」
「レイコっていうの」
実澄は半分に細長く折っていたマフラーを広げ、レイコを包む。
「きれいな音の名前ね。そうだ、この帽子も」
頭に被っていた手編みのボンボンニットをレイコに与える。小さな子どもには大きすぎて目が隠れてしまう。実澄は帽子の端を折りたたみつつ「お兄さんは?」と尋ねた。
「……ギン、とよく呼ばれた」
「あだ名なの?」
「そうだ、この髪だから」
「うちの子も、あなたを見たら『ギンくん』って呼びそうだわ。きれいな髪の色だもの」
なぜか青年は悲しそうに目元をくもらせた。くん付けは気に障ったのだろうか。
「えっと、『ギンくん』と呼ぶのはまずいのかしら?」
「いや、いい。その呼び方はひどく、なつかしかった」
青年はそれ以上説明しない。あまり話したくないのだろう。
「積もる話はあとにしましょう、ね。わたしの奢りで喫茶店に行きましょ」
接点のなかった三人が連れだって歩いた。道行く人はその奇異さに目を向けていくが、実澄もレイコも、気にとめずに談笑した。
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