2008年08月19日
日韓の約束 (第2話)
日光のユースホステルに1泊し、同部屋に泊まっていた韓国人「セヨン」
とも別れる事に。
彼は埼玉県内にある大学に交換留学で来ていて、当時私の住まいから
も、それ程遠くはない場所に住んでいたので、旅行から帰ってからも、
また会おうという事になりました。
実際に旅行後も、ちょくちょく会いました。
セヨンは、日本語をある程度は話せるとは言え、出会った頃は来日して
2ヵ月くらい。
彼とのやり取りは、日本語、英語とボディランゲージ交じりのモノでした。
彼は日本について学びに来ていたので、私は裏表含めて(?)日本の
色々な事を話したり、様々な場所に連れて行ったりもしました。
レンタカー借りて、2人で数日間、伊豆・箱根に旅行したなんて事も
ただ隣国同士とは言え、お互いの文化や考え方、生活習慣に違いが
あり、時には意見をぶつけ合う事も…
でもそんな事があっても不思議とウマは合いました。
実は、私は元々韓国に対して、いい印象は持っていませんでした。
戦争の影響で、私が生まれ育った場所は、他の地域以上に韓国や
朝鮮と因縁があり、好意的に思っていない土地柄でした。
また私がそこで実際に暮らしていた70年代〜90年代初頭は、今ほど
日韓関係が身近なモノではなかったので、周りからは韓国・朝鮮に
ついて、あまりいい話を聞いた事がありません。
その名残からか、私にとっても韓国人との接触は、当初は抵抗がある
モノでした。
…でも、セヨンと会っているうちに、それは全くの思い込みだと気づき、
私の考えも変わりました
正に、
「百聞は一見にしかず」
です。
セヨンが来日して半年くらい経った頃、彼がホームシックになった事が
ありました。
日頃は毎日学校に通っていましたが、ちょうど学校が春休みに入り、
慣れない外国で普段と生活スタイルが変わったせいもありました。
休み期間中だけ韓国に帰ろうにも、休み中も学校の予定が、週に数回
あって帰れません。
その頃、しきりに彼は、
「何を今すればいいのか、分からない…。」
と言っていました。
そんなある時、私はセヨンを東京タワーに連れて行きました。
展望台から見える東京の夜景を見て、彼は感激していました
「こんな場所があるなんて知らなかった」
埼玉で暮らしていたのもありますが、セヨンはこれまで東京に出てくる事も、
あまりなかった様です。
夜景を見ながら私は言いました。
「セヨン。今見えてる場所のほとんどに行った事ないよね?
セヨンが今まで見てきたのは、まだまだ日本のごく一部だよ。
セヨンが日本に来たのは、日本を少しでも多く知るためだよね。
日本にいられる時間は限られているんだから、今セヨンがやらなきゃ
ならない事は、たくさんあるはずだよ。」
私は特別深い考えがあって、この言葉を言った訳ではありません
でしたが、彼の心に大きく響いた様で、翌日から行動が変わりました。
時間が許す限り、色々な場所に出かけたり、ボランティアにも参加
したりして、とにかく日本で数多くの事を体験する様になりました。
後日談ですが、彼曰く、
「とにかく日本と言う国を自分の身に刻みたかった。」
そうです。
そしてそのキッカケとなったのが、私の言葉だったそうで、それを聞いた
私もすごく嬉しかったです
…そして更に半年が経ち、ついに彼の交換留学の期間が終了する時が、
やってきました。
最後お別れ会を東京でやる予定でしたが、彼も私も同時期に、身内に
不幸があったりして、結局予定が合わず、会う事もなく、そのままセヨンは
帰国となりました
…しかしセヨンを見ているうちに韓国が好きになっていた私は、今度は
自分が韓国を訪れてみようと言う気になり、セヨンの帰国直後に、初めて
韓国に行く事になりました
そして、東京で実現出来なかったお別れ会は、ソウルでやる事となりました
…第3話(最終話)に続く
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とも別れる事に。
彼は埼玉県内にある大学に交換留学で来ていて、当時私の住まいから
も、それ程遠くはない場所に住んでいたので、旅行から帰ってからも、
また会おうという事になりました。
実際に旅行後も、ちょくちょく会いました。
セヨンは、日本語をある程度は話せるとは言え、出会った頃は来日して
2ヵ月くらい。
彼とのやり取りは、日本語、英語とボディランゲージ交じりのモノでした。
彼は日本について学びに来ていたので、私は裏表含めて(?)日本の
色々な事を話したり、様々な場所に連れて行ったりもしました。
レンタカー借りて、2人で数日間、伊豆・箱根に旅行したなんて事も
ただ隣国同士とは言え、お互いの文化や考え方、生活習慣に違いが
あり、時には意見をぶつけ合う事も…
でもそんな事があっても不思議とウマは合いました。
実は、私は元々韓国に対して、いい印象は持っていませんでした。
戦争の影響で、私が生まれ育った場所は、他の地域以上に韓国や
朝鮮と因縁があり、好意的に思っていない土地柄でした。
また私がそこで実際に暮らしていた70年代〜90年代初頭は、今ほど
日韓関係が身近なモノではなかったので、周りからは韓国・朝鮮に
ついて、あまりいい話を聞いた事がありません。
その名残からか、私にとっても韓国人との接触は、当初は抵抗がある
モノでした。
…でも、セヨンと会っているうちに、それは全くの思い込みだと気づき、
私の考えも変わりました
正に、
「百聞は一見にしかず」
です。
セヨンが来日して半年くらい経った頃、彼がホームシックになった事が
ありました。
日頃は毎日学校に通っていましたが、ちょうど学校が春休みに入り、
慣れない外国で普段と生活スタイルが変わったせいもありました。
休み期間中だけ韓国に帰ろうにも、休み中も学校の予定が、週に数回
あって帰れません。
その頃、しきりに彼は、
「何を今すればいいのか、分からない…。」
と言っていました。
そんなある時、私はセヨンを東京タワーに連れて行きました。
展望台から見える東京の夜景を見て、彼は感激していました
「こんな場所があるなんて知らなかった」
埼玉で暮らしていたのもありますが、セヨンはこれまで東京に出てくる事も、
あまりなかった様です。
夜景を見ながら私は言いました。
「セヨン。今見えてる場所のほとんどに行った事ないよね?
セヨンが今まで見てきたのは、まだまだ日本のごく一部だよ。
セヨンが日本に来たのは、日本を少しでも多く知るためだよね。
日本にいられる時間は限られているんだから、今セヨンがやらなきゃ
ならない事は、たくさんあるはずだよ。」
私は特別深い考えがあって、この言葉を言った訳ではありません
でしたが、彼の心に大きく響いた様で、翌日から行動が変わりました。
時間が許す限り、色々な場所に出かけたり、ボランティアにも参加
したりして、とにかく日本で数多くの事を体験する様になりました。
後日談ですが、彼曰く、
「とにかく日本と言う国を自分の身に刻みたかった。」
そうです。
そしてそのキッカケとなったのが、私の言葉だったそうで、それを聞いた
私もすごく嬉しかったです
…そして更に半年が経ち、ついに彼の交換留学の期間が終了する時が、
やってきました。
最後お別れ会を東京でやる予定でしたが、彼も私も同時期に、身内に
不幸があったりして、結局予定が合わず、会う事もなく、そのままセヨンは
帰国となりました
…しかしセヨンを見ているうちに韓国が好きになっていた私は、今度は
自分が韓国を訪れてみようと言う気になり、セヨンの帰国直後に、初めて
韓国に行く事になりました
そして、東京で実現出来なかったお別れ会は、ソウルでやる事となりました
…第3話(最終話)に続く
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