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2016年03月22日

第40回 円窓






文●ツルシカズヒコ




「雑音」第一回は『青鞜』一九一二年十二月号の編集作業のシーンから始まっている。

 野枝が本郷区駒込曙町一三番地のらいてうの自宅を訪れたのは、おそらく十一月も半ばを過ぎたころだろうか。

 野枝が三畳ほどの円窓のあるらいてうの書斎に入るのは、そのときが初めてだった。

「いらっしゃい、この間の帰りは遅くなって寒かったでしょう」

 らいてうは優しく微笑みかけ、火鉢を野枝の方に押しやった。

 この日は小林哥津も来ることになっていた。

「哥津ちゃんはまだお見えになりませんか」

 そう訊ねた野枝の目が本箱の中の書籍の背文字を追った。

「ええ、まだ。ダンテはわかりますか。この次までにね、林町の物集さんがあの本が不用になっているはずですからね、行って借りていらっしゃい。ところはね、千駄木の大観音をご存知? ええ、あすこの前を行ってねーー」

 らいてうは万年筆で地図を書きながら、

「本当に、行ってらっしゃい、本がなくちゃね」

「ええ、ありがとう」

 野枝はそれだけ言うのがやっとだった。

「物集さん」は青鞜社の発起人のひとり、物集(もずめ)和子

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 当初、青鞜社の事務所は、本郷区駒込千駄木林町(はやしちょう)九番地の物集の自宅にあったのだが、『青鞜』一九一二年四月号(二巻四号)に掲載された荒木郁の小説「手紙」が発禁になり、刑事が物集邸に来て『青鞜』を押収したことなどがあり、同年五月半ばごろ青鞜社は本郷区駒込蓬萊町の万年山(まんねんざん)勝林寺に事務所を移転したのだった。

 この寺をらいてうに紹介してくれたのは、らいてうが懇意にしていた浅草区松葉町の臨済宗の禅寺、海禅寺の住職・中原秀岳だった。

 このころ、青鞜社では講師を呼んで講義をしてもらう勉強会を再開していた。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p393)によれば、火曜と金曜の週二回、生田長江「モーパッサンの短篇」と阿部次郎「ダンテの神曲」である。

 しかし、『白樺』一九一二年十月号に掲載された『青鞜』の広告には、阿部次郎「ダンテの神曲」が水曜日、生田長江「モーパッサン」が金曜日とある。

 らいてうは物集が持っているダンテの『神曲』を、借りてきなさいと野枝に言ったのである。

 物集は青鞜社から離れたので、『神曲』が不用になっているはずだからだ。

 
 これから歩き出さうとする私を導いてくれるのは明子(はるこ)の手より他にはなかつた。

 明子もまた、最近にすべての繫累(けいるい)を捨てゝたゞ自分の道に進んでゆかうとする若い私の為めに最もいゝ道を開いてやらうとする温かい親切な心持を私に投げかけることを忘れなかつた。

 私にとつてはこの明子の同情は何よりも力強い喜びであつた。

「私は、この人のこの親切を、この同情を忘れてはならない、この人の為めにはどんな苦しみも辞してはならない。」

 私はさうした幼稚な感激で一杯になつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月3日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p7/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p127)





「今日は紅吉も来るかもしれません。それに晩には西崎さんと小笠原さんがいらっしゃるはずです」

「まあそうですか。ではずいぶん賑やかですね。紅吉さん、私が以前、図書館で見ていたころとはずいぶんお変わりになりましたよ」

 野枝は尾竹紅吉のことを上野高女時代から見知っていた。

 夏休みの間、毎日のように通った上野の帝国図書館でよく見かけていたのだ。

 厖大な体を持った彼女は、本を読まずいつもスケッチブックを広げていた。

 ふたりは同じ根岸に住んでいたので、図書館以外でもちょいちょい顔を合わせた。

 ふたりは一緒になると無言のまま意地を張って歩きっこをした。

「あの方があらい紫矢絣の単衣に白地の帯を下の方にお太鼓に結んであの大きな体に申し訳のように肩上げを上げていたのを本当に可笑しいと思って見ていました。その格好で道を歩きながら、いつも歌っているから、ずいぶん妙な人だと思いましたわ。あの方の叔父様やお父様が画家として名高い方だということも、そのころからわかっていました。あの方の今のお住居は以前、私の叔父の住居だったこともあるのです」

「そうですか、でも紅吉がお太鼓になんか帯を締めていたことがあるのですかね」

 らいてうが可笑しそうに笑った。

「じゃそろそろ仕事を始めましょうね。原稿はたいていそろっていますから、頁数を決めましょう。この社の原稿紙三枚で一頁になるのですから、そのつもりで数えて下さいね」

 教えられたとおりに、野枝は一枚一枚数えていった。

 広い邸内はひっそりしていて、縁側に置いた籠の中の小さな白鳩が喉を鳴らす音が柔らかにあたりに散る。

 後ろの部屋のオランダ時計がカチカチ時を刻む。

 静かだ。

 本当に静かだ。

 らいてうはうつむいて原稿紙にペンを走らせている。





 小刻みな下駄の音が門の前で止まったと思うと間もなく、くぐり戸が開いて、けたたましいベルの音がして、内玄関で案内を乞う声がした。

「哥津ちゃんですよ」

 らいてうがペンを置いて、そこの敷布団を直した。

「ごめんください、こんにちは」

 哥津はスラリと長い体をしなやかに折って座りながら、格好のいい銀杏返しに結った頭をかしげて、らいてうと野枝に挨拶をした。

「他にまわるところがあったものですから、つい遅くなりましたの。もうお始めになってるの。目次やなんかお書きになって? そう、じゃ私が書くわ」

 明るい調子で話す哥津が来てから、急に場は賑やかに伸びやかになった。

「野枝さんて、もっと若い人かと思った。二十二、三には見えるわ。着物の地味なせいかもしれないけど」

「哥津ちゃん、今度は何か書けて?」

「ええ、だけどずいぶんつまらないものよ。私小説は初めてですもの、なんだか駄目よ」

「でも、まあ見せてごらんなさいよ」

 哥津は派手な模様のついたメリンスの風呂敷の中から原稿を出して、らいてうの前に置いた。

 野枝は哥津とらいてうの隔てのない会話を聞きながら、その前に哥津が『青鞜』に書いた「お夏のなげき」という戯曲のひとくさりを思い浮かべていた。

 ちなみに一幕ものの戯曲「お夏のなげき」のラストは、こうである。


 子供の声ーー清十郎殺すなら……お夏も殺せ……。

 お夏の声ーー向こう通るは清十郎ぢやないか、笠がよくにたすげの笠……


(小林哥津「お夏のなげき」/『青鞜』1912年10月号・第2巻第10号_p)





 静かな通りに突然、ソプラノで歌う声がした。

「あ、紅吉が来たわ」

 哥津は一番に耳をそばだてた。

 らいてうが静かに微笑んだ。

 紅吉が三人の笑顔に迎えられて入ってきた。

「編集ですか、手伝いましょうか。だけど私はもう社員じゃないからいけないんですね」

 座るとすぐ、紅吉は原稿紙とペンを持ちながら、あわててそれを下に置いて三人の顔を見まわした。

「あのね、今月号の批評読みましたか。カットが誉めてありました、プリミティブだって。あなたの詩に使ったカットね、野枝さん、あれはね、特別にあなたのあの詩のために私が描いたんですよ。南国情緒が出ているでしょう。ねえ、哥津ちゃん、本当にあの詩のために描いたんですね」

「ありがとう、あんなつまらない詩のために、すみません。平塚さんからもうかがいましたの。私の詩にはすぎるくらいです、本当に」

「哥津ちゃんはどう思います」

「いやな紅吉、私あのときちゃんと誉めてあげといたじゃないの」

「そうそう、すいません」

 可愛らしく頭を下げる紅吉の大きな体を見ながら、哥津と野枝は心からおかしがった。





 紅吉は『青鞜』十月号に掲載された野枝の詩「東の渚」のカットを描いたのだが、「東の渚」は見開き始まりの三頁で、各頁の上に横長の地紋のようなカットがあり(一点描いたものを流用)、絵柄は花壇に咲いているアールヌーボ風のチューリップである。

 らいてうは若い三人の対話から離れて、哥津の原稿を読んでいた。

 鋭い紅吉はらいてうが熱心に原稿に目を通しているのを見ると、すぐ立ち上がりかけた。

「今日は邪魔になりますからもう帰ります。野枝さん、今度、私の家に遊びにいらっしゃい」

 原稿に目を通しているらいてうが、顔を上げて穏やかに言った。

「今来たばかりのくせに、なんだってもう帰るの」

「だって編集の邪魔になるじゃありませんか。それに私はもう退社したのに、ここにいると誤解されるから」

 真顔に答える紅吉の顔を、野枝はあきれて眺めた。


尾竹紅吉2 ※尾竹紅吉3 


★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:12| 本文

第39回 青鞜






文●ツルシカズヒコ



 一九一二(大正元)年九月十三日、明治天皇の大喪の礼が帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で行われた。

 乃木希典と妻・静子が自刃したのは、その日の夜だった。

 野枝がらいてうから送ってもらった旅費で帰京したのは、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば九月の末だが、秋たけなわというような「日記より」の文面やサボンの旬は十月ぐらいからなので、野枝の帰京は十月に入ってからかもしれない。

 野枝は結局、まわりの人間を諦めさせたのであろう。

 末松家との協議離婚交渉に当たったのは代準介だった。


 再び、代とキチは上京し、ノエの説得を試みるも、結果、翻意ならず。

 代はノエの気性を知悉しており、元の鞘に戻す事を諦める。

 代はけじめをつけるために、腹にさらしを巻き、紋付袴の正装で末松家を訪れる。

 大喪の最中であり、「姦通罪」で訴えるのも時節柄破廉恥であると説き、これまでの学費費用や結納金ほか諸費用を倍返しする。

 男の面子を潰したのであるから、当然である。

 末松家は受け取らぬという。

 そこを代は三拝九拝して受け取ってもらう。

 心にねじり鉢巻をしての謝罪だった。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p75)


 末松福太郎と野枝の協議離婚が正式に成立したのは、一九一三(大正二)年二月十一日だった。

 紀元節で「よき日」だったからだ。

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『青鞜』一九一二年十月号(第二巻第十号)の「編輯室より」には、「新に入社せられし方……伊藤野枝」とあり、野枝が青鞜社員になったことを告げている。

『青鞜』の「芳舎名簿」には「伊藤野枝 福岡県三池郡二川村濃瀬(ママ) 阪(ママ)口方」とある。

 二川(ふたかわ)村大字濃施(のせ)は、野枝の叔母・坂口モトの婚家で渡瀬(わたぜ)駅前で旅館を営んでいた。

「芳舎名簿」は名古屋市在住の青鞜社員・青木穠(じょう)が書き写した青鞜社の名簿。

『青鞜』十一月号(第二巻第十一号)には野枝の詩「東の渚」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)が載った。


 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p51~53)は「東の渚」は野枝が今宿の郵便局に勤務していたころの心情だと見ているが、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』(p408)は、野枝が「結婚問題の整理に故郷へ帰ったとき、海を見ながら涙を流したという、ひとときを歌ったもののようです」と解釈している。

「東の渚」の末尾に「東の磯の渚にて、一〇、三」とあり、つまり十月三日時点で野枝はまだ今宿にいたのであろう。

 とすれば、「東の渚」はらいてうの解釈が妥当だと思える。

 野枝は後に『大阪毎日新聞』に「雑音」(サブタイトルはーー「青鞜」の周囲の人々「新しい女」の内部生活」)を連載(一九一六年一月三日から断続的に同年四月十七日まで)するが、「雑音」は一九一二(大正元)年晩秋から一九一四(大正三)年ごろまでの『青鞜』の内部を描いている。

「雑音を書くに就いて」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』p125)によれば、野枝が青鞜社に入社し内部でらいてうの手伝いをするようになったのは、一九一二(大正元)年十一月からだった。

 当初は青鞜社への誤解をときたいという執筆動機があったが、それは捨てて、「自伝をかくと同じやうな心持で……自分の大事な記録としてかきたいと云ふ風に考へ」、自他ともに「私の良心が許すかぎり正直にかざりなく書きたいと思つてゐます」と書いている。

 らいてうは野枝の生活の援助も考慮していたが「十円ほどのお小遣いを上げるのが、当時の青鞜社ではやっとのこと」(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』p407)だったという。





 野枝さんが再度上京したのは九月ごろであったかと思います。

 十月ごろには編輯室に、生きいきした、いつも生命力にあふれるような姿を見せるようになり、紅吉、哥津、野枝の三人は、三羽烏といった格好で、社内を賑わすようになりました。

 なにがおもしろいのか、三人寄ればキャッキャッと笑い声が上がり、哥津ちゃんも野枝さんも、紅吉のふっくらとした大きな手で背中をよくぶたれていたものです。

 ……こうして野枝さんが加わってから、編集室の空気はいっそう活気づいたものとなり、わたくしは心ひそかに野枝さんを将来有望な人として見守っていたのでした。

 実際面であまりあてにならない紅吉と違って、野枝さんはいちばん若いにかかわらず、役に立つ人として、社内のだれからも親しまれてゆきました。

 紅吉のように、複雑で、わからない部分をもっている人でなく、打てば響くという実践的なところが、一番年下のこの人を頼もしく思わせたのでしょうか。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p407~408)





 小林哥津は明治の浮世絵版画家、小林清親の五女。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』(p360~361)によれば仏英和女学校(現・白百合学園)在学中に、『青鞜』発起人のひとり木内錠子(ていこ)に誘われ社員になった。

 背が高く浅黒いきりっとした顔、浅草育ちの哥津は東京の下町娘といった風情で、書くものにも下町趣味が色濃く出ていた。

『青鞜』掲載の原稿を取りに来た哥津を田村俊子がこう描写している。


 十八九の娘さんで、根の抜けたやうな横仆(たお)しになつた銀杏返しがばら/\になつてゐる。

 素足で、白飛白(かすり)の帷子(かたびら)を着て 濃い勝色繻子と黄色つぽい模様の一寸見えたものと腹合せの帯を小さく貝の口のやうにちよいと結んで、洋傘を開いて……。

 美人だの、美しいのと云ふよりは美い容貌と云ひ度いやうな顔立をしてゐる。

 細おもてゞ顔が緊つて、鼻がほそく高くつて、眼がぴんと張りをもつて、険を含んでいる。

 江戸芸者の俤(おもかげ)を見るやうなすつきりした顔立ちだつた。


(田村俊「お使ひの帰つた後」/『青鞜』1912年9月号・第2巻第9号_p219~220)


 尾竹紅吉は日本画家、尾竹越堂の長女。

 紅吉の叔父たち竹坡、国観も日本画家で紅吉は名門尾竹一族の愛娘だった。

 大阪の夕陽丘女学校を卒業後、東京菊坂の女子美術学校に入学したが中退。





女子美術学校2 ※尾竹紅吉2

※尾竹紅吉3ーー中山修一著作集2『富本憲吉とウィリアム・モリス』(紅吉関連写真




★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:12| 本文

第38回 椎の山






文●ツルシカズヒコ


 
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p404~405)によれば、野枝から手紙を受け取ったらいてうは、まず辻潤に相談することにした。
 
 小耳に挟んでいた染井という住所を頼りに、らいてうは辻の家を探し当てたが、辻は滝野川に引っ越していた。

 その足で引っ越し先に行くと、辻は不在だった。

 家人に用件を告げ名刺を置いていくと、翌日あたりに辻がらいてうを訪ねて来た。

 野枝の上京後については、辻が責任を持つということだったので、らいてうは自分のポケットマネーから野枝に旅費を送った。

 らいてうは、しばらくの間、辻と野枝の関係に気づかなかったと回想している。

 野枝の印象がとても子供らしかったし、手紙や会話ではすべてを打ち明けているふうな野枝が、そのことに触れなかったからである。

 辻は野枝のことを教師らしい言葉で「頭の良いよく出来る子」だと言った。

 野枝も辻のことを「先生がああいった、こういった」という言い方をしていた。

 辻が野枝のことで職を失ったことも、らいてうは後で知った。

 らいてうがふたりの関係を知ったのは、野枝が妊娠したと聞いたときであり、野枝が辻のことを「先生」ではなく「辻」と呼ぶようになったのも、妊娠した後だった。

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 野枝がこのときの帰郷のことを『青鞜』に書いたのが「日記より」である。

 野枝は本文に「牧野静」というペンネームを使用しているが、目次には「野枝」と印刷されている。

『定本 伊藤野枝全集 第一巻』解題によれば「原稿にあったペンネームを編集部が見落としたためであろうか」。


 六日ーー
 
 雨だらうと思つたのに案外な上天気。

 和らかな日影が椽側の障子一ぱいに射してゐる。
 
 書椽の方の障子一枚開くと真青な松の梢と高い晴れた空が覗かれる。

 波の音も聞こえぬ。

 サフランの小さい花がたつた一つ咲いてゐる。
 
 穏やかな、静かな朝だ。

 枕の上に手をついてそつと上半身を起して見る。

 少し頭が重いばかりだ。

 暫く座つてた。

 朗らかな目白の囀(さえず)りが何処からともなく聞こえて来る。
 
 来さうにもない手紙を待つてたけれども駄目だつた。
 
 午後お隣りのお婆さんの歌が始まつた。

 夷魔山(いまやま)のお三狐(さんぎつね)にもう、十年近くもとりつかれてゐるのだ。

 七十越したお婆さんが体もろくに動かせない位痛み疲れてゐながら食べるものは二人前だと聞いて驚く。

 時々機嫌のいゝ時には歌ふのだ。

 私たちの知らないやうな、古い歌ばかりだ。

 毎日々々たいして悪くもない体を床に横たへて無為に暮す私のさびしい今の心持ちでは、お婆さんの歌は非常に面白く聞かれる。

「わしが歌ふたら、大工さんが笑ふた。歌にかんながかけられよか」

 なんて、おもしろい調子で歌ふ。

「婆さんが沈み入るごとある声出して歌ひなさるけん、私どもうつかり、歌はれまつせんや」

 若い、お婆さんの養子は高笑ひしながらお婆さんを冷やかしてゐる。

 お婆さんの細い声がクド/\何か云つてゐる。

 暫くして畑にゐた祖母が垣根越しに養子と口きいてゐた。

「へゑ、只今御愁嘆の場で御座います、もう、近々お逝(か)くれになりますげなけん、そのお別れの口上で……」

 ときさく者の養子はあたりかまはず笑つた。

 祖母の笑ひ声も聞こえた。

 今日も、平穏無事な一日が静かに暮れて行つた。


「日記より」/『青鞜』1912年12月号・第2巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p13~14)



 

 八日ーー

 懐かしく恋しく、何時までも去り度くなくてはならぬ筈の父母の家を私は、再び逃がれ出でやうとのみ隙をねらつてゐるのだ。

 何と云ふ不幸な私だらう。

 十重廿重(とえはたえ)に縛(いまし)められた因習の縄を切つて自由な自己の道を歩いて行かうとする私は、因習に生きてゐる、両親やその他の人々の目からは、常軌を逸した、危険極る、道を平気で行く気違ひとしか、見えないだらう。

 私は、両親を欺いた。

 すべての、私の周囲の人を偽つた。

 然しそれを私は、罪悪だとか何とか考へたくない。

 ……親なんか、何でもないと、いふ気も出るけれども、矢張り目に見えぬ、何かの絆は、しつかり、親と、子といふ間を、つないでゐてその絆はどうしたつて、断つ事は出来ないのだ。

 ……私が両親を欺いて、家を出て後に父母が襲はれる苦痛と家の中の暗い、不安な、空気をもつて、抱く苦しい心持がうろつく。

「不足なう教育も受けてゐながら、人並にしてゐれば幸福に暮せるものをどうして従順(おとな)しくしてゐる事が出来ないのだらう」

 と昨日も祖母が次の間でこぼしてゐた、私は黙つて目をつぶつてゐた。





 午後たあちやんが来た。
 
 ザボンを持つて……

 私が五つになるまで守をして呉れた女だ。

 私の幼い記憶に残つてゐる、たあちやんは赤い、うすい髪の毛をひきつめた銀杏返しに結つた、色の黒い目の細い、両頬に靨(えくぼ)のある忘れられないやうな、何処となくやさしみのある顔だつた。
 
 十三の年にあつて、それつきり会はないでゐるうちに見違へるやうな奇麗な女になつてゐる。

 廿四とか云つてゐた。

 今まで直方(のおがた)に奉公してゐたが、お嫁入の仕度に帰つて来たら丁度私が久しぶりに帰省してゐると聞いて早速来たのださうだ。

 私も何とはなしになつかしくうれしい気がして日あたりのいゝ椽側に床を引つぱり出してその上に座つて話した。

 私がナイフを出してもらつてザボンをむいて……。

 ザボンはたあちやんの宅になるので奇麗な内紫だ。

 たあちやんは……私の幼い時の話をはじめた。

 私はザボンをたべながら黙つて、話を聞き聞き、頻(しき)りにおぼろ気な記憶をたどり始めた。

 この頃のやうな秋の暮れ方、燈ともし前の一時を私はきつと、たあちやんの背に負はれる。

 そして海岸に行つた。

 私は小さい時から海が好きだつた。

 松原ぬけて砂丘の上にたつて、たあちやんは背をゆすぶり乍(なが)ら、

 椎ーのやーまゆーけばー

 椎がボーロリボーロリとー

 と透きとほるやうな声で歌つて呉れた。
 
 暮れ方のうるみを帯びた物しづかな低い波の音につれる子守歌がたまらなく悲しい。

 私はたあちやんの背に顔をうづめてシク/\泣いた。

 そしてじーつと耳をすましては、歌を聞き思ひ出したやうに、泣き止んだり、また泣いたりした。

 たあちやんは、歌ひ/\サク/\砂丘を降りてまつしろな、きれいな藻の根を、青い藻の中からさがし出しては私の手に握らして呉れた。

 私は冷たいその根を噛んでは甘酢つぱい汁を、チユウ/\音をさして吸ふた。

 さうしてたあちやんは椎の山を歌ひながら寒い海の風に吹かれて白い渚を行つたり来たりして背中をゆすつた。

 五時近くたあちやんは私の髪を梳(す)いて呉れたりして帰つた。

 後はまた寂しかつた。


「日記より」/『青鞜』1912年12月号・第2巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p14~17)





 九日――
 
 今日も仰向あおむけになつたまゝ胸の上に指を組み合はして天井を見つめたまゝ何おもふともなしに一日は暮れてしまつた。
 
 昼間シヤブが松原で殺された事が誰からともなく家の者の耳に入つて来た。

 皆浮かぬ顔してゐる。
 
 やさしい、おつとりした親しみを持つた眼と、深いフサ/\した美しい毛をもつた、老ひてはゐたが利巧な犬、可愛いゝ犬だつた。

 可なり引き締つた気持ちでゐる私の目からもホロリ/\と涙が出る。
 
 皆次の間で食事しながら犬の事で泣いたり笑つたりしてゐる。


 (「日記より」/『青鞜』1912年12月号・第2巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p17)



夷魔山

ザボン2



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第37回 野生






文●ツルシカズヒコ



 出奔した野枝に対する親族のフォローが気になるが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p74)によれば、代準介とキチが上京し野枝に翻意を促したが「ノエと辻はすでに深い関係となっており、しばらく間を置き、熱の冷めるのを待つことにした」とある。

 平塚らいてう宛てに、九州の未知の少女から長い手紙が届いたのは、 一九一二(明治四十五)年晩春のころだった。

 切手三枚を貼ったペン字の重たい封筒だった。

 差出人は「福岡県糸島郡今宿 伊藤野枝」。


 それは自分の生い立ち、性質、教育、境遇ーーことに現在肉親たちから強制されている結婚の苦痛などを訴えたもので、そこには道徳、習俗に対する半ば無意識な反抗心が、息苦しいまで猛烈に渦巻いておりました。

 そして、自分はもうこれ以上の圧迫に堪えられないから、最後の力をもって肉親たちに反抗して、自分に忠実な正しい道につこうと決心している。

 近いうち上京してお訪ねするから、ぜひ会ってほしいと書いてありました。

 細かなペン字で、びっしり書きこまれたこの長い手紙は、ひとり合点の思いあがった調子ではありましたが、文章もよく、字も立派なこと、生一本の真面目さによって、青鞜社にくる多くの手紙のなかで格段に印象に残るものでした。


(『元始、女性は太陽であったーー平塚らいてう自伝(下巻)』_p404)

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 野枝の「あきらめない生き方・その三」の始動である。

 またしても野枝は手紙を書く文才、すなわち「手紙作家」の才によって、らいてうに強烈なインパクトを与えたのである。

 野枝からの手紙が来てから何日後かに、本郷区駒込曙町の自宅にいたらいてうは、女中さんからこう告げられた。

「伊藤さんという方がお見えになりました」

「どんな方?」

「十五、六ほどのお守(も)りさんのような方です」

 
 ……この人があのしっかりした手紙を書いた人とは、どうしても思われません。

 小柄ながっちりとしたからだに、赤いメリンスの半幅帯を貝の口にぴんと結んだ野枝さんの感じは、これで女学校を出ているのかと思うほど子どもらしい感じでした。

 健康そうな血色のいいふっくりした丸顔のなかによく光る眼は、彼女が勝気な、意地っぱりの娘であることを物語っています。

 その黒目勝ちの大きく澄んだ眼は、教養や聡明さに輝くというより、野生の動物のそれのように、生まれたままの自然さでみひらかれていました。

 話につれて丸い鼻孔をふくらませる独特の表情や、薄く大きい唇が波うつように歪んで動くのが、人工で装ったものとはまったく反対の、じつに自然なものを身辺から発散させています。

 生命力に溢れるこの少女が、初対面のわたくしに悪びれもせず、自分のいいたいだけのことを、きちんと筋道立てていう態度には……情熱的な魅力が感じられるのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p404)





 野枝は苦痛と闘い、婚家を飛び出し、上野高女の英語教師だった辻の家に世話になっていることなど、らいてうに書いた手紙の内容をより具体的に話した。

 らいてうは勇敢に因習に立ち向かう野枝に対して、青鞜社がなんらかの力になるべきであると思った。

 らいてうに会ってみることを野枝に勧めたのは、辻だった。

 
  僕は新聞の記事によつてらいてう氏にインテレストを持ち「青鞜」を読んで、頼もしく思つた。

 野枝さんにすすめてらいてう氏を訪問させて相談させてみることを考へた。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p9/『ですぺら』_p184/『辻潤全集 第一巻』_p389)

 
 野枝が住所を今宿にしたのは、その方がらいてうの同情を誘えると考えたからだと言われている。

『青鞜』の創刊は前年、一九一一(明治四十四)年九月であるが、創刊からの読者だった辻に勧められて、野枝も『青鞜』を読んでいただろう。





 一九一二年(明治四十五)年)七月二十日、明治天皇の病気を報じる号外が出た。

 七月三十日、午前〇時四十三分、明治天皇崩御。

 実際の崩御は七月二十九日、二十二時四十三分だったが、諸々の都合で翌日にしたという。

 山川菊栄は後に、この日をこう回想している。


 明治四十五(一九一二)年七月三十日の夜は、すばらしい月夜でした。

 その日、明治天皇は世を去りました。

 私はひとりで二階に寝ていましたが、あけ放した窓からは月の光が水のように蚊帳の中まで流れこむ。

 ああ明治は終った、明日からは新しい日がくる、今日までのあらゆるいやなことが一夜のうちにこの月の光に洗い去られて、明日からはすばらしく美しい、明るい日がくる、と私はかってな夢をえがいて、子供のころの遠足の前夜のようにうきうきした気分で寝入りました。


(山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』/山川菊栄『おんな二代の記』_p192~193)





「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、明治が終わり大正になった七月末ごろ、野枝は今宿に帰郷していた。

 自ら末松福太郎との離婚の話し合いをするためである。

 出奔事件の解決がまだついていないので、一度郷里に帰りトラブルを解決してくるといって、平塚らいてう宅を辞した野枝は、今宿かららいてうに手紙を書いた。


 それには、帰った日から毎日のように理解のない周囲の人たちから残酷に責め立てられ、以前にも増した苦しみで逃れる道がない。

 幾度も死の決心をしたが、このままでは死ぬこともできない。

 このごろはもう極度の疲労のため、体をこわしている。

 ひとり海岸に出て、涙を流すばかりだというようなことが、思い迫った調子で書いてありました。

 とても普通の手段では抜けられないから、家人の隙を窺って再度の家出をしようと思うが、その旅費をなんとか都合して送ってほしいということでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p405~406)



★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』(日本評論新社・1956年5月30日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)



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第36回 染井






文●ツルシカズヒコ



 辻潤宅で辻と野枝の共棲が始まったのは、おそらく一九一二(明治四十五)年の四月末ごろである。


 僕はその頃、染井に住んでゐた。

 僕は少年の時分から、染井が好きだツたので一度住んで見たいと兼々(かねがね)思つてゐたのだが、その時それを実行してゐたのであつた。

 山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通つてゐたのであつた。

 僕のオヤヂは染井で死んだのだ。

 だから、今でも其処(そこ)にオヤヂの墓地がある。

 森の中の、崖の上の見晴しのいい家であつた。
 
 田圃には家が殆(ほと)んどなかつた。

 あれから王子の方へ行くヴァレーは僕が好んでよく散歩したところだつたが今は駄目だ。

 日暮里も僕がゐた十七八の頃は中々よかつたものだ。

 すべてもう駄目になつてしまつた。

 全体、誰がそんな風にしてしまつたのか、何故そんな風になつてしまつたのか?

 僕は東京の郊外のことを一寸(ちよつと)話してゐるのだ。

 染井の森で僕は野枝さんと生れて始めての熱烈な恋愛生活をやつたのだ。

 遺憾なきまでに徹底させた。

 昼夜の別なく情炎の中に浸つた。

 始めて自分は生きた。

 あの時、僕が情死してゐたら、如何に幸福であり得たことか! 
 
 それを考へると、僕は唯だ野枝さんに感謝するのみだ。

 そんなことを永久に続けようなどと云ふ考へがそも/\のまちがひなのだ。

 結婚は恋愛の墓場ーー旧い文句だが如何にもその通り、恋愛の結末は情熱の最高調に於て男女相抱いて死することあるのみ。グヅ/\と生きて、子供など生れたら勿論それはザツツオールだ。

 全体僕の最初の動機は野枝さんと恋愛をやる為(た)めではなく、彼女の持つてゐる才能を充分にエヂュケートする為めなのであつた。

 それはかりにも教師と名が付いた職業に従事してゐた僕にその位な心掛はあるのが当然な筈(はず)である。

 で、それが出来れば僕が生活を棒にふつたことはあまり無意義にはならないことだなどと甚(はなは)だおめでたい考へを漠然と抱いてゐたのだ。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p7~9/『ですぺら』_p179~183/『辻潤全集 第一巻』_p387~389)

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 辻の母は美津(光津ともいった)は、会津藩の江戸詰め家老・田口重義とその妾某女との間に生まれたが、重義と別れた某女が美津を連れ子として辻四郎三の後添いに入り、美津は養女となる。

 辻の父・六次郎は埼玉の豪農茂木家に生まれたが、茂木家は維新前は幕臣だったらしい。

 六次郎は美津と結婚し辻家の養子婿となった。

 六次郎も美津も明治前の生まれのようだ。

 祖父の四郎三は明治維新までは浅草蔵前で札差をしていたので裕福だった。

 辻の本名は潤平で弟・義郎(一八九二年生)と妹・恒(つね/一八九六年生)がいた。

 義郎は若くして家を出て洋服職人として自活していた。

 井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(P56)には、染井の森の緑がしたたる五月初めごろ、上野高女の同窓生四、五人が辻の家を訪ねたとある。

 辻の家族一同は彼女たちを心よく迎い入れ、美津は三味線を弾き、辻は尺八を吹き、みんなは歌って「越後獅子」などを合奏した。

 小町娘と言われた恒も、野枝と一緒にいそいそと給仕をしたりしてもてなした。

 帰りに一同は染井の「ちまき」という汁粉屋に入ったのだが、辻が家を出るとき、野枝が辻の背に羽織を着せ掛けたしぐさが、ひどくなまめいて、友人のひとり神達つやはそれが心に残ったと回想している。

「あたしたちは野枝さんが先生とああいう仲だったとまったく気づきませんでした。そうした男女のむつみごとなんかなんにもしらないボンクラでした」





 美津は江戸町人の伝統文化を身につけた粋人で、三味線の名人でもあり小唄もうまかった。

 野枝も祖母と父の血筋を受け継ぎ、三味線や唄の才があったようなので、その点、野枝は辻家のノリに合っていたかもしれない。


 角帯をしめ、野枝さん丸髷に赤き手柄をかけ黒襟の衣物(きもの)を着(ちやく)し、三味線をひき怪し気なる唄をうたつたが……。

 大杉君もかなりオシヤレだつたやうだが、野枝さんも、いつの間にかオシャレになつてゐた。

 元来、さうであつたかも知れなかつたが、僕と一緒になりたての頃はさうでもなかつたやうだ。

 だが女は本来オシヤレであるべきが至当なのかも知れぬ、しかし御化粧などはあまり性来上手な方ではなかつた。

 僕のおふくろが世話をやいて、妙な趣味を野枝さんに注入したので、変に垢ぬけがして三味線などひき始めたが、それがオシャレ教育の因をなしたのかも知れなかつた。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p17~19/『ですぺら』_p203~208/『辻潤全集 第一巻』_p400~404)


 野枝の青鞜社時代の友人、小林哥津(かつ)も下町生まれだが、『自由 それは私自身』(P53)によれば、彼女も美津の粋さが好きで、春には竹の子ご飯に春菊のおひたしをちょっと出してくれる、質素でもそんな雰囲気が好きだったという。


小林哥津さんの「清親考」



★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)



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2016年03月21日

第35回 出奔(七)






文●ツルシカズヒコ



 野枝が出奔したのは一九一二(明治四十五)年四月だったが、その二年後『青鞜』に「S先生に」を寄稿し、出奔したころの上野高女の教頭・佐藤政次郎(まさじろう)の言動を痛烈に批判している。

 佐藤に対する批判の要点を現代の口語風にまとめてみた。


 先生は倫社の講義中、興奮すると腐敗した社会を罵倒しました。

 先生の講義によって、半眠状態だった私の習俗に対する反抗心が目覚めました。

 私は先生に教わったとおりに、全力で因習に反抗した結果、出奔したのです。

 それなのに、私に反抗を教えてくれた先生の、そのときの対処はどうだったでしょう。

 先生は傲慢にも私を徹頭徹尾、子供扱いしました。

 そして先生の態度は不徹底で私にも、私の両親にも、両方に親切を見せつけ、どちらからもよく思われようとしました。

 先生は社会に対抗して生きていける方ではなかったのです。

 先生の講義は、現実社会に妥協して生きて行かざるを得ない苦しさ、その憂さ晴らしだったのです。

 それに関しては、同情しますが、問題は先生にその自覚がないことです。

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 先生は辻に宛てた手紙に、こう書きました。

 「私は感情的で、早い話が手紙を書く前と後ではあなた(辻)に対する感情が違う、感情の移りやすい私は過度に激昂したり、にわかに気の毒になって下らない妥協をする幼稚な悪癖があるのです」

 またこうも書きました。

 「人を見ても大づかみに値踏みをしたり、早飲み込みの侮蔑をしたりすることが多い。人を尊重せぬ悪弊と深く悔います」

「悪癖」という一種の病気にしているところが笑えますが、病気なのに辻や西原先生の態度について、自分を一段高いところに置いて批判しているようですね。

 先生には自分が本当に悪癖を持っているという自覚がないんですよ。





 先生は言論ではーー私たちに講義してくれたときーー社会とか道徳とか習俗などを極力排斥したように思います。

 しかし、実際問題に直面したときには、先生はあそこまで道徳とか習俗に固執していました。

 先生は型にはまったことが嫌いで、それを非難していましたが、先生自身が型にはまった生活から抜け出られないのです。

 道徳なんて都合次第でできたものじゃないですか。

 だから都合次第で破戒してもよいものだと思います。

 人間の本性を殺したり無視したりする道徳は、どんどん壊してもよいと思います。

 破戒する力を与えられていない人は仕方ないにしても、そうい確信を持っている人はどんどん破戒して進んだ方がよいと思います。

 既存の道徳を破戒できない人は、道徳それ自体を恐れているのではなく、道徳を取り巻いているものたちを恐れているのです。

 先生だって現今社会の道徳に偉大な権威を認め、満足しているわけではないでしょう。

 ただ、その道徳を奉じている社会の群集の勢力が、先生の生活に及ぼす不利な結果を恐れているのですよ。





 私はあの事件で一足飛びに大人になり、学校で聞いた先生方の講義が何の役にもたたないことを知りました。

 あの事件のとき、先生は私の心の中に渦巻いている大きな矛盾を肯定させようとしました。

 私にいくらか影響を与える周囲というものをつきつけて。

 先生が日ごろ言っていたこととはまるで違う態度で、社会というものを説く先生が焦(じ)れったかったです。

 しかも、先生は俗悪な社会の道徳や習俗に対して何の苦痛も抱かずに接しながら、一方では高遠な理想を説いていて、その理想と愚劣な現実をやむを得ないという、アッサリした言葉で片づけて平然とすましていました。

 古き理想主義に徹底することもできず、俗な生活にも満足できず、一生ボヤっと過ごしているのかと思うと本当に淋しい気がします。


 



 教育者や学校教育に対する辛辣な批判である。

 言行の不一致を批判しているのである。

 体を張って因習と闘ってきた野枝が、あの事件から二年後に佐藤に言論でリベンジしたのである。

 佐藤は野枝より十九歳年上であるが、『青鞜』の「新しい女」の代表として頭角を表し始めていた野枝の、旧世代の男性教育者に対する批判という意味もあっただろう。

 しかし、野枝は佐藤から受けた恩や親しみに対する感謝の念を忘れたわけではなく、「S先生に」の最後をこう結んでいる。


 学校時代の無責任な楽しさは思ひ出しても気持ちのいいものです。

 先生のお宅にゐました頃ーーそれももう二度とは返つて来ない楽しい月日です。

 何だかあの先生のお宅で林檎をかぢりながらいろんなお話を伺つたときのやうな子供々々した、なつかしい親しみをもつて先生に甘へたいやうな気持になります。

 かうなつて来ると、あんなにくまれ口をきいた大人になつた自分が悪(にく)らしくなつて来ます。

 そのうちに、こんな理屈を云つたことは全く忘れたやうな顔をして、先生のお書斎に子供になつて甘へに行きます。

 そのとき何卒(なにとぞ)悪(に)くらしい大人の私をしからないで下さいますやうに今からお願ひして置きます。(三、五、一五)

 
(「S先生に」/『青鞜』1914年6月号・第4巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p82)



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



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第34回 出奔(六)






文●ツルシカズヒコ



 野枝は上野高女のクラス担任だった西原和治が送ってくれた、電報為替で旅費を工面し上京した。

 上京したのは「十五日夜」に辻が書いた手紙が福岡についた後であるから、一九一二(明治四十五)年四月二十日ころだろうか。

 とにかく、野枝としてはぐずぐずしていると拘束されてしまうので、できるだけ迅速に東京に旅立ちたかっただろう。

 上京した野枝は北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地の辻潤宅に入った。

 辻はその家で母のミツ(美津)と妹のツネ(恒)と同居していた。

 上野高女の教師の職を辞め、野枝を受け入れた辻は、その間の事情をこう記している。

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 卒業して国へ帰へつて半月も経たないうちに飛び出してきた野枝さんは僕のところへやつて来て身のふり方を相談した。

 野枝さんが窮鳥でないまでも若い女からさう云ふ話を持ち込まれた僕はスゲなく跳ねつけるわけにはいかなかつた。

 親友のNや、教頭のSに相談してひとまづ野枝さんを教頭のところへ預けることにきめたが、その時は校長始めみんなが僕らの間に既に関係が成立してゐたものと信じてゐたらしかつた。

 そして、野枝さんの出奔は予(あらかぢ)め僕との合意の上でやつたことのやうに考へてゐるらしかつた。

 国の親が捜索願いを出したり、婚約の男が怒つて野枝さんを追ひかけて上京すると云ふやうなことが伝えられた。

 一番神経を痛めたのは勿論校長で、若(も)し僕があくまで野枝さんの味方になつて尽す気なら、学校をやめてからやつてもらひたいと早速切り出して来た。

 如何(いか)にも尤(もっと)も千万(せんばん)なことだと思つて僕は早速学校をやめることにした。

 ……たうとう野枝さんと云ふ甚だ土臭い襟アカ娘のために所謂(いわゆる)生活を棒にふつてしまつたのだ。

 無謀と云へば随分無謀な話だ。

 しかしこの辺がいい足の洗い時だと考へたのだ。

 それに僕はそれまでに一度も真剣な態度で恋愛などと云ふものをやつたことはなかつたのだ。

 さうして自分の年齢(とし)を考へてみた。

 三十歳に手が届きさうになつてゐた。

 一切が意識的であつた。

 愚劣で、単調なケチ/\した環境に永らく圧迫されて圧迫されて鬱結してゐた感情が時を得て一時に爆発したに過ぎなかつたのだ。

 自分はその時思う存分に自分の感情の満足を貪り味はうとしたのであつた。

 それには洗練された都会育ちの下町娘よりも、熊襲(くまそ)の血脈をひいてゐる九州の野性的な女の方が遙かに好適であつた。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p6~7/『ですぺら』_p176~179/『辻潤全集 第一巻』_p385~387)





 堀切利高編著『野枝さんをさがして』(p21)によれば、辻と一緒に西原も上野高女を辞めるはずだったが、ある事情(その事情は不明)でそうしなかった。

 校長も教頭・佐藤政次郎(まさじろう)も、辻と野枝はすでに関係ができていて、野枝が婚家から出奔して辻の家に入るのは、あらかじめふたりが合意していたことであると見ていたようである。

 辻も野枝も心外だったろう。

 辻としては、因習を打破しようとして窮地に追い込まれている教え子を救うべく尽力しているうちに、自然にふたりは恋愛感情を持つようになったのだ、と周りに解釈してほしかったにちがいない。

 野枝も「出奔」で、辻との恋のためだけに家出したと思われることが不快だと書いているが、彼女としても出奔はまず因習打破のための実際行動であり、辻との恋はその過程で成立したのだと、主張したいのである。

 順序が逆で辻と恋愛に陥ったから出奔したとなれば、それこそ姦通罪に問われかねないので、野枝にとっては重要なことだった。





『野枝さんをさがして』(p75)によれば、佐藤も西原も結局、一九一五(大正四)年に上野高女を去るが、西原はその後、雑誌『地上』を創刊。

 野枝は『地上』に寄稿した原稿で、上野高女五年時の自分と西原についてこう言及している。

 
 もつとも私の苦しみのひどかつた時代であり最も私の学校生活の幸福な時代でありました。

 ……私の一生の前半生に於ける最大の危機でもありました。

 来るべき爆発に対する恐怖時代でありました。

 私のこの最大の危機に於いて兎にも角にももがきもだへてゐる私をとう/\無事に私の学校生活を終らして下さいましたのが西原先生でございました。

 もしもあの最後の一年間に於いて先生がお出にならなかつたら私の性来の一徹な狂ひ易い感情は抑へるものゝないまゝに私の持つたあらゆる無分別と自棄を誘つて真直に自身を死地に導いたに相違ありません。


(「西原先生と私の学校生活」/『地上』1916年3月20日・第1巻第2号/堀切利高『野枝さんをさがして』_p26~27)


 上野高女時代の野枝と言えば、辻との出会いにスポットを当てられがちだが、野枝にとって西原の存在も大きかった。

『地上』には辻も寄稿しており、西原、辻、野枝の三人の交流は、三人が上野高女を去った後も続いていたようだ。



★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)



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第33回 出奔(五)






文●ツルシカズヒコ





 一九一二(明治四十五)年四月十五日付けの辻の手紙は、こう続いている。


 然し問題は兎に角汝がはやく上京することだ。

 どうかして一時金を都合して上京した上でなくつては如何(どう)することも出来ない。

 俺は少くとも男だ。

 汝一人位をどうにもすることが出来ない様な意気地なしではないと思つてゐる。


「出奔」/『青鞜』一九一四年二月号・第四巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103)


 野枝の脳裏をいろいろなすべての光景が一度になって過ぎて行った。

 今までまるでわからなかった国の方の騒ぎも、いくらかかわるような気もするし、学校での様子などもありありと浮かんできた。


 そうして若し汝の父なり警官なり若しくは夫と称する人が上京したら逃げかくれしないで堂々と話をつけるのだ。

 九日附の手紙をS先生に見せたのも一つは俺は隠くして事をするのが嫌だからだ。

 姦通など云ふ馬鹿々々しい誤解をまねくのが嫌だからだ。

 イザとなれば俺は自分の位置を放棄しても差支ない。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))

 野枝の目は「姦通」という忌まわしい字の上に落ちて止まった。

「本当にそうなのかしら……」

 野枝は身震いしたが、末松福太郎が憎らしいよりも滑稽になってきた。

 あの男にそういうことが言える確信が、本当にあるのかおかしくなってきた。

「私妻」などと書かれたことの腹立たしさよりも、麗々しく書いた男が滑稽に思えてきた。

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 俺はあくまで汝の身方になつて習俗打破の仕事を続けやうと思ふ、汝もその覚悟でもう少し強くならなければ駄目だ。

 兎に角上京したら早速俺の処にやつてこい。

 かまはないから、俺の家では幸にも習俗に囚はれてゐる人間は一人もゐないのだから。

 母でも妹でも随分わけはわかつてゐる。

 そうして俺を深く信じてゐるのだ。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))


 いろいろな感情が一時に野枝をかき回し、それが鬨(とき)の声を挙げて体中を荒れ狂うように走った。


 遠慮せずにやつて来るがいゝ、だが汝はきた上でとても俺の内に辛抱が出来ないと思つたら、何時でもわきに行くがいゝ俺は全ての人の自由を重んずる。

 兎に角東京へくれば道はいくらでもつく、そんなに心細がるなよ、だが汝は相変らず詩人だな、まあ其処が汝の尊いところなのだ。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))





 野枝は辻の愛をこんなにも早く受けようとは思いもしなかった。

 ただ彼女の気持ちをときどき不快にするのは、辻との恋のためだけに家出したと思われることだった。

 彼女はなんとはなしに、自分にまで弁解がましいことを考えていた。

 けれどもそれもひとつの動力になっていると思えば、そんなことはもう考えていられなくなり、今すぐにでも上京したくなった。


 俺は近頃汝のために思ひがけない刺戟を受けて毎日元気よく暮してゐる。

 ずいぶん単調平凡な生活だからなあ。

 上京したらあらいざらひ真実のことを告白しろ、其上で俺は汝に対する態度を一層明白にする積りだ。

 俺は遊んでゐる心持をもちたくないと思つてゐる。

 なんにしろ離れてゐたのぢや通じないからな、出て来るにも余程用心しないと途中でつかまるぞ、もつと書きたいのだけれど余裕がないからやめる。(十五日夜)


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))





 野枝は目を据えて東京に着いたときのことを、いろいろに想像してみた。

 そして、上京するまでの間に見つかるなどということを、それまで少しも考えなかったので、急に不安で胸が波打った。

 辻からの手紙を読み終えた野枝は、しばらく唖然としていた。

 空っぽになった頭に、早く行きたいという矢も盾もたまらない気持ちが、いっぱいに広がった。

 いつにない楽しい気持ちで、電報為替をじっと見つめながら、鏡を出して頭髪に差したピンを一本一本抜いていった。

「出奔」に書かれている辻の手紙の文面は、辻が実際に野枝宛てに書いた手紙の文面だと考えてよいのだろう。

 そうなると、このとき野枝が辻に宛てて書いた手紙の文面も知りたくなるが、残念ながら、その手紙は空襲で焼失し現存していない。

 しかし、辻のハートを一気に鷲づかみにする文面だったのだろう。

「あきらめない生き方・その二」も、野枝の手紙文を書く文才が、新たな道を切り拓いたことになる。



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




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第32回 出奔(四)






文●ツルシカズヒコ



 辻からの手紙、四月十三日の文面にはこう書いてあった。


 今日帰ると汝の手紙が三本一緒にきてゐたのでやつと安心した。

 近頃は日が長くなつたので晩飯を食ふとすぐ七時半頃になつてしまふ。

 俺は飯を食ふとしばらく休んで、たいてい毎晩の様に三味線を弄ぶか歌沢をうたう。

 或は尺八を吹く。

 それから読む。

 そうすると忽ち十時頃になつてしまふ。

 何にか書くのはそれからだ。

 今夜はこれを書き初める前に三通手紙を書かされた。

 俺は敢て書かされたと云ふ。

 Nヘ、Wへ、それからFヘ、なんぼ俺だつてこの忙しいのに、そう/\あつちこつちのお相手はできない。

 それに無意味な言葉や甘つたるい文句なぞを並べてゐるといくら俺だつて馬鹿/\しくつて涙がこぼれて来らあ。

 人間と云ふ奴は勝手なものだなあ。

 だがそれが自然なのだ。

 同じ羽色の鳥は一緒に集まるのだ、それより他仕方がないのだ。

 だが俺等の羽の色が黒いからといつて全くの他の鳥の羽の色を黒くしなければならないと云ふ理屈はない(十三日)


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p101)


「Nへ、Wへ、それからFへ」三通手紙を書かされたとあるのは、野枝失踪に関する始末書のようなものか。

 Nは西原、WとFは校長と教頭だろうか。

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 学校へ「トシニゲタ、ホゴタノム」と云ふ電報がきたのは十日だと思ふ。

 俺はとう/\やったなと思つた。

 しかし同時に不安の念の起きるのをどうすることも出来なかつた。

 俺は落ち付いた調子で多分東京へやつてくるつもりなのでせうと云つた。

 校長は即座に「東京へ来たら一切かまはないことに手筈をきめやうぢやありませんか」と如何にも校長らしい口吻を洩らした。

 S先生は「知らん顔をしてゐようじやありませんか」と俺にはよく意味の分らないことを云つた。

 N先生は「兎に角出たら保護はしてやらねばなりますまい」と云つた。

 俺は「僕は自由行動をとります。もし藤井が僕の家へでもたよつて来たとすれば僕は自分一個の判断で措置をするつもりです」とキツパリ断言した。

 みんなにはそれがどんな風に聞えたか俺は解らない。

 女の先生達は唯だ呆れたといふ様な調子でしきりに驚いてゐた。

 俺はかうまで人間の思想は異ふものかと寧ろ滑稽に感じた位だつた。

 S先生はさすがに汝を稍や解してゐるので同情は充分持つてゐる。

 だが汝の行動に対しては全然非を鳴らしてゐるのだ。

 俺はいろ/\苦しい思を抱いて黙つてゐた。

 その日帰ると汝の手紙が来てゐた。

 俺は遠くから客観してゐるのだからまだいゝとして当人の身になつたらさぞ辛いことだらう、苦しいことだらう、悲しいことだらうと思ふと俺は何時の間にか重い鉛に圧迫されたやうな気分になつて来た。

 だが俺は痛烈な感に打たれて心は勿論昂(たかぶ)つてゐた。

 それにしても首尾よく逃げおうせればいいがとまた不安の念を抱かないではゐられなかつた。

 俺は翌日(即ち十二日)手紙を持つて学校へ行つた。

 勿論知れてしまつたのだから秘(かく)す必要もない。

 そうして手紙を見せて俺の態度を学校に明かにする積りだつたのだ。

 で、俺は汝に対してはすこしすまない様な気はしたがS先生に対しても俺は心よくないことがあるのだから。
(十四日)


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p101~102)


 S先生は佐藤教頭、N先生は西原のことであろう。





「十五日夜」の辻の手紙によれば、四月十二日、辻宛てに末松福太郎から極めて露骨なハガキが舞い込んだ。

「私妻伊藤野枝子」という書き出しだった。

 野枝はたぶん上京しただろうから、宿所がわかったらさっそく知らせてくれ、父と警官と同道の上で引き取りに行くという。

 さらに自分の妻は姦通した形跡があるとか、同志と固く約束したらしいというようなことが書いてあった。

 辻は野枝が去年の夏、結婚したという話は薄々聞いていた。

 しかし、どういう事情でなされた結婚なのかは知らなかった。


 ……汝が帰国する前になぜもつと俺に向つて全てを打ち明けてくれなかつたのだとそれを残念に思つてゐる。
 
 少くとも先生へなりと話して置けば俺等はまさか「そうか」とその話を聞きはなしにしておくような男ぢやない。

 それは女としてそう云ふことは打ち明けにくからう。

 しかしそれは一時だ汝が全てを打ち明けないのだからどうすることも出来ないぢやあないか。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p102~103)





 野枝は夏休み明け以降の、ほとんど自棄のような生活を思い浮かべていた。

 野枝は何度かその苦悶を西原先生に訴えようとした。

 しかし、考えることの腹立たしさに順序を追って話の道筋を立てることができなかった。

 そしてなるべく考えないように努めた。

 そのころは、野枝にとって辻は、そんなことを面と向かって話せる相手ではなかった。

 煩悶に煩悶を重ね、焦(じ)り焦りして、頭が動かなくなるほど、毎日そればかり考えていても、考えは決まらなかった。

 月日だけが遠慮なく過ぎ去り、とうとう西原先生にも打ち明ける機会がなくなった。



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年03月20日

第31回 出奔(三)






文●ツルシカズヒコ



 金の問題もあった。

 着替えも持たず、お金も用意する暇もなく、不用意にフラフラと家を出てしまったのだ。

 三池の叔母の家で金を算段するつもりだったが、ついに言い出せなかった。

 そして、家出したことが知れそうになって、思案のあまり志保子の家に来たのだ。

 手紙を出して頼んだら、お金の算段に応じてくれそうな二、三人のあてはあった。

 その手紙の返事を待つ間に連れ返されそうなところは嫌だったので、志保子を頼ったのである。

 しかし、手紙を出して一週間になるが、どこからも返事は来ない。

 もうどうなってもいい。

 なるようにしかならないのだ。

 あの命がけでその日その日を生きていく、炭坑の坑夫のようなつきつめた、あの痛烈な、むき出しな、あんな生き方が自分にもできるのなら、こんなめそめそした上品ぶった狭いケチな生き方より、よほど気が利いているかしれない。

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 親も兄妹もみな捨てた体だ。

 堕ちるならあの程度まで思い切ってどん底まで堕ちてみたい、というふうなピンと張った恐ろしく鳴りの高い調子のときもあるが、すべてのものに反抗して自分で切り開いた道の先は、真っ暗で何もないかもしれない。

 自分を自由に扱える喜びに浸れたのは、このまま逃れようと決心した瞬間だけだった。

 今日まで一日だって明るい気持ちになったことはない。

 肉親という不思議なきづなに締めつけられて、暗く重苦しい気持ちが離れない。

 上京したら辻を頼るつもりだが、辻の気持ちだってどちらを向くかわからない。

 考えると不安なことばかりだ。

 どうせ人は遅かれ早かれ死ぬのだ。

 どこか人の知らないところへ行って静かに死にたい。

 どうにでもなれという気にもなる。

 考えに考えたが、疲れてしまった。

 もう何も考えまいと思うが、やはりそれからそれへと考えが飛んでいった。





「郵便! 伊藤野枝という人はいますか?」

「はい」

 野枝が出てみると、三通の封書を渡された。

 受け取った封書の一通は西原先生から、一通は辻から、あとの一通は鼠色の封筒に入った郵便局からので開けてみると電報為替だった。

 野枝は西原先生が送金してくれるとは思っていなかったので、目にいっぱい涙が溜まった。

 一昨日に届いた先生からの電報を見たときにも、自分のことを気にかけてくれる気持ちにやはり涙が溢れ、志保子に先生のことを話した。

 野枝はまず西原からの手紙を読んだ。


 御地からの手紙を見て電報を打つた。

 ……金に困るのなら何処からでも打電して下さい、少々の事は間に合せますから、弱い心は敵である。

 しつかりしてゐらつしやい……自分の真の満足を得んが為に自信を貫徹することが即ち当人の生命である。

 生命を失つてはそれこそ人形である。

 信じて進む所にその人の世界が開ける。

 如何なる場合にもレールの上などに立つべからず決して自棄すべからず

 心強かれ 取り急ぎこれ丈け。

 今家へあて出した私の手紙の最後の一通があなたの家出のあとに届いたであらうと思はれる、誰れか開封して検閲に及んだかもしれない、熱した情を吐露した文章であつたからもしそれを見た人があるとすればその人は幸福である。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p99)


 野枝はぐずぐずしていられないと思った。


 先生はこんなにまで私の上に心を注いで下さるか、私は本当に一生懸命にこれから自分の道をどんなに苦しくともつらくとも自分の手で切開いて進んで行かなければならない。

 私は決して自棄なんかしない。

 勉強する、勉強するそして私はずん/\進んでいく。


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p99) 





 西原からの手紙を読み終えた野枝は、最後に辻の手紙を開けた。

 軽いあるうれしさに微かに胸が躍った。

「出奔」に収録されている、辻からの手紙には日付がある。

「八日」「十三日」「十四日」「十五日夜」である。

 辻は野枝からの手紙を受け取った後、そのつど文章をしたため、野枝の落ち着き先に封書にして郵送したのであろう。


 オイ、どうした。

 俺は今やつと『S』を卒業したところだ。

 明日から仕事が始まるのだから……。

 俺は汝(おまえ)を買ひ被つてゐるかもしれないが可なり信用してゐる。

 汝は或は俺にとつて恐ろしい敵であるかもしれない。

 だが俺は汝の如き敵を持つことを少しも悔ひない。

 俺は汝を憎む程に愛したいと思つてゐる。

 俺は汝と痛切な相愛の生活を送つてみたいと思つてゐる。

 勿論悉(あら)ゆる習俗から切り離されたーー否風俗をふみにじつた上に建てられた生活を送つてみたいと思つてゐる。

 汝の其処までの覚悟があるかどうか。

 そうしてお互ひの「自己」を発揮するために思ひ切つて努力してみたい。

 もし不幸にして俺が弱く汝の発展を障(さまた)げる様ならお前は何時でも俺を棄てゝどこへでも行くがいゝ。(八日)


「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p100)


「S」はドイツの哲学者、マックス・シュティルナーのことだ。

「明日から仕事が始まる」とあるから、四月九日から上野高女の新学期が始まるわけだ。



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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