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2016年03月07日

第3回 万屋がお





文●ツルシカズヒコ




 野枝の風貌や資質は祖母・サト(父・亀吉の母)、父・亀吉の血を受け継いでいた。


 野枝さんのお父さんは……漁、挿花、料理、人形造り、音曲、舞踏等、何れも素人離れがしてゐる程の趣味に富んだ人である。

 就中、音曲に秀で、土地でのお師匠さん格である。

 野枝さんの祖母は、幼少から文学を好み、学制設定前に、夜、付近の子女を集めて、女大学または手習ひを教へてゐたほどであつたから、その薫陶も尠なくなかつたであらう。

 また祖母は音曲に趣味を持ち、老後までもそれを捨てなかつた。

 八十近くなつても、村のお祭りには屋台に上つて真先に踊つたほどであつた。

 従つて野枝さんも、七八歳の頃から音律を解し、三味線を弄んでゐた。


(「伊藤野枝年表」_p3~4/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)


「伊藤野枝年表」を執筆したのは、『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』の編集に携った近藤憲二と思われる。

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『炎の女 伊藤野枝伝』の著者、岩崎呉夫が今宿に取材に訪れたのは、一九六二(昭和三十七年)年八月だと推定される。

 岩崎はこのとき、野枝の次兄・由兵衛(当時七十歳)や野枝の叔母・代キチ(一八七六〜一九六六)などに会い話を聞いている。

 代キチは明治九年生まれ(『炎の女 伊藤野枝伝』_p62)なので、当時八十六歳。

 由兵衛もまた野枝の血はサトと亀吉のそれを引き継いでいると語っている。


 亀吉は……生来の芸道楽で、音曲、歌舞、人形つくり、料理などの上手として村内ではその器用さをもてはやされていたという。

 野枝の顔つき、文才、芸才、書の手筋、気質などは、ほぼこの血の流れを受けているようだ。

 サトは今宿の隣りの姪ケ浜村の素封家、藤野武平の二女だが、若いころから文芸趣味にすぐれ、与平に嫁いでからも近所の子弟を集めて習字や勉強をみてやっていたという。

 また芸事も達者で、村の祭りの折などはお師匠さん格であったらしい。

 気性ははげしく、男まさりだった。

 父の亀吉はそのサトの血をうけて、前述したように多芸多彩な器用人で、俳句を巧みにし、この村での師匠格だったという。


(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p57~p59)


 野枝の父・亀吉は美男子として通っていた。


「万屋(よろずや)がお」と村人たちがいっていたのは、この一族に特有の彫りの深い顔立ちのことである。

 鼻筋がとおっていて、眉と眼がややせまっており、眼のまわりの線がくっきりと黒い南国的な風貌である。

 この顔立ちは野枝の兄妹や、野枝の子どもたちにも伝えられている。


井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p15)





 一九〇〇(明治三十三)年、野枝が五歳のころ、亀吉は家業再興をはかり、農産物加工の事業を始めるが失敗に終わった。


 野枝が小学校に入る頃には谷の家屋敷を手放し、東松原の海沿いの借家に移り、手先の器用な亀吉は近在の瓦工場の職人になった。

 亀吉は生来の芸道楽のうえ、職人としての腕も良かったが、気に染まぬ仕事はしないという人だった。

 そのため一家の生活のほとんどをムメが担っていた。


(「伊藤野枝年譜」/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p505)


 ムメは家運の没落、夫の出奔、子だくさん、そうした不幸を背負いながら、働きもの、出稼ぎで有名な「糸島女」の名にふさわしく、堤防工事の日雇いや農家の手間仕事などに出て、この一家を支えた(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』p15~16)。

「近在の瓦工場」というのは、今宿瓦を造る工場である。
 

 もともとこのあたりは、伊万里あたりからの技術が伝えられたものか、瓦では全国有数の地であり、かつて皇居造営のさい全国コンクールで「今宿瓦」は第三位にはいった記録が残っている。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p58)


 福岡市博物館HPによると、今宿で瓦生産が開始されたのは十七世紀ごろで、福岡城へ献納されるほどの品質の高さだった。

 一八八四(明治十七)年からの皇居造営にあたっても、献上した今宿瓦の見本が高い評価を得た。

 しかし、昭和の初めには二、三軒が瓦の製造を行なう程度になり、一九八〇年代前半に今宿での瓦製造は終わりを迎えた。

 日本の一般家屋に瓦ぶきが普及したのは明治に入ってからで、今宿瓦の最盛期もおそらくそのころだったのだろう。

 福岡市博物館のHPには亀吉が「名人肌」だった鬼瓦の写真も載っている。





 亀吉が今宿瓦の職人だったころのエピソードを、野澤笑子(野枝の三女・エマ)が伝え聞いている。

 サトとムメが台所で亀吉の陰口を言っていると、野枝が「父ちゃんに言い付けてくる」と駆け出したという。

 サトとムメは学齢にも達しない女の子が、一里もある行ったことのない父親の仕事場に行けるわけがないと放っていたが、夕方近くになっても戻ってこない。

 ふたりは不安になったが、野枝は父親に手を引かれ意気揚々と帰って来た。

 野枝が言うにはーー。


「一人で西へ向かって歩いてゆくとだんだん足が痛くなって来た。すると後から荷馬車が来て馬方のおじさんが何処へゆくのかと聞くので、高田の瓦工場へ父ちゃんを向(ママ)かえに行くと言ったら、小さい子供が歩いては無理だと乗せてくれた」

(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)


 同じエピソードを野枝の妹・武部ツタが、井出文子に語っている。

 亀吉の留守をいいことに、祖母と母が世間話のあげく、亀吉の甲斐性なしを嘆きあしざまに罵った。

 そのころ亀吉は村人たちから「甲斐性なしの極道」と呼ばれていたのである。

 野枝は幼いながら父が非難されているのがわかると、父への同情が抑えきれず、家を出て瓦工場に向かった。

 夕暮れもせまって不安になってきたころ、亀吉が帰ってきた。


 亀吉の背には気持ちよさそうにねむりこけている幼い娘がいた。

 その顔をみて、母親はハッと昼間の鬱憤ばらしをおもいだした。

 そして恐いおもいで娘を見直したというのである。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p19)


 井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p19)によれば、ツタは亀吉が瓦工場の職人だったころのエピソードをもうひとつ、井出文子に語っている。

 亀吉は腕のいい職人で特に「鬼瓦」を作る腕は「名人肌」と言われていたが、気分屋で気が向かないと仕事に出かけないし、給金も自分で取りに行かない。

 瓦工場に給金を取りに行くのは母かツタだったが、野枝も一度取りにやらされたことがあった。

 工場には瓦や粘土がうず高くつみあげられ、暗くしめった土間のむこうには一段と高い座敷があり、四角火鉢のまえに工場主がどっかりと坐り、くわえぎせるで紙でひねった金を投げてよこすのである。

 野枝はその後、二度と瓦工場には行かなかったという。





 井出は亀吉と野枝の関係性を、こう分析している。


 彼女は父亀吉の秘蔵っ子とみなにいわれていた。

 他の男の子たちには気むずかしい亀吉だったが、野枝にだけは怒った顔をみせたことがなかった。

「甲斐性なしの極道」といわれていた亀吉は、己れの感情の自由に生きた人であり、それゆえにそのつけを、貧乏や世間からの悪口などのかたちで受けとらねばならなかった。

 その頑固で悲しいおもいをわかちあってくれるのは、妻でも母でもなく、むしろ幼い娘の野枝であった。

 野枝には父と同質の感受性があり、それゆえ父の感情の内側に入り、いわば同志といってもいい信頼が二人の間でできあがっていたのではなかろうか。

 父親ゆずりのゆたかな感受性を受けついだことによって、野枝は貧しいくらしの中に育ったにもかかわらず、つやと魅力にみちた女として成長した。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p20)


 このころの野枝にとって、男前で器用で芸達者な亀吉は自慢の父であり、尊敬の対象だっただろう。

 しかし、近代化が急激に進捗中の社会では、父のそうした能力は評価されない。

 感受性が強かった野枝は、なにかすっきりしないものを感じ始めていただろう。

 特に今宿瓦の工場主の使用人に対するゾンザイな態度にーー。

 金が人間を支配するようになった世の中にーー。



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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2016年03月05日

第2回 日清戦争





文●ツルシカズヒコ





 野枝が生まれた一八九五(明治二十八)年、辻潤は十一歳である。

 ネットサイト「辻潤のひびき」の「辻潤年譜」と『辻潤全集 別巻』(五月書房)の「辻潤年譜」によれば、辻は一八八四(明治十七)年十月四日、東京市浅草区向柳原町で生まれた。

 父・六次郎(〜一九一〇)と母・美津の第一子、長男である。

 辻は浅草区猿尾町の育英小学校尋常科に入学したが、十一歳のころは三重県津市にいた。

 野枝が生まれた一八九五年一月、辻は津市内の尋常小学校四年である。

 辻一家が東京から津に移住したのは、父・六次郎が親戚筋の三重県知事を頼り三重県庁に奉職したからである。

 辻一家は津には三年ほど滞在したようだが、そのころ辻は賛美歌に惹かれてキリスト教の講義所(教会)に通っていた。


 やがて日清戦争というものが始まった。

 国民の排外熱は恐ろしく炎え立った。

 恐らく自分の中にも愛国的熱情が萌したものか、あるいはクラスメートの迫害が恐ろしくなったのか、いつの間にか私は講義所通いを中止にした。

 一家が再び東京へかえったのは、たぶん明治二十七年、戦争中の間だと記憶する。


(「ふりぼらす・りてらりや」/『辻潤全集 四巻』_p271)

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉栄は一八八五(明治十八)年一月十七日、父・東(あずま/一八六〇〜一九〇九)と母・豊(とよ/一八六三〜一九〇二)の第一子として香川県丸亀町で生まれた。

 父・東は丸亀十二連隊の陸軍少尉であったが、大杉が生まれた年の六月ごろ近衛三連隊に転属になり、大杉一家は東京市麹町区番町に移り住んだ。

 大杉は三歳のころ、東京府立麹町区富士見小学校付属幼稚室に入っている。

『日録・大杉栄伝』(p13)によれば、大杉が富士見小学校付属幼稚室で「六ケ月保育ヲ受ケタルヲ証ス」保育証書が保存されていて、一九八七(昭和六十二)年の同幼稚園創立百周年記念祭で展示されたという。

 一八八九(明治二十二)年、大杉が四歳のとき、父・東が歩兵十六連隊へ異動になり、大杉一家は新潟県新発田本村(ほんそん)に移住した。

 大杉の父・東は第二大隊副官(中尉)として日清戦争に出征、威海衛攻略で功を収めた。

 威海衛での激戦があったのは、一八九五(明治二十八)年一月末〜二月初めであり、ちょうど野枝が生まれたころだったが、大杉はこのとき十歳、新発田本村尋常小学校四年である。

 新発田本村尋常小学校は、現在の新発田市立外ヶ輪(とがわ)小学校であるが、ウィキの「著名な出身者」に大杉栄の名前はない。

 大杉は父・東から母・豊に宛てた威海衛の激戦を伝える手紙について、こう記している。


 或日僕は学校から帰つて来た。

 そしていつもの通り『たゞ今』と云つて家にはいつた。

 が、それと同時に僕はすぐハツと思つた。

 母と馬丁のおかみさんと女中と……長い手紙を前にひろげて、皆んなでおろ/\泣いてゐた。

 僕はきつと父に何にかの異状があつたのだと思つた。

 僕は泣きさうになつて母の膝のところへ飛んで行つた。

『今お父さんからお手紙が来たの。大変な激戦でね、お父さんのお馬が四つも大砲の弾丸に当たつて死んだんですつて。』

 母は僕をしつかりと抱きしめて、赤く脹れあがつた大きな目からぽろ/\涙を流して、其の手紙の内容をざつと話してくれた。


(大杉栄「自叙伝・最初の思出」・『改造』1921年9月号/大杉栄『自叙伝』_p34・改造社/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p34 ※引用は改造社『自叙伝』)


 ちなみに『日録・大杉栄伝』の著者、大杉豊(一九三九〜)は大杉栄の次弟・勇の子息である。





 平塚らいてうは一八八六(明治十九)年二月十日、会計検査院勤務の父・定二郎(一八五九〜一九四一)と母・光沢(つや/一八六四〜一九五四)の間に、東京市麹町区三番町で生まれた。

 らいてうは第三子、三女だったが長女が夭折、らいてうよりひとつ年上の次女の名は孝(たか)、らいてうの本名は明(はる)。

 天皇崇拝者であった父・定二郎が孝明天皇の名にあやかり、次女に「孝」、三女に「明」と命名したのである。

 一八九〇(明治二十三)年、四歳のらいてうは富士見小学校付属幼稚室(幼稚園)に入園しているが、大杉は前年に同園を卒園しているので、らいてうと大杉は一年違いの同窓ということになる。

 一八九四(明治二十七)年、平塚一家は本郷区駒込曙町一三番地に移転したので、らいてうは富士見小学校から誠之(せいし)小学校に転校した。

 日清戦争が終結したとき、らいてうは誠之小学校尋常科四年だったが、クラス担任の二階堂先生という青年教師が黒板に書いた文字が、忘れがたい記憶として残ったという。


 ……露、英、仏の三国干渉のため、戦勝日本が当然清国から割譲されるべきであった遼東半島を熱涙をのんで還附したことの次第を、わかり易く、じゅんじゅんと語り、「臥薪嘗胆」を子供心に訴えられたことでした。

 教室には極東の地図がかけてありましたが、それはいうまでもなく遼東半島のところだけ赤く塗りつぶしたものでした。

 話しながら先生が黒板に、特に大きく書かれた「臥薪嘗胆」の文字は今も心に浮びます。


(平塚らいてう『わたくしの歩いた道』/『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』_p27~28)


 誠之小学校は現在の文京区立誠之小学校であり、ウィキの「主な出身者」にはらいてうの名も連なっている。




 
 日清戦争が終結して朝鮮から帰った野枝の父・亀吉は、女児の誕生に喜び、野枝は父親の秘蔵っ子になった。

 野枝はやんちゃで元気がよかった。

 野枝の三女・野澤笑子(エマ)が書いている。


 ……自分の気に入らないと大声で泣き喚く。

 大きな口を横にひらいて丁度七輪の口のような形になるので、二人の兄は「ほーら、七輪が熾(おこ)ってきたぞ。団扇持って来い」と、泣いている妹の口もとでバタバタと煽いでからかっていた。


(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)



★『辻潤全集 別巻』(五月書房・1982年11月30日)

★『辻潤全集 四巻』(五月書房・1982年10月10日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16)

★大杉栄『自叙伝』(改造社・1923年11月24日)

★大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』(1925年7月15日)

★平塚らいてう『わたくしの歩いた道』(新評論社・1955年3月5日)

★『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』(日本図書センター・1994年10月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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2016年03月02日

第1回 今宿





文●ツルシカズヒコ



 伊藤野枝は一八九五(明治二十八)年一月二十一日、福岡県糸島郡今宿村大字谷一一四七番地で生まれた。

 現住所は福岡市西区今宿一丁目である。

 戸籍名は「ノヱ」。

 野枝が生まれる直前の伊藤家の家族構成はーー。

 祖母(父・亀吉の母)・サト(五十三歳)

 父・亀吉(二十九歳)
 
 母・ムメ(二十八歳)

 長男・吉次郎(五歳)

 次男・由兵衛(三歳)

 五人家族だが、野枝が生まれたこのとき、父・亀吉は不在だった。

 前年八月に始まった日清戦争に軍夫として徴用され朝鮮にいたからである。

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 野枝の四女・王丸留意(ルイズ/離婚後、伊藤ルイに改名)は、祖母・ムメから伝え聞いていた話を、井出文子にこう語っている。


 母が生まれた夜はとても寒い晩でみぞれまじりの雪がふっていました。

 祖父はいなくて産婆さんも呼べなかったので、祖母はひとりで母を産んだそうです。

 そのときの産声があまりに大きかったので、祖母はたぶん男の子だろうと思ってほうっておいたのだそうです。

 男の子はもうふたりもいましたし、暮しもらくでなかったからどうでもいいという気持ちだったのでしょう。

 そのあとで男の子に呼ばれて祖母の姑になる曽祖母がきてくれて、よくみますと赤子は女の子だったので、曽祖母ははじめての女子じゃとよろこび、産湯をつかわしたりして、それで赤子は生命(いのち)をまっとうしたのだそうです。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p12)


 野枝の三女・野澤笑子(えみこ/エマ/一九二一〜二〇一三)はこう記している。


 母、伊藤野枝が生まれたのは明治二十八年一月、当時でも珍しい大雪の未明であった。

 父親は日清戦争に出征中で、びっくりする程大きな産声をあげた。

 上に二人の男子がおり、昔の人は暢気なもので祖母のサトは、

「又、男ぢゃろう、夜が明けてから産婆を呼べばいい」

 と言う。

 それでも母親のムメはそっと蒲団を持上げて見て、女の子であることを告げると素破一大事とばかり、祖母はとび起きて産婆へ走るやら、お湯を沸かすやら大騒ぎを演じたという。


(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)


 野枝の遺児たちが母・野枝が生まれたときのことを知っているのは、大杉栄と野枝が虐殺された後、遺児たちが野枝の今宿の実家に引き取られ、そこで育ったからだ。

 野枝が虐殺されたとき、三女・エマは二歳、四女・ルイズは一歳だった。

 母・野枝についての記憶がまるでない孫たちに、ムメは野枝の思い出を繰り返し繰り返し語って聞かせていたのである。

 それは無意識だったとしても、野枝の記憶を風化させたくないという、ムメの願いがあったからなのだろう。





 野枝の父・亀吉と母・ムメの間には野枝の下にも四人の子供が生まれた。

 祖母・サト(一八四二〜一九二二)
 
 父・亀吉(一八六六〜一九三六)
 
 母・ムメ(一八六七〜一九五八)

 長男・吉次郎(一八九〇〜一九〇八)
 
 次男・由兵衛(一八九二〜一九六七)
 
 長女・野枝(一八九五〜一九二三)
 
 次女・ツタ(一八九七〜一九七八年六月)

 三男・信夫(一九〇六/夭折)
 
 四男・清(一九〇八〜一九九一)
 
 五男・良介(一九一六/夭折)

 伊藤家は祖母・サトを入れて総勢十人家族ということになるが、三男・信夫と五男・良介は夭折し、長男・吉次郎も野枝が十三歳のときに満州で病死(十八歳)しているので、野枝が成人した後の伊藤家は七人家族であった。

 祖母・サトは野枝が虐殺される前年、一九二二(大正十一)年に八十歳で死去。

 父・亀吉=七十歳、母・ムメ=九十一歳、次男・由兵衛=七十五歳、次女・ツタ=八十一歳、四男・清=八十三歳。

 伊藤家の人々が永眠した年齢を見ると、多産多死時代の「多死」を逃れた面々は総じて長寿だった。





『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』、井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、 伊藤家は海産物問屋・諸国廻槽問屋を営む「萬屋」(よろずや)という屋号の旧家であり、幕末から明治初期にかけての曽祖父・儀八(一八〇六〜)の代に、主要な貢米取扱地だった今宿において家業は最盛を迎えた。

 しかし、祖父・與平(一八三五〜一八八四)の頃から没落し始め、父・亀吉の代になってからいよいよ家業は思わしくなくなっていた。

 長女に「ノヱ」と命名したのは、伊藤家の家業全盛時に生きた野枝の曽祖母・ノヱにあやかり、家業再興の願いがこめられていたからである。

 野枝の曽祖父・儀八は、九州男児の度胸一本で荒海に乗り出し財を成した。


 松原に茶室を設けたり、他に土地や船なども持っていた……。

 しかし、政治、社会の変革はこの商家の繁栄を奪い、儀八の死後与平が相続し、またその六年後一八九一(明治二十四)年に家督を野枝の父亀吉が継いだときには決定的に家は没落した。

 戸籍をみると亀吉の相続と前後して、亀吉の妹マツ、モト、キチの二十歳をかしらにした三姉妹は、熊本、三池などに分家または養女として離籍されている。

 これは彼女たちが結婚してのことではなく、おそらく一家の窮乏を救うためのものらしい。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p14)





 亀吉は家督を継ぐとともに、今宿村の農民・若狭伊平(伊六ともある)の次女・ムメと結婚した。

 今宿村について、野枝はこう記している。


 私の生まれた村は、福岡市から西に三里、昔、福岡と唐津の城下とをつないだ街道に沿ふた村で、父の家のある字(あざ)は、昔陸路の交通の不便な時代には、一つの港だつた。

 今はもう昔の繁栄のあとなど何処にもない一廃村で、住民も半商半農の貧乏な人間ばかりで、死んだやうな村だ。

 此の字は、俗に『松原』と呼ばれてゐて戸数はざつと六七十位。

 大体街道に沿ふて並んでゐる。


(「無政府の事実」/『労働運動』1921年12月26日・3次1号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p654/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p310)


「無政府の事実」冒頭のこの文章の初出は、一九二一(大正十)年発行の『労働運動』なので、野枝が二十六歳のころの今宿である。

 街道とは唐津街道のことだ。

 野枝は明治維新から半世紀余を経た大正末期に、昔、つまり江戸時代の繁栄のあとなどどこにもない一廃村で死んだよう村だと今宿のことを書いているのである。

 ウィキペディア[今宿村(福岡県)]によれば、今宿村が発足したのは一八八九(明治二十二)年四月、今宿村が近隣と合併して糸島郡に編入されたのが一八九六(明治二十九)年四月。

 福岡市へ編入されたのは一九四一(昭和十六)年十月である。

 野枝の出生地は「糸島郡今宿村」とされているが、彼女の出生時には今宿村はまだ糸島郡に編入されていない。





 今宿の没落については井出文子の説明がわかりやすい。


 徳川幕藩体制のもとでは、この村は藩内交通の結節点として港を持ち、また唐津、長崎へむかう街道の宿場としても繁盛していたのである(糸島郡教育会編『糸島郡史』)。

 だが廃藩置県、経済流通経路の変化、鉄道の開通はこの村の繁盛をおき去りにした。

 明治中期にはいり北九州一帯の石炭産業の興隆をそばにみながら、この村はいわば陥没地帯として、今宿瓦などのささやかな産業をのぞいてはなにもない一寒村となっていった。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p12)


 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』によれば、福岡県糸島郡教育会編『糸島郡誌』は一九二七(昭和二)年に発行されているが、今宿村についてはこう記されている。


 今宿村は……現在戸数五〇〇、現在人口二、九四五なり。……明治四十三年北筑軌道敷設せられ、また大正十四年四月十五日北九州鉄道開通し交通大いに便なるに至れり。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p54)


 野枝の生家と育った家の現況(二〇一五年現在)については、田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(p114~)に詳しい。

 同書によれば、野枝の生家は現在「唐津街道……に面した住宅で、そこには製畳店の看板がかかっている。……生家の道路を挟んだ向かい側に役場」があるという。

 一九八五年ごろまで、野枝の育った家の木戸近くに「伊藤野枝生誕の地」という標柱があったが、郷土史家・大内士郎の調査により、それは野枝の生家ではなく育った家であることが判明した。

 野枝の育った家には現在、伊藤義行(野枝の甥/父は野枝の次兄・由兵衛?)が暮らしているという。



★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店・2016年10月21日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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