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2015年12月11日

読書感想文『お墓』  おすすめの文章と自分なりの感情

DSC_1489.JPGこんにちわ小谷中広之です
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
決して細かくは書くことはありませんのでご了承ください
私「小谷中広之」が感じた文章を書きたいと思っております

今回のご紹介する本は、一条真也様の「墓じまい、墓じたくの作法」です

一条真也様。1963年福岡県生まれ。(株)サンレー代表取締役兼社長。九州国際大学客員教授。2012年第二回孔子文化賞受賞


気になる文章
●民族学者の新谷尚紀氏が著書「先祖供養のしきたり」で、お墓参りについて次のように述べています
「子供たちや孫たちに、自分がどこからこの世に生まれてきたか、決して一人だけでこの世にいるのではない、先祖があってこそなのだ、また自分もやがてあの世に行って、そんな先祖の一人になるかもしれない、ということを学ぶ良い機会となり、貴重な体験ともなるに違いない」

○小谷中広之の感情・・・お墓参りの意味というのはこういうことを家族一緒に考えることなのかもしれない
お盆とお彼岸、家族みんなでお墓参りしよう

●カトリックは心理カウンセラーの役割を神父に懺悔することで果たしていたが、その慣習がないプロテスタントが多いアメリカでは心理カウンセラーが必要になったという
では、日本はどうなのでしょうか
お仏壇に話しかけることで、自分の心を吐き出せていたとネルケ氏は言います。そして「このまま仏壇がなくなっていくと、日本人の心のバランスが取れなくなるのではないだろうかと心配している」そうです
日本人にはお仏壇がある、さらに考えればお墓があるということでしょう。お墓参りという行為が、いかに日本人の精神安定に必要であるかということです

○小谷中広之の感情・・・先祖に手を合わせ、一言二言会話する、または挨拶をすることは私個人的にも大切なことだと思う
誰にも言えない悩みなどを吐き出せ、悩みこそ解決はしないがお墓やお仏壇に言うことで、何か心のつっかえがとれるような気がしてしまうのは私だけではないだろう

●無縁仏になる原因を「お墓の社会学」の槇村久子氏は次のように整理しています
「墓の無縁化を進めている理由は3つある。一つはこのように家族がさらに小さくなり、個人化すること。二つ目は家族の意識が先祖や過去より子孫や自分の死後など未来に向いていること。三つめはサラリーマン化したことで、「家」を守るという意識が薄れているためである」

○小谷中広之の感情・・・特に個人的に感じることは二つ目の「家族の意識が先祖や過去より子孫や自分の死後など未来に向いていること」
過去も大切な今をつくり出してくれている。それを忘れてはいけないし、それを粗末に扱ってもいけないと思う。今の自分は過去の自分の積み重ねの結果でる。もっと深く考えれば、それはご先祖様があっての今の自分である
未来を見ることは素晴らしいことだが、過去と未来とそして現在の「みる」バランスが人生では肝心だと思う

●いつから葬儀をあげるようになったのか。そして墓地ができたのか
宗教学者の島田裕巳氏は「葬式仏教」への決定的要因について「0葬」で以下のように述べています
「日本の仏教が葬式仏教への道を歩むうえで決定的な要因となったのが、一つは浄土教信仰の浸透であり、もう一つが禅宗による葬儀の開拓である」
つまり仏教が葬儀という葬送儀式を自ら作ってきたということです
前週というのはやはり難しいイメージがありますし、修行が大変と思われています。実際そうですが、でも、僧侶たちが修行に集中するためには経済的な基盤が欲しい。そこで思いついたのが、修行途中で亡くなった雲水の葬儀の方法を俗人の葬儀に応用する道だったのです。ここに日本独特な仏教式の葬儀が確立されました。この禅宗の仏教式葬儀が、臨済宗だけではなく、天台宗、真言宗、さらには浄土宗にも広がっていきます
仏教が葬儀を担うようになり、それがやがて遺骨を管理する、お墓へと繋がっていったわけです

○小谷中広之の感情・・・葬儀は昔から、経済的な理由があったのか
葬儀のなかった時代は、個人個人でそのような今の葬儀に似たような儀式のようなものを行っていたのだろうか
その儀式のようなものを始めたきっかけとはいったいどのようなことだったのだろうか、死者を恐れたのか、死者を尊敬してのことだったのか、祟り的なことを考えてのことだったのだろうか。どちらにせよ、死者という者を考えたことがキッカケだったのであろう

●具体的には骨壺から遺骨を取り出し、一か所に共同埋葬する仕組みが一般的
これを「合祀(ゴウシ)」といいます。あるいは「合葬墓」などともいいます
この用語を複数の死者を同じ墓に葬るという意味でつかわれています
永大供養といっても合祀されれば「無縁仏」と同じではないかと思われるかもしれません。しかし、少し違います
無縁仏とは、管理者が不明な状態ですが、永大供養の場合は最初から後継者がいないことを前提にし、それを管理する寺院や自治体が永久に管理してくれるというものです

○小谷中広之の感情・・・永大供養の場合も、無縁仏の場合も、子孫がお墓参りに来ることがない意味では一緒であろう。結局のところ、永大供養にしても無縁仏にしても中にいる「今の自分がいるのは先祖さまのおかげ、つまり仏様のおかげ様」というお墓参りをする人はほとんど0に近いのだろう

●お墓から取り出した遺骨をどうやって新しいお墓に運ぶのか、です
これは「ゆうパック」で送れます。遺骨を郵送することは決して珍しいことではありません。送り状には「遺骨」あるいは「骨壺」と明記して問題ありません

○小谷中広之の感情・・・何かこのようなことで困っている人がいたら教えてあげよう
以前仕事で、人形供養代行を行ったことがあってしばらくお人形さんをお預かりしていて、お人形供養をしてくれるお寺さんや神社さんの供養の日にちの前にこちらから郵送したときはクロネコヤマトで郵送できた
運送会社さんはどのようなものでも運送してくれるのだと思ったきっかけだったのだが、まさか「遺骨」も運んでくれるとは、とてもありがたい人にとってはありがたい業務である
運転手さんありがとうございます

●少子化が進む現在、墓地にお墓を持つ権利を買ったとして、それを継承してくれる人がいなければ、初めから無縁墓になることを前提して購入することになります
いま海洋葬や樹木葬といった「自然葬」に人気があるのも、こうした継承者の問題が背景にあるからです
また「永大供養墓」というのも登場しています。納骨堂などです。また、お墓を持たずにペンダントなどの「手元供養」という形にする人も増えています
お墓は、後継者がいなくなれば、「無縁仏」として合祀されてしまう運命にあります

○小谷中広之の感情・・・手元葬では、ペンダントなどにして供養するのであろうが、無くしてしまって手元に戻ってこなくなったらどうなるのだろうか、また再発行のように新しく作るのだろうか、そのようなことをしていたらいつしか供養の意味がなくなってしまうような気がして寂しい

●お墓を購入する場合には、土地の使用料として永久使用権というのを購入します。これは土地を購入するわけではありません。お墓を置くスペースを使用する権利だけを購入することになるので、取得権はありませんので永久使用権も非課税です
通常は土地を相続した場合には相続税、不動産取得税、固定資産税など税金がかかりますが、お墓の場合は非課税対象で税金はかかりません
墓じたくのように、新しくお墓を立てる場合はどうでしょうか。墓石の購入やそれに関する工事や施工費用には消費税がかかりますが、それ以外はかかりません。墓石、お仏壇、位牌などもすべて非課税です
お墓の土地を貸している人、つまり土地の所得権を持っている場合にはどうなるでしょうか?この場合も税金はかかりません
お墓の権利に関して注意が必要なのは、誰かに譲渡する場合です。勝手に譲渡はできません。正式に許可を受けて譲渡した場合には、譲渡は可能です。譲渡に関する所得税はかかりません。お墓に関しては非課税ということです

○小谷中広之の感情・・・お墓に関することはすべて非課税と考えて問題なさそうだ

●「樹木葬」
1999年に岩手県一関市の祥雲寺が日本で初めておこないました
樹木葬は「散骨」ではないので、遺骨を砕きません。骨壺に納められたお骨を持参して、30センチほど掘られた穴に入れ、それから土をかけて、山つつじなどを植えます
「死んだら気になって森をつくろう」というエコロジカルなイギリスの葬法は1994年に登場しましたが、これと同じ発想から生まれたのが一関の「樹木葬」です
樹木葬にはいくつかのパターンがあります
「植樹型」遺骨を埋葬した付近に墓碑として植木を植えるもの。樹木にはハナミズキ、サルスベリ、モミジなど、低木が一般的
「メインツリー型」さくらなどシンボリックな木の周りに遺骨を埋葬するもの。一区画一名というのが基本
「墓標型」遺骨を埋葬した付近に、氏名などを書き込んだプレートを設置するもの
「完全埋葬型」東京の小平霊園などが行っているもので、遺骨を「共同埋葬施設」に埋葬するもので、いわゆる「合祀」

○小谷中広之の感情・・・中国には「墓を暴いて死者に鞭打つ」という考え方があるみたいだ。中国の人がみんなすべてがこのような考え方なのかどうかはわからないが、この考え方をすると樹木葬だと簡単に掘られて、鞭を打たれてしまうだろう

●21世紀のぜんざい「宇宙」に目を向けたハイテク葬儀もあります。衛星ロケットに個人の遺骨を乗せて、地球軌道上に打ち上げるというメモリアルサービスが「天空葬」といわれるもの
2014年にはエリジウムスペースが日本での営業を開始しました。費用は1990ドル、約20万円
初の宇宙葬は1997年4月21日、空中発射型ロケットのペガサスロケットによって行われました

○小谷中広之の感情・・・宇宙というのは人間がいなければそもそも存在していないのではないか、つまり宇宙というものは人類が発見し研究し今に至るわけで、この人間がそもそも存在していなければ、この地球上で宇宙を発見できる、または発見することは不可能に近い
そして、死者もまた誰も経験していないから全くわからない、宇宙に今自分がいるということ自体死んでいるので不明なのではないだろうか
結局、宇宙葬も樹木葬も、生きているうちに予約し、そして死ぬまで「自分は宇宙葬で死んだら宇宙に行ける」「死んだら樹木となり地球温暖化防止に役立つ」などという未来型の埋葬意識の強い人がおこなうのであろう
この宇宙葬が広まり世界各国でメジャーな埋葬の一つになった場合、いつの日かスペースデブリつまりは宇宙ゴミ問題の一つになりかねないのではないだろうか
ちなみに自分はこんなことを言ってはいますが、「宇宙葬」に興味津々です。いま現時点で33歳。もし100歳で亡くなるとしたら、あと67年、67年後の宇宙葬とはどのような規模になっているのだろうか。火星に埋葬?月に埋葬?金星や太陽で跡形もなく溶ける埋葬?など様々考えられる

●お墓は足りないのか、はたまた余っているのか
どちらも正解です。お墓も住宅と同じように、過密化と過疎化が影響しています。過密化は霊園や墓地の不足を生み、過疎化は無縁墓を生んできました
これは都会と地方という構図でも説明がつきます。都会ではお墓が不足し、地方ではお墓が余るわけです。余るというのは少し表現が違うかもしれません。使用権が無くなったお墓の区画が多数存在するということです
また核家族化によって、先祖との関係が希薄になったことで、お墓が「家」のものから「個」のものになったことも影響しています
かつて膿瘍に先祖代々の複数の遺骨が一つのお墓に入っていた時代は、少数のお墓で十分でした。ところがいまは個人のお墓ですから、その数は当然増えます。よって、お墓そのものが不足していきます
こうしてみてくると、一戸建てからマンションに都会の住環境が変わってきたように、お墓も納骨堂という集合住宅化していくのは当然なのかもしれません
今や、お墓を住宅感覚で考える時代がきています。先祖や子孫のことを考えれば、あなたなりの答えがきっと見つかるはずです

○小谷中広之の感情・・・宇宙葬に興味がある私ではありますが、子供たちがこれからのお墓についてしっかりと向き合い考えられるようになったら家族会議をして話し合いたいと思います
そんな機会を強制的に作るためには、やはり還暦というイベントが良いのではないだろうか

●無縁墓を防ぐことは、お墓の問題の解決だけではありません。無縁墓になれば、残念ながら「お墓はゴミ」になってしまいます
継承者をしっかりと決まること。決まらなければ共同墓や永大供養墓にするなど、選択肢はたくさんあります。継承者を探せば、逆にお墓はゴミにならずに済むということです

○小谷中広之の感情・・・お墓をゴミにさせないためにも一人一人考える機会をつくろう
これ以上地球のごみ問題を悪化させないためにも、考えてみよう
例えば不謹慎かもしれませんが案として「リサイクル」「リユース」なども視野に入れて見る必要が出てくるのではないだろうか

●NHK大型企画開発エグゼクティブプロデューサーの高間大介氏は著書「人間はどこから来たのか、どこへ行くのか」において
「花を手向けたか堂かは別にして、ネアンデルタールが遺体をきちんと埋葬していたらしい事は多くの遺跡で確かめられている。石で念入りに覆った埋葬例も見つかっている。死者を守ろうとしたのか、あるいは逆に死者を恐れたのかは不明だというが、死という意識があったのは間違いないのだろう。それ以前のヒト祖先になると、もうわからない。埋葬した例も見つかっていない」
「最近の考古学調査からは、農耕が始まる前から、人々は定住生活に移っていたらしいと分かってきている。じわじわと人口が増え、狩猟採集に適した土地を占有しようという動きが出ていたのだろう。その戦友の根拠が「昔からここで暮らしていた」という事実であり、その事実をわかりやすく周りに示すのが先祖の墓というわけだ。この時から、死は個人や家族の死という意味だけでなく、共同体の一員の死という側面を色濃く持つようになった、といえるだろう」

○小谷中広之の感情・・・私の苗字は「小谷中(コヤナカ)」この苗字は埼玉県春日部市に多い。私自身も春日部出身者です。まさに小谷中家のお墓参りをするととても古いお墓があります。これもまさに「小谷中家」が代々その土地にいたことを示す動かぬ証拠である

●鳥葬といえば、遺体を禿鷹に食わせる残酷な葬法と思われるかもしれませんが、遺体をついばむ禿鷹が死霊をその死後の住処である天空界へと導くものとする観念に支えられているチベット人にとっては至極当然の葬法なのです
言い換えれば、死霊への恐怖は、死霊に幸せな他界に再生してもらいたいと思いと裏腹の関係にあるのです
葬法は死の儀礼の出発点です

○小谷中広之の感情・・・チベット死者の書を要約購入しました。まだ読んでいないのですが、ここに描かれていることを意識しながら、読みたいです

●死者が生前にいかに愛されていようとも、腐敗していく遺体は生者に嫌悪感を与え、死霊への恐怖を起こさせます。人類に共通して認められるのは死者が怖がられる存在である
○小谷中広之の感情・・・その通りである
腐敗していく遺体は、二人称であっても、もちろん三人称であっても嫌なものでしかない

●お線香は「香食(コウジキ)」といわれ、仏様の食事となります
○小谷中広之の感情・・・この文章を読んでから、お線香をあげるときには「香食」なのだという意識で、お線香をあげています


ここまで読んでいただきありがとうございます。読んでいただいた方の人生での何かのお役に立てればとても嬉しいです

この本の他の文章が気になった方下記のサイトで購入可能です。






2015年12月10日

読書感想文『死生観』  おすすめの文章と自分なりの感情

DSC_1499.JPGこんにちわ小谷中広之です
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
決して細かくは書くことはありませんのでご了承ください
私「小谷中広之」が感じた文章を書きたいと思っております

今回のご紹介する本は、セネカ様の「我が死生観 人間、どう生きるか」です

気になる文章
●老人の中には、自分の年齢以外には長生きしたことを証明できる証拠は何一つ持っていないものをしばしば見かける
○小谷中広之の感情・・・今現在の自分の年齢(自分なら33歳)以外で33年間生きたことを証明するものは何があるだろうか?学歴、資格、友人、知人、家族、親兄弟、仕事の実績、遊びの実績、貯金額、人生観、それ以外は?
そして、「もうあなたは35歳(例)なのだから今さらソレをやってもしょうがない」または「もう俺は35歳(例)だからソレをやってもしょうがない」という諦め、その諦めなければならない年齢以外の証明はなにができるだろうか?証明があまりにも小さなものと自分で判断できるのなら諦める証明にはならない。諦めずに行動に移そう

●寸時も自分の時間を無駄にしない人物でなければ人生は理解できない。彼らは自分に与えられた時間を全て自分に役立つように使うから、その人生は大変長い。一刻もおろそかにせず、無駄にしない。これ以上のケチはないと思えるほど時間を大切にして、わずかな時間すら他人任せにしない。自分の時間と交換するに値するものは存在しないとさえ考えているだから懸命な人の生命は長い。しかし自分の生命を他人に盗み取られている連中は、当然のことながら短命に終わる。しかも彼らは、普段の生命を他人に盗み取られているのに気づかない
自分のすべての時間を自分の内なる要求に合わせて使い、今日を二度とめぐってこない一日として計画するものは、明日を待ち望みもせず明日を恐れもしない

○小谷中広之の感情・・・今日よりいい明日はない
常に今この瞬間を全力で生き抜こう
今の自分は過去の積み重ねの結果でしかない。ならば未来の「今」のために今を一生懸命生き抜き、未来の「今」に向かって行こう

●人生の旅路では、人々が頻繁に往来し踏み固めてった未知ほど、私たちを迷路に引きずり込んでいくのである。だから、羊のように前を行く群れの後を追ってはならない。他人の後を追うのではなく、自分が行くべき道を自分で選んで歩まなければならない
人はなぜ、他人に見せびらかすための幸福に魅せられ、自分自身で深く味わうための幸福を求めようとしないのだろうか

○小谷中広之の感情・・・道のない道を進み、自分の通った後が道になるような人生を歩もう

●うわべだけではない幸福
不変で中身が充実し、人目につかないところこそ美しい、そんなものを丹念に探し求めよう。それは、それほど遠いところにあるわけではない。手を伸ばせば届くところにきっと見つかるものである。ただ必要なことは、どちらに向かって手を差し出せばよいかを知っておくことである

○小谷中広之の感情・・・それにはやはり今の自分の考え方だと3つの投資+αしか考えつかない
「本を読むこと、旅をすること、人に会うこと」+「健康であること」

●あなたは快楽を愉しむが私は快楽の効用を利用する
○小谷中広之の感情・・・バネにならない遊びはしない

●仕事に関連して人を選ぶには特別な注意が必要である。その人には人生を分かち合うだけの価値があるかどうか、自分の時間を犠牲にすれば、その人の時間をそれだけ生かすことになるかどうか、などを考慮する必要がある
○小谷中広之の感情・・・しっかりと考えて選別しよう
その瞬間瞬間、一分、一時間、一日はもう二度と戻っては来ないし、取り返すことすらできないのだから

●金が入ってこないということは、持っている金を失うことに比べればはるかに我慢しやす。だから、運命に一度も顧みてもらえなかったものも、運命に見捨てられるものに比べれば気楽であるといえる
キニク学派の哲学者ディオゲネスにはこのことがよく分かっていたから、奪い取られるようなものは何一つ持たないようにしていた
あるとき、ディオゲネスのただ一人の奴隷が逃亡した。報告を受けたディオゲネスはわざわざ捕まえて連れ戻すほどのこともないと思い、「マーネース(先祖の例)が私ディオゲネスがいなくても暮らしておられるのに、私自身はマーネースがおられなくては生きていけない、というようでは面目が立ちません」と言ったという。しかし、私には、彼はこう叫んだのではないかと思われる。「運命の神よ、どうか、もう私のことはお構いにならないでください。私ディオゲネスは、もうあなたからの授かりものを何一つ持っておりません。私の奴隷が逃亡しました。しかし、自由になったのはこの私でございます」
奴隷の一家をかかえればその着る物や食べ物が必要である。いつも腹を減らしているたくさんの連中を食べさせ、衣料も買ってやらなければならない。手癖が悪いからロいうのでいつも目を光らせていなければならない。それに、彼らは泣いたり悪態をついたり、まったく扱いにくい連中である。自分以外の者には何の義務も負っていないほど幸福なことはない。自分に対してなら、義務の履行をいとも簡単に拒否することができる

○小谷中広之の感情・・・自分の生活を縛ってしまうような、考え方や行動範囲が決まってしまうような、そんなものを一切持たないようにしよう
それにはやはり自分を知ることから始めなければならない

●必要な本だけを買い求めればよいのであって、人に見せびらかすための本は一冊たりとも不要である
○小谷中広之の感情・・・今のところそのような本の買い方をしたことは一度もない

●もといた出発点にもどるのに、なんの辛いことがあろうか。死に際をよくすることを知ろうとしないものは、立派に生きることはできない
死を恐れるものは、生きている人間にふさわしいことなど何一つできないであろう
どんなことでもその発生を予期できるならば、人はあらかじめ備えを固めて待ち構えていることができるから、襲い掛かってくるあらゆる責め苦を緩和することができる
これに反して、無思慮の人間や、幸運だけしか期待しないものを襲う不幸の衝撃は大きい
危険が発生してから、その危険をしのぐために心を整えようとしても、もう遅い

○小谷中広之の感情・・・帰り際、引き際、負け際、死に際など様々な「際」が人生にはある
全ての際はとても大切だと思う。「際」という状態になった時、しっかりと受容しすぐに次の行動に移せるようになるには日ごろからこの「際」ということを勉強し考えて行動していくことが大切だと思う
例えば、自身で経営していた会社が倒産、しかし、会社を最初に立ち上げたときが0ならば、会社が倒産したこと自体はただ単に0にまた戻っただけのこと、と捉えることが肝心なのではないだろうか
早目の受容をすることで、次の行動へのスピードがだいぶ違ってくるだろう


●ジュリアスケイナス
あるとき暴挙無動の暴君カリグラと長々と口論したことがあった。ケイナスが退去するとき、カリグラが彼に向かって「万一にも、愚かな望みをかけて、自分を慰めようとしないがよいぞ、予は汝を死刑にするように命じておいたぞ」と言った。すると、ケイナスは「世にもすぐれたる王子さま、お礼を申し上げます」と答えた
死刑執行までの10日間を、ケイナスは何の不安もなく過ごした。彼の言動、平素な態度はそれを十分に証明していた。暴政の犠牲となった死刑囚たちを引っ張り出していた百人隊の隊長がケイナスに出頭するように命じた時、彼はチェスをさしていた。呼び出しを聞いた彼はボーンの数を数えると相手に向かって「私が死んだ後で、あの勝負は俺の勝ちだったなどと嘘をつくんじゃないぞ」と言うと、今度は百人隊長のほうに向かってうなずきながら「私が1ボーン勝っていたことの証人になってくださいよ」と頼んだ
彼の友人たちはよき友を失うことを悲しんだが、ケイナスは友人たちに「なぜ悲しむのか。あなたたちは人間の魂が不滅かどうかについて思索しているが、私はもうすぐそれを知ることができるのだ」と語りかけた。彼は最後の瞬間まで真理の探求を続け、自分自身をもその思索の対象にしていたのである
ケイナスの哲学の恩師が刑場へ向かう彼に同行した。処刑される小高い丘に近づいたとき、恩師は彼に「ケイナス、あなたは今何を考えていますか。今、どんな心境ですか」と尋ねた。「あの束の間の瞬間がやってきて、霊が肉体を離れるのを意識するかどうかを観察したい、と思っています」

○小谷中広之の感情・・・これがこのケイナスの死に際なのか
こんなことを言えるということはやはりケイナス自身も日ごろから死に際、自分の最終ゴール目前のことをしっかりと見つめ考えていたのだろう

●征服されない強さこそ、攻撃されない強さより質的には本物
そこで中傷を受けない賢人よりも、中傷を受けても動じない賢人のほうが格が上だということを知っておいてもらいたい

○小谷中広之の感情・・・誹謗中傷に恐れることのない心がまえの基本かもしれない
外界が支配されようと自分の心まで支配されることはないように生きよう

●最初にある行為があって二番目の行為が起こることはあるが、二番目の行為は最初の行為がなければ起こらない
私の言いたいことをもっとわかりやすく言うと、例えば、足動かしても走らずにいられるが、走るには足を動かさなくてはならないということだ

○小谷中広之の感情・・・行動し考え軌道修正し、また行動の繰り返し



ここまで読んでいただきありがとうございます。読んでいただいた方の人生での何かのお役に立てればとても嬉しいです

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タグ:セネカ 様

2015年12月09日

読書感想文『風船で宇宙』  おすすめの文章と自分なりの感情

DSC_1491.JPGこんにちわ小谷中広之です
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
決して細かくは書くことはありませんのでご了承ください
私「小谷中広之」が感じた文章を書きたいと思っております

今回のご紹介する本は、岩谷圭介様の「宇宙を撮りたい風船で」です

岩谷圭介様。1986年生まれ。発明家、エンジニアアーティスト

気になる文章
●結果はどうあれ、失敗を繰り返しても、あきらめずに挑戦を続けること。どうすればいいかわからなくても、ゼロからの出発でも、一歩ずつ進んでいけば、少しずつではあっても、目標に近づけること。風船宇宙撮影の最も大切な部分は、これなのではないかと思っています
宇宙を見て帰ってくるのは、風船に吊るされたカメラです。僕自身が宇宙を見たわけではありません。しかし、テレビや本やビデオではなく、自力で宇宙を見るとは不思議なことです
国家プロジェクトやNASAなどロケットを使って行っている宇宙開発は、どうも遠い世界の話のように感じてしまいます。しかし遠いと感じてしまう宇宙は、実は手を伸ばせば届く先にあります

○小谷中広之の感情・・・自身の力で宇宙を見ることに対して意識のハードルがだいぶ下がりました
とにかく行動しまくる。自分が行動をしなければ何も動きださない

●水素ガスもヘリウムガスと同様に無味無臭。しかしとても安価なのでヘリウムの1割以下の金額で買えます。しかしながら、水素ガスはヘリウムガスと違い、とても爆発しやすいという危険な特徴があるのです。本当にちょっとしたことで大爆発します
ヘリウムガスはとても効果ですが、しかし、取り返すことができない失敗をしないため
失敗には取り返すことのできるものと、できないものがある

○小谷中広之の感情・・・万一にも爆発が原因で自分の体に一生涯背負っていかなければならないほどのケガをした場合や、他人様を傷つけてしまったり、自分や人を爆発が原因で死なせてしまっては絶対にいけない
取り返しのできない失敗をあらかじめ想定できるのであれば、避けなければならない
そして、想定できなくともしっかりと考えること、煮詰めて煮詰めて考えることが取り返しのできない失敗を防ぐ方法だろう

●衝撃の大きさは、ぶつかる速度、重さ、硬さの3点で決まります。ぶつかる速度とは落下する速度ということですが、地球には分厚い空気の層がありますので、落下時には必ず空気抵抗を受けます。地球上に空気のない場所はないので、空気抵抗を受けないということはありえないということになります。空気抵抗を受けると、落下してくる物体は一定以上の速度を出せなくなります
例えば雨粒は空気がなければ弾丸のように落ちてきますが、空気があれば僕らがぶつかってもいたくない、目で追えるほどの速度になります

○小谷中広之の感情・・・空気があることで、こんなことからも地上の生物たちは守られていたのか
そもそも空気がなければ今の地球上の生物は存在していない

●世界で初めて熱気球をつくったのは、フランスのモンゴルフィエ兄弟でした
彼らが、熱気球を思いついたきっかけは、洗濯物を干していたときだったそうです
なんでも、洗濯物を乾かすために焚き火をしていたら、乾いた洗濯物が、焚き火で温められた空気によって上に持ち上げられる様子を見て、火には物を浮揚させる力があるのではないか、と思ったそうです
彼らは、そこから着想を得て、気球をつくったそうなのです

○小谷中広之の感情・・・この発見に至るまでに、必ず何かの意識や準備はしてきたであろう
もちろん本人たちが知らず知らずのうちに身についた経験などもこの発見に結びついたのだろう
ルイバスツールの「偶然は準備のできている者だけに訪れる」である

●海。底なしに深いと勘違いしていますが、平均水深は3800メートルしかありません。海でひときわ深い場所は海溝といいますが、世界一深いチャレンジャー海渕の最深部ですら、約1万900メートル。東京駅から羽田空港は比較的近いと感じますが、距離にして1万3000メートルほど。そう、地球一深い場所のほうが、東京駅から羽田空港より近いのです。そう考えると、海の深さは想像しているより、ずっと近い場所のようです
○小谷中広之の感情・・・深海もまた宇宙と同じように未知なことだらけ

●吹雪の日は寒くない、北海道の人であればこの感覚をよく理解していくれるかと思います。この日はマイナス9度にしかならず、おかげで作業に大きな支障が出ずに済みました。晴れていたらマイナス25度程度ですから、すべてが凍り付いてしまいます
○小谷中広之の感情・・・吹雪くと晴天の気温よりも上がるのか
こんな知識も本ならではではの出会い

●北海道の東側は、日本一飛行機の少ない安全な場所です。土地の人口密度も日本一低く、日本一安全な場所です。最初に打ち上げするのであれば、北海道東部で実施することを強くお勧めします
○小谷中広之の感情・・・今流行りのドローンの練習にもよさそうな土地だ

●「エキノコックス」
寄生虫です。主に北海道では野生のキタキツネを宿主として感染する伝染病です
絶対に触ってはいけません。エキノコックス症はほとんど自覚症状がありませんが、自然に治癒することはありません。自覚症状が出るまでに、数年から数十年かかります。放置すれば確実に死にます。治療方法はエキノコックスが寄生した肝臓の切除です。川の水は絶対に飲んではいけません。手洗いは頻繁に行いましょう

○小谷中広之の感情・・・北海道では、上記の注意だけでなく、野放しの猫や犬などからも感染してしまうそうだ。エキノコックスに感染している野ネズミを食べて犬や猫が感染してしまう

●「マダニ」
非常に危険は生き物です
マダニがかみつくと、マダニの頭が皮膚を破って体の中に侵入してきます。一度かみついたマダニを取り除く手段は外科手術だけです。マダニを無理に引っ張ったり、押さえたりすると、マダニの内部にある病原体が人の体の中に逆流して致命的な事態になり真似ません
マダニがついたら体の中に侵入される前に、ガムテープで取り除きましょう。服は熱湯消毒の上、洗剤で洗ってください。身体はシャワーと入浴で洗い流してください。バスタブには長時間浸からなくてはなりません。山にはいるときは暑くても、必ず肌が出ない格好をして山に入りましょう

○小谷中広之の感情・・・2013年に日本で、マダニに噛まれることで発症する「重症熱性血小板減少症候群(SFTS)」に感染し死亡者が相次いだ
他のダニと比べ非常に体が大きく、通常時でも2〜3oぐらいあって肉眼でも見えますが、吸血するとさらに大きくなり、1pを超えるぐらいに大きくなるみたい
皆さんもネットなどで情報を集めながらマダニの時期(5月が一番多いそうです)は特に注意しましょう

●風船を飛ばした先にあるのは、成層圏と呼ばれる場所です。空気がほとんどないので、宇宙と地球を同時に見ることができるのです
そこは不思議な場所です。水は沸騰しながら凍ってしまいます。そして僕たち人間は熱が上がっていき、高熱で死んでしまう場所です。空気がほぼないので、このような不思議な現象が起こるのです
人間は生きているだけで発熱するのですが、その熱は空気中に捨てています。そうすることによって、体温を一定に保つことができているのです
宇宙では空気がないので、人間の体温は体の中に溜まり続けます。すると、インフルエンザにかかった時のように、熱が上がりすぎて、しまいには死んでしまうのです。ですから宇宙服を着ている人間にとっては、熱い場所となります。ちなみに、体温が上がりすぎてしまわないよう、宇宙服には冷却装置が搭載されています

○小谷中広之の感情・・・宇宙服に流れている水はそのよう理由もあるのか
なるほど、太陽熱などから守っているだけではないのか
体温が上がりすぎてしまうことを何かに利用できないのだろうか、例えばガン細胞。ガン細胞は熱に弱いと聞くがマラリアにわざと感染させ体温を高めて治療するやり方などを本で知った
何かに役立てにあのだろうか


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2015年12月08日

読書感想文『自分を読め』  おすすめの文章と自分なりの感情

DSC_14701.JPGこんにちわ小谷中広之です
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
決して細かくは書くことはありませんのでご了承ください
私「小谷中広之」が感じた文章を書きたいと思っております

今回のご紹介する本は、小飼弾様の「本を読んだら、自分を読め」です

小飼弾様。1969年生まれ。ブロガー、プログラマー、投資家。DAN有限会社代表取締役


気になる文章
●本は、君を救ってはくれない。けれども、本を読むことで、自分を救える自分になれる
○小谷中広之の感情・・・最終的に自分を救えるのは自分しかいない

●「時間の洗礼」耐えて生き残っているということは、本当の名作の証拠だといえます
したがって古典を中心に読んでいくというのは、ある意味ではずれを引く確率の少ない、効率的な読書方法です
翻訳なのもなど、土地的なハードルを乗り越えてきたのですから、それだけ面白いという証拠になるでしょう
日本の作品でも外国語に翻訳されたものはまずはずれはありません。好き嫌いはさておき、読んでみれば必ず得るものはあります

○小谷中広之の感情・・・ハードルを乗り越えていまだに存在する本を読もう

●読むだけに飽き足らず、これから本を書いてみようという人へメッセージ
伝記
日本には意外といい電機が少なく、題材となる人物も、よく知られている人に集中しています。例えば日本の歴史上の人物であれば、ほとんど戦国時代の人に集中しており、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人ばかりが本になる。しかし、他にも面白い人はたくさんいます
もしあなたが物書きとして成功したいのであれば、誰か死なれざる歴史上の人物を探し出し、光を当てた作品を書けばいい。伝記でもいいですし、歴史小説でもいいでしょう。一人でもそういう人を見つけられれば、もうそれだけで食べていけます
司馬遼太郎は坂本龍馬を見つけて「竜馬がゆく」という歴史小説を書いたおかげで、国民的作家と言われるまでになりました
「竜馬がゆく」がヒットしたため、坂本龍馬という人物に対する評価まで、好意的なものになっていきます
事実、坂本龍馬という名前は歴史の教科書にはほとんど出てこないでしょう。なぜなら需要人物ではないからです。しかし、裏を返せば、無名の人物であったにも抱えあらず、司馬遼太郎によって作品化されたことにより、多くの人を鼓舞し、長く読まれるという事実があります。書き手として名を馳せられる可能性が、ここにあるのです

○小谷中広之の感情・・・誰かいるだろうか。探す行動をとらなければ見つかることもないだろう



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タグ:小飼弾 様

2015年12月07日

読書感想文『死の話』  おすすめの文章と自分なりの感情

DSC_1573.JPGこんにちわ小谷中広之です
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
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今回のご紹介する本は、斎藤慶典様の「死の話をしよう とりわけ、ジュニアとシニアのための哲学入門」です

斎藤慶典様。1957年横浜生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学博士。慶応義塾大学文学部哲学科教授

気になる文章
●病気やケガが原因となって、その結果として死んだのだとしても、原因と結果は同じモノじゃない。別のものだ。病気もケガもしなくても、人は死ぬのだから
○小谷中広之の感情・・・生まれることも死ぬことも必ず来る
全ての生き物に共通する出来事である

●私の死とは私がいなくなること、私がその存在を失うことに等しい。つまり、死が私に訪れるとは、私がその存在をすべて失うこと以外ではない
私の死は私にとって存在しないと言っていいのではないか。そいつが私に到来したときにはもはや私はそこにはいないのだから。私たちはしばしば、死とは何か辛いこと、苦しいことではないかと推測して、それを恐れる。けれども、辛かったり苦しかったりするのは病気や大怪我なのであって、そのような病気や大怪我をすることができるのは当人が生きているからに他ならない

○小谷中広之の感情・・・もはや「一人称の死」は感じることも体験することもできない
死の前提を恐れてしまうのであって、死そのものは恐ろしいと思うことは一つもないのではないだろうか

●無関係でいることはできないけれど、でも、そいつと私の関係の結び方は、よく見てみるとずいぶん手がこんでいる。なぜって「いつか必ず」そいつがやってくることを知っているくせに、でも「さしあたり、まだ」来ないという仕方でそいつを自分から遠ざけ、当分の間そいつとは無関係でいられるかのように、言ってみれば「見て見ぬふり」をしているような気配があるからだ
いくら無関係であるかのように装ったって、そいつは来るときには来てしまうんだから決して無関係ではありえないことは、思いもかけない他者の死を日々の生活の中で経験することで、君もあなたもわかっているのにもかかわらずだ

○小谷中広之の感情・・・死に直面できるのは、結局のところ「二人称の死」でしかないのかもしれない
「三人称の死」は死体である、「二人称の死」は死体ではない死体という考え方で考えると、「三人称の死」は死体ではあるがそのモノの死を考えることはほとんどないのではないか、逆に「二人称の死」に直面した場合は、心の底から死というものを感じるのではないだろうか

●池田晶子さん
40代半ばの若さで、癌のため亡くなってしまった。闘病中に彼女が残した言葉に、次のようなものがある「癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである」
彼女が述べているのも「死すべき者」である私たちの定め、その本質だ

○小谷中広之の感情・・・死に向かっての道のりを必死に毎日歩んでいるだけ

●普通未来のことは不確定であって、どんなに起こりそうなことでも、実際にその時になってみなければ起こるかどうかは定かではないのに、私の死に関しては、絶対にそれが起こることがあらかじめ定まっているんだ。この点が、世の中で起こる他の出来事と私の死との際立った違い、決定的な相違であることは、いまや明らかだ
○小谷中広之の感情・・・こんな自分でも自信をもってわかっていることは、「死」に向かって生きているということ
ならば、生と死についてもっと深く考えよう
とくに「一人称の死」についてだ

●世界のすべては「いま、現に、ここに」ある。「いま、現に、ここに」あるかぎりでしか、それは全てではない。このようにして私は、すべてを自らの内に包み込んでいる
私の死は、そうした全てである私を、丸ごと無に帰せしめる。すべてが「ない」ということが可能なんだ

○小谷中広之の感情・・・だからこそ、今現在の目の前の事柄に集中することで生きている意味がもっと深くなるのではないだろうか

●ふつうの未来は絶えず到来して現在となることをやめない
私の死は、確かに未来のことだし、いま、現に、ここで存在している私に差し迫って止むことがないけれど、それは私にとって決して到来して現在となることがない。いわんや過去となることもない。ただ差し迫るだけだ。ひたすら近づくだけで「来た」ということのないもの。それって、言ってみれば未来そのもの、端的な未来、純粋な、裸の未来ではないだろうか、なぜなら、到来したものはもはや未来ではなく現在なのだから、未来が未来であるのは、それがひたすら近づく限りでのことであるはずだからだ
「来た」のではなく「来る」もの、「なった」のではなく「なる」もの、「起こった」のではなく「起こる」もの、それを今「純粋な未来」と呼んだ
ひたすら未来でしかないもの、純粋な未来

○小谷中広之の感情・・・自分の死について、「来た」とも「なった」とも「起こった」ともなることは決してない
それは常に「いつか来る」「いつかなる」「いつか起こる」ことなのだ

●私は今、現に、ここで生きている。存在している。この「いま、ある」は、「まだ、ない」と「もう、ない」という二つの「ない」に挟まれる事で「ある(存在する)」。つまり、この現実は「もう、ない」ものへと絶えず脱け去ろうとしている限りでの「いま、ある」が、これまた絶えず到来せんとして押し迫ってくる「まだ、ない」に直面することで成り立っている
実際のところ、よく見てみれば、「いま」は、「いま!」といっている間にも、もう過ぎ去ってしまって(「もう、ない」になってしまって)、到来したばかりの「まだ、ない」も、たちどころに「もう、ない」へと変じていく
いつもほんの一瞬の間だけ「ある」にすぎないってことだ
「もう、ない」にあらためて注目してみよう
あなたが生まれたときは、とっくの昔に過ぎ去ってしまって、「もう、ない」。けれども、それは単なる「ない」ではない。「ない」の前にくっついている「もう」が示しているのは、あなたが「かつて」あるところで生まれた者として「いま、ある」ということ
「もう、ない」時が「いま、ある」に残す痕跡は、実は、あなたの誕生以後に限らない。あなたの誕生以前にあなたの父親と母親が出会わなかったなら、あなたの「いま、ある」はそもそも成り立たない。これは、あなたの誕生以前の出来事の「もう、ない」があなたの「いま、ある」に決定的な痕跡を残していることのまぎれもない証拠だ
「まだ、ない」時が君の「いま、ある」仕方に、まぎれもなく方向付けを与えている。言うまでもなく、君にとっての「まだ、ない」時のどん詰まりは、君の死だ。「その先」は、君にとってもはや何もないのだった
「いま、ある」は、ほとんど無限に広がっていると言ってもいい
私以外のすべてが「いま、ある」といえるのは、最終的に私が「いま、ある」ことにおいてでしかない
「ない」から与えられて、一瞬の束の間の「ある」が姿を現し、再び「ない」へと帰っていく。そのことを通して、「あった」ことが不動の地位を獲得する。このことを「ない」に向かって証言しているのが、「いま、ある」ことに対する全面的な肯定なんじゃないか。勿論この証言は、それが最終的に「ない」に向かってなされているのであってみれば、それを聴き取るものは誰もいない。それは虚空に虚しく響くのみだ。嫌、ちょっと待って。少なくとも一人だけ、それを聴き取っている者がいる。「いま、ある」私だ。「いま、ある」私のもとで、それは確固不動の、抹消不可能な地位を占めたんだ。この「永遠」を抱えて、私は「ない」へと歩み入る

○小谷中広之の感情・・・過去、現在、未来のわかりやすい例えである
常に今は「まだない」に向かっている「今ある」なのだ、そしてまたすぐに「もうない」へと変わっていく

●死は生の否定ではなく、そのなくてはならない片割れ、親友、パートナーだ。この両者を丸ごと「引き受ける」時、全面的に肯定するとき、「ただ、生きる」ことが成就する
○小谷中広之の感情・・・生と死はともに共存している、生きることに集中しているとき同時に死についても集中しているのだろう



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2015年12月06日

読書感想文『心配事が消える』  おすすめの文章と自分なりの感情

DSC_1470ol.JPGこんにちわ小谷中広之です
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今回のご紹介する本は、植西聰様の「心配事が今すぐ消え去る50の気づき」です

植西聰様。東京出身。著述家。学習院大学卒業。心理学、東洋哲学、ニューソートなどに基づいた人生論研究に従事

気になる文章
●イランのことわざに「食べさせられたものは腐るが、与えたものは自分の心の中でバラの花になる」という意味をあらわすものがあります
人から「何かしてもらう」ことを期待するのではなく、自分自身が人に「何かをしてあげる」方が安心して生きていけるということを述べているのです

○小谷中広之の感情・・・見返りを求めずに、まず相手から幸せにしよう

●中国の思想家、荘子の言葉に「過ぎ去ったことにとらわれない。将来のことを心配しない。問題が起こった場合はすぐに対処して、いつまでもそのことで悩まない」
「問題が起こった時はサッサと片付けてしまう」ということを生活のモットーにしておけば、将来を心配することもないし、過去を引きずることもないのです

○小谷中広之の感情・・・今に生きる

●禅の言葉に「光陰(コウイン)矢の如し」というものがあります
「光陰」とは「時間」の意味です
「時間が、矢が飛んでいくように、あっという間に過ぎ去っていく」という意味
この前後では「だから今という時間を大切にする。先々のことに悩むのではなく、今この時に集中することが大切だ。余計な考え事をしていたら、「今」という時間があっという間に過ぎ去ってしまう」という意味になります

○小谷中広之の感情・・・「今」というものは今にしかないのではなく、「今」というものは未来にも存在する
「今」という未来のためにも、今を一生懸命に生きよう
今の自分は結局、過去の自分の結果なのだから

●「人生での小さな問題こそ、誤りがないように慎重に対処していくことが大切だ」
「たいした問題じゃないから、大丈夫」と安心していると、大きな失敗を招きかねません
小さな問題だったものが大問題に発展してしまうからです

○小谷中広之の感情・・・小さな問題こそしっかりと向き合い、その時に解決していこう

●人は心配事から「ああ、嫌だ、いやだ」と顔を背けていると、その心配事が苦痛に思えてきてしまうのです
その心配事を、自分に与えられた人生の課題とみなし、どうやって解決すればいいか考え、その解決策を実行に移す段階では、その心配事は苦痛でしかありません
むしろその心配事を乗り越えていく事が大きな喜びになり、努力の励みにもなります。そしてその心配事を上手に解決できた時、自分自身に大きな自信が生まれることでしょう

○小谷中広之の感情・・・心配や恐怖は自ら断ち向かって行けば何とかなる
恐怖から逃げれば恐怖は倍増し、恐怖に立ち向かえば恐怖は半減する

●ドイツ出身のアメリカの詩人、サミュエルウルマンは「青春の詩」という詩の中で、次のように述べています
「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、たくましい意志、燃えるような情熱、勇敢さ、冒険心といった心の様相を青春というのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときにはじめて老いがくる。情熱を失うときに精神はしぼむ」

○小谷中広之の感情・・・生きる目標を持ちまくろう。

●負けが決まった時には、負けた後のことなど心配せずに、潔く負けを認めてしまった方が、「次頑張るぞ」という意欲が生まれてくるのではないでしょうか。また、負けた経験を生かして、次の勝負に役立てることもできるでしょう
○小谷中広之の感情・・・負けの美学を学ぶには、負けることを受け入れることから始めるしかない

●「将来のことを心配する」のではなく、「現在の問題について考える」のです
言い換えれば「問題は今現在に存在している」「その問題を解決するための方策も今現在にしかない」

○小谷中広之の感情・・・今に集中して生き抜く

●「任運(ニンウン)」
これは禅の言葉で、「運に任せる」とも読みます
「将来どうなるかということを心配してもしょうがない。いったん決断したからには、今後どうなるかということは運に任せ、自分自身としてはやるべきことを淡々と進めていくしかない」という意味を表しています

○小谷中広之の感情・・・できることを自分のレベル以上にこなそうとしない限り成長はしない


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タグ:植西聰 様

2015年12月05日

読書感想文『成熟』  おすすめの文章と自分なりの感情

DSC_1472.JPGこんにちわ小谷中広之です
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
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今回のご紹介する本は、曽根綾子様の「人間にとって成熟とは」です

曽根綾子様。1931年東京生まれ。聖心女子大学卒業。1979年ローマ法王によりヴァチカン有功十字動賞を受賞。95年から03年まで日本財団会長を務めた

気になる文章
●絆は二つの条件を伴う
第一は、自分に近い人との結びつきから始めることだ。親や兄弟を大切にすること。遠い他人に一時の親切を尽くすことは簡単で誰にでもできる。しかし身内の人に、生涯をかけて尽くす決意をすることのほうがずっと難しく意味のあることなのだ。それこそ絆の本質である
第二に、絆は、長い年月、継続することである。震災記念日や何かの催し物のある時にだけ、人道的な行為をすることではない。この世の仕事というモノ、すべて淡々と長い年月日常に継続してこそ本物なのである

○小谷中広之の感情・・・身近にいる人こそ大切にしよう

●品というものは、たぶん勉強によって身につく。本を読み、謙虚に他人の言動から学び、感謝を忘れず、利己的にならないことだ。受けるだけでなく、与えることは光栄だと考えていると、それだけでその人には気品が感じられるものである
○小谷中広之の感情・・・インプットだけでなく、アウトプットにもしっかり意識していこう
無理矢理に相手に情報や知識を提供するのではなく、本つに相手が必要な時にそっとワタセルヨウニナロウ

●楽なのは和服には宝石が要らないからであった。洋服は最後のところは、宝石で「勝負をする」と昔言われていた
○小谷中広之の感情・・・自分専用の着物をオーダーメイドで作ろう
埼玉県なら川越で作れる


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2015年12月04日

読書感想文『狂う』  おすすめの文章と自分なりの感情

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今回のご紹介する本は、ひろさちや様の「「狂い」のすすめ」です

ひろさちや様。1936年大阪府生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒、同大学博士課程修了。起床大学で20年間教壇に立つ

気になる文章
●トルコに旅行したとき、街の商店に行って土産物に行って土産物を買おうとしました。二時間も賭けて値切ったのですが、結局私の希望価格にならなかった。その間、トルココーヒーをごちそうになったりしたのですが、交渉が決裂して何も買わずに変えることになり、私は「すまなかった」と謝りました。相手の時間を無駄にしたと思ったからです
「とんでもない、私のほうがあなたにお礼を言いたい」と、トルコの商人は言いました。「だって、私は日本人と楽しい時間を過ごせたのだから。私は楽しい毎日を過ごすために商売をしているのだ。売れる、売れないは二の次だ」
受験勉強にしても、勉強が好きだから大学に行くのでしょう。だとすれば、受験に失敗して一年間の浪人生活をせねばならなくなれば、本当は喜ぶべきでしょう。だって一年間、好きな勉強ができるのですから
つまり、目的意識があると、我々はその目的を達成することだけにとらわれてしまい、毎日の生活を灰色にすることになるのです。失敗したっていいのです
それでも楽しく生きることができるはずです

○小谷中広之の感情・・・毎日、今に生きる

●サモセットモームの「人間のきずな」の中でモームは、「人間の歴史」を知りたいと思った東方のある国王のアネクドートを紹介しています。国王は学者に命じて、人間の歴史を書いた五百巻の書物を集めさせました。けれども、政務に忙しい国王は、五百巻の書物を読む暇がありません。で、国王は学者にそれを要約するように命じました
それから二十年後、学者は五十巻の書物を宮廷に持参しました。だが国王は、ある程度政務から離れていたので、それを読む時間はあるのですが、今度は気力がありません。だから学者に、もっと短く要約してくれと命じました
さらに二十年が経ちました。学者の頭は真っ白になっています。杖を突きながら、一冊の書物を携えて学者は宮廷にやってきました
ところが国王は、臨終のベッドにいます。一冊の書物すら読むことができないのです
そこで学者は、国王の耳に「人間の歴史」をわずか一行に要約して話して聞かせました
そこのところを引用しておきます
「賢者は、人間の壁氏を、わずか一行に申し上げた。こうだった。人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ、と。人生の意味など、そんなものは、何もない。そして任禅の一生もまた、何の役にも立たないのだ。彼が、生まれてこようと、こなかろうと、生きようと、死んでしまおうと、そんなことは、一切何の影響もない。生も無意味、死もまた無意味なのだ」
五百巻に及ぶ「人間の歴史」も、要約すればたった一行になります
人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ
そうだとすれば人間は苦しむために生まれてきたのであり、死ぬために生まれてきたのです

○小谷中広之の感情・・・五百巻に及ぶ「人間の歴史」を他人に要約してもらいながらも、一日一ページでも読んでいれば、また違った人生が待っていただろう

●ガンという病気は、老衰のように楽に死ねる病気だ、と。高齢者がだんだん食べなくなって、痩せて枯れ木のようになって、格別苦しまずに眠るように死んでいく。そういう死に方ができるのがガンなんです。そして昔は、そのような老衰死が多かった
かつて1918年には、人口10万人辺り178人が老衰で死亡していました。ところが2001年には10万人あたり25人でしかありません。総人口に占める65歳以上の割合は、1918年が5%で、2001年が17%です。老齢人口が増加しているのに、老衰死は逆に減っているわけです
どうして老衰死が減るのでしょうか?死因ががんと診断される事例が増えたからです。ガン、心臓病、脳卒中の三大死因のうち、心臓病と脳卒中は発作があるので、昔も診断は容易でした。ところが、昔はガンが死因でも、わざわざ解剖しませんから、ガンと診断されずに老衰死とされていたので、老衰死が多かったのです
そしてガンは、実は治療しないでいると、老衰のように楽に死ねる場合が多いのです
癌にかかると苦しむ、置う印象があるとすれば、それは手術の後遺症や、抗がん剤の副作用によって苦しんでいるのを、ガン自体によるものと勘違いしているのではないか
ガンを治療すると苦しむ別の原因は転移です。例えば食道ガンや胃ガンで、原発病巣が増大して食事がとれなくなって死亡する場合には、痩せてきて老衰死の形をとります。これに対し、手術して原発病巣を切除すると、延命効果がある場合もあるでしょう。しかしその場合、転移病巣が増大する時間的余裕を与え、転移のために苦痛が生じることにもなるのです
老衰のような死に方を理想とするなら、ガンを無理に発見して治療しない方がよい場合も多々あるわけです
要するに、臓器を摘出すれば体力が弱るわけです。そして手術がうまくいって延命効果があっても、激しい痛みに苦しみながら生きなばなりません。ガンのまま死ねれば、枯れるように老衰死できるのです

○小谷中広之の感情・・・結局いま現時点での医療のレベルがまたはるかに上がれば、老衰死というのも減っていくだろう
新たな病名が加わるのだろう

●人間というのは孤独な存在です
浄土経典である「大無量寿経」においては、「人、世間の愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来る」
といわれています。この「独生、独死、独去、独来」が人間の本質なんです
誰にもみとられることなく、独りで淋しく死んでいく孤独な死もあります
それどころか、腐臭が漂うので、近所の人が入ってみると、腐乱死体になっていたという、独居老人の死もありました。それらは孤独な死ですが、しかし大勢の子や孫に囲まれて死んでいく老人の死も、根源的な孤独です。人間皆一人で死なねばならないからです
そういえば心中、情死もありますね。江戸幕府は心中の語の使用を禁じたもので、心中は相対死(アイタイシ)と呼ばれていました。男女が一緒に死ぬのですから、孤独の死と違っているようですが、それだって死の瞬間は孤独でしょう。死後の世界に一緒に行けるか否かわかりませんね

○小谷中広之の感情・・・死ぬ瞬間は、結局一人で死ななければならないのだ

●孤独を生きねばならない
のです。いいですか、孤独に生きるのではなしに、孤独を生きるのです
その生き方を探ってみましょう

○小谷中広之の感情・・・孤独になってしまうのではなく、自ら孤独に生きよう

●動物社会学の人から聞いたのですが、アリという動物はそれほど勤勉ではないそうです
アリの内まじめに働いているのは約二割で、残りの八割は怠けものだそうです。嫌、もっと正確に言えば、2対6対2の比率になります。それで、六割の普通のアリを怠けもののグループに入れると、二割が勤勉で、八割が怠け者になるわけです
さて、次に、勤勉なアリばかりを集めて新しい集団をつくります。すると、それまで勤勉に働いていたアリの八割が怠け者に転ずるそうです。依然として勤勉に働くアリは二割しかしないのです
逆に怠け者のアリばかりを集めて集団をつくる。すると、そのうちの二割のアリが勤勉化に転じます。残りの八割は、依然としてなまけ者なんです
そしてそれは、人間の世界でも同じです
二割の優秀な社員をつくるためには、八割の怠け者の社員を必要とします。八割の怠け者がいなければ、二割は優秀にはなれないのです

○小谷中広之の感情・・・今度アリの大軍をを発見したら観察してみよう
どんなことにも、やはり2割という数字は大切なのだろう。仕事も最初に大事な二割を集中して片付けてしまえば残りの8割はスムーズに事が運ぶだろう



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2015年12月03日

読書感想文『しがみつかない』  おすすめの文章と自分なりの感情

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今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
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私「小谷中広之」が感じた文章を書きたいと思っております

今回のご紹介する本は、香山リカ様の「しがみつかない生き方」です

気になる文章
●好き、嫌いといった感情なら瞬間的に決めることができるかもしれないが、それも時間の経過の中では変わる事がある。ましてや、「良い、悪い」という善悪や「勝ち、負け」は、判断するのに時間がかかる。その時の評価が後になって全く逆になることもあるのは、人類の長い歴史を振り返っても明らかだ
直観が大切だが、あまりにハッキリと評価が決められることについては、むしろ「これは後になって変わるかも」と疑った方が本当は良いはずなのだ。そもそも人間のやることは、白か黒かはっきりしない、絶対的な正解はないもののほうが多いと考えるのが良いのではないだろうか
その意味では、絶対一生、航海することはない、と言い張ってタトゥーを入れるのも正しくないが、「やっぱい入れなければよかったかも」とタトゥーを消そうとしている人を「愚かだ。私は絶対にそんなことをしようとは思わない」と非難するのは、正しい姿勢とは言い切れない。どんな時でも100%正しい適切な判断ができる人はいない
「真ぁ、今のところはそう思っているけれど、もうちょっと様子を見てみないと何とも言えないね」といったあいまいさを認めるゆとりが、社会にも人々にも必要なのではないだろうかそしてこの「あいまいなまま様子を見る」という姿勢はまた、自分という考え方、生き方をしている人を排除せずに受け入れるゆとりにも、どこかでつながるものだと思われる

○小谷中広之の感情・・・100%正しいことなんてないのだ。常に仮説の中で生きているのだから

●結果的に高齢者が「長生きでごめんなさい」と高齢であることを詫びなければならない
○小谷中広之の感情・・・こんなことを思ってもらわないような「長生きできてうれしい」「ここまで長生きさせてくれてありがとう」と思ってもらうような仕事や生き方をしよう
どんなに間違っても「長生きでごめんなさい」と思われたり、言われたりしないような生き方をしよう

●実際に癌などで身体の健康に問題が生じると、「死」そのものよりも具体的で現実的な苦痛のほうが恐れの対象として浮かび上がってくる。つまり、その痛みを取り除くことができれば、恐れや不安もかなり解消されるのではないか
目の前の痛みが亡くなれば、また「死」そのものの恐怖がクローズアップされるだろう、と考える人もいるかもしれない

○小谷中広之の感情・・・大病の患者さん達は死んだらどうなるかということよりも、死ぬまでの苦しみ(痛みや悲しみ、悔しさ)に悩まされるのかもしれない
健康な時にこそ「死」という最終ゴールについての勉強をいっぱいしよう

●出来る限り儲けなさい。できる限り蓄えなさい。そして、出来る限り与えなさい
もちろんこれらの説教で強調されているのは、自分が儲けることではなくて、誰かが自分のために儲けたお金を使ってくれたということ、そして、自分が儲けるのもよいが、それは自分以外の誰かのために与えよということだ

○小谷中広之の感情・・・自分に入ってくるお金は、誰かが自分のために稼いで使って呉れたお金だということを忘れずに、お金を大切に考え使っていこう


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2015年12月02日

読書感想文『レッスン』  おすすめの文章と自分なりの感情

DSC_14691.JPGこんにちわ小谷中広之です
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
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今回のご紹介する本は、鴻上尚史様の「孤独と不安のレッスン」です

鴻上尚史様。1958年愛媛県生まれ。早稲田大学法学部卒業。プローデュースユニット「KOKAMI@network」と2007年若手俳優とともに結成した「虚構の劇団」を中心に活動中

気になる文章
●1972年10月、ある飛行機がマイナス40度のアンデス山脈に不時着しました
償却は、食べるものがなくなり、先に死んだ乗客の死体を食べて、17人が生き延びたという事件がありました
食べ物がなくなり、乗客であるウルグアイ人たちは、死ぬか死体を食べるかの選択を迫られたのです
その時、乗客たちは、一人一人、神と対話しました
全体でももちろん、議論はしましたが、最終的に食べるかどうかは、一人一r、それぞれにとを対話したのです
そして一人一人は、神と対話し、人肉を食べることを決断して生き延びました
第二次大戦後、航空機が砂漠や山奥に不時着して、生き延びるために死体を食べることになった事件は、世界では10件以上あるそうです
神に対して「神様、食べていいでしょうか?私はどうしたらいいのでしょうか?」と個人的に一人で問いかけるのです
もし、日本人が乗った飛行機がこういう状態になったら、日本人はどうするんだろうと考えます
たぶん、僕たちは、議論をして、話し手、何となく、全員が納得したようなら、生き延びるために死体を食べるんだと思います
ひょっとして、誰が最初に実行するかは、日本文化の代表「じゃんけん」で決めるかもしれません
つまり、日本人は、個人的に問いかける神を持っていないのです。皆がどう思っているか、皆がどう判断するかが、一番大切なことなのです

○小谷中広之の感情・・・自分自身を対話する力をもっともっとつけるためにも孤独を謳歌しよう

●経営者として有能だったジャイアント馬場さんの経営哲学
「他人から聞いた話は、直接う本人に確かめるまでは信じない」
巨大な金が動く現場では、あることないこと、心潰れる言葉が飛び交うのです
その時、いちいち、誰が何を言ったと信じていたら、不安に簡単に押しつぶされたでしょう。どんなにひどい噂を聞いても、直接、本人の口からきかないと信じない

○小谷中広之の感情・・・悪口や陰口は、言わない、聞かない、その場にいない

●とにかく、自分にこだわることを減らすのです
不安は、自分にこだわればこだわるほど、大きくなるのです

○小谷中広之の感情・・・不要なこだわりはさっさと捨ててしまおう
捨てればそこに新しい風が吹くのだから

●若いころに「孤独と不安」に耐えて、慣れておいた方がいいといっている理由は、大人になっても「孤独と不安」は増えることはあっても減ることはないからなんだ。多分、年をとればとるほど「孤独と不安」は増していく
「もっとたくさんの孤独と不安がやってくるから、今のうちに練習しよう」ってことなんだ。その方が、大人になった時に、楽だから
「孤独と不安」を見つめることは楽しいことでもあるんだ。「孤独と不安」を生きることでしか手に入らないものがあるからね。「孤独と不安」をちゃんと生きることは、なかなか面白いことなんだ
「何をしたらいいかわからない状態」はいつか必ず来る
「孤独と不安」の練習を若いときにすると生きる免疫力ができる

○小谷中広之の感情・・・自分は小学校5,6年はクラスでいじめられる的だった、まさに「孤独と不安」でいっぱいだった
そして中学2年生の時にもハブ(仲間はずれ)を経験し、「孤独と不安」を体験。この二つだけではないが自分が過去学生の頃にとくに「孤独と不安」を感じた記憶が強く残っているのがこの二つである
今現在は逆に「孤独」というものを特に考え、受け入れ、その手の本を読み、自らその状況に置いたりしている
孤独になる時間の確保を優先的に行っています



ここまで読んでいただきありがとうございます。読んでいただいた方の人生での何かのお役に立てればとても嬉しいです

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