2015年12月07日
読書感想文『死の話』 おすすめの文章と自分なりの感情
こんにちわ、小谷中広之です
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
決して細かくは書くことはありませんのでご了承ください
私「小谷中広之」が感じた文章を書きたいと思っております
今回のご紹介する本は、斎藤慶典様の「死の話をしよう とりわけ、ジュニアとシニアのための哲学入門」です
斎藤慶典様。1957年横浜生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学博士。慶応義塾大学文学部哲学科教授
気になる文章
●病気やケガが原因となって、その結果として死んだのだとしても、原因と結果は同じモノじゃない。別のものだ。病気もケガもしなくても、人は死ぬのだから
○小谷中広之の感情・・・生まれることも死ぬことも必ず来る
全ての生き物に共通する出来事である
●私の死とは私がいなくなること、私がその存在を失うことに等しい。つまり、死が私に訪れるとは、私がその存在をすべて失うこと以外ではない
私の死は私にとって存在しないと言っていいのではないか。そいつが私に到来したときにはもはや私はそこにはいないのだから。私たちはしばしば、死とは何か辛いこと、苦しいことではないかと推測して、それを恐れる。けれども、辛かったり苦しかったりするのは病気や大怪我なのであって、そのような病気や大怪我をすることができるのは当人が生きているからに他ならない
○小谷中広之の感情・・・もはや「一人称の死」は感じることも体験することもできない
死の前提を恐れてしまうのであって、死そのものは恐ろしいと思うことは一つもないのではないだろうか
●無関係でいることはできないけれど、でも、そいつと私の関係の結び方は、よく見てみるとずいぶん手がこんでいる。なぜって「いつか必ず」そいつがやってくることを知っているくせに、でも「さしあたり、まだ」来ないという仕方でそいつを自分から遠ざけ、当分の間そいつとは無関係でいられるかのように、言ってみれば「見て見ぬふり」をしているような気配があるからだ
いくら無関係であるかのように装ったって、そいつは来るときには来てしまうんだから決して無関係ではありえないことは、思いもかけない他者の死を日々の生活の中で経験することで、君もあなたもわかっているのにもかかわらずだ
○小谷中広之の感情・・・死に直面できるのは、結局のところ「二人称の死」でしかないのかもしれない
「三人称の死」は死体である、「二人称の死」は死体ではない死体という考え方で考えると、「三人称の死」は死体ではあるがそのモノの死を考えることはほとんどないのではないか、逆に「二人称の死」に直面した場合は、心の底から死というものを感じるのではないだろうか
●池田晶子さん
40代半ばの若さで、癌のため亡くなってしまった。闘病中に彼女が残した言葉に、次のようなものがある「癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである」
彼女が述べているのも「死すべき者」である私たちの定め、その本質だ
○小谷中広之の感情・・・死に向かっての道のりを必死に毎日歩んでいるだけ
●普通未来のことは不確定であって、どんなに起こりそうなことでも、実際にその時になってみなければ起こるかどうかは定かではないのに、私の死に関しては、絶対にそれが起こることがあらかじめ定まっているんだ。この点が、世の中で起こる他の出来事と私の死との際立った違い、決定的な相違であることは、いまや明らかだ
○小谷中広之の感情・・・こんな自分でも自信をもってわかっていることは、「死」に向かって生きているということ
ならば、生と死についてもっと深く考えよう
とくに「一人称の死」についてだ
●世界のすべては「いま、現に、ここに」ある。「いま、現に、ここに」あるかぎりでしか、それは全てではない。このようにして私は、すべてを自らの内に包み込んでいる
私の死は、そうした全てである私を、丸ごと無に帰せしめる。すべてが「ない」ということが可能なんだ
○小谷中広之の感情・・・だからこそ、今現在の目の前の事柄に集中することで生きている意味がもっと深くなるのではないだろうか
●ふつうの未来は絶えず到来して現在となることをやめない
私の死は、確かに未来のことだし、いま、現に、ここで存在している私に差し迫って止むことがないけれど、それは私にとって決して到来して現在となることがない。いわんや過去となることもない。ただ差し迫るだけだ。ひたすら近づくだけで「来た」ということのないもの。それって、言ってみれば未来そのもの、端的な未来、純粋な、裸の未来ではないだろうか、なぜなら、到来したものはもはや未来ではなく現在なのだから、未来が未来であるのは、それがひたすら近づく限りでのことであるはずだからだ
「来た」のではなく「来る」もの、「なった」のではなく「なる」もの、「起こった」のではなく「起こる」もの、それを今「純粋な未来」と呼んだ
ひたすら未来でしかないもの、純粋な未来
○小谷中広之の感情・・・自分の死について、「来た」とも「なった」とも「起こった」ともなることは決してない
それは常に「いつか来る」「いつかなる」「いつか起こる」ことなのだ
●私は今、現に、ここで生きている。存在している。この「いま、ある」は、「まだ、ない」と「もう、ない」という二つの「ない」に挟まれる事で「ある(存在する)」。つまり、この現実は「もう、ない」ものへと絶えず脱け去ろうとしている限りでの「いま、ある」が、これまた絶えず到来せんとして押し迫ってくる「まだ、ない」に直面することで成り立っている
実際のところ、よく見てみれば、「いま」は、「いま!」といっている間にも、もう過ぎ去ってしまって(「もう、ない」になってしまって)、到来したばかりの「まだ、ない」も、たちどころに「もう、ない」へと変じていく
いつもほんの一瞬の間だけ「ある」にすぎないってことだ
「もう、ない」にあらためて注目してみよう
あなたが生まれたときは、とっくの昔に過ぎ去ってしまって、「もう、ない」。けれども、それは単なる「ない」ではない。「ない」の前にくっついている「もう」が示しているのは、あなたが「かつて」あるところで生まれた者として「いま、ある」ということ
「もう、ない」時が「いま、ある」に残す痕跡は、実は、あなたの誕生以後に限らない。あなたの誕生以前にあなたの父親と母親が出会わなかったなら、あなたの「いま、ある」はそもそも成り立たない。これは、あなたの誕生以前の出来事の「もう、ない」があなたの「いま、ある」に決定的な痕跡を残していることのまぎれもない証拠だ
「まだ、ない」時が君の「いま、ある」仕方に、まぎれもなく方向付けを与えている。言うまでもなく、君にとっての「まだ、ない」時のどん詰まりは、君の死だ。「その先」は、君にとってもはや何もないのだった
「いま、ある」は、ほとんど無限に広がっていると言ってもいい
私以外のすべてが「いま、ある」といえるのは、最終的に私が「いま、ある」ことにおいてでしかない
「ない」から与えられて、一瞬の束の間の「ある」が姿を現し、再び「ない」へと帰っていく。そのことを通して、「あった」ことが不動の地位を獲得する。このことを「ない」に向かって証言しているのが、「いま、ある」ことに対する全面的な肯定なんじゃないか。勿論この証言は、それが最終的に「ない」に向かってなされているのであってみれば、それを聴き取るものは誰もいない。それは虚空に虚しく響くのみだ。嫌、ちょっと待って。少なくとも一人だけ、それを聴き取っている者がいる。「いま、ある」私だ。「いま、ある」私のもとで、それは確固不動の、抹消不可能な地位を占めたんだ。この「永遠」を抱えて、私は「ない」へと歩み入る
○小谷中広之の感情・・・過去、現在、未来のわかりやすい例えである
常に今は「まだない」に向かっている「今ある」なのだ、そしてまたすぐに「もうない」へと変わっていく
●死は生の否定ではなく、そのなくてはならない片割れ、親友、パートナーだ。この両者を丸ごと「引き受ける」時、全面的に肯定するとき、「ただ、生きる」ことが成就する
○小谷中広之の感情・・・生と死はともに共存している、生きることに集中しているとき同時に死についても集中しているのだろう
ここまで読んでいただきありがとうございます。読んでいただいた方の人生での何かのお役に立てればとても嬉しいです
この本の他の文章が気になった方下記のサイトで購入可能です。
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
決して細かくは書くことはありませんのでご了承ください
私「小谷中広之」が感じた文章を書きたいと思っております
今回のご紹介する本は、斎藤慶典様の「死の話をしよう とりわけ、ジュニアとシニアのための哲学入門」です
斎藤慶典様。1957年横浜生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学博士。慶応義塾大学文学部哲学科教授
気になる文章
●病気やケガが原因となって、その結果として死んだのだとしても、原因と結果は同じモノじゃない。別のものだ。病気もケガもしなくても、人は死ぬのだから
○小谷中広之の感情・・・生まれることも死ぬことも必ず来る
全ての生き物に共通する出来事である
●私の死とは私がいなくなること、私がその存在を失うことに等しい。つまり、死が私に訪れるとは、私がその存在をすべて失うこと以外ではない
私の死は私にとって存在しないと言っていいのではないか。そいつが私に到来したときにはもはや私はそこにはいないのだから。私たちはしばしば、死とは何か辛いこと、苦しいことではないかと推測して、それを恐れる。けれども、辛かったり苦しかったりするのは病気や大怪我なのであって、そのような病気や大怪我をすることができるのは当人が生きているからに他ならない
○小谷中広之の感情・・・もはや「一人称の死」は感じることも体験することもできない
死の前提を恐れてしまうのであって、死そのものは恐ろしいと思うことは一つもないのではないだろうか
●無関係でいることはできないけれど、でも、そいつと私の関係の結び方は、よく見てみるとずいぶん手がこんでいる。なぜって「いつか必ず」そいつがやってくることを知っているくせに、でも「さしあたり、まだ」来ないという仕方でそいつを自分から遠ざけ、当分の間そいつとは無関係でいられるかのように、言ってみれば「見て見ぬふり」をしているような気配があるからだ
いくら無関係であるかのように装ったって、そいつは来るときには来てしまうんだから決して無関係ではありえないことは、思いもかけない他者の死を日々の生活の中で経験することで、君もあなたもわかっているのにもかかわらずだ
○小谷中広之の感情・・・死に直面できるのは、結局のところ「二人称の死」でしかないのかもしれない
「三人称の死」は死体である、「二人称の死」は死体ではない死体という考え方で考えると、「三人称の死」は死体ではあるがそのモノの死を考えることはほとんどないのではないか、逆に「二人称の死」に直面した場合は、心の底から死というものを感じるのではないだろうか
●池田晶子さん
40代半ばの若さで、癌のため亡くなってしまった。闘病中に彼女が残した言葉に、次のようなものがある「癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである」
彼女が述べているのも「死すべき者」である私たちの定め、その本質だ
○小谷中広之の感情・・・死に向かっての道のりを必死に毎日歩んでいるだけ
●普通未来のことは不確定であって、どんなに起こりそうなことでも、実際にその時になってみなければ起こるかどうかは定かではないのに、私の死に関しては、絶対にそれが起こることがあらかじめ定まっているんだ。この点が、世の中で起こる他の出来事と私の死との際立った違い、決定的な相違であることは、いまや明らかだ
○小谷中広之の感情・・・こんな自分でも自信をもってわかっていることは、「死」に向かって生きているということ
ならば、生と死についてもっと深く考えよう
とくに「一人称の死」についてだ
●世界のすべては「いま、現に、ここに」ある。「いま、現に、ここに」あるかぎりでしか、それは全てではない。このようにして私は、すべてを自らの内に包み込んでいる
私の死は、そうした全てである私を、丸ごと無に帰せしめる。すべてが「ない」ということが可能なんだ
○小谷中広之の感情・・・だからこそ、今現在の目の前の事柄に集中することで生きている意味がもっと深くなるのではないだろうか
●ふつうの未来は絶えず到来して現在となることをやめない
私の死は、確かに未来のことだし、いま、現に、ここで存在している私に差し迫って止むことがないけれど、それは私にとって決して到来して現在となることがない。いわんや過去となることもない。ただ差し迫るだけだ。ひたすら近づくだけで「来た」ということのないもの。それって、言ってみれば未来そのもの、端的な未来、純粋な、裸の未来ではないだろうか、なぜなら、到来したものはもはや未来ではなく現在なのだから、未来が未来であるのは、それがひたすら近づく限りでのことであるはずだからだ
「来た」のではなく「来る」もの、「なった」のではなく「なる」もの、「起こった」のではなく「起こる」もの、それを今「純粋な未来」と呼んだ
ひたすら未来でしかないもの、純粋な未来
○小谷中広之の感情・・・自分の死について、「来た」とも「なった」とも「起こった」ともなることは決してない
それは常に「いつか来る」「いつかなる」「いつか起こる」ことなのだ
●私は今、現に、ここで生きている。存在している。この「いま、ある」は、「まだ、ない」と「もう、ない」という二つの「ない」に挟まれる事で「ある(存在する)」。つまり、この現実は「もう、ない」ものへと絶えず脱け去ろうとしている限りでの「いま、ある」が、これまた絶えず到来せんとして押し迫ってくる「まだ、ない」に直面することで成り立っている
実際のところ、よく見てみれば、「いま」は、「いま!」といっている間にも、もう過ぎ去ってしまって(「もう、ない」になってしまって)、到来したばかりの「まだ、ない」も、たちどころに「もう、ない」へと変じていく
いつもほんの一瞬の間だけ「ある」にすぎないってことだ
「もう、ない」にあらためて注目してみよう
あなたが生まれたときは、とっくの昔に過ぎ去ってしまって、「もう、ない」。けれども、それは単なる「ない」ではない。「ない」の前にくっついている「もう」が示しているのは、あなたが「かつて」あるところで生まれた者として「いま、ある」ということ
「もう、ない」時が「いま、ある」に残す痕跡は、実は、あなたの誕生以後に限らない。あなたの誕生以前にあなたの父親と母親が出会わなかったなら、あなたの「いま、ある」はそもそも成り立たない。これは、あなたの誕生以前の出来事の「もう、ない」があなたの「いま、ある」に決定的な痕跡を残していることのまぎれもない証拠だ
「まだ、ない」時が君の「いま、ある」仕方に、まぎれもなく方向付けを与えている。言うまでもなく、君にとっての「まだ、ない」時のどん詰まりは、君の死だ。「その先」は、君にとってもはや何もないのだった
「いま、ある」は、ほとんど無限に広がっていると言ってもいい
私以外のすべてが「いま、ある」といえるのは、最終的に私が「いま、ある」ことにおいてでしかない
「ない」から与えられて、一瞬の束の間の「ある」が姿を現し、再び「ない」へと帰っていく。そのことを通して、「あった」ことが不動の地位を獲得する。このことを「ない」に向かって証言しているのが、「いま、ある」ことに対する全面的な肯定なんじゃないか。勿論この証言は、それが最終的に「ない」に向かってなされているのであってみれば、それを聴き取るものは誰もいない。それは虚空に虚しく響くのみだ。嫌、ちょっと待って。少なくとも一人だけ、それを聴き取っている者がいる。「いま、ある」私だ。「いま、ある」私のもとで、それは確固不動の、抹消不可能な地位を占めたんだ。この「永遠」を抱えて、私は「ない」へと歩み入る
○小谷中広之の感情・・・過去、現在、未来のわかりやすい例えである
常に今は「まだない」に向かっている「今ある」なのだ、そしてまたすぐに「もうない」へと変わっていく
●死は生の否定ではなく、そのなくてはならない片割れ、親友、パートナーだ。この両者を丸ごと「引き受ける」時、全面的に肯定するとき、「ただ、生きる」ことが成就する
○小谷中広之の感情・・・生と死はともに共存している、生きることに集中しているとき同時に死についても集中しているのだろう
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