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2015年10月02日
ここ最近の色々@
やっぱりあっという間に日が経ち、10月が、とうとう始まった。
ゆっくり休んでいられるのは9月が最後のようなもので、9月はしっとりと、静かに過ごした1ヶ月だった。
用事以外は家からほとんど出ず・・。
ちょっと病んでた毎日だった。
6〜8月のお盆あたりまでは好きなように過ごしてノンストレスだったわたしだが、8月末あたりから
これからの事を考えると眠れない日が多かった。
ほんと、これから、将来のことを考えただけで恐怖(考え過ぎだろうが)で。
自分の中で折り合いがつけられる仕事を見つけられるだろうか。
生きていく中で、仕事を続けていけるのだろうか。
仕事していかなきゃ、いつか破産して死んじゃうから働かないわけにいかないけど。
今は両親がいるが、死んでしまったら、本当に全てを自分の力で賄っていけるだろうか。
自分に自信がなくて色々考え込んでしまって、若干ノイローゼ気味にもなった9月だった。
それでもこの期間ちょっと良かったことは、外にあまり出なくなったことで、外食も
大好きだった喫茶店でのお茶なんかもほとんどしなくなり、しっかりと家でご飯を作って
食べるということを久々にでき(当たり前のことなんだけど)、前よりも経済観念が
しっかりしたと思う。
失業保険をもらってるからということもあって、なるべく大事に、残すように使おうと暮らしていたら
働いてる時よりも食費やお小遣いを節約して残すことが出来たり、貯金もすることができた。
働いてたら外に出る分、色々かかるお金が出てくるから、逆に出費がかさむのはしょうがないけど
この失業期間、自分でもビックリのお金の残し方が出来たと思う。
ただ、そういうときに限って、予想に反した出費というものも出てしまうものだ。
今日はそのことについて書きたいと思う。
まず、ひとつめ。
数ヶ月前からテレビが壊れていた。
うちのテレビはブラウン管のテレビだった。
兄が使っていたのを札幌に持ってきて、13年ほどの物である。寿命だ。
と言っても、スイッチ部分の故障なのか、何度も電源を押し続けてると運とタイミングで電源が入る。
それを発見?したわたしが電源を入れると、数分の間にテレビがつくのだった。
SONYの良いテレビということで、電源さえ入れば、もう今の薄型テレビなんて比較にならないぐらい
とても素晴らしい画質と音で楽しめるのだ。
わたしはもともとテレビをよく観る方でもないし、電源が入るときは入るので、テレビっ子の両親にも
我慢してもらい、このテレビを使い続けた。
しかし、親が実家に戻り1人で過ごすようになってからというものの、テレビがなかなかつかなくなった。
やっぱりたまに観たくなるときがあって、電源入れようとしても入らないのだ。
何度も何度も電源押し続けるのは疲れる。それで、飽きてやめてしまう。
そんなこんなで、しまいには2日間まるまるテレビが入らなかったりもした。
2日ぶりにつけてみると、3回押しただけで電源が入ったりもしたんだけど。
さすがに、いくらテレビっ子じゃないわたしでもちょっと気持ちが落ち込んだ。
無音の空間は好きだが、なんとなくつけたい時につかないってキツイ。
もう買い替え時かも知れないと思った。
失業中だし、ほんとは買い替えたくなかったけど・・。
それで、8月からは1ヶ月ほどネットの電気屋を調べたり、電気屋に通ったり。
自分の中のボーダーラインがあり、それを下回ったら買おうと思っていた。
そして、8月の末、2週連続通ったお店の店員さんが気づいてくれてリサイクル料金と消費税を含めて
ボーダーラインを下回った価格を提案してくれたので、とうとう購入を決意
テレビを購入したからには必要になるのはテレビボード。
ほんとだったら買いたくないのだが、もともとのうちのテレビボードは
そのブラウン管テレビの純正の台でそのテレビじゃないとピッタリとこないものだった。
テレビを取り替えてしばらくは、しょうがないので乗せていたが、なんせ形が合わないし
奥行きがあり過ぎて変だった。
で、同じく8月からずっとテレビボードをネットで探し続けていたのだが、良いものは値段が良かったり
見た目は気に入っても思ったよりも大きかったり・・なかなか自分の理想どおりの物が見つけれなかった。
あと、最初は完成品のテレビボードで検索していた。
完成品だけにやっぱり安くてもそこそこの値段はする。
それに送料を含めると・・色々迷いに迷った。
あと、わたしはこだわり過ぎる人間なので、色合いとか風合いとか、同じ茶色の木製だとしても
もっとウォールナットの方がいい・・とか、もっと木の質感がザラっとしてる方がいいのに・・とか
ほんと朝から夜中まで探し続けた(めっちゃ暇人)。
そこで、とうとう見つけたのが、組立て品のテレビボード。
組立て品は絶対避けたかったが、なんせ、大きさが自分の理想どおり。質感や色合いもPC画面で見る
限り、自分の理想に一番近いのだ。
8,980円の品が、楽天のセールでなんと1,000円引きになるという情報を見て購入を決意。
送料は1,000円ほど。
一度組立てについて問い合わせたところ、専門業者に頼むことになるそうで、プラス13,000円も
かかるという。
買うより高いとは・・。
そこで、思いついたのが地元の便利屋さんに頼むということ。
調べて問い合わせたら5,000〜6,000円ぐらいで組み立ててくれるという情報を得た。
思い切って、テレビボード購入!
それから数日後、届いた。
そして梱包をほどいて思ったこと。どうせ暇なんだからゆっくり作ってみようか。
5〜6,000円だとしても、それを節約できれば他に必要なことに充てられる。
それから、時にてこずったものの、2日ほどで形になった。
堅すぎてネジが入らないときには、なんと家の近くにあるホームセンターに持って行ってねじ込んで
もらったりもした。ありがたい!節約に次ぐ節約だ。
そして、現在、テレビボードが完成したことで部屋はいい感じにまとまった。
(つづく)
ゆっくり休んでいられるのは9月が最後のようなもので、9月はしっとりと、静かに過ごした1ヶ月だった。
用事以外は家からほとんど出ず・・。
ちょっと病んでた毎日だった。
6〜8月のお盆あたりまでは好きなように過ごしてノンストレスだったわたしだが、8月末あたりから
これからの事を考えると眠れない日が多かった。
ほんと、これから、将来のことを考えただけで恐怖(考え過ぎだろうが)で。
自分の中で折り合いがつけられる仕事を見つけられるだろうか。
生きていく中で、仕事を続けていけるのだろうか。
仕事していかなきゃ、いつか破産して死んじゃうから働かないわけにいかないけど。
今は両親がいるが、死んでしまったら、本当に全てを自分の力で賄っていけるだろうか。
自分に自信がなくて色々考え込んでしまって、若干ノイローゼ気味にもなった9月だった。
それでもこの期間ちょっと良かったことは、外にあまり出なくなったことで、外食も
大好きだった喫茶店でのお茶なんかもほとんどしなくなり、しっかりと家でご飯を作って
食べるということを久々にでき(当たり前のことなんだけど)、前よりも経済観念が
しっかりしたと思う。
失業保険をもらってるからということもあって、なるべく大事に、残すように使おうと暮らしていたら
働いてる時よりも食費やお小遣いを節約して残すことが出来たり、貯金もすることができた。
働いてたら外に出る分、色々かかるお金が出てくるから、逆に出費がかさむのはしょうがないけど
この失業期間、自分でもビックリのお金の残し方が出来たと思う。
ただ、そういうときに限って、予想に反した出費というものも出てしまうものだ。
今日はそのことについて書きたいと思う。
まず、ひとつめ。
数ヶ月前からテレビが壊れていた。
うちのテレビはブラウン管のテレビだった。
兄が使っていたのを札幌に持ってきて、13年ほどの物である。寿命だ。
と言っても、スイッチ部分の故障なのか、何度も電源を押し続けてると運とタイミングで電源が入る。
それを発見?したわたしが電源を入れると、数分の間にテレビがつくのだった。
SONYの良いテレビということで、電源さえ入れば、もう今の薄型テレビなんて比較にならないぐらい
とても素晴らしい画質と音で楽しめるのだ。
わたしはもともとテレビをよく観る方でもないし、電源が入るときは入るので、テレビっ子の両親にも
我慢してもらい、このテレビを使い続けた。
しかし、親が実家に戻り1人で過ごすようになってからというものの、テレビがなかなかつかなくなった。
やっぱりたまに観たくなるときがあって、電源入れようとしても入らないのだ。
何度も何度も電源押し続けるのは疲れる。それで、飽きてやめてしまう。
そんなこんなで、しまいには2日間まるまるテレビが入らなかったりもした。
2日ぶりにつけてみると、3回押しただけで電源が入ったりもしたんだけど。
さすがに、いくらテレビっ子じゃないわたしでもちょっと気持ちが落ち込んだ。
無音の空間は好きだが、なんとなくつけたい時につかないってキツイ。
もう買い替え時かも知れないと思った。
失業中だし、ほんとは買い替えたくなかったけど・・。
それで、8月からは1ヶ月ほどネットの電気屋を調べたり、電気屋に通ったり。
自分の中のボーダーラインがあり、それを下回ったら買おうと思っていた。
そして、8月の末、2週連続通ったお店の店員さんが気づいてくれてリサイクル料金と消費税を含めて
ボーダーラインを下回った価格を提案してくれたので、とうとう購入を決意
テレビを購入したからには必要になるのはテレビボード。
ほんとだったら買いたくないのだが、もともとのうちのテレビボードは
そのブラウン管テレビの純正の台でそのテレビじゃないとピッタリとこないものだった。
テレビを取り替えてしばらくは、しょうがないので乗せていたが、なんせ形が合わないし
奥行きがあり過ぎて変だった。
で、同じく8月からずっとテレビボードをネットで探し続けていたのだが、良いものは値段が良かったり
見た目は気に入っても思ったよりも大きかったり・・なかなか自分の理想どおりの物が見つけれなかった。
あと、最初は完成品のテレビボードで検索していた。
完成品だけにやっぱり安くてもそこそこの値段はする。
それに送料を含めると・・色々迷いに迷った。
あと、わたしはこだわり過ぎる人間なので、色合いとか風合いとか、同じ茶色の木製だとしても
もっとウォールナットの方がいい・・とか、もっと木の質感がザラっとしてる方がいいのに・・とか
ほんと朝から夜中まで探し続けた(めっちゃ暇人)。
そこで、とうとう見つけたのが、組立て品のテレビボード。
組立て品は絶対避けたかったが、なんせ、大きさが自分の理想どおり。質感や色合いもPC画面で見る
限り、自分の理想に一番近いのだ。
8,980円の品が、楽天のセールでなんと1,000円引きになるという情報を見て購入を決意。
送料は1,000円ほど。
一度組立てについて問い合わせたところ、専門業者に頼むことになるそうで、プラス13,000円も
かかるという。
買うより高いとは・・。
そこで、思いついたのが地元の便利屋さんに頼むということ。
調べて問い合わせたら5,000〜6,000円ぐらいで組み立ててくれるという情報を得た。
思い切って、テレビボード購入!
価格:8,980円 |
それから数日後、届いた。
そして梱包をほどいて思ったこと。どうせ暇なんだからゆっくり作ってみようか。
5〜6,000円だとしても、それを節約できれば他に必要なことに充てられる。
それから、時にてこずったものの、2日ほどで形になった。
堅すぎてネジが入らないときには、なんと家の近くにあるホームセンターに持って行ってねじ込んで
もらったりもした。ありがたい!節約に次ぐ節約だ。
そして、現在、テレビボードが完成したことで部屋はいい感じにまとまった。
(つづく)
2015年09月08日
久しぶりの自由な生活C
祖母の家を「売ろうと思うがどうしよう」と、実家に居る父が母に電話してきたのが6月の中頃
だったか。
その日、父の知り合いの不動産屋さんに家を見てもらったそうだ。
そしたら「この家の造りじゃ(失礼)、家を壊して更地にして売らないと。」とのこと。
はぁ?という感じの話だ。
祖母の家は築40年少々だが、広くて日当たり良好、間取りも良く、住みやすい家だ。
祖父母は夫婦2人での仕事をしてたが、仕事場から住まいが結構遠かったため、その仕事場に
住みながら(団地の小さな家でキッチンもちゃんと付いてる)土日は持ち家に帰って過ごすという
ちょっと変わった生活をしていたため、家は古い感じがしない。
立地や、環境も良く、周りの色々な人たちから「ここなら、このまま貸してもすぐ借りる人が
出てくるよきっと」とか「きっと高く売れるんじゃない?」とか褒められてたのだ。
でも、過疎地の現状なかなかそううまくはいかないだろうとは思ってたが、そこまでか!?
ちょっと深く突っ込んだお金の話になるが、その不動産屋さんが言うには「家自体を査定しても
いいとこ200万。貸すにはかなりリフォーム必要。もし更地にして、うちで買取ったら240万。」
意味解らない。
更地にするのにかかる費用はというと、200万近くかかると言うんだから。
そこで、父の中に「この家はなかなか売れない」「貸すのも苦労」という構図が出来上がったらしい。
この家に限らず、現在、実家の方の不動産サイトを色々見ても、古い家はなかなか借り手もないし
売れてないようだった。
しまいには、ずっと売れないため、結局お金をかけて更地にして売り出しをかけてるぐらいだ。
お金かけてリフォームしてもだめ、更地にしても売れなかったら・・。
なんて、ちょっと不安になって母に電話してきた父だった。
でも、父は更地にしても売りたいような言い振りだったので、母と2人で反対して
わたしがネットで見つけた不動産屋さんの電話番号を教えて、もっと他にも色々見てもらった
方がいい、1つに決めない方がいいと言ったが、いまひとつ乗り気じゃないようだった。
「とにかくこのお店に電話してみなさい」と母が電話を切った。
それからしばらくしたら父から電話がかかってきた。
「さっき言ってた不動産屋さんに電話をしたら、家を見てくれて、とてもいい家だからうちでは
320万で買取りたいと言われた」とちょっと誇らしげに言ってる父。
たしかにさっきの知り合いのお店から比べたら、天と地との差である評価だが、他にも
もっと見てもらった方がいいと、また2人で父を説得した。
しかし、父は、最初の段階でもう売れることの方が奇跡的だと(それはわたし達も同じだが)思い
もうすぐにでも決めたいと思ってしまったようだ。
あまのじゃくな父なので、もうそこに決めるの1点張りだったが、ネットで見つけたもう1つの
お店の電話番号を無理やり教えて電話を切った。
あまのじゃくな父は、やっぱり電話してみたらしい。
それから1度父から「さっき言ってたお店に電話したけど買取りしてないんだって」とだけ
電話が来た。
もう2つめのお店で決めるから・・的な話で終わった。
そこから、数時間後に事態は大きく動き、父から事後報告の電話が夜に来た。
結論から言うと、3つめのお店で家が売れた。
父が電話で言ってたのは、このお店は仲介のみで買い取りはしてないという意味だったよう。
中古物件を探してるお客さんがいてお店の人が連絡したら「見てみたい」と言われたそうで、夜に
ばあちゃんの家を見に来たそうだ。
そのお客さんは全面リフォームを考えてるそうだが、立地も大きさも満足だったようだ。
あとは金額・・という話になったときに、父は「400万で売れたら・・」と言ったら即決という
結果になった。
ビックリの展開だった。
が、その話を聞いたときに母とわたしで「馬鹿だね、本当は最初500万を希望してたんだから
言ってみればよかったのに」なんて散々言ったが、今回最初に更地にして240万と言われたからか
尻込みしてしまったようだ。
「そんな大きいこと言って売れなくなったら困る。それに500万て言ってダメなら安くするとか
駆け引きはしたくない。」と父が言った。
父的には大満足のようだった。
たしかに、現状売れない家で溢れている昨今。
たった1日の活動で売れただけでも奇跡だと思えるような話だ。
絶妙なタイミングだったと思う。
それから話はとんとん拍子に進み、8月末に売り渡すために、父が祖母宅のものを人に譲ったり
業者に売ったりした。
なんと言っても、こまごまとした物は叔母が葬式が終わった後2〜3日でほとんど選別・処分して
くれたことは大きい。
あの時、物の処分について父母と衝突してたので、叔母の行動にわたしは涙が出た。
アッサリしてるとか冷淡なようにその時父は言ったけど、そんな気持ちで物を捨てる人はいない。
叔母だって、寂しさや切なさを感じて整理したのだと思う。
叔母は今遠くに住んでいるため、あとは父に任せるから好きなようにやってと言って帰って行った。
それからの1人での処分はものすごく大変そうだったが、てきぱきとこなしていったようだ。
父は行動力があるので、そういう面はいい。
そして、7月末に母も帰り、そこから怒涛の片づけが始まったようだ(←ひとごと)。
とにかく毎日、実家&祖母の家の物の仕分け。必要なものと必要ではないものを分けて
最終的に業者に頼んで整理したとのことだ。
毎日、くたくたになりながら、選別と片付けに明け暮れてたらしい(←これまたひとごと)。
実家の方は、話を聞いてびっくりするぐらい、わたしの予想を超えた大片付けがされたらしい。
そして仏壇を入れるためのリフォームも終わり、順調に仏壇が設置されたそうだ。
で、継続して今片づけをしてところどころリフォームもしてもらってるというからビックリ。
わたしは結局、口だけ出して手は一切出さないという、口だけな女でごめんという感じになって
しまったが、父母や兄が一生懸命片付けたとうことは、本当ホッとしたし、見直した(もともとやれば
徹底的にやる人たちなのだが)。相当大変だったと思う。
わたしは1人この生活をのほほーんと何もせず過ごして、他人事みたくなってしまったけど
いざとなればやるんだなあと、よくぞやってくれた!と感動した。
長々と振り返ってみた2015年の上半期。
色々あったけど、思いのほか、とんとん拍子というか、全部繋がってる気がするというか
こういう筋書きになる運命だったような気がしてならない。
それまで、いずれそうなるであろう事を考えて、頭の中でグルグル考えては
「どうなっちゃうんだろう」と不安に思ったりしたが、やっぱり人生は、なるようになるよう
出来ているのだろうか。
祖父母や先祖がそういう風に導いてくれてるんだろうか(ちょっと神がかった発言ですみません)。
そう考えると、今眠られないぐらい毎日考えてる将来の不安も、流れにまかせてその時々を過ごしたら
どうにか生きていけるのだろうか。
そんなことを、今この日記を書きながら思った。
だったか。
その日、父の知り合いの不動産屋さんに家を見てもらったそうだ。
そしたら「この家の造りじゃ(失礼)、家を壊して更地にして売らないと。」とのこと。
はぁ?という感じの話だ。
祖母の家は築40年少々だが、広くて日当たり良好、間取りも良く、住みやすい家だ。
祖父母は夫婦2人での仕事をしてたが、仕事場から住まいが結構遠かったため、その仕事場に
住みながら(団地の小さな家でキッチンもちゃんと付いてる)土日は持ち家に帰って過ごすという
ちょっと変わった生活をしていたため、家は古い感じがしない。
立地や、環境も良く、周りの色々な人たちから「ここなら、このまま貸してもすぐ借りる人が
出てくるよきっと」とか「きっと高く売れるんじゃない?」とか褒められてたのだ。
でも、過疎地の現状なかなかそううまくはいかないだろうとは思ってたが、そこまでか!?
ちょっと深く突っ込んだお金の話になるが、その不動産屋さんが言うには「家自体を査定しても
いいとこ200万。貸すにはかなりリフォーム必要。もし更地にして、うちで買取ったら240万。」
意味解らない。
更地にするのにかかる費用はというと、200万近くかかると言うんだから。
そこで、父の中に「この家はなかなか売れない」「貸すのも苦労」という構図が出来上がったらしい。
この家に限らず、現在、実家の方の不動産サイトを色々見ても、古い家はなかなか借り手もないし
売れてないようだった。
しまいには、ずっと売れないため、結局お金をかけて更地にして売り出しをかけてるぐらいだ。
お金かけてリフォームしてもだめ、更地にしても売れなかったら・・。
なんて、ちょっと不安になって母に電話してきた父だった。
でも、父は更地にしても売りたいような言い振りだったので、母と2人で反対して
わたしがネットで見つけた不動産屋さんの電話番号を教えて、もっと他にも色々見てもらった
方がいい、1つに決めない方がいいと言ったが、いまひとつ乗り気じゃないようだった。
「とにかくこのお店に電話してみなさい」と母が電話を切った。
それからしばらくしたら父から電話がかかってきた。
「さっき言ってた不動産屋さんに電話をしたら、家を見てくれて、とてもいい家だからうちでは
320万で買取りたいと言われた」とちょっと誇らしげに言ってる父。
たしかにさっきの知り合いのお店から比べたら、天と地との差である評価だが、他にも
もっと見てもらった方がいいと、また2人で父を説得した。
しかし、父は、最初の段階でもう売れることの方が奇跡的だと(それはわたし達も同じだが)思い
もうすぐにでも決めたいと思ってしまったようだ。
あまのじゃくな父なので、もうそこに決めるの1点張りだったが、ネットで見つけたもう1つの
お店の電話番号を無理やり教えて電話を切った。
あまのじゃくな父は、やっぱり電話してみたらしい。
それから1度父から「さっき言ってたお店に電話したけど買取りしてないんだって」とだけ
電話が来た。
もう2つめのお店で決めるから・・的な話で終わった。
そこから、数時間後に事態は大きく動き、父から事後報告の電話が夜に来た。
結論から言うと、3つめのお店で家が売れた。
父が電話で言ってたのは、このお店は仲介のみで買い取りはしてないという意味だったよう。
中古物件を探してるお客さんがいてお店の人が連絡したら「見てみたい」と言われたそうで、夜に
ばあちゃんの家を見に来たそうだ。
そのお客さんは全面リフォームを考えてるそうだが、立地も大きさも満足だったようだ。
あとは金額・・という話になったときに、父は「400万で売れたら・・」と言ったら即決という
結果になった。
ビックリの展開だった。
が、その話を聞いたときに母とわたしで「馬鹿だね、本当は最初500万を希望してたんだから
言ってみればよかったのに」なんて散々言ったが、今回最初に更地にして240万と言われたからか
尻込みしてしまったようだ。
「そんな大きいこと言って売れなくなったら困る。それに500万て言ってダメなら安くするとか
駆け引きはしたくない。」と父が言った。
父的には大満足のようだった。
たしかに、現状売れない家で溢れている昨今。
たった1日の活動で売れただけでも奇跡だと思えるような話だ。
絶妙なタイミングだったと思う。
それから話はとんとん拍子に進み、8月末に売り渡すために、父が祖母宅のものを人に譲ったり
業者に売ったりした。
なんと言っても、こまごまとした物は叔母が葬式が終わった後2〜3日でほとんど選別・処分して
くれたことは大きい。
あの時、物の処分について父母と衝突してたので、叔母の行動にわたしは涙が出た。
アッサリしてるとか冷淡なようにその時父は言ったけど、そんな気持ちで物を捨てる人はいない。
叔母だって、寂しさや切なさを感じて整理したのだと思う。
叔母は今遠くに住んでいるため、あとは父に任せるから好きなようにやってと言って帰って行った。
それからの1人での処分はものすごく大変そうだったが、てきぱきとこなしていったようだ。
父は行動力があるので、そういう面はいい。
そして、7月末に母も帰り、そこから怒涛の片づけが始まったようだ(←ひとごと)。
とにかく毎日、実家&祖母の家の物の仕分け。必要なものと必要ではないものを分けて
最終的に業者に頼んで整理したとのことだ。
毎日、くたくたになりながら、選別と片付けに明け暮れてたらしい(←これまたひとごと)。
実家の方は、話を聞いてびっくりするぐらい、わたしの予想を超えた大片付けがされたらしい。
そして仏壇を入れるためのリフォームも終わり、順調に仏壇が設置されたそうだ。
で、継続して今片づけをしてところどころリフォームもしてもらってるというからビックリ。
わたしは結局、口だけ出して手は一切出さないという、口だけな女でごめんという感じになって
しまったが、父母や兄が一生懸命片付けたとうことは、本当ホッとしたし、見直した(もともとやれば
徹底的にやる人たちなのだが)。相当大変だったと思う。
わたしは1人この生活をのほほーんと何もせず過ごして、他人事みたくなってしまったけど
いざとなればやるんだなあと、よくぞやってくれた!と感動した。
長々と振り返ってみた2015年の上半期。
色々あったけど、思いのほか、とんとん拍子というか、全部繋がってる気がするというか
こういう筋書きになる運命だったような気がしてならない。
それまで、いずれそうなるであろう事を考えて、頭の中でグルグル考えては
「どうなっちゃうんだろう」と不安に思ったりしたが、やっぱり人生は、なるようになるよう
出来ているのだろうか。
祖父母や先祖がそういう風に導いてくれてるんだろうか(ちょっと神がかった発言ですみません)。
そう考えると、今眠られないぐらい毎日考えてる将来の不安も、流れにまかせてその時々を過ごしたら
どうにか生きていけるのだろうか。
そんなことを、今この日記を書きながら思った。
久しぶりの自由な生活B
わたしは偉そうな人間だ・・と、この前の日記を読み返してあらためて思った。
自分の考えや思いが受け入れられないとカッとして、解ってもらえるまで言い続ける。
しまいには、本当は思ってないのにひどい暴言を放ってしまう。
あとで激しく後悔するが『喉元過ぎれば熱さを忘れる』同じことの繰り返しだ。
恐ろしい。
今まで両親には、ただただ助けられて支えられてきたのに、どの口が言うか・・という感じだが
自分の思いを理解してもらえないと感情が止まらなくなってしまうのだ。
悪いクセだ。
わたしの人生、この12年ほどで色んなことが変わったけれど、変わらないのはこの気性・・。
さて、あっという間に9月が始まり、きっとあっという間に9月も終わるのだろう。
この自由な生活(失業保険をもらってる身、あまり大きな声では言えないが)も
終盤にきているんだとお盆の後あたりから、ヒューっと心に風が吹くような妙な寂しさを感じる
いや、この上ないほど寂しさだらけだ。
いや、正直、このまま鍵をかけて引きこもってしまうのではないかというぐらいだ。
「社会に出るのが怖い〜いやだあ〜〜」とじたばたと床で駄々をこねてる子供のような気持ちに
なっている。
わたしはメンタルが本当に弱いなあ。
失業中の身、情報としてちょっとだけ掘り下げてこの失業給付について書くと・・。
5月の末の説明会から始まった、わたしの失業給付生活。
派遣任期満了での退職は、3ヶ月待機せずに給付を受けることが出来るのかがとても不安だった。
失業保険に関してネットで色々調べたが、本当に沢山の情報が錯綜していたためはっきりと
したことがわからなくて、なんだか不安で落ち着かず、気持ちも不安定気味だったが・・。
わたしのようなケースは、7日間の待機期間を過ぎれば、認定・給付を受けることが出来て
ほっとした。
手当てについても、給料の6割ぐらいを想定していたが、実際は7.5割ぐらいの給付ということで
本当にありがたく、皆の税金をもらってるのだから大事に活用して過ごさなければ・・と思う。
(その人の収入によって6〜8割とのこと)
仕事探しは定期的に行っている。
ハローワーク経由と、求人サイトからの応募で履歴書を送ったが落ちてしまったけど。
過去(15年ほど前)には、新卒の会社を自己都合で退職して、3ヶ月待機した上で90日の給付を
受けたことがあるが、その頃からはずいぶん制度も変わったようだ。
若い頃はあまり国のことに関心がなく、ニュースも気にして観ていなかったからわからなかったが
本当にどんどん制度の見直し・改革が行われてきたんだなあと思う。
国の制度は融通の利かない事も多々あるけれど、この失業保険の制度に関しては
わりあいというか、かなり失業者に優しいかも知れない。
決められたことをきちんとしていれば認定を受けられるという、淡々と役所的な側面もありつつ
28日ごとの認定日には、認定後に2階の職業相談コーナーに案内されるという流れなのだが
相談員さんは、とても親身で温かだなあと思う人が多い。
さらにこれが、認定のための活動の1回としてカウントされる。
過去、こうだったかなあ(15年前の記憶が消えつつある)。
たぶん、こういう流れじゃなかったはず。
失業認定における求職活動とは、住んでいる市によっても基準が違うようだがわたしの住む札幌では
履歴書の応募や、ネットでの応募(ネットでの単なるエントリーが含まれるかはグレー)。
ハローワークや、各区にある関連施設での求人検索(家でネットを見るだけはだめ)や職業相談。
そして、職安主催のセミナーへの参加など。
28日のうちに2回、求職活動の実績が必要になる。
わたしは7月にセミナーに参加してみた。
大きな書店の入ってるビルで、履歴書の書き方について学ぶセミナーに申し込んだのだが
お世辞抜き(?)に、とても参考になった。
全4回のシリーズものなのだが、どれに参加してもいい。
(シリーズ全部申し込むのが本当は一番いいのだが。)
全部参加したかったのだが、都合が合わなくて申し込めなかった。
残り1ヶ月ほどの給付日数なので、もう参加できないかも知れないが「自分自身を知る」といった
自己PRの部分を掘り下げた回があって、それに参加してみたかったなと思う。
なんだか、もらうための求職活動というのも変な話なのだが、実際、キレイ事を抜きにすると
もらうために活動していることになる。
が、このような参考になるセミナーというのがあるのは、いいなとすごく思った。
6月は、失業給付生活が始まったばかりで不安やわからないことだらけでわりあい慎重に過ごす。
7月は、職探しをしたり、セミナーを受けながらも、現実逃避したような、でもすごく心が
開放された自由気ままな生活を送っていた。
久しぶりに、自分の心も、体も、ものすごく自由になれた気がして調子が良かった。
悩んでた便秘が治り、変な食欲も起きず、冬の間に太ったのが一気にやせた。
大きな声では言えないが、ノンストレスとはこのことだな、体にもそれが現れるのだと
つくづく思った。
まだ、どうにかなると気楽に考えれた期間。
7月末に母が実家に戻り、1人になった。
8月の始めは開放的な生活をしていたが、お盆が終わったと同時に(しかし祖母の初盆なのに
実家にも帰らないとは・・)わたしの心の開放は終わってしまった気がする。
今は、これから向き合っていかないとないといけない現実と将来を思い、ただただ不安と恐怖で
夜眠れない日がある。
本当に、7月から8月始めの開放感はどこへやらだ。
わかりやすく、また便秘になってしまったし、体調も不安定。
情けない。
もう1つ、前の日記について書いた実家のことだが、驚くほどの展開で事が進んだ。
わたしと母が札幌に戻ってしばらくして父が動き出し、なんと即日で運よく祖母の家が売れたのだ。
ほんと、ビックリするようなタイミングでの売れ方だった。
(長くなったので、またつづく)
ちなみに
自分の考えや思いが受け入れられないとカッとして、解ってもらえるまで言い続ける。
しまいには、本当は思ってないのにひどい暴言を放ってしまう。
あとで激しく後悔するが『喉元過ぎれば熱さを忘れる』同じことの繰り返しだ。
恐ろしい。
今まで両親には、ただただ助けられて支えられてきたのに、どの口が言うか・・という感じだが
自分の思いを理解してもらえないと感情が止まらなくなってしまうのだ。
悪いクセだ。
わたしの人生、この12年ほどで色んなことが変わったけれど、変わらないのはこの気性・・。
さて、あっという間に9月が始まり、きっとあっという間に9月も終わるのだろう。
この自由な生活(失業保険をもらってる身、あまり大きな声では言えないが)も
終盤にきているんだとお盆の後あたりから、ヒューっと心に風が吹くような妙な寂しさを感じる
いや、この上ないほど寂しさだらけだ。
いや、正直、このまま鍵をかけて引きこもってしまうのではないかというぐらいだ。
「社会に出るのが怖い〜いやだあ〜〜」とじたばたと床で駄々をこねてる子供のような気持ちに
なっている。
わたしはメンタルが本当に弱いなあ。
失業中の身、情報としてちょっとだけ掘り下げてこの失業給付について書くと・・。
5月の末の説明会から始まった、わたしの失業給付生活。
派遣任期満了での退職は、3ヶ月待機せずに給付を受けることが出来るのかがとても不安だった。
失業保険に関してネットで色々調べたが、本当に沢山の情報が錯綜していたためはっきりと
したことがわからなくて、なんだか不安で落ち着かず、気持ちも不安定気味だったが・・。
わたしのようなケースは、7日間の待機期間を過ぎれば、認定・給付を受けることが出来て
ほっとした。
手当てについても、給料の6割ぐらいを想定していたが、実際は7.5割ぐらいの給付ということで
本当にありがたく、皆の税金をもらってるのだから大事に活用して過ごさなければ・・と思う。
(その人の収入によって6〜8割とのこと)
仕事探しは定期的に行っている。
ハローワーク経由と、求人サイトからの応募で履歴書を送ったが落ちてしまったけど。
過去(15年ほど前)には、新卒の会社を自己都合で退職して、3ヶ月待機した上で90日の給付を
受けたことがあるが、その頃からはずいぶん制度も変わったようだ。
若い頃はあまり国のことに関心がなく、ニュースも気にして観ていなかったからわからなかったが
本当にどんどん制度の見直し・改革が行われてきたんだなあと思う。
国の制度は融通の利かない事も多々あるけれど、この失業保険の制度に関しては
わりあいというか、かなり失業者に優しいかも知れない。
決められたことをきちんとしていれば認定を受けられるという、淡々と役所的な側面もありつつ
28日ごとの認定日には、認定後に2階の職業相談コーナーに案内されるという流れなのだが
相談員さんは、とても親身で温かだなあと思う人が多い。
さらにこれが、認定のための活動の1回としてカウントされる。
過去、こうだったかなあ(15年前の記憶が消えつつある)。
たぶん、こういう流れじゃなかったはず。
失業認定における求職活動とは、住んでいる市によっても基準が違うようだがわたしの住む札幌では
履歴書の応募や、ネットでの応募(ネットでの単なるエントリーが含まれるかはグレー)。
ハローワークや、各区にある関連施設での求人検索(家でネットを見るだけはだめ)や職業相談。
そして、職安主催のセミナーへの参加など。
28日のうちに2回、求職活動の実績が必要になる。
わたしは7月にセミナーに参加してみた。
大きな書店の入ってるビルで、履歴書の書き方について学ぶセミナーに申し込んだのだが
お世辞抜き(?)に、とても参考になった。
全4回のシリーズものなのだが、どれに参加してもいい。
(シリーズ全部申し込むのが本当は一番いいのだが。)
全部参加したかったのだが、都合が合わなくて申し込めなかった。
残り1ヶ月ほどの給付日数なので、もう参加できないかも知れないが「自分自身を知る」といった
自己PRの部分を掘り下げた回があって、それに参加してみたかったなと思う。
なんだか、もらうための求職活動というのも変な話なのだが、実際、キレイ事を抜きにすると
もらうために活動していることになる。
が、このような参考になるセミナーというのがあるのは、いいなとすごく思った。
6月は、失業給付生活が始まったばかりで不安やわからないことだらけでわりあい慎重に過ごす。
7月は、職探しをしたり、セミナーを受けながらも、現実逃避したような、でもすごく心が
開放された自由気ままな生活を送っていた。
久しぶりに、自分の心も、体も、ものすごく自由になれた気がして調子が良かった。
悩んでた便秘が治り、変な食欲も起きず、冬の間に太ったのが一気にやせた。
大きな声では言えないが、ノンストレスとはこのことだな、体にもそれが現れるのだと
つくづく思った。
まだ、どうにかなると気楽に考えれた期間。
7月末に母が実家に戻り、1人になった。
8月の始めは開放的な生活をしていたが、お盆が終わったと同時に(しかし祖母の初盆なのに
実家にも帰らないとは・・)わたしの心の開放は終わってしまった気がする。
今は、これから向き合っていかないとないといけない現実と将来を思い、ただただ不安と恐怖で
夜眠れない日がある。
本当に、7月から8月始めの開放感はどこへやらだ。
わかりやすく、また便秘になってしまったし、体調も不安定。
情けない。
もう1つ、前の日記について書いた実家のことだが、驚くほどの展開で事が進んだ。
わたしと母が札幌に戻ってしばらくして父が動き出し、なんと即日で運よく祖母の家が売れたのだ。
ほんと、ビックリするようなタイミングでの売れ方だった。
(長くなったので、またつづく)
ちなみに
2015年09月07日
久しぶりの自由な生活A
ばあちゃんが亡くなってからもしばらく滞在していた実家では、ばあちゃんが亡くなった事で色々解決
しなければいけないことが出てきた。
まずは、亡くなったばあちゃんの家をどうするか。
貸すか、売るか。
この過疎化の地で売れるのか?
状態のいい家なのだが、貸すにしても、ある程度は直さなきゃいけない。
でも将来的なことを考えると、財産として固定資産税などを払い続け、直しながら誰かに貸す
というのはムリがあるのだ。
確実に、兄&わたしの代になったら維持ができなくなる。
そして、どちらにしても確実にしなきゃいけないこと。
それは、ばあちゃんの家の大きな仏壇を実家に移さなければいけない。
ただ、そこで大きな問題。
いつかの記事で書いたような気がするが、我が家は物が多すぎる。
わたしが高校まで暮らしてた頃は我が家はもっとスッキリと広々としていたのだが、いつからか
どんどん物があふれ、今ではわたしの寝る場所もなく、母のベッドに一緒に寝なきゃいけない。
セミダブルではあるものの、狭くて寝返りを打つのもキツイ。
いつからか、うちのもともとの家具の他に、親戚から譲り受けた家具が増え、部屋を圧迫している。
その中には物がぎゅうぎゅうに詰め込まれてる。
よくもまあ、こんなにという感じだ。
その中のものは、必要なものと不必要なものが混在してるが、90パーセントは使ってないものが
入ってる。
使ってるものは、使うからという理由で収納の外に置いてあったり。
年末に帰省した時は「わたしの居場所がない」「家に物が多すぎて落ち着かない」
「物が多いせいでイライラする」
「将来どうするんだ」と散々悪態をついた。
喧嘩(というより一方的なわたしの激怒)の理由はほとんどその話題。
母の、物を大事にしてるから捨てられないという主張は、ハッキリ言ってずれている。
物を溜め込んで、その存在を忘れてたりする。
で、「そう言えばこんなのあったっけ」「大事だから使わないでしまってた」とか言うのがほんと納得いかないのだ。
それって、大事にしてるとは言えない。
「思い入れがある」という。
気持ちはわかるが、そうやって美談にするのがイラっときてカーッとなる。
で、しまっておいた結果、家が古くなったり猫が居て窓を閉め切ったりしてるためにカビてたりするのだ。
それに、父も必要なものも必要じゃないものもとっておきたがり、捨てるとやたら怒る。
使わないくせに、タダだからとやたらもらってきたり、同じものを何個もとっておきたがったり。
余談だが、ぎゅうぎゅうに詰まった押入れの前に大きい座布団袋がいつからか置いてあって
それがなんだかずっと邪魔だった。
なんの座布団かと思い、中を見たら『寿』と刺繍されためっちゃ豪華な座布団だったことが今回判明。
母が親戚がくれると言うからもらったとのこと。
『寿』なんてこの先我が家で使うことは一生ない。
今回ばあちゃんが亡くなったことで、どちらにしても我が家を片付けなければいけない時が来たようだ。
5月下旬には職安に行くため札幌に戻るので、それまでに少しでも片付けようと言ったが、なかなか
踏ん切りがつかない親だった。
わたしの願いはただひとつ。
整理をすることで、気持ちが浄化される。その気持ちを味わってほしいということ。
それは、自分で選別してやらないと意味がないのだと思ってる。
整理整頓は、生き方にも繋がる。
必要なものと不要なもの。
この見極めをするとしないのとじゃ大違い。
必要なものを残し、もう必要ではないものを捨てる、捨てるということは抵抗がある。
でも、それを感じる気持ちも大事だと思う。
痛みを感じながらも、大事なものをより大事だと思う気持ちが大事だ(大事ばかり)。
そして、大事なものだからこそ、ただしまっておくのではなく使わないと意味がないと思っている。
と格好良く言ってるが、わたし自身も転勤で物の整理は慣れてるものの、使わないけれど
なかなか捨てられない物もあるから、そこまで人のこと言えないのだが。
でも、必要なものと不要なものは見極めて生きている(と思う)。
各地の転勤に伴い、不要と思ったものはその時々で処分してきたけど、大きく気持ちを変えたのは
やっぱり東日本大震災を経験したことも大きい。
本当に大事なものは、結局は少しなんだと、心から思った。
また、多くの大事なものを流されてしまった人も大勢いる。
それを思ったら、必要か必要でないかぐらいの区別は、自分自身でつけてほしいし、感じてほしい。
と心の底から思うのだ。
「あんた達が死んだらわたしが片付けなきゃいけなくなるのは嫌だからどうにかしろ」と
文句を言ったがそれはあくまで悪態であって、本当の理由はそこじゃない。
見極めは自分でしないと意味がないのだ。
と偉そうなことを書き連ねてしまった。
結局札幌に戻るまでに、わたしの出来たことは、もう着ない服を少し処分したことぐらい。
父母も、祖母が亡くなったばかりで、まだ物を処分するまで頭が回らないと言ったから、あきらめた。
「もうわたしは一切手伝わない。二度とこの家には帰らないから」なーんてひどい事を口にした。
色々考えなきゃいけないことがいっぱいあるけど、まずは5月末の失業給付の認定のため
母もとりあえず通院などがあるため、また二人での札幌での生活に戻るのだった。
(つづく)
しなければいけないことが出てきた。
まずは、亡くなったばあちゃんの家をどうするか。
貸すか、売るか。
この過疎化の地で売れるのか?
状態のいい家なのだが、貸すにしても、ある程度は直さなきゃいけない。
でも将来的なことを考えると、財産として固定資産税などを払い続け、直しながら誰かに貸す
というのはムリがあるのだ。
確実に、兄&わたしの代になったら維持ができなくなる。
そして、どちらにしても確実にしなきゃいけないこと。
それは、ばあちゃんの家の大きな仏壇を実家に移さなければいけない。
ただ、そこで大きな問題。
いつかの記事で書いたような気がするが、我が家は物が多すぎる。
わたしが高校まで暮らしてた頃は我が家はもっとスッキリと広々としていたのだが、いつからか
どんどん物があふれ、今ではわたしの寝る場所もなく、母のベッドに一緒に寝なきゃいけない。
セミダブルではあるものの、狭くて寝返りを打つのもキツイ。
いつからか、うちのもともとの家具の他に、親戚から譲り受けた家具が増え、部屋を圧迫している。
その中には物がぎゅうぎゅうに詰め込まれてる。
よくもまあ、こんなにという感じだ。
その中のものは、必要なものと不必要なものが混在してるが、90パーセントは使ってないものが
入ってる。
使ってるものは、使うからという理由で収納の外に置いてあったり。
年末に帰省した時は「わたしの居場所がない」「家に物が多すぎて落ち着かない」
「物が多いせいでイライラする」
「将来どうするんだ」と散々悪態をついた。
喧嘩(というより一方的なわたしの激怒)の理由はほとんどその話題。
母の、物を大事にしてるから捨てられないという主張は、ハッキリ言ってずれている。
物を溜め込んで、その存在を忘れてたりする。
で、「そう言えばこんなのあったっけ」「大事だから使わないでしまってた」とか言うのがほんと納得いかないのだ。
それって、大事にしてるとは言えない。
「思い入れがある」という。
気持ちはわかるが、そうやって美談にするのがイラっときてカーッとなる。
で、しまっておいた結果、家が古くなったり猫が居て窓を閉め切ったりしてるためにカビてたりするのだ。
それに、父も必要なものも必要じゃないものもとっておきたがり、捨てるとやたら怒る。
使わないくせに、タダだからとやたらもらってきたり、同じものを何個もとっておきたがったり。
余談だが、ぎゅうぎゅうに詰まった押入れの前に大きい座布団袋がいつからか置いてあって
それがなんだかずっと邪魔だった。
なんの座布団かと思い、中を見たら『寿』と刺繍されためっちゃ豪華な座布団だったことが今回判明。
母が親戚がくれると言うからもらったとのこと。
『寿』なんてこの先我が家で使うことは一生ない。
今回ばあちゃんが亡くなったことで、どちらにしても我が家を片付けなければいけない時が来たようだ。
5月下旬には職安に行くため札幌に戻るので、それまでに少しでも片付けようと言ったが、なかなか
踏ん切りがつかない親だった。
わたしの願いはただひとつ。
整理をすることで、気持ちが浄化される。その気持ちを味わってほしいということ。
それは、自分で選別してやらないと意味がないのだと思ってる。
整理整頓は、生き方にも繋がる。
必要なものと不要なもの。
この見極めをするとしないのとじゃ大違い。
必要なものを残し、もう必要ではないものを捨てる、捨てるということは抵抗がある。
でも、それを感じる気持ちも大事だと思う。
痛みを感じながらも、大事なものをより大事だと思う気持ちが大事だ(大事ばかり)。
そして、大事なものだからこそ、ただしまっておくのではなく使わないと意味がないと思っている。
と格好良く言ってるが、わたし自身も転勤で物の整理は慣れてるものの、使わないけれど
なかなか捨てられない物もあるから、そこまで人のこと言えないのだが。
でも、必要なものと不要なものは見極めて生きている(と思う)。
各地の転勤に伴い、不要と思ったものはその時々で処分してきたけど、大きく気持ちを変えたのは
やっぱり東日本大震災を経験したことも大きい。
本当に大事なものは、結局は少しなんだと、心から思った。
また、多くの大事なものを流されてしまった人も大勢いる。
それを思ったら、必要か必要でないかぐらいの区別は、自分自身でつけてほしいし、感じてほしい。
と心の底から思うのだ。
「あんた達が死んだらわたしが片付けなきゃいけなくなるのは嫌だからどうにかしろ」と
文句を言ったがそれはあくまで悪態であって、本当の理由はそこじゃない。
見極めは自分でしないと意味がないのだ。
と偉そうなことを書き連ねてしまった。
結局札幌に戻るまでに、わたしの出来たことは、もう着ない服を少し処分したことぐらい。
父母も、祖母が亡くなったばかりで、まだ物を処分するまで頭が回らないと言ったから、あきらめた。
「もうわたしは一切手伝わない。二度とこの家には帰らないから」なーんてひどい事を口にした。
色々考えなきゃいけないことがいっぱいあるけど、まずは5月末の失業給付の認定のため
母もとりあえず通院などがあるため、また二人での札幌での生活に戻るのだった。
(つづく)
2015年09月04日
久しぶりの自由な生活@
(文体変えます)
4月中旬までの短期の仕事を終え、わたしは無職になった。
本当に、何もしてないのは久しぶり。
なんか申し込む時とか、書かなきゃいけない時に、自分を何に分類していいのかがちょっと困るところ・・。
素直に『無職』と記入したり、一応まだ嘘ではないので『専業主婦』と書いたり。
いい加減にどうにかしろという感じだが、全く夫と連絡を取らないまま3年近い時が流れている。
そんなわたしは、5月から失業保険を給付中の身だ。
その間にこんなことがあった。
この無職期間中、1度実家に帰ろうかどうか迷ってた。
でも、遠いし面倒だからいいやと思ってしまっていた。
5月のGW明けに失業保険の申請をし、その週末に(別居中の)夫の母と会う約束をしたので
身だしなみを整えようなんて美容室に行って帰宅すると、母に実家の父から連絡が来た。
『ばあちゃんが危篤』
これまで何度も呼吸困難や肺炎になって入院したものの、なんとか頑張ってくれていたばあちゃん。
年末に老人ホームに会いに行ったときは、すっかり面影もなくなるぐらいになって、わたしの事も
分からなかったけど、静かに静かに、なんとか日常を送っていた、ばあちゃん。
その時は最後にようやくわたしの事思い出したのかな。
たぶんだけど。
それから、札幌に戻り、きつかった仕事が終わって色々落ち着いての『危篤』。
変な言い方だけど、まるでわたしのタイミングを考えてくれたかのような気がしてならなかった。
その日、着の身着のままというのか、母と、急いで実家に帰った。
車を運転して帰ったので、着いたのは夜中だったけど。
そのまま父が付き添ってるばあちゃんに会った。
もう意識がなくて、苦しそうに息をして、酸素で生かされてる状態。
顔はむくんでパンパンだった。
一度家に帰り、ほとんど眠られぬまま朝になった。
用意をして病院に行くと、10年ぶりに父の妹である叔母や親戚の人たちと会った。
実は、わたしの別居については知ってるけど、何で別居してるかとか全然知らなかった叔母。
そんな叔母と久々に病室で、色々語り合うことが出来た。
10年ずっと会ってなかったけど、何のその(?)、今まであった色々を・・。
縁遠くなってしまった気がしていたけど、叔母さんの気持ちもわかるし、わたしの気持ちも理解
してくれる。
聡明で何でも出来る叔母さんだけど、なんだかきっと(性格や考え方が)似た者同士なのかも
知れないことがわかった気がして、なんだか嬉しかったし良かった。
きっと抱えてる寂しさもあるんだってこともわかった。
それからは、今まで会えてなかった色んな親戚に本当に久々に会えた。
ばあちゃんは、頑張ったけど、もう意識がないまま、小康状態で3〜4日を生きてた。
でも、もう長くないだろうと、1人で必要な物を買いに行った帰りに病室に寄ってみた。
ばあちゃんは酸素で一生懸命息をしてた。
その時、1人だったからか涙が出てきて「ばあちゃん、ごめんね。なかなか来れなくて。
明日も来るから」
と撫でたけど、なんかもう最後のような気がした。
翌日の朝方、ばあちゃんが再び危篤で、急いで病院に行ったが死んでしまった。
87歳だった。
じいちゃんが亡くなってちょうど、12年。
実はその頃のわたしも、年末でいったん仕事を終了し、無職期間中だった。
次の仕事が決まってたので、それまでと思い実家に帰った1月。
まだ死んでしまうと思ってなかったじいちゃんが入院し、何度かお見舞いに行った。
ちょうど、現在別居中の夫とまだ付き合ってた頃で、じいちゃんに「彼氏はいるのか?」
なんて初めて聞かれて、こういう人と付き合ってるよなんて話して「それなら安心だな〜」
なんて言われたのを今も思い出す。
それから仕事が始まった2月に、突然じいちゃんが危篤になって、1週間苦しんで亡くなった。
幸い、始めたばかりの仕事だったものの休みをもらえて、じいちゃんの側に長く居られた。
ちなみに、じいちゃんが亡くなって3ヶ月後に、彼(夫)の転勤に付いて行ったというターニング
ポイントである年だった。
あの時と同じ。
今は12年前には全く考えられなかった人生を生きていて、全部が何だか寂しい(?)人生に
なっちゃったけど、タイミング良くばあちゃんに会えて一緒に居られた。
完全な自己満足で、ここ数年なかなか会いに行けなかったから最期ぐらい帰って来いって事で
このタイミングだったのかな。
なんて考えたりした。
こういう、なんとなく不思議なタイミングで、わたしは何度も母方の祖母や伯父などを最期に見てきた。
それで、なかなか会えず疎遠になりかけてた親戚と久々に会えたりもした。
今回も、ばあちゃんが呼び寄せてくれたような、そんな気が勝手にしている。
そして、きっと今年はわたしのターニングポイントである気がする。
(つづく)
4月中旬までの短期の仕事を終え、わたしは無職になった。
本当に、何もしてないのは久しぶり。
なんか申し込む時とか、書かなきゃいけない時に、自分を何に分類していいのかがちょっと困るところ・・。
素直に『無職』と記入したり、一応まだ嘘ではないので『専業主婦』と書いたり。
いい加減にどうにかしろという感じだが、全く夫と連絡を取らないまま3年近い時が流れている。
そんなわたしは、5月から失業保険を給付中の身だ。
その間にこんなことがあった。
この無職期間中、1度実家に帰ろうかどうか迷ってた。
でも、遠いし面倒だからいいやと思ってしまっていた。
5月のGW明けに失業保険の申請をし、その週末に(別居中の)夫の母と会う約束をしたので
身だしなみを整えようなんて美容室に行って帰宅すると、母に実家の父から連絡が来た。
『ばあちゃんが危篤』
これまで何度も呼吸困難や肺炎になって入院したものの、なんとか頑張ってくれていたばあちゃん。
年末に老人ホームに会いに行ったときは、すっかり面影もなくなるぐらいになって、わたしの事も
分からなかったけど、静かに静かに、なんとか日常を送っていた、ばあちゃん。
その時は最後にようやくわたしの事思い出したのかな。
たぶんだけど。
それから、札幌に戻り、きつかった仕事が終わって色々落ち着いての『危篤』。
変な言い方だけど、まるでわたしのタイミングを考えてくれたかのような気がしてならなかった。
その日、着の身着のままというのか、母と、急いで実家に帰った。
車を運転して帰ったので、着いたのは夜中だったけど。
そのまま父が付き添ってるばあちゃんに会った。
もう意識がなくて、苦しそうに息をして、酸素で生かされてる状態。
顔はむくんでパンパンだった。
一度家に帰り、ほとんど眠られぬまま朝になった。
用意をして病院に行くと、10年ぶりに父の妹である叔母や親戚の人たちと会った。
実は、わたしの別居については知ってるけど、何で別居してるかとか全然知らなかった叔母。
そんな叔母と久々に病室で、色々語り合うことが出来た。
10年ずっと会ってなかったけど、何のその(?)、今まであった色々を・・。
縁遠くなってしまった気がしていたけど、叔母さんの気持ちもわかるし、わたしの気持ちも理解
してくれる。
聡明で何でも出来る叔母さんだけど、なんだかきっと(性格や考え方が)似た者同士なのかも
知れないことがわかった気がして、なんだか嬉しかったし良かった。
きっと抱えてる寂しさもあるんだってこともわかった。
それからは、今まで会えてなかった色んな親戚に本当に久々に会えた。
ばあちゃんは、頑張ったけど、もう意識がないまま、小康状態で3〜4日を生きてた。
でも、もう長くないだろうと、1人で必要な物を買いに行った帰りに病室に寄ってみた。
ばあちゃんは酸素で一生懸命息をしてた。
その時、1人だったからか涙が出てきて「ばあちゃん、ごめんね。なかなか来れなくて。
明日も来るから」
と撫でたけど、なんかもう最後のような気がした。
翌日の朝方、ばあちゃんが再び危篤で、急いで病院に行ったが死んでしまった。
87歳だった。
じいちゃんが亡くなってちょうど、12年。
実はその頃のわたしも、年末でいったん仕事を終了し、無職期間中だった。
次の仕事が決まってたので、それまでと思い実家に帰った1月。
まだ死んでしまうと思ってなかったじいちゃんが入院し、何度かお見舞いに行った。
ちょうど、現在別居中の夫とまだ付き合ってた頃で、じいちゃんに「彼氏はいるのか?」
なんて初めて聞かれて、こういう人と付き合ってるよなんて話して「それなら安心だな〜」
なんて言われたのを今も思い出す。
それから仕事が始まった2月に、突然じいちゃんが危篤になって、1週間苦しんで亡くなった。
幸い、始めたばかりの仕事だったものの休みをもらえて、じいちゃんの側に長く居られた。
ちなみに、じいちゃんが亡くなって3ヶ月後に、彼(夫)の転勤に付いて行ったというターニング
ポイントである年だった。
あの時と同じ。
今は12年前には全く考えられなかった人生を生きていて、全部が何だか寂しい(?)人生に
なっちゃったけど、タイミング良くばあちゃんに会えて一緒に居られた。
完全な自己満足で、ここ数年なかなか会いに行けなかったから最期ぐらい帰って来いって事で
このタイミングだったのかな。
なんて考えたりした。
こういう、なんとなく不思議なタイミングで、わたしは何度も母方の祖母や伯父などを最期に見てきた。
それで、なかなか会えず疎遠になりかけてた親戚と久々に会えたりもした。
今回も、ばあちゃんが呼び寄せてくれたような、そんな気が勝手にしている。
そして、きっと今年はわたしのターニングポイントである気がする。
(つづく)
ご無沙汰しております・・。
年末年始にブログを更新したかと思ったら、早いもので今年もあとわずかとなってしまいました。
このブログを始めてから、ひょっとして(?)ちょうど4年になるのですね。
最初は毎日2回とか更新していたブログも、今では年に2回・・。
続けることが出来ない人間です
いつもまとめての報告になってしまいますが、新年から今までの生活を・・。
2月から4月の中旬までとっても短い期間でしたが、初めてのデータ入力の仕事を経験しました。
感想を言うと、いやぁ〜きつかった・・
何がきついって、自分の精神面から来るきつさでした。
特殊な仕事で、単にデータを入力するという仕事ではなかったんです。
もともとお客様から電話を受けて作成されたデータを、間違いがないか確認して
作業員に送信するという仕事でした。
電話を自分で受けたわけではないので、証拠もないし、確証もない。
でも、それを研修中に教えられた知識を使って間違いないか探して、間違いがあれば
電話を受けた人に聞き返す。
とにかく確認して、確認して、送信です。
それを数多くこなしていかなければならない・・という仕事だったのですが、なかなか思うように
進みませんでした。
極度の心配性がここに来て出てしまい、とにかく何かやらかしてないかと不安・・
教育してくれた方の、『間違ったらアウト』という言葉がもう、不安を煽って×2
もうワキ汗ダラダラです。
だから、入力しては間違ったんじゃないか、家に帰ってふとお風呂に入りながら
「あやばい!あれ間違った!!」
なんて思い出して、翌日ビックリするぐらい早く会社に到着して(まだ自動ドアすら開いてない)
間違いを直す・・
そんな日もありました。
いいのか悪いのか、その日その時やった内容を中途半端に覚えてて思い出してしまうという・・。
短期だから・・なんて多少軽く考えてたけど、仕事内容がなかなか理解できなかったし
覚えることが多く、なんだかよく理解しきれてないまま仕事をした2ヶ月半でした。
もっとあっけらかんとしてれば(間違いに無頓着という意味ではなく、潔くという意味で)
サクサクと仕事出来たんだと思うけどわたしの心配性な性格上、ムリでした。
また、通勤は2月のちょうど吹雪のひどい日からの徒歩通勤
最初は、30分もかかって、帰宅も暗くて道がわかりづらくて40分もかかったりしてました。
色んな事がきつくて自分の出来なさが不甲斐なくて、ほんと心が重くて泣きそうな毎日だった・・
(実際、家で何度か泣いた)。
ただ、仕事の場は、人数がすごく多いんだけど、とても親切な人が多く
短期の同期もいい人ばかりだったのでその点はすごく救われました。
仕事以外の面は良かったのに、とにかく、仕事が進まなかった・・。
この一番大事なところが一番ダメだったのが情けない。
2月の研修を終え、3月の怒涛の繁忙期を(週6の夜21時までなど)乗り切りました。
と思ったら、4月に入った途端に他の仕事に回された
その時はすごく情けなかったけど、わたしの性格を教育者が見抜いてのことでした。
だんだん仕事の量が減ってきて、何人かその仕事に回されたりはしたものの
たまにピンチヒッターで元の仕事に呼ばれることがありました。
なぜわたしに?って思ったけど、不思議なことにその仕事をメインから外されたことで、逆に
サブ的な気持ちになれたからか、サクサクと仕事が進むようになった
自分にビックリというか、ガッカリというか。
何でもっと早く、こうやって出来なかったんだろうって思いました。
それでも、そうやって助っ人として使ってくれたおかげで、悔しい気持ちもあったものの
わりに清々しく終了できました。
最初は30〜40分ほどかかった通勤も、慣れるにしたがって20分ちょっとになり
(最初がかかり過ぎ)
毎日朝礼の前にやるラジオ体操もだんだんと慣れてきました。
毎日気持ちは重かったけど、仕事自体はキライじゃなくてあっという間に時間が過ぎてしまいました。
残業の日でもあっという間で「もうこんな時間!もう少し件数を伸ばしたかった」そんな毎日でした。
勤務最後の日には、短期なのに職場の方たちが花束をくれたりして、温かな職場だったのは本当に
幸いでした。
今もたまに連絡を取り合ってお喋りをする友人が出来たのも良かったことです。
そんな情けなくも温かい、きつかったけど清々しかった上半期の報告@でした。
(つづく)
このブログを始めてから、ひょっとして(?)ちょうど4年になるのですね。
最初は毎日2回とか更新していたブログも、今では年に2回・・。
続けることが出来ない人間です
いつもまとめての報告になってしまいますが、新年から今までの生活を・・。
2月から4月の中旬までとっても短い期間でしたが、初めてのデータ入力の仕事を経験しました。
感想を言うと、いやぁ〜きつかった・・
何がきついって、自分の精神面から来るきつさでした。
特殊な仕事で、単にデータを入力するという仕事ではなかったんです。
もともとお客様から電話を受けて作成されたデータを、間違いがないか確認して
作業員に送信するという仕事でした。
電話を自分で受けたわけではないので、証拠もないし、確証もない。
でも、それを研修中に教えられた知識を使って間違いないか探して、間違いがあれば
電話を受けた人に聞き返す。
とにかく確認して、確認して、送信です。
それを数多くこなしていかなければならない・・という仕事だったのですが、なかなか思うように
進みませんでした。
極度の心配性がここに来て出てしまい、とにかく何かやらかしてないかと不安・・
教育してくれた方の、『間違ったらアウト』という言葉がもう、不安を煽って×2
もうワキ汗ダラダラです。
だから、入力しては間違ったんじゃないか、家に帰ってふとお風呂に入りながら
「あやばい!あれ間違った!!」
なんて思い出して、翌日ビックリするぐらい早く会社に到着して(まだ自動ドアすら開いてない)
間違いを直す・・
そんな日もありました。
いいのか悪いのか、その日その時やった内容を中途半端に覚えてて思い出してしまうという・・。
短期だから・・なんて多少軽く考えてたけど、仕事内容がなかなか理解できなかったし
覚えることが多く、なんだかよく理解しきれてないまま仕事をした2ヶ月半でした。
もっとあっけらかんとしてれば(間違いに無頓着という意味ではなく、潔くという意味で)
サクサクと仕事出来たんだと思うけどわたしの心配性な性格上、ムリでした。
また、通勤は2月のちょうど吹雪のひどい日からの徒歩通勤
最初は、30分もかかって、帰宅も暗くて道がわかりづらくて40分もかかったりしてました。
色んな事がきつくて自分の出来なさが不甲斐なくて、ほんと心が重くて泣きそうな毎日だった・・
(実際、家で何度か泣いた)。
ただ、仕事の場は、人数がすごく多いんだけど、とても親切な人が多く
短期の同期もいい人ばかりだったのでその点はすごく救われました。
仕事以外の面は良かったのに、とにかく、仕事が進まなかった・・。
この一番大事なところが一番ダメだったのが情けない。
2月の研修を終え、3月の怒涛の繁忙期を(週6の夜21時までなど)乗り切りました。
と思ったら、4月に入った途端に他の仕事に回された
その時はすごく情けなかったけど、わたしの性格を教育者が見抜いてのことでした。
だんだん仕事の量が減ってきて、何人かその仕事に回されたりはしたものの
たまにピンチヒッターで元の仕事に呼ばれることがありました。
なぜわたしに?って思ったけど、不思議なことにその仕事をメインから外されたことで、逆に
サブ的な気持ちになれたからか、サクサクと仕事が進むようになった
自分にビックリというか、ガッカリというか。
何でもっと早く、こうやって出来なかったんだろうって思いました。
それでも、そうやって助っ人として使ってくれたおかげで、悔しい気持ちもあったものの
わりに清々しく終了できました。
最初は30〜40分ほどかかった通勤も、慣れるにしたがって20分ちょっとになり
(最初がかかり過ぎ)
毎日朝礼の前にやるラジオ体操もだんだんと慣れてきました。
毎日気持ちは重かったけど、仕事自体はキライじゃなくてあっという間に時間が過ぎてしまいました。
残業の日でもあっという間で「もうこんな時間!もう少し件数を伸ばしたかった」そんな毎日でした。
勤務最後の日には、短期なのに職場の方たちが花束をくれたりして、温かな職場だったのは本当に
幸いでした。
今もたまに連絡を取り合ってお喋りをする友人が出来たのも良かったことです。
そんな情けなくも温かい、きつかったけど清々しかった上半期の報告@でした。
(つづく)
2015年01月14日
ひとつひとつ
数日前の記事ではかなりネガティブだったけど、コメントを頂き、読んでて元気が出ました(*^_^*)
ありがとうございます!
色んな不安はあるけど、でも、皆同じような気持ちを抱えながら頑張ってる。
自分だけじゃないんだよなあと、ここ数日色々考えることができた。
もちろん、不安が消え去ったわけではないけれど、前向きな気持ちでやれるような気がしてきました。
あと、やっぱり少しでも動くと気分が変わりますね(^^)
家にずっと籠ってるのもいいんだけど(こんな寒い時はずっと籠ってたいんだけど^^;)
朝はまだ気分的にいいものの、昼→夕方になるにつれて、だんだんどよーんとしてくる(@_@;)
なんか切なくなってくるのです。
でも朝から計画を立てて用事をこなすと、スッキリとした気分で夜を過ごせます。
今日は、気になっていた免許の更新や諸々の手続きをしてきました。
今日は天気もいいし、早めに済ませてしまおうと思って。
手続きってものは、何事もめんどくさくてキライだけど、終わらせると少し気持ちが軽くなります。
免許の更新は違反講習^^;
長かった^^;
でも、免許証の写真は今までで一番マシに撮れた!(^^)!
それが一番嬉しかった!
歳は取っちゃったけど、歴代の免許証の中で一番良く撮れてると思う!
これで3年は恥ずかしくない(出来れば無違反で5年持ちたい)。
さっき、自分のブログの過去の記事を読んでみた。
3年前の自分の1月2月。
全く同じことやってます^^;
実家から戻って、免許の更新をしに行って、そして、2月からの新しい仕事に不安を感じてて。
変わってないな〜わたしは^^;
でも、決定的に違うところがある。
それは、フレッシュさと前向きさだと思う。
いや、当時も色々あった後だから精神的には色々参ってたはずなんだけど、なんか文面からは
日々を楽しんでる感が感じられるんだよなあ。
自分の過去のブログを読んで元気になるのも変だけど、こうやって過去の気持ちを綴っておくことは
自分を振り返る事が出来るから悪くない。
あの頃と同じ気持ちにはもうなれないかも知れないけど、無理はしないで、日々ひとつひとつでいいから
何かをこなしていけば、数年経って振り返った時にあの時は良かったなあって思えるかな(^^)
ありがとうございます!
色んな不安はあるけど、でも、皆同じような気持ちを抱えながら頑張ってる。
自分だけじゃないんだよなあと、ここ数日色々考えることができた。
もちろん、不安が消え去ったわけではないけれど、前向きな気持ちでやれるような気がしてきました。
あと、やっぱり少しでも動くと気分が変わりますね(^^)
家にずっと籠ってるのもいいんだけど(こんな寒い時はずっと籠ってたいんだけど^^;)
朝はまだ気分的にいいものの、昼→夕方になるにつれて、だんだんどよーんとしてくる(@_@;)
なんか切なくなってくるのです。
でも朝から計画を立てて用事をこなすと、スッキリとした気分で夜を過ごせます。
今日は、気になっていた免許の更新や諸々の手続きをしてきました。
今日は天気もいいし、早めに済ませてしまおうと思って。
手続きってものは、何事もめんどくさくてキライだけど、終わらせると少し気持ちが軽くなります。
免許の更新は違反講習^^;
長かった^^;
でも、免許証の写真は今までで一番マシに撮れた!(^^)!
それが一番嬉しかった!
歳は取っちゃったけど、歴代の免許証の中で一番良く撮れてると思う!
これで3年は恥ずかしくない(出来れば無違反で5年持ちたい)。
さっき、自分のブログの過去の記事を読んでみた。
3年前の自分の1月2月。
全く同じことやってます^^;
実家から戻って、免許の更新をしに行って、そして、2月からの新しい仕事に不安を感じてて。
変わってないな〜わたしは^^;
でも、決定的に違うところがある。
それは、フレッシュさと前向きさだと思う。
いや、当時も色々あった後だから精神的には色々参ってたはずなんだけど、なんか文面からは
日々を楽しんでる感が感じられるんだよなあ。
自分の過去のブログを読んで元気になるのも変だけど、こうやって過去の気持ちを綴っておくことは
自分を振り返る事が出来るから悪くない。
あの頃と同じ気持ちにはもうなれないかも知れないけど、無理はしないで、日々ひとつひとつでいいから
何かをこなしていけば、数年経って振り返った時にあの時は良かったなあって思えるかな(^^)
2015年01月08日
2015年になりました やっぱり・・
とうとう、2015年になりました。
あけまして、おめでとうございますm(__)m
いつも放置してばかりのブログですが、今年もよろしくお願いしますm(__)m
年が開けてしばらく経った今日、丸3年ぶりに帰省した実家にて、久しぶりに自分のブログを見ました。
読み返してみると、前回のブログの内容、とてもポジティブだったと思う。
(今日のブログはネガティブですm(__)mごめんなさい)
何かがむしゃらに頑張ってることがなくなると、急に、気持ちがしぼんでしまった^^;
しぼんだ・・というよりも、急に何もなくなって不安になっている今日このごろです。
仕事が満了する高揚感や達成感(?)に満ちていたのは、仕事の最終日と、有休に入ってからのほんの数日。
しばらくはこの何もない毎日を楽しもうと思ってたのに、何もない毎日を心底欲しがっていたのに
とっても無駄に過ごし、色々考えては不安と焦りと、先の見えない日々への絶望の気持ちに陥ってる。
12月から有休に入ったのだが、最初は友達と久しぶりに自分の車でカフェ巡りを楽しんでみたり
母を連れて温泉に一泊したりと、極楽な気分で過ごしていたのだが、その2大行事が終わったら
今度は、先の見えないこれからへの不安が湧いて、でも今は動き出したくないという怠けた気持ちが絡み合って
その気持ちがイラ立ちになって、両親に当たってしまって自己嫌悪に陥るというこの1ヶ月だった。
実は、有休に入って1週間経った頃に派遣会社から仕事の斡旋が来た(・・)
なんと、早くてビックリした。
それが、良い内容なのだ。
わたしは有名な名前に弱い^^;
生活必須なライフラインで絶対になくならないだろうという北海道企業の、データ入力の仕事だ。
しかも、2〜4月中旬までの短期の仕事。
私は、昔から短期でデータ入力とかやってみたいと思っていた。
単純に、データ入力という響きにあこがれてた^^;
まさか、そんな仕事の依頼がくるとは!
ちょうど長期の仕事も終了したところだし、手始めには短期で心の負担がそんなにない仕事が私には
ベストだと思えた。
ありがたい話だ。
うちの両親の病気の話もしてて、しばらく親に付いていたいと話してたので、派遣会社ではそれを踏まえた上で
「こういうお仕事ならどうでしょう」と話を持ってきてくれた。
時給も前よりずっといい。
その代わり交通費が出ないけど交通費を引いても前よりはいい。
働く場所もJRの最寄り駅(歩いて7〜8分)から一駅(乗車時間3分)の、綺麗なビルだそうだ。
前の職場みたく乗り換えしなくてもいい。
家から歩いても20分少々で行けそうだ。
忙しい時期の大量募集だそうで、私の派遣会社からは5人出すとのこと。
突然に話が来て、それが思ってもいない高待遇。
2日ほど考えて、やりたいと伝えた。
そしたら、その後、スキルチェックしに派遣会社に行くことになった。
そこで、タイピングの条件に到達するのは時間がかかったものの、一応その企業の条件に達したので
仕事に行くことが決まった。
そこで確認されたこと。
「この仕事は毎年企業さまから依頼があるお仕事ですが、長時間の入力と確認作業なのでとても大変だって
仕事した方たちは言ってます。hanogonnさんは今まで接客業など動きのある仕事が多かったと思いますが
大丈夫ですか」
「3月は本当に大変とのことで、毎日2時間ぐらい残業があるそうだけど、大丈夫ですか」
「基本は土日祝日休みの5勤ですが、3月は土曜日出勤の日もあるとのことですが大丈夫ですか」
「本当に大変な仕事なので、体調面なども企業さまは気にかけてますが、その辺も大丈夫でしょうか」
大丈夫かと聞かれても、大丈夫と思いますと言うしかない(^_^;)
それで、無理ですと断ったら、もうこんないい話は来ないかも知れないし、やってみなきゃわからないから。
そして、こういう仕事を受けておけば、上手くいけばまたこういう案件を頂けるかもと思ったから。
そんな訳で、しばらくは失業保険をもらいながら休もうと思ってた矢先に、短期だが新しい仕事をすることに
決まった。
予想外にあまりに早く決まったので、もう12月中旬から
「わたしはまた(前回の仕事も2月から)ちょうど寒さ厳しい2月から新しい仕事を始めるのか・・大丈夫か??」
「そんな大変な事務仕事、務まるのか・・」
といった怠けの気持ちとプレッシャーで、せっかく休んでるのに気が休まらなくなってしまった。
と言っても、何か始めなきゃ変わらないし、そのいいきっかけだと頭では思ってるのに、心はモヤモヤ。
「そうこう言っても短期だし」と思い直しているが、今の自分のテンションの低さが余計に不安をかきたてる。
やっぱり私って人間は弱いなあ。
12月の20日頃から実家に戻ってきて、早20日。
毎日のように、親に悪態をつき喧嘩し、親のためにもならず、大した手伝いもせず
面倒臭がって必要最低限のことしかしてない。
こんな生き方してたら、親がいなくなったら絶対後悔する・・と自己嫌悪に陥る。
近い将来親がいなくなった事ばかり考え、その不安や恐怖ばかりが湧いてきて、逆に悪態ばかりつく。
親の病気を心配しながらも、矛盾したことばかりしてる自分に嫌気がさしてます。
とてもネガティブなことを書くけど、この年末年始は、2013年の時とは真逆な気持ちで
「これから何にも楽しみや希望がない。何にも張り合いがない。これから毎年過ぎていくのが嫌だ」
と思うぐらいだった。
そんな複雑な思いの年末年始だったけど、とうとう明日、ひとまず札幌に戻ります。
1月の残りはもう少し心を落ち着けて、2月からの仕事が終わった頃にはまた一つ何か乗り越えれたような
気持ちになってればいいんだけど・・。
あけまして、おめでとうございますm(__)m
いつも放置してばかりのブログですが、今年もよろしくお願いしますm(__)m
年が開けてしばらく経った今日、丸3年ぶりに帰省した実家にて、久しぶりに自分のブログを見ました。
読み返してみると、前回のブログの内容、とてもポジティブだったと思う。
(今日のブログはネガティブですm(__)mごめんなさい)
何かがむしゃらに頑張ってることがなくなると、急に、気持ちがしぼんでしまった^^;
しぼんだ・・というよりも、急に何もなくなって不安になっている今日このごろです。
仕事が満了する高揚感や達成感(?)に満ちていたのは、仕事の最終日と、有休に入ってからのほんの数日。
しばらくはこの何もない毎日を楽しもうと思ってたのに、何もない毎日を心底欲しがっていたのに
とっても無駄に過ごし、色々考えては不安と焦りと、先の見えない日々への絶望の気持ちに陥ってる。
12月から有休に入ったのだが、最初は友達と久しぶりに自分の車でカフェ巡りを楽しんでみたり
母を連れて温泉に一泊したりと、極楽な気分で過ごしていたのだが、その2大行事が終わったら
今度は、先の見えないこれからへの不安が湧いて、でも今は動き出したくないという怠けた気持ちが絡み合って
その気持ちがイラ立ちになって、両親に当たってしまって自己嫌悪に陥るというこの1ヶ月だった。
実は、有休に入って1週間経った頃に派遣会社から仕事の斡旋が来た(・・)
なんと、早くてビックリした。
それが、良い内容なのだ。
わたしは有名な名前に弱い^^;
生活必須なライフラインで絶対になくならないだろうという北海道企業の、データ入力の仕事だ。
しかも、2〜4月中旬までの短期の仕事。
私は、昔から短期でデータ入力とかやってみたいと思っていた。
単純に、データ入力という響きにあこがれてた^^;
まさか、そんな仕事の依頼がくるとは!
ちょうど長期の仕事も終了したところだし、手始めには短期で心の負担がそんなにない仕事が私には
ベストだと思えた。
ありがたい話だ。
うちの両親の病気の話もしてて、しばらく親に付いていたいと話してたので、派遣会社ではそれを踏まえた上で
「こういうお仕事ならどうでしょう」と話を持ってきてくれた。
時給も前よりずっといい。
その代わり交通費が出ないけど交通費を引いても前よりはいい。
働く場所もJRの最寄り駅(歩いて7〜8分)から一駅(乗車時間3分)の、綺麗なビルだそうだ。
前の職場みたく乗り換えしなくてもいい。
家から歩いても20分少々で行けそうだ。
忙しい時期の大量募集だそうで、私の派遣会社からは5人出すとのこと。
突然に話が来て、それが思ってもいない高待遇。
2日ほど考えて、やりたいと伝えた。
そしたら、その後、スキルチェックしに派遣会社に行くことになった。
そこで、タイピングの条件に到達するのは時間がかかったものの、一応その企業の条件に達したので
仕事に行くことが決まった。
そこで確認されたこと。
「この仕事は毎年企業さまから依頼があるお仕事ですが、長時間の入力と確認作業なのでとても大変だって
仕事した方たちは言ってます。hanogonnさんは今まで接客業など動きのある仕事が多かったと思いますが
大丈夫ですか」
「3月は本当に大変とのことで、毎日2時間ぐらい残業があるそうだけど、大丈夫ですか」
「基本は土日祝日休みの5勤ですが、3月は土曜日出勤の日もあるとのことですが大丈夫ですか」
「本当に大変な仕事なので、体調面なども企業さまは気にかけてますが、その辺も大丈夫でしょうか」
大丈夫かと聞かれても、大丈夫と思いますと言うしかない(^_^;)
それで、無理ですと断ったら、もうこんないい話は来ないかも知れないし、やってみなきゃわからないから。
そして、こういう仕事を受けておけば、上手くいけばまたこういう案件を頂けるかもと思ったから。
そんな訳で、しばらくは失業保険をもらいながら休もうと思ってた矢先に、短期だが新しい仕事をすることに
決まった。
予想外にあまりに早く決まったので、もう12月中旬から
「わたしはまた(前回の仕事も2月から)ちょうど寒さ厳しい2月から新しい仕事を始めるのか・・大丈夫か??」
「そんな大変な事務仕事、務まるのか・・」
といった怠けの気持ちとプレッシャーで、せっかく休んでるのに気が休まらなくなってしまった。
と言っても、何か始めなきゃ変わらないし、そのいいきっかけだと頭では思ってるのに、心はモヤモヤ。
「そうこう言っても短期だし」と思い直しているが、今の自分のテンションの低さが余計に不安をかきたてる。
やっぱり私って人間は弱いなあ。
12月の20日頃から実家に戻ってきて、早20日。
毎日のように、親に悪態をつき喧嘩し、親のためにもならず、大した手伝いもせず
面倒臭がって必要最低限のことしかしてない。
こんな生き方してたら、親がいなくなったら絶対後悔する・・と自己嫌悪に陥る。
近い将来親がいなくなった事ばかり考え、その不安や恐怖ばかりが湧いてきて、逆に悪態ばかりつく。
親の病気を心配しながらも、矛盾したことばかりしてる自分に嫌気がさしてます。
とてもネガティブなことを書くけど、この年末年始は、2013年の時とは真逆な気持ちで
「これから何にも楽しみや希望がない。何にも張り合いがない。これから毎年過ぎていくのが嫌だ」
と思うぐらいだった。
そんな複雑な思いの年末年始だったけど、とうとう明日、ひとまず札幌に戻ります。
1月の残りはもう少し心を落ち着けて、2月からの仕事が終わった頃にはまた一つ何か乗り越えれたような
気持ちになってればいいんだけど・・。
2014年08月20日
すっかりともう秋 3年は早い
前回のブログ投稿から、早1年以上経ってしまいました。
久しぶりにこのブログ管理を開いてみたら、全然変わってしまっていてちょっとひるみました。
誰ももう読んでないだろうなと思っていたけれど、少しずつこのブログを見てくれている方がいるのですね。
ありがとうございます<(_ _)>
すっかりブログを書く事をやめてしまってましたが、今日トンボが飛んでたり、お盆あたりから秋風がスーッと
通り、日が暮れるのが早くなったのを感じたりしたら、急に何か書きたくなったのでした。
こんな日は、小林桂さんの歌声が聴きたくなります。
過ぎた日々を振り返るにはそうとうな長さになるけれど、ここしばらくの私は・・。
仕事仕事で忙しく過ごす日々でした。
レンタカーの仕事も二年半が経ち、今年は景気が良くなってきたのか、少ない人数で仕事をこなしているからか
特にこの数カ月は残業続きの毎日でした。
メンバーも少しずつ変わり、こんな私が古株扱い(^^)
いつの間にかベテランみたく接されるようになり、信頼を持ってもらえ仕事を任されるようになりました。
その分ストレスやイライラを感じる事も多い最近だけど、とうとうこの仕事の更新も次回で最後になりました。
任期満了です。
私の前に働いた派遣さんが1ヶ月半で辞めたのですが、その人が派遣されたのが12月なのです。
次回10月からの3ヶ月で、この仕事は終了です。
3年満期。
正確にいうと2年10カ月で終わりを迎えるわけですが、なんとか最後まで続ける事が出来そうです。
女性がすぐ辞めてしまうという、いわくつきのこのお店で初めて満期を迎えられて嬉しいです。
これからのことは不思議と不安に感じてはいません。
ほんの三年弱の経験だったけど、いい事も嫌な事も色んな事を経験出来たから
きっと次もまた新たに何か始めることでしょう。
仕事が終わったら、少し休んで、三年戻っていない実家に行ってこようと思ってます。
三年で人生は変わる・・なんてCMがあったけどほんとだ。
三年で、私は確実に考え方や生き方が変わりました。
そして母が腎不全、父が糖尿になりました^^;(病気の話!?)
三年の間に、国民病家族になってしまいました。
私自身も確実に、体に異変が・・(そんな話!?)
健康診断では乳がん検診や脂質異常で要観察になったり、さらに最近は関節リウマチかも知れないと
精密検査に行ってきました。
体も確実に変わりますね。
(一応まだ)旦那とは、変わらずです。
早、一昨年の末にケンカをしてから一度も連絡を取り合っておらず、ただ籍がそのままなだけ。
確実に離婚コースですが、今のところ不都合はないため特に手をつけてません。
そんなここしばらくの私でした。
久しぶりにこのブログ管理を開いてみたら、全然変わってしまっていてちょっとひるみました。
誰ももう読んでないだろうなと思っていたけれど、少しずつこのブログを見てくれている方がいるのですね。
ありがとうございます<(_ _)>
すっかりブログを書く事をやめてしまってましたが、今日トンボが飛んでたり、お盆あたりから秋風がスーッと
通り、日が暮れるのが早くなったのを感じたりしたら、急に何か書きたくなったのでした。
こんな日は、小林桂さんの歌声が聴きたくなります。
過ぎた日々を振り返るにはそうとうな長さになるけれど、ここしばらくの私は・・。
仕事仕事で忙しく過ごす日々でした。
レンタカーの仕事も二年半が経ち、今年は景気が良くなってきたのか、少ない人数で仕事をこなしているからか
特にこの数カ月は残業続きの毎日でした。
メンバーも少しずつ変わり、こんな私が古株扱い(^^)
いつの間にかベテランみたく接されるようになり、信頼を持ってもらえ仕事を任されるようになりました。
その分ストレスやイライラを感じる事も多い最近だけど、とうとうこの仕事の更新も次回で最後になりました。
任期満了です。
私の前に働いた派遣さんが1ヶ月半で辞めたのですが、その人が派遣されたのが12月なのです。
次回10月からの3ヶ月で、この仕事は終了です。
3年満期。
正確にいうと2年10カ月で終わりを迎えるわけですが、なんとか最後まで続ける事が出来そうです。
女性がすぐ辞めてしまうという、いわくつきのこのお店で初めて満期を迎えられて嬉しいです。
これからのことは不思議と不安に感じてはいません。
ほんの三年弱の経験だったけど、いい事も嫌な事も色んな事を経験出来たから
きっと次もまた新たに何か始めることでしょう。
仕事が終わったら、少し休んで、三年戻っていない実家に行ってこようと思ってます。
三年で人生は変わる・・なんてCMがあったけどほんとだ。
三年で、私は確実に考え方や生き方が変わりました。
そして母が腎不全、父が糖尿になりました^^;(病気の話!?)
三年の間に、国民病家族になってしまいました。
私自身も確実に、体に異変が・・(そんな話!?)
健康診断では乳がん検診や脂質異常で要観察になったり、さらに最近は関節リウマチかも知れないと
精密検査に行ってきました。
体も確実に変わりますね。
(一応まだ)旦那とは、変わらずです。
早、一昨年の末にケンカをしてから一度も連絡を取り合っておらず、ただ籍がそのままなだけ。
確実に離婚コースですが、今のところ不都合はないため特に手をつけてません。
そんなここしばらくの私でした。
2013年06月27日
最近思う わたしなりの処世術
こんばんは。
近頃、さらに仕事が忙しくバタバタしているので、帰宅するとクタクタです。
この1年5カ月、いつもクタクタでしたが、さらに体力がなくなってる感じ
せめて、気持ちだけでも穏やかでいられるように、最近考えるようになったことがあります。
仕事を続けていくための『処世術』です。
以前は、どんな事があっても人と解り合いたいと思ったり、解って欲しい、良好な関係を
保ちたい・・など思っていました。
そして、自分の事を何となく好ましく思っていないんじゃないか・・と思ったら、必要以上に
気を遣ってしまったりしていました。
でも、もうそういうのはやめた!
もともと、社会とは、色んな人がいるのだ。
そこで
@解り合える人とは、楽しく良好に。多少のことには目をつぶる。
A解り合えなくても、話を聞いてくれる人なら自分の気持ちをぶつける。
たとえ解ってくれなくても、自分の気持ちを言えただけでスッキリ。
B解り合えない人とは、必要なこと以外は話さない。
下手に話すと傷つけられることがあるから。
ちょっと歪んだ処世術かも知れないけど、社会を渡って歩くにはこのぐらいの潔さや逃げが
必要だと思う、今日この頃です。
近頃、さらに仕事が忙しくバタバタしているので、帰宅するとクタクタです。
この1年5カ月、いつもクタクタでしたが、さらに体力がなくなってる感じ
せめて、気持ちだけでも穏やかでいられるように、最近考えるようになったことがあります。
仕事を続けていくための『処世術』です。
以前は、どんな事があっても人と解り合いたいと思ったり、解って欲しい、良好な関係を
保ちたい・・など思っていました。
そして、自分の事を何となく好ましく思っていないんじゃないか・・と思ったら、必要以上に
気を遣ってしまったりしていました。
でも、もうそういうのはやめた!
もともと、社会とは、色んな人がいるのだ。
そこで
@解り合える人とは、楽しく良好に。多少のことには目をつぶる。
A解り合えなくても、話を聞いてくれる人なら自分の気持ちをぶつける。
たとえ解ってくれなくても、自分の気持ちを言えただけでスッキリ。
B解り合えない人とは、必要なこと以外は話さない。
下手に話すと傷つけられることがあるから。
ちょっと歪んだ処世術かも知れないけど、社会を渡って歩くにはこのぐらいの潔さや逃げが
必要だと思う、今日この頃です。