2015年09月04日
久しぶりの自由な生活@
(文体変えます)
4月中旬までの短期の仕事を終え、わたしは無職になった。
本当に、何もしてないのは久しぶり。
なんか申し込む時とか、書かなきゃいけない時に、自分を何に分類していいのかがちょっと困るところ・・。
素直に『無職』と記入したり、一応まだ嘘ではないので『専業主婦』と書いたり。
いい加減にどうにかしろという感じだが、全く夫と連絡を取らないまま3年近い時が流れている。
そんなわたしは、5月から失業保険を給付中の身だ。
その間にこんなことがあった。
この無職期間中、1度実家に帰ろうかどうか迷ってた。
でも、遠いし面倒だからいいやと思ってしまっていた。
5月のGW明けに失業保険の申請をし、その週末に(別居中の)夫の母と会う約束をしたので
身だしなみを整えようなんて美容室に行って帰宅すると、母に実家の父から連絡が来た。
『ばあちゃんが危篤』
これまで何度も呼吸困難や肺炎になって入院したものの、なんとか頑張ってくれていたばあちゃん。
年末に老人ホームに会いに行ったときは、すっかり面影もなくなるぐらいになって、わたしの事も
分からなかったけど、静かに静かに、なんとか日常を送っていた、ばあちゃん。
その時は最後にようやくわたしの事思い出したのかな。
たぶんだけど。
それから、札幌に戻り、きつかった仕事が終わって色々落ち着いての『危篤』。
変な言い方だけど、まるでわたしのタイミングを考えてくれたかのような気がしてならなかった。
その日、着の身着のままというのか、母と、急いで実家に帰った。
車を運転して帰ったので、着いたのは夜中だったけど。
そのまま父が付き添ってるばあちゃんに会った。
もう意識がなくて、苦しそうに息をして、酸素で生かされてる状態。
顔はむくんでパンパンだった。
一度家に帰り、ほとんど眠られぬまま朝になった。
用意をして病院に行くと、10年ぶりに父の妹である叔母や親戚の人たちと会った。
実は、わたしの別居については知ってるけど、何で別居してるかとか全然知らなかった叔母。
そんな叔母と久々に病室で、色々語り合うことが出来た。
10年ずっと会ってなかったけど、何のその(?)、今まであった色々を・・。
縁遠くなってしまった気がしていたけど、叔母さんの気持ちもわかるし、わたしの気持ちも理解
してくれる。
聡明で何でも出来る叔母さんだけど、なんだかきっと(性格や考え方が)似た者同士なのかも
知れないことがわかった気がして、なんだか嬉しかったし良かった。
きっと抱えてる寂しさもあるんだってこともわかった。
それからは、今まで会えてなかった色んな親戚に本当に久々に会えた。
ばあちゃんは、頑張ったけど、もう意識がないまま、小康状態で3〜4日を生きてた。
でも、もう長くないだろうと、1人で必要な物を買いに行った帰りに病室に寄ってみた。
ばあちゃんは酸素で一生懸命息をしてた。
その時、1人だったからか涙が出てきて「ばあちゃん、ごめんね。なかなか来れなくて。
明日も来るから」
と撫でたけど、なんかもう最後のような気がした。
翌日の朝方、ばあちゃんが再び危篤で、急いで病院に行ったが死んでしまった。
87歳だった。
じいちゃんが亡くなってちょうど、12年。
実はその頃のわたしも、年末でいったん仕事を終了し、無職期間中だった。
次の仕事が決まってたので、それまでと思い実家に帰った1月。
まだ死んでしまうと思ってなかったじいちゃんが入院し、何度かお見舞いに行った。
ちょうど、現在別居中の夫とまだ付き合ってた頃で、じいちゃんに「彼氏はいるのか?」
なんて初めて聞かれて、こういう人と付き合ってるよなんて話して「それなら安心だな〜」
なんて言われたのを今も思い出す。
それから仕事が始まった2月に、突然じいちゃんが危篤になって、1週間苦しんで亡くなった。
幸い、始めたばかりの仕事だったものの休みをもらえて、じいちゃんの側に長く居られた。
ちなみに、じいちゃんが亡くなって3ヶ月後に、彼(夫)の転勤に付いて行ったというターニング
ポイントである年だった。
あの時と同じ。
今は12年前には全く考えられなかった人生を生きていて、全部が何だか寂しい(?)人生に
なっちゃったけど、タイミング良くばあちゃんに会えて一緒に居られた。
完全な自己満足で、ここ数年なかなか会いに行けなかったから最期ぐらい帰って来いって事で
このタイミングだったのかな。
なんて考えたりした。
こういう、なんとなく不思議なタイミングで、わたしは何度も母方の祖母や伯父などを最期に見てきた。
それで、なかなか会えず疎遠になりかけてた親戚と久々に会えたりもした。
今回も、ばあちゃんが呼び寄せてくれたような、そんな気が勝手にしている。
そして、きっと今年はわたしのターニングポイントである気がする。
(つづく)
4月中旬までの短期の仕事を終え、わたしは無職になった。
本当に、何もしてないのは久しぶり。
なんか申し込む時とか、書かなきゃいけない時に、自分を何に分類していいのかがちょっと困るところ・・。
素直に『無職』と記入したり、一応まだ嘘ではないので『専業主婦』と書いたり。
いい加減にどうにかしろという感じだが、全く夫と連絡を取らないまま3年近い時が流れている。
そんなわたしは、5月から失業保険を給付中の身だ。
その間にこんなことがあった。
この無職期間中、1度実家に帰ろうかどうか迷ってた。
でも、遠いし面倒だからいいやと思ってしまっていた。
5月のGW明けに失業保険の申請をし、その週末に(別居中の)夫の母と会う約束をしたので
身だしなみを整えようなんて美容室に行って帰宅すると、母に実家の父から連絡が来た。
『ばあちゃんが危篤』
これまで何度も呼吸困難や肺炎になって入院したものの、なんとか頑張ってくれていたばあちゃん。
年末に老人ホームに会いに行ったときは、すっかり面影もなくなるぐらいになって、わたしの事も
分からなかったけど、静かに静かに、なんとか日常を送っていた、ばあちゃん。
その時は最後にようやくわたしの事思い出したのかな。
たぶんだけど。
それから、札幌に戻り、きつかった仕事が終わって色々落ち着いての『危篤』。
変な言い方だけど、まるでわたしのタイミングを考えてくれたかのような気がしてならなかった。
その日、着の身着のままというのか、母と、急いで実家に帰った。
車を運転して帰ったので、着いたのは夜中だったけど。
そのまま父が付き添ってるばあちゃんに会った。
もう意識がなくて、苦しそうに息をして、酸素で生かされてる状態。
顔はむくんでパンパンだった。
一度家に帰り、ほとんど眠られぬまま朝になった。
用意をして病院に行くと、10年ぶりに父の妹である叔母や親戚の人たちと会った。
実は、わたしの別居については知ってるけど、何で別居してるかとか全然知らなかった叔母。
そんな叔母と久々に病室で、色々語り合うことが出来た。
10年ずっと会ってなかったけど、何のその(?)、今まであった色々を・・。
縁遠くなってしまった気がしていたけど、叔母さんの気持ちもわかるし、わたしの気持ちも理解
してくれる。
聡明で何でも出来る叔母さんだけど、なんだかきっと(性格や考え方が)似た者同士なのかも
知れないことがわかった気がして、なんだか嬉しかったし良かった。
きっと抱えてる寂しさもあるんだってこともわかった。
それからは、今まで会えてなかった色んな親戚に本当に久々に会えた。
ばあちゃんは、頑張ったけど、もう意識がないまま、小康状態で3〜4日を生きてた。
でも、もう長くないだろうと、1人で必要な物を買いに行った帰りに病室に寄ってみた。
ばあちゃんは酸素で一生懸命息をしてた。
その時、1人だったからか涙が出てきて「ばあちゃん、ごめんね。なかなか来れなくて。
明日も来るから」
と撫でたけど、なんかもう最後のような気がした。
翌日の朝方、ばあちゃんが再び危篤で、急いで病院に行ったが死んでしまった。
87歳だった。
じいちゃんが亡くなってちょうど、12年。
実はその頃のわたしも、年末でいったん仕事を終了し、無職期間中だった。
次の仕事が決まってたので、それまでと思い実家に帰った1月。
まだ死んでしまうと思ってなかったじいちゃんが入院し、何度かお見舞いに行った。
ちょうど、現在別居中の夫とまだ付き合ってた頃で、じいちゃんに「彼氏はいるのか?」
なんて初めて聞かれて、こういう人と付き合ってるよなんて話して「それなら安心だな〜」
なんて言われたのを今も思い出す。
それから仕事が始まった2月に、突然じいちゃんが危篤になって、1週間苦しんで亡くなった。
幸い、始めたばかりの仕事だったものの休みをもらえて、じいちゃんの側に長く居られた。
ちなみに、じいちゃんが亡くなって3ヶ月後に、彼(夫)の転勤に付いて行ったというターニング
ポイントである年だった。
あの時と同じ。
今は12年前には全く考えられなかった人生を生きていて、全部が何だか寂しい(?)人生に
なっちゃったけど、タイミング良くばあちゃんに会えて一緒に居られた。
完全な自己満足で、ここ数年なかなか会いに行けなかったから最期ぐらい帰って来いって事で
このタイミングだったのかな。
なんて考えたりした。
こういう、なんとなく不思議なタイミングで、わたしは何度も母方の祖母や伯父などを最期に見てきた。
それで、なかなか会えず疎遠になりかけてた親戚と久々に会えたりもした。
今回も、ばあちゃんが呼び寄せてくれたような、そんな気が勝手にしている。
そして、きっと今年はわたしのターニングポイントである気がする。
(つづく)
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