先ほど父(行年97歳)が他界しました.夕食後
から気分がすぐれず、急性心筋梗塞
を引き起こし、そのまま帰らぬ人と
なりました.申し訳ないですが、学習
は初七日過ぎまで中断させてください.
(大阪では実年齢に1歳付け加え行年とするとのことです)
ゴタぴょん
PS
14日:搬送先の病院で死去
15日:納棺
16日:お通夜
17日:葬儀、初七日忌も合わせて奉修
父、昭和3年生まれ、岡山出身.享年97歳.
中学を卒業した昭和18年、少年飛行兵に志願.
「なぜ志願したの?」
と聞いたことがありました.当時の軍隊には鬼軍曹みたいなのが
いて新兵(二等兵)をいじめたらしいのです.熾烈ないじめだった
ようです.赤紙(召集令状)が来てから入隊すると二等兵として
鬼軍曹のもとに配属されるので、志願して入った.飛行兵は下士官
以上の者という軍規定があったらしく、父はとりあえず、ここに入った
ので、逆に鬼軍曹になった?(調べてみたら下士官は軍曹の下に
伍長という位があった)
さてその鬼伍長だか軍曹だかは、さらに上の将校という上官に「新兵
をびしびし教育せよ..ぶんなぐれ」みたいなことを言っていたとか.
父は自分よりはるかに年上の新兵さんをぶん殴った、いや、ぶん
殴らないといけなかった.そういう不文律の規定があった.背が低かったので
りんごの木箱(昔はみかんも木箱)の上に立って、二等兵のほっぺたを
バッシーンと平手打ちする.そんなアホな、とは思うがそれが軍隊の実情
だったようです.
でも夜中に、そのぶんなぐられた新兵さんが父の宿舎にやってきて、「お話
いいですか?」と言う.「うむ、聞こう」と鬼軍曹の父.
「軍曹殿はあそこに毛がはえておりますか?」
なんちゅうことを聞くのだと思うが、この新兵さんのくやしかったことが
手にとるようにわかります.自分の息子ぐらいの年齢の者に頬をぶん殴られる
なんて屈辱、どう晴らせばいいのでしょう.戦争はいけないけど、日本が負けた
理由のひとつはここにあったような気がする.
さて父は理数科が得意だったようで、通信兵の道を選んだといいます.
飛行機乗りで、通信兵というと、タンデムシートというか、前後に
1つづつ席のある双発機に乗ります.うしろの席でトンツー、ツートントン
と無線を打つのです.
そこまではどうってことはないのですが、恐ろしいのは敵機と交戦になったとき
です.敵機は、まず通信兵の乗っている飛行機を狙います.情報遮断のためです.
ですから、戦局悪化とともに、通信兵の数が足りなくなりました.
父の知覧に、鹿屋基地から要請があり、通信兵を数名ほしいという.
送られた数名の中に父もいた.
知覧ではその後、特攻作戦が増えたというから、父はラッキーだったと思う.
よくぞ鹿屋に移ってくれた.私がこの世に生を受けることができたのも、この
人事移動のおかげである.
軍部上層は、終戦の2か月前から、日本は負けることを知っていたようです.
B29の飛来を迎え撃ってほしいという地元の人たちの願いも届かず、鹿屋は
大半の人員を平和台に移した.なので、父は平和台で終戦を迎えた.
よくぞ敵機に撃墜されず生還してくれた.その
お陰で私がこの世に生まれてこられた.感謝!
終戦後、焼け野原の大阪を見て、大工になろうと
決心.大工の棟梁の家に住み込みで見習い修業.
その大工の棟梁の娘が私の母でした.父の積極性
に感謝.その娘と結婚していなければ、私はこの
世に生まれていない.よくぞ、口説き落としてく
れた!
母も同じく戦争の生き証人である.当時我が家は、大阪市内にあった.
大阪市城東古市北通り、当時も信愛女学校があり、4階建ての校舎は
よく目立った.当時近くの鶴見緑地には高射砲陣地があった.
そのため毎日のようにB29とその護衛機グラマンが来襲した
母もこのグラマンに追っかけられたことがある.しかし信愛女学校
の高い校舎のため、グラマンはあまり低く降りてこられず、あきらめて
引き返した.母は「あっかんべー」をして帰宅した.信愛女学校のおかげで
私はこの世に生を受けた.
空襲警報は連日連夜あったという.そのたび、家が狙われないよう電灯は
消すか、覆いをして減光した.
ある日の空襲警報で、母は防空壕へ逃げ遅れたことがあった.防空壕を
開けてもらえなかった.しかたがないので自宅にもどり、布団をかぶって
震えながら爆撃機が去るのを待っていたという.
やがて空襲警報が解除され、ようやく外へ出ることができた.
さっきの防空壕へ行ってみた.するとそこに爆弾が命中して全員死んでいた
という.
母の逃げ遅れに感謝しています.
【教訓】 何事も早ければいいってものじゃない.
.
父は後にメリヤス業を営む.長男の私は、その家業を
継がなかった.その親不孝が祟っていま貧乏暮らし.
仏教によると、何事にも原因と結果があるという.
その教説に照らし合わせてみると、私は前世でお金持ちだった.
そして貧乏人を見下していた.
「お前ら、貧乏人はふすまとおからを食べていればいいんだ」
そのときの罪が今生、貧乏という形で花開いた.貧乏の花びら〜
【教訓】
嫌な仕事でお金を稼ぐか、楽しい仕事で貧乏暮らし
か、人は究極の選択を迫られることがある.
そして私は楽しい仕事をコロナで失くして貧乏ぐらし
【教訓】
貧乏は前世で撒いた自分の悪業の結果である.反省させてもらえる
ありがたい境地である.よろこべ!
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