アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2024年11月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
八幡浜Divingさんの画像
八幡浜Diving
ダイビングを初めて40余年になります。ダイビングに関することは何でも紹介します。人生において役に立つことも紹介したいと思います。
プロフィール

2024年11月20日

天下人の城で人質生活

 宇和島藩初代藩主伊達秀宗は慶長19(1614)年、大坂冬の陣出陣の功により2代将軍徳川秀忠から宇和郡10万石を拝領し、翌年板島丸串城(後の宇和島城)に入部した。
藩主までの道則は決して平坦ではなかった。
文禄3(1594)年、数え年4歳の兵五郎(秀宗)は、父の伊達政宗に連れられ豊臣秀吉に拝謁、正宗の秀吉に対する忠誠心の証しとして人質に差し出される。
人質と言っても、現在のイメージとは大きく異なる。
当時は一定の自由や衣食住も用意され、大名の間では当たり前の行為であった。
秀宗は秀吉からまるで実子の様に扱われ、秀吉の息子秀頼の家来として育てられた。
然し、慶長3(1598)年に秀吉が伏見城で生涯を終えると、秀宗の出世街道に暗雲が立ち込める出来事が起きる。
慶長5(1600)年の関ケ原の戦いである。
秀吉の遺言に従い秀頼は大阪城を拠点とし、秀宗も大阪に移る。
慶長7(1602)年に秀宗は伏見城で家康に拝謁して江戸で人質となる。
その後、大坂冬の陣には徳川方として出陣し、正宗の働き掛けもあって藩主への道が開ける事になる。
然し、敵の総大将は豊臣秀頼。
然し三度の人質を経験した秀宗は、様相は異なるが常に死と隣り合わせだった事は間違いない。
 伊達博物館学芸員・渡辺佑輝
                                   愛媛新聞 城 X 宇和島から
八幡浜にも且つて萩森城と言う山城があったらしい。

ふわふわした慢性眩暈

 ふわふわした眩暈やふら付きがほぼ毎日、3カ月以上も続いている----------。
こうした慢性の眩暈に悩まされているなら、それは近年知られる様になった「持続性知覚性姿勢誘発眩暈( PPPD )」かも知れない。
眩暈は症状から急性、反復性、慢性の三つに分類される。
急性は平衡感覚を司る内耳が炎症を起こす前庭神経炎や突発性難聴、
反復性は一定期間ごとに繰り返すメニエール病や良性発作性頭位眩暈症、
慢性は一側前庭障害の後遺症や、不安・抑鬱による心因性眩暈が代表例だ。
新潟大医学部耳鼻咽喉科・頭頸部外科の堀井新教授によると、PPPD は、急性や反復性の眩暈から回復した後に現れる事が多い。
ぐるぐる回る様な回転性の眩暈ではなく、浮動感、不安定感が3カ月以上続くのが特徴。
様々な実験から導き出した堀井さんの原因仮説はこうだ。
人間は、内耳による感覚と視覚、更には足の筋肉の緊張などで傾きを感じる体性感覚の三つで体のバランスを保っている。
この内、先行した急性などの眩暈の際に、一時的に失われた内耳感覚を補う為に視覚や体性感覚が敏感になり、内耳が正常に戻ってからも視覚や体の動きによる刺激で脳が過剰反応して眩暈が起きている可能性だ。
                                         愛媛新聞 体から
睡眠と運動、喫煙習慣が欠勤率や離婚率と関連している事が分かったと、順天堂大や健康長寿産業連合会のチームが専門誌に発表したらしい。