藩主までの道則は決して平坦ではなかった。
文禄3(1594)年、数え年4歳の兵五郎(秀宗)は、父の伊達政宗に連れられ豊臣秀吉に拝謁、正宗の秀吉に対する忠誠心の証しとして人質に差し出される。
人質と言っても、現在のイメージとは大きく異なる。
当時は一定の自由や衣食住も用意され、大名の間では当たり前の行為であった。
秀宗は秀吉からまるで実子の様に扱われ、秀吉の息子秀頼の家来として育てられた。
然し、慶長3(1598)年に秀吉が伏見城で生涯を終えると、秀宗の出世街道に暗雲が立ち込める出来事が起きる。
慶長5(1600)年の関ケ原の戦いである。
秀吉の遺言に従い秀頼は大阪城を拠点とし、秀宗も大阪に移る。
慶長7(1602)年に秀宗は伏見城で家康に拝謁して江戸で人質となる。
その後、大坂冬の陣には徳川方として出陣し、正宗の働き掛けもあって藩主への道が開ける事になる。
然し、敵の総大将は豊臣秀頼。
然し三度の人質を経験した秀宗は、様相は異なるが常に死と隣り合わせだった事は間違いない。
伊達博物館学芸員・渡辺佑輝
愛媛新聞 城 X 宇和島から
八幡浜にも且つて萩森城と言う山城があったらしい。
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