伊賀と甲賀は忍者の「聖地」として知られ、「両者の忍術の違いは」とよく聞かれる。
然し違いは殆どない。
実際、伊賀・甲賀出身の忍者は戦国時代から江戸時代に掛けて全国に広がっていったが、何故両地域から多数の忍者が輩出されたのだろうか。
「武家名目抄」には、京都に近い所では、伊賀国又は近江国甲賀の地は地侍が多く、応仁の乱以後に夫々「党」・を作って日夜戦争をし、盗み・強盗などをしてきた為、自然と間諜の術に長けた者が多く出現したと紹介。
大名や諸家では彼らを養い置いて忍び役に従わせた為、伊賀者、甲賀者と呼ばれ諸国に広がったと記述されている。
そうした痕跡は今でも残る。
四方を土塁や堀で囲み、防御性を高めた土豪の居宅がこの地域で900近く確認されている。
これらは、地域間対立から自邸を守る為の設備である。
所謂「忍者屋敷」と呼ばれる絡繰りを内部に施した屋敷も、敵の侵入から逃れる為に作られたと推測される。
当地を支配しようとした大名は統治できず、代わりに自治が行われた。
「伊賀惣国一揆掟書」には、他国から侵入者があった時には、皆一味同心して防ぐべき事が説かれるほか、鐘を打ち鳴らして17〜50歳の男は兵糧、武具を携えて持ち場に着くべき事などが取り決められている。
そして、何かあったら伊賀と甲賀が力を合わせて対処するべく寄り合いを開く事が取り決められている。
そして、万一に備えて、午前中は家業に励み、午後には寺に集まって忍術などの鍛錬を行った事が「伊乱記」に記されている。
その甲斐あって、天正7(1579)年の織田信雄による天正伊賀の乱の際には、織田軍を一度は退散させた。
彼らは又、雇い兵として他国の大名に雇われて城攻めに参加する事もあった。
伊賀・甲賀出身の忍者は優れた技能を持つ者として認知され、重用されたのである。
山田 雄司 三重大教授
愛媛新聞 忍者のホントから
両者が対立していたのでもないが、話を盛り上げる為の題材として採用されているらしい。