2018年08月15日
拳禅一如(´-ι_-`)
よくテレビなどで目にするお寺に座っての坐禅、一度体験してみたいなと思っているかつおです。あのいかにも「修行」チックなのがなんとも魅力的。
修羅の門で、海堂晃は山籠り修行、片山右京は禅寺で修行をしていたのが思い出されます。知らんか(笑)
坐禅に対して「立禅」と呼ばれるものもありますね。スワイショウや、画像は太極拳における立禅鍛錬法のものを拝借しましたが、空手にも立禅と言われる稽古があります。そう、剛柔流に伝わる「サンチン(三戦)」ですね。(๑ ˊ͈ ᐞ ˋ͈ )ƅ̋
中国拳法も日本の武道も、仏教の影響を多分に受けていることは疑いようもありませんが、なかなか「禅」について考える機会までは少ないと言えます。某サイトから、少しこの点について抜粋してみます。
「仏教が日本へ伝来したのは千余年前といわれる。
以来、日本人に生・老・病・死の苦痛、いわゆる自然や運命など受け入れ難い困難への観念的な理解と人間的な向上を理想とする禁欲的な生きかたを求めてきた。
剣禅一如は剣禅一致とも言うが、空手や剣道は、仏教のうち禅の影響を受けている。
武道を嗜むものが、武道の精神的な話しになると、よく耳にする言葉である。
しかし、実際に坐禅をしたことのある武道人は、意外と少ないのでは・・・
また、武道によって悟りの境地に至ったつもりでも、武道のどこと禅のどことが一致するのか説明できるだろうか・・・
小生も禅堂で坐禅の経験はあるが、答える言葉に窮する。
アメリカで流行したカンフーといわれる中国拳法がある。
そこでは「呼吸は型のためにあるのでなく、呼吸の為に型がある」と説明するようだ。
さすがに中国武術の達見だ。
「呼吸のためにすべての型はある」
長年、空手を学んでいると、胸にストンと落ちる言葉である。
心の作用は、如何なる意識といえども呼吸と共に動く、かつ変化していく。
このことに気づいて、実生活に活かすのが禅だという。
「呼吸の乱れは心の乱れ、心の乱れは剣(拳)乱れ、心正しからざれば剣(拳)また正しからず」
この身で体得するのが剣(拳)禅修行のねらいだ。
あらゆる生命活動は、精神のコントロールが作用する。
勝負事においては精神的要素が・・・、とりわけ生死を賭ける闘争では決定的な意味を持つ。
武術は闘争の技術であり、武道は単に闘争の技術にとどまらず超技術・・・精神のコントロールを求める。
つまるところ、生死ギリギリの場を見つめて修行する意味で「剣禅一如」なのだろうか。」
とありました。
ヨガやピラティスの様に大きなブームとはなっていませんが、比較的若い世代にも「禅寺体験」なるものが認知されているとか。一度ちゃんと調べて、試しに人柱となってきます(笑)興味がある方、ご一緒にいかがですか??(´・ω・`)
坐禅ナビ
http://www.sotozen-navi.com/index.cfm
坐禅のやり方(初心者)
http://zen.halfmoon.jp/zazenn.html
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