アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2021年04月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2021年04月12日

【敗戦に学ぶ】ミッドウェーで二兎追って大敗した 日本海軍の「慢心」


 

 【敗戦に学ぶ】ミッドウェーで二兎追って大敗した 日本海軍の「慢心」


  現代ビジネス  4/12(月) 11:01配信



        4-12-15.jpg

             4-12-15 写真 現代ビジネス 

 4月12日に発売される『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し「現代ビジネス」に寄稿・配信された記事の中から、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。
 そこに掲載された記事に関連するエピソードを紹介するシリーズの第4回は、第二章「ミッドウェーで大敗した海軍指揮官が着いた大嘘」に関連して、ミッドウェー攻略と併行して行われた、アリューシャン作戦に参加した搭乗員達のエピソードを紹介する。結果的に大した成果を得られ無かったばかりか、後の戦局に大きな悪影響を及ぼした作戦の実相とは・・・

 日本本土初空襲が流れを変えた


     4-12-16.jpg

      4-12-16 アリューシャン作戦で第二機動部隊の旗艦を務めた空母「龍驤」 

 昭和16(1941)年12月8日、日本陸軍のマレー半島コタバル上陸・海軍機動部隊の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、日本軍が破竹の進撃で東南アジア一帯の油田地帯や軍事拠点を占領下に収めた事で、当初、計画されて居た「第一段作戦」は順調に終わった。処が、次の作戦をどうするかに付いて海軍内部では・・・

 @ アメリカと連合軍の南からの反攻拠点に為り得るオーストラリアを分断する「米豪遮断」を主張する軍令部
 A 太平洋上の艦隊兵力が優勢な今、ミッドウェー島を攻略し米艦隊を誘き寄せて一気に撃滅を図ろうとする聯合艦隊の意見が真っ向から対立して居た。  

 事態が動く大きな切っ掛けと為ったのが、昭和17(1942)年4月18日 米空母「ホーネット」を発艦した16機の米陸軍爆撃機・ノースアメリカンB-25による本土空襲である。日本本土の太平洋岸からおよそ700浬(約1,300キロ)離れた哨戒線上の監視船から「敵空母二隻見ゆ」との報告が届いたにも関わらず、日本側は空母から発艦して來るのが、マサか陸軍の双発爆撃機であるとは想像もして居なかった。それは、日本人の発想には在り得無い戦法だった。

 警戒態勢の虚を衝かれたこの空襲による日本側の損害は、死者88名・重傷者154名・家屋全焼136・半焼59・全壊42・半壊40に達し、その他、空母へ改造中の潜水母艦「大鯨」が被弾する等、来襲した機数の割に大きなものだった。何より、敵味方に与えた精神的影響は極めて大きかった。これを機に、投機的とも云えるミッドウェー作戦に強く反対して居た海軍軍令部は作戦実施に舵を切る。陸軍もミッドウェー島攻略に陸軍部隊を派遣する事を決めた。

 この時、空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」を主力とする第一機動部隊・南雲忠一中将指揮によるミッドウェー島攻撃に始まる攻略作戦・MI作戦と同時に、アメリカの領土であるアリューシャン攻略作戦・AL作戦も併せて実施される事に為り、空母「龍驤(りゅうじょう)」「隼鷹(じゅんよう)」を主力とする第二機動部隊・角田覚治少将指揮がそちらに差し向けられる事に為った。  
 第二機動部隊は、アリューシャン東部・アラスカ州ウナラスカの米軍拠点のダッチハーバーを空襲、同時に陸海軍部隊がアリューシャン西部のアッツ・キスカ両島を占領する。  

 これは、ミッドウェーを攻略しても出て來るかどうか判ら無い米艦隊の出撃を二重に誘い出すと共に、北太平洋からの米軍の反攻を抑える目的があったと言われる。又、ミッドウェー島攻撃の前日にダッチハーバーを攻撃する事で米機動部隊の注意を引き、ミッドウェー島への上陸を容易にする陽動作戦と為る事も期待されて居た。  
 アリューシャン作戦に投入される「龍驤(りゅうじょう)」は、小型空母ながら歴戦の艦「隼鷹(じゅんよう)」は、日本郵船のサンフランシスコ航路に使われる予定であった大型客船「橿原丸」を、建造途中で海軍が買収し空母に改造した新造艦で、防御力と速力はやや劣るものの、正規空母に近い飛行機搭載能力を持って居た。出来たばかりの「隼鷹」は、処女航海がこの大作戦と云う、ブッツケ本番の作戦参加だった。

 搭乗員も驚いた壮大な作戦!?


     4-12-17.jpg

     4-12-17「隼鷹」飛行隊長・志賀淑雄大尉(終戦時少佐)〈右写真撮影 神立尚紀〉

 ミッドウェー島を攻略すれば、新たに編成された第六航空隊(六空)の零戦33機が同島に進駐する事に為って居た。六空零戦隊は、第一機動部隊の4隻の空母に計21機が搭載されたが「隼鷹」にも12機が搭載され、アリューシャン作戦終了後、南下してミッドウェー島に上陸する予定である。宮野善治郎大尉が率いる六空の零戦12機は、大分県の佐伯基地で「隼鷹」戦闘機隊と合流した。
 「隼鷹(じゅんよう)」の飛行隊長は志賀淑雄大尉。これ迄空母「加賀」零戦隊を率い、真珠湾攻撃以来第一段作戦の言わば表舞台で出撃を重ねて来た。しかし、志賀の回想によると「何と無く反りが合わ無かった」艦長・岡田次作大佐と事ある毎に衝突し「加賀」が内地に帰るや否や、左遷同然に「隼鷹」に転勤が発令されて居たのである。
 
 「隼鷹(じゅんよう)」戦闘機隊の定数は18機だが、当初の配備予定は旧式の九六戦だった。「今時九六戦で戦が出来るか!」と怒った志賀は、鈴鹿の航空廠へ飛行機の受領に赴いた際、旧知の監督官が「加賀」から受領に来たと思い込んで居るのを幸い、何食わぬ顔で全機零戦で揃えて佐伯に帰って来たと云う。  

 「飛行長の崎長中佐が『エッ、うちは九六戦だよ』とビックリして居ましたね。『持って来たんだから好いでしょ』と、そのままアリューシャン作戦に行きました」と、志賀は筆者のインタビューに語っている。  
 新造艦の「隼鷹」は、搭乗員も未だ揃え切れて居ない。固有の零戦搭乗員は志賀大尉を含め9名しか居らず、便乗して行く六空零戦隊も、12名の搭乗員のうち空母の発着艦経験がある者は宮野大尉以下4名のみで、後の8名はアリューシャン作戦には使え無い。

 空母から発艦するだけなら飛行場からの離陸とそれ程変わら無いが、高速で航行する空母の狭い飛行甲板への着艦は、訓練を重ねないと出来無いからだ。「隼鷹」は、5月20日、呉軍港を出港し関門海峡を通過、日本海を北上した。
 23日「搭乗員総員集合」が掛かり、右舷の艦橋前に整列した搭乗員達は、艦長・石井芸江大佐より作戦命令を伝えられる。それは、搭乗員達を驚かせるに十分の、壮大な作戦だった。  

 「今回の作戦はミッドウェー島攻撃の第一機動部隊の支援の為、第二機動部隊としてアリューシャンのウナラスカ島・ダッチハーバーの攻撃に向かう。我が隊は、アッツ島・キスカ島へ上陸する陸海軍の輸送船団も支援し、上陸完了後は陽動隊として敵機動部隊を引き着け、第一機動部隊の攻撃作戦を容易にする為の囮部隊と為る。  
 作戦終了後ミッドウェーに向かい、六空戦闘機隊をミッドウェーに上陸させる予定である。尚上陸日をN日、攻撃日はNマイナス3日とする」
 

 5月25日「隼鷹」は、本州最北端の海軍基地・青森県大湊に入港した。ここで「臨時『隼鷹』乗組」の辞令を持って助っ人として乗組んで来た5名の零戦搭乗員達が居る。何れも5月7日から8日に掛けて戦われた史上初の空母対空母の戦い「珊瑚海(さんごかい)海戦」で被弾・損傷して内地に帰り修理中の空母「翔鶴」の搭乗員達であった。
 
 「『隼鷹』は、搭乗員が未だ揃って無かったんですネ。そこで『翔鶴』はどうせ暫くは出られ無いと云う事で貸し出されたんでしょう。今で云うアルバイトですよ」  

 と、その中の一員であった佐々木原正夫二飛曹は回想する。彼等はこの作戦が終了すると全員が再び「翔鶴」に復帰して居るので、臨時雇いであったことは間違い無い。だが、アルバイトだろうがパートタイマーだろうが、実戦経験を積んで来た若手搭乗員の加入は「隼鷹」に取って心強いものだった。  
 大湊の沖合いで一夜を過ごした「隼鷹」は、翌26日、角田覚治少将が座乗する旗艦「龍驤(りゅうじょう)」に続いて出港した。両空母を護衛するのは、重巡洋艦2隻と駆逐艦3隻。  

 出港後「隼鷹」では再び搭乗員総員が集められ「N日は6月7日なり」と伝えられた。即ち、ダッチハーバー攻撃はNマイナス3で6月4日と為ったのである。これは、前に述べた様に、第一機動部隊によるミッドウェー島空襲予定の前日に当たる。

 「この戦争、勝てると思いますか?」


            4-12-18.jpg

 4-12-18 ミッドウェー島に駐留予定で「隼鷹」に便乗した第六航空隊分隊長・宮野善治郎大尉(昭和18年戦死)

 北の海は霧が深く「霧中航行用意」の艦内放送が何度も流された。海上はミルク色のベールに遮られ、探照灯の灯りがボンヤリ明るく見える程度で、僚艦の姿も全く見え無い。先行する「龍驤」が、800メートルの長さで曳く浮標(ブイ)の立てる白波と、浮標に着けられたドラの音だけが頼りである。  
 視界が効かず衝突の危険があるが、電波を出せば敵に傍受されて位置が知れてしまう為、無線封止は大前提である。未だレーダーも装備されて居なかったから、濃霧の中での航海の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあった。  

 この季節、北に向かうに従い夜がドンドン短く為る。夜半に薄暗く為ったかと思うと午前2時にはもう夜が明け始める白夜に近かった。その為、1日の食事が4度に為った。元は一等船室に為る筈だった「隼鷹」の士官室で、志賀大尉と便乗する六空零戦隊の指揮官・宮野大尉は夜毎に遅く迄話し込んだ。
 2人は、過つて海軍兵学校で最上級生(志賀)と最下級生(宮野)の関係に在った。志賀は宮野に弟の様な親しみを感じて居たし、宮野も志賀には「先輩!」と、学生の様に話し掛けた。

 開戦後は、志賀は機動部隊、宮野は基地航空部隊で夫々最前線で戦って来て居る。そんなこれ迄の戦闘の話・クラスメートの近況・内地に残して来た女性の話・色々と話は尽き無かった。 志賀の回想によると、或る晩宮野は、雑談の合間にフト真顔に為って「先輩、この戦争、勝てると思いますか?」と訊いて来た。志賀は表情を一瞬強張らせた。宮野は続けた。

 「P-40・米陸軍戦闘機ナンか、何機来たって問題じゃ無いんです。でも敵は、墜としても墜としても新しい飛行機を持って來るのに、此方は、飛行機も搭乗員も補充が全く無いんですよ。台湾を出る時は45機揃えて行ったのに、新郷さんの隊(台南空)等最後は20何機。
 搭乗員に下痢やマラリアも出ますが、何しろ飛べる飛行機が間に合わんのです。それで内地に帰ったら飛行機の奪い合いで、今回の12機を揃えて來るのも大変でした。今に搭乗員だって足り無く為りますよ・・・先輩、こんなことで勝てますか」


 志賀は、思わず考え込んだ。志賀自身はこれ迄、機動部隊で連戦連勝を重ねて来て、戦局の行く末を深刻に考えたこ都が無かったのだ。嫌、アメリカの国力の強大さについては理解して居る積りだったから、考え無い様にして居た、と言った方が正しいのかも知れ無い。 少しの沈黙の後「嫌、勝た無きゃいかん、確りしようぜ」と答えて志賀は話を逸らせた。

 「如何してダッチハーバーみたいな田舎の所へ、貴様も不満だろうけど、問題はミッドウェーだよ。如何にして犠牲を出さずに向こう迄行くかと云う事だ」  

 戦後半世紀余りが経っても、この時の宮野の、戦場での経験に基づいた切実な言葉は志賀の心に鮮やかに残って居た。  

 「当時、搭乗員で戦争の見通しに付いてそこ迄ハッキリと悲観的な事を言う者は珍しかった。彼には先を見るセンスがあったんですね。私は思わず答えに窮してしまいましたが、内心、物事を冷静に見て居る偉い奴だと感心しました」  

 と、志賀は筆者にシミジミと述懐して居る。

 戦争の趨勢を左右した不時着機


    4-12-19.jpg

  4-12-19 「隼鷹」艦爆分隊長・阿部善次大尉(終戦時少佐)バックは九九式艦上爆撃機

 何とか無事に攻撃地点に着いた「隼鷹」と「龍驤」は、日本時間の6月3日午後10時25分「隼鷹」から志賀大尉の率いる零戦13機・阿部善次大尉の率いる九九艦爆14機をダッチハーバーに向け発艦させた。1時間後「龍驤」から零戦3機・九七艦攻14機が発進した。   
 白夜の黎明を突いて初進した隼鷹戦闘機隊は、艦爆隊を護衛して目標に向かうが、11時27分、米軍のPBY飛行艇1機と遭遇、北畑三郎飛曹長・佐々木原正夫二飛曹の零戦2機が本隊と分離してこれを攻撃する。佐々木原二飛曹の日記には、  

 〈母艦を出て、暁闇と霧の北洋を夜目にもしるく航空灯を点けて編隊を崩さず北へ北へと進む。進撃約十五分、右側方を通過する飛行機を発見、中隊より分離してこれに後方より攻撃に移る。近付くと明らかにコンソリデーテッドPBY5型飛行艇、雲高五百の海上を約四百の高度で味方(艦隊)方向に近接しつつある。  
 気付かれぬ様に後下方より一番機の後より撃ち上ぐ。照準器が明る過ぎて照準が出来ぬ。反転して第二撃、今度は二十粍を撃ちっ放す。(中略)敵機は黒煙を吐きつつ遂に雲中に遁入す。一番機これを追えども撃墜に至らずして取り逃せり。残念〉
 

 とあって、照準器の光枠が明る過ぎると感じる程の暗さの中での戦闘であったことが窺える。結局、この出撃では濃霧の為「隼鷹」を発艦した北畑・佐々木原機以外の全機が引き返し「龍驤」艦攻隊だけがダッチハーバーを爆撃した。  
 「龍驤」艦攻隊は、爆撃を終えての帰途、ダッチハーバー西方のマクシン湾に敵駆逐艦5隻を発見、司令部にその旨を打電する。角田司令官は空かさず、この敵艦に向けて第二次攻撃の出撃を命じた。  

 「隼鷹」からは、先程の第一次攻撃で引き返したものの内、零戦6機・九九艦爆15機「龍驤」からも零戦9機・九七艦攻17機。それに加えて重巡「高雄」「摩耶」の九五式水偵各2機も、30キロ爆弾2発ずつを積んで発進した。  
 処が、この時も、攻撃隊は厚い雲と霧に阻まれ引き返さざるを得無かった。天候の為とは云え締まら無い結果に、角田司令官は痛く不満の様子であったと云う。  

 6月5日 第二機動部隊は再度ダッチハーバーを攻撃する事と為った。「龍驤」から零戦6機・九七艦攻9機「隼鷹」から零戦5機・九九艦爆11機である。攻撃隊の発艦直前、第二機動部隊は「速やかに南下、第一機動部隊に合流すべし」との命令を聯合艦隊から受けている。  
 これは、ミッドウェーで空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾した為だった。しかし、そんな事情迄は知らされて居ない角田司令官は命令を一時無視し、攻撃隊が帰還した後、南下する事にしたのである。  

 阿部大尉の率いる「隼鷹」艦爆隊は、陸上目標と在泊艦艇に急降下爆撃を敢行、米本土から運ばれたばかりの油の入った重油タンクや格納庫・倉庫等を破壊・炎上させ、港内に係留されて居た宿泊艦「ノースウエスタン」に損傷を与えた。  
 この攻撃による米軍の戦死者は43名・負傷者50名と云う。アリューシャン作戦で「隼鷹」が挙げた初の戦果らしい戦果であった。だが、攻撃終了後、米軍戦闘機P-40の攻撃を受けた艦爆隊は3機が撃墜され、又、編隊から逸れた1機は機位を見失い未帰還に為っている。

 「隼鷹」と六空の零戦隊は2度に渉ってP-40と遭遇、空戦に入りその6機を撃墜した。「龍驤」の九七艦攻は弾薬庫を目標に爆弾を投下したが、悉く目標を外してしまい、辛うじて目標を逸れた爆弾が対空機銃の銃座に損害を与え、4人の米兵を死傷させただけに留まった。  
 「龍驤」零戦隊は海軍基地に機銃掃射を行ったが、対空砲火は意外に強烈で、1機が燃料タンクを撃ち抜かれて、予てからの打ち合わせ通りダッチハーバー東方の無人島(アクタン島)に不時着した。しかし、この零戦は、湿地帯である事に気付かずに脚を出して着陸しようとした為に、ツンドラに脚を取られて転覆、19歳の搭乗員・古賀忠義一飛曹は戦死してしまう。  

 後に米軍が、殆ど無傷のこの零戦・二一型・DT-108号機を発見、飛行可能な状態に迄修復し様々なテストを通じて、それ迄知り得無かった神秘のベールを剝がして行く事に為る。 これによって、零戦の弱点が白日の下に晒され、米軍はそれに対して有効な対抗策を打ち出して來るのだが、この1機の不時着がマサかそんな大事に繋がるとは、その時の参加搭乗員や第二機動部隊司令部の誰もが予想さえして居なかった。  

 アメリカの領土を攻撃されて米軍も黙っては居なかった。「龍驤」「隼鷹」の攻撃隊が発進して間も無く、アラスカ半島のコールド・ベイを発した2機のボーイングB-17が低空で艦隊上空に飛来する。1機は「龍驤」を狙って5発の爆弾を投下したが命中せず、もう1機は高度が低過ぎて爆撃出来ずにそのママ艦隊上空を飛び抜け様とした処を、重巡「高雄」の対空砲火に撃墜された。

 〈本艦舷側スレスレにその残骸、海中に両脚浮遊しをり、海面にガソリン浮かぶを見たり〉と、佐々木原二飛曹は日記に記して居る。B-17に続いて、魚雷を搭載した5機の双発爆撃機・マーチンB-26も日本艦隊を攻撃したが、1発も命中しなかった。

 無駄足処かマイナスに為った作戦

 予定の作戦を終えた第二機動部隊は、イヨイヨ最終目的地のミッドウェーへ、六空零戦隊を進出させる為に南下を開始した。暫くして、着艦経験が無い為に補助暗号員に回されて居た若い搭乗員達は、説明も無いママ電信室への立ち入りが禁止された。
 彼等の間から不満の声が上がった。志賀大尉や宮野大尉等、分隊長以上の士官にのみ電信室で傍受した戦況が知らされた。中部太平洋で、飛んでも無い事態が発生して居たのである。

 「ミッドウェー海戦」と呼ばれるこの日の戦いで、日本側は第一機動部隊の主力空母4隻と重巡洋艦「三隈」が沈没、空母搭載の全機285機(「戦史叢書」による推定)と水上偵察機2機を失った。対して米側の損害は、大破して漂流中の空母「ヨークタウン」が日本の伊号第百六十八潜水艦の雷撃に止めを刺されて、駆逐艦1隻と共に沈没・飛行機喪失150機だった。


    4-12-20.jpg

               写真 現代ビジネス 4-12-20

 第二機動部隊が南下を開始した時点では、未だ空母「飛龍」が健在で、これと合流してアワヨクバ敵機動部隊に反撃を掛ける積りだったが、アリューシャンからミッドウェー迄、高速で航行しても3日は掛かる。戦機を失うのは明らかであった。
 その上、残る「飛龍」も被弾するに及んで、第二機動部隊の南下はその意味を失った。聯合艦隊はミッドウェー作戦の中止を決定し、6月6日夕刻、再び第二機動部隊に北上を命じた。  

 一方、アリューシャン攻略部隊は6月7日、アッツ島・キスカ島を占領して居る。何れも、敵の守備隊が居ない島への無血上陸だった。両島の占領を受け、それを迎え撃ちに來るかも知れない敵艦隊に備えて、第二機動部隊は又も南下を始めた。佐々木原二飛曹の日記には、
 
 〈六月八日 ジグザグ進撃  六月九日 反転南下 ジグザグ進撃  六月九日 毎日、南下したり北上したり、西進東漸を繰り返す〉
 
 とある。6月14日第二機動部隊は、ミッドウェーで第一機動部隊の生存者を収容した駆逐艦と洋上で合流した。〈一、二航戦の生き残り搭乗員駆逐艦より移乗し来る。状況書くに及ばず〉  と、佐々木原二飛曹は日記に記して居る。佐々木原の回想・・・
 
 「初めは皆口が重かったですね。ヤガテ気持ちが解れて来たのか、実はコッ酷く遣られたんだと。予科練で2期先輩の岩城一飛曹が『赤城』の艦橋に居て退艦する直前、伝声管から機関科員の歌う『君が代』が聴こえて来たと言って居ました。機関室は艦の底にあるから脱出出来ないんですが、従容として。今も思い出すと涙が出るんですよ、可哀想で。岩城兵曹も泣きながら話して呉れました‥‥‥」  

 「隼鷹」に収容された生存者の中には「赤城」や「蒼龍」の零戦搭乗員も居た。「隼鷹」戦闘機隊と彼等第一機動部隊の零戦搭乗員が、艦橋脇の飛行甲板で並んで撮った写真が残されている。一見、普通の記念写真だが、写って居るメンバーを見ると、この戦いの一端が窺えて興味深い。
 下士官兵の搭乗員は「隼鷹」に収容された時点で「仮入隊」と云う扱いに為り、一時的に「隼鷹」戦闘機隊の隊員と為って一緒に写真に収まったのだ。  

 その後も暫く敵艦隊に備えて北太平洋を遊弋(ゆうよく)して居た「隼鷹」が大湊に入港したのは6月24日のことである。出港してから丁度1ヵ月に及ぶ長い航海だった。「隼鷹」は、被弾・故障した零戦9機を大湊基地に運び、修理・機銃の軸線整合・コンパスの自差修正をした後、29日に飛行機を収容、日本海から関門海峡を通過して呉に向かった。その間、6月27日には、アリューシャン作戦戦没者の告別式が艦内で行われて居る。
 7月1日、飛行機隊は「隼鷹」を発艦して岩国基地へ。「隼鷹」の搭乗員にはそのママ8日迄の休暇が与えられたが、撃沈された第一機動部隊の搭乗員は敗戦を秘匿する為、鹿児島県の鹿屋・笠之原基地に送られ、次の配置が決まる迄、軟禁生活を送らされる事に為った。

 こうして、アリューシャン作戦は、ミッドウェー島攻略の陽動の目的を果たせず、僅かな戦果と引き換えに1機の零戦を米軍に鹵獲される、結果論を承知で言えば無駄足処かマイナスとも云える結果に終わった。 アメリカ領土であるアッツ島・キスカ島を占領してみたのは好いが、これも、戦局全般に寄与する事の無いママ、後にアッツ島玉砕(昭和18〈1943〉年5月29日)の悲劇を生む基に為る。
 
 「結局ネ、当時は我々も上層部が何を考えて居るか判ら無かったけど、艦隊決戦で一気に雌雄を決しようとする聯合艦隊と、段階を踏んで着実に遣って行こうとする軍令部との考えの溝を、両方の顔を立てて埋めようとしたからアア為ったんじゃないか。  
 ダッチハーバー攻撃など遣らずに『龍驤』『隼鷹』を直接ミッドウェーに持って行くことは出来なかったか。増してや『隼鷹』は、アリューシャン作戦の後、ミッドウェー島に六空の零戦を届ける事に為って居たんですから・・・」
 

 と、志賀大尉(終戦時少佐)は筆者に語って居る。日本側の暗号を解読し、劣勢な戦力を集中してミッドウェーで待ち構えて居た米軍と、敵の動きが読め無いママ、圧倒的に優勢な筈の戦力を分散し、二兎を追おうとして大敗した日本海軍・・・その日本海軍が、足った半年前の真珠湾攻撃の際には、機密保持にも情報収集にも細心の注意を払って居た事を思えば「慢心」コソが最大の敵、本当の敵は自らの中に在る、と言っても好さそうである。

 神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家  以上












松山英樹の快挙V 争った40歳ローズが賛辞「君と母国に見事な偉業」「祝福楽しんで」



 松山英樹の快挙V 争った40歳ローズが賛辞「君と母国に見事な偉業」「祝福楽しんで」

 松山英樹の快挙V 争った40歳ローズが賛辞「君と母国に見事な偉業」「祝福楽しんで」.png 4/12(月) 10:03配信


 マスターズ最終日 松山が日本男子初の海外メジャー制覇


 4-12-12.jpg

      4-12-12 悲願のマスターズ初優勝を果たした松山英樹【写真 AP】

 米男子ゴルフの海外メジャー初戦・マスターズ最終日は11日(日本時間12日)米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード・パー72)で行われた。4打差の首位で出た松山英樹(LEXUS)が4バーディー・5ボギーの73で回り通算10アンダーで初優勝。

 日本男子初の海外メジャー優勝・アジア人初のマスターズ制覇を成し遂げた。2日目まで単独首位だったジャスティン・ローズ(英国)はSNSで「ヒデキ、素晴らしいマスターズ優勝おめでとう」等と祝福している。
 松山は8・9番で連続バーディーを奪う等、2位との差を5打に広げて前半を終える。後半15番パー5で2打目がグリーンをオーバーし池に入れてしまいボギー。16番もボギーとしたが、正念場の17番はパーセーブ。最終18番はボギーだったがリードを守り切った。

 優勝セレモニーでのスピーチでは「Thank You!」等と高らかに感謝を述べ笑いを誘っていた。松山には、7位だった40歳ローズも祝福を送って居る。初日に2位の松山等に4打差を着けて単独首位に立ち2日目もトップをキープしたが、3日目に首位陥落 最終日は4バーディー・6ボギーとスコアを落としたが、最終18番はバーディーで締めた。  
 試合後にローズはツイッターを更新「良い形で終えられた!自分の調子に満足してる」と大会を振り返った。松山に対しては「ヒデキ、素晴らしいマスターズ優勝おめでとう。君と母国に取って見事な偉業達成だ。祝福を楽しんで」と祝福。最後は「メッセージやサポートをして呉れたチームローズ、ありがとう」と感謝を綴って居た。

 THE ANSWER編集部



 松山英樹 マスターズ初V Vセレモニーでは「サンキュー」絶叫 現地の笑い誘う

 著者 THE ANSWER編集部 2021.04.12
                 
 米男子ゴルフの海外メジャー初戦・マスターズ最終日は11日(日本時間12日)米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード・パー72)で行われた。4打差の首位で出た松山英樹(LEXUS)が4バーディー・5ボギーの73で回り通算10アンダーで初優勝。日本男子初の海外メジャー優勝、そしてアジア人初のマスターズ制覇の快挙を成し遂げた。


    4-12-13.jpg

        マスターズで優勝した松山英樹【写真 AP】4-12-13


 マスターズ最終日 松山が日本男子初の海外メジャー制覇
 
 米男子ゴルフの海外メジャー初戦・マスターズ最終日は11日(日本時間12日)米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード、パー72)で行われた。4打差の首位で出た松山英樹(LEXUS)が4バーディー・5ボギーの73で回り通算10アンダーで初優勝。日本男子初の海外メジャー優勝そしてアジア人初のマスターズ制覇の快挙を成し遂げた。

 2位に5打差を着けて迎えた勝負のバックナイン。12番パー3でボギーを打ったが、13番パー5ではアプローチでピン側50センチに寄せバーディー。直ぐにスコアを戻す。15番パー5では2打目でグリーンオーバーし池に入れてしまった。このホールボギーでリードは2打に縮まった。
 16番でも連続ボギー。正念場を迎えたが17番はパーセーブ。18番はボギーだったがリードを守り切った。ウィニングパットを決め、パトロンからのスタンディングオベーションを送られた松山。感極まった表情を浮かべた。

 ディフェンディングチャンピオンのダスティン・ジョンソン(米国)らと出席した優勝セレモニーでのスピーチでは「この素晴らしいオーガスタナショナルで此処に立てることを嬉しく思っている。ファンの皆様ありがとうございました。Thank You!オーガスタナショナルのメンバーの皆さまありがとうございました。Thank You!」と高らかに感謝を述べ笑いを誘っていた。
 松山は2011年にマスターズ初出場。通算1アンダーで27位に入り日本人初のローアマに輝いた。以来、毎年の様にオーガスタの大舞台に挑んだが、15年の5位が最高成績だった。

 THE ANSWER編集部




 松山英樹 優勝インタビュー 一問一答「黄色ならグリーンジャケットに似合うかなと」


 著者 THE ANSWER編集部 2021.04.12

 米男子ゴルフの海外メジャー初戦・マスターズ最終日は11日(日本時間12日)米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード、パー72)で行われた。4打差の首位で出た松山英樹(LEXUS)が4バーディー・5ボギーの73で回り通算10アンダーで初優勝。日本男子初の海外メジャー優勝そしてアジア人初のマスターズ制覇の快挙を成し遂げた。


4-12-14.jpg

      マスターズで優勝した松山英樹【写真 Getty Images】 4-12-14


 マスターズ最終日 松山が日本男子初の海外メジャー制覇


 米男子ゴルフの海外メジャー初戦・マスターズ最終日は11日(日本時間12日)米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード、パー72)で行われた。4打差の首位で出た松山英樹(LEXUS)が4バーディー・5ボギーの73で回り通算10アンダーで初優勝。日本男子初の海外メジャー優勝、そしてアジア人初のマスターズ制覇の快挙を成し遂げた。

 2位に5打差を着けて迎えた勝負のバックナイン。12番パー3でボギーを打ったが、13番パー5ではアプローチでピンそば50センチに寄せバーディー。直ぐにスコアを戻す。15番パー5では2打目でグリーンオーバーし池に入れてしまった。このホールボギーでリードは2打に縮まった。
 16番でも連続ボギー。正念場を迎えたが17番はパーセーブ。18番はボギーだったが、リードを守り切った。ウィニングパットを決め、パトロンからのスタンディングオベーションを送られた松山。感極まった表情を浮かべた。

 優勝後テレビインタビューで喜びを口にした 一問一答は以下の通り

 ・・・表彰式でグリーンジャケットを羽織って感情を爆発させて居た。どんな気持ちだったか。
 「本当は18番で遣りたかったんですけど、表彰式で出来て良かったと思います」
 ・・・最終日どんな気持ちでスタートして行こうと考えていたか。
 「本当に自分のベストを尽くすことだけ考えて、14アンダーから15まで行けば追いつかれ無いと思って遣って居ました」
 ・・・1番でボギー、2番でバウンスバック・・・どんな心境だった。
 「正直、1番のティーグランド行くまでは全然普通に行けたのかと思うのですが、ティーグランドに立って緊張した。2番で好いティーショット打ててそこから落ち着いて遣れました」
 ・・・3番・4番、そして5番は素晴らしいパーセーブ。
 「ミスパットなんですけど、そう云うのも今週多かった。でも良かったと思います」
 ・・・一時は2位と5打差あった。
 「ズッとチェックして居たが、後半難しく為って來ると思って居た。緊張してナカナカ簡単にバーディー獲れる様な状態じゃ無かったので、1つずつミスし無い様、しない様遣って居た。最後ミスしましたが、マァ良かったと思います」
 ・・・15番は2オンに挑戦。
 「距離的に4アイアンだったので、3アイアンだったら刻もうと思って居た。シャウフェレも3連続バーディーだったので、ここでバーディー獲れば引き離せるかなと思ってましたが、裏目に出ましたね」
 ・・・18番、上がって來る時はスタンディングオベーションだった。
 「そうですね。2打差あって好かったなと思って上がって居ました」
 ・・・ウェアの黄色
 「アンマリ、特に意味は無いんですけど、黄色だったらグリーンジャケットに合うかなと思って。終わってみてそう云う風に為ったんで良かったと思います」
 ・・・子供達へメッセージ
 「ヤッと日本人でも出来る事が判ったと思う。僕もマダマダ頑張るのでメジャーを目指して頑張って貰いたいと思っています」            

              THE ANSWER編集部  以上













【戦争秘話】開戦前 真珠湾を偵察した5人の海軍士官は何を見たのか 神立 尚紀



 【戦争秘話】開戦前 真珠湾を偵察した5人の海軍士官は 何を見たのか 神立 尚紀  


   現代ビジネス 4/11(日) 11:02


         4-11-1.jpg
       
              写真 現代ビジネス 4-11-1

 4月12日に発売される『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀氏が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し「現代ビジネス」に寄稿・配信された記事の中から、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。そこに掲載された記事に関連するエピソードを」として紹介する。
 第3回は、本書第一章「真珠湾攻撃に参加した隊員達がコッソリ明かした『本音』」に関連して、丁度80年前の昭和16(1941)年、攻撃に先立って真珠湾を偵察した海軍士官達の、余り語られる事の無かったエピソードを紹介する。

 目的は潜行して居るスパイとの連絡


            4-11-2.jpg 4-11-2

      ホノルル総領事館で「森村正」の変名で諜報活動を行った吉川猛夫予備役海軍少尉


 日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾攻撃・昭和16年1941年12月8日で、太平洋戦争の火蓋が切られる直前の10月15日、日本郵船の貨客船「龍田丸」は、盛大な見送りを受け、舷側に無数の紙テープをナビカセながら横浜港を出港した。行き先はハワイ経由サンフランシスコである。  
 「龍田丸」は総トン数16,955トン・全長178メートル・航海速力19ノット(時速約35キロ)・旅客定員839名(一等239名・二等96名・三等504名) 昭和5(1930)年、北太平洋航路に就役して以降、姉妹艦「浅間丸」「秩父丸」(後「鎌倉丸」と改名)と共に「太平洋の女王」と呼ばれた豪華客船だった。  

 当時アメリカは、日本の南部仏印(現・ベトナム)進駐を機に、在米日本資産の凍結・対日石油禁輸・通商拒否権(言対日強硬策を打ち出した(6月21日)が、日米の協議の結果、人道上の見地から人と郵便物の往来は続けられる事に為り、その交換船の一隻目として「龍田丸」が選ばれたのだ。  
 日米関係は緊迫の度を増していたが普段と変わら無い出港風景。只、日本郵船所有を示す黒地に赤線2本の煙突のファンネルマークが黒一色に塗り潰されて居るのが異様だった。これは、万一のアメリカ政府による接収を避ける為、日本郵船の船としてでは無く、日本政府が徴用した交換船と云う名目を立てる為の措置である。  

 この船にはもう一つ表に出さざる任務があった。アメリカ太平洋艦隊が本拠を置くハワイ・真珠湾の隠密偵察と現地諜報員(スパイ)との連絡である。その為に、3人の海軍士官が船員に化けて密かに乗り組んで居たのだ。  
 既に昭和15(1940)年5月、アメリカ太平洋艦隊の主力がアメリカ西海岸・サンディエゴから、より日本に近いハワイに拠点を移した事を脅威と捉えた日本海軍は、様々な手段で情報収集に当たって居た。 情報収集(諜報活動)は極秘裏に行われ、今日その全貌を把握する事は難しい。
 だがその一端として、過つて日本海軍に空母の運用を指導、その後三菱に迎えられ日本のスパイと為って活動して居たイギリス空軍元大尉、フレデリック・ジョゼフ・ラトランドをハワイに派遣し諜報活動をさせて居た事が、近年公開された英機密文書から明らかに為っている。

 ラトランドは小舟をチャーターし真珠湾の米艦隊の動静を16ミリフィルムに撮影、情報を日本に送って居た。FBI・米連邦捜査局が彼の動きに疑念を抱き、泳がせて拘束するタイミングを測って居たが、その事はMI6・英秘密情報部も察知する処と為り、ラトランドは1941年10月、イギリスに帰国した処を「敵対的行為」の容疑で逮捕、2年にわたり拘留される。  
 また、日本海軍は、健康を害して予備役に編入され軍令部嘱託として英国に関する情報収集の仕事をして居た吉川猛夫少尉(海軍兵学校61期出身・クラスメートは既に大尉に進級している)を外務省に入省させ「森村正」の偽名でホノルル総領事館の三等書記官として送り込んで居た。  

 出発に先立ち、情報を担当する軍令部第三部は、彼に当座の活動資金として6万ドル(当時のレートで25万6,200円 少尉の俸給月額の3,660倍)もの機密費を手渡したとされる。「森村」こと吉川は、昭和16(1941)年3月27日「新田丸」でホノルルに到着。以後、様々な手段を用いて諜報活動を続けて居る。  
 怪しまれ無い様、日本料亭の仲居や芸者とドライブを楽しむ振りをして港内を観察したり、芸者を連れて遊覧飛行を装い上空から偵察したりする内、地元の日系一世・二世の間では「かなりの遊び人」と噂が立ったりもした。かと思えば、一晩中、1人で砂糖黍畑(さとうきびばたけ)に身を潜めて港内を監視したこともあった。

 真珠湾作戦の最後の詰め


            4-12-1.jpg

       4-12-1 「龍田丸」に乗船して真珠湾を偵察した松尾敬宇中尉

 普段、この程度のスパイ合戦はどの国でも行われて居た事で「駐在武官」「語学将校」の肩書きで派遣される軍人がスパイ活動を行うことは、両国政府共に承知の上で受け入れて居る。只、その行動を常に監視して居て、尻尾を出した時には国外追放処分にする。
 昭和15(1940)年、語学将校としてアメリカに駐在した岡田貞外茂(さだとも)海軍少佐(岡田啓介元総理の長男・後フィリピンで戦死)が、スパイ行為を働いたとして、翌1941年国外追放された例がある。アメリカも日本に対し、諜報活動をもっと要領好くかつ大掛かりに行って居たと云う。  

 「森村正」こと吉川猛夫をハワイに送り込んだ時点で、日本はアメリカと戦端を開くことを決めて居た訳では無い。しかし、アメリカがイギリス・オランダも引き込み、主要産油地からの対日輸出を全面的に禁止するに及んで、開戦止む無しの機運が急速に高まった。石油が無く為れば、戦わずして日本は干上がってしまうと考えられたからである。  
 その際、海軍の作戦の柱として考えられたのが、基地航空隊によるフィリピンの米軍基地空襲と、機動部隊の空母に搭載された艦上機によるハワイ・真珠湾の米太平洋艦隊への奇襲攻撃だった。

 「龍田丸」に乗船した海軍士官は、攻撃目標である真珠湾をその目で見ると同時に「森村正」(吉川)と連絡し、真珠湾攻撃作戦の最後の詰めを行う為に派遣されたのだ。乗船者に選ばれたのは、軍令部第三部勤務の中島湊中佐、そして「甲標的」と呼ばれる特殊潜航艇の艇長として訓練を受けていた松尾敬宇中尉・神田晃中尉の3名。
 特殊潜航艇の艇長が選ばれたのは、真珠湾を攻撃する際には飛行機の攻撃に呼応して、海中からも特殊潜航艇で敵艦を攻撃するプランが浮上して居たからである。  

 特殊潜航艇の訓練母艦として使われて居た水上機母艦「千代田」艦長・原田覚大佐の回想によると、呉で訓練中の昭和16年10月9日、聯合艦隊参謀長より「真珠湾視察の為商船に船員として化けこませるから、(顔が)ノッペリしたのを2人出せ」と指示されたのだと云う。
 松尾・神田両中尉は一時的に「軍令部出仕」の肩書きと為り「航空便で軍令部に着任せよ。服装は平服・荷物はカバン一個・中身は全部夏物・軍装・軍用品の持参は許さず」との指令を受け、東京・霞が関の軍令部に向かった。この時、特殊潜航艇仲間が大送別会を開き、総員が帽を振って見送る中、松尾・神田両名は万歳三唱をして悲壮な覚悟で10日「千代田」を発ったと云う。  

 「龍田丸」に乗船した中島中佐は「日本郵船の中島元重役の親戚で、ハワイとサンフランシスコを見たいと言うので特に本社で臨時事務員として便宜を図った」と云う名目で、船員の制服の金筋に白い識別線を着けた事務員の姿。松尾・神田両中尉は両袖に金ボタンを3つづつ着けた商船学校の制服を着て、アプレンティス(実習生)として乗り込む事に為る。
 「龍田丸」には、航海科と機関科のアプレンティスが乗って居たが、学校が東京と神戸に分かれて居て、尚且つ当直時間が違って他の実習生と接する機会は少なく、ニセモノである事が露見する心配は少ないと思われて居た。

 だが、思わぬ処でヒヤリとする場面があった。熊本中学で松尾の1年先輩である「龍田丸」の木下国資三等機関士が、航海中に船橋から降りて来た松尾の姿を認め「ア、松尾、松尾じゃないか」と、他のアプレンティスの居る前で声を掛けてしまったのだ。
 松尾は「しまった」という素振りで、他の者を船室に押し込みドアを閉めてから、唇に指を立てて「黙って居て呉れ」と云う合図をし、挙手の敬礼をして船室に消えた。木下は、後に松尾の戦死が報じられる迄、この事を誰にも話さ無かった。  

 松尾に付いては〈運転士生徒 松尾又雄 運転士生徒として龍田丸乗組を命ス〉と云う、出港2日前、10月13日付の辞令がある。下の名前だけを変えて居るが、もし苗字まで偽名にしていたら、木下が「松尾」と呼んだことで周囲から怪しまれたかも知れない。

 こよりに書き込まれた極秘文書


    4-12-2.jpg

 真珠湾攻撃機密書類に記された、ハワイの人口内訳 諜報員の活動は軍事に留まらず、気象・産業・人口など多岐にわたっていた 4-12-2

 「龍田丸」は通常の航路とは違い、一旦北上して択捉(えとろふ)島に接近し、北太平洋からハワイに向けて針路を変えた。これは、真珠湾攻撃に向かう機動部隊の予定コースに近い。中島中佐は、途中の天候やどの位外国商船や軍艦に行き交うかを具(つぶさ)に調べて居たと言われている。  
 只、何時もと違うコースを航行して居る事は一般船客には知らされていない。船内では、特に一等船客は、毎日のダンスパーティーやゲームなどの催しや、タキシード・イブニングドレスの正装でテーブルに着く豪華なディナーを楽しんでいた。  

 ハワイ・オアフ島に近付いた航海8日目の10月23日、突然、米海軍のパトロール船2隻が「龍田丸」に接舷し、武装した水兵2人が乗り込んで来て「これからは、海にものを一切捨てるな」と厳命した。船客には、時限爆雷の投下を恐れての措置と説明されたが、情報の入ったカプセル等の連絡手段を封じて置く意図があったのかも知れない。  
 すると突然、頭上に爆音が響き数機の米艦上爆撃機が「龍田丸」を目標に急降下爆撃の示威を繰り返し、続いて戦闘機・魚雷艇が襲撃訓練を重ねた。国際儀礼に反し不愉快なことではあるが、これは、3人の将校に取っては、アメリカ側の戦術や練度を知る願っても無い機会と為った。

 ホノルルの岸壁では、大勢の在留邦人が「龍田丸」を出迎えた。当時、日本側諜報員が残した記録によると、昭和16(1941)年7月1日現在のハワイの人口は、現地人(原文では「土人」)14,246人・現地人と他民族とのハーフ(原文では「半土人」)52,445人・プエルトリコ人8,460人・白人141,627人・中国人29,237人・日本人159,534人・朝鮮人6,681人・フィリピン人52,060人・その他849人・・・計465,139人とあって、人数で言えば、ホボ3分の1を占める日本人が最も多かったのだ。
 
 岸壁の在留邦人達は、これ迄の入港風景で見た事の無かった米軍の襲撃訓練、そして「龍田丸」の煙突が真っ黒に塗られて居る事に驚いたと云う。ハワイ邦字紙に〈煙突も 黒うして(苦労して)来た「龍田丸」〉と云う投稿川柳が載った。
 ホノルル入港後、アメリカ側の警戒はイヨイヨ厳重に為り、乗組員全員が強制的に指紋を採られたり、数十名の武装したコーストガード(沿岸警備隊)が乗り込んで来て、船内の要所・要所を見張る様に為った。 
 中島中佐は「森村正三等書記官」こと吉川猛夫宛の機密文書を入れたカプセルを、水なしで飲み込む訓練も一生懸命遣った。

 間も無く、喜多長雄ホノルル総領事が来船した為、中島中佐はカプセルを飲み込む事無く、船長室で、こよりの中に書き込んだ極秘文書を総領事に手渡した。
 吉川猛夫の著書『東の風、雨――真珠湾スパイの回想』(講談社・1963年)によると、総領事が中島中佐から受け取った一本のこよりを解(ほぐ)してみると、そこには97項目に及ぶ質問が鉛筆でビッシリと書かれて居たと云う。  
 中島中佐は、事務長のカバン持ちと云う名目で上陸し、総領事館でも喜多総領事と面会したが、ここでの話は全て盗聴される恐れがある。声に出すのは他愛も無い世間話だけにして重要な会話は筆談で行われた。  

 松尾・神田両中尉は、入港前に真珠湾の湾口を遠望し、特殊潜航艇での侵入方法に考えを巡らしたに違い無いが、彼等の活動の詳細については判然としない。森村(吉川)からの返書を中島が受け取り「龍田丸」がホノルルを出港したのは10月25日。最終目的地であるサンフランシスコに到着したのは30日早朝のことである。  
 処が丁度その頃、日本の大船団が仏印(ベトナム)沖を南下中との情報がアメリカ側に齎(もたら)され、統合参謀本部が対日姿勢を更に硬化「龍田丸」も抑留される恐れが出て来た。そこで、木村庄平船長は、乗客の乗船を急がせると郵便物の受け取りを待たずに出港、日本への最短コースである荒天の北太平洋を航行し11月14日横浜港に帰港した。  
 中島中佐・松尾・神田両中尉の3人の偽船員達は、接岸を待たず検疫錨地に迎えに来た海軍の内火艇で上陸した。松尾・神田の両名は、直ちに飛行機で呉に戻って居る。  

 「龍田丸」はその後、もう一度ロサンゼルス・バルボア(パナマ運河口)に向け出港(12月2日)したが、これは開戦の意図を偽装する為の航海で、戦争が始まれば直ちに帰国する事に為って居た。

 一週間後、第二陣の士官を乗せた船も出航


      4-12-3.jpg

    「龍田丸」に続き、海軍士官2名を乗せてホノルルに向かった「大洋丸」 4-12-3 

 「龍田丸」が3人の海軍士官を乗せて出港した1週間後の10月22日、横浜からはもう1隻「大洋丸」がハワイに向け出港した。「大洋丸」は14,457トン・速力14ノット(時速約26キロ) 第一次世界大戦で戦勝国と為った日本が、ドイツから戦時賠償として譲渡された船で、老朽船ではあったが豪華客船だった。  
 「大洋丸」には、潜水学校教官の前島寿英中佐が船医に、海軍省人事局の鈴木英少佐が事務員に、夫々化けて乗船して居る。

 鈴木少佐はベテランの水上機パイロットで、航海の直前まで第三艦隊航空参謀を務めて居たが、この航海の為に人事局付に為って居た。鈴木は「出発の約1ヵ月前から真珠湾のあらゆる情報に目を通したが、軍令部の指示等も含めメモに残さず一切を頭の中に入れた。携行品には、軍人の身分を窺わせるものは何ひとつ入れ無かった」 と、回想している。  
 「大洋丸」も横浜出港後北上し択捉島付近で東に変針、アリューシャン諸島とミッドウェー島を結ぶ線の中間辺りから南下すると云う、真珠湾攻撃に出撃する機動部隊の予定コースを航海してハワイに向かった。船客の殆どはハワイに帰る外国人だったと云う。  

 北太平洋は波浪・暴風が凄まじく「大洋丸」は一時、2ノットに迄減速を余儀無くされたが、飛行機乗りである鈴木少佐は「水上偵察機の発艦・収容は可能」「機動部隊が外国船に遭遇する可能性は低い」と判断した。オアフ島北方200浬(カイリ/約370キロ)の所で米軍の哨戒機に発見され、100浬の所で米軍機の編隊が擬装襲撃(攻撃訓練)に飛来した。これで、米軍の哨戒圏と攻撃圏のアラマシが判明した。  

 11月1日「大洋丸」は真珠湾に近い8号岸壁に接岸。此処からは米艦艇の錨泊状況や施設が一望に出来た。港外には、潜水艦の侵入を防ぐ為の防潜網が用意され、その端には警備艇が待機して居て、命令一下速やかに展張する訓練を行って居るのが見える。  
 防潜網を張られてしまえば、特殊潜航艇による港内への侵入は困難であると思えた。米軍の警戒は厳しく、上陸しても所要の連絡先以外への立ち入りは禁止された。  

 前島中佐・鈴木少佐は米側の尋問を避ける為上陸はせず、来船する喜多総領事や領事館員を通じて吉川猛夫と連絡を取った。米側からマークされて居る吉川も大洋丸には来ない。  連絡事項や質問は「龍田丸」の時と同様、薄い紙に鉛筆で書いてこよりにして領事館員に託し、それに対する吉川の報告は、領事館から船に届ける新聞の束の奥に隠したりして受け渡しをした。  
 スパイの鉄則は、末端のスパイ同士が接触しない事である。前島・鈴木の身分や乗船目的は、喜多総領事以外の誰にも明かされ無かった。ハワイ在住のオットー・キューンと云うドイツ人を、軍令部がスパイとして使って居るとされて居たが彼とも連絡は取ら無かった。

 領事館では、吉川が中心に為って諜報活動を続けて居るが、重要な情報の中には米軍人からの売り込みもあったと云う。軍令部が知りたかったのは、オアフ島の警戒態勢・米軍は果たして瞬時に反撃体勢に入れるか・哨戒機の機種や機数・出発時刻等で・・・最も大切なのは哨戒の範囲である。
 予備役海軍少尉でもある吉川の報告は、要点を押さえて居て満足すべきものだった。11月2日は日曜日である。既に、真珠湾攻撃は日曜日の朝に実行することとされて居た。

 この日、米海軍の艦船は訓練も無く静かな休日を過ごして居た。前島・鈴木は、日曜日の奇襲成功に望みを抱いた。11月5日「大洋丸」はホノルルを出港し米本土迄は行かずにハワイで折り返し日本に向かった。帰りは、矢張り真珠湾攻撃の機動部隊が帰途に着く予定の、やや南寄りの航路である。  
 鈴木少佐は尚も慎重だった。万一、公海上で米英の軍艦に臨検された場合に備えて、ホノルル在泊中の資料の全てを頭に叩き込み、どうしても書類にしないといけ無いものは細いこよりにし、更にそれを数本より合わせて紐にして直ぐに燃やせる所に置いた。  

 帰路の「大洋丸」には、ハワイから日本に帰る日本人一世・二世が447人乗船して居て、米軍基地で働いて居た者も多く彼等も又重要な情報源に為った。「大洋丸」は11月17日、横浜港に入港した。先にハワイ経由サンフランシスコ迄行った「龍田丸」が帰国した3日後のことである。
 前島中佐と鈴木少佐はその足で軍令部に赴き、軍令部総長・永野修身大将、次長・伊藤整一中将等主要幹部にハワイ偵察の報告をした。

 作戦参加搭乗員たちに直接敵情説明


          4-12-4.jpg

 4-12-4 真珠湾攻撃の攻撃隊指揮官に配布された機密書類には、諜報活動の成果が詰まって居る。写真は空母「赤城」戦闘機分隊長・進藤三郎大尉が遺した真珠湾攻撃の軍機書類(以下同じ)

 鈴木少佐は11月19日、機動部隊の護衛で真珠湾作戦に参加する戦艦「比叡」に木更津沖で乗艦し、23日、択捉島単冠湾に入泊して居た機動部隊の旗艦・空母「赤城」艦上で、南雲忠一司令長官を初めとする司令部での最後の作戦会議に参加、翌24日には「赤城」に参集した飛行機搭乗員達にオアフ島の模型を前に現地の情報を詳細に説明した。  
 真珠湾攻撃に参加した搭乗員の回想に必ず出て來る「『赤城』でのオアフ島模型を前にした作戦説明」は、ハワイから帰ったばかりの鈴木少佐による最新の情報だったのだ。  

 25日、山本五十六聯合艦隊司令長官より、26日朝、機動部隊出撃の命令が届く。南雲中将は26日午前2時頃、眠って居た鈴木少佐を起こし「米艦隊はラハイナ泊地では無くて真珠湾に居るのだね?」と、念を押した。南雲中将は眠れぬ夜を過ごして居たらしかった。26日、機動部隊の各艦が出港して行くのを、鈴木は「赤城」から移乗した海防艦「国後」の艦上で見送った。  

 機動部隊の出航に合わせて、北海道の美幌基地に進出して居た木更津海軍航空隊の九六式陸上攻撃機が前路哨戒に当たって居る。当時、機長として前路哨戒の任務に就いた畠山金太一飛曹(後少尉)は、筆者のインタビューに「真珠湾攻撃の事迄は知らされて居ませんでしたが、これだけの大艦隊が隠密裏に出て行くと云うのは尋常な事では無い。潜水艦は勿論、漁船一隻も見逃す訳には行きませんから、緊張感を以て、航続時間ギリギリ迄哨戒しました」 と回想している。  

 真珠湾では無いが「龍田丸」と「大洋丸」の間にはもう1隻、日本郵船の「氷川丸」が、軍令部第三部の福島栄吉少佐を乗せて、10月20日シアトルに向け横浜を出港して居る。情報を担当する第三部の少佐が、この時期にアメリカまで直接出向くのは、開戦に関する用件の為としか考えられ無いが、福島少佐の目的に付いてはハッキリしない。
 駐在武官か補佐官をシアトルに呼んで、開戦の方針を伝えたのだろうとの推察が、最も正鵠(せいこく)を射たものだと思われる。

 ・・・長期にわたる何重もの諜報活動そして緻密な作戦、それに向けた訓練が功を奏して、12月8日、真珠湾攻撃は成功を収め、一時的にせよ米艦隊の脅威を太平洋から一掃した。 只、潜水艦から発進した5隻の特殊潜航艇が悉く未帰還と為り、9名が戦死1名が捕虜と為る結果に終わったことは当事者達にとって無念であったに違いない。だがこれは、3年9ヵ月に及ぶ長く苦しい戦争の序章に過ぎ無い。

 5人の偵察士官のその後

 真珠湾攻撃前にハワイを偵察した5人の海軍士官の内「龍田丸」の中島湊中佐は、昭和17(1942)年2月21日、南西方面艦隊参謀として蘭印・セレベス島(現・インドネシア・スラウェシ島)で戦死。
 神田晃中尉は、同年3月8日、特殊潜航艇の訓練中に瀬戸内海で殉職した。松尾敬宇中尉は、真珠湾への出撃を熱望したが帰国した時には既に真珠湾攻撃に参加する特殊潜航艇の搭乗員が決まって居た為第一陣の選に漏れ、大尉に進級した直後の昭和17年5月31日・オーストラリア・シドニー湾の敵艦船攻撃に出撃。他の2艇と共に目的を果たせ無いまま戦死した。


     4-12-5.jpg

      4-12-5 昭和17年 日英交換船の際 米潜水艦の潜望鏡が捉えた「龍田丸」

 松尾艇は、岸壁に衝突して魚雷発射管を損傷し敵艦に体当りを試みるも失敗、松尾大尉は同乗の都竹正雄二等兵曹と共に拳銃で自決したと伝えられる。戦死後二階級特進し、海軍中佐に任じられた。  
 オーストラリア海軍は、松尾艇を含む2艇を海底から引き上げ、4名の搭乗員の遺体を海軍葬を以て丁重に弔った。遺骨は、戦時交換船「鎌倉丸」で帰国した。  

 「大洋丸」前島俊英中佐は、昭和19年3月1日、第二十二潜水隊司令としてニューギニアで戦死。終戦時の総理大臣・鈴木貫太郎大将の甥でもある鈴木英少佐は戦争を生き抜き、軍令部部員として終戦を迎え(中佐)、昭和60(1985)年9月18日死去した。  
 「龍田丸」は海軍に徴用され、日英外交官交換船としてポルトガル領東アフリカまで往復した後、輸送任務に従事する。昭和18(1943)年2月8日、横浜から中部太平洋のトラックに向かう途中、深夜に御蔵島沖でアメリカ潜水艦の雷撃を受け瞬時に沈没、木村船長以下乗組員198名・乗船者1283名の全員が死亡した。  

 「大洋丸」は陸軍に徴用され、昭和17(1942)年5月8日、宇品港からシンガポールへ向かう途中、アメリカ潜水艦の雷撃で沈没、乗船して居た1,360名の内、817名が命を落とした。この時犠牲に為った乗船客の中には、南方占領地のインフラ整備に派遣される商社マンや、台湾烏山頭ダムの建設で名を馳せた水利技術者・八田與一ら民間人も多く含まれて居た。
 2018年、屋久島の西約250キロの海底で、ホボ原形を保ったママ沈んでいる「大洋丸」の船体が発見されたニュースは記憶に新しい。

 開戦直前、シアトルに向かった「氷川丸」は戦時中、海軍特設病院船と為り、3度にわたって触雷するも生還。戦後は外地からの引揚船を経てシアトル航路に復帰し、昭和35(1960)年に引退する迄第一線の花形客船として活躍した。
 その後、長く横浜・山下公園に係留・保存され、2016年には国の重要文化財に指定、横浜のシンボル的存在として今日に至る。  

 真珠湾攻撃の際、米空母が真珠湾に居らず、しかも対空砲火の反撃が予想以上に早かった事から、攻撃に参加した飛行機搭乗員でさえ「アメリカは知って居て待ち構えて居たんじゃないか」と述懐する人は少なく無かった。
 日本側が重油タンクや港湾設備を攻撃目標にし無かった事等も含め、今も尚釈然としない部分は残されて居るが、それは本稿とは別の主題に為ろう。  

 しかし、真珠湾攻撃がこれ程の手間暇を掛けて情報を収集し準備を重ねた末に決行されたにも関わらず、それでも尚不完全な面が残った事を顧みれば、その後の、希望的観測をもとにした場当たり的な日本軍の作戦が悉く失敗に終わったのも無理は無いと思われる。


         4-12-6.jpg 4-12-6

 神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家 1963年大阪府生まれ 日本大学藝術学部写真学科卒業 1986年より講談社「FRIDAY」専属カメラマンを務め主に事件・政治・経済・スポーツ等の取材に従事する 1997年からフリーランスに 1995年日本の大空を零戦が飛ぶと云うイベントの取材を切っ掛けに 零戦搭乗員150人以上 家族等関係者500人以上の貴重な証言を記録している 
 著書に『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』『証言 零戦 大空で戦った最後のサムライたち』『証言 零戦 真珠湾攻撃、激戦地ラバウル、そして特攻の真実』(いずれも講談社+α文庫)『祖父たちの零戦』(講談社文庫)『零戦 最後の証言彜T/U』『撮るライカT/U』『零戦隊長 ニ〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(いずれも潮書房光人新社) 『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)などがある NPO法人「零戦の会」会長

                     以上















2021年04月10日

特集!! 福島第一 貯まり続ける汚染水処理 海洋放出を考える




 特集!! 福島第一 貯まり続ける汚染水処理 海洋放出を考える

 処理水タンク増設へ 東電、政府方針決定後に表明


   4-10-30.gif 4/10(土) 6:25配信 4-10-14



4-10-15.jpg

 タンク増設が見込まれる空き地の一つ 敷地内には活用予定の無い「空白地帯」が複数存在する 2月福島第1原発 4-10-15

 東京電力福島第1原発の処理水を巡り、東電が政府の処分方針決定後に保管タンクの増設を表明する見通しに為った事が9日、分かった。政府は13日に関係閣僚等会議を開き、海洋放出方針を決める方向で調整して居る。政府が「先送り出来ない」と強調して来た前提と為る満杯時期は曖昧なママ、10年越しの難題は重大な局面を迎えた。

 全国漁業協同組合連合会(全漁連)の岸宏会長は7日に菅義偉首相と会談し、タンク増設等による処理水保管の継続を要望。菅首相は他の要望4項目と合わせ「確り受け止めて対応したい」と述べた。増設規模は限定的とされるが、保管期間が延びる分処理水中の放射性物質は自然減衰が進む。政府や東電は国内外に処理水の安全性を周知する考えで、より時間を掛けて丁寧に取り組める利点もある。  

 東電はタンクの満杯時期を「2022年秋頃」と記者会見等で繰り返し強調し、政府はこの「期限」を前提に方針決定を急いで来た。放出準備は工事や手続きに2年程度を要し、既に時間的猶予は無い。  
 20年12月完成のタンクを最後に建設作業を終えたが、東電は「1基も増設出来無い訳では無い」とする。増設には1年程度掛かり、東電は増設の可否を内々に検討して居た。増設した場合の「真の満杯時期」は不明だ。  

 東電福島第1廃炉推進カンパニーの小野明最高責任者は2月の取材に「政府方針が決まら無いと計画が確定しない。方針決定後に我々の検討結果を示したい」と見解を語った。敷地内には活用予定の無い「空白地帯」が複数箇所在る。河北新報社の試算ではタンクを設置した場合、日々の汚染水発生量が現状よりやや多目に推移したとしても、満杯時期は1年以上先延ばしに為る。

 河北新報 以上




 原発処理水 海洋放出へ 首相「近日中に判断」 全漁連会長と面会

   4-10-30.gif 2021年04月08日 06:00

 政府は東京電力福島第1原発に貯まり続ける放射性物質トリチウムを含む処理水を、海洋放出する方向で最終調整に入った。菅義偉首相は7日、官邸で全国漁業協同組合連合会(全漁連)の岸宏会長らと面会し、近日中に処分方針を判断する意向を明らかにした。政府は会談を踏まえ、関係閣僚会議を開く方針。岸会長は海洋放出に反対する考えを重ねて示した。

    4-10-16.jpg 4-10-16

  首相官邸で菅首相(中央)と面会する全漁連の岸会長(左端)ら 7日午後(全漁連提供)

 菅首相は会談で「廃炉の着実な進展は東日本大震災からの復興の前提で、処理水の処分は避けて通れ無い。海洋放出がより確実に実施出来るとの専門家の提言を踏まえ、政府方針を決定する」と伝えた。菅首相は会談後、報道各社の取材に応じ「風評被害を最小限にする努力は絶対に必要だ」と強調した。政府は方針決定後も準備と並行し、関係者や国民に理解を求めて行く考え。

 岸会長は「海洋放出の反対はイササカも変わら無い」とした上で

 (1)漁業者、国民への責任ある説明
 (2)風評被害への対応
 (3)処理水の安全性担保
 (4)福島県を初め、全国で漁業が継続出来る方策
 (5)保管タンク増設等の検討−を要請した。

 同席した野崎哲福島県漁連会長も「地元を中心に漁業を続ける事が、県内漁業者の統一した意思だ」と反対した。記者会見した梶山弘志経済産業相は「要請された5項目は、確り検討して行きたい。今後も丁寧な説明、説得を続けて行く」と述べた。

 福島第1原発では高濃度の放射性物質を含む大量の汚染水が発生し、浄化した後の処理水を保管するタンクが敷地を埋めて居る。東電はタンクの満杯時期を2022年秋以降と見込む。放出準備に2年程度掛かるとされる。 
 政府の小委員会は昨年2月、海洋や大気への放出が現実的と提言。政府は同年10月下旬にも海洋放出を決定する構えだったが、風評被害対策の具体化等が必要だとして先送りした。梶山経産相と今年3月に会談した国際原子力機関IAEAのグロッシ事務局長は、環境影響監視等で支援する意向を示した。

               以上





 「私たち」の問題として 処理水の海洋放出を考える

 ニッポンドットコム 貝田 尚重


  4-10-17.jpg

 4-10-17 福島第1原発事故から9年半 止まら無い風評 処理水タンクが並ぶ福島第1原子力発電所構内 タンクの向こう側に1号機〜4号機が見える (バナー写真と記事中の発電所構内の写真はニッポンドットコム 土師野幸徳撮影)


 文章 貝田 尚重 【Profile】ニッポンドットコム編集部チーフエディター 時事通信社 日本ビジネスプレス リコー経済社会研究所を経て2018年4月より現職 左利き いて座 阪神ファン

 2011年3月の福島第1原発の事故から9年半が過ぎた。原発構内には、汚染された水から放射性物質を取り除いた「処理水」が溜まり続けて居る。このママでは廃炉作業に支障が生じるとして、政府は処理水を海洋放出する方針だが、事故以降、ズッと風評と戦って来た漁業者に取っては更なる痛手と為り兼ね無い。
 福島第1原発は長らく首都圏の電力需要を満たして来た。処理水の海洋放出は、福島県民に取ってだけの問題では無く、電気のユーザーである「私たち」の問題として考えたい。

 敷地の限界 処理水を海洋放出へ

 福島第1原子力発電所の構内にある建物の非常階段を昇ると、眼下には異様な光景が広がって居た。過つて首都圏の電力需要を支えて居た発電所の敷地は、今、タンク置き場の様相を呈して居る。


 4-10-18.jpg  

      タンクで埋め尽くされる東京電力福島第1原子力発電所構内 4-10-18

 2011年の東日本大震災で爆発事故を起こした原発の原子炉内で溶けて固まった核燃料(燃料デブリ)は未だに熱を発して居り、水を掛けて冷やし続け無ければ為ら無い。更に、原子炉建屋等に地下水や雨水等が入り込んで來る。こうした水は高濃度の放射性物質を含む汚染水と為る。
 東京電力では、吸着装置を使って汚染水に含まれる放射性物質の大部分であるセシウムとストロンチウムを重点的に取り除いた上で、多核種除去設備・Advanced Liquid Processing System・通称ALPSアルプスを通して、トリチウム以外の大部分の放射性物質を取り除いた状態でタンクに溜めて居るのだ。

 タンクは高さ10メートル超の鋼鉄製。限られたスペースを有効に活用する為、間隔僅か1.5メートルのハチの巣状にギッシリ配置して居る。2020年10月時点で、敷地内のタンクは1000基・約123万トンの処理水が保管されて居る。マンションの3階天井に相当する高さのタンクが林立する様は何とも言え無い圧迫感がある。


 4-10-19.jpg
 
 処理水を保管して居る高さ10メートル超の巨大タンク タンク1基が1週間で満水に為ると云う 4-10-19 

 現在、1日に発生する汚染水は約140トンで、1週間で巨大タンク1基が満水と為るペースだ。東電では、敷地内に137万トン迄溜めるスペースを確保して居るが、それも2022年夏頃には限界を迎える。一方、東電は21年から原子炉内の燃料デブリの取り出し開始を目指して居り、廃炉作業が本格化する予定だ。廃炉の為には様々な試料の分析用施設や資機材の保管施設・事故対応設備の建設が必要と為る。
 また、その為の人員や車両の出入りもある為、敷地内に更なるタンクを増設することは困難だと云う。処理水を溜めるスペースが無く為る事は早い段階から想定されて居た。2016年11月から処分方法の検討を進めて来た経済産業省の小委員会では、海洋放出・水蒸気放出・地層注入等複数の案を比較した上で、今年2月に「技術的に実績がある水蒸気放出及び海洋放出が現実的な選択肢である」との提言をまとめた。

 地元の農林水産業者や費者団体は反対意見を表明して居るが、政府は近く、小委員会の提言に沿って「海洋放出」を正式に決定する。

 「もっちゃん」と「てっちゃん」のこと

 「海洋放出」と聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは「もっちゃん」と「てっちゃん」のことだった。私が2人に初めて会ったのは、震災から3年後の2014年3月 福島県が首都圏の消費者を招いて東京駅近くのイタリアンレストランで開催したイベント《ふくしまの海産物 復活の狼煙(のろし)を東京丸の内から!》だった。
 福島県の沿岸は寒流と暖流がブツカル絶好の漁場。激しい海流で身が引き締まった魚は、古い地名の常陸国・磐城国に因んで「常磐もの」と呼ばれ、プロの料理人や築地市場の目利きからも一目置かれて居た。

 しかし、原発事故直後に福島県漁連は操業自粛を決定。翌2012年6月から漁法・魚種・海域を限定しながら「試験操業」として漁を再開、県の放射性物質検査に加えて、漁協独自の検査も実施し、安全性確保に最大限の努力をしても消費者の理解が殆ど得られ無い時期だった。
 県の担当者は、如何に厳格な安全管理の下で海産物を出荷して居るか、データを示しながら真剣に説明。参加者も「応援すべき被災地」の話に神妙に耳を傾けて居た。そんな堅苦しい空気を一挙に緩めたのが、相馬の漁師「もっちゃん」こと菊地基文さんと、水産仲買人の「てっちゃん」こと飯塚哲生さんだった。

 やんちゃ坊主がそのママ大人に為った様な2人は「被災者」と云う言葉がソグワナイ位底抜けに明るかった。漁港の在る町で育った子供時代の思い出や、漁でどんなにヘトヘトに為って居ても、船上で1日4食のマカナイ飯を作る“まんま炊き”を課せられる若手の苦労を掛け合い漫才の様に繰り広げ会場は何度も笑いに包まれた。
 地元で「どんこ」と呼ばれているエゾアイナメを手際好く裁き、マカナイ飯であるツミレ汁を作って参加者に振る舞って呉れた。肝も一緒に叩いたツミレはフワッと柔らかく、濃厚でウットリする程旨さがあった。

 テーブルを回って「ネ、うまいっしょ?」と誇らし気に笑う2人に、参加者は「被災者を応援」するのでは無く、スッカリ「相馬ファン」に為ってしまった。只、この時の「どんこ」は相馬産では無く北海道産だった。
 放射線の基準値を超える恐れがある為試験操業の対象魚種には含まれて居らず、相馬では水揚げが出来なかったのだ。

 イベントの最後、菊地さんが「これからも相馬で漁師を続けて行きたい。何時か、相馬のどんこを食べに来て欲しい」と絞り出す様に言って居たのが未だに忘れられ無い。その翌年の2015年秋、菊地さんと飯塚さんは地元の仲間達と季刊の情報誌『そうま食べる通信』を創刊。
 相馬市を中心とする福島県の浜通り地方(沿岸部)の一次生産者を毎号1人ずつ取り上げ、丁寧な取材で食べ物と生産者の魅力を伝える取り組みをスタートした。


4-10-20.jpg

 『そうま食べる通信』編集部のメンバー 本業はバラバラだけど相馬を愛する気持ちは共通(写真提供   そうま食べる通信) 4-10-20

 実は、私も『そうま食べる通信』の購読者の一人だ。年に数回は読者ツアーに参加して相馬市を訪問する様に為った。何度も現場を訪ねる内に、農業生産者も漁師も水産加工業者も、基準値を上回る食材が市場に出無い様細心の注意を払って居る事、風評を払しょくする為に震災前以上の価値を生み出す努力と工夫を積み重ねて居る事が分かった。「徹底的なチェックを経て市場に出る福島の食材こそ安全な食材」だと理解出来た。

 菊地さんや飯塚さんだけでは無い。福島県では、多くの一次生産者や加工業者が原発事故によってドン底に突き落とされ、10年間掛けて一歩ずつ消費者との距離を縮めて来たのだ。処理水の海洋放出によって、積み重ねた努力がリセットされてしまうとすれば、余りにも残酷だと思った。

 「処理水」とはどんな水なのか?

 9月に福島第1原発を視察した際に、ALPSでの汚染水の浄化処理も見学した。現在、原発構内の96%は特別な装備が必要の無いレベル迄放射線量が下がって居るが、汚染された水を扱うALPS内部の取材は防護服に全面マスクの着用が求められる。
 ALPSでの水処理の工程は、先ず、汚染水に薬液を加えてコバルトやマンガン等を沈殿させて取り除いた上で7種類18塔の吸着塔を通す。夫々の塔内には活性炭やイオン交換材料が充てんされており、放射性物質を吸着して除去出来ると云う。


4-10-21.jpg

    防護服に全面マスクで他核種除去設備・ALPS内部での取材に向かう 4-10-21    

 汚染水から62種類の放射性物質を取り除く事が出来る多核種除去設備・ALPSの内部 作業に当たる人達は、防護服・全面マスク・二重の手袋のフル装備をものともせずキビキビと動いて居た 4-10-22

 ALPSを通しても放射性物質を完璧に取り除ける訳では無いが、原子力施設から放射性物質を環境へ放出する場合の国が定める基準は満たす事が出来る。例えば、ストロンチウムはALPSを通す事で、濃度は10億分の1に為る。
 次の写真左の水はALPSを通した「処理水」で、線量計を近付けると目盛りの「1」を指した。右は家庭用風呂の温浴効果を高める等健康・美容グッズとして市販されている「ラジウムボール」が入ったプラスチック容器で線量計のメモリは「3」を指している。
 これをもって「処理水は絶対安全」とは言い切る事は出来無いにしても、ネット通販で購入する事が出来、通常の荷物として宅配便で運ばれる「ラジウムボール」と比べて、途轍も無く危険なものとも思え無かった。
 

 4-10-23.jpg

 左はALPSを通した処理水 線量計の目盛りは「1」を指している 右は風呂の温浴効果などを高める為に使われるラジウムボールの入ったプラ容器 目盛りは「3」を指している 4-10-23

 リテラシーを高める努力

 現在の技術ではトリチウムは除去する事が出来無いが、そもそもトリチウムは自然界にも存在し、水蒸気や雨水・水道水にも含まれる。放射線のエネルギーが弱い為、皮膚を通過して身体の内部を被ばくさせる事は無く、口から体内に取り込んでも水と同じ様に対外に排出され、蓄積される事は無いと云う。
 政府は、海洋放出する際には、トリチウムが国の基準の40分の1の濃度に為る迄海水で希釈した上で、30年間掛けて少しずつ放出する方針だ。「40分の1」は世界保健機関・WHOによる飲料水の基準と為る濃度を更に下回る濃度を意味する。
勿論「事故を起こした東京電力の説明は信用出来ない」「メディアも東電に騙されて居る」と考える人も居るだろう。

 そこで、広島大学原爆放射線医科学研究所の保田浩志教授にトリチウムの海洋放出に伴う影響について質問すると「トリチウムは、自然界においても宇宙線によって生成される核種で、第2次世界大戦後には核実験や原子力発電等に伴い広く環境中に放出されて来た。しかし、それらによる人体への健康影響は確認されて居ない」と云う答えが戻って来た。

 「トリチウムは多くがHTO・・・H2OのHの1つがT=トリチウムに入れ替わって居る・・・の形態で存在し、水と殆ど同じ挙動をする為、海洋放出した場合は速やかに拡散し、魚介類に濃縮される事も無いので、海産物等を介して摂取するトリチウムの量は、元来自然界から摂取している放射性核種の量に比べて無視出来るレベルに為る。
 また、トリチウムから出される放射線・ベータ線はエネルギーが低く、直ぐに尿や汗で排せつされて体内に留まる時間も短い為、トリチウムの摂取がもたらす健康影響は他の放射性核種に比べてごく小さい」
そうだ。

 只、保田教授は「種類や量(薄める度合い)に限らず“放射性物質を人為的に環境へ放出する”と云う行為がもたらす心理的・社会的影響には配慮が必要である。特に漁業を営んでいる住民には生計に大きな影響を与える可能性があるので、十分な説明と入念な風評被害対策を行うことが望まれる」と指摘する。まさに、海洋放出の最大の問題点は此処なのだろう。
 漁師の菊地さんも「放出するか、しないかの前に、国や有識者は、国民の理解を得る為の努力をもっとして欲しかった」と言う。
 
 「トリチウムを海洋放出するのは福島が初めてでは無い。既に世界中の原発が海に排出して居る。消費者も、そう云う事実を知らずに印象に流されるのでは無く、公表されて居る情報を集め、自分の目で見て頭で考えて判断して貰いたい」

 福島第1原子力発電所で発電した電気は、首都圏に送られ巨大都市の電力需要を満たして来た。原発事故で大きな痛手を負ったのは、そこで発電された電気を使って居なかった福島県の人達だった。だから、処理水の海洋放出は首都圏から遠く離れた場所の事では無く、首都圏に住み電気を使って居た「私たち」にも関係することなのだと思う。
 無責任に風評を拡大する一端を担ったり「何と無く怖いから」と福島県産品を忌避するのでは無く、立ち止まって考える・情報を収集する努力をした上で、正しく恐れる理性を持ちたい。

 最後に「てっちゃん」と「もっちゃん」の言葉を紹介する。私は「消費者も電気のユーザーも一緒に考えて欲しい」と云うメッセージとして受け取った。


 4-10-24.jpg

        水産仲買人の飯塚哲生さん(写真提供  そうま食べる通信)4-10-24

 飯塚哲生さん 「海洋放出は結論ありきの出来レースだったんだろうなと云うのが正直な印象。自分はそこに振り回されたく無い。10人中3人は、兎に角福島のものは食べたく無い、話も聞く気が無いと云う人達だけれど、自分は残る7人の人に対して精一杯アプローチして、伝える努力をして来た。海洋放出でそれが6人、5人に減ってしまうとしても、自分がやることは変わら無い」


 4-10-25.jpg  

         漁師の菊地基文さん(写真提供  そうま食べる通信)4-10-25

 菊地基文さん 「震災以降、全てが風評在りきだから、海洋放出が決まった処で、何かが大きく変わる訳では無い。風評を吹き飛ばす位の新しい仕組みを作りたいし、地域の仲間と最高に面白い事をしたい。世界は動かせ無いかも知れないけれど、自分の子どもの心は動かしたいよ」

 汚染水の処理状況、廃炉への道筋に付いては東京電力・経済産業省がウェブサイトを通じて情報を公開して居る。専門知識が無くても理解で着る様なデータやグラフィックを使った分かり易い記述に為っている。住民の健康や安全を守る立場から、福島県も県内の多くの地点でのモニター情報を公開している。
 • 東京電力 : 処理水ポータルサイト
 • 経済産業省 : 廃炉・汚染水対策ポータル
 • 福島県 : 各種環境放射線モニタリング情報公開のポータル
 • 福島第1原子力発電所 : 廃炉情報誌



                 以上












2021年04月09日

中国海軍の空母が又も日本近海へ「挑発行動」我が国の防衛に「必要なもの」



 中国海軍の空母が又も日本近海へ「挑発行動」 我が国の防衛に「必要なもの」

 現代ビジネス 4/9(金) 7:02配信


          4-9-4.jpg

      「遼寧」が沖縄・宮古島間を通峡 4-9-4 写真 現代ビジネス

 防衛省統合幕僚監部の発表によると、4月3日に中国海軍の空母「遼寧りょうねい CV-16:65,000トン」を中心とする6隻の空母艦艇群グループが東シナ海から沖縄・宮古島間を通峡(南下)して太平洋へ進出した。同グループがこの海峡を通峡するのは2020年4月(南下)以来であり、初めて通峡した2016年12月(南下)から2018年4月(北上)・2019年6月(南下)と合わせると通算で5回目と為る
 即ち「遼寧」を基幹とする空母グループは、2018年以降年1回のペースで同海峡の通峡を兼ねた太平洋への進出及び外洋での演習を恒常化させて居ると云う事だ。

 これらを見ると、拙稿「中国の空母『遼寧』が日本近海通過、その事実が暗示する恐ろしい未来」で予想した通り、中国海軍は北海艦隊に於いて空母打撃群CVSG・Carrier Strike Groupを編成し、外洋に於ける運用能力を着実に向上させて来ていると見なければ為らない。
 今回の空母打撃群の編成は、空母「遼寧」の他、これを護衛する戦闘艦艇としてレンハイ(ミサイル巡洋艦13,000トン級)1隻・ルーヤン3(ミサイル駆逐艦7,000トン級)2隻・ジャンカイ2(フリゲート艦4,000トン級)1隻の4隻。そして、2019年(3回目)以降新たに加わった空母用の最新型補給艦である「フユ級高速戦闘支援艦(AOE-965 48,000トン)」の計6隻であった。

 過去4回と比較してその規模に変わりは無いが、今回注目し無ければ為ら無いのは、戦闘艦艇の主力に、昨(2020)年1月に就役したばかりのレンハイ級ミサイル巡洋艦「南昌なんしょう・CG-101 13,000トン」が加わって居た事である(参考)。  
 この「南昌」は、レンハイ級の一番艦で、中国海軍はこれを「055型駆逐艦」と呼称して居るが、満載排水量13,000トンと云う大きさとルーヤン3(大型駆逐艦)の倍近い112基もの垂直(ミサイル)発射装置(VLS)を搭載し、長射程の対地巡航ミサイル等を発射出来ること等から、米国防総省は本艦就役前の2017年5月の年次報告で、既にその艦級を中国初の「ミサイル巡洋艦(CG)」と位置付けて居るものである。  

 今年3月には、この「南昌」が他の戦闘艦艇(ルーヤン3及びジャンカイ2)を伴って初めて日本近海に出現し、対馬海峡を北上して日本海に入り1週間程日本海で活動して帰航した。 この時随伴していた「ルーヤン3 DDG-120」と今回の空母グループに加わって居た「ルーヤン3 DDG-120」が同一艦であることから、この日本海での活動は今回の空母打撃群による作戦行動(演習を兼ねた戦略的示威行動)の事前訓練を兼ねた、我が国への示威行動であったものと思われる。 編注「ルーヤン3」「ジャンカイ2」の数字はローマ数字

 初めての台湾周辺での演習では無い

 尚、統合幕僚監部は公式発表の中でこのレンハイ級を「駆逐艦」として居るが、米国防総省だけでは無く国際戦略研究所(英国)の年報「ミリタリーバランス」でもこれを「ミサイル巡洋艦」として居り、米軍を始めとするNATO諸国はこれを「ミサイル巡洋艦(CG)」と格付けしている。  
 恐らく、自衛隊でもインテリジェンス(情報)部門ではこれを「CG」に区分していると思われ、ここが配布する情報資料を基に活動する各自衛隊の運用部隊でもこれを「CG」として扱って居るものと推察される。では何故、公式な発表で防衛省がこれを中国の呼称通りに「駆逐艦」として居るのか筆者には分から無い。
 
 この発表によって、日本のマスメディアもこれに倣って居る様であるが、個人的には脅威を正確に伝える為にも、公表する際の呼称を改めて見直す必要があるのではないかと思っている。
 今回の空母打撃群が沖縄・宮古間を南下して太平洋へ進出した後、中国海軍の高秀成(こうしゅうせい)報道官は5日夜「空母『遼寧』の部隊が台湾の周辺海域で訓練を実施した」と発表した。この中で同報道官は「年度計画に基づく定期的な訓練で、部隊としての成果を確かめ、国の主権と安全、発展の利益を守る能力を高めるものだ。今後も常態的に同様の訓練を行う」と述べた。  

 実は、この様な台湾周辺における空母打撃群の演習は今回が初めてでは無い。昨年4月も同様に、これら空母打撃群が沖縄・宮古間を南下して太平洋へ進出した後、台湾の東部および南部沿岸を航行し軍事演習を行った。  
 この時は、中国海軍による発表は無かったが、台湾国防部がこれらの行動を逐一監視し「台湾の安全保障と平和・安定を確保する上で適切な行動を完全に遂行した」として、警戒監視活動を継続して居た事を明らかにして居た。

 着実に米軍との能力差を縮めて来ている

 これらの行動を見ると、ここ最近の空母グループによる示威活動の最大の目的は台湾に対する軍事的圧力に在ると考えられる。勿論、これに付随して我が国や米国に対するけん制の狙いもあることは間違いない。  
 特に今回は、空母「遼寧」の甲板上に少なくとも8機の戦闘機(J-15)と3機の哨戒ヘリと1機の哨戒機らしき航空機の搭載が確認され、昨年(戦闘機3機・ヘリ3機)よりも機種や機数が増加して居り、航空機の運用もそれなりに充実しつつあることを窺わせている。  

 もう一つ、見逃しては為らないのが今回の空母グループの沖縄・宮古間通峡に際し、中国海軍のY-9(対潜哨戒型)が空母グループの航路上をその航行に併せて哨戒飛行して居た事である。このY-9対潜哨戒機は、2019年3月に東シナ海で航空自衛隊のスクランブル機によって始めて確認された機体であり、この対潜哨戒機の運用が本格的に始まったのは比較的最近であると考えられる。
 従って、中国海軍の対潜能力は左程高いレベルには無いと見られるものの、今回は中国の沿岸から600nm・1100km近く離れた太平洋海域迄単機で進出し(何らかの目標に対して)洋上を哨戒(旋回飛行)している。この様に、空母打撃群の艦艇と連携してこの様な哨戒活動を実施したことは注目に値する。  

 これは、各種のセンサーから得られた関連情報を上級司令部や艦艇等と機能的なネットワークで繋ぎ、これを逐次入手しながら活動して居る事を窺わせるものであり、中国海軍の運用能力の向上を感じさせる事象と言え様。居得よう

 ---------- 参考https://www.mod.go.jp/js/Press/press2019/press_pdf/p20190320_01.pdf https://www.mod.go.jp/js/Press/press2021/press_pdf/p20210404_03.pdf ----------  

 中国海軍の現在の空母打撃群の作戦能力は、米国のそれと比べると未だ遥かに低いと云うのは間違いない。しかし「着実にその能力を縮めて来ている」と云う事も又確かである。

 「潜水艦の増強」が必要

 2019年12月には、中国初の国産空母「山東さんとう」も就役し、2020年には北海艦隊のある旅順周辺で、空母艦載機着陸訓練(FCLP・Field Carrier Landing Practice)を実施した後、12月には台湾海峡を南下して南シナ海で訓練を実施した。
 飛行甲板に電磁式カタパルトを装備して居ると見られる、3(国産では2)隻目の空母も2022年には進水する見込みである。中国は1996年の(第三次)台湾危機で、当時の米空母戦闘群(CVBG・Carrier Battle Group)2個グループによる威嚇(いかく)を受けて以来、驚異的な速度で空母や大型の戦闘艦艇を建造して来ている。

 我が国が今後益々これらの脅威に対応し無ければ為ら無く為る事は必至だ。では、どの様に対応するのが最も現実的なのだろうか。先ずは、何よりも米国との共同作戦能力を深化させることであろう。この為には、陸・海・空自衛隊が足並みを揃え無ければ為らず、統合作戦能力を向上させることも重要な要素となる。  
 次には、NATO諸国との共同作戦能力を向上させることであろう。これは、米軍との共同作戦の延長線上にあり、米軍が実施している「航行の自由作戦」に参加している国々との間で共同訓練を充実させることが求められる。既に、この様な訓練やこれらの運用に関わる法的整備も進められて居る様であるが、台湾情勢等も考慮してこれを更に拡大して行くが必要があろう。  

 最後に、我が国独自の防衛力について、全体的に強化して行か無ければ為らないのは勿論であるが、今後最も力点を置くべき能力は何かと為ると、筆者は「潜水艦の増強」だと考えている。  
 海上自衛隊は原子力潜水艦こそ持た無いものの、その保有する通常型潜水艦の作戦能力は歴史的にも技術的にもその知識が十分に蓄積されて居る事から「極めて高い」と各国からも評価されて居る。

 国防の見直しのラストチャンス

 只、数が不足している。2010年に出された防衛力整備の指針「防衛計画の大綱」で掲げられた22隻態勢が、2020年10月に進水した最新鋭の「たいげい型潜水艦」の一番艦「たいげい」が2022年3月に就役すれば要約整うと云う状況だ。
 空母打撃群が象徴する様に、この10年で中国海軍はどれ程進化を遂げたであろう。もう、この数ではとても十分とは言え無い。 空母が何よりも脅威とするのは潜水艦なのである。海上自衛隊潜水艦の作戦能力を考慮すると、これを増強するのが最も効果的であることは明らかだ。定期的なドック入りや平時における哨戒及び情報収集等の活動を考慮すると40隻程度は必要であろう。  

 現在、ミサイル防衛・BMDに関して、配備中止と為ったイージスアショアの代替としてイージス艦でこれを補う事が昨年12月に閣議決定されたが、もうBMDに関してこれ以上海上自衛隊に負担を掛けるのは辞めた方が良い。
 その分のエネルギーは潜水艦へつぎ込むべきだ。そもそも、イージス艦を(定点に留まる様な)BMDのミッションに投入するのは余りにオーバースペックなのである。海上自衛隊イージス艦の真価が発揮されるのは、何よりも米空母打撃群や多国籍の海軍艦艇と共同で作戦を遂行する場面だからである。

 米海軍やこの同盟国もそれを期待して居るだろう。これが、最も中国海軍が恐れる対応だからだ。BMDは陸地で対応するに限る。様々な検討を加えれば地上配備が出来無い筈は無いと思う。「イージスアショアの代替案」の様々な問題点に付いては、雑誌「軍事研究2021年4月号」で元航空自衛隊補給本部長の吉岡秀之元空将も「自民党国防部会の先生方の心配は杞憂か」と題して警鐘を鳴らして居られる。今年1年が見直しのラストチャンスである。是非、検討し直して頂きたい。

 文章 鈴木 衛士 元航空自衛隊情報幹部





 「日本は中国との条約を履行する義務がある」 日米首脳会談を前に反発する中国側の本音

  4-9-10.png 4/8(木) 18:31配信


 日米「2プラス2」で反発する中国 菅首相訪米に高い関心
  

 「日米には同盟関係があるが、日中も平和友好条約を結んで居る。日本は条約を履行する義務がある」中国の王毅国務委員兼外相は4月5日、茂木外相との電話会談でこう発言した。電話会談は中国側の呼び掛けによるものだったと云う。
 茂木外相は沖縄県尖閣諸島周辺での中国船の領海侵入、香港や新疆ウイグル自治区の人権問題等について深刻な懸念を伝え具体的な行動を求めた。 王外相は「日本側が香港や新疆ウイグル自治区等に関する中国の内政に介入する事に反対する」とし、日本の要求は内政干渉と撥ね付けた。

 一方、日中関係については「要約迎えた改善と発展の大局を大切にし、維持すべきであり、所謂大国間の対抗に巻き込ま無い事を確保すべきだ」と述べ、日本が米中対立に関わら無い様求めた。又「中国に偏見を持つ国のリズムに乗せられ無い様希望する」と、暗にアメリカに同調し無い様釘を刺した。
 日中の関係者からは「菅首相の訪米を前に言うべきことは言って置くと云うけん制ではないか」と云う見方が出ている。

 日本政府はアメリカ・ワシントンで現地時間16日、菅首相とバイデン大統領による初の対面での首脳会談を行うと発表した。これ迄に私が取材で面会した中国当局の関係者らの多くが、菅首相の訪米について熱心に尋ねるのを見ても関心の高さが窺える。
 切っ掛けと為ったとみられるのが、日米の「2プラス2」外務・防衛閣僚会議だ。発表された共同文書では名指しで中国に言及し中国の海洋進出などに懸念を表明した。これに対し、中国外務省は日米両政府に「内政干渉だ」と抗議したことを明らかにした。
 更に「中国の発展を阻止したいと云うエゴを満足させる為、人の顔色を窺い、アメリカの戦略的属国に為っている」と日本を強く非難した。その後も日中の防衛会合で国防省が日本を非難する等、中国側は反発を強めている。それでは中国側は日本との関係悪化を望んでいるのか。

 日本に対米警戒を呼び掛ける中国メディア

 「日本は警戒を怠っては為ら無い。米国は只では守って呉れ無いだろう。その為に日本は『高額な勘定』をする事に為る」 これは中国国営メディアの1つ、中国国際放送局CRIがインターネット上に掲載した評論記事の一部だ。日米の「2プラス2」を受けて3月18日に掲載された。
 中国国営メディアは中国共産党や政府の「喉と舌」とも言われ、当局の方針を宣伝したり世論を誘導する役割も担って居る。記事は日本語で書かれて居て、日本向けに中国側の立場や主張を宣伝する狙いがあるとみられる。

 記事は「隣国である日本は、地域経済の一体化と中国との経済貿易協力から大きな利益を得ている。米国による中国封じ込め戦略の手先と為るなら、経済面で莫大な代償を支払う事に為るだろう」と日本に警告を発した。
 その上で「米国の新政権は同盟国との『共通の価値観』等と云った決まり文句を好く使うが、最優先に確保するのは間違い無く米国ファーストの利益だ」と指摘している。同盟国として中国抑止で歩調を合わせる日米両国に、少しでも楔を打ち込みたいと云う思惑も透けて見える。

 中国共産党系メディアの関係者は「習近平指導部は、対立するアメリカをけん制する意味でも日本との関係は改善して行きたいと考えている」との見方を示す。又、別の関係者は「中国側の対日関係改善と云うスタンスは当面変わら無いだろう」と指摘。その理由として或る会談に関する中国での報道振りを挙げた。

 緊張も孕む日中関係 報道振りで判る? 中国側の本音


4-9-6.jpg

                  垂駐中国大使 4-9-6

 関係者が指摘したのは、垂(たるみ)駐中国大使と中国共産党でトップ25に当たる政治局委員との会談だ。垂大使は3月18日から3日間の日程で、着任後初めての地方出張として天津市を訪問。周恩来元首相の母校である大学を訪れて講演し、日中関係の重要性を強調すると共に、学生に写真をプレゼントする等、現場は和気藹々のムードに包まれて居た。
 しかし、その後、政治局委員であり、天津市トップの李鴻忠書記との会談では、李書記から日米の「2プラス2」を強く非難する発言が飛び出したのである。

「我々の香港・新疆・台湾の関連する事に干渉することは好い方向に向かって居る中国と日本の関係に取って深刻な破壊である」

 北京に在る日本大使館関係者は「2プラス2の直後だったので話題に出るかも知れないと思っていたが、まさかカメラで撮影している会談の冒頭で出るとは思わ無かった」と話す。一方、中国側の関係者は「李書記は上層部と相談した上で発言したのだろう。これは日本への警告だ」との見方を示した。
 垂大使は天津市に続き、その2日後には新型コロナウイルスの感染が最初に拡大した湖北省武漢市も訪問した。現地では応勇湖北省書記と会談し、武漢封鎖当時のチャーター便による日本人帰国に関する協力に付いて謝意などを伝えた。
 湖北省の地元テレビ局はこの会談について「経済貿易の往来を強化し、多くの領域での実務的な協力を深めて行く」と好意的に報じた。

 一方、書記が日本非難に言及した天津市の訪問は、地元メディアも含め一切報道が見つから無いのである。中国では国内メディアの報道は当局の方針により事実上統制されて居る。では何故、報道対応が分かれたのだろうか。
 FNNの取材では垂大使の湖北省訪問について、日本側が事前に中国側に対し天津市での様な日本非難は控える様に求めたことが判明して居る。日中の関係者からは「中央から統一指令が出て居た訳では無いのではないか」と云う見方や「アメリカと歩調を合わせる日本に対して釘を刺すものの、日本との友好ムードを完全には壊したくな居と云う配慮が働いたのではないか」と見る向きもある。

 中国側としては、香港や新疆ウイグル自治区での人権問題等で、アメリカやヨーロッパなどと対立が深まる中、日本を出来る限り中国に繋ぎ止めて置きたいと考えて居る様だ。
 垂大使は1月、FNNのインタビューで日中関係について「極めて脆弱な関係にあり、何時でも何か物事・事件・事故が起きれば直ぐに大きな影響を及ぼしかね無い関係」と指摘。安定した関係を構築する必要性を訴えた。
 米中対立の煽りで緊張も孕む日中関係、今後は米中の狭間で日本が難しい選択を迫られる可能性もある。先ずは16日の日米首脳会談が試金石と為りそうだ。

 【執筆 FNN北京支局 木村大久】 木村 大久

                      以上





 NHK NHK政治マガジン 中国が警戒する男 大使に為る


 NHK NHK政治マガジン 2020年10月14日 特集記事


 「中国当局が警戒する人物」と評される外交官が、新内閣の発足と時を同じくして新しい中国大使に任命された。その名は垂秀夫(たるみひでお)、巨大国家が警戒する程の能力とはどの様なものなのか。そして、課題が山積する対中外交の最前線に立つ今、何を思うのか。

 北京赴任直前の垂に単独インタビューで迫った。中国大使に起用へ・・・7月15日、NHKは朝のニュースで、新しい中国大使に外務省の垂秀夫(59)が起用される方向だと報じた。偶々だったが、その日の午後、私は当時官房長だった垂に面会のアポイントを執って居た。
 当局の発表前に流したニュース、把握して居るだろう、どう思って居るだろうか・・・恐る恐る部屋を訪ねると、垂はメガネを外し目を擦りながら「お陰様で寝不足だよ」と大きなアクビをした。放送を見た政治家や知り合いから、事実関係の確認やお祝いの電話が次々に掛かり、朝早くから大変な思いをしたのだと云う。

「それはご迷惑をお掛けしました」
「気にされることは無い。でも、これでもし大使に為れ無かったら、NHKさんで雇ってくださいよ」

 垂はそう言って豪快に笑った。垂の人柄に私は魅力を感じた。大使就任が正式に決まった折には、インタビューを申し込んでみようと決めた。

 何と無く中国

 「中国関係を永く遣って来た人間として、大使に為るのは非常に光栄だ。積み重ねて来た知見・経験・人脈・・・今発揮しないと、これ迄何の為に遣って来たのかと為る。私を養って呉れたのは日本国民の税金。国民にお返しする為にも、中国との関係で確り仕事をして行く」

 中国大使への就任が正式に決まった後、垂はNHKの単独インタビューに応じ、赴任への意気込みを語った。垂の経歴は異彩を放っている。大学時代ラグビーに打ち込んだ垂は、外務省入省後それ迄全く学習経験の無かった中国語を専門の語学に選んだ。以来、南京大学への留学を経て赴任地は北京・香港・台湾と云う中国語圏のみ。台湾は2回、北京での勤務は今回で実に4回目と為る。
 外務省の中国語研修組、所謂「チャイナスクール」の中でも、中国語圏以外に一度も赴任し無かったのは極めて異例だと云う。何故中国語を専門としたのか。そう尋ねると拍子抜けする答えが返って来た。

 「深い理由も無く、何と無くで決めた。何と無く中国って大事なのかなって。でも、偶々だけど、中国と云う国は自分の性分に合ったんだと思う」

 中国を究めたい

 何と無く選んだ中国語。そんなスタートだった事もあってか、チャイナスクールの中で垂は当初、必ずしも目立つ存在では無かったと云う。しかし外交官としての精力的な活動が周囲の見る目を変え、エースに駆け上がって行く。北京赴任時代を垂はこう振り返る。

 「能動的に人に会った。或る1年を数えてみたら、年間で300回以上中国人と食事をして居た。昼、夜、必ず誰かと食事し、自宅で食事したのは月に1回位だった。飲みにも行ったし、中南海(=中国政府や中国共産党の中枢)の人とゴルフを一緒に遣ったりもした。兎に角色々な事を遣って来たのは事実だ。今の若い人達には勧められ無いけどね」

 人脈を作って誰よりも早く情報を捕る。その為に垂は、寝る間を惜しんで中国人と付き合ったと云う。要人とカラオケに行き、飲んだ後はサウナにも一緒に入った。人間同士の付き合いをトコトン迄突き詰めた。中国勤務から離れていた期間にも、年に3回は北京や上海に飛び人脈の「メンテナンス」に努めた。
 こうした人脈作りを地道に続けた結果、時として、外国人では知り得無い筈の人事や機密情報を耳にする事もあった。そんな時は、どんなに遅い時間でも大使館に戻り本省へ公電を打ったと云う。幅広い人脈を構築した垂の功績はチャイナスクールの外交官の間で語り草に為って居る。

 「中国共産党の内部情報にどれだけ食い込めるかと云う事をズッと遣っていた。所謂民主活動家や、反共産党の様な人達とも『付き合わ無きゃいけ無い』と言って、幅広く接触して居た。後にも先にも、こう云う人は出ないだろう」
 「インターネットもSNSも無い時代に、手紙を書いたり贈り物をしたり、そう云う事を本当にマメに遣っていた。私費も相当継ぎ込んで居た」
 「ここ10年、チャイナスクールの外交官は、垂さんの築いた人脈を辿って仕事をして居る。新規開拓し無ければなら無いが、垂さんの壁はナカナカ越えられ無い」


 垂のモチベーションは一体、何処から湧いて来たのだろうか。

 「お国の為と云う気持ちが今ほど在ったかと云うと、30代位の時はそうでは無かった。寧ろ、中国に付いて誰よりも知りたいと云う個人的な気持ちの方が強かった。中国通に為りたい、中国を究めたいと云う気持ち。それに尽きると思う。叱られるかも知れないが、芸術家や職人がその道を究めたいと思うのと、もしかしたら同じじゃないかな」

 戦略的互恵関係

 誰よりも人に会い中国に精通した垂。その努力が結実した忘れられ無い瞬間があると云う。日中関係が冷え込んで居た小泉政権下の2006年夏、垂が東京で対中政策とは直接関わりの無い部署に居た時の事だ。当時の外務事務次官・谷内正太郎に呼ばれ、こう言われたと云う「もう直、安倍晋三総理が誕生する。日中間の新しいコンセプトを考えて欲しい」

 垂はこう振り返る「谷内さんと云うのは面白い人で、余り肩書とか担当に関係無く、使えると思った人間を一本釣りして特命を与える処があった」10日間程懸けて垂が考え付いたのが「戦略的互恵関係」と云う言葉だった。
 様々な懸案はあってもそこで対話を辞めてはいけ無い。お互いの戦略的な利益の為に意思疎通を続け、日中関係の発展を目指すべきだ・・・と云う垂なりの思いが込められて居た。当時の中国課長・秋葉剛男(現・外務事務次官)の了承を得て谷内にこの案を見せると、谷内は「これだ、これで行こう」と言い、そのママ官房長官だった安倍に会いに官邸に向かった。

 官邸から戻った谷内は、一言「アレ、採用に為ったから」と言ったと云う。この年の9月に総理大臣に就任した安倍は、翌月、初めての外国訪問として中国を訪問。国家主席の胡錦涛に「戦略的互恵関係」を提起した。今でも日中関係を示す上で欠かせ無いキーワードに為っている。

 「安倍総理大臣の訪中は日本で見ていて、NHKや各社の報道で『戦略的互恵関係』と云う言葉が踊った時は胸が熱く為った。外部環境に影響されずに付き合って行く事がお互いの戦略的利益だと確認し、安定的な関係を構築して行くこと。これが矢張り大事だと思う」

 台湾政界の厚遇

 垂のキャリアを振り返る上で外せ無いのが台湾での勤務経験だ。1972年に日本と台湾が正式な外交関係を絶って以降、外務省の所謂キャリア官僚で台湾に2度勤務したことがあるのは垂だけだ。垂の仕事の遣り方は台湾でも変わら無かった。台湾の政権幹部に緻密に人脈を張り巡らせた。そして、多くの要人から親しまれた。
 これは、垂が2度目の台湾勤務を終えようとして居た2年余り前、台湾の当時の副総統・陳建仁(ちん・けんじん)が、自らのFacebookに公開した写真だ。垂が陳に対し、展示されて居る写真を説明して居る様子が映って居る。

 垂は外交官人生で最も忙しかったと振り返る中国・モンゴル課長時代に趣味で写真を始めた。物事をトコトン迄突き詰める性格は趣味の世界でも反映された様だ。その腕はプロ級として知られ、受賞作品は400点以上に上る。中でも、2014年の年末に千葉県君津市の山あいで撮影したこの写真は、翌年のフォトコンテストで環境大臣賞を受賞した。
 北京に赴任時代も、足繁く地方に通い大陸の優美な自然を数多く写真に収めた。台湾でもシャッターを切り続けた垂の写真家としての腕は、垂が懇意としていた台湾の要人の目に留まった。そして、垂の作品を集めた個展が、台湾側の主催で開かれる迄話は一気に進んだ。

 個展は、日本の総理大臣官邸に当たる総統府で開かれ、開幕式には陳も訪れた。陳は、開幕式に訪れた人達に或る写真集を配布した。台湾そして日本で垂が撮影した作品、およそ70点をまとめた写真集で、個展の開催に併せて台湾側が費用を出して作成したものだった。
 写真集の冒頭では、台湾政界の重鎮が推薦の言葉を寄せて居る。日本の官房長官に相当する総統府秘書長等を歴任し、台湾側の対日窓口機関である台湾日本関係協会の会長を務める邱義仁(きゅう・ぎじん)だ。

 「垂さんは『最も幸せな瞬間、それは互いの心が通いあう時』と語って居ます。読者の皆さまが、作品を通じて垂さんと心を通わせ人生の幸せなひと時の思い出が蘇る事を願って居ます」

 台湾で心を通わせて居た一人だった邱義仁を垂は「親友」と呼ぶ。垂の希望で、個展はメディアには公開されず写真集も市場に出ることは無かった。垂は台湾政界の厚意が詰まった写真集を、今も大切に保管している。

 中国に睨まれる

 フットワーク軽く中国共産党の中枢に飛び込み、台湾での人脈も太くした垂は、中国からすると可成り目立つ存在だったのは間違い無い。何者の仕業かは判然としないが、何度も脅しを受けた他、自宅のファックスが鳴り続け延々と白紙が排出される嫌がらせも受けたと云う。
 垂は中国当局からの盗聴に備え、携帯電話を何台も所有し携帯電話に差し込む「SIMカード」と呼ばれるICカードは頻繁に使い捨てた。2013年、北京の大使館で政治担当の公使を務めて居た垂は、外務省本省からの指示で任期途中で緊急帰国した。

 帰国の理由は明らかにされて居ないが、政府関係者の多くは、中国側が垂の情報収集能力を警戒し監視を強めたことが関係していたのではないかと推測する。今回の垂の大使就任に当たって、中国側が就任に同意しないのではないかと云う懸念の声が出た程だ。
 垂自身は、緊急帰国の真相を公に語ったことは無い。今回のインタビューでも「答えられ無い」と事前に釘を刺された。一方で、中国側が垂を警戒して居ると云う見方については、こう答えた。

 「中国はアア云う国なので、一般論としては外交官もメディアも皆警戒されて居る。一方で中国は奥深い国で、警戒して居る人からも意見を聞こうとする。台湾関係を担当した人は中国に嫌われると云う話も一般論としては在るが、台湾を好く知って居て、尚且つ日本人と云う事で『直接話が聞きたい』と言って來る中国の要人も居た。中国人に聞く耳はあるんです」

 政府内には、垂がチャイナスクールの中国通で在りながら、中国に厳しい姿勢を執る数少ない対中強硬派だと観る人も居る。垂は「確かに厳しいことは好く言う」と笑った上で、こう強調した。

 「中国に付いて可笑しいと思うことは皆が感じて居る事だ。その事をどう遣って中国に伝えるかと云うのが大事で、人脈を作ってチャンと伝えて挙げれば好い。お互いに国益がブツカル事もあるが、妥協の余地が在るのか無いのか。協力すべき空間が在るのか無いのか。それを探すのが外交だ」

 視界不良のなかで

 菅総理大臣は、日米同盟を日本外交の基軸に据える一方、中国との安定的な関係の構築も目指すとしている。しかし、その道のりは不透明に為りつつある。「正常な軌道」に戻ったとされる両国関係は、新型コロナウイルスの感染拡大を機に足踏み状態にあり、関係改善の象徴に為ると期待された習近平国家主席の日本訪問も延期されたママ、日程調整すら出来ない状況が続く。
 東シナ海や南シナ海への海洋進出「新冷戦」と呼ばれる程激しく為る米中の対立・統制を強める香港情勢等、中国を巡る問題は枚挙に暇が無く、日本国内の中国に対する視線も厳しさを増している。

 外務大臣の茂木敏充は、日中関係が不透明感を増す今だからこそ、中国に精通した人間が中国大使を務めるべきだと判断し垂を選んだ。しかし、垂の置かれる環境は過つて無く厳しい。対中外交で具体的な成果を上げられるのか、視界が開けて居るとは云い難い。

 日中関係は「人間ドラマ」

 インタビューで垂は、これ迄の日中関係を急激な改善と悪化を繰り返す「ジェットコースターの様なもの」と表現し、それ故「一喜一憂すべきでは無い」と指摘した。そして「戦略的互恵関係」に基づき外部環境に影響されず、50年100年と長期的に安定した関係が築ける様努力して行く必要性を強調した。
 私には、そう力説する垂が、日中間の深い人付き合いに再び関われる喜びを隠せ無いで居る様にも見えた。インタビューの最後に聞いた大使としての抱負からもそれは滲み出ている様に思う。

 「是非遣りたいのは、日本をプロモート(宣伝)する事だ。民主主義が確りと根付いて、自由が享受出来る日本の魅力を中国の1人でも多くの人にプロモートしたい。実は日中の間には、魂と魂が触れ合う様な人間ドラマが沢山ある。
 その人間ドラマが織り為すのが日中関係であり、魂と魂がブツカリ合う物語は今後も続く。私も物語の参加者の1人として、中国の社会が、昨日より今日、今日より明日、良く為って行くことを強く希望している」

 垂は11月に北京に赴任。習近平に面会する際には、自ら撮影した日本の美しい風景写真をお土産として持参し、早速日本をプロモートする積りだ。(文中敬称略)


     4-9-7.jpg 4-9-7

 #「中国」をNHK政治マガジン記事で深掘り 政治部記者 山本 雄太郎
 2007年入局 山口局を経て政治部 現在は外務省担当 茂木大臣の“番記者”

              以上


















「コロナ第4波」対策に期待出来無いことを 国民が一番知っているワケ




 「コロナ第4波」対策に期待出来無いことを 国民が一番知っているワケ

  鈴木貴博 2021/04/09 06:00


       4-9-1.jpg 

 コピーライトマーク ダイヤモンド・オンライン 提供  今の「コロナ第4波」対策では感染者が減ら無い事に国民は気付いている(写真はイメージです) Photo:PIXTA 4-9-1


 「コロナ第4波」の拡大は 企業の経営崩壊の現場に似ている

 私はこれ迄経営コンサルタントとして、経営崩壊の現場を幾つも経験して来たのですが、そう云った時の共通の現象として、トップの思考停止が起きるのを何度も見て来ました。それと同じ光景を見ている気がします。大阪や宮城の「コロナ第4波」が、全国に拡大しないかどうかの瀬戸際の状況にあることに付いての話です。
 思考停止とは、要するに対策がルーティン化することであり、かつその対策には効力が無いと云う可能性から目を背ける事です。
 まん延防止措置が執られる事に為った大阪では、街頭のインタビューで市民が「普通に今の対策じゃ減ら無いと思う」と答えて居る事が、恐らく真実を突いていると思います。「裸の王様」の寓話と同じで、市民だけが本当の問題に気付いている状態です。

 議論を進める前に、実に興味深いデータがあるので紹介したいと思います。グーグルが提供するGPSデータなのですが、一言で言えば東京とその近郊だけが自粛を続けて居て、それ以外の道府県は人出が多過ぎるのです。
 直近、4月2日のデータによれば、東京都の飲食店や小売店エリアの外出状況をコロナ以前と比較した数字では人出は26%減です。これは緊急事態宣言発出中のマイナス30%台と比較して、若干緩んでは居るもののそれでも未だ自粛が明確に続いて居る事を表す数字です。
 同様に東京では、ターミナル駅の人出が30%減・職場が25%減、確かに都内の電車は座席に座る事が出来る位には空いているしZoom会議やリモート出社も続いて居ます。

 それと比べて大阪府は飲食店・小売店エリアの人出が16%減・乗換駅は21%減・職場は14%減と自粛が弱い。実は、これは宮城県も同様ですし、東京以外の全国平均も大体同じ水準です。詰り菅首相や西村大臣・小池知事の監視の目が光って居る処に置いてだけ、日本人は大人しく自粛命令に従って居て、それ以外の場所では気が緩んで居ると云う事がデータから見て取れるのです。

 取り締まりの厳しく無い場所へ 国民が逃げて生じる「予想外の密」

 処で、このデータの一番興味深い処はそれだけではありません。グーグルの調査ポイントの中に「公園」と云うカテゴリーがありますが、東京の公園への人出が14%減なのに対して、他の府県ではコロナ以前よりも総じて増加して居ます。大阪は4%増・全国平均は8%増、そして宮城に至っては25%増に為って居るのです。

 詰り法律で「20時で営業停止」「21時迄に緩和」と煩く言われている場所から市民が逃げて居るだけで、他の所に新たに「密」が出来ている。実際に市井で暮らす人々はそのことが判って居るから「普通に、今の対策じゃ減ら無いと思う」とインタビューにコメントする訳です。

 官邸や都庁にいて、歌舞伎町や銀座のガラガラ具合だけを目にしている行政側の人達は、自分のお膝元以外の日本各地で「無言の市民の反乱」が起きて居る事に気づか無いのです・・・それが、思考停止と云うものです。
 そして「緊急事態宣言」と云う言葉を「まん延防止措置」にスリ替えて同じ対策ばかりを繰り返している。官僚は上から言われた事を遣って居れば叱られ無いのでそれで好い。

 これと似た事が、冒頭で述べた様に経営が崩壊する現場では本当に毎回起こる。私達経営コンサルタントが「思考停止」と呼ぶ状況が、コロナ対策の現場にも起きて居るのです。
 では、何がまずいのでしょうか。コロナ対策で思考停止が起きて居ることに付いて、拙い点が2つあります。表面的なことより本質的なことの2つですが、先ず表面的なことから整理してみます。

 表面的な話とは「接触を減らさ無ければ新型コロナのまん延は抑えられ無い」と云う事です。昨年の緊急事態宣言時には、日本全体でターミナル駅の人出は46%も減って居ました。だから昨年の第1波は収束した訳です。
 それに比べて今回は、データを見れば明らかに「コロナ慣れ」が起きていて人出が大して減っていない。昨年の4月末は、コロナ陽性者が何人の人に感染させるかを示す実効再生産数が0.5台まで下がりましたが、今年の4月上旬の数字は全国で1.25・大阪府は1.64です。

 接触を減らすには職場のリモート推進も徹底させるべきですし、休日には繁華街だけで無く公園に外出する息抜きも本当は控えさせるべきです。しかし、そうした厳しいことを強制すれば、当然市民も企業も反発します。

 不十分だと判って居ても 飲食店や若者を狙い撃ちする「思考停止」
 
 そこで、思考停止が起きます。効果が不十分だと判って居ても、飲食店だけを狙い撃ちして営業時間を20時迄に抑える。それで感染者が減ら無いと、メディアに「若者が犯人だ」と言わせる。これは実は、若者に対するヘイトスピーチです。本当は中高年だって、マスクを外して騒いでいます。
 遂先日も、私が夕食に訪れたお店で新宿区の教育関係者とオボシキ団体が酒を飲み大騒ぎして居ました。お店の人が何度も「他のお客さんの迷惑に為るので辞めてください」と下座の幹事さんに懇願するのですが、一番年長と思われる6〜70代のお偉いさんが奥の席で泥酔して大声を出しており、組織の力関係の所為か、誰もそれを止められ無い様でした。

 私はジャーナリストではありませんが、この様に「迷惑な中高年だって、若者と同じ位数は多い」と云う事はキチンと「報道」して置こうと思います。
 
 さて話を戻すと、飲食店対策だけでは総合的に見て役に立た無いとしても、現状の打ち手が印象操作だけの対策に為って居るのが判って居たとしても、そこだけに予算が着いているので、遣らざるを得ない。
 一方、その他の対策である職場の出社制限も市民の外出制限も予算が無いから手を着け無いのです。そう遣って思考が止まって居る限りは「役所は遣れることは遣ったが、残念ながら第4波が来てしまった」と云う未来が訪れることは当然予測された訳です。

 そしてもう1つ、この問題にはより本質的なポイントがあります。これは随分以前から私だけで無く多くの方々が問題提起して居る事ですが、コロナまん延防止と経済のどちらを優先するか、態度をハッキリさせた方が好くて、まん延防止だけがこの問題のゴールでは無いと云う点です。

 裸の王様に「王様は裸だ」と叫んだ子供の気持ちに為って断言させて頂くと、日本は今回の第4波だけで無く、この先の夏の第5波も防ぐ事は難しい筈です。理由は、ワクチンの供給を海外に頼っている関係でワクチン接種が遅れて居るからです。

 人口100人当たりの接種回数で見ると、世界で一番進んで居るのがイスラエルで、既に100回を超えています。一般的に、接種は1人2回必要だとされるので、100%の接種率に為るには人口100人当たり200回の接種が必要です。
 これに次ぐのがアメリカやイギリスでホボ50回超と為って居ます。こう云ったワクチン接種が進んだ国では、この夏の旅行が解禁に為る等経済が復興する方向に動いて居ます。欧州ではイギリスが進んでいる一方で、ドイツ・フランス・スペイン等の大陸部では20回弱と接種が遅れ、その事で政権が非難を浴びています。

 各国の状況と比較して日本がどうかと云うと、直近で人口100人当たりの接種回数は1回。そもそもワクチンを外国から買っている以上、こうした低い水準に為るのは当たり前です。この様な理由があって、結果だけ言えば、世界の先進国から見て日本は滅茶苦茶ワクチン接種が遅れて居る訳です。

 ワクチンが入って来なくても 医療崩壊を食い止められる日本の特徴

 そして此処が問題なのですが、ワクチンが入って来ない以上、暖かい季節が来て人出が増えれば新型コロナは間違い無く増加します。これが、日本の抱える構造的な問題です。しかしもう1つ、日本人は何故か欧米人と比べて、新型コロナの感染でも重症化率が低いと云う「ファクターX」の効果があることが、この1年チョットの経験から判って居ます。
 だとしたら、これから平均気温が高く為る5月以降の新型コロナの拡大局面では、昨夏同様に医療崩壊を起こさ無い可能性が考えられる訳です。

 そこで原点に話が戻りますが、そうした状況を見据えた上で、コロナまん延防止と経済のどちらを優先すべきかを、政府が何故キチンと判断しないのか・・・その点コソが、私は思考停止問題の本質だと思うのです。
 思考停止の状況に於いては、医療出身の尾身茂博士氏が政府の感染症対策分科会会長をしている限り、対策は自動的に「例え経済が悪化しても、まん延防止に重点を置く」事に為ります。

 経産省出身の西村大臣もコロナ対策担当なので、ミッションとしてはまん延防止にどうしても重点を置いてしまう。詰り、その更に上のトップが判断し無ければ、コロナ対策はまん延防止寄りで思考停止してしまうと云うメカニズムにあるのです。
 大阪・宮城の第4波を封じ込めたいなら、まん延防止の様な緩い方針では無く徹底して封じ込めるべきですし、それが出来ないと判って居るのであれば、表面的な対策だけで余り飲食店を虐めて欲しく無いと思います。

 現状の対策が続くだけでは 「暗い未来」しか見えない

 これから先、2021年の日本の未来はどう為るのでしょうか。この後、段々暖かく為って、政府や都や府県からは中途半端で実効性の無い営業時短が繰り返される中、市民は仕方無く公園に出かけてウサを晴らす・・・去年に続いて、今年もそんな春と夏を迎えることが現状の延長線上に予測されます。
 賛否は分かれるかも知れませんが、それ位ならリスクを割り切って思い切った行動を執ると云う選択もあるかも知れません。勿論、感染対策を徹底すると云う前提ありきですが、五輪会場で国民が思い切り声援を上げると云う未来も考えられるでしょう。

 しかし、このママの対策が続くだけでは、唯々暗い未来が訪れそうだと云う点を、私は残念だと思うのです。読者の皆さんはどう思われますか。

              百年コンサルティング代表 鈴木貴博 

              4-9-2.jpg 4-9-2

 経済評論家の鈴木貴博です 2015年から個人会社形態に移行してコラム・書籍・メディアでの活動に力点を移しました 文化人として芸能事務所アスリート・マーケティングに所属しています 最新の活動状況はブログで情報発信しています ぜひ宜しくお願いします。

 プロフィール 経済エンタテナー 経営戦略コンサルタント 百年コンサルティング株式会社代表取締役

 大手企業の経営コンサルティング経験を基に 2013年に日本経済新聞出版社から出版した『戦略思考トレーニングシリーズ』が累計20万部を超えるベストセラーに この本は「ビジネスモデル版 頭の体操」と呼ぶべき内容で、殆どの大企業の経営企画部でバイブル的に利用されている 2015年からは経済評論家の仕事に力点を移す 

 1986年に東京大学工学部物理工学科を卒業 世界最高の経営コンサルティングファームであるボストン・コンサルティング・グループに入社し数々の大企業の戦略立案プロジェクトに従事 1999年のネットバブルの際にネットイヤーグループ(東証マザーズ上場)の創業に取締役として参加  2003年に独立し百年コンサルティングを創業 専門は未来予測と大企業の競争戦略
 
 ダイヤモンドオンライン・東洋経済オンライン・プレジデントオンライン・現代ビジネスなど主要なメディアに連載を持ち、月間の総PVは100万PVを超える メディア出演歴多数 出演番組等はウィキペディアの本人ページ参照
 私生活ではメディア関係者の地下クイズサークル『夜会』に所属 得意ジャンルは未解決事件とオカルト・都市伝説 過去『パネルクイズアタック25』で優勝 『カルトQ』などクイズ番組出場経験も豊富  第四代地下クイズ王 1962年生まれ 愛知県出身 著書は20冊以上 雑誌・Web等に寄稿・連載多数

                   以上





















2021年04月08日

ソウル・釜山市長選与党惨敗 大統領レームダック加速へ 韓国

 

 〜今回は久し振りにお隣・韓国のニュースから〜


 ソウル・釜山市長選 与党惨敗 大統領レームダック加速へ 韓国

 時事通信 2021/04/08 07:27


           4-8-12.jpg

 4-8-12 コピーライトマーク 時事通信提供  敗北した韓国の革新系与党「共に民主党」の朴映宣・前中小ベンチャー企業相 6日 ソウル(AFP時事)


 【ソウル時事】来年3月の韓国大統領選に影響する首都ソウルと第2の都市釜山の市長選が7日行われ、何れの市長選でも「文在寅政権の審判」を訴えた野党候補が圧勝与党は惨敗した。与党候補が共に敗北を受け入れる考えを示した。

 与党は不動産価格の高騰や公社職員らの不正土地投機疑惑等で逆風下の選挙戦と為った。文政権下の大型選挙で与党が敗北するのは初めてで、任期終盤に差し掛かる大統領のレームダック(死に体)化加速は不可避。「被害者中心主義」を掲げる文政権が、徴用工問題等で原告や世論の反発を押し切って日本に譲歩するのは一層難しく為りそうだ。


      4-8-11.jpg

 4-8-11 コピーライトマーク 時事通信提供 韓国の保守系最大野党「国民の力」の呉世勲・元市長 6日 ソウル(AFP時事)

 ソウル市長選は保守系最大野党「国民の力」の呉世勲・元市長(60)が革新系与党「共に民主党」の朴映宣・前中小ベンチャー企業相(61)に勝利。釜山市長選は李明博政権元高官で国民の力の朴亨剋=i61)が与党の金栄春・前海洋水産相(59)を破った。
 何れも与党候補が3〜4割程度の得票に留まったのに対し野党候補は6割前後の票を獲得した。呉氏は「新型コロナウイルスや経済難で苦しむ市民を考えると重い責任を感じる」と強調。朴亨剋≠ヘ「選挙で表れた民心に従い国政を大転換する契機に為る事を願う」と語った。

                    以上 





 反日色強い文在寅氏の支持者 求心力弱まれば対日懸案の解決「一層困難に為る」

 読売新聞 2021/04/08 07:02


 【ソウル=豊浦潤一】ソウル・釜山両市長選で韓国の文在寅(ムンジェイン)政権の与党が敗北すれば、文政権のレームダック(死に体)化が進み、外交の推進力も低下するとの見方が強まって居る。

 対日関係を巡って文大統領は、最大の懸案である元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)訴訟や元慰安婦訴訟問題の外交による解決を目指す姿勢を見せている。しかし、元徴用工訴訟では、被告の日本企業の賠償に拘る一部の原告を説得出来ていない。
 文氏の支持者は原告らと同じく反日色が強い。文氏の求心力が弱まる事で「支持者の意向に反する決断は一層困難に為る」(韓国の日韓外交専門家)と観られる。

 文氏は一方で、政権浮揚と大統領選勝利に向けた起死回生策として、来年2月の北京冬季五輪開会式に合わせた南北首脳会談を模索する可能性がある。習近平(シージンピン)政権が北朝鮮との仲介に動いた場合、文氏が対中傾斜を強める展開も予想される。

                   以上




 30年経っても変わらず 韓国が日本に求めて来た謝罪と賠償請求の歴史を紐解く

 4/8(木) 6:00配信


         4-8-8.jpg 

      文在寅・大統領 過去の大統領と同じようにちゃぶ台返しを繰り返した 4-8-8

 韓国外務省が3月29日に1990年前後の外交文書を公表したことを受け、当時の大統領・盧泰愚(ノ・テウ)関連の記事が取り上げられた。中でも注目を集めたのが「韓国が日本へ強いお詫びの表明を求めた」と云うものだった。
 振り返れば、韓国の歴代トップは日本に謝罪と賠償請求を断続的に行って来た。改めて、その歴史を紐解いてみたい。

 今回、メディアが紹介した盧泰愚関連の記事の見出しを並べて置くと、以下の通りである。

  韓国、90年に強いお詫びの表明求める(2021.03.29 共同通信)
  日韓が韓国軍機の領空侵犯の非公表で一致(2021.03.29 共同通信)
  盧泰愚政権「日朝進展を制止」 90年の金丸訪朝で警戒強める 韓国外交文書(2021.03.29 時事通信)
  初の韓国・ソ連首脳会談は「太白山」の暗号名で極秘裏に推進された(2021.03.30 ハンギョレ)  

 最も注目された「韓国、90年に強いお詫びの表明求める」とは、ザックリ言うと、盧泰愚の訪日前、韓国政府は日本政府に天皇陛下(現在の上皇さま)の強いお詫びを要望、その内容を見極めた上で盧泰愚が日本滞在中に陛下に訪韓を招請する段取りだったと云う内容である。  
 1984年に全斗煥(チョン・ドゥファン)が大統領として訪日した際、昭和天皇は「両国間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾」とお言葉を述べられたのだが、その表現では「(韓国の)国民感情を解消するのは不十分」とし「より具体的で強いおわび」を要望していたのだ。  

 これを受ける形で、1990年5月、陛下は「昭和天皇が『今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない』と述べられた事を思い起こします。我が国によって齎されたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」とお言葉を述べられている。

 逆ギレした初代大統領

 盧泰愚に限らず韓国の歴代大統領と云うものは、前政権を否定して自身のポジションを確立させることが多く、日本に対し謝罪及び賠償請求を行うのは初代からのお家芸と言えるだろう。 謝罪及び賠償請求について、日韓関係に大きな影響を与えたものを幾つか紹介しよう。

 先ず初代大統領・李承晩(イ・スンマン)から。彼は対日戦勝国(連合国の一員)であるとの立場を主張、日本に戦争賠償金を要求したものの、連合国から除外され、請求権に関しても日本が要求を飲ま無い為“逆ギレ”。その報復として日韓会談直前の1952年1月、日本海に軍事境界線の李承晩ラインを宣言し竹島を一方的に韓国領土とした。  

 続いて朴正煕(パク・チョンヒ)に付いて。彼は在任中に「日韓請求権協定」を締結した。この協定は、請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認し「今後如何なる主張もすることが出来ない」と定めたものである。  
 この時日本は韓国に対し、約8億ドルに上る有償・無償の支援を行った(当時1ドル=約360円換算で約2,900億円)なお、当時の韓国の国家予算は3.5億ドル、日本の外貨準備額は18億ドル程度であったことを考えると破格の規模だったと云える。  
 最も、韓国政府が補償した戦時徴兵補償金は死亡者一人当たり僅か30万ウォン(約19万円)に留まり、個人補償の総額も約91億8000万ウォン(約58億円)に過ぎ無かった。資金の大部分は道路やダム・工場の建設等インフラの整備や企業への投資に継ぎ込まれ「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げた。  

 現代においても朴正煕を支持する国民は多く、娘の朴槿恵(パク・クネ)が女性初の大統領として就任出来たのも、この「漢江の奇跡」があったからだと言える。しかし、韓国人の誇る「漢江の奇跡」が日本から拠出された資金で成し遂げられたと云う事を大部分の韓国人は教えられていないし知ら無い筈だ。

 文在寅のちゃぶ台返し

 続いて金泳三(キム・ヨンサム)について。彼は在任中に、言葉巧みに宮澤喜一元首相らを誘導し「河野談話」を発表させた。日本は日韓基本条約・日韓請求権協定を前提に考えて居た為、謝罪が賠償請求に発展する事は無いと高を括って居た事はあるだろう。

 そして時代は下って朴槿恵政権下の2015年12月。日韓外相会談で「慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認した」事が合意された。16年7月に日本側の資金拠出により「和解・癒やし財団」が設立され、8月には日本側が10億円を拠出。その後、財団側は元慰安婦23人に現金を支給したことを明らかにし、合意時点で生存していた元慰安婦46人のうち34人が受け取りの意思を示して居る事が確認された。
 
 にも関わらず、大統領と為っていた文在寅(ムン・ジェイン)は2018年11月に日本へ相談も無しに財団の解散を一方的に発表、慰安婦合意は反故にされてしまった。そして今年3月には、韓国の鄭義溶(チョン・ウィヨン)外相が慰安婦問題に言及し「日本が2015年の合意精神に従い、反省して誠意ある謝罪をすれば、問題の99%は解決される。日本の決心によっては容易に解決する事も出来る」と発言している。  

 盧泰愚の時代にタイムスリップしたかの様な既視感を覚える人は少なく無いだろう。

 羽田真代(はだ・まよ) 同志社大学卒業後日本企業にて4年間勤務 2014年に単身韓国・ソウルに渡り日本と韓国の情勢について研究 韓国企業で勤務する傍ら執筆活動を行っている

 デイリー新潮取材班編集 2021年4月8日 掲載 新潮社

                  以上




 全く態を為さ無い我が国の政府・・・国民から匙を投げられたのか?



 菅首相に取ってゴールデンウイークのインド外遊 は「卒業旅行に為る」

 AERA dot. 2021/04/08 05:00


 4-8-14.jpg

4-8-14 コピーライトマーク AERA dot. 提供 ゴールデンウイーク中に外遊を検討中の菅首相(C)朝日新聞社
   
 新型コロナウイルスの猛威が止まら無い。全国の新規感染者が7日、3,000人を超え、大阪では過去最多の878人の新規感染者が確認された。その 、兵庫・奈良・和歌山・新潟の4つの県でも過去最多を更新。東京都では555人が確認され、全国の新規感染者の合計は3027人と為った。
 そんな中、菅首相は4月下旬から始まるゴールデンウィーク中にインドを訪問し、モディ首相と対面での会談を行い、その足でフィリピンも訪れドゥテルテ大統領と対面会談することを検討して居ると云う。

 「インド、フィリピン外遊は中国を意識した対応で遣って置くべき・・・と為ったのですが、恐らくコロナ変異株が猛威を奮う今の状況ではゴールデンウィークも国民に外出自粛を呼び掛ける可能性が高い。巣ごもりで可成りストレスの掛かる大型連休と為るのに、真っ先にワクチンを打った菅首相らは大名行列で外遊・晩さん会と為れば、怒りを買うこと間違い無い。遣る事が全てトンチンカンでズレています」(政府関係者)

 日本医師会の中川俊男会長は7日、こう呼び掛けた。

 「これ迄で最大の危機だと思います。第一に国民の皆様がコロナに慣れつつあり自粛と云う我慢の限界にあること。第二に感染力が強い変異株(ウイルス)が主体に為りつつあること。早急に最初の緊急事態宣言時の様に、国民の中に緊張感を呼び戻さ無ければなりません」

 国民だけで無く、官邸にも緊張感を呼び戻す必要があると語るのは霞が関関係者だ。

 「菅首相はソモソモ外交音痴で外遊しても大した成果も無いでしょうから、国内向けのアピールでしかありません。それなのに、こんな時期にワザワザ外遊を検討する神経が好く判ら無い。経済産業省の今井尚哉さんが首相補佐官だった時であれば、もう少し思慮深くメンバーで議論したでしょうが、今は全ての判断が場当たり的・短絡的です。菅首相に進言するブレーンがいない弊害がこんな処にも影響が出て居ると云う事です」

 ゴールデンウィーク前の4月25日には衆院北海道2区・参院長野選挙区・参院広島選挙区の3つの選挙区で補欠選と再選挙が行われる。うち北海道は元農相の吉川貴盛被告が贈収賄事件で起訴された為、自民党は不戦敗と為る。

 「長野はコロナで急死した羽田雄一郎元国交相の弔い合戦なので自民党候補はダブルスコアに近い差が着いての敗北が濃厚です。広島も元法相だった河井克行・案里夫妻が約40人の地元議員らに現金をバラ撒く買収事件を起こしたので自民党には不利です。3連敗すると政変が何時起こっても可笑しく無い」(自民党幹部)

 民主党政権時代首相だった菅直人は、2011年4月の統一地方選で敗北。5月の外遊中に民主党内で小沢一郎・鳩山由紀夫を中心とする一派が「菅おろし」の政変を仕掛け、8月には退陣に追い込まれた。

 「菅直人時代と重なりますね。官邸では補選の負けは織り込み済みです。とは云え、菅首相の外遊中は国内が真空状態に為りますから、衆院選挙での生き残りを懸けてトップの首を挿げ替える。こうした思惑で自民党内がクーデタ―に一気に動くと云うシナリオは現実的に在り得る話です。ゴールデンウィークの外遊が菅首相に取って本当に卒業旅行に為るかも知れませんね」(前出の政府関係者)

 只、最大の問題はポスト菅の不在だと云うのだから、国民は遣ってられ無い。(AERAdot.取材班)

                  以上












2021年04月07日

カンニング竹山問題で東京都に抗議殺到!小池都知事の昨年度の広報費は11億円超と新たに判明〈dot.〉


 カンニング竹山問題で東京都に抗議殺到!

 小池都知事の昨年度の広報費は11億円超 と新たに判明〈dot.〉



 4-7-23.png  4/7(水) 10:00配信


 4-7-20.jpg

         小池百合子東京都知事(C)朝日新聞社 4-7-20

 タレントのカンニング竹山(50)がTBS系「アッコにおまかせ!」(3月28日放送)で東京都の広報動画制作費用について誤った認識で発言をした騒動が波紋を広げている。

 「100件を超える苦情の電話が来ています。場合によっては1時間を超えて意見を言う人もおり、対応する職員も疲弊して業務がママ為ら無い」  

 こう嘆くのは東京都の政策企画局だ。竹山は番組で東京都の広報動画製作費について「全部じゃないけど、その内1本制作するのに4.7億円の税金が使われている」等と発言。しかし、3月28日の番組内で「制作費が4.7億円じゃ無くて、広告費全部含めて4.7億円使ったと云う事でした」と訂正して謝罪した。東京都の抗議もありホトボリは冷めず、4月4日には同番組の放送終了後、TBSアナウンサーが改めて謝罪文を読み上げた。

 <出演者から1本当たりの製作費が4.7億円であるとの発言がありました。正しくは、去年5月から8月に作られた、知事とタレントとの対談形式等による8本の動画の製作費が1800万円でした(略)>  

 ことの発端となった竹山の広報費を巡る発言は、3月27日に放送したAbemaTV「カンニング竹山の土曜The NIGHT」で取り上げたものだ。竹山の同番組には舛添要一前東京都知事と上田令子都議会議員が出演し、小池都政の問題について議論した。  
 その中で上田都議が動画など広告関連に掛かる費用が約半年間で4.7億円だった事を解説。竹山は約半年間の額と動画1本分の額とを誤認し、翌28日の「アッコにおまかせ!」で発言したと観られる。AbemaTVに出演していた舛添要一元東京都知事はAERAdot.編集部の取材にこう答えた。

 「AbemaTVで一緒に議論して居た私や上田都議には都から抗議は来て居ません。小池批判をした竹山さんをテレビから干すと云うのが都の魂胆ではないか。都はテレビ局に圧力を掛けて謝罪をさせ、所属事務所も飯が食え無く為るのでタレントに発言を控えろと抑制を掛けた事に為るでしょう」


       4-7-22.jpg           

                カンニング竹山 4-7-22
 
 舛添元知事は更にこう疑問を呈した。

 「AbemaTVはインターネット上のテレビなので放送法に引っ掛かりません。しかし、行政は放送法を盾にして、地上波で嘘を言ったとケチ着ける事が可能なのです。抗議するなら私や上田都議にもすれば好いのに、タレントと云う立場の弱い竹山さんを狙ったんじゃないか」

 上田都議もAERAdot.の取材に対してこう答えた。

 「4.7億円は昨年の第一回目の緊急事態宣言から夏迄の限られた期間における内訳です。緊急事態宣言が発出された時、小池都知事が『ステイホーム』と呼び掛けるテレビCMやデジタルサイネージ等、頻繁に広告が制作され流されて居ました。
 又、タレントと都がコラボした動画に対して、都民から『幾ら掛かって居るのか』と云う問い合わせも寄せられました。そこで一定期間ではありますが、広報費の支出を調査しました。後の調査で昨年度は11.1億円だったことも明らかに為って居ます」


 東京都の政策企画局に上田都議が調査した約11億円もの広報費について確認するとこう回答した。

 「テレビCMの電波料など広報費の約11億円に付いては、生活文化局の広報がまとめて出した数字です。只、昨年度の数字では無く、1月6日迄に契約したものに限ります」

 詰り、1月7日以降から3月末迄に追加契約した分は含まれて居ない額だと云うのだ。11億円もの広報費は都に取って必要な経費だったと認識して居るかを問うと、以下の様に答えた。

 「そうですね。動画に限ると、閉鎖した動画もあり全ての再生回数は確認出来ませんが、今視聴出来る動画が20本程度あり、約2,000万回の再生はありますので、それなりに見て頂いて、本来の目的であります、啓発には効果があったのかと考えています」(東京都政策企画局)

 しかし、上田都議は大阪府との違いをこう語る。

 「大阪府の吉村洋文知事はこうした広告費は払え無いからと、ローカル番組に出演して感染症への注意喚起を府民に呼び掛けていました。番組に出演すればタダですから。一方、小池都知事はテレビ番組には出ないけど、ステイホームで皆が家に居る時間を見計らってテレビやインターネットに広告を打つ遣り方だった。この費用を調査したら11億円にも上ると云う驚くべき金額でした。効果の程は如何程だったのか、疑問に思います」

 カンニング竹山問題で東京都に抗議殺到!小池都知事の昨年度の広報費は11億円超と新たに判明
                           
 岩下明日香 2021.4.7 10:00dot.


  4-7-21.jpg
 
         4-7-21 上田令子都議が入手した東京都財務局の資料

 東京都はAERAdot.の取材に対し「アッコにおまかせ!」で竹山が問題となる発言をした翌日の3月29日付で文書をTBSと竹山の所属事務所に送ったことを認めている。

 「抗議文と云うか、注意文を送付させて頂きました。謝罪を求める内容ではありません。事実に反する内容があったので、そこは都民に誤解を与えるので注意をして頂きたいと云う内容です。今後の対応としては報道内容についての訂正を行うと共に、事実に即した適正な報道や発言を求めると云う趣旨の文書を送付させて頂いた」(東京都政策企画局)

 都から文書を受け取ったTBSはAERAdot.の取材に対し、こう回答している。

 「(3月)28日の放送で誤った情報をお伝えしたので、番組の判断で、翌週4日に、YouTube動画の制作費について正確な情報をお伝えすると共に、視聴者に対して、お詫びすることとしました。都の申し入れとは関係ありません」

 一連の騒動を受け、竹山は4日のAbemaTV「カンニング竹山の土曜The NIGHT」で、事実誤認のあった発言に付いては陳謝しつつも「もっと違うお金の使い方があるんじゃないか」と都の公金の使い方に疑問を投げ掛けた。
 更に「何が可笑しいのか、オープンの場で検証することが必要だと思う」と言い、次回11日に放送する同番組で、広報費を調査した上田都議と小池百合子都知事が率いる「都民ファーストの会」の都議を招いて討論する予定だと云う。竹山が仕掛ける「第2ラウンド」に注目したい。

 (AERA dot.編集部 岩下明日香)作成 AERAdot.岩下明日香


 







【4月7日の話】戦艦大和が沈没・・・戦後の重工業の礎に為った世界最大の巨艦




【4月7日の話】戦艦大和が沈没・・・戦後の重工業の礎に為った世界最大の巨艦 


 4-7-2.png  4/7(水) 6:06配信


4-7-1.jpg

   写真・NH 63433 Yamato Naval History and Heritage Command Washington DC 4-7-1
 
 1945年4月7日、旧帝国海軍が誇った戦艦「大和」が、魚雷14本・爆弾13発を受け九州南西沖の海底に沈んだ。乗組員3332名の内生存者は僅か276名だった。当時、日露戦争で東郷平八郎が戦艦「三笠」でバルチック艦隊を破ったことから、海軍は戦艦同士を戦わせる「艦隊決戦」を主眼に置く様に為った。
 諸外国に勝つ為製造された大和は、戦艦としては史上最大だが、主砲を使ったのはミッドウェー海戦やレイテ沖海戦など僅か4回だったと云う。

 三井造船で長年船の設計に携わり、映画『アルキメデスの大戦』で戦艦「大和」の製図監修を担当した播田安弘さんは、大和が完成した1941年に生まれたこともあり思い入れが強い。播田さんは、当時の造船技術をこう語る。

 「アノ頃、戦艦を大量に作って居たのは、恐らくアメリカ・イギリス・ドイツ・日本辺りです。日本の造船技術は他国と比べても目を見張るものがありました。意外にも、世界で初めて空母として設計されたのは日本の『鳳翔』と云う船です。
 他にも、戦艦『夕張』は小型でスピードが速く強力な艦砲を積んで居た事から、発表当時は世界から大きな注目を浴びました。
 大和は、艦隊同士の戦闘の為に造られた戦艦です。艦隊同士で戦うと為ると、より遠くから大砲の弾を飛ばし相手に命中させた方が勝つことに為ります。ですから、大和の大きな特徴として、当時の世界最大口径と為る直径46cmの主砲が搭載されました。明治維新から70年でこれだけの戦艦を造る事が出来たのは、日本の技術水準が高かったことを物語って居ます」
 

 1937年に海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が下り大和の造船が本格的に開始された。約4年後の1941年12月16日 予定より半年以上も早く完成したが、大和を取り巻く状況は変わりつつあった。

 「丁度大和が完成する8日前、真珠湾攻撃でアメリカの戦艦を何隻も沈没させる大きな成果を出しました。このことから軍部の意識は、一気に航空機に向いてしまい戦艦の影が薄く為ったんです。大和には、レーダーの精度が低いと云う大きな欠点もありました。例えば、アメリカの戦艦はレーダーで相手の艦隊を察知し、レーダーと艦砲を連携させることで正確に敵を狙い撃ちします。  
 大和は完成当初レーダーも着いて居らず、後から付けたものも相手の位置が判る程度で、艦砲と連携する迄には至ら無かったんです。日本のものづくり全てに言えることですが、ハード面は非常に強いけれど、ソフト面が弱かったと言えるでしょう」
 

 1945年4月7日、大和は沖縄海上特攻作戦の最中、米軍の猛攻撃を受け海の底に沈む。しかし「大和が戦後へ遺したものは大きかった」と播田さんは語る。

  「造船には、鉄鋼・電気・エンジン等、あらゆる工業の技術が必要に為りますから、その国の産業の水準が現れます。大和の製造技術は後の重工業や機械工業にも影響を与えました。他にも『測距儀(そくきょぎ)』と云う、レンズから機械式計算機を使って対象までの距離を測定する機械が大和に搭載されて居ましたが、この技術は戦後のカメラ産業に生かされます。戦後の日本が奇跡的な発展を遂げたのは、大和の功績も非常に大きいと私は思います」(播田さん)

 写真・NH 63433 Yamato Naval History and Heritage Command Washington DC




 

 海戦はスピード勝負! 艦艇の速力は海戦で「カタログ値」通りだったのか?

  4/4(日) 6:20配信


 戦艦「大和」の最高速度は カタログ上では27ノットだった


 4-7-5.jpg

 1978年10月 フィラデルフィア海軍基地に係留される 写真右から戦艦「アイオワ」戦艦「ウィスコンシン」空母「シャングリラ」(画像 アメリカ海軍)4-7-5


 世界最大の戦艦として広く知られる旧日本海軍の戦艦「大和」この艦はカタログスペック上では最高速度27ノット(約50km/h)と云われますが、乗組員の証言では29.3ノット(約54.3km/h)まで出したことがあると云う話も。
 一方、アメリカ海軍に目を向けてみると、アイオワ級戦艦は公称33ノット(約61.1km/h)とされているものの、大戦後の1968(昭和43)年には35ノット(約64.8km/h)台を記録したことがあります。この様に、軍艦のスピードはカタログ値と実測値で大きく異なることが多々あります。そこで、近代戦艦に限定しつつ最大速度を比較・解説します。  

 そもそも第2次世界大戦迄の軍艦同士の海戦は、基本的には目視で敵艦を見ながら自艦の大砲を撃ったり魚雷を放ったりするものでした。軍艦の速力には重要な意味があったと云えるでしょう。実例として、第1次世界大戦中の1915(大正4)年に起きたドッガーバング海戦を挙げましょう。
 この海戦では、イギリス艦隊とドイツ艦隊が戦火を交えましたが、この時イギリス艦隊は最高速度27.5ノットから28ノット(約50.9km/hから51.8km/h)の巡洋戦艦3隻でドイツ艦隊を追撃しています。ドイツ艦隊は巡洋戦艦2隻が27ノットから28ノット(約50km/hから51.8km/h)と高速でしたが、旗艦「ザイドリッツ」は最高速度26.5ノット(約49km/h)装甲巡洋艦「ブリュッヒャー」は同25.4ノット(約47km/h)とやや低速でした。
 
 この時イギリス艦隊にも最高速度25ノット(約46.3km/h)代の巡洋戦艦2隻が居ました。しかし、遅い2隻を連れて居るとドイツ艦隊を取り逃がすと考えたイギリス側は高速の3隻だけで追撃して居ます。ドイツ艦隊の判断は「イギリス艦隊は艦隊の速度を、25ノット台の遅い巡洋戦艦2隻に合わせるだろうから、我が艦隊に25.4ノットのブリュッヒャーが居ても逃げられる」と云うものでした。
 が、イギリス側は速い3隻で打撃を与えて、ドイツ艦隊の速度を落とせば好いと判断したのです。結果としてブリュッヒャーは撃沈されザイドリッツも大破しています。  

 もし、イギリス側の速い巡洋戦艦が1隻だけだったら袋叩きに合うことを警戒して、遅い艦に合わせて行動しドイツ艦隊を取り逃がして居たかも知れません。逆に、ドイツ艦隊全艦が29ノット(約53.7km/h)で動けたなら、イギリス側は攻撃手段が無かったとも云えます。

 第1次大戦後益々高速化  40ノット超えも

 第1次世界大戦以降、各国の軍艦は益々高速化して行き、戦艦より一回り小さい巡洋艦は30ノット(55.6km/h)以上出ることが当たり前に為って行きます。駆逐艦に至っては40ノット超えの艦も登場する様に為り、中には駆逐艦史上最速の45.25ノット(83.8km/h)を記録したフランス駆逐艦「ル・テリブル」の例も。
脚が速ければ、強大な戦艦にも肉薄して魚雷攻撃を仕掛ける機会が生まれますし、敵艦の頭を抑える戦術機動でも優位に立てる為、速力は重要でした。  

 旧日本海軍では1941(昭和16)年に行われた演習において、金剛型戦艦4隻からなる第三戦隊が、29ノット(約53.7km/h)での昼間教練射撃を行っています。この演習は平均射距離25.5kmの遠距離射撃でしたが、初弾命中を得ています。  
 金剛型戦艦の最高速度は30ノット(約55.6km/h)なので、それにほぼ近いスピードで航行しつつ、実戦さながらの最高速度での遠距離砲戦を行ったと云えるでしょう。  

 最高速度27ノット(約50km/h)で「遅い」と批判される大和型戦艦も、大和が1942(昭和17)年6月に28.5ノット(約52.7km/h)武蔵も公試で28.1ノット(約52km/h)を出すなど、カタログ値を上回る速度も記録しています。なお、冒頭に記した通り、一部の乗組員の証言では29.3ノット(約54.2km/h)を記録したと云う話もあります。
 大西洋に目を転じてみると、1934(昭和9)年に就役したドイツのドイチュランド級装甲艦も「15〜20cm砲の巡洋艦を圧倒する28cm砲」と「当時の戦艦では大半が追い付け無い26ノット(約48km/h)の速度」を有し、戦略的に対抗が難しい艦型と考えられていました。
 なお、装甲艦は26ノットが公表値でしたが「アドミラル・グラーフ・シュペー」が公試で28.5ノット(約速53km/h)を記録する等、実際には28ノット(約52km/h)を超えていました。

 ドイツのビスマルク級戦艦も、公表値は最高速度27ノット(約50km/h)でしたが、実際にはテストにおいて30.8ノット(約57km/h)を記録して居ます。これら日独の戦艦達を上回る俊足振りと云えるのが、アメリカのアイオワ級戦艦です。カタログ値では最高33ノット(約61.1km/h)ですが、1968(昭和43)年に、戦艦での世界最高速力35.4ノット(約65.6km/h)を記録しています。

 同時に、戦時中では対空火器の増加等で排水量が増えたこともあり「機関に過負荷を掛け無い最高速度は30ノット(約55.6km/h)」と規定されて居ます。ちなみに、軍艦の最高速度は速度計測時の水深や海流の流れ・風向き・燃料や弾薬の消費状態などで変化します。
 水深は浅い方が水底の影響を受け速力が増し、燃料や弾薬の搭載量が少ない方が船体そのものが軽く為る為速力が出ます。その為、前述した様な速力は飽く迄も目安でしかありません。

 現代の各国軍艦は速力30ノット前後に・・・何故?


 4-7-6.jpg

   2022年前半就役予定の護衛艦「もがみ」速力は約30ノット(画像:海上自衛隊)4-7-6

 では、上述した様に第2次世界大戦まで高速化する一方だった各国の軍艦が、おしなべて21世紀の現在、速力30ノット前後に落ち着いたのは何故でしょう。それは、航空機やミサイル・誘導爆弾の進歩によるものが大きいです。例えば、米国の開発した対艦ミサイル「ハープーン」は124〜315kmの射程距離を持ち、かつレーダーによる誘導で高い命中率を誇ります。

 水上艦艇の速力が数ノット違っても、戦術機動でミサイルの投射量を増やせたり誘導爆弾を回避出来たりする訳ではありません。現代では機関出力よりも兵器搭載量など、別のリソースに重量を割くことが妥当と云う事です。  
 結果、現代の水上艦は敵艦と速度比べをする場面も少ないこと等から、高速力への拘りは見られ無く為ったと云えるでしょう。海上自衛隊護衛艦など、現代の水上艦の多くが最高速度30ノット(約55.6km/h)とされて居ます。

 とは云え、この数字は飽く迄も公表値、即ちカタログスペックの為、実際には更に速く航行出来ると云われて居ます。ちなみに21世紀の現在、国内航路の長距離フェリーに乗ると、前述した旧日本海軍の戦艦のスピードを疑似体験出来ます。
 例えば新日本海フェリーの「はまなす」「あかしあ」は、航海速力30.5ノット(約56.4km/h)と、金剛型戦艦並みの速度を誇ります。同じく「すずらん」「すいせん」は航海速力28ノット(約51.9km/h)太平洋フェリーの「いしかり」「きそ」は最大速力26.5ノットから26.73ノット(約49km/hから49.5km/h)の高速力で航行しています。こうした形で過ぎ去った歴史に思いを馳せるのも面白いのではないでしょうか。

 安藤昌季(乗りものライター)





 速い速い駆逐艦「島風」!  旧海軍がスピードを追及した理由と一点モノで終了のワケ


 月刊PANZER編集部 2019.04.19


 小型艇等はともあれ、3000トンクラスの艦船で40ノット(約74km/h)を出すと為ると、21世紀の今でも相当速いと云えるでしょう。旧日本海軍が駆逐艦「島風(2代目)」で目指したものは、そうしたハイレベルの速さでした。

 艦船の速力はどれくらい?

 艦船の速力は「ノット」と云う単位で表され、1ノットは1.852km/hに相当しますが、実際の処どれ位の速さで航行して居るのでしょうか。


 4-7-7.jpg

 4-7-7 1943年5月5日 京都府北部 宮津湾外を全力で公試航行中の「島風(2代目)」撮影時の速力は39.9ノットと記録されて居る

 一般的なコンテナ船での最高速力は24ノット程度で、現代の軍艦でも30ノット前後が普通です。40ノットが出せるのはジェットフォイル等一部の高速船に限られ、海上自衛隊のはやぶさ型ミサイル艇でも最高速力は44ノット(81.5km/h)です。船舶に取って40ノットと云う速力はハードルが非常に高いのです。
 40ノットは約74km/hで、クルマではやや速いと云った処でしょうか。しかし何も遮るものの無い海の上を、車の数百倍から数千倍の重さの船がこの速力を出すとズッと速く感じます。

 この40ノットに挑戦して居たのが過つての日本海軍です。しかもミサイル「艇」のような排水量200tクラスの小型艇では無く1000t以上もある様な駆逐艦の話です。何故そんなに速い船が必要だったのでしょうか。日本海軍は太平洋戦争の遥か前から仮想敵にアメリカを想定し、太平洋でアメリカ戦艦群との決戦に勝利する方法を研究して居ました。

 戦艦同士の決戦を行う前に、アメリカ戦艦戦力を少しでも削って置こうと云うのが「漸減作戦(ざんげんさくせん・当時の読み方)」で、軽巡洋艦・駆逐艦で編制された「水雷戦隊」による、戦艦に対する魚雷攻撃は日本海軍の大きな柱でした。駆逐艦の性能を高め、魚雷の威力を高める事が一大目標に為ります。
 魚雷攻撃を成功させるには、敵艦に先回りして有利な位置に付くことが大切で、日本海軍は俊足駆逐艦の建造に力を注ぎます。

 1917(大正6)年度に計画された八四・八六艦隊計画で生まれた公試排水量(弾薬定数・燃料・水など消耗品は3分の2状態)1,300トンクラスの峯風型では、遂に最高速力39ノット(72.2km/h)を実現し、中でも峯風型「島風(初代)」は最高速力40.7ノット(75.4km/h)を叩き出します。今から約100年前の話です。処が、この成果を根底から覆す事故が立て続けに起こります。

 艦艇設計に影響を与えたふたつの大事件

 1934(昭和9)年3月12日に発生した「友鶴事件」では、艦体傾斜90度から110度まで耐えられる筈だった千鳥型水雷艇「友鶴」が、僅か40度の傾斜で転覆沈没し、死者72名行方不明者28名を出します。その1年後の1935年9月26日に発生した「第四艦隊事件」では、演習中の第四艦隊が台風に遭遇し、沈没こそありませんでしたが41隻中19隻が損傷・艦首切断や艦橋破壊など大破した艦もあり、死者54名を出しました。


4-7-8.jpg

 4-7-8 旧日本海軍の水雷艇「友鶴」「友鶴事件」「第四艦隊事件」を受けた改善工事が施された後の、上海で撮影された姿(画像 アメリカ海軍)

 「友鶴事件」「第四艦隊事件」の2大事件は日本海軍を震撼させます。その原因として艦の安定性不足・強度不足等、それ迄の艦艇設計に無理があることが明らかに為ったのです。多くの艦で安全対策工事が行われ、船体の強化改造・武装の削減等が行われた結果、主力駆逐艦と為る事が期待された吹雪型でも38ノットから35ノット迄速力が低下しました。
 
 ちなみに、その後、日本海軍は終戦に至る迄台風で被害を受けることは殆ど無く為りましたが、アメリカ海軍ハルゼー提督指揮下の第3艦隊が1944(昭和19)年12月18日台風(「コブラ台風」又は「ハルゼー台風」とも)に遭遇し駆逐艦3隻が沈没、空母8隻他13隻が損傷・航空機186機損失・死者790名を出し、半年後の1945(昭和20)年6月5日にも再び台風に巻き込まれ、沈没艦こそ無かったものの35隻が損傷・航空機76機・死者6名の被害を出して居ます。

 速い! 安い(燃費)! 言うことナシ!
 
 やがて、仮想敵であるアメリカのノースカロライナ級戦艦は最高速力が27ノットであると判明し、駆逐艦の速力優位性を失いつつある日本海軍は危機感を強めます。そこで1939(昭和14)年に、公試排水量3,000トンクラスながら速力40ノット強と云う、高速駆逐艦「島風」が計画されます。「島風」と云う艦名は、40.7ノットを記録した峯風型「島風」にちなんだものです。


4-7-9.jpg

 4-7-9 峯風型「島風(初代)」1940年に哨戒艇へ改造され「第一号哨戒艇」と改名した(画像 アメリカ海軍)

 「島風」には、高速を発揮して敵戦艦に見つかり難い様に迂回接近し、遠距離から秘密兵器「九三式魚雷」(いわゆる「酸素魚雷」)を一斉に発射する奇襲戦法が期待されました。その為機関は従来よりも高温・高圧のボイラーとし、タービンも羽数が増やされてそれ迄よりも約1.5倍の7万5000馬力を発揮。全力公試では40.37ノット(74.8km/h)を記録します。
 更に、燃料などを軽くした過負荷全力公試では、先代の記録を上回る40.9ノット(75.7km/h)を叩き出しました。過負荷全力公試の為非公式には為りますが日本駆逐艦史上最速です。また高性能ボイラーで燃費も良く為り、吹雪型の航続距離が14ノットで5,000海里(9260km)だったのに対し「島風」は18ノットで6,000海里(1万1110km)と「速くて低燃費」の良いことずくめでした。

 持て余した秘密兵器

 「島風」は発射出来る魚雷の多さもポイントで、5連装魚雷発射機を船体中央に3基搭載して左右舷どちらにも15発が発射出来ました。これは従来の駆逐艦の2隻分に相当する威力で、重雷装艦「北上」「大井」の20発に次ぐものでした。
 搭載した「九三式魚雷」は48ノットで射程2万mにも及ぶもので、それ迄の「九〇式魚雷」と比較しても射程は約3倍を誇りました。

 しかし48ノットで2万m進むには約13.5分掛かり、最大射程で移動目標に命中させるのは至難である事が判ります。1940(昭和15)年と41(昭和16)年に実施された水雷演習でも遠距離雷撃は効果が薄いと判定されています。
 敵の距離や位置を正確に測る高性能測距機や射撃管制能力を持つ巡洋艦クラスなら兎も角、駆逐艦クラスにはオーバースペック気味であり「島風」に搭載された雷撃発射指揮装置も従来の短射程魚雷搭載駆逐艦と同じものだった為、遠距離雷撃の有効性に疑問が呈される様に為ります。


4-7-10.jpg

 4-7-10 1944年11月11日 オルモック湾で空襲を受ける「島風」この後撃沈される(画像 アメリカ海軍)

 戦艦同士の決戦が起こらず「漸減作戦」の可能性も低く為ると、水雷熱は急速に冷めて行きます。「島風」同型艦は16隻建造される計画でしたが、実際には1943(昭和18)年5月に竣工した「島風」1隻のみと為ります。
 初陣は1943年7月の「キスカ島撤退作戦」で、レーダーを装備し俊足であったことから、第一水雷戦隊司令官の木村昌福少将が特に要望したと言われます。霧に紛れながらの作戦は困難でしたが、陸海軍将兵5,000名以上の撤退に成功しました。

 その後は艦隊や輸送船団護衛任務が殆どで、1944(昭和19)年10月24日の「レイテ沖海戦」では、撃沈された戦艦「武蔵」の救援も行っています。この時期、制空権はアメリカが握って居り、期待されて居た重雷装も俊足も存分に発揮する機会は訪れず、1944年11月11日にフィリピン中部レイテ島北西部のオルモック湾で空襲を受け撃沈されます。竣工から1年6か月後のことでした。

 【了】















 






 

2021年04月06日

日本政府の無為無策で「親日国ミャンマー」が中国陣営に着く可能性




 日本政府の無為無策で「親日国ミャンマー」が中国陣営に着く可能性


4-6-2.png『週刊現代』 近藤 大介 4/6(火) 6:02配信




 日本が誇る「太いパイプ」とは

 
        4-6-1.jpg

             4-6-1 写真 現代ビジネス

 次々に布石を打つ中国に対し無為無策の日本・・・国軍によるクーデターから既に2ヵ月を超え、混迷を深めるミャンマー情勢を見ていると、マサに隔靴掻痒(かっかそうよう)の感がある。
 「日本はアメリカやEUよりも、ミャンマー国軍に対して太いパイプを持っている」
 これ迄国際社会で日本はこう自任して来た。また、そう見られて来た。それなのに肝心な時に、国軍を説得出来ずに居る、手を打てずに居る。日本はこの2ヵ月と云うもの @発砲など暴力行為の即時停止 Aアウン・サン・スー・チー国家顧問らの即時釈放 B民主化への速やかな移行の「3点セット」を唱えるばかりだ。 日本が誇って来た、これ迄のミャンマー国軍との「パイプ作り」は一体何だったのだろう?   

 「パイプ作り」の一端を示そう。今や無辜(むこ)の市民に対して発砲する40万国軍のトップとして極悪非道の代名詞に為っているミン・アウン・フライン国軍総司令官を、日本政府は、一昨年2019年10月8日から13日迄6日間日本に招待して居る。  
 訪日二日目に当たる10月9日の夕刻には、外務省に招いて茂木敏充外務大臣が会談を行っている。当時、日本外務省が発表した会談の概要は、以下の通りだ。  

 1 冒頭 茂木大臣から「日本は引き続きミャンマーの民主的な国造りを全面的に支援して行く。和平プロセスに付いては笹川政府代表と共に最大限後押しする。ラカイン州情勢に付いては国連の協力の下、避難民帰還の為の環境整備を目に見える形で早急に進展させること。人権侵害疑惑に対し適切な措置を取ることが重要と考える。ミャンマー国軍の協力を期待したい」旨述べました。

 2 続いて少数民族との和平に付き、茂木大臣から「ミャンマー北東部におけるカチン独立軍・KIA等との恒久的な停戦及び避難民の帰還・再定住の実現を期待する。日本財団等との連携によるミャンマー南東部地域の復興・開発支援が順調に進展している。今後もミャンマー国軍の最大限の協力を得たい」旨述べました。
 これに対しミン・アウン・フライン国軍司令官から日本の支援に謝意が示された上で「和平及び国内避難民問題の解決の為、笹川政府代表と協力して居る。我々は恒久的和平の実現を望んでいる」との反応がありました。  

 3 またラカイン州情勢に付き茂木大臣から「日本はラカイン州の状況改善の為、ミャンマー自身の取組を最大限後押しする立場である」旨述べた上で人権侵害疑惑について「独立調査団による調査の進展が重要であり、ミャンマー政府及び国軍として独立調査団の勧告を受け適切な措置を速やかに取ることが不可欠である」と促しました。
 これに対しミン・アウン・フライン国軍司令官から日本の理解と支援に対する謝意が示された上で避難民帰還に付き「ミャンマー国軍・政府共にミャンマー国内の居住実績がある者に付いては、審査の上受け入れる用意がある。帰還後の生活向上にも取り組む」旨述べました。
人権侵害疑惑については「独立調査団の調査に全面的に協力している。人権侵害が明らかに為れば、法に基づき責任者に措置を取る」との反応がありました。  

 4 双方は北朝鮮情勢に付いても意見交換し、北朝鮮の完全な非核化に向けて連携することを確認しました。又、茂木大臣から拉致問題の早期解決に向けた理解と協力を求め支持を得ました。  

 ・・・以上である。外務省が発表した報道資料には、茂木外相がフライン総司令官と親密に握手したり会談したりしている3枚の写真も添えられて居る。

 旧日本軍との「深い因縁」


            4-6-3.jpg

                Wikipedia 4-6-3

 フライン総司令官は、翌10日の夕刻には防衛省へ赴き、当時の河野太郎防衛大臣とも会談している。防衛省関係者が明かす。

 「河野防衛大臣は、外務大臣時代の同年7月31日にミャンマーを訪問しアウン・サン・スー・チー国家顧問らと会談した話等をして和やかな雰囲気でした。二人は、自衛隊とミャンマー国軍との交流を促進して行くことで一致しました。この時、日本はフライン総司令官の要望を二つ受け入れました。
 一つは、日本の防衛大学校がミャンマー国軍のエリート軍人達を研修生として受け入れたことです。今回の国軍クーデターの後も、フライン総司令官が送り込んだ国軍エリート達は日本に残って居ます。もう一つは、フライン総司令官のたっての希望で『ミャンマー国軍の父』と言われる鈴木敬司元陸軍少将(1897年〜1967年)の墓参を実現したことです。
 フライン総司令官は、鈴木元少将の墓がある静岡迄赴き『こんにち我が国軍があるのは貴方のお陰です』と言って、感慨深げに手を合わせました」  

 この防衛関係者が述べて居る様に、ミャンマー国軍と旧日本軍とは深い因縁がある。・・・以下の記述は、主に根本敬著『物語 ビルマの歴史』(中公新書2014年)による・・・

 ・・・1937年に開戦した日中戦争が長期化する中、日本は「援蒋ルート」(中国の後背地に位置するイギリス植民地下のビルマから、重慶臨時政府の蒋介石軍を支援するルート)を断つことが日本の勝利を導くと考えた。そこで1940年6月から10月迄、陸軍参謀本部の鈴木大佐が「読売新聞記者・南益代(みなみ・ますよ)」と云う変名を用いてビルマに潜入。鈴木大佐が目を付けたのがアウン・サン・スー・チー国家顧問の父親であるアウン・サン氏(後の将軍1915年〜1947年)だった。
 同年11月12日、アウン・サン氏は密かに羽田飛行場に降り立った。そして日本でひと月以上に渉って鈴木大佐らと策を練った。
 
 鈴木大佐はその後、参謀本部が「学生あがり風のみすぼらしい様相」だとしてアウンサンに関心を示さ無い中を執拗に説き伏せ、海軍と共同で1941年2月1日に南機関と云う大本営直属のビルマ謀略機関を設置することに成功し自ら機関長に就任した。
 南機関の目的は、ビルマに於けるナショナリスト達の反英闘争を日本軍が支援し親日政権を樹立させ、重慶に繋がる援蒋ルートを閉鎖する事に在った。南機関はアウンサンを一度ビルマに送り返し、彼の取り計らいで計30人のビルマ人青年を同年3月から4ヵ月間にわたって密出国させた。
 その上で海軍が1939年2月以来占領していた海南島の三亜に集め、通常2年掛けて行う軍事訓練を3ヵ月程の短期で施した。彼等にしてみれば、英国による植民地支配体制を倒す念願の武器と軍が手に入る段階に至った訳である。
 非常に厳しい軍事訓練を耐え抜いた彼等は祖国への進軍の時を待った。彼等は後にビルマで「30人の志士」と呼ばれる事に為る。(前掲書187〜188ページ)  

 1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦すると、鈴木大佐は「30人の志士」を中心に「ビルマ独立義勇軍」BIを結成。アウンサン氏をリーダー格の少将に据えた。翌1942年1月22日には、東條英機首相が帝国議会の施政演説で「ビルマを独立させる」旨の宣言をした。そして日本軍は、32万人もの大部隊をビルマに派遣しイギリス軍を駆逐して行ったのである。  
 同年6月、日本軍がビルマ全土を掌握し鈴木少将は帰国した。その際、ビルマ独立義勇軍は「ビルマ独立軍の親であり、そして恩人でもあるボウ・モウヂョウのことを、我々は常に思い出し決して忘れません・・・」と書いた感謝状を鈴木大佐に贈っている。  
 太平洋戦争開戦40周年に当たる1981年には、ミャンマー政府は国家最高の栄誉である「アウンサン旗勲章」を、故・鈴木少将に授与し節子夫人が受け取っている。フライン軍総司令官は2019年10月、そうした縁でワザワザ静岡まで足を運んで鈴木少将の墓を参ったのである。

 ミャンマー国民が日本に期待する理由


    4-6-4.jpg

                 4-6-4 Gettyimages

 もう少し両国の関係史を簡述すると、1945年8月に日本が敗戦し、ミャンマー戦線で19万人もの戦死者を出した。1947年1月にアウン・サン氏率いる代表団が訪英し1年以内の独立を確約させた。 だが同年7月、初代大統領のポジションが確実視されて居たアウン・サン氏が、国内の権力闘争に巻き込まれて暗殺されてしまう。
 この時、スー・チー氏は2歳に為ったばかりで父親の記憶は無い。結局、ミャンマーは1948年1月4日に独立を果たした。
 
 一方の日本は、敗戦後の極端な食糧不足をミャンマーからのコメ買い付けによって凌(しの)いだ。1949年に7万トン、翌1950年は17万トンを輸入。この時、暗躍したのも鈴木元少将らだった。これこそ「ミャンマー国軍とのパイプを生かした」結果である。  
 また、戦後日本のアジア外交は「賠償外交」とほぼイコールだったが、最初に経済協力(賠償)協定を結んだのが1955年のミャンマーだった。しかも、ミャンマーが比較的低額(10年間で2億ドル規模の生産物無償供与及び5000万ドルの経済協力)で妥結して呉れたお陰で、日本はそれを「前例」として、フィリピン・インドネシア・・・と続く賠償外交を乗り切る事が出来た。

 ちなみにこのミャンマーとの賠償交渉でも役に立ったのは「ミャンマー国軍とのパイプ」だった。その後、1962年にミャンマーで軍事クーデターが起こったが、日本はミャンマーとの親密な関係を維持した。戦後賠償が終わった1966年からも12年に渉って経済技術協力を続け、1968年からは円借款も始めている。
 1976年には東京で第1回ビルマ援助国会議を開いている。1988年までの対ミャンマーODA・政府開発援助は計5,117億円に上った。1988年にミャンマーで、2度目の軍事クーデターが起こってからも、ミャンマーを「西の北朝鮮」の様に扱った米欧と異なり、日本はミャンマーとの関係を維持。5分の1規模に減らしたものの、無償資金協力も続けた。

 そして2011年にミャンマーが民政移管すると、2013年5月に安倍晋三前首相がミャンマーを訪問し、5,000億円もの対日債務を帳消しにしたのである。そこからミャンマーを「最後のフロンティア」と呼んで、最大都市ヤンゴンの郊外に日系企業の工業団地である「ティラワ経済特区」を開発して行った。  
 2016年に事実上のスー・チー政権が発足すると、日本はミャンマーとの蜜月関係を加速させた。スー・チー氏自身、1985年から1986年に京都大学に留学する等、日本との縁が深かった。過去10年でも、2013年4月・2016年11月・2018年10月と3度も来日し、安倍首相等との親交を深めて居る。
 
 今年年初の段階で「ティラワ経済特区」では94社もの工場が稼働し、ヤンゴン日本商工会議所には433社が加盟、約4000人の日本人がミャンマーに駐在して居た。全日空は毎日ミャンマーとの定期便を飛ばして居た。そんな中で、2月1日に3度目の軍事クーデターが勃発したのである。
 同日に軟禁されたスー・チー国家顧問率いるNLD・国民民主同盟はもとより、5700万ミャンマー国民も歴史的に縁が深い日本に大いに期待した。

 菅政権の恐ろしい程の「慎重姿勢」
 
 2019年度の日本外務省「海外における対日世論調査」によれば、ミャンマー人の日本への期待感は傑出している。

「ミャンマーに取って現在重要なパートナーはどの国か?」との質問に対して
 1)日本82% 2)中国67% 3)韓国54%
「今後重要なパートナーはどの国か?」と云う質問に対して 
 1)日本81% 2)中国49% 3)韓国49%
「最も信頼出来る国はどの国か?」と云う質問に対しては 
 1)日本61% 2)中国9% 3)韓国9%

 他にも質問は続くが、ミャンマー人の日本への信頼感と期待感は他国を圧倒しているのである。これは、前述のような日本とミャンマーの歴史的な深い関係から来ているが、日本がミャンマー人の理想とする民主国家に映ると云う事も大きい。  
 その為、今回のクーデターが起こってからも、ミャンマー人は日本に対して大いに期待した。何せクーデターを起こしたミャンマー国軍には、米欧よりも日本の方が遥かに「太いパイプ」があるのだ。だが菅義偉政権はこの2ヵ月余りと云うもの、前述の「3点セット」(暴力停止・拘束者解放・民主回復)を唱えるばかりで、恐ろしい程に「慎重姿勢」を貫いた。最新の4月2日の茂木外務大臣の会見での記者との遣り取りは、以下の通りだ。  

 記者 ミャンマーの国連大使が弊社(日経新聞)のインタビューで、民政が回復する迄の間、日本はミャンマーへの投資を中断するべきだと云う事を話したのですけれども、この受け止めをお伺いしたいのと、もう一点、政府として対ミャンマーのODAを全面的に停止すると云う考えはないのかと云う事を教えてください。
 
 茂木外務大臣 国際社会の度重なる呼び掛けにも関わらず、ミャンマー国軍・警察による市民に対する実力行使によりまして、3月27日には、これ迄最多の死者を数えるなどミャンマーで多数の死傷者が発生している状況を我が国は強く非難します。
 また、現状を深刻に受け止めております。日本は、これ迄国軍に対して、暴力の即時停止、アウン・サン・スー・チー国家最高顧問を含む拘束された関係者の解放、民主的政治体制の早期回復の3点を強く求めて来て居りまして、事態の推移そして又関係国の対応・・・こう云ったものも注視をしながら、どう云った対応が効果的か、好く考えて行きたいと思っております。  
 様々な形での働き掛けであったりとか、遣り取りは続けて行く必要がある、そう云った中で事態の沈静化を図り、そして民主主義体制の早期回復・・・これを実現して行きたいと思っております「大切なものは目に見え無い」『星の王子さま』の一節です。

 最早スッカり決まり文句と為った「どう云った対応が効果的か、好く考えたい」日本政府が「好く考えている」内に、2ヵ月が経過し500人を超える死者が出てしまったのだ。約3万2,000人(2019年12月現在)の在日ミャンマー人達は、その間に何度も会見や要請を行い最早爆発寸前である。  
 加えて言うなら、茂木外務大臣の最後の『星の王子様』の一節は全くもって意味不明だ。大切なものを目に見える様にして国際社会の圧力を強めて行くのも大切な外交ではないのか?そもそも毎日、少なからぬ市民の血が流されている中で、童話の一節を比喩に取って記者を煙に巻くと云うのは不穏当ではないか。

 米・中・露が蠢く中で


      4-6-5.jpg

               4-6-5 Gettyimages

 ちなみに、菅首相が今月16日に訪問する同盟国のアメリカは、3月29日にUSTR・米通商代表部が「ミャンマーとの貿易・投資枠組み協定・TIFAに基づく全ての取り組みを即時停止する」と発表した。翌30日には、米国務省が「ミャンマーに駐在する政府職員らに出国命令を出した」と発表した。この様に、アメリカのメッセージは明確である。  
 一方、アメリカとは逆の立場を取るのがロシアだ。3月26日、ロシアのアレクサンドル・フォミン国防次官が、首都ネピトーでフライン総司令官と会談し国軍への協力を約束した。フォミン国防次官は、翌27日にネピトーで挙行された国軍の日の記念式典にも参列している。  
 中国も又動きを加速させている。王毅国務委員兼外相は、3月31日から4月2日までシンガポールのビビアン・バラクリシュナン外相・マレーシアのビシャムディン・フセイン外相・インドネシアのルノト・マルスディ外相・フィリピンのテオドロ・ロクシン外相を福建省のアモイに招いてミャンマー問題を話し合った。
 ASEANは今月、ミャンマー問題を話し合う首脳会議の開催を模索して居て、中国はこの重要会議に向けて影響力を行使しようと云う事だ。王毅外相は、3月7日の会見でも、

 1) 国軍とNLDとの対話による解決 
 2) ASEANによる内政不干渉を原則とした解決 
 3) 「中緬運命共同体」(習近平主席がミャンマーを訪問した2020年1月に、スー・チー国家顧問と締結した新たな両国関係)の維持の3点を強調した。  

 中国のミャンマーへの主な関心は 1)中緬国境 2)中緬パイプライン 3)中緬貿易の3点である。
 
 1) 中緬国境は、1,620kmと云うミャンマー最長の国境を有して、私は中国側から国境地帯を回ったことがあるが、国境を挟んだ両国の経済格差は圧倒的である。中国側の雲南省では25もの少数民族が暮らして居て、ミャンマー側の混乱や難民は中国側の混乱に直結する。
 実際、国境の都市・瑞麗では先週3月30日、ミャンマー人達からコロナウイルスが発覚したとして30万都市を一週間封鎖した。
 
 2) 中緬パイプラインは、2009年12月、習近平副主席(当時)がミャンマーを訪問した際、同国のチャウピュー港から雲南省瑞麗迄総工費25.4億ドルを懸けて793kmの天然ガス用パイプラインと、770kmの石油用パイプラインを引くプロジェクトを正式決定した。翌年から工事を始め、天然ガス用は2013年7月に、石油用は2017年3月に開通した。  
 これによって中国は、アメリカ軍に支配されたマラッカ海峡を経ずに、中東からのエネルギーを直接、中国に供給する事が可能に為った。他にもロシアやカザフスタンとのパイプラインがあるが、矢張り中緬パイプラインが中国に取っての生命線で、今回のミャンマー国内の混乱によってこのパイプラインが切断されることを何より恐れている。  

 3) 中緬貿易は、中国からミャンマーへの投資や貿易は拡大の一途を辿っている。2019年のミャンマーの貿易状況を見ると、輸出では中国36.5%・タイ21.8%・日本6.6%、輸入では中国31.4%・シンガポール15.0%・タイ11.1%と、中国が最大の貿易相手国と為っている。
 要は中国は、北朝鮮・ベトナム・ラオス・ミャンマーと云う国境を接した「同志4ヵ国」においてアメリカを超える影響力を行使し続けたいのである。  

 まとめると、現在のミャンマーを巡る関係主要国・地域の態度を簡単に言い表すなら「出るロシア・中国」と「引くアメリカ・EU」、そして「待つ日本・インド」である。過つて同じイギリスの植民地だった「兄貴分」のインドも、ミャンマーへの影響力拡大を虎視眈々と狙っている。将来的にミャンマーは、中国と台頭するインドとの角逐(かくちく)の場と化すだろう。それは北東アジアで、朝鮮半島が日本と中国との角逐の場に為って来た様を髣髴させる。  

 最後に言って置きたいのは、この先、日本迄もが「引く方」に回れば、ミャンマーは完全に「強権国家陣営」に着いてしまうと云う事だ。そう為れば、米中新冷戦において、アジアで「強権国家>民主国家」の構造がより一層進んでしまう事に為る。日本が「星の王子様」を遣っている間に事態はドンドン進んでいるのだ。
 来週末のワシントンでの日米首脳会談で、日本が明確なメッセージを出せ無かったなら、日緬関係に尽力した日本の先人達の苦労を無に帰し、かつ米中新冷戦で中国側を有利に立たせてしまうだろう。日本が「国軍とのパイプ」を世界に示す絶好のチャンス到来である。


 文章 『週刊現代』特別編集委員 近藤 大介


  4-6-6.jpg

   DAISUKE KONDO 4-6-6 現代ビジネス レギュラー作家 Photo: Kiyoshi Mori

 プロフィール 1965年生まれ 埼玉県出身 東京大学卒業 国際情報学修士 講談社『週刊現代』特別編集委員 明治大学国際日本学部講師(東アジア国際関係論) 2009年から2012年まで、講談社(北京)文化有限公司副社長 近著に『アジア燃ゆ』(MdN新書)『中国人は日本の何に魅かれているのか』(秀和システム)『ファーウェイと米中5G戦争』(講談社+α新書)など 
          近藤 大介(『週刊現代』特別編集委員)
















×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。