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2021年04月07日

【4月7日の話】戦艦大和が沈没・・・戦後の重工業の礎に為った世界最大の巨艦




【4月7日の話】戦艦大和が沈没・・・戦後の重工業の礎に為った世界最大の巨艦 


 4-7-2.png  4/7(水) 6:06配信


4-7-1.jpg

   写真・NH 63433 Yamato Naval History and Heritage Command Washington DC 4-7-1
 
 1945年4月7日、旧帝国海軍が誇った戦艦「大和」が、魚雷14本・爆弾13発を受け九州南西沖の海底に沈んだ。乗組員3332名の内生存者は僅か276名だった。当時、日露戦争で東郷平八郎が戦艦「三笠」でバルチック艦隊を破ったことから、海軍は戦艦同士を戦わせる「艦隊決戦」を主眼に置く様に為った。
 諸外国に勝つ為製造された大和は、戦艦としては史上最大だが、主砲を使ったのはミッドウェー海戦やレイテ沖海戦など僅か4回だったと云う。

 三井造船で長年船の設計に携わり、映画『アルキメデスの大戦』で戦艦「大和」の製図監修を担当した播田安弘さんは、大和が完成した1941年に生まれたこともあり思い入れが強い。播田さんは、当時の造船技術をこう語る。

 「アノ頃、戦艦を大量に作って居たのは、恐らくアメリカ・イギリス・ドイツ・日本辺りです。日本の造船技術は他国と比べても目を見張るものがありました。意外にも、世界で初めて空母として設計されたのは日本の『鳳翔』と云う船です。
 他にも、戦艦『夕張』は小型でスピードが速く強力な艦砲を積んで居た事から、発表当時は世界から大きな注目を浴びました。
 大和は、艦隊同士の戦闘の為に造られた戦艦です。艦隊同士で戦うと為ると、より遠くから大砲の弾を飛ばし相手に命中させた方が勝つことに為ります。ですから、大和の大きな特徴として、当時の世界最大口径と為る直径46cmの主砲が搭載されました。明治維新から70年でこれだけの戦艦を造る事が出来たのは、日本の技術水準が高かったことを物語って居ます」
 

 1937年に海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が下り大和の造船が本格的に開始された。約4年後の1941年12月16日 予定より半年以上も早く完成したが、大和を取り巻く状況は変わりつつあった。

 「丁度大和が完成する8日前、真珠湾攻撃でアメリカの戦艦を何隻も沈没させる大きな成果を出しました。このことから軍部の意識は、一気に航空機に向いてしまい戦艦の影が薄く為ったんです。大和には、レーダーの精度が低いと云う大きな欠点もありました。例えば、アメリカの戦艦はレーダーで相手の艦隊を察知し、レーダーと艦砲を連携させることで正確に敵を狙い撃ちします。  
 大和は完成当初レーダーも着いて居らず、後から付けたものも相手の位置が判る程度で、艦砲と連携する迄には至ら無かったんです。日本のものづくり全てに言えることですが、ハード面は非常に強いけれど、ソフト面が弱かったと言えるでしょう」
 

 1945年4月7日、大和は沖縄海上特攻作戦の最中、米軍の猛攻撃を受け海の底に沈む。しかし「大和が戦後へ遺したものは大きかった」と播田さんは語る。

  「造船には、鉄鋼・電気・エンジン等、あらゆる工業の技術が必要に為りますから、その国の産業の水準が現れます。大和の製造技術は後の重工業や機械工業にも影響を与えました。他にも『測距儀(そくきょぎ)』と云う、レンズから機械式計算機を使って対象までの距離を測定する機械が大和に搭載されて居ましたが、この技術は戦後のカメラ産業に生かされます。戦後の日本が奇跡的な発展を遂げたのは、大和の功績も非常に大きいと私は思います」(播田さん)

 写真・NH 63433 Yamato Naval History and Heritage Command Washington DC




 

 海戦はスピード勝負! 艦艇の速力は海戦で「カタログ値」通りだったのか?

  4/4(日) 6:20配信


 戦艦「大和」の最高速度は カタログ上では27ノットだった


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 1978年10月 フィラデルフィア海軍基地に係留される 写真右から戦艦「アイオワ」戦艦「ウィスコンシン」空母「シャングリラ」(画像 アメリカ海軍)4-7-5


 世界最大の戦艦として広く知られる旧日本海軍の戦艦「大和」この艦はカタログスペック上では最高速度27ノット(約50km/h)と云われますが、乗組員の証言では29.3ノット(約54.3km/h)まで出したことがあると云う話も。
 一方、アメリカ海軍に目を向けてみると、アイオワ級戦艦は公称33ノット(約61.1km/h)とされているものの、大戦後の1968(昭和43)年には35ノット(約64.8km/h)台を記録したことがあります。この様に、軍艦のスピードはカタログ値と実測値で大きく異なることが多々あります。そこで、近代戦艦に限定しつつ最大速度を比較・解説します。  

 そもそも第2次世界大戦迄の軍艦同士の海戦は、基本的には目視で敵艦を見ながら自艦の大砲を撃ったり魚雷を放ったりするものでした。軍艦の速力には重要な意味があったと云えるでしょう。実例として、第1次世界大戦中の1915(大正4)年に起きたドッガーバング海戦を挙げましょう。
 この海戦では、イギリス艦隊とドイツ艦隊が戦火を交えましたが、この時イギリス艦隊は最高速度27.5ノットから28ノット(約50.9km/hから51.8km/h)の巡洋戦艦3隻でドイツ艦隊を追撃しています。ドイツ艦隊は巡洋戦艦2隻が27ノットから28ノット(約50km/hから51.8km/h)と高速でしたが、旗艦「ザイドリッツ」は最高速度26.5ノット(約49km/h)装甲巡洋艦「ブリュッヒャー」は同25.4ノット(約47km/h)とやや低速でした。
 
 この時イギリス艦隊にも最高速度25ノット(約46.3km/h)代の巡洋戦艦2隻が居ました。しかし、遅い2隻を連れて居るとドイツ艦隊を取り逃がすと考えたイギリス側は高速の3隻だけで追撃して居ます。ドイツ艦隊の判断は「イギリス艦隊は艦隊の速度を、25ノット台の遅い巡洋戦艦2隻に合わせるだろうから、我が艦隊に25.4ノットのブリュッヒャーが居ても逃げられる」と云うものでした。
 が、イギリス側は速い3隻で打撃を与えて、ドイツ艦隊の速度を落とせば好いと判断したのです。結果としてブリュッヒャーは撃沈されザイドリッツも大破しています。  

 もし、イギリス側の速い巡洋戦艦が1隻だけだったら袋叩きに合うことを警戒して、遅い艦に合わせて行動しドイツ艦隊を取り逃がして居たかも知れません。逆に、ドイツ艦隊全艦が29ノット(約53.7km/h)で動けたなら、イギリス側は攻撃手段が無かったとも云えます。

 第1次大戦後益々高速化  40ノット超えも

 第1次世界大戦以降、各国の軍艦は益々高速化して行き、戦艦より一回り小さい巡洋艦は30ノット(55.6km/h)以上出ることが当たり前に為って行きます。駆逐艦に至っては40ノット超えの艦も登場する様に為り、中には駆逐艦史上最速の45.25ノット(83.8km/h)を記録したフランス駆逐艦「ル・テリブル」の例も。
脚が速ければ、強大な戦艦にも肉薄して魚雷攻撃を仕掛ける機会が生まれますし、敵艦の頭を抑える戦術機動でも優位に立てる為、速力は重要でした。  

 旧日本海軍では1941(昭和16)年に行われた演習において、金剛型戦艦4隻からなる第三戦隊が、29ノット(約53.7km/h)での昼間教練射撃を行っています。この演習は平均射距離25.5kmの遠距離射撃でしたが、初弾命中を得ています。  
 金剛型戦艦の最高速度は30ノット(約55.6km/h)なので、それにほぼ近いスピードで航行しつつ、実戦さながらの最高速度での遠距離砲戦を行ったと云えるでしょう。  

 最高速度27ノット(約50km/h)で「遅い」と批判される大和型戦艦も、大和が1942(昭和17)年6月に28.5ノット(約52.7km/h)武蔵も公試で28.1ノット(約52km/h)を出すなど、カタログ値を上回る速度も記録しています。なお、冒頭に記した通り、一部の乗組員の証言では29.3ノット(約54.2km/h)を記録したと云う話もあります。
 大西洋に目を転じてみると、1934(昭和9)年に就役したドイツのドイチュランド級装甲艦も「15〜20cm砲の巡洋艦を圧倒する28cm砲」と「当時の戦艦では大半が追い付け無い26ノット(約48km/h)の速度」を有し、戦略的に対抗が難しい艦型と考えられていました。
 なお、装甲艦は26ノットが公表値でしたが「アドミラル・グラーフ・シュペー」が公試で28.5ノット(約速53km/h)を記録する等、実際には28ノット(約52km/h)を超えていました。

 ドイツのビスマルク級戦艦も、公表値は最高速度27ノット(約50km/h)でしたが、実際にはテストにおいて30.8ノット(約57km/h)を記録して居ます。これら日独の戦艦達を上回る俊足振りと云えるのが、アメリカのアイオワ級戦艦です。カタログ値では最高33ノット(約61.1km/h)ですが、1968(昭和43)年に、戦艦での世界最高速力35.4ノット(約65.6km/h)を記録しています。

 同時に、戦時中では対空火器の増加等で排水量が増えたこともあり「機関に過負荷を掛け無い最高速度は30ノット(約55.6km/h)」と規定されて居ます。ちなみに、軍艦の最高速度は速度計測時の水深や海流の流れ・風向き・燃料や弾薬の消費状態などで変化します。
 水深は浅い方が水底の影響を受け速力が増し、燃料や弾薬の搭載量が少ない方が船体そのものが軽く為る為速力が出ます。その為、前述した様な速力は飽く迄も目安でしかありません。

 現代の各国軍艦は速力30ノット前後に・・・何故?


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   2022年前半就役予定の護衛艦「もがみ」速力は約30ノット(画像:海上自衛隊)4-7-6

 では、上述した様に第2次世界大戦まで高速化する一方だった各国の軍艦が、おしなべて21世紀の現在、速力30ノット前後に落ち着いたのは何故でしょう。それは、航空機やミサイル・誘導爆弾の進歩によるものが大きいです。例えば、米国の開発した対艦ミサイル「ハープーン」は124〜315kmの射程距離を持ち、かつレーダーによる誘導で高い命中率を誇ります。

 水上艦艇の速力が数ノット違っても、戦術機動でミサイルの投射量を増やせたり誘導爆弾を回避出来たりする訳ではありません。現代では機関出力よりも兵器搭載量など、別のリソースに重量を割くことが妥当と云う事です。  
 結果、現代の水上艦は敵艦と速度比べをする場面も少ないこと等から、高速力への拘りは見られ無く為ったと云えるでしょう。海上自衛隊護衛艦など、現代の水上艦の多くが最高速度30ノット(約55.6km/h)とされて居ます。

 とは云え、この数字は飽く迄も公表値、即ちカタログスペックの為、実際には更に速く航行出来ると云われて居ます。ちなみに21世紀の現在、国内航路の長距離フェリーに乗ると、前述した旧日本海軍の戦艦のスピードを疑似体験出来ます。
 例えば新日本海フェリーの「はまなす」「あかしあ」は、航海速力30.5ノット(約56.4km/h)と、金剛型戦艦並みの速度を誇ります。同じく「すずらん」「すいせん」は航海速力28ノット(約51.9km/h)太平洋フェリーの「いしかり」「きそ」は最大速力26.5ノットから26.73ノット(約49km/hから49.5km/h)の高速力で航行しています。こうした形で過ぎ去った歴史に思いを馳せるのも面白いのではないでしょうか。

 安藤昌季(乗りものライター)





 速い速い駆逐艦「島風」!  旧海軍がスピードを追及した理由と一点モノで終了のワケ


 月刊PANZER編集部 2019.04.19


 小型艇等はともあれ、3000トンクラスの艦船で40ノット(約74km/h)を出すと為ると、21世紀の今でも相当速いと云えるでしょう。旧日本海軍が駆逐艦「島風(2代目)」で目指したものは、そうしたハイレベルの速さでした。

 艦船の速力はどれくらい?

 艦船の速力は「ノット」と云う単位で表され、1ノットは1.852km/hに相当しますが、実際の処どれ位の速さで航行して居るのでしょうか。


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 4-7-7 1943年5月5日 京都府北部 宮津湾外を全力で公試航行中の「島風(2代目)」撮影時の速力は39.9ノットと記録されて居る

 一般的なコンテナ船での最高速力は24ノット程度で、現代の軍艦でも30ノット前後が普通です。40ノットが出せるのはジェットフォイル等一部の高速船に限られ、海上自衛隊のはやぶさ型ミサイル艇でも最高速力は44ノット(81.5km/h)です。船舶に取って40ノットと云う速力はハードルが非常に高いのです。
 40ノットは約74km/hで、クルマではやや速いと云った処でしょうか。しかし何も遮るものの無い海の上を、車の数百倍から数千倍の重さの船がこの速力を出すとズッと速く感じます。

 この40ノットに挑戦して居たのが過つての日本海軍です。しかもミサイル「艇」のような排水量200tクラスの小型艇では無く1000t以上もある様な駆逐艦の話です。何故そんなに速い船が必要だったのでしょうか。日本海軍は太平洋戦争の遥か前から仮想敵にアメリカを想定し、太平洋でアメリカ戦艦群との決戦に勝利する方法を研究して居ました。

 戦艦同士の決戦を行う前に、アメリカ戦艦戦力を少しでも削って置こうと云うのが「漸減作戦(ざんげんさくせん・当時の読み方)」で、軽巡洋艦・駆逐艦で編制された「水雷戦隊」による、戦艦に対する魚雷攻撃は日本海軍の大きな柱でした。駆逐艦の性能を高め、魚雷の威力を高める事が一大目標に為ります。
 魚雷攻撃を成功させるには、敵艦に先回りして有利な位置に付くことが大切で、日本海軍は俊足駆逐艦の建造に力を注ぎます。

 1917(大正6)年度に計画された八四・八六艦隊計画で生まれた公試排水量(弾薬定数・燃料・水など消耗品は3分の2状態)1,300トンクラスの峯風型では、遂に最高速力39ノット(72.2km/h)を実現し、中でも峯風型「島風(初代)」は最高速力40.7ノット(75.4km/h)を叩き出します。今から約100年前の話です。処が、この成果を根底から覆す事故が立て続けに起こります。

 艦艇設計に影響を与えたふたつの大事件

 1934(昭和9)年3月12日に発生した「友鶴事件」では、艦体傾斜90度から110度まで耐えられる筈だった千鳥型水雷艇「友鶴」が、僅か40度の傾斜で転覆沈没し、死者72名行方不明者28名を出します。その1年後の1935年9月26日に発生した「第四艦隊事件」では、演習中の第四艦隊が台風に遭遇し、沈没こそありませんでしたが41隻中19隻が損傷・艦首切断や艦橋破壊など大破した艦もあり、死者54名を出しました。


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 4-7-8 旧日本海軍の水雷艇「友鶴」「友鶴事件」「第四艦隊事件」を受けた改善工事が施された後の、上海で撮影された姿(画像 アメリカ海軍)

 「友鶴事件」「第四艦隊事件」の2大事件は日本海軍を震撼させます。その原因として艦の安定性不足・強度不足等、それ迄の艦艇設計に無理があることが明らかに為ったのです。多くの艦で安全対策工事が行われ、船体の強化改造・武装の削減等が行われた結果、主力駆逐艦と為る事が期待された吹雪型でも38ノットから35ノット迄速力が低下しました。
 
 ちなみに、その後、日本海軍は終戦に至る迄台風で被害を受けることは殆ど無く為りましたが、アメリカ海軍ハルゼー提督指揮下の第3艦隊が1944(昭和19)年12月18日台風(「コブラ台風」又は「ハルゼー台風」とも)に遭遇し駆逐艦3隻が沈没、空母8隻他13隻が損傷・航空機186機損失・死者790名を出し、半年後の1945(昭和20)年6月5日にも再び台風に巻き込まれ、沈没艦こそ無かったものの35隻が損傷・航空機76機・死者6名の被害を出して居ます。

 速い! 安い(燃費)! 言うことナシ!
 
 やがて、仮想敵であるアメリカのノースカロライナ級戦艦は最高速力が27ノットであると判明し、駆逐艦の速力優位性を失いつつある日本海軍は危機感を強めます。そこで1939(昭和14)年に、公試排水量3,000トンクラスながら速力40ノット強と云う、高速駆逐艦「島風」が計画されます。「島風」と云う艦名は、40.7ノットを記録した峯風型「島風」にちなんだものです。


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 4-7-9 峯風型「島風(初代)」1940年に哨戒艇へ改造され「第一号哨戒艇」と改名した(画像 アメリカ海軍)

 「島風」には、高速を発揮して敵戦艦に見つかり難い様に迂回接近し、遠距離から秘密兵器「九三式魚雷」(いわゆる「酸素魚雷」)を一斉に発射する奇襲戦法が期待されました。その為機関は従来よりも高温・高圧のボイラーとし、タービンも羽数が増やされてそれ迄よりも約1.5倍の7万5000馬力を発揮。全力公試では40.37ノット(74.8km/h)を記録します。
 更に、燃料などを軽くした過負荷全力公試では、先代の記録を上回る40.9ノット(75.7km/h)を叩き出しました。過負荷全力公試の為非公式には為りますが日本駆逐艦史上最速です。また高性能ボイラーで燃費も良く為り、吹雪型の航続距離が14ノットで5,000海里(9260km)だったのに対し「島風」は18ノットで6,000海里(1万1110km)と「速くて低燃費」の良いことずくめでした。

 持て余した秘密兵器

 「島風」は発射出来る魚雷の多さもポイントで、5連装魚雷発射機を船体中央に3基搭載して左右舷どちらにも15発が発射出来ました。これは従来の駆逐艦の2隻分に相当する威力で、重雷装艦「北上」「大井」の20発に次ぐものでした。
 搭載した「九三式魚雷」は48ノットで射程2万mにも及ぶもので、それ迄の「九〇式魚雷」と比較しても射程は約3倍を誇りました。

 しかし48ノットで2万m進むには約13.5分掛かり、最大射程で移動目標に命中させるのは至難である事が判ります。1940(昭和15)年と41(昭和16)年に実施された水雷演習でも遠距離雷撃は効果が薄いと判定されています。
 敵の距離や位置を正確に測る高性能測距機や射撃管制能力を持つ巡洋艦クラスなら兎も角、駆逐艦クラスにはオーバースペック気味であり「島風」に搭載された雷撃発射指揮装置も従来の短射程魚雷搭載駆逐艦と同じものだった為、遠距離雷撃の有効性に疑問が呈される様に為ります。


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 4-7-10 1944年11月11日 オルモック湾で空襲を受ける「島風」この後撃沈される(画像 アメリカ海軍)

 戦艦同士の決戦が起こらず「漸減作戦」の可能性も低く為ると、水雷熱は急速に冷めて行きます。「島風」同型艦は16隻建造される計画でしたが、実際には1943(昭和18)年5月に竣工した「島風」1隻のみと為ります。
 初陣は1943年7月の「キスカ島撤退作戦」で、レーダーを装備し俊足であったことから、第一水雷戦隊司令官の木村昌福少将が特に要望したと言われます。霧に紛れながらの作戦は困難でしたが、陸海軍将兵5,000名以上の撤退に成功しました。

 その後は艦隊や輸送船団護衛任務が殆どで、1944(昭和19)年10月24日の「レイテ沖海戦」では、撃沈された戦艦「武蔵」の救援も行っています。この時期、制空権はアメリカが握って居り、期待されて居た重雷装も俊足も存分に発揮する機会は訪れず、1944年11月11日にフィリピン中部レイテ島北西部のオルモック湾で空襲を受け撃沈されます。竣工から1年6か月後のことでした。

 【了】















 






 
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