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2021年04月12日

【戦争秘話】開戦前 真珠湾を偵察した5人の海軍士官は何を見たのか 神立 尚紀



 【戦争秘話】開戦前 真珠湾を偵察した5人の海軍士官は 何を見たのか 神立 尚紀  


   現代ビジネス 4/11(日) 11:02


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              写真 現代ビジネス 4-11-1

 4月12日に発売される『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀氏が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し「現代ビジネス」に寄稿・配信された記事の中から、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。そこに掲載された記事に関連するエピソードを」として紹介する。
 第3回は、本書第一章「真珠湾攻撃に参加した隊員達がコッソリ明かした『本音』」に関連して、丁度80年前の昭和16(1941)年、攻撃に先立って真珠湾を偵察した海軍士官達の、余り語られる事の無かったエピソードを紹介する。

 目的は潜行して居るスパイとの連絡


            4-11-2.jpg 4-11-2

      ホノルル総領事館で「森村正」の変名で諜報活動を行った吉川猛夫予備役海軍少尉


 日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾攻撃・昭和16年1941年12月8日で、太平洋戦争の火蓋が切られる直前の10月15日、日本郵船の貨客船「龍田丸」は、盛大な見送りを受け、舷側に無数の紙テープをナビカセながら横浜港を出港した。行き先はハワイ経由サンフランシスコである。  
 「龍田丸」は総トン数16,955トン・全長178メートル・航海速力19ノット(時速約35キロ)・旅客定員839名(一等239名・二等96名・三等504名) 昭和5(1930)年、北太平洋航路に就役して以降、姉妹艦「浅間丸」「秩父丸」(後「鎌倉丸」と改名)と共に「太平洋の女王」と呼ばれた豪華客船だった。  

 当時アメリカは、日本の南部仏印(現・ベトナム)進駐を機に、在米日本資産の凍結・対日石油禁輸・通商拒否権(言対日強硬策を打ち出した(6月21日)が、日米の協議の結果、人道上の見地から人と郵便物の往来は続けられる事に為り、その交換船の一隻目として「龍田丸」が選ばれたのだ。  
 日米関係は緊迫の度を増していたが普段と変わら無い出港風景。只、日本郵船所有を示す黒地に赤線2本の煙突のファンネルマークが黒一色に塗り潰されて居るのが異様だった。これは、万一のアメリカ政府による接収を避ける為、日本郵船の船としてでは無く、日本政府が徴用した交換船と云う名目を立てる為の措置である。  

 この船にはもう一つ表に出さざる任務があった。アメリカ太平洋艦隊が本拠を置くハワイ・真珠湾の隠密偵察と現地諜報員(スパイ)との連絡である。その為に、3人の海軍士官が船員に化けて密かに乗り組んで居たのだ。  
 既に昭和15(1940)年5月、アメリカ太平洋艦隊の主力がアメリカ西海岸・サンディエゴから、より日本に近いハワイに拠点を移した事を脅威と捉えた日本海軍は、様々な手段で情報収集に当たって居た。 情報収集(諜報活動)は極秘裏に行われ、今日その全貌を把握する事は難しい。
 だがその一端として、過つて日本海軍に空母の運用を指導、その後三菱に迎えられ日本のスパイと為って活動して居たイギリス空軍元大尉、フレデリック・ジョゼフ・ラトランドをハワイに派遣し諜報活動をさせて居た事が、近年公開された英機密文書から明らかに為っている。

 ラトランドは小舟をチャーターし真珠湾の米艦隊の動静を16ミリフィルムに撮影、情報を日本に送って居た。FBI・米連邦捜査局が彼の動きに疑念を抱き、泳がせて拘束するタイミングを測って居たが、その事はMI6・英秘密情報部も察知する処と為り、ラトランドは1941年10月、イギリスに帰国した処を「敵対的行為」の容疑で逮捕、2年にわたり拘留される。  
 また、日本海軍は、健康を害して予備役に編入され軍令部嘱託として英国に関する情報収集の仕事をして居た吉川猛夫少尉(海軍兵学校61期出身・クラスメートは既に大尉に進級している)を外務省に入省させ「森村正」の偽名でホノルル総領事館の三等書記官として送り込んで居た。  

 出発に先立ち、情報を担当する軍令部第三部は、彼に当座の活動資金として6万ドル(当時のレートで25万6,200円 少尉の俸給月額の3,660倍)もの機密費を手渡したとされる。「森村」こと吉川は、昭和16(1941)年3月27日「新田丸」でホノルルに到着。以後、様々な手段を用いて諜報活動を続けて居る。  
 怪しまれ無い様、日本料亭の仲居や芸者とドライブを楽しむ振りをして港内を観察したり、芸者を連れて遊覧飛行を装い上空から偵察したりする内、地元の日系一世・二世の間では「かなりの遊び人」と噂が立ったりもした。かと思えば、一晩中、1人で砂糖黍畑(さとうきびばたけ)に身を潜めて港内を監視したこともあった。

 真珠湾作戦の最後の詰め


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       4-12-1 「龍田丸」に乗船して真珠湾を偵察した松尾敬宇中尉

 普段、この程度のスパイ合戦はどの国でも行われて居た事で「駐在武官」「語学将校」の肩書きで派遣される軍人がスパイ活動を行うことは、両国政府共に承知の上で受け入れて居る。只、その行動を常に監視して居て、尻尾を出した時には国外追放処分にする。
 昭和15(1940)年、語学将校としてアメリカに駐在した岡田貞外茂(さだとも)海軍少佐(岡田啓介元総理の長男・後フィリピンで戦死)が、スパイ行為を働いたとして、翌1941年国外追放された例がある。アメリカも日本に対し、諜報活動をもっと要領好くかつ大掛かりに行って居たと云う。  

 「森村正」こと吉川猛夫をハワイに送り込んだ時点で、日本はアメリカと戦端を開くことを決めて居た訳では無い。しかし、アメリカがイギリス・オランダも引き込み、主要産油地からの対日輸出を全面的に禁止するに及んで、開戦止む無しの機運が急速に高まった。石油が無く為れば、戦わずして日本は干上がってしまうと考えられたからである。  
 その際、海軍の作戦の柱として考えられたのが、基地航空隊によるフィリピンの米軍基地空襲と、機動部隊の空母に搭載された艦上機によるハワイ・真珠湾の米太平洋艦隊への奇襲攻撃だった。

 「龍田丸」に乗船した海軍士官は、攻撃目標である真珠湾をその目で見ると同時に「森村正」(吉川)と連絡し、真珠湾攻撃作戦の最後の詰めを行う為に派遣されたのだ。乗船者に選ばれたのは、軍令部第三部勤務の中島湊中佐、そして「甲標的」と呼ばれる特殊潜航艇の艇長として訓練を受けていた松尾敬宇中尉・神田晃中尉の3名。
 特殊潜航艇の艇長が選ばれたのは、真珠湾を攻撃する際には飛行機の攻撃に呼応して、海中からも特殊潜航艇で敵艦を攻撃するプランが浮上して居たからである。  

 特殊潜航艇の訓練母艦として使われて居た水上機母艦「千代田」艦長・原田覚大佐の回想によると、呉で訓練中の昭和16年10月9日、聯合艦隊参謀長より「真珠湾視察の為商船に船員として化けこませるから、(顔が)ノッペリしたのを2人出せ」と指示されたのだと云う。
 松尾・神田両中尉は一時的に「軍令部出仕」の肩書きと為り「航空便で軍令部に着任せよ。服装は平服・荷物はカバン一個・中身は全部夏物・軍装・軍用品の持参は許さず」との指令を受け、東京・霞が関の軍令部に向かった。この時、特殊潜航艇仲間が大送別会を開き、総員が帽を振って見送る中、松尾・神田両名は万歳三唱をして悲壮な覚悟で10日「千代田」を発ったと云う。  

 「龍田丸」に乗船した中島中佐は「日本郵船の中島元重役の親戚で、ハワイとサンフランシスコを見たいと言うので特に本社で臨時事務員として便宜を図った」と云う名目で、船員の制服の金筋に白い識別線を着けた事務員の姿。松尾・神田両中尉は両袖に金ボタンを3つづつ着けた商船学校の制服を着て、アプレンティス(実習生)として乗り込む事に為る。
 「龍田丸」には、航海科と機関科のアプレンティスが乗って居たが、学校が東京と神戸に分かれて居て、尚且つ当直時間が違って他の実習生と接する機会は少なく、ニセモノである事が露見する心配は少ないと思われて居た。

 だが、思わぬ処でヒヤリとする場面があった。熊本中学で松尾の1年先輩である「龍田丸」の木下国資三等機関士が、航海中に船橋から降りて来た松尾の姿を認め「ア、松尾、松尾じゃないか」と、他のアプレンティスの居る前で声を掛けてしまったのだ。
 松尾は「しまった」という素振りで、他の者を船室に押し込みドアを閉めてから、唇に指を立てて「黙って居て呉れ」と云う合図をし、挙手の敬礼をして船室に消えた。木下は、後に松尾の戦死が報じられる迄、この事を誰にも話さ無かった。  

 松尾に付いては〈運転士生徒 松尾又雄 運転士生徒として龍田丸乗組を命ス〉と云う、出港2日前、10月13日付の辞令がある。下の名前だけを変えて居るが、もし苗字まで偽名にしていたら、木下が「松尾」と呼んだことで周囲から怪しまれたかも知れない。

 こよりに書き込まれた極秘文書


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 真珠湾攻撃機密書類に記された、ハワイの人口内訳 諜報員の活動は軍事に留まらず、気象・産業・人口など多岐にわたっていた 4-12-2

 「龍田丸」は通常の航路とは違い、一旦北上して択捉(えとろふ)島に接近し、北太平洋からハワイに向けて針路を変えた。これは、真珠湾攻撃に向かう機動部隊の予定コースに近い。中島中佐は、途中の天候やどの位外国商船や軍艦に行き交うかを具(つぶさ)に調べて居たと言われている。  
 只、何時もと違うコースを航行して居る事は一般船客には知らされていない。船内では、特に一等船客は、毎日のダンスパーティーやゲームなどの催しや、タキシード・イブニングドレスの正装でテーブルに着く豪華なディナーを楽しんでいた。  

 ハワイ・オアフ島に近付いた航海8日目の10月23日、突然、米海軍のパトロール船2隻が「龍田丸」に接舷し、武装した水兵2人が乗り込んで来て「これからは、海にものを一切捨てるな」と厳命した。船客には、時限爆雷の投下を恐れての措置と説明されたが、情報の入ったカプセル等の連絡手段を封じて置く意図があったのかも知れない。  
 すると突然、頭上に爆音が響き数機の米艦上爆撃機が「龍田丸」を目標に急降下爆撃の示威を繰り返し、続いて戦闘機・魚雷艇が襲撃訓練を重ねた。国際儀礼に反し不愉快なことではあるが、これは、3人の将校に取っては、アメリカ側の戦術や練度を知る願っても無い機会と為った。

 ホノルルの岸壁では、大勢の在留邦人が「龍田丸」を出迎えた。当時、日本側諜報員が残した記録によると、昭和16(1941)年7月1日現在のハワイの人口は、現地人(原文では「土人」)14,246人・現地人と他民族とのハーフ(原文では「半土人」)52,445人・プエルトリコ人8,460人・白人141,627人・中国人29,237人・日本人159,534人・朝鮮人6,681人・フィリピン人52,060人・その他849人・・・計465,139人とあって、人数で言えば、ホボ3分の1を占める日本人が最も多かったのだ。
 
 岸壁の在留邦人達は、これ迄の入港風景で見た事の無かった米軍の襲撃訓練、そして「龍田丸」の煙突が真っ黒に塗られて居る事に驚いたと云う。ハワイ邦字紙に〈煙突も 黒うして(苦労して)来た「龍田丸」〉と云う投稿川柳が載った。
 ホノルル入港後、アメリカ側の警戒はイヨイヨ厳重に為り、乗組員全員が強制的に指紋を採られたり、数十名の武装したコーストガード(沿岸警備隊)が乗り込んで来て、船内の要所・要所を見張る様に為った。 
 中島中佐は「森村正三等書記官」こと吉川猛夫宛の機密文書を入れたカプセルを、水なしで飲み込む訓練も一生懸命遣った。

 間も無く、喜多長雄ホノルル総領事が来船した為、中島中佐はカプセルを飲み込む事無く、船長室で、こよりの中に書き込んだ極秘文書を総領事に手渡した。
 吉川猛夫の著書『東の風、雨――真珠湾スパイの回想』(講談社・1963年)によると、総領事が中島中佐から受け取った一本のこよりを解(ほぐ)してみると、そこには97項目に及ぶ質問が鉛筆でビッシリと書かれて居たと云う。  
 中島中佐は、事務長のカバン持ちと云う名目で上陸し、総領事館でも喜多総領事と面会したが、ここでの話は全て盗聴される恐れがある。声に出すのは他愛も無い世間話だけにして重要な会話は筆談で行われた。  

 松尾・神田両中尉は、入港前に真珠湾の湾口を遠望し、特殊潜航艇での侵入方法に考えを巡らしたに違い無いが、彼等の活動の詳細については判然としない。森村(吉川)からの返書を中島が受け取り「龍田丸」がホノルルを出港したのは10月25日。最終目的地であるサンフランシスコに到着したのは30日早朝のことである。  
 処が丁度その頃、日本の大船団が仏印(ベトナム)沖を南下中との情報がアメリカ側に齎(もたら)され、統合参謀本部が対日姿勢を更に硬化「龍田丸」も抑留される恐れが出て来た。そこで、木村庄平船長は、乗客の乗船を急がせると郵便物の受け取りを待たずに出港、日本への最短コースである荒天の北太平洋を航行し11月14日横浜港に帰港した。  
 中島中佐・松尾・神田両中尉の3人の偽船員達は、接岸を待たず検疫錨地に迎えに来た海軍の内火艇で上陸した。松尾・神田の両名は、直ちに飛行機で呉に戻って居る。  

 「龍田丸」はその後、もう一度ロサンゼルス・バルボア(パナマ運河口)に向け出港(12月2日)したが、これは開戦の意図を偽装する為の航海で、戦争が始まれば直ちに帰国する事に為って居た。

 一週間後、第二陣の士官を乗せた船も出航


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    「龍田丸」に続き、海軍士官2名を乗せてホノルルに向かった「大洋丸」 4-12-3 

 「龍田丸」が3人の海軍士官を乗せて出港した1週間後の10月22日、横浜からはもう1隻「大洋丸」がハワイに向け出港した。「大洋丸」は14,457トン・速力14ノット(時速約26キロ) 第一次世界大戦で戦勝国と為った日本が、ドイツから戦時賠償として譲渡された船で、老朽船ではあったが豪華客船だった。  
 「大洋丸」には、潜水学校教官の前島寿英中佐が船医に、海軍省人事局の鈴木英少佐が事務員に、夫々化けて乗船して居る。

 鈴木少佐はベテランの水上機パイロットで、航海の直前まで第三艦隊航空参謀を務めて居たが、この航海の為に人事局付に為って居た。鈴木は「出発の約1ヵ月前から真珠湾のあらゆる情報に目を通したが、軍令部の指示等も含めメモに残さず一切を頭の中に入れた。携行品には、軍人の身分を窺わせるものは何ひとつ入れ無かった」 と、回想している。  
 「大洋丸」も横浜出港後北上し択捉島付近で東に変針、アリューシャン諸島とミッドウェー島を結ぶ線の中間辺りから南下すると云う、真珠湾攻撃に出撃する機動部隊の予定コースを航海してハワイに向かった。船客の殆どはハワイに帰る外国人だったと云う。  

 北太平洋は波浪・暴風が凄まじく「大洋丸」は一時、2ノットに迄減速を余儀無くされたが、飛行機乗りである鈴木少佐は「水上偵察機の発艦・収容は可能」「機動部隊が外国船に遭遇する可能性は低い」と判断した。オアフ島北方200浬(カイリ/約370キロ)の所で米軍の哨戒機に発見され、100浬の所で米軍機の編隊が擬装襲撃(攻撃訓練)に飛来した。これで、米軍の哨戒圏と攻撃圏のアラマシが判明した。  

 11月1日「大洋丸」は真珠湾に近い8号岸壁に接岸。此処からは米艦艇の錨泊状況や施設が一望に出来た。港外には、潜水艦の侵入を防ぐ為の防潜網が用意され、その端には警備艇が待機して居て、命令一下速やかに展張する訓練を行って居るのが見える。  
 防潜網を張られてしまえば、特殊潜航艇による港内への侵入は困難であると思えた。米軍の警戒は厳しく、上陸しても所要の連絡先以外への立ち入りは禁止された。  

 前島中佐・鈴木少佐は米側の尋問を避ける為上陸はせず、来船する喜多総領事や領事館員を通じて吉川猛夫と連絡を取った。米側からマークされて居る吉川も大洋丸には来ない。  連絡事項や質問は「龍田丸」の時と同様、薄い紙に鉛筆で書いてこよりにして領事館員に託し、それに対する吉川の報告は、領事館から船に届ける新聞の束の奥に隠したりして受け渡しをした。  
 スパイの鉄則は、末端のスパイ同士が接触しない事である。前島・鈴木の身分や乗船目的は、喜多総領事以外の誰にも明かされ無かった。ハワイ在住のオットー・キューンと云うドイツ人を、軍令部がスパイとして使って居るとされて居たが彼とも連絡は取ら無かった。

 領事館では、吉川が中心に為って諜報活動を続けて居るが、重要な情報の中には米軍人からの売り込みもあったと云う。軍令部が知りたかったのは、オアフ島の警戒態勢・米軍は果たして瞬時に反撃体勢に入れるか・哨戒機の機種や機数・出発時刻等で・・・最も大切なのは哨戒の範囲である。
 予備役海軍少尉でもある吉川の報告は、要点を押さえて居て満足すべきものだった。11月2日は日曜日である。既に、真珠湾攻撃は日曜日の朝に実行することとされて居た。

 この日、米海軍の艦船は訓練も無く静かな休日を過ごして居た。前島・鈴木は、日曜日の奇襲成功に望みを抱いた。11月5日「大洋丸」はホノルルを出港し米本土迄は行かずにハワイで折り返し日本に向かった。帰りは、矢張り真珠湾攻撃の機動部隊が帰途に着く予定の、やや南寄りの航路である。  
 鈴木少佐は尚も慎重だった。万一、公海上で米英の軍艦に臨検された場合に備えて、ホノルル在泊中の資料の全てを頭に叩き込み、どうしても書類にしないといけ無いものは細いこよりにし、更にそれを数本より合わせて紐にして直ぐに燃やせる所に置いた。  

 帰路の「大洋丸」には、ハワイから日本に帰る日本人一世・二世が447人乗船して居て、米軍基地で働いて居た者も多く彼等も又重要な情報源に為った。「大洋丸」は11月17日、横浜港に入港した。先にハワイ経由サンフランシスコ迄行った「龍田丸」が帰国した3日後のことである。
 前島中佐と鈴木少佐はその足で軍令部に赴き、軍令部総長・永野修身大将、次長・伊藤整一中将等主要幹部にハワイ偵察の報告をした。

 作戦参加搭乗員たちに直接敵情説明


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 4-12-4 真珠湾攻撃の攻撃隊指揮官に配布された機密書類には、諜報活動の成果が詰まって居る。写真は空母「赤城」戦闘機分隊長・進藤三郎大尉が遺した真珠湾攻撃の軍機書類(以下同じ)

 鈴木少佐は11月19日、機動部隊の護衛で真珠湾作戦に参加する戦艦「比叡」に木更津沖で乗艦し、23日、択捉島単冠湾に入泊して居た機動部隊の旗艦・空母「赤城」艦上で、南雲忠一司令長官を初めとする司令部での最後の作戦会議に参加、翌24日には「赤城」に参集した飛行機搭乗員達にオアフ島の模型を前に現地の情報を詳細に説明した。  
 真珠湾攻撃に参加した搭乗員の回想に必ず出て來る「『赤城』でのオアフ島模型を前にした作戦説明」は、ハワイから帰ったばかりの鈴木少佐による最新の情報だったのだ。  

 25日、山本五十六聯合艦隊司令長官より、26日朝、機動部隊出撃の命令が届く。南雲中将は26日午前2時頃、眠って居た鈴木少佐を起こし「米艦隊はラハイナ泊地では無くて真珠湾に居るのだね?」と、念を押した。南雲中将は眠れぬ夜を過ごして居たらしかった。26日、機動部隊の各艦が出港して行くのを、鈴木は「赤城」から移乗した海防艦「国後」の艦上で見送った。  

 機動部隊の出航に合わせて、北海道の美幌基地に進出して居た木更津海軍航空隊の九六式陸上攻撃機が前路哨戒に当たって居る。当時、機長として前路哨戒の任務に就いた畠山金太一飛曹(後少尉)は、筆者のインタビューに「真珠湾攻撃の事迄は知らされて居ませんでしたが、これだけの大艦隊が隠密裏に出て行くと云うのは尋常な事では無い。潜水艦は勿論、漁船一隻も見逃す訳には行きませんから、緊張感を以て、航続時間ギリギリ迄哨戒しました」 と回想している。  

 真珠湾では無いが「龍田丸」と「大洋丸」の間にはもう1隻、日本郵船の「氷川丸」が、軍令部第三部の福島栄吉少佐を乗せて、10月20日シアトルに向け横浜を出港して居る。情報を担当する第三部の少佐が、この時期にアメリカまで直接出向くのは、開戦に関する用件の為としか考えられ無いが、福島少佐の目的に付いてはハッキリしない。
 駐在武官か補佐官をシアトルに呼んで、開戦の方針を伝えたのだろうとの推察が、最も正鵠(せいこく)を射たものだと思われる。

 ・・・長期にわたる何重もの諜報活動そして緻密な作戦、それに向けた訓練が功を奏して、12月8日、真珠湾攻撃は成功を収め、一時的にせよ米艦隊の脅威を太平洋から一掃した。 只、潜水艦から発進した5隻の特殊潜航艇が悉く未帰還と為り、9名が戦死1名が捕虜と為る結果に終わったことは当事者達にとって無念であったに違いない。だがこれは、3年9ヵ月に及ぶ長く苦しい戦争の序章に過ぎ無い。

 5人の偵察士官のその後

 真珠湾攻撃前にハワイを偵察した5人の海軍士官の内「龍田丸」の中島湊中佐は、昭和17(1942)年2月21日、南西方面艦隊参謀として蘭印・セレベス島(現・インドネシア・スラウェシ島)で戦死。
 神田晃中尉は、同年3月8日、特殊潜航艇の訓練中に瀬戸内海で殉職した。松尾敬宇中尉は、真珠湾への出撃を熱望したが帰国した時には既に真珠湾攻撃に参加する特殊潜航艇の搭乗員が決まって居た為第一陣の選に漏れ、大尉に進級した直後の昭和17年5月31日・オーストラリア・シドニー湾の敵艦船攻撃に出撃。他の2艇と共に目的を果たせ無いまま戦死した。


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      4-12-5 昭和17年 日英交換船の際 米潜水艦の潜望鏡が捉えた「龍田丸」

 松尾艇は、岸壁に衝突して魚雷発射管を損傷し敵艦に体当りを試みるも失敗、松尾大尉は同乗の都竹正雄二等兵曹と共に拳銃で自決したと伝えられる。戦死後二階級特進し、海軍中佐に任じられた。  
 オーストラリア海軍は、松尾艇を含む2艇を海底から引き上げ、4名の搭乗員の遺体を海軍葬を以て丁重に弔った。遺骨は、戦時交換船「鎌倉丸」で帰国した。  

 「大洋丸」前島俊英中佐は、昭和19年3月1日、第二十二潜水隊司令としてニューギニアで戦死。終戦時の総理大臣・鈴木貫太郎大将の甥でもある鈴木英少佐は戦争を生き抜き、軍令部部員として終戦を迎え(中佐)、昭和60(1985)年9月18日死去した。  
 「龍田丸」は海軍に徴用され、日英外交官交換船としてポルトガル領東アフリカまで往復した後、輸送任務に従事する。昭和18(1943)年2月8日、横浜から中部太平洋のトラックに向かう途中、深夜に御蔵島沖でアメリカ潜水艦の雷撃を受け瞬時に沈没、木村船長以下乗組員198名・乗船者1283名の全員が死亡した。  

 「大洋丸」は陸軍に徴用され、昭和17(1942)年5月8日、宇品港からシンガポールへ向かう途中、アメリカ潜水艦の雷撃で沈没、乗船して居た1,360名の内、817名が命を落とした。この時犠牲に為った乗船客の中には、南方占領地のインフラ整備に派遣される商社マンや、台湾烏山頭ダムの建設で名を馳せた水利技術者・八田與一ら民間人も多く含まれて居た。
 2018年、屋久島の西約250キロの海底で、ホボ原形を保ったママ沈んでいる「大洋丸」の船体が発見されたニュースは記憶に新しい。

 開戦直前、シアトルに向かった「氷川丸」は戦時中、海軍特設病院船と為り、3度にわたって触雷するも生還。戦後は外地からの引揚船を経てシアトル航路に復帰し、昭和35(1960)年に引退する迄第一線の花形客船として活躍した。
 その後、長く横浜・山下公園に係留・保存され、2016年には国の重要文化財に指定、横浜のシンボル的存在として今日に至る。  

 真珠湾攻撃の際、米空母が真珠湾に居らず、しかも対空砲火の反撃が予想以上に早かった事から、攻撃に参加した飛行機搭乗員でさえ「アメリカは知って居て待ち構えて居たんじゃないか」と述懐する人は少なく無かった。
 日本側が重油タンクや港湾設備を攻撃目標にし無かった事等も含め、今も尚釈然としない部分は残されて居るが、それは本稿とは別の主題に為ろう。  

 しかし、真珠湾攻撃がこれ程の手間暇を掛けて情報を収集し準備を重ねた末に決行されたにも関わらず、それでも尚不完全な面が残った事を顧みれば、その後の、希望的観測をもとにした場当たり的な日本軍の作戦が悉く失敗に終わったのも無理は無いと思われる。


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 神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家 1963年大阪府生まれ 日本大学藝術学部写真学科卒業 1986年より講談社「FRIDAY」専属カメラマンを務め主に事件・政治・経済・スポーツ等の取材に従事する 1997年からフリーランスに 1995年日本の大空を零戦が飛ぶと云うイベントの取材を切っ掛けに 零戦搭乗員150人以上 家族等関係者500人以上の貴重な証言を記録している 
 著書に『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』『証言 零戦 大空で戦った最後のサムライたち』『証言 零戦 真珠湾攻撃、激戦地ラバウル、そして特攻の真実』(いずれも講談社+α文庫)『祖父たちの零戦』(講談社文庫)『零戦 最後の証言彜T/U』『撮るライカT/U』『零戦隊長 ニ〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(いずれも潮書房光人新社) 『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)などがある NPO法人「零戦の会」会長

                     以上















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