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2020年02月11日

太平洋戦争開戦直前 日本人が女優・李香蘭にこれ程迄に魅せられたのは何故か




 太平洋戦争開戦直前 

 日本人が女優・李香蘭にこれ程迄に魅せられたのは何故か


              〜文春オンライン 2/11(火) 17:00配信〜



 連載昭和事件史

  希代の女優・李香蘭に10万人が押し寄せた

 「日劇七回り半事件」とは何だったのか


 現代史のレジェンド・李香蘭とは

                〜genre ニュース 小池 新〜


        2-11-9.jpg

 「李香蘭 山口淑子 シャーリー・ヤマグチ 大鷹淑子」・・・幾つもの名前を持つ女性に付いての記憶と感想は、年代によって異なる。フジテレビ「3時のあなた」の司会や参院議員としての活躍を覚えて居る人も居るだろう。筆者に取っての最初の記憶は、恥ずかしながら「白夫人の妖恋」(豊田四郎監督)と云う映画の予告編だった。

 1956年6月公開だから、筆者は小学3年生。他の作品を目当てに映画館に行って見たが、妖艶と云うのともチョット違う、他の日本人女優には無い強烈な女性的魅力と濃厚なエキゾチシズムに「これは見てはいけ無い世界だ」と感じた。その時は「山口淑子」に為って居たが、彼女は戦前戦中、日本と「満州」中国の間を華麗に舞い泳いだ、希代の女優・歌手「李香蘭」その人気のピークを示したのが、今も「日劇七回り半事件」と言い伝えられる出来事だ。

 1941年2月11日、東京・有楽町の日本劇場(日劇)で行われた「歌ふ(う)李香蘭」と題された実演の歌謡ショー。10万人とも言われる群衆が劇場を取り巻いた挙げ句、切符を求めて押し寄せ混乱。多くの警官が出動して制圧する騒ぎと為った。
 「七回り半」と云う表現は当時の新聞には見え無い。ソモソモ正確に数えた人間が居たのかどうか・・・後に為って誰かが書いたのが、語呂が好い事から一人歩きしたのかも知れない。時は太平洋戦争が始まる約10カ月前の「紀元節」李香蘭とはドンな存在で、事件はドンな意味を持って居たのだろう。

 「佳節を汚した 観客の狂態 堪り兼ねて署長大喝」

 「紀元の佳節 きのふ宮中の御祭儀」(東京朝日)「碧空に、陸に、海に、慶祝の大行進 帝都彩る赤誠の催し」(東京日日)「陸海空に奉祝行進 時艱(当面する難問)粉砕の熱誠 『悠久日本』を寿ぐ帝都」(読売)1941年2月12日の朝刊は1面トップ(読売は1面写真4枚で記事は7面)等で、前日2月11日の「紀元節」に「赤子」(君主である天皇から見た国民)の大群衆が皇居に集まって建国祭を祝う模様を報じた。

 事件に付いては朝日が3面で「佳節を汚した 観客の狂態 堪り兼ねて署長大喝」と云う記事を載せて居るが、これが少々ヘンな書き出しだ。

 「11日紀元節の朝、帝都丸の内の某映画劇場の前で演ぜられた観衆の雑踏と混乱、今なお改まって居らぬ一部市民の国民道徳の薄っペラさ、規律の弱さ、その欠陥をマザマザと見せ付けられたこの一事は遺憾であった。それを筆にすることは物悲しいが、こんな混雑はもうこれでお仕舞にと云う意味で読んでください」写真も載せて居るが、劇場が何処か、イベントが何かを書いて居ない。

 「有楽街始まって以来けた外れの奇観」

 事件の概要は「有楽街に閑人十万の怒涛」を見出しにした読売7面(社会面)の記事が詳しい。
 「11日の朝、丸の内日本劇場を十重二十重に取り巻く物々しい黒山の群衆が行人の目を驚かせた。早朝6時、既に300余の群衆が一列励行で劇場を一巻きして居た。8時には1000余名、9時半の開場には5000と増え、一列が三列と為り、五列と為って雪崩を打って入場口に殺到する。丸の内署から急行した50名の制服警官は120名の劇場従業員と共に躍起の整理に当たった」しかし、群衆の勢いは止まら無い。

 「正午頃、同劇場3000名の定員の処を、止む無く3500名まで鮨詰めにした後、締め出しを食った10万(丸の内署推定)は寒風の中に立ち尽くした」
 午後1時、更に警官100人が増派される。そして登場するのが金沢と云う丸の内署長。劇場2階のバルコニーから拡声器で「これ以上は入場出来ないのだから、諦めて帰って貰いたい。建国祭の今日をもっと有意義に過ごす方法を考えてはどうです」と諭した。それでも「約1万余の客は依然として隊列を解かず、午後3時頃には延々数町に及ぶ長蛇の列と為った」


 読売の記者はその後本音を漏らしている。「この日から同劇場の舞台で歌う一満映女優の人気が巻き起こした、異変と云うには余り大袈裟過ぎるし正に有楽街始まって以来桁外れの奇観であった」こちらも女優は誰だったか書いて居ない。

 雑踏に耐え兼ねた女や子供が屋根の上へ

 朝日も混乱の模様を記述して居る。

 「何千と云う人が2つか3つの切符売り場に向かって先を競うのだから、雑踏は乱闘とも為り、眉間を割られた女の悲鳴、その血を見てなお押し捲くる学生服。広場に置いてあった自動車数台は群衆の肩に揉まれて左に揺れ右に動き、その屋根の上には雑踏に耐え兼ねた女や子供が這い上がって来る始末だ」
 「何と云う醜態、何と云う無分別。群衆の内訳はザッと男七分の女三分。男の半数は学生の服装であり、女は総じて二十歳前後」
と書いた後、署長の別の言葉を記録して居る。
 「諸君! 今や我が国は東亜新秩序の完成に向かって渾身の努力を続けて居るのであります。忠勇なる将兵は大陸の曠野に戦って居るのであります。それを思えば、諸君、今日のこの有様は・・・」悲憤慷慨と云った口調だろうか。

 日中戦争は泥沼化して、日本軍は前年1940年5月から宜昌作戦を開始。中国国民党政府の首都重慶を爆撃し、9月には「援蒋ルート」(英米等から蒋介石国民党政府への支援物資輸送ルート)遮断などの為、北部仏印(フランス領インドシナ)=現在のベトナムの一部=に進駐して居た。

 1939年に制定された映画法と東京日日新聞

 朝日、読売共、神武天皇が即位したとされる「佳節」を「一女優」の歌謡ショーで騒ぐ群衆に汚されたと云うニュアンス。これに対して東京日日の報道は少し違って居た。5面を覆った紀元節奉祝記事の左下隅に「沸く南方への関心」と云う見出し。
 「日本劇場では11日から、本社映画部製作『蘭印探訪記』と日満親善の為歌の使節として来日した李香蘭の実演があると云うので、人気は頂点に達し・・・」詰まり、李香蘭の実演より、併映の東京日日・大阪毎日映画部の記録映画の方に報道の重点を置いて居た。

ちょっと違った東京日日の報道

 それには1939年に施行された映画法が関係して居る。長編劇映画と短編記録映画の上映を義務付けた法律だ。この時の日劇も、李香蘭ショーに加えて、封切上映の東宝映画「島は夕やけ」(小田基義監督、中村メイコら主演)と「百の紹介書にまさる蘭印記録映画」がキャッチフレーズの「蘭印探訪記」の3本立て興行。それでも記事は最後に「中には自制の無い群衆も交って我先に入場を争って大混乱と為り」「日劇開設以来の人出記録を作った」と書いて居る。

 2月13日付(実際は12日)夕刊では、読売が12日も大群衆が劇場前に詰め掛け、又も丸の内署長が「護国の英雄に済まぬとは思わぬか。これで恥ずかしいとは思わぬか」と演説したとの「泣いて署長の街頭説法」(見出し)を報じた。
 朝日は「観客の狂態をかう(こう)観る」の見出しで識者ら4人の意見を掲載。前年1940年10月に発足した官製の国民統合組織「大政翼賛会」の国民生活指導部長は「アノ風景を見て情け無いと思った。第一にアノ無秩序振りだ」「国民的訓練の欠如」と嘆いた。作家の野上彌生子は「どんな非常時でも娯楽を奪うと云う事はいけ無い」と述べた。

 群衆の「狂態」批判の声を集めた東京朝日の紙面 一貫して「日劇事件」に批判的な報道を続ける朝日新聞

 同じ紙面の1面には「万が一、太平洋で(日米)戦争が起こっても、対英援助は少しも変わら無い」と云うルーズベルト・アメリカ大統領の談話が載って居る。当時の新聞には、中国戦線の戦況報告から、国内のアメリカンスクール閉鎖のニュース「日米もし戦はゞ(わば)!」と云う企画記事「防空読本」の連載などが掲載され、既に太平洋戦争を先取りした「臨戦態勢」に入って居た。そんな中での「日劇事件」に論調は厳しかった。

 「日米もし戦はゞ」当時の新聞は臨戦態勢だった(読売新聞)
 
 朝日はこの後も一貫して群衆に批判的な報道を続ける。2月14日付朝刊の社説では「無秩序と狼藉振りは軽視出来ぬ」と非難。「事変下娯楽政策の欠陥と社会生活の病患部を暗示する一宿図たるの観あり。官民共に反省すべきを痛感する」と主張した。
 15日付朝刊では「過日、丸の内の某劇場前で狂態を演じた観客の内、半ばは中学生服で占められ」その後の制服の群衆の調査で、昼間制の中学生等は1割に満たず、3割が夜間中学生、4割が各種学校の生徒と分かったと報じた。

 18日付夕刊では「佳節を汚した同僚に泣く 当局へ悲憤投書の山」の見出しで「産業報国に邁進して居る我々の仲間から、掛かる不心得者を出した事は、何としても申し訳ありません」等の投書を紹介。18日付朝刊でも「娯楽の反省」として批判、擁護入り交じった様々な投書の内容を掲載した。読売も16日付朝刊で事件に付いての読者の感想を載せて居る。

 「李香蘭は日本娘」と出自を報道
 
 そんな中で、文化・芸能記事に定評があった都新聞(東京新聞の前身の1つ)が李香蘭の出自に付いて特ダネを打ったと云うのが定説。確かに2月15日付夕刊2段で「李香蘭は日本娘」の見出しの記事を載せて居る。丸の内署が調べた処、李香蘭は映画や実演に必要な「技芸証」を持って居らず、申請を出させた結果「本名山口俊子(22)本籍佐賀県杵島」と書かれて居たと云う(「俊子」は誤り)

 処が、調べてみると、東京日日も同じ2月15日付夕刊にベタ(1段)記事だが、ホボ同じ内容で「李香蘭叱らる 本をたゞ(だ)せば日本人」と報じて居た。見出しで都新聞が抜いた印象に為ったのか。同紙はその後も16日付朝刊で「国際女優李香蘭が人気者に為るまで 今後の彼女はどう為る」17日付朝刊では「事実は小説より奇! 李香蘭の数奇な生ひ立(生い立ち)」と続報を掲載。しかし「大陸を転々・三度父を変える」等と、事実とは云え無い内容もあった。

 スター女優に為るまでの「李香蘭」
 
 今では知られて居る通り、李香蘭は本名・山口淑子。父は佐賀県・母は福岡県出身で1920年2月生まれの日本人だった。山口淑子・藤原作弥「李香蘭 私の半生」によれば、父が「南満州鉄道(満鉄)」勤務だった事から「満州」(現中国東北部)の奉天(現瀋陽)近郊で生まれ撫順で育った。

 父は中国語に堪能で中国人の友人も多く、中国の風習で実業家2人と義兄弟に。淑子は名目上2人の養女と為り中国名を貰った。「李香蘭」はその1つ。中国語は父から叩き込まれた。肺の病気に罹った事から健康法で声楽を学び、奉天の放送局に専属歌手として採用された。スターへの道の始まりだった。
 日本軍将校等の斡旋もあって1938年「満州映画協会(満映)」の女優に。5本の映画に出演後、実質東宝製作の「大陸3部作」で大スター長谷川一夫と共演。これが人気に火を点ける。

 「口が腐っても日本人・山口淑子とは名乗れ無く為り・・・」

 1939年11月30日公開の第1作「白蘭の歌」(渡辺邦男監督)は「李香蘭の人気で驚異的ヒット作と為る」(田中純一郎「日本映画発達史V」)次いで1940年6月5日、日劇で封切られた第2作「支那の夜」(伏水修監督)は3週連続上映で「長谷川、李香蘭の美男美女と歌の世界で日本最高の続映記録」(「日本映画年鑑 昭和十六年版」)を打ち立て「空前のヒットとなる」(「日本映画発達史V 戦後映画の解放」)
 1940年12月25日公開の第3作「熱砂の誓ひ(い)」も、前2作程では無かったが「興行成績上々」(「日本映画年鑑 昭和十六年版」)

 「白蘭の歌」公開前の広告で「満州生粋の絶世の美人スターとして全満の人気を独占し」「奉天市長を父に持つ名門の出、長じて北京の日本人学校に学んだ為、日本語も実に流暢、代表的な姑娘美人です」とされた。「最早口が腐っても日本人・山口淑子とは名乗れ無く為り・・・」と「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集・女優編」の清水晶「経歴・業績」は書いている。
 人気が絶頂を迎えた中で、満映から日劇で1週間の「奉祝記念ショー」に出演する様命じられる。新聞広告は「建国祭を記念して日満歌の親善使節来る」の宣伝文句で、料金は80銭(2017年の貨幣価値に換算すると約770円)均一「李香蘭 私の半生」によると「彼女の出演料は7日間で8000円と云われ」「驚異的な彼女の人気を物語って余りある」1日3回公演だったが、8000円は2017年換算で約770万円。正に驚異的な人気だった。



  





 李香蘭から見た「日劇七回り半事件」
 
 2月11日当日は朝、宿泊先の帝国ホテルから、護衛役の児玉英水と云う東宝文芸部員の青年と歩いて日劇に向かった。「すると、真黒な人だかりが見えて来た。『紀元節だからかな』と思って更に歩く。人だかりと見えたのは延々と続く行列で、私が公演する日劇を幾重にも取り巻いて居た」(山口淑子「『李香蘭』を生きて」)児玉と守衛の助けを借りて劇場内へ。午前9時半から映画が上映され「午前11時に第1回目のステージが始まった」と回想している。

 「私は紫のチャイナドレス、赤い花模様の中国服、白いイブニングドレスと衣装を替えながら『いとしあの星』『蘇州夜曲』『支那の夜』『甘い言葉』『乾杯の歌』等を次々に歌った。3000の客席を埋め尽くした観衆は私の一挙手一投足にドヨメキ、足を踏み鳴らし総立ちに為って共に歌う」(同書)最後の「乾杯の歌」では「観客は総立ちに為り、腕を組み、期せずして劇場を揺るがす大合唱と為った」と「李香蘭 私の半生」は記述している。

 「3回目のステージが終わったのは午後7時。建物の外には、入場出来なかった群衆が未だ大勢居ると云う。児玉さんは衣装ケースにあった汚いコートを私に被せ、右腕に抱えて奈落から、普段は使って居ない非常口に連れ出した」(「『李香蘭』を生きて」)

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 この「日劇七回り半事件」に付いては正確に記述した資料が見当たら無い。実際に集まったのは何人で、けが人や逮捕者は無かったのか等も不明。
 四方田犬彦「日本の女優」には「満員で入場出来ないと知った者達は互いに乱闘を始め、暴徒と化して道路を占拠すると、隣の朝日新聞社の自動車を転倒させる羽目に為った。丸の内署が出動し消防車が放水を行ったが、興奮した群衆はナカナカ立ち去ろうとしなかった」と書いて居るが、出典の記載は無い。
 放水はあったが威嚇だったと云う証言もある。「七回り半」と云う表現も当時の新聞には見え無い。ソモソモ正確に数えた人間が居たのかどうか・・・新聞か雑誌が適当に書いたのが、語呂が好い事から一人歩きしたのではないか。それにしても、何故異常とも云える騒ぎにまで為ったのか。

 「私のショーは唯一とも云える娯楽だったのだろう」

 本人は「李香蘭 私の半生」で「他に楽しい娯楽も無かったので、人気が集中したのだろう」と簡単に記述。「『李香蘭』を生きて」ではこう分析して居る。

 「戦時体制が強化され、娯楽は悉く禁止されて居た。そんな中で『日満親善』と云う大義名分の下に開かれた私のショーは唯一とも云える娯楽だったのだろう。私の人気だけで集まった訳では無い。時代への閉塞感がこの騒ぎを生んだのだと、今は思う」
 
 それだけだろうか。ソモソモ、その当時の日本人に取って李香蘭とはドンな存在だったのか。それを考えるには、矢張り「大陸3部作」中でも「空前のヒット作」となった「支那の夜」に戻る必要がある。

  2-12-4.jpg

 李香蘭をスターにした「支那の夜」のヒット
 
 舞台は上海。両親を日本軍に殺されて孤児と為り、抗日運動に関わって居た李香蘭演じる中国人女性が、長谷川一夫扮する日本人船員に善導され、ヤガテ結婚すると云うメロドラマ。

 「キネマ旬報増刊 日本映画作品全集」の清水晶「作品解説」は「抗日は迷夢とされ、長谷川と李香蘭は結ばれて、それがそのママ日華親善に通じると云う、この種の路線の定石通りのものだが、大陸進出が日本人の大きな夢だった時代だけに、李香蘭が満映の営業政策による日本人・山口淑子の変身とは露知ら無い当時の大衆は、彼女のエキゾチックな中国スタイルに時代のアイドルを見い出して爆発的な人気を呼んだ」と書いて居る。

 これに対し、佐藤忠男「日本映画史4 国家に管理された映画」(「講座日本映画(4) 戦争と日本映画」所収)はこう厳しく指摘して居る。

 「侵略戦争正当化の映画を非行少女善導映画に例えるのは悪い冗談の様だが、ストーリーの骨子は正にそれであり、ソコに、当時の日本人の対中国意識が典型的に表現されて居る。当時の日本人に取って、日本の指導の下でアジアを西洋の植民地から解放すると云う〈大東亜共栄圏〉の理想を理解しない中国人は、言わばアジアの非行少年と見做すべき存在であり、教師としての日本人は、時には殴って懲らしめ、従順に為ったら愛して遣る相手と意識されて居たのである」こうした見方が戦後の大勢と言って好い。

 中国大陸への夢と憧れが「李香蘭」を生んだ

 しかし、公開当時この映画は全く別の意味で批判されて居た。

  「大陸映画は果たしてこれで好いのか。昨年は長谷川一夫と李香蘭で『白蘭の歌』と題する言語に絶する愚映画を作ったが、この『支那の夜』も五十歩百歩である」「我が将兵が尊い血を流した大陸の戦跡を背景にして白粉臭い男女俳優の滑稽極まる拙劣な痴態等延々と展開されては、国民の一人として憤懣に耐えぬ」

 1940年6月9日付朝日朝刊の「新映画評」はこう酷評して居る。記者の署名は「Q」戦後も映画評論家として活躍した津村秀夫だ。こうした受け止め方は、日劇前の丸の内署長と好く似て居る事に気付く。
 清水晶「戦争と映画」は「こうした爆発的人気の底流と為ったものは、当時の日本における大陸熱であった。事実上の植民地満州に続いて、日本の占領下に新たに建設の緒に就こうとする中国大陸への夢と憧れは、戦後の海外旅行にも匹敵するものがあった。李香蘭は時代のアイドルスターと為った」と述べる。

 日中全面戦争に入っても「敵は国民党軍や共産軍であり、中国の民衆では無い」が日本の建前だった。多くの日本人はそれを信じ、抗日を叫んで居る中国人もヤガテは日本人の真意を理解して呉れると考えて居た。その中国人の象徴が「李香蘭」だったのではないか。
 「李香蘭は日本人」と報じられた後、彼女と親交のあった作家・丹羽文雄は雑誌で「或は大衆は、彼女が日本人であった事に幻滅を感じて居るかも知れない」と書き、こう付け加えている。「李香蘭が日本人であって呉れては困るのである」.

 「李香蘭が正に圧倒的なのである」

 当時の李香蘭に圧倒的な魅力があった事は、代表作と為った「支那の夜」を観れば分かる。無声映画弁士出身で司会も熟した徳川夢声は、或るステージで当時歌手・映画女優として人気があった高峰三枝子、葦原邦子、李香蘭の3人と共演したが、舞台で見た印象を「李香蘭が正に圧倒的なのである。後の2人等、影が薄い処か、マルで影が無いくらい・・・」「ジャングルから飛び出して来た黒いヒョウの様だった」と「放送話術二十七年」に書いて居る。

 鷲谷花「李香蘭、日劇に現る」(四方田犬彦編「李香蘭と東アジア」所収)は、李香蘭の魅力として更に、怪人二十面相に準えた「正体不明」「神出鬼没」を挙げて居る。出演した映画では「常に異なる土地に出現し、複数の異なる言語を自在に操り、様々な衣装を交換し続ける」そして「彼女の残影ばかりをスクリーンにおいて眺め続けて来た日本国内の観客達が『本物の李香蘭』にリアルタイムで遭遇する事が出来る得難いチャンスだったのが、時折開催される映画館・劇場での実演だった」と云う。

 晏妮「戦時日中映画交渉史」によると、大陸3部作等李香蘭出演映画は日本軍占領地で中国人に人気があり「支那の夜」は上海で多数の観客動員を記録。一時「李香蘭ブーム」が起きた程だったと云う。それしても、官憲や新聞に厳しく批判・攻撃される程、日劇七回り半事件は醜態で群衆は無分別だったのだろうか。

 「紀元節奉祝」と「日満親善記念歌謡ショー」が結び付いて

 「朝午前9時、一億同胞が捧げた国民奉祝の時間である。二重橋前には早くも詰め掛けた赤子の群れが一斉に額付いて諸手を力一杯大空に挙げた。聖寿万歳・聖寿万歳!」2月12日付読売朝刊社会面は皇居周辺で紀元節を祝賀する人々の様子をこう報じている。「朝まだき午前6時と云うに、早くも宮城前には遥拝者が続き、霜おりる夜更けまで実に50万」とも。

 皇居周辺から日劇迄は精々1キロ余り。「李香蘭、日劇に現る」は「『宮城遥拝』を終えた市民達の多くは、そこから祝日の銀座・日比谷界隈に向かったものと推定される」とし、「日本の女優」も「折から紀元節で皇居を参拝し気分が昂揚している軍衆がそれに加わって」と書いて居る。裏付けは無いが、筆者も、膨れ上がった日劇前の群衆には、皇居等から流れて来た人が相当数居たと推定する。

 李香蘭のショーは「日満親善」を唄って居た。男の半数が学生服、女が総じて20歳前後だったとすれば、群衆の大半は若者で、不良少年少女が多少交って居たとしても、多くは国の安寧と皇室の繁栄、日満親善、日中友好を信じて居たのだろう。彼等彼女等に取って「紀元節奉祝」と「日満親善記念歌謡ショー」は抵抗無く結び付いていたのではないか。.

 「1日に30万の市民は必ず映画館に行く」時代

 注意し無ければ為ら無いのは、この頃、映画の観客が激増して居た事だ。事件から11日後の1941年2月22日付朝日朝刊には「映画の観客一日に卅(30)万人 娯楽追ふ(う)市民に当局びつ(っ)くり」と云う記事が載って居る。
 映画館数が増えて居ないのに、1939年に比べて1940年は観客が1割以上増えて居る模様だとし、東京では市民1人が1年に16回映画を楽しみ「1日に30万の市民は必ず映画館に行き、1つの映画館は1000名ずつの観客を収容して居るのだから、日曜祭日にアノ混雑を極めるのも当然な訳である」と云う。

 李香蘭も書いて居る様に、他の娯楽が無く為って居た事が背景にあるのだろう。「李香蘭 私の半生」には当時、護衛役の児玉から聞いた話としてこんな事も書かれている。
 「日劇の隣の朝日新聞社が車を何台も壊されたのに憤慨して、李香蘭・日本人説をㇲッパ抜く為単独インタビューを申し込んで来たと云う」更に「私自身が事件の全容を知ったのは翌朝、新聞を開いた時だった。ドノ新聞も事件としての大騒動を伝えて居た。取り分け本社が日劇に隣接して居た朝日新聞は被害を被った腹イセか〈佳節を汚した観客の狂態〉と云う見出しで、厳しい調子の批判的な記事を掲げて居た」とも記して居る。

 「七変化」と呼ばれ、94歳で亡く為った李香蘭

 李香蘭は敗戦後「漢奸」(売国奴)の疑いを掛けられたが、日本人で在る事が証明されて帰国。「山口淑子」と為って日本の映画界やアメリカ・ハリウッドでも女優として活躍した。日本人外交官と結婚したが、テレビ番組のキャスターを務めた後、参院議員に。「七変化」と言われる程変幻自在に時代を走り抜け、2014年9月、94歳で死去した。

 訃報の脇見出しは朝日・読売共「李香蘭」と「元参院議員」が並んだ。生前、何冊かの本を出し、多くのインタビューも受けた。しかし結局、肝心な部分は語ら無いままだった気がして為ら無い。本人は巷間囁かれた「スパイ説」を気にして居たと云うが、分から無いのは皇帝溥儀を初めとする満州国上層部との関係。モッと色々な事を知って居たと思う。
 他にも多くの謎がある。中国通の父は単なる満鉄社員だったのか、実業家の「養父」は元軍閥の長だったが、日本軍との関係はどうか、デビューからスターに上り詰めて行く際に軍部は関与して居なかったのか、「漢奸」を免れた経緯は・・・謎が解明される事は無いかも知れない。「李香蘭」は現代史のレジェンドと為って生き続けるのだろう。

 権力者が恐れて居たのは「群衆」だった

 日劇七回り半事件に付いて言えば、祝祭に群衆は付きものではないか。例えばアノ紀元節の日、日劇のバルコニーに丸の内署長では無く李香蘭が現れ、本人か誰かが「紀元節奉祝、日満親善」を叫んで居たら、群衆は歓呼の声を上げて応じた筈だ。それから誘導・整理すれば好かった。
 そう考えると、警察を含めた当時の為政者側は群衆そのものを恐れて居た気がする。共産主義や社会主義に対する警戒、敵視が身に沁み込んで居たのだろう。更に言えば、ソモソモ権力者側が「日満親善」等、本当は信じて居なかったのでは無いだろうか。

 何れにしろ、この時の様な群衆はコントロールすれば利用も出来た。それを最初から警戒して解散させる事しか考えず、朝日を筆頭に新聞もそれに同調して批判した。ドチラも国民を信用して居なかった。そうした国が戦争に勝てるとは思えない。その意味で、事件は4年半後の太平洋戦争敗戦を暗示して居た様な気がする。


 【参考文献】

 ▽山口淑子・藤原作弥「李香蘭 私の半生」 新潮社  1987年
 ▽田中純一郎「日本映画発達史V 戦後映画の解放」 中公文庫 1976年
 ▽「日本映画年鑑 昭和十六年版」 大同社 1941年
 ▽「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集・女優編」 キネマ旬報社 1980年
 ▽山口淑子「『李香蘭』を生きて」 日本経済新聞社 2004年
 ▽四方田犬彦「日本の女優」 岩波書店 2000年
 ▽「キネマ旬報増刊 日本映画作品全集」 キネマ旬報社 1973年
 ▽佐藤忠男「日本映画史4 国家に管理された映画」=「講座日本映画(4) 戦争と日本映画」所収 岩波書店 1986年
 ▽清水晶「戦争と映画」 社会思想社 1994年
 ▽徳川夢声「放送話術二十七年」 白揚社 1951年
 ▽鷲谷花「李香蘭、日晏劇に現る」=四方田犬彦編「李香蘭と東アジア」所収 東京大学出版会 2001年
 ▽晏妮「戦時日中映画交渉史」 岩波書店 2010年


              小池 新     以上



    




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 大阪万博のPRイベントで共演する万博誘致アンバサダーのダウンタウンと松井一郎・大阪府知事(右、当時)2017年大阪市中央区 (c)朝日新聞社
 
 「吉本に入れるぞ」は、大阪の子供に取って恐怖の脅し文句だった。それが今や、政権との蜜月関係ばかりが目立つ。お笑いの矜持を忘れてはいないか。「吉本新喜劇」の舞台に安倍晋三首相が立ち「四角い仁鶴がまあるくおさめまっせ」とG20サミット開催をアピールしたかと思えば、看板芸人のダウンタウンは大阪万博誘致のイベントで松井一郎大阪府知事(当時)の頭にバシッとつっこみを入れる・・・
 吉本興業と、政府や自治体。両者の蜜月関係を目にする機会は今や珍しく無い。只、安倍首相が舞台に立った新喜劇に付いて、兵庫県の男性会社員(44)は、こう首を傾げる。

 「ここ迄遣ると、チョット気持ち悪い。会社として大丈夫なのか」

 安倍氏が登場したのは、7月の参院選の前哨戦とも位置付けられて居た衆院大阪12区の補欠選挙の投開票前日だった。結果的に自民公認候補は敗れたが、吉本が政治利用されただけなのか、自ら何らかの思惑で安倍首相を招いたのか。経緯は判らないものの、男性には違和感ばかりが残った。男性が子供の頃の吉本のイメージは、今と違った。

 「しょうも無い事遣ってると大人に『吉本に入れるぞ』と叱られてたんですよ」
 
 吉本は「やばい所」「搾取される所」と思われて居たと言い、男性に取っては、テレビで楽しむ事はあっても関わり合いに為りたいと思う対象では無かった。処が、その後の東京進出以降の快進撃。

 「勉強や運動が嫌いでも、お笑いが好きなら若者にとって吉本がある種の希望になった」。事業はどんどん大きくなり、「関西では『大したもんや』っていう受け止めでしたよ。それなのに・・・」純粋に「笑い」を追求する企業では無く為った、男性はそう残念がる。吉本はこの数年で急激に国の中枢や公的機関との距離を縮めている。

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 政府が87%を出資しているクールジャパン機構(東京)は今年、吉本興業とNTTが協力して展開する教育コンテンツを発信する事業に、最大で100億円を出資することを決めた。機構はほかにも、吉本興業と在阪テレビ局、電通など計13社による大阪城公園を舞台にした発信事業など、吉本関連の事業に2件で22億円を支出している。
 機構を所管する経済産業省も吉本とは関わりが深い。「吉本関係分をまだすべて精査しきれていない」(同省)としながらも、16年から17年にかけて、吉本の海外展開などに対して1件あたり125万6千〜430万円の支援事業を3件実施していた。

 法務省でも16年から「社会を明るくする運動」の関連で、17年からは再犯防止に関わる啓発活動で、いずれも吉本芸人を使っている。「分かりやすく発信し、関心を持っていただくために協力をいただいている」(広報室)という。
 また、内閣府は普天間飛行場など在日米軍施設・区域の跡地の利用を検討する有識者懇談会を今年6月に設置し、委員の一人に大崎洋会長を選んだ。普天間飛行場をめぐっては、安倍政権が進めようとする名護市辺野古への移設に反対する運動が今も地元で続いている中での就任だった。

 全国紙社会部記者が言う。「懇談会では当然、辺野古移設という政府のシナリオを前提とした上での跡地利用の検討になります。沖縄国際映画祭をはじめとして、吉本興業が沖縄振興のために貢献しているという評価があって大崎氏が委員に入ったわけですが、地元では当然、反発があります」

 こうした中央省庁や官民ファンドと吉本との関わりは、何れも安倍政権下での出来事だ。他にも、16年には東日本大震災後の復興支援を目的に福島県と連携協定を結んだほか、18年からは吉本興業を代表とする企業連合が大阪府立万博記念公園の指定管理者となるなど、地方行政にも食い込む様子が見て取れる。

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 毎日放送の元プロデューサーで、同志社女子大学の影山貴彦教授(メディアエンターテインメント論)は、「吉本はどんな考えでこんなことをやっているのだろうか。権力と距離を置くという矜持はお笑いにも求められるべきだ」と憤る。
 そのうえで、吉本が権力に近づいていった理由をこう指摘する。「会社が大きくなり、お笑いの世界だけでなく社会のど真ん中にくさびを打ち込めるという満足感に浸ってしまったからではないか」

 また、その「満足感」には、社会の中での「お笑い」の位置づけが関連しているという。「政治や経済と違い、お笑いは『しょせん』という言葉を付けて語られることがあります。だからこそ、行政などに認められると喜んでしまうわけです」
 事業をどう拡大するか、どんな仕事を選ぶかは企業の判断だ。ただ、影山教授は吉本興業には「お笑いという原点に立ち返り、今回の騒動を再出発へのきっかけにしてほしい」と望んでいる。


     編集部・小田健司 ※AERA 2019年8月5日号    以上







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他の人なら認められ無い「さかなクン」が あのハコフグ帽子を被って国会に出席




 他の人なら認められ無い「さかなクン」が

 あのハコフグ帽子を被って国会に出席


             〜デイリー新潮 2/11(火) 11:30配信〜


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                 さかなクン

 タレントで魚類学者として知られる「さかなクン」が2月12日、参議院国際経済・外交に関する調査会で参考人として意見陳述する。国会の規則では、品位や礼節を欠くとして、帽子の着用は認められて居ない。処が彼に限っては、着帽は特例で認められたと云うのだ。

 国会の規則では、基本的に帽子の着用は禁止されて居る。「参議院規則」第209条によれば 〈議場又は委員会議室に入る者は、帽子、外とう、襟巻、傘、杖の類を着用し又は携帯しては為ら無い。但し、国会議員及び国会議員以外の出席者にあつては議長に届け出て、これ等以外の者にあつては議長の許可を得て、歩行補助の為杖を携帯する事が出来る〉
「衆議院規則」も同様で、第213条によれば 〈議場に入る者は、帽子、外とう、えり巻、かさ、杖の類を着用又は携帯しては為ら無い。但し、病気その他の理由によって議長の許可を得た時は、この限りでは無い〉

 国会での帽子着用に付いては、1991年11月、社会党の長谷百合子衆院議員がベレー帽を被ったママ国会議場に登院し、問題に為った事があった。

 「長谷議員は、ベレー帽をトレードマークにして居たので、規則違反に問われても、1986年5月に訪日したイギリスのダイアナ妃が国会を訪問し、帽子を被ったママ議場で演説した例を挙げて反論しました。処が、衆議院議員運営委員会は、ダイアナ妃は国賓であり、式典での着用である為前例には為ら無いとして彼女の主張を退けたのです。
 最も、一部の女性議員から、女性議員増加を快く思って居ない男性議員の執拗な攻撃だと擁護する声も上がりました。只、土井たか子元委員長が帽子着用には冷淡な態度を示した為、結局、ベレー帽を脱ぐ事に為ったのです」
 (大手新聞の政治部デスク)

 では、何故「さかなクン」は認められたのか。彼が意見陳述するのは、昨年10月にスタートした参議院国際経済・外交に関する調査会。全体のテーマは「海を通じて世界と共に生きる日本」である。

 品位・礼節に欠か無い

 「12日の調査会では『水産資源の管理と保護について』と云う小テーマで意見を述べて頂くことに為って居ます。『さかなクン』の他に、漁業ジャーナリストの片野歩氏、東京財団政策研究所の小松正之上席研究員にも参加をお願いして居ます。何れも、水産資源の有識者です。
 『さかなクン』が参考人として選ばれたのは、この分野で広報活動を精力的に行って居るからです。大学でも教鞭を執り、政府や国連でも活躍されて居ます。どう云う話を為さるのか、こちらからは何も指示は出して居りません。現在、さんまの漁獲量が減少して居ますので、その辺の話をされるのかも知れません」
 (参議院事務局)
 
 東京海洋大学名誉博士・東京海洋大学客員准教授と云う肩書を持つ「さかなクン」は、中学3年生の時、学校で飼育して居たカブトガニの人工孵化に成功。高校3年の時、バラエティ番組「TVチャンピオン」(テレビ東京系)の「第3回全国魚通選手権」で準優勝、以後同番組で5連覇を達成した。
 この時、番組のMCを務めた中村有志氏が「さかなクン」と云う芸名を着けた。2010年、絶滅種とされて居たクニマスが西湖で生息して居る事を発見して話題と為った事もある。2012年には、海に関する研究や啓蒙活動に貢献した「海洋立国推進功労者」として内閣総理大臣賞を受賞した。

 ソモソモ彼が、ハコフグ帽子を被る様に為ったのは、2001年4月「どうぶつ奇想天外!」(TBS系)に出演し、伊豆の海に潜る際に被ったのが最初だった。以後、どんな席でも被る様に為った。ハコフグ帽子は、冬用、夏用(メッシュ加工)、水中用、教壇用(大学の校章入り)、クロマキー用(映像合成)と複数あって、被り分けて居る様だ。2009年10月に開催された日本魚類学会の研究発表会で、現上皇陛下が出席された時でも、ハコフグ帽子を被って居た。ハコフグ帽子着用は、彼の建っての希望だったのか。

  「参考人として調査会に参加するに当たって『さかなクン』から『通常の服装でよろしいでしょうか?』と要望がありました。それを受けて、2月5日、調査会の前に行われた理事会で、自民党の鶴保庸介会長が『国会の規則では、帽子は、品位、礼節を欠いた服装と云う事に為って居ます。只『さかなクン』の帽子は、品位、礼節に欠いたものには為ら無いと思って居ます。ご本人からも、通常の服装で出席したいと云う意向がありました。彼の帽子を認めても宜しいでしょうか?』と各会派に聞くと、皆さん賛成でした」 (同)

 12日の調査会は、午後1時から、参議院の第22委員会室で開かれる。参考人の意見陳述は1人当たり20分。その後、議員との質疑応答が2時間行われると云う。


      週刊新潮WEB取材班 2020年2月11日 掲載 新潮社   以上









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