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2019年10月21日

忘れられた戦場・レイテ フィリピンの戦いから75年



 忘れられた戦場・レイテ フィリピンの戦いから75年

        〜古谷経衡 文筆家 著述家  10/20(日) 18:58〜


         10-21-34.jpg

           レイテに上陸するマッカーサー将軍


 1】忘れられた戦場

 太平洋戦争の激戦地で真っ先に思い出されるのは、ガダルカナル(ガ島)・硫黄島そして沖縄。ガダルカナルの日本兵死者約2万・硫黄島同2万・沖縄約8〜10万。しかし、中国戦線を除き、アノ戦争で最も日本兵の戦死者が多かったのはフィリピン戦線である事は実は余り知られていない。
 大本営は「比島決戦」と称し、フィリピンでのアメリカ軍との会戦を「大東亜戦争の天王山」(小磯国昭首相談)と位置付け、都合75万人もの大兵力を送ったが、その内実に50万人もの兵士が戦死した。

 75年前の今日。1944年10月20日。日本軍の真珠湾奇襲とホボ同時に始まった南方資源地帯の占領、所謂「南方作戦」で重要な占領目標とされたフィリピンは、マニラ湾上に浮かぶコレヒドール要塞。バターン半島南部の頑強な抵抗があったものの、1942年4月には日本軍はフィリピン全土を掌握する。
 マッカーサー元帥は夜陰に乗じてオーストラリアに逃亡。そこにて記者団に語ったのがかの有名な「アイシャルリターン(私は必ず帰る)」である。この言葉通り、米軍が約20万の兵力を以てフィリピン奪還に動いた第一歩が1944年10月20日だ。

 此処から終戦までの約10か月・・・フィリピンでは海で日本海軍初めての神風特別攻撃隊が出撃。陸では敗残兵がジャングルや山岳奥地に立て篭り、戦後も投降勧告を黙殺し続ける兵士も多数居た程である。
 ガ島・硫黄島・沖縄そしてインパール。悲惨な戦場はその地名が代名詞と為って居るが、フィリピンだけはブラインドスポットとして日本人の心から忘れられ様として居る。それは、フィリピン戦線が同国の広大な島嶼に幅広く及び、尚且つ戦後、日比関係が紆余曲折を経ながらも友好善隣の関係として発展して来た事が、逆に負の歴史を日本側に自覚させ辛いと云う側面を生んだからだ。マッカーサーのレイテ島上陸75年目を契機に、レイテ/フィリピンの戦いを振り返りたい。


 参考 レイテ島の戦いにおける日本軍の戦死者数 ウィキより参照

 ⊡第35軍直轄部隊  参加者10,932 戦死者10,682 軍司令官 鈴木宗作中将戦死
 ⊡第16師団(サマール島含む) 参加者18,608 戦死者18,028 師団長 牧野四郎中将戦死
 ⊡第1師団  参加者13,542 戦死者12,742 セブ島へ 750名が転進 片岡董中将生還
 ⊡第26師団  参加者 13,778 戦死者13,158 師団長・山県栗花生中将戦死 後任師団長・栗栖猛夫少将戦死
 ⊡第102師団の一部 参加者3,142 戦死者2,822 師団長 福栄真平中将セブ島へ無断撤退 戦後戦犯として死刑
 ⊡第68旅団  参加者6,392 戦死者6,302 旅団長 栗栖猛夫少将(第26師団師団長に転出)旅団長(後任)沖静夫少将戦死
 ⊡その他の部隊  参加者17,612 戦死者15,527・・・・第30師団の歩兵第41連隊と第77連隊第8師団の歩兵第5連隊・独立混成第55旅団の一部・海軍伊東陸戦隊等 以上 





 2】日本よりも豊かだったフィリピン 

 フィリピンは、米西戦争(アメリカとスペインの戦争・1898年)の結果、アメリカがスペインから「賠償」の名目で買い上げると、約400年続いたスペインの植民地時代が終わり宗主国がアメリカに交代した。アメリカは当初こそ厳格な統治を敷いたが、ヤガテそれはフィリピン人を「アメリカの小さな茶色い兄弟」と呼ばわせしめる程発展した文明人へと引き上げて行く。

 アメリカはフィリピンを極東進出の足掛かりとして要塞化(コレヒドール要塞・クラークフィールド飛行場等)する一方、フィリピンのインフラ整備に莫大な予算措置を講じた。電話網、鉄道網、水道・灌漑施設の設置は元より、教会、学校、映画館、病院等の整備を施し、基本的人権や民主主義の概念を与えた。
 1930年代のマニラは「東洋の真珠」と言われる程の美観を保ち、一人当たり所得は日本よりも高かった為、この時期マニラに出稼ぎに来る日本人労働者が多数いた。又マニラとは正反対に位置する南部ミンダナオ島のダバオ市には沖縄出身の日本人出稼ぎ工が中心と為り大規模な日系人街が作られ、その人口は最盛期で2〜3万。
 「第二の満州」と呼ばれ、アメリカから「領土的野心があるのではないか」と警戒の目で見られる事さえあった。

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                   当時のマニラ

 アメリカはフィリピンに独立を与える積りで居た。1935年、約10年後(1946年)の独立を目途にフィリピンコモンウェルス(フィリピン独立準備政府)が発足。初代首班にマニュエル・ケソンが就いた。何もしなければ、フィリピンは1946年にアメリカから独立する筈であった。しかし1941年12月8日、日本の真珠湾奇襲により勃発した太平洋戦争がフィリピンの運命を変えた。
 東南アジアの資源地帯を迅速に掌握し、対米持久戦の基礎とする所謂「南方作戦」の経過の中で、どうしても制圧しなければならないのがフィリピンであった。結果、冒頭のごとくフィリピン全土は1942年4月までに日本軍の手に落ちる。フィリピンの地獄はここから開始された。

 



 3】失敗した日本軍の軍政

 好く、太平洋戦争はアジア解放の側面があったと言う保守系論客が居る。確かに「南方作戦」が大本営の予想以上に成功を納め、結果、英領ビルマやマレー、蘭印で日本軍は「イギリス、オランダからの解放軍」と見做され、一時的に歓迎された事は歴史の事実である。しかしフィリピンだけは様相が違った。フィリピンにおける日本の軍政は初手から破綻していた。

 先ず、物資の現地調達が基本の日本軍が軍票(軍が発行権を握る通貨)を乱発し、アメリカの庇護の元複雑高度に発達して居たフィリピンの金融経済をインフレによって破壊した事。第二に、フィリピンがスペイン時代から厳格なカトリック教国であった為「八紘一宇」の概念の押し着けに精神的反発が大きかったこと。
 そして「アジア解放の為の聖戦」を美名にフィリピンを占領したは好いが、前掲した通り、そもそもフィリピンは、1946年に独立が約束されて居た事。何より、フィリピンを占領した日本軍が「前任者」のアメリカ軍より圧倒的に貧乏で粗暴であった事等々である。

 これにより、フィリピン占領初期から各地で抗日ゲリラが頻発し、ヤガテ一大勢力に為った。マッカーサーはオーストラリア方面に撤退して連合軍の反転攻勢の機会を窺ったが、その大きな情報はフィリピンに居る抗日ゲリラからの無線通信や、潜水艦を通じて豪州―フィリピンを結ぶ極秘ルートによって持たらされて居た。
 アメリカ側は抗日ゲリラに武器・弾薬を送り、ゲリラはアメリカに日本軍の情報を送った。彼等は「マッカーサーの目と耳」と呼ばれた。マッカーサーはオーストラリアに居ながらにして、フィリピンにおける日本軍の一挙手一投足を知り得て居たのである。

 こうした中、1944年10月20日、マリアナ沖海戦の圧倒的勝利とサイパン島占領(1944年6月)の余勢を買ってレイテ島に米軍20万が上陸する訳だが、米軍が上陸地点としてレイテ島を選んだのは、抗日ゲリラからの情報が大きな要因であった。
 前述の通り日本軍の動向は抗日ゲリラを通じて米軍に筒抜けであり、レイテ島は日本軍の最も防備が手薄い地帯であると判断したからであった。

 米軍上陸当所、フィリピン全土で日本軍が真面に行動出来たのはマニラと、点と点を結ぶ都市だけで、他は全て抗日ゲリラの影響下に在り、日本軍は米軍上陸前からその戦いの帰趨が決して居たと言える。太平洋戦争を通じて、日本軍の占領地域でこれだけ抗日ゲリラが盛んだった国はフィリピンを置いて他に無い。





 4】日本軍、比島決戦に敗れる 

 当初、フィリピン防衛の為に組織された第14方面軍は、ルソン島での一大決戦に備えて防衛準備をして居た。が、レイテ島にアメリカ軍が上陸すると知ると防御方針を転換し、戦力の逐次抽出を行って圧倒的火力の米軍に悉く敗れ去った。
 困窮した日本軍はマニラを死守する方針に固執し、これが原因で多くのマニラ市民が日米両軍の戦闘の巻き添えに為った。マニラに限っても、マニラの非戦闘市民の犠牲者は10万人を数えるとされる。フィリピン全土では一体幾らの罪無きフィリピン人が犠牲に為ったのか。その全容は現在でも明らかに為って居ない。

 一方海では、米軍レイテ島上陸に際して連合艦隊が乾坤一擲(けんこんいってき)の大攻勢に打って出たが、呆気無く敗れ去った。これにより日本海軍の組織的な制海行動は終了し、フィリピン戦での日本海軍の敗北が「統率の外道」神風特別攻撃隊(特攻隊)を創り出した。
 マニラ失陥後、指揮系統を失った日本軍は、或る者は山岳地帯に逃げ、或る者は島嶼部のジャングル地帯に立て篭った。戦争終結後、29年の後、初めて投降に応じた小野田寛郎少尉(ルパング島・1974年帰国)もその一人であった。こうして余りにも多大な犠牲を出したフィリピンの戦いは終わったのである。





 5】最悪だったフィリピンの対日感情 そして和解・友好へ

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                 バターン死の行進

 この様な事情から、戦後長らくフィリピンにおける対日感情はアジア最悪の部類であった。マニラ市では「日本人は日中街を歩け無い」とさえ言われる有様だった。事実、所謂「東京裁判」におけるフィリピン代表判事のデルフィン・ハラニーリャ氏は、バターン半島における攻防戦で日本軍に捕虜に為った経験(バターン死の行進)から、日本に対して連合国判事の中で最も苛烈とも言える敵愾心を燃やして居た事は有名である。

 しかしこうしたフィリピンの最悪の対日感情も、時が経つに連れて融和の道を辿った。一つはフィリピンが戦後、マルコスによる親米独裁政権により、日本との関係で反日感情よりも経済協力を優先させた事。しかしそれでも、日比の賠償交渉は相当難航した事を記す。
 又最大の理由は、50万人ともされる日本人戦没者の遺族が、戦後、遺骨収集や戦没者慰霊の為にフィリピンに渡航し、現地住民との草の根の交流を広げた処が大きかった。 或る遺族団は、フィリピンに着くなり現地住民から「日本軍が奪って行った俺のトラックを返せ!」と鬼の形相で怒鳴られたと云う。
 
 しかし、この様な両国民の戦争による傷も、日本人戦死者50万人の背後に居る、数百万の遺族等の渡比行為と草の根の交流事業により「日本人は決して鬼では無い」と云う融和の心をフィリピン人に惹起せしめ、そしてカトリック教国特有の「赦しの心」により、日本軍の加害の罪を赦すと云う意識が芽生え、広がって行ったのである。
 現在、フィリピンの対日感情は過つて無い程好転して居る。過つて「アジアの病人」と呼ばれた経済も順調であり、総人口も1億人を突破した事等から、日比間の経済交流・人的交流、及び防衛協力等も益々重要度を増していると言える。

 しかしその背景には、50万人の日本人戦没者の存在と、それを数倍上回る罪無きフィリピン人の被害者が居る事を、現代日本人は決して忘れては為ら無い。戦争責任、加害の歴史と言うと直ぐに韓国と中国が俎上に載せられる。勿論それはそれとして、確りと記憶に刻まれる必要があるが、一方でフィリピンも、日本人が決して忘れては為ら無い戦場である事を、私達は1944年10月20日から75年経った今、再度心に刻む必要があるのではないか。(了)


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 古谷経衡 文筆家 著述家 1982年北海道札幌市生まれ 文筆家 日本ペンクラブ正会員 立命館大学文学部史学科卒 テレビ・ラジオ出演など多数 主な著書に『日本型リア充の研究』(自由国民社)『愛国奴』(駒草出版)『女政治家の通信簿』(小学館)『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)『意識高い系の研究』(文藝春秋)『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』(コアマガジン)『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)『戦後イデオロギーは日本人を幸せにしたか』(イースト・プレス)『ネット右翼の終わり』(晶文社)『欲望のすすめ』(ベスト新書)『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数

美容院aniotahosyuブティックtsunehira.furuya official site 古谷経衡公式サイト 以上

 




 【管理人のひとこと】

 戦争を賛美し「聖戦」だと叫ぶ人達が世の中に存在する。それは、ホンの一部の人達なのだが、その人達の一部に「戦争で、西欧に支配されたアジア・太平洋の国々の独立に大きく貢献した」「西欧に虐げられた国々の民族独立に大きく寄与した」・・・と。しかし、戦車や軍艦で乗り付け、他国の領土を侵略し例え米英と戦っても「傍迷惑(はためいわく)」以上のものでは決して無い。「五国共栄」等も屁理屈に過ぎない。
 彼等は、他国の民を傷付け、その上自らの国民を「聖戦」の名の基に生命を脅かす様な悪質な狂言者以上でも以下でも無い。単に、人間同士の殺戮を好む「バンパイア」吸血鬼に過ぎ無いのだ。国の為・民族の為・家族の為・・・と洗脳し銃を持って戦えと囃(はや)す。しかし、国でも民族でも家族も実際に犠牲となるのを望んで居る人々は存在し無い。国の為・民族の為・家族の為に戦いを拒否する事コソが、それ等を守る最大の愛国者なのだと言え様。
 文中に在る様に、韓国・中国だけに「反日」的志向が存在するのでは無い。今は、親日的に見える国々でも、戦争での犠牲・恨みは心の中に疼(うず)いて居るのだ。そのことを私達は忘れては為ら無い。



 



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【歴史考察】大敗を糧にした敗者側から歴史再構築



 【歴史考察】大敗を糧にした敗者側から歴史再構築

 勝頼は「長篠の戦い後に立て直し」

 政宗は「人取橋の戦い後に領国拡大」

 




          〜読売新聞オンライン 10/21(月) 12:10配信〜



 〜〇〇の戦いで大敗を喫した△△氏は、以降、衰退の一途を辿り・・・戦国時代の解説書で、シバシバ見られる一文だ。しかし、戦国合戦史を見ると、大敗は、大名の滅亡に常に直結して居たとは限ら無い。今年刊行された『戦国合戦〈大敗〉の歴史学』(山川出版社)は第一線の研究者が敗者の「その後」を追い、大敗の一面的な見方に再考を迫った画期的な論考集だ(文化部 多可政史)〜


 「大敗後」の研究が進ま無かった理由 

 歴史ファンの関心が高い合戦は戦国史研究の華だ。しかし、一次史料と為る書状や日記には、勝者側が合戦での活躍を詳細に記述することはあっても、敗者側が不名誉な大敗の記録を残すことは殆ど無い。

 「『大敗後』の研究が進ま無かったのは史料的制約が大きかったから。それでも、近年は関連する史料集の刊行やデータベース化が進み、負けた側の視点による新たな歴史像を構築出来る環境が整いつつある」
 
 研究代表者の黒嶋敏(さとる)・東京大史料編纂(へんさん)所准教授はそう語る。本書は、2015〜17年度の研究成果を主にマトメた。大敗を喫しても領国を維持し続けた大名や大敗を糧に以前より勢力を強めた大名等、敗戦後の様々な姿に光を当てた点が意義深い。

 



           10-21-16.gif 武田勝頼

 前者の代表例が武田勝頼だ。天正3年(1575年)の長篠の戦い(愛知県)は、織田・徳川連合軍が武田の騎馬隊を鉄砲で撃破した戦術の鮮やかさか、特に有名な大敗事例。
 だが、金子拓(ひらく)・同所准教授は近年の研究を踏まえ、勝頼が敗戦後も指揮官と為り得る経験と資質を持った家臣の補充にあたる等、軍制面の立て直しに腐心して居た実態を紹介する。

          10-21-17.jpg 伊達政宗

 大敗を機に成長した大名が伊達氏だ。同13年(1585年)の人取橋の戦い(福島県)では、政宗が勢力拡大を目指す過程で、二本松城(同)を包囲したのを切っ掛けに反伊達軍の結束を招き、重臣が討ち死にする大敗を喫した。
 只、その後の和議を機に二本松城が伊達氏の所有と為り、政宗の軍事行動は正当化された。黒嶋准教授は「領国拡大へと走る戦略を方向付けた」と指摘する。伊達氏は大敗を糧に東北を代表する大名に為ったとの見方が出来る。

 「誇張」を剥ぐ作業が大事
 
 通説に一石を投じる論考もある。九州・薩摩の島津氏が日向の有力者・伊東氏を破った元亀3年(1572年)の木崎原の戦い(宮崎県)は、九州戦国期の代表的な大敗事例とされて来た。
 畑山周平・同所助教は史料分析の結果、両氏の形勢逆転の切っ掛けはその3年前の戸神尾の戦い(鹿児島県)で、木崎原は伊東氏ら反島津勢力が劣勢挽回を図った一連の戦いの一部だったと論じた。

 大敗が実情と異なる姿で後世に伝わるのは、大名の運命を左右した衝撃から、後世の記録や地域の伝承も誇張され易いからだ。長篠の戦いの大敗の印象は、江戸期に成立した武田氏の軍学書「甲陽軍鑑」による、敗戦を厳しく批判した記述の影響が大きい。
 伊達氏の江戸期以降の記録では人取橋の戦いが大敗では無く、飽く迄「苦戦」と強調されるなど、存続した大名が過去の不名誉を矮小化(わいしょうか)して居た実態も浮き彫りに為った。

 畑山助教は「史実に近づくには、誇張を剥ぐ作業が大事」と語る。それが大敗の歴史学の難しさであり、醍醐味(だいごみ)の様だ。

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                桶狭間の戦い

 川中島、桶狭間も・・・

 他にも、通説では激戦と評価される川中島の戦いや、今川義元が織田信長に敗れた桶狭間の戦い等の論考が並ぶ。
 東北から九州までの九つの大敗事例は、勝者を優れた新勢力、敗者を前時代的な古い勢力とする様な「表面的なレッテル」(黒嶋准教授)から脱した視点を提供する。黒嶋准教授は「一次史料による研究、軍記物などの二次史料による研究の双方に取り残されて来たのが大敗と云うテーマ。他にも歴史学で軽視されて来たテーマは有るのでは。そうした問題提起にも為れば」と語る。


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           (左から)金子准教授 黒嶋准教授 畑山助教


 




 【管理人のひとこと】

 歴史が面白いのは、記述者によっての個性的・主観的思想・意思が相応に入る事により、人間の観方・時代の観方・時間の流れ等の認識が色濃く映し出される点にある。往々にして、多くの人達は世に出された著名な文書から多くを学び知るのだが、それが全て正しいとは限ら無い。
 人間の歴史の中の殆どは「争い・戦争」の歴史でもある。特に結果を知った後世の人達は、それのみを目的に前後を修飾する作業に追われてしまう、詰まり、辻褄合わせの作業に追われてしまう。だから、一つの定説が積み上げられてしまうと、それが真実と語られてしまう。この様な時に「別の観点から見詰め直したい」とする人達が現れるのは自然の事だ。
 私達の歴史は、この様に何度も見直され、修復され・・・何時かは正しい真実が導かれるのだろう。その意味で、何度も検証されることは望ましい事だ。



 





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何故、巨石が水面に浮くのか? 何故、震災を予言出来たのか?「日本三奇」


  何故、巨石が水面に浮くのか? 何故、震災を予言出来たのか?
 
 「日本三奇」の「石の宝殿」「四口の神釜」を訪ねる


            〜テレ東プラス 10/20(日) 20:41配信〜







 「石の宝殿」何故石が水面に浮かぶのか?

 古くから言い伝えられる不思議スポット「日本三奇」をご存知だろうか。元々は江戸時代の医者・橘南谿が、自著の中で「3つの奇跡」と紹介したのが始まりで、例えば高千穂峰の山頂に突き刺さる「天の逆鉾」もその1つ。ここでは、由緒ある古い神社に残された、他の2つの「奇」をご紹介したい。

 「石の宝殿」は兵庫県高砂市の生石神社にある

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             宙に浮く奇妙な石造物「石の宝殿」

 先ず訪れたのは、兵庫県高砂市にある生石神社だ。竜山石の産地として古くから栄えた、竜山の中腹辺りに鎮座するこの神社は、3世紀頃の創建と伝えられる長い歴史を持って居る。

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 此処に、世にも珍しい御神体が祀られて居る。国の史跡に指定される「石の宝殿」である。「石の宝殿」は直方体を為す石造物で、寸法は横6.4メートル高さ5.7メートル奥行7.2メートルと云う巨大なもの。

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             宙に浮いて居る様に見える!

 コレが「日本三奇」の1つに数えられるのは、一見すると、宙に浮いて居る様に見えるからだ。屈み込んで覗き込んでみると、水が張られた溜池の上にマルで浮かぶ様に設置されて居るのが判るだろう。恐らくは底面の中央部に台座が設けられて居るのではないかと想像するが、カラクリは判ら無い。その異様さから「石の宝殿」には「浮石」と云う別称が付けられて居る。

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             干ばつの際でも何故か水位が変わら無いと云うミステリー

 因みにこの溜池は、水路が通じて居る訳でも無いのに干ばつの際でも何故か水位が変わら無いと云うから、謎は深まるばかり。ソモソモこの「石の宝殿」は、何時誰が何の為に造ったものなのだろう?

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             何時の時代から有ったのか?その真相は藪の中

 出来る限りの記録を紐解くと、8世紀に編纂された『播磨国風土記』の中に早くも「石の宝殿」に関する記述が発見出来る。当時は「大石」と呼ばれ、聖徳太子の時代に豪族・物部守屋が造ったものと紹介されて居るが、この説に懐疑的な学者も多い。今の処、真相は藪の中だ。
 多くの謎を擁したまま、今も水面に浮かぶ「石の宝殿」その異景振りと醸し出る不思議な有難味は、御神体として十分な趣がある。是非一度、参拝に訪れてみては如何だろうか。

 



 東日本大震災を予言した「四口の神釜」

      10-21-14.jpg 御釡神社

 一方、今度は東北地方に目を移してみると、宮城県塩竈市の御釡神社にも「日本三奇」の一角「四口の神釜」がある。
 これは神器として重宝されて来た鉄製の釜の事で、その昔、この神社の祭神シオツチノオジが製塩に用いたものと伝えられる。元々は7口在ったそうだが、その内3口は盗難に遭い、後に「四口の神釜」として奉安する事に為ったと云う。この釜には、不思議な力が秘められて居る。普段は溢れる事も涸れる事も無いと釜の水が、世の中に異変が起こる時のみ変色すると云うのだ。

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          撮影不可の為、イラストで再現した「四口の神釜」

 例えば江戸時代に編纂された『塩竈町方留書』には、寛永13年(1636)の2月に水の色が変わった際には、時の藩主・伊達政宗の病が発覚し、祈祷の甲斐無く3カ月後に逝去した事が記されて居る。
 元禄2年(1689)にはアノ松尾芭蕉もこの神釜を拝観する為に御釡神社を訪れたと云うから、その神秘的な力は当時から全国的な話題を呼んで居たのかも知れない。実際、江戸時代には神釜の水の色を常に見張り、変色した際には藩への報告が義務付けられて居たと云う。そして近年に為ってからも、神釜の不思議な力を示す出来事があった。平成23年(2011)に発生した東日本大震災だ。

 3月11日の朝、普段は赤茶けた色味の釜の水が、4口の内2口のみ、透明に変化した様子が目撃されて居る。その後の惨事は誰もが記憶に新しい処だろう。猛威を振るう津波の被害を、神釜が寸での処で回避して居るのも何やら意味深だ。
 「四口の神釜」は普段、鍵の掛かった社の中に安置されて居るが、拝観料を支払えば誰でも見学する事が出来る。果たしてその日、釜の水はどの様な色で出迎えて呉れるのか? 心して拝観して欲しい。



 見逃せ無いパワースポット3社

 著名人からテレビなどでパワースポットとして紹介され、沢山の人々が殺到する様に為った神社にも注目したい処です。実際にご利益があったと云う後日談は後を絶た無い3つの神社があります。
 
 須佐神社(島根県出雲市)

 島根県出雲市にある「須佐(すさ)神社」は、スサノオノミコトが自らの御魂を鎮めたとされている社です。言い伝わる七不思議の1つとして、潮が湧くと云う「塩ノ井」があり、スサノオノミコトは、この海水で神社の地を清めたと言われて居ます。

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 この神社は矢張り、ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトを祀る神社だけあって「日本最強パワースポット」との噂もある程。自分自身を「力」で武装したいなら、ここは外せ無い神社かも知れません。

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                  「塩ノ井」


 榛名神社(群馬県高崎市)

 群馬県高崎市にある「榛名(はるな)神社」の社殿は、奇岩・巨岩が聳える榛名山に点在して居り、背後の大きな御姿岩に減り込む様に建って居るのが本殿です。早くから神仏習合が進み、修験道の聖地とされていました。

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 そうした背景から、この神社は霊力というか「気」が強く漲って居る場所として知られ、その強い「気」に肖りたいと云う参拝者も数多く訪れて居る様です。自分の気力を充実させたいのなら、ここも見逃せ無い神社と言えるでしょう。

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 三峯神社(埼玉県秩父市)

 犬では無く狛狼が護る「三峯(みつみね)神社」は、秩父の山奥に鎮座します。ヤマトタケルノミコトがイザナギノミコトとイザナミノミコトを祀ったのが起源と云います。役小角が修行し、空海は自刻の十一面観音像を奉納したと伝わって居ます。

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 この神社は関東屈指のパワースポットと言われ、願望実現と金運のご利益を期待出来る神社として全国から参拝者が殺到する程。毎月1日には「白い氣守」も限定頒布されます。ビジネスにおける「強運」を身に纏う為にも、この神社に1度は行ってみる価値はありです。

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 寺社参拝のメリットとは?

 以上、ビジネスパーソンの方にお勧めしたい寺社を簡単に紹介いたしました。参拝によるメリットは、お寺や神社周囲の自然や景観を眺めたり、ご当地や近隣の美味を食したり、時間があれば温泉地も楽しめたりする「心身のリフレッシュ」が図れる処だと思います。
 新たなる2020年の始めに、先ずは寺社に足を運んで「心の整頓」から入ってみるのも好いのではないでしょうか。仕事の業績や成果がアップする「小さな切っ掛け」に為るかも知れませんよ。


                  以上





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