アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2019年10月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2019年10月05日

超恥ずかしがり屋の少年が 「視聴率100%男」に為るまで(後編)


 


  超恥ずかしがり屋の少年が「視聴率100%男」に為るまで 萩本欽一(後編)



            10-4-22.jpg


 「1回だけなら…」が大ブレイクへ! コント55号結成秘話


 ・・・しかし、その後もコント55号で大ブレイクする迄に可なり長い時間が掛かって居ます。

 僕ね「浅草時代の欽ちゃんを見た事がある!」と言う人に出会った事が1回も無いの。或る意味、それも不思議な話でしょ? 詰まり、それ位笑いが取れず印象にも残ら無い存在だったんだろうね。でも僕には帰る家も無かったし、続けるしか無かったんだよ。解散式を遣っちゃった以上、受け無くても舞台に上がり続けるしか無かった。

 ・・・コント55号って、どちらが先に結成話を持ち掛けたんですか?

 (坂上)二郎さん。と云うのもね、自分で言うのもアレだけど、僕が一気に成長した時期が有ったの。周りからも「お前はもう一人前だ」って言われて、舞台での出番も増えて。その頃、上の先輩達がダレて居ると云う事をフロントが言い出して、代わりに僕を上げようと云う話に為った訳。
 ダレて居ると云うのは舞台で笑い出したり、思い着きで劇と関係無いアドリブを入れたり、そう云う事だよね。現場の気を引き締める為に、若手の僕を主役に抜擢すると云う作戦。処が、二郎さんがこれに対して「ふざけるな!」と怒り始めてさ。大変だったんだよ。

 ・・・年齢的には坂上さんの方が萩本さんより7歳も上ですしね。

 それで向こうは舞台の上でケンカを仕掛けて来る訳。ケンカと云うのはアドリブの事。コッチもコッチで頭に来て、そのアドリブにアドリブで返して行ったんだけどさ。そうしたら、意外な事にお客さんからは受けたんだよね。
 仲は普通に悪かったから半年で共演は終わりにしたんだけど、二郎さん的には僕と一緒にヤッタ経験が凄く刺激的だったらしいの。それで「一緒に遣ろう。欽ちゃんの若さが魅力的なんだ」って口説かれたんだけど・・・正直言って、面倒臭くて嫌だナアと思いました。だけど、キッパリとは断り切れ無くて「1回だけなら・・・」って消極的な感じで引き受けちゃったんだよ。

 ・・・1回遣ったら、直ぐに辞める積りで?

 そうそう。だけど、その1回がバカ受けだったのよ。それで味を占めちゃって「ジャア、もう1回だけ……」みたいな事で続いて行くんだけどね。当時は看板に書くコンビ名も無くてさ。「何でも好いから名前を着けて下さい」って頼まれても「嫌、我々は直ぐに解散する2人ですから。コンビ名なんて付けません」って言い張っていたもんな。(笑)
 コント55号と云うのも、会場側が適当に着けた名前なのよ。55って云うのは王(貞治)さんのホームラン数に肖(あやか)ったらしいんだけど。

 ・・・コント55号は天下を獲りましたが、何が勝因だったとご自身では思いますか?

 コンビを組んでからの二郎さんと云うのは、決して文句を言わ無い人だったんだよね。僕の事を買って呉れて居たの。「俺の方が年齢も芸歴も上なのに!」みたいなエゴが一切無く「若い人が考える方が好いから」ってネタ作りも僕に任せて呉れた。
 ネタと言っても簡単なものだったけどさ。「マラソンをする選手とコーチ」みたいな設定だけ決めて置けば、2人でどうにでも転がして行けたのよ。浅草で修行して居た僕達に取っては、それが当たり前だったから。

 ・・・凄いな。今のお笑いでは考えられ無い事です。

 逆に自分達がテレビに出た時、決まり事ばかりで戸惑ったよね。浅草時代は当日に為ってから用意された衣装を見て「ジャア今日はこう云うテーマで行こうか」って決める感じだったの。勿論リハーサルも台本も無かったし。
 でも事前の打ち合わせナンてしなくても芸の精度は高かったし、ステージに緊張感があった。僕はズッと笑いの世界で遣って来たけど、浅草の時に先輩達が遣って居た舞台が一番レベルが高いと今でも思って居ますから。

 ・・・コント55号がスタートして、手応えは最初から有りました?

 最初に手応えを感じたのは、劇場の支配人に「久し振りに楽屋が空っぽに為った」と言われた時かな。楽屋が空っぽと云うのは、要するに同業者が全員僕達の舞台を観に来て居る訳。そうやって身内から評価されて居る事が、凄く嬉しかった記憶はある。
 それから当時、僕等の最大の目標はテレビでは無くて、日劇(日本劇場)に立つ事だったんだよね。でも、割と直ぐに日劇に立つ事が出来た。コンビ結成から僅か4か月位で、夢が叶っちゃったんだよ。日劇と演芸場に交互で出演して、途中からはそれにテレビも入って来て・・・遣る事為す事上手く行って居る感覚は、確かにあったよ。

           10-4-17.jpg


 ・・・只テレビに関しては、手痛い失敗もやらかしたのだとか。

 そう。でも、それはコント55号結成の前の話ね。21回連続でNGを出して、降板させられたのよ。二郎さんも二郎さんでテレビで大失敗した事があったから、僕達に取ってテレビと云うのは鬼門だった。
 それで55号としてテレビに出た時、スタジオの床に場位置確認のテープが貼ってあったの。「そこから食み出すと、カメラワークの関係で映ら無く為ります」って番組のスタッフから注意されてさ。それで思い出した訳。「そうだ。アノ時も自分はそうヤッテ失敗したんだった」と。
 僕が二郎さんに伝えたのは「自分の中でテレビ局の言う事を聞くと云う選択肢は無い。二郎さんがテレビに出たいのなら、アノ黄色いテープの内側に収まって居れば好い。二郎さんの人生なんだから、それは二郎さんの自由だ」と云う事。
 二郎さんは「テープの内側でも出来る気がするんだけどな……」とか言って居たけど、イザ本番が始まると段取りナンて関係無く暴れ捲くって居てね。「気が合う同志だな」って、そこで実感しました。


 




 ・・・嫌々コンビを組んだにも関わらず、相性が抜群だったんでしょうね。

 そのテレビ収録の時は、局側の言う事を一切聞かずにハチャメチャ遣った訳だから、本番が終わったら逃げる様にして帰ったの。だけど、向こうのスタッフが僕等の事を追い掛けて来てさ。怒られるかと思ったら、こんな事を言う訳。
 「君達にマイク1本は無理だったね。残念だけど、今日のヤツは放送出来無い。次までにマイクを5本用意して置くから」僕は、そこでハッとしたんだよね。ここに大きなポイントが有ると思った。自分達がテレビに出たいと思って居るから、向こうの言う事を何でも聞く。媚びる事で失敗する。
 逆にテレビナンて別に好いやと思って居たら、本当に自分が面白いと思って居る事だけを堂々と出来る。結果として上手く行く。結局、55号の笑いは最初からテレビの枠に収まるものじゃ無かったと云う事なんだよね。

 ・・・一気にブレイクした事で、周囲の反応も変わったのでは?

 物凄く変わった。驚いたのは僕達に向かって女の子が「キャー!」とか言いながら走って来た時。後ろに誰か居るのかな?と思ったら、コント55号目当てのファンだったの。信じられ無かったよ。舞台に出ても「キャー!」と云う黄色い声援が飛ぶものだから「うるさい!」って僕が怒鳴った事も在ったな。アンナにのべつ幕なし騒がれたら、コッチが何をしゃべっても聞こえ無いんだもん。

 ・・・完全にアイドル扱いじゃないですか。

 そんなの、コッチは望んで居なかったけどね。だからテレビ収録する時は、為るべく女性のお客さんをスタジオに入れ無いで下さいって頼んで居た位なの。実際『コント55号のなんでそうなるの?』(日本テレビ系)は、皆男のお客さんだったし。女の子のファンばかりだと何をヤッテも受けちゃうものだから、どうしても一発芸的な方向に走り勝ちなのよ。そうすると大人のお客さんに受け無い。

 ・・・コント55号の人気は絶大でしたが、坂上さんは俳優業に、萩本さんは司会業に重点を移して行きます。

 新聞や雑誌には「コント55号 解散か!?」と書かれて居たけど、当人達としては解散する気なんて無かったの。だけど「解散か!?」って言われて居る中でコントナンて遣っても、観て居る人は笑え無いでしょ? それで「55号を休憩する」と表現したんだけどね。
 報道されて居た様な不仲とかは本当に一切無かったですよ。ソモソモ僕と二郎さんは、プライベートでご飯を一緒に食べたり遊んだりする様な間柄じゃ無かったから。寧ろそう云う事は辞めようと最初から決めて居た位。距離が近過ぎるから仲が悪く為るんであってね。二郎さんが出ていたドラマとか映画の事も僕には相談なんて一切して来なかった。でも、それで好かったんだと思う。

 ・・・つかず離れずの絶妙な距離感と云うか・・・

 休憩から5年位した頃かな。『欽どこ(欽ちゃんのどこまでやるの!?)』(テレビ朝日系)の100回記念で二郎さんを呼べないかと云う話が出たの。番組スタッフは恐縮頻りと言った様子で「嫌、無理だったら全然結構なんですけど……」とか言って居たけど、僕は二郎さんに対して来拙い事なんて何も無いから。
 「そう云う声が有るんだけど、出て呉れない?」って普通に電話してね。二郎さんも「嬉しいね。久し振りの欽ちゃんとコントか。ハイよ〜」って感じで。その後もタマに一緒にヤッタしさ。解散なんて考えた事も乃至、僕と二郎さんの関係って云うのはズッとそんな調子だったんだよ。最後、二郎さんが入院して居た病院にお見舞いに行った時まで何も変わら無かった。

        10-4-21.jpg

 進行が出来無い司会の誕生「アシスタント」システムは欽ちゃんが作った!!

 ・・・司会業も最初は頼まれて始めただけだったと自著で書かれて居ます。与えられた場所の中で努力したら、それが上手く行ったと云う事でしょうか?

 努力ネエ……努力は余りして居ないな。強いて言えば、好い仲間に出会った事が大きかったんだと思う。55号の番組で当時ADだったフジテレビの方がディレクターに出世して、自分で番組を担当する事に為ったの。その番組が『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ系)
 それで「司会は誰にする?」って事に為るんだけど、その人はテレビ局に入ってから芸能人の知り合いが2人しか出来無かったらしいんだよね。その2人が誰かと云うと、僕と二郎さん。何と云う狭い世界で仕事をして居たんだと云う話なんだけどさ。(笑)
 だけど僕は55号で段取りをブチ壊す様なコントを遣って居た訳だから、台本通りに進行するなんて最も向いて居ない訳。それで最初は断って居たんだけど「欽ちゃんが進行出来無いなら、キチンと進行出来る人を隣に置けば好いじゃないですか」とか言い出したのね。それを聞いて僕は「アア、それは好い考えだね。それだったら、何とか為るかな」と思った。

 ・・・今では当たり前に為って居る「アシスタント」と云うシステムも、それが最初だったと言われて居ます。

 そうナンだけど、最初だったからヤッパリ大変だったのよ。と云うのも、そのディレクターは上司からこっ酷く怒られたのね。テレビ界のタブーを破ったと云う事らしいんだ。司会者が居るのにも関わらず、横には別の進行係が居る。これはテレビ的に在っては無い事だったらしくて。

 ・・・エッ、何でですか?

 僕も判ら無くてポカーンとしちゃったの。それで理由を聞いたら「司会者が能無しだと云う事を、自から言って居る様なものだ」と云う話らしい。
 そのディレクターは「嫌、でも大将は仕事が遣り易いと喜んで居ましたよ」と上司にも伝えたんだけど「それは偶々萩本さんが細かい事を気にし無いだけであって、遣って居る事が非常識過ぎる!」と取り合って呉れ無かったそうです。「謝って来いと言われたから、取り敢えず謝りに来ました」ってディレクターも苦笑いして居たけどね。でも、確かにその上司が言う事も判るんだよ。それ位僕も司会者としての基本能力が無かったんだから。

 ・・・今では芸人が司会を遣るのが当たり前だし、ワイドショーのみ為らずニュースキャスターを務めるケースすら有ります。当時は芸人が司会業に進出すること自体、未だ珍しかったですから。

 そうね。だからコソ「新しい司会者のスタイルだ」って言われたんだろうけどさ。そりゃ新しいに決まって居るよ。司会者なのに司会出来無いと云うスタイルなんだもん。本来は「ハイ、次のチームは〇〇です!」って遣るべき処を「ハイ、次のチームは……誰だっけ?」とかその場のノリでしゃべるだけ。後は隣の女の子が話を前に進めて呉れると云う。僕ね、細かい段取りを覚えられ無いんだよ。評価されるのは有難い事だったけど「努力した」とか「編み出した」とかそう云う話では全然無い訳。


 




 ・・・自然体の雰囲気が視聴者には新鮮に映ったのだと思います。

 人生って面白いものだよね。運と云うのは、何時も後ろから遣って来るんだよ。「この人とは合わ無いな」と思って居た二郎さんと組んだら大受けした。「司会だけは勘弁して呉れ」と思って居たのに評価された。それともう一つ在ったのは『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ系)にしても『スター誕生!』にしても素人が相手の司会業だったでしょ。此処で素人が持つ面白さに気付いた事が、後に素人を弄る様な番組作りに発展して行ったのよ。

 ・・・ああ、それが『欽ドン!』(フジテレビ系)『欽どこ』『(欽ちゃんの)週刊欽曜日』(TBS系)の3番組だった訳ですね。僕も当時は夢中で番組を観て居ましたけど、張本人としては「時代を作って居るな」と云う実感は在ったんですか?

 ありましたよ。あったからコソ、辞めたんでしょうね。※1985年、充電期間に入る為全レギュラー番組を降板。

 ・・・どう云う事でしょうか?

 欽ちゃんが欽ちゃんじゃ無く為って居る気がしたの。「視聴率100%男」ナンて言われて、周りからは王様みたいな扱いをされる。そんな状況、自分で処理出来無いよ。何かを追い越そうとして居るのが欽ちゃんであって、そう云う姿勢が皆から受けて居たんだと思うしね。
 例えば雑誌のインタビューを受けるでしょ。すると記者の人は「何故視聴率30%の番組を3つも持つ事が出来るんですか?」って尋ねて来るんだよね。

 ・・・記者の立場からしたら、当然そう為ります。

 コッチは誠実に答えようとするんだけど、結局、何をしゃべっても自慢話に為っちゃうのよ。そんな偉そうなインタビュー、僕自身が一番読みたく無い! 自分の番組を始めた処で、最初は歌手の人からもその事務所からも相手にされ無かったのよ。司会者としても超亜流だから、何処かバカにされて居たしね。
 だけど数字の結果を出すうちに、段々「欽ちゃんの遣る事は正しい」と云う空気に為って行ったの。これは僕に取って決して心地好いものでは無かった。寧ろ苦しかったです。

 ・・・全盛期は「取り敢えず欽ちゃんと絡んで置けばオイしい」と云う打算も芸能関係者の間にあった筈ですよね。

 正直に言うと、有名人の方から山の様にお手紙が届いて居ました。それもマネージャーや事務所を通さ無い直接のお手紙。内容は「私の夢は欽ちゃんの番組でイジられる事なんです」みたいな事でね。或は「うちの両親も欽ちゃんの番組が大好きなんです。親孝行がしたいので、どうしても一度だけ番組に出させてください」と云うのもあった。
 だけどそんなお願いをイチイチ聞いていたら、番組全体の構成が滅茶苦茶に為るでしょ。だから、ナカナカそこは慎重に進めて居たけどね。

 ・・・元々浅草時代に志して居た笑いの質と、例えば風見慎吾(現・風見しんご)さんのブレイクダンスでは受けて居る内容自体がマルで違いますよね。その辺はご自身の中でどう消化して居たんですか?

 結局は消化出来無かったのかも知れないね。何処かで違和感があったと云うか……それを如実に感じたのは、誰も僕の事を「欽ちゃん」と呼ば無く為って来たのよ。「萩本さん」或は「大将」もう欽ちゃんの時代は終わりなんだなって自分でも思いました。
        
 映画製作 野球チーム結成・・・そして

 ・・・充電期間に入ったのは、そう言った思いがあったからなんですね。

 アレは「充電期間」と云うより「放電期間」だったけどね。当時「マダマダ自分は30%取れるぞ」とか「更なる頂点を目指す」とか云う気持ちは一切無かったの。もう自分は一杯一杯だし、実力以上の評価を貰って居たなと云うのが正直な気持ちだった。「僕、そんな凄い人じゃ無いですよ?」と言いたかったね。

 ・・・明石家さんまさん、ビートたけしさん、タモリさん・・・年齢を重ねても笑いの最前線に居る人も居ますし、坂上さんの様に違う路線に進む人も居ます。

 僕の場合、完全に疲れちゃったから別の方向に進んだパターン。テレビ番組で笑いを遣る事に疲れちゃったから、映画での笑いを目指した。それが『欽ちゃんのシネマジャック』それから一番笑いを入れるべきジャンルだと思ったのが野球だったから球団を遣る事にした。それが茨城ゴールデンゴールズなんだよね。
 あの頃は野球が地上波放送から撤退して行き、子供達の野球人口も減って居ると云う話だったのね。だったら野球自体を面白くして行かないとダメだって僕は考えたの。

 ・・・実際、茨城ゴールデンゴールズは物凄い人気球団に為りました。

 アレは実に夢がある話だったのよ。先ず広告代理店が間に入って、テレビ放送したいと云う話が出て来たの。それからプロの球団とも絡む話もあったね。2軍のイースタンとウエスタンは夫々7チームと5チームなんだけど、そうすると試合が組み辛い訳ですよ。
 そこを調整する為に、お客さんが集まるゴールデンゴールズ戦を入れようと云う訳。僕としては視聴率30%を狙う様な感覚で、自分のチームを人気球団にしようとして居たんだよね。最後は事件(2006年 所属選手の極楽とんぼ・山本圭一が未成年との飲酒淫行事件で書類送検される)が在って終わったんだけど、大人数をまとめる事の難しさをそこで痛感したね。

 ・・・映画はどう言った動機で?

 これはチャップリンさんとの約束だったんだよ。ご本人とお話させて頂いた時「僕は昔からチャップリンさんに憧れて居て、何時かはチャップリンさんの様な映画を作りたいと思って居るんです」と伝えたので。   チャップリンさんとのその約束は果たせて居ないなと、心の中でズッと引っ掛かって居た訳。だから遣ってみたんだけど……マァ予想以上に映画はお金が掛かるものだったね。テレビで稼いだお金が吹っ飛ぶ位、滅茶苦茶にお金が必要に為って来る。これ以上遣ったら破産すると思って辞めたのが正直な処です。
 もう一つ遣ってみて気付いたのは、僕等が楽しんで居た大衆娯楽としての映画とは一寸意味合いが変わって来て居るなと云う事。今の映画って、兎に角賞を獲ら無いとダメなのよ。だから芸術寄りに為って行くんだよね。そう云う事情がある中で、言い映画を作ろうとするよりは……最後に言いテレビを作ろうと云うのが今の心境なの。

 ・・・判りました。非常に長いインタビュー、有難うございます。最後にこの記事を読んでいる人にメッセージなどはありますか?
 
 こうして振り返ってみると、自分でもヤッパリダメな奴だったなと思うよね。でもダメな奴為りに、ダメじゃ無い人生を送る事は可能だと言いたいんだ。世の中には「自分はダメだ……」と諦めちゃって居る人が沢山居ると思う。ダメな方が好いとは言わ無いまでも、ワザワザ可能性を自分で潰す必要は無いですよ。人生は死ぬまで修行だから、僕もマダマダ頑張ります。元気を出しながら、最後の最後まで挑戦し続けたいなって思いますね。



           10-4-19.jpg

 【プロフィール】萩本欽一(はぎもと・きんいち)

 1941年5月7日 東京・入谷生まれ 高校卒業後 浅草・東洋劇場の軽演劇一座に加わる。1966年に坂上二郎とコント55号を結成。1968年から始まったテレビ番組『お昼のゴールデンショー』で人気が爆発し時代の寵児に。1971年に始まった『スター誕生』からは司会業にも進出した。1980年代は『欽ドン!良い子悪い子普通の子』『欽ちゃんのどこまでやるの!?』『欽ちゃんの週刊欽曜日』等が絶大な人気を博す。
 2005年にはクラブ野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し監督に就任。2015年に駒澤大学仏教学部に入学を果たすが、新しいお笑いを志す為19年に自主退学。近著に『人生後半戦、これでいいの』(ポプラ新書)など・・・







三井住友VISAカード お申込はこちら






日本の大企業がアジア諸国で「2周遅れ」して居る厳しい現実



 日本の大企業がアジア諸国で「2周遅れ」して居る厳しい現実

             〜現代ビジネス 10/5(土) 7:01配信〜

          10-5-1.jpg

                 歳川 隆雄氏


 「日本の大企業も出来る筈だ」

 消費増税実施の前日に「日本経済新聞」(9月30日付朝刊)は一面トップに「甘利自民党税調会長に聞く・・・M&A減税措置検討、内部留保の活用促す」との見出しを掲げた甘利明自民党税制調査会長のインタビューを掲載した。
 一見すると唐突感を覚えるが、精読すると甘利氏の主張がまさに時宜に適った「日本企業の構造改革」を強く促す提言である事が理解出来る。同紙記事の重要なポイントを引用する。

 《・・・自社に無い技術やビジネスモデルを有する企業や大学発スタートアップに投資する様、企業を税制で後押しする考えを示した。念頭に有るのは内部留保を使った新規事業への投資だ・・・欧米では社外のベンチャー企業や大学等が持つ技術やアイディアを活用する「オープン・イノベーション」が盛んだ。
 甘利氏はこうした手法を税制で支援する考えを示し「世界中の大企業は思い切った事を遣って居る。日本の大企業も出来る筈だ」と語った・・・》


 日本の大企業がアジア諸国で「2周遅れ」して居る厳しい現実
 
 至言である。筆者は此処で、思い切った事を遣って居る「欧米」では無く、社会インフラが未整備で社会課題も大きい「東南アジア(ASEAN)」の想像を超えたレベルに達して居るデジタル産業の実態を紹介する事で、甘利氏の指摘が正鵠(せいこく)を射て居ると改めて表する事にする。
 一言で云えば、現在の日本のデジタルトランスフォーメーション(DX)は東南アジアやインド等のDXの先行者(企業)に周回遅れ処か2周以上も離されてしまって居るのだ。換言すれば、日本は直ちにASEAN企業のDXパートナー(先行者)と組んでDXビジネスを加速させ、産業構造転換を加速すべきだと云う事である。 


 




 インドネシア・GOJEKの躍進
 
 デジタル産業の世界には「デジタルリープフロッギング(digital leapfrogging)」と云う用語がある。直訳すれば「デジタル跳躍」であるが(frog=カエルから連想出来る)、その意味する事は一度革命的なプラットフォーマーと為った起業家が社会や企業が抱える課題を見付け、デジタル技術を駆使して解決に導く事を(DXビジネスの)商機として更に急成長すると云う事である。

 歴史の皮肉と言うか、大きな社会課題を抱える国々ではそれを逆手に取ってビジネスチャンスにして大成功を収めた好例が、ライドシェアからスタート・急拡大したインドネシアのGOJEKである。「移動と決裁」と云う新興国の典型的な課題をビジネス化したのだ。

 米ハーバード大学でMBA(経営学修士号)を取得した創業者のナディム・マカリム氏は2010年、母国に戻り主要都市の交通渋滞解消を目指してバイク配車サービスを始めた。弱冠26歳だった。GOJEKは今や100万人のドライバーを擁し、評価額78億ドル(約8700億円)の新興企業グループに成長した。
 注目すべきは、急速に普及したスマートフォンを利用してライドシェアから移動を軸とした生活サービス全般に進出・急成長を遂げた事である。

 本体は配車から食品・日用品配送、宅配便、引っ越し、チケット購入、医薬品配送、そして傘下のGO-PAYがモバイルウォレット、電気・ガス・水道代等支払い、ポイントサービス・集金(人間ATM)、GO- LIFEがマッサージ師・家政婦・美容師・カーメンテナンス派遣等を行っている。
 矢張り配車サービスから出発したシンガポールのGrab(マレーシア人が創業者)も又今ではドライバー100万人を抱え、評価額110億ドルのコングロマリットである。

 GOJEKの凄い処は、低所得層のドライバーの銀行口座開設や零細商店の低利融資(GO- PAYデータを銀行に提供)を支援して居る事だ。高所得層から低所得層への再分配機能を目指して居るのである。即ち、サイバー空間で両階層を結び着けて居るのだ。


 




 存在感の無さへの危機感
 
 実は、経済産業省(安藤久佳事務次官)は現地で進むデジタルイノベーションに日本の資金、技術、ノウハウ、事業ネットワークが投資で参画する様我が国の経済界に強く働き掛けて居る。
 と云うのも、中国のアリババやテンセント(騰訊)の遥かに後塵を拝する日本企業、特に製造業のDXにおいて存在感の無さに危機感を抱いて居るからだ。だからコソ、甘利氏は463兆円にも及ぶ内部留保(2018年度)を抱える我が国の大手企業を念頭に「内部留保が溜まって行く企業はイノベーションが起きて居ない」と指摘して居るのだ。

 同氏は10月2日も新聞各社のインタビューを受け、改めて技術革新を税制で支援すると語り、ベンチャー投資とM&Aを促して居る。日本は今「第2の黒船」としてデジタル変革を起爆剤にした抜本的産業構造改革が求められて居る。実行し無ければ、日本は確実に「デジタル産業後進国」に成り下がる。


  歳川 隆雄    以上


 




 初年度年会費無料のカードとは?






×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。