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2019年10月03日

超恥ずかしがり屋の少年が「視聴率100%男」に為るまで・・・萩本欽一氏 (前編)



 

 *管理人注・・・永いインタビューなので読み終わるのに多少の時間を要します 最後までお付き合いください・・・


 超恥ずかしがり屋の少年が「視聴率100%男」に為るまで 萩本欽一氏(前編)


 欽ちゃんの波瀾万丈な半生


          〜GetNavi web 10/3(木) 21:00配信〜


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 〜コント55号で爆発的ブレイクを果たし、その後も「視聴率100%男」と称され時代の寵児と為った萩本欽一さんも78歳。人生を総括する時期に来たと神妙な表情で語る。今回は、自身の半生を生い立ちから順に振り返って行く (企画・撮影 丸山剛史 執筆 小野田衛)〜


 級長なのに「起立!」と言え無い恥ずかしがり屋!?/span>

 ・・・ここからは、昔の事を中心にお伺い出来ればと考えて居ります。萩本さんの物語は「貧しい家庭で育ったものの、その反発心から芸人として成り上がった」と云う切り取られ方をされる事が多いです。しかし、最初から貧困に苦しんで居た訳でも無い様ですね。

 そうね。寧ろ生まれてから暫くは、物凄い大金持ちだったのよ。終戦後、親父はカメラの仕事で途轍も無く儲けたんだから。上野の駅前に店を構えて居たんだけどね。どう遣って儲けたかと云うと、先ず戦時中、東京に居ると爆弾が降って来ると云う事で、皆疎開して逃げちゃったの。
 逃げて行く人の中にはお金を持って居る人も居れば、そうでも無い人も居るよね。逃げる為のお金が無い人は「ジャア、これをお金に換えて下さい」と云う事で、うちの親父の処にカメラの故障品やカメラ部品を持って来た訳。実際に持って来たのは、カメラの仕事を遣って居る同業者が多かったみたいだけど。

 ・・・質屋みたいな状況だったんですかね。

 でも「お金に換える」と言っても時代が時代だったし、もう殆どタダみたいな値段ですよ。結局、親父は労せずしてカメラ部品を大量に集める事が出来たと云う訳。それで終戦後、その材料を組み立てて売り物にしたんだけど、凄い時は1日に400台位売れたらしいんだよね。
 どんなに頑張っても一晩で50〜60台位しか作れ無いのに、ウインドウに置くと1時間足らずで売り切れるんだから。更に凄いのは、その上野の店で売れた商品が数時間後には銀座の関係無い店に置かれて居るの。どう云う事か、判ります?
 上野で買った人が、値段を勝手に上乗せさせた上で商売遣って居るんだよね。それ位街には品物が無かったと云う事ナンだけどさ。それに加えて、進駐軍のアメリカ人も「日本のカメラはモノが好い」と云う事で買って行くから。どれ位の大金が入ったのか、想像も着か無いよね。

 ・・・日本人が皆貧乏だった時代だから、余計にお金を持って居る事が目立ったかも知れません。

 後から小学校入学式の写真を見たら、キチンとした白いシャツを着て居る子は4人しか居なかったね。皆入学式で着る洋服ナンて持って居ないんだから。そう云う時代だったんですよ。
 それで僕、何故か級長を遣る事に為ったの。「級長を遣りたいです」ナンて一切言って居ないのにね。どうしてかと云うと、親父が学校に色んなものを寄付して居たから。未だ希少価値があったアルバムとか、写真を入れる額縁とか、そう云った類のものをさ。
 学校とヤリ取りを続ける中、親父がフト「うちの息子は級長が好いかな」と呟いて、それがそのママ決まったと云う訳。親父としては「級長に為れば、自然と勉強するだろう」って考えたらしいんだ。実際、小学校の時は僕も成績も好かったしね。

 ・・・成績も育ちも好い「おぼっちゃま」と言った感じでしょうか。

 確かに周りから見たらボンボンに映っただろうナア。何せお手伝いさんも2人居たしね。夜に為ると、お手伝いさんがイソップ童話とか『はなさかじいさん』とかの絵本を読んで呉れたんだ。絵本を読んで貰う時間が兎に角大好きだったし、アレは僕の人間形成にも大きな影響を与えたんじゃないかと思う。

 ・・・どんな性格の子供でした?

 物凄い恥ずかしがり屋! 級長なのに「起立!」と言え無いんだから。「……きっ……キッ……」って感じで、言葉が続か無いのよ。中学生に為っても人見知りは治ら無い処か、寧ろ酷く為る有様でね。人付き合いが嫌で嫌でしょうが無かった。
 家の近くに植物園が在ったんだけど、何時もそこに行って1人で絵を描いて居たよ。それが僕に取っては、凄く幸せな時間だったの。何せコメディアンの前は絵描きに為りたかった位だからね。しゃべら無くても済む仕事なんて最高だなと思って居て。







 事業失敗 父親失踪 そして「萩本家解散」

 ・・・ご実家のカメラ事業は途中から傾いて行ったそうですが、どう行った経緯で?

 僕が小4に為った時、親父は「これからは大きなカメラを首からブラ下げる時代では無い。手に持てる様な小さいカメラに取って代わるぞ」って言い出したの。所謂コンパクトカメラだよね。
 確かに着眼点は好かったと思うんだよ。それで工場を作り、一気に小さいカメラで勝負を懸けた訳。処が、これが思う様に行かず……親父に言わせると「俺の人生は6勝1敗」と云う事らしいんだけどさ。その1敗と云うのが、金額的に途轍も無く大きな1敗だった訳。

 ・・・成程。その為に工場まで作った訳ですからね。

 全てを失った親父は言って居たよ。「俺がこう為ったのは、結局の処、学が無いからだ」実際、親父は小学校迄しか出て居ないからね。だから「大学は絶対に行け。それも東大以外は認め無い」みたいな事を何時も口にして居たな。「好いか? 勉強をし無いと人が使え無い。人が使え無いと仕事は伸び無い。そこが俺の敗因なんだ」って。

 ・・・お父さんは豪放磊落(ごうほうらいらく)な人で、外で妾さんも囲って居たとか。

 そうナンだけど、アレはどう説明したら好いのかな・・・後ろめたい愛人と云う感じでも無かったんだよね。だって夏休みに為ると、母が「おばちゃんの処に遊びに行って来なさい」って言うのよ? 詰まり、母親も公認の存在だと云う事。
 それで僕が「動物園に行きたい」とか「今度は海が好い」とか言うと、チャンとおばちゃんは連れて行って呉れるの。当時の僕からすると「お母さんより自分を大事にして呉れる人」と云う認識だったな。親父が亡く為ってからも、好く一緒に居たしね。「アンタも大変だったね」とか、シミジミ言われたのを覚えて居ます。

 ・・・確かにそれは一寸理解し難い関係ですね。

 これは兄貴に聞いたんだけど、うちの母親は「子供が横道に逸れるのを全力で避ける。それコソが母親の務め」と考えて居たらしい。ここ迄は判るんだけど「お父さんの面倒を見るのは、それ程重要では無い。そんなのは他の人でも出来る」と云う考え方も同時に持って居たの。
 母親からしたら「子育てで手一杯だから、父の面倒を見て居る余裕ナンて無い」と云う話に為るらしいんだけども。うちの母、物凄い箱入り娘だったんだよね。結婚して親父が家に帰って来ても、食事の用意ナンてしないでボーッと座って居るんだって。ご飯ナンてお手伝いさんが作ると云う環境で育ったから、自分で作ろうと云う発想すら湧か無いんだと思う。そんな調子だから、勿論洗濯ナンてする訳無いしね。

 ・・・少年時代の萩本さんに取って、お父さんはどう云う存在でした?

 親父とは、殆ど口も効か無い関係だったな。仲が悪いと云う感じでも無いんだけどさ。何しろ週末しか家に帰って来ないんだから、話す機会もそれ程無かったし。そうすると子供心にも「アレ? うちは他の家と一寸違うのかな?」って不思議に思うじゃ無い。
 すると母親が言う訳。「兎に角男と云うのは働く事が一番大事。毎日家に帰る事が出来る様な仕事は、チャンとした仕事とは言えません」今思うと、滅茶苦茶な事を言って居るんだけどさ(笑)。でも、その時は「そういうものか」って納得しちゃったよね。「余りこう云う事は言いたく無いけど、他所のご家庭は余りチャンとしたお仕事を為さって居ないんじゃ無いですか?」とか、平然と言って居たし。

 ・・・後に萩本さん自身が親に為った時も、子供の為に早く帰宅する様な生活では無かったと云う話があります。

 ウン、だからそれは「早く家に帰る=ちゃんと仕事して居ない」みたいな幼少期の刷り込みが影響して居るのは間違い無いだろうね。自分が結婚した奥さんも「家の事は遣って置くから、仕事は仕事で好きにヤッテ」と云う感じだったし。
 そう言えば、母親に関しては凄く印象に残って居る出来事があるの。或る時に「お母さん、チョっと忙しいからさ。お使いに行って呉れない?」って頼まれたんだけど「エ〜? こっちも手が離せ無いんだよ」みたいに口応えをした訳。
 処がそれからも母親は「本当にお願い!」みたいにシツコク言って来たから「ワカッタ、わかった。行って来れば好いんでしょ?」みたいに不貞腐れた態度で僕も返事したんだよね。すると次の瞬間、母親の平手がバーンと飛んで来た。普段はそんなに手を出すタイプでも無いから、僕もビックリしちゃって・・・

 ・・・お母さんは何に怒って居たんですか?

 「嫌だったら、嫌だと最後まで断りなさい! 行くんだったら、気持ち好く行きなさい! 嫌々行かれるのが一番頭に来る!」って、こう言うんだよ。
 これは子供心にも非常に衝撃的だったね。自分の人生の中で肝に銘じて居る考え方と言って好いと思う。詰まり仕事をする時は、気持ち好く遣ら無きゃダメ。嫌々遣って居ても、好い結果には繋がら無い。そう云う事なんだけどさ。

 ・・・でも一時はカメラの仕事で大成功を収めた訳だから、お父さんも商才は確実に有ったんでしょうね。

 マァね。でも結局、最後は借金で首が回ら無く為ったものだから、家族を残して自分だけ逃げた訳。調子が好かった時は店を幾つか回して居たんだけど、それもドンドン無く為って行ってさ。最後の砦だった上野駅前の店は、長男に任せる形で姿を消したね。
 だけどそんな調子で急に店を任されても、上手くは行く筈無いよ。そのうち家賃とかが払え無く為って、借金取りが家に来る様に為って……「今、両親は居ません」って伝える様母親から言われるんだけど、借金取りは借金取りで「居るのに、居ないって嘘着くんじゃネェよ!」って激高して居るの。もうね、地獄みたいな光景ですよ。

 ・・・お母さんがお嬢様育ちなだけに、そのギャップが・・・

 借金取りの催促が余りにもシツコイものだから、最後は根負けした母親が玄関まで出て行くんだよね。それで何を話すかって云うと「申し訳ございません……申し訳ございません……」ってコレだけ。実際、それしか言う事が無いのよ。正座の体勢で「申し訳ございません」って言う度に母親は頭を下げるものだから、額が床に着く音がコツンとする訳。その「コツン・・コツン・・・」と云う音に合わせる様にして、僕の目からは涙が「ポロリ・・ポロリ・・・」と零れましてね。

 ・・・遣り切れ無いですね。お父さんの事業が失敗してからの生活拠点は?

 先ず埼玉の浦和に在った一軒家から、東京の稲荷町に引っ越したの。と云うのも、親父の働いて居た所の本社が稲荷町に在ったから。マァ本社と言っても、本当に小さい会社だったんだけどね。それで中学に入ってから、今度は小石川に引っ越したのかな。小石川のアパートでは生活が更に苦しく為って、家賃も払え無く為る始末。最後は等々夜逃げして、渋谷の六畳一間のアパートに逃げ込んだんだよね。

 ・・・将(まさ)に極限状態ですね。

 渋谷時代は大学を卒業したばかりの兄貴が働き始めて居たので、毎月貰って来る1万2千円の給料で皆食って行くしか無かった。こう為ると、兄貴も溜まったものじゃ無いよね。或る時、等々感情が爆発して「僕には青春が無い!」って言い出したの。
 「皆、夫々の力で生きて行く事は出来無いの?」って。最もな話だと思ったよ。それで僕と弟は「ワカッタよ、兄ちゃん。今迄有難うね。これからは自分の力で遣って行くからさ」って伝えたんです。その時、弟ナンて未だ高校生だったんだけど。

 ・・・それも凄い覚悟です。

 本当に大したものだと思う。それで翌朝、家に届いた朝刊を見たら、一面に「安藤組(※1952年〜1964年まで活動した暴力団組織。組長は安藤昇) 解散」と書かれて居たの。その見出しを見たら、何故か全身にヤル気が漲って来てね。 「安藤組も解散か。好し、萩本家も今日が解散式だ! ここからは各自で羽ばたいて行くぞ!」って、皆で誓い合ったんだから。

 ・・・安藤組も渋谷が拠点ですし。(笑)

 そうそう。(笑)でも、その渋谷の解散式からは本当に家族がバラバラだったよ。何処に誰が居るのかも判ら無かった。久し振りに会ったのは、僕が有名に為ってからの事だからね。

       10-4-18.jpg


 




 中2の時の先生との出会いが僕をコメディアンにした

 ・・・芸人を志したのは、どうしてですか?

 借金取りに責め立てられる母親を見て居たら、色々考えるじゃない。我が家は大変な事に為って居る。貧乏と云うのは、ここ迄人を追い詰めるものか。こう為ったら僕は10年で家を建てる。そして母ちゃんに気分好く過ごして貰う事にしよう。僕はそう決めたんです。
 ジャア10年で家が建てられる仕事って何だろう? 思い着いたのはプロ野球選手か芸能人しか無かった。弁護士さんとかお医者さんは、大学迄行か無くちゃいけ無いから現実的に無理だったので。
 或る時、学校で女子生徒が持って来た『週刊明星』をパラパラ読んだの。そうしたら確か中村錦之助さんだったと思うんだけど「新築の家を建てました」みたいな記事が載って居た訳。「こんなに若くして自分の家を建てるなんて凄いね」って驚いたら、女子生徒に呆れられてさ。「何言ってるのよ。有名なんだから当たり前でしょ。家位簡単に建てられるわよ」って。「家を建てるんだったら芸能人」と云う僕の発想は、そこから来たんだと思う。

 ・・・内弁慶な青年だったと云う事ですが、人前に立つ仕事に不安は無かった?

 その部分に関しては、或る先生のお蔭で克服出来た。本当に僕は大人しかった氏、授業中に手を挙げるナンてトンでも無い事だと思って居たの。文句も言わ無い様な子供だったから、虐めっ子みたいな連中に好い様に扱われて居てね。
 その中でもガキ大将みたいなボスが居た訳。そいツが何かヤレって言うと、皆絶対服従なんです。で、或る時「黒板に先生の悪口を書こう」「萩本、お前も書けよ」みたいな話に為って、しょうが無いから僕も書いたの。その時は歯向かう勇気ナンて無かったですから。すると、そこに先生が現れてさ。僕は逃げ方なんて判ら無いからアワアワウロタエテ居たら、皆は僕の分以外を全部消して一気に居なく為っちゃった。

 ・・・まるでコントじゃないですか。

 本当にそうよ。その女の先生は「誰がやったの!?」と怒鳴って居るんだけど、僕は何も答えられずにモジモジするだけ。怒られたら嫌だナアと思いながら、ズッと下を向いて居たんだよね。
 「僕がやりました」ナンて、とても答えられる空気じゃ無かった。処が先生は、怒る処か優しい口調で諭して来た訳。
 「萩本くん、男の子は自分の言葉を口にする勇気を持って居ないとダメなのよ」って。これには感激したネエ。その言葉を聞いた瞬間、僕は先生の事が大好きに為っちゃったし、先生の期待に応えたいと心から思った。だから次の日からは「この問題が判る人?」って言われたら、答えが判ろうと判るまいと「ハイ! はい!」と大声で手を挙げる生徒に為ったの。

 ・・・答えが判ら無くても手を挙げる?

 そりゃそうよ! シッチは先生の期待に応えたいと云う一心なんだから。「判る人?」「ハイ! はい!」「ジャア萩本くん」「ハイ! わかりません!」この瞬間、クラスはドッと受ける訳。でも自分としては、何故面白がられて居るのかも理解出来無い。
 他にも「ハイ! 僕はこの問題がサッパリ判ら無いけど、この子なら答えが判ると思います!」みたいなことを言って、皆から笑われたりしてね。芸能界で大事な要素を、僕はここで身に着けたんだと思う。
 詰まりそれは「場の雰囲気に飲まれ無いで自分を出す勇気」「誰かの期待に応えたいと云う気持ち」中2の時に出会ったアノ先生が、僕をコメディアンにした様なものですよ。

 ・・・コメディアンに為るに当たって、最初は浅草松竹演芸場に入門する積りだったのだとか。

 それも運命の巡り合わせナンだよね。ストリップ劇場だった東洋劇場(現・東洋館)その演出の先生が僕に松竹演芸場を紹介して呉れたんだけどさ……。

 ・・・それは、どう云った繋がりで?

 要するに自分が尊敬するエノケン(榎本健一)さんや(チャールズ・)チャップリンさんの本を読むと、10年位確り修行したと書かれて居る訳ですよ。と為ると、僕も浅草の劇場で地道にヤルしか無いなと考えて居たの。それで親父に浅草でヤリたいんだと云う事を伝えると「そうか。でも、俺が知って居るのは三益愛子さん位だな」って言われてね。
 三益愛子さんと云うのは作家・川口松太郎さんの奥さんでトップ女優だった方。親父はカメラの仕事をして居た関係で、モデルとして知り合いだったらしいの。マァそれは好いんだけど「ジャア、どうするか?」と云う話に改めて為った時「そう言えば……」と出て来たのが東洋劇場の名前。
 親父が浅草で住んで居たマンションの大家さんが、東洋劇場と関係が深かったんだよね。それで東洋劇場で演出の先生を遣って居る人を紹介して貰ったの。

 ・・・それが、お幾つの時ですか?

 中学卒業の時。そう云ったツテが出来たので、取り敢えずデン助(大宮敏充)さんの所に行ったんだけど、「これからはコメディアンでも学歴が大事。責めて高校位は出た方が好い」とか言われてね。僕としては一刻も早く修行に出たい気持ちが在ったんだけど、その言葉に従って高校は通う事にしたの。
 処が、その3年間で事情が変わっちゃってさ。デン助さんが、凄い売れっ子に為っちゃった訳。東映の映画で主演とか遣って居た次期だからね。楽屋に挨拶しに行こうとしたら、もうファンの人が列を作って並んで居るんだから。仲介して呉れた東洋劇場の人から言われたのは「こう云う状況だから、デン助さんもお前の事を覚えて居るか判ら無い。弟子入りナンて無理かも知れない。でも、無理だったとしても心配するな。その時は俺の所に来れば好いから」って。

 有難い話だなとは思ったけど「本命が無理だから、弟子入りさせて下さい」と云うのも失礼な話でしょ? だったらデン助さんの所を諦めて、最初からソチラでお世話に為らせて下さいって伝えたんだ。向こうは「俺の処? それだったら今日からでも大丈夫だよ」って事で、直ぐに東洋劇場に入ったんだけどさ。

 ・・・運命の悪戯ですね。

 後にデン助さんに言われたのは「お前はうちに来無くて好かったよ。うちだったら、一生、陽の目を見無かっただろうね」って事。確かにそうなんだよ。と云うのもデン助さんの処は確りした劇団だから、先輩を追い抜く事はナカナカ出来無いの。「お待ちドオさまでした〜」とか言って、ずっとラーメンの出前役をやり続けるしか無かったと思う。

 ・・・結果的には東洋劇場に入った事が、後の成功に繋がりました。

 「どっちが得か?」みたいに目先の事ばかり考えて居るとダメなんだよ。そこには未来なんて無い。損得勘定は運を呼び込ま無いからね。それよりは恩返しだったり、人の期待に応えたいと云う気持ちが大事だと僕は思うんです。
 人の為に何かをすると、途中で投げられ無いじゃ無い。自分の為に始めた事って、途中で躓(つまづ)くと「マァ好いや。代わりにこれをするか」って直ぐに路線変更出来ちゃうでしょ。そこには大きな違いがあるよ。東洋劇場の時もデン助さんを紹介して呉れたりしたのが純粋に有難かったし、その気持ちに応えたいなと思っただけなんだよね。

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 芸人クビを回避した『ハイ!』と云う大きな返事

 ・・・入団後、芸を教わったりはしなかった?

 何も教わって居ない。教え無いで自分で気付くのが修行だから。行き成り劇場支配人に楽屋まで連れて行かれて「ジャア、後は頼むな」って先輩に声を掛けて終わり。僕自身も、そう云うものだと思って居たしね。「どうしたら上手く為るんですか?」って先輩に尋ねた事もあるけど「遣ってれば上手く為る」とだけ言われたな。答えに為って無いよね。(笑)

 ・・・具体的には劇場で何を遣って居たんですか?

 先ず芝居が1時間あって、ストリップの合間にコントをヤル。後は『ウエスト・サイド・ストーリー』を遣ったりもしたね。本当にナンでもヤッタよ。笑いの東大に入った様なものだからさ。逆にトークは優先順位が低かった。話術だけでお客さんを笑わせたりすると、後で鼻血が出る程殴られたね。

 ・・・歌やダンスも含めて、オールマイティに熟せるのが一流の条件だったと。

 そう云う事です。覚えて居るのは最初の頃、芝居でセリフを3つ貰ったの。処が、そのうちの2つは言え無かったんだよ。本番に為ったら、揚がっちゃって……ヤッパリ本来は人見知りな性格だからね。3つしかセリフが無いのに1つしか言え無いなんて、これはもう致命傷ですよ。それ位才能が無い新人だった訳。それで3か月位した時、僕を入れて呉れた演出の先生に呼び出されてね。
 「この世界はダメだった場合の潰しが効か無い。辞めるなら早い方が好い。今まで色んな奴を見て来たけど、早ければ1週間位で才能の片鱗が見えて来る。3か月経っても、お前からはセンスと云うものがマルで見えて来ない。今日で終わりにしよう」って、こう言われた訳。

 ・・・でも、それはそれで一種の愛情表現かも知れません。/span>

 うん、そうだと思う。「辞めるか?」って聞かれたら、僕は「嫌、続けます!」って言った筈。「終わりにする」って断定されたら従うしか無い。「悪いけど、お前は芽が出無いよ」って言われた時、空かさず「僕もそう思います!」って返しちゃったもんナア。流石に向こうも苦笑いして居たけど。

 ・・・しかし、行き成りの引退危機ですか。

 流石にそんな事があったら、ションボリしちゃうよ。それで暫くボーっとして居たら、師匠筋の池信一さんから「先生が通って行ったけど、何か在ったのか?」って聞いて来てね。「丁度今、クビに為った処です」と答えたら「お前はそれで納得して居るのか?」と言う訳。納得はして居たんですよ。自分に才能が無い事が判って居たから。
 只一方で僕は何をヤルのでも人一倍時間が掛かるタイプだから、3か月と言わずもう少し長いスパンで見て欲しいと云う気持ちも在った。その事を池さんに伝えると「そうか、ワカッタ」とだけ言って先生の処に向かって行ったの。それで1分もし無い内にクビは撤回に為った。

 ・・・池さんが説得して呉れた訳ですね。

 池さんは先生にこう伝えたらしい。「確かにアイツは何も出来無い男です。只、アンナに気持ちの好い『はい!』と云う返事はそうそう無い。あの『はい!』に免じて残して呉れないか」そして先生が僕に改めて言いました。「この仕事は誰かに応援されて初めて成立する。お前の様に下手糞で才能も無い奴を応援する人が居ると云う事に俺は驚いた。ヒョッとすると、お前は何者かに為れるかも知れない。好いか、絶対に辞めるなよ」

 ・・・好い話ですね。「はい!」と云う声が大きかったのは、中学の時の先生の影響もある訳でしょうし。

 それも有るし、レストランでアルバイトして居た経験も有るかな。大声で返事しないと、厨房迄聞こえ無い様な店だったから。不思議なもので、人生って全部が繋がって居るんだよね。或る意味、無駄な事なんて無いと云うかさ。

 前編 おわり  後編へつづく


 



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【近現代史】バナナや紅茶の台湾産業が日本で発展したワケ




 【近現代史】バナナや紅茶の台湾産業が日本で発展したワケ


           〜東洋経済オンライン 10/3(木) 15:00配信〜


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       台湾工場甘蕉鐡道運送 戦前の製糖工場のシュガートレイン
         写真『写真帖大日本製糖株式会社』より



 〜台湾へ渡った新渡戸稲造は、半年掛けて全島を巡り、殖産興業の要は製糖業にあると確信したと云う。台湾バナナやパイナップル・サトウキビ栽培と砂糖製造、そして今日の化粧品原料生産へと繋がった樟脳(しょうのう)等。統治時代から台湾とゆかりが深かった産業の歴史と今を紹介する〜





 台湾におけるサトウキビ栽培と砂糖製造の起源

 例えば、1日の朝をこんな風に始める事は無いだろうか。砂糖を入れた甘い紅茶を飲み、朝食代わりにバナナを食べ、手早くメイクをして仕事に出掛ける・・・有り触れた光景だが、私達の身近にあるこれ等のモノを辿ってみると、台湾と日本を結ぶ長い関係が見えて来る。

 数年前、台湾中部の雲林県虎尾鎮(フーフェイ)を訪れた事がある。過つて虎尾が「糖都」と呼ばれたのは、明治42年に「大日本製糖」(明治28年 渋沢栄一が設立した「日本精製糖」が前身)工場が操業を開始した事に遡る。当時の豪壮な施設が現存し、現在は「台糖公司虎尾糖廠」として操業中だ。サトウキビの収穫期にはシュガートレインが走り、観光客も多く遣って来ると云う。虎尾の街全体に甘い香りが漂って居る様だった。

 台湾におけるサトウキビ栽培と砂糖製造の起源はハッキリしないが、15世紀から本格化した漢民族の移住によるとされる。オランダ統治時代、鄭(テイ)氏政権時代や清朝統治時代を通じて、砂糖は日本を含むアジア市場を中心とした有力な貿易品であった。東インド会社や中国商人等が貿易を担ったが、規模は小さく飛躍的に発展するのは、日本が台湾を領有した明治28年以降の事に為る。

         10-4-11.jpg 第4代台湾総督 児玉源太郎

 第4代台湾総督児玉源太郎は、それ迄の治世方針を転換(討伐から統治へ)し、彼が抜擢したのが、明治31年に民政長官(当初は民政局長)に就任した後藤新平である。在任中に台湾の近代化を推進し、産業の育成と発展を奨励した。

        10-4-12.jpg 後藤新平氏

 後藤は着任間も無く、三井財閥系等財界有力者を説得し「台湾製糖」の設立(明治33年設立 35年台南にて操業開始)を導いた。又、明治34年、同郷の新渡戸稲造(農学研究者、思想家)を招聘する。殖産局長に就任した新渡戸はジャワ糖業の視察に赴き、更に台湾島内を踏査した結果を「糖業改良意見書」にまとめ、サトウキビの品種改良・製造・市場に付いての具体的方策を説いた。

 これを受け入れた台湾総督府は「台湾糖業奨励規則」(明治35年)を発布。苗や肥料の費用、開墾や灌漑に関わる諸費用、精糖機械等の費用に対し「奨励金」が下付され、製糖会社設立の機運が高まった。
 明治37年から39年に掛けて、台南塩水(イエンシュイ)港庁(当時)に「鹽水(えんすい)港製糖」(現「塩水港精糖」)と「明治製糖」(現「大日本明治製糖」)が相次いで設立され、更に先述の「大日本製糖」(平成8年「明治製糖」と合併)が台湾に進出する等した。この他、明治末までに「新興製糖」「新高製糖」「帝国製糖」等が設立され、内地資本の進出が加速して行った。

 サトウキビの作付面積と改良種の割合の推移を見てみる(「甲」は台湾の伝統的面積単位。1甲=ほぼ1ヘクタール)

 ・明治35〜36年 1万6526甲(改良種0.2パーセント)
 ・明治43〜44年 8万9445甲(改良種93.4パーセント) (台湾総督府殖産局『台湾糖業統計』)
 

 作付面積に比例して収穫高も約4.6倍の伸びを示した。台湾から日本へ移出された品目を金額(明治44年)で見ると、1位は砂糖(約72パーセント)で、2位の米(約15パーセント)を大きく引き離して居る。この様にして日本の庶民も甘味を楽しめる様に為った。初期に設立された製糖会社が今日も存続して居る事は特筆すべきことだろう。







 新たな商品開発から生まれた、紅茶製造への取り組み

 砂糖に次いで台湾の特産品として挙げられるのは茶である。私も遂最近、阿里山に広がる茶畑の美しさに目を奪われたばかりだ。土産に買った紅茶は味わいが濃く香りも素晴らしい。そう言えば「日東紅茶」は台湾との縁が深い。
 台湾の茶の歴史は古く、野生の茶樹を焙製し飲料にして居たとされる。更に清朝統治時代に中国本土より移民した人達が、茶栽培を台湾各地で広範囲に展開し、相当量が中国へ輸出される様に為った。又樟脳(しょうのう)(後述)調査の為台湾に遣って来た英国人が茶に注目し商社と製茶場を設立。1869(明治2)年に米国ニューヨークに輸出したのが、台湾茶の国際市場登場と為る。

 この後中国人商人による台湾での茶園開拓が進み、包種茶(パオチョンチャー)(僅かに発酵させた釜炒り茶)等も生産される様に為る。明治36年、台湾総督府は製茶試験場を開設。主に烏龍茶の製造法の改良と、紅茶の試作に付いての研究を行った。
 紅茶を開発した理由は、植民地政策とも関わる。台湾でも緑茶(日本茶)が生産されて居たのだが、緑茶は日本の重要な輸出品であり、国際市場での競合を避ける為にも、新たな商品開発の必要があったからだ。

          10-4-13.jpg 日東紅茶(三井紅茶)

 台湾の紅茶製造は、総督府殖産局の意向に沿って起業された日本資本の企業の「日本台湾茶株式会社」「台湾拓殖製茶」等が取り組んだが、品質は安定し無かったとされる。総督府は大正7年度より「茶業奨励十年計画」を実施し、製茶機械の貸付や技術の向上人材育成に取り組んだ。
 紅茶製造が大きく推進されたのは「三井合名会社」(明治42年設立)農林課による。植林事業等を展開する同社は、大正10年頃に直営で製茶を開始しヤガテ紅茶製造に乗り出した。昭和2年、日本初のブランド紅茶「三井紅茶」(後に「日東紅茶」に改称)を発売。11年には三井合名会社農林課を発展的に分離独立させ「日東拓殖農林株式会社」を設立する。

 同社が台湾で所有した茶園は2000甲、又先述の台湾拓殖製茶(茶園4500甲)の受託経営も行った。(後に吸収合併)台北仕上工場の他、8つの工場を持ち、日東紅茶として日本国内で消費された他、米・英その他諸外国に輸出された。海外にも市場を広げる事が出来たのは、インドのアッサム種の増殖等をし、品質が高く評価されたからだ。

 台湾における茶の種別輸出額では、烏龍茶・包種茶に遥か及ば無かった紅茶が、昭和9年に為ると、両種を大きく引き離しトップと為った。13年には、東京日比谷に庭園式ティーハウス「日東コーナーハウス」を開店。モボ・モガが集まり、日本に紅茶文化と云うべきものが芽生えた。戦後に、社名は「三井農林株式会社」に復し、国内での販売を再開。現在迄、日本で最古の紅茶ブランドとして引き継がれて居る。

        10-4-14.jpg 鈴木商店

 台湾の豊かな自然と、近代化学の出会いが生んだもの

 サテ最後に、台湾の樟脳が今日の化粧品原料生産へと繋がった事を紹介したい。明治7年、砂糖の輸入商として、鈴木岩治郎(初代)が神戸に創立したのが「鈴木商店」である。神戸の有力貿易商として発展して行く中、19年に入店したのが金子直吉(当時20歳)である。鈴木商店は23年より樟脳の取り扱いを始め、金子を責任者に当てたのは、彼が土佐出身である事と関わって居る。

    10-4-15.jpg セルロイド製品

 樟脳はクスノキを原料として製造されるもので、アラビアが起源とされる。6世紀頃からヨーロッパで医薬・防虫剤としても使われた。16、7世紀頃日本に伝わり、薩摩藩の特産品として海外輸出もされた。更に薩摩から土佐に伝わり、幕末には「土佐式製脳法」が生み出され樟脳事業の振興が図られた。
 樟脳の需要を大幅に拡大させたのが、1870(明治2)年、米国人が実用化に成功した樟脳を原料とする合成樹脂「セルロイド」だ。日本からの輸出品として樟脳が注目される中、金子直吉は神戸を中心に事業を展開して行った。

 明治27年、鈴木商店創業者が没し、金子直吉らが経営に当たる事と為り、翌年(台湾を領有した年)には早くも「小松組」(神戸の樟脳業者等との同業組織)を組織して台湾進出を果たす。金子は既に樟脳油から得られる再製樟脳や樟脳副産油に着目し、販売権獲得を視野に入れて居た。
 一方台湾では、明朝末から鄭氏政権時代に製脳業が伝わったと推定されて居る。台湾総督府は当初、製脳業を総督府の許可事業とし新規参入を認め無かった。しかし、製脳技術者松田茂太郎(後に鈴木商店〔明治35年、合名会社に改組〕に入社し、樟脳関連事業全てに関与した)の提言を受け、明治32年に総督府は台湾樟脳専売制度を導入した。この時期に金子直吉は後藤新平との関係を深めて行ったとされる。

 鈴木商店は、明治32年に台湾樟脳油の販売権の65パーセントを得て、その翌年「直営樟脳製造所」(神戸)を設立。製造業にも乗り出し、セルロイドや人絹等事業の多角化を図り大躍進して行った。更には薄荷(ハッカ)・塩・煙草事業にも参入、製糖会社を設立・買収する等した。又第1次世界大戦勃発(大正3年)を機に、鉄鋼・造船等重化学工業にも進出した。大正6年の売上高は15億4000万円に達し「三井物産」を大きく凌ぐ程の勢いを見せた。

 鈴木商店は破綻したが…

 しかし昭和2年「昭和金融恐慌」が起こった。鈴木商店のメインバンクである台湾銀行との関係は樟脳ビジネスの展開から始まって居り、同銀行の鈴木商店への融資総額は融資残高の5割を占める程だった。こうした融資の偏りが台湾銀行の存立を危うくさせ、遂に鈴木商店との絶縁を宣言。これにより鈴木商店は破綻に至った。
 関係会社は売却・解散・整理等されたが、自主再建を果たした会社も少なく無い。鈴木商店の流れを汲み、更に発展して行った企業は、商社「双日」神戸製鋼所・帝人・太陽鉱工等、数多(あまた)に上る。中でも台湾進出の突破口と為った樟脳事業から発展した企業が「日本精化」と「日本香料薬品」である。
 前者は化粧品の原料など、後者は食品香料などを中心に生産して居る。その技術の源流を遡れば、台湾の豊かな自然と、近代化学の出会いにあったと言えるだろう。

 台湾と日本。これからも好き関係を育んで行きたい。


      文 与那原恵 「東京人」編集部  以上







 【管理人のひとこと】

 戦前我が国が植民地支配した朝鮮と台湾・・・片方が反日一色で染まるのに台湾は親日的で友好的だと聞かされる。東日本大震災に際しては真っ先に救援の手が延べられた国だとも聞かされている。何故この様な違いが生じたのかは、私達が推察通りの「支配の仕方」の違いでしか無かろう。
 或る知識人は、朝鮮は天皇が管轄し台湾は政府が管轄した・・・と区別される。そこにどの様な違いがあるのかは別の機会に取り上げたいが、天皇⇒軍隊の総攬者の意識での支配と、政府⇒民間を含めた合法的な支配・・・とに異なったのでは無かろうか。戦後の雰囲気も決して悪くは無かった様だし、常に観光客は日本を訪れその歴史も古い。日本の武力統治から急激に文化的統治へと変更した判断が優れた結果を生んだのは間違い無い。それが、殊更、日本の朝鮮統治の欠陥を浮き彫りにさせるのだろう。







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フランス紙記者が見る日韓対立「徴用工問題と似た様な事が戦後のヨーロッパでも起きて居た」




 フランス紙記者が見る日韓対立「徴用工問題と似た様な事が戦後のヨーロッパでも起きて居た」


              〜週プレNEWS 10/3(木) 11:30配信〜

            10-3-7.jpg

 「フランスでも第二次大戦の『隠れた被害者』の存在は1960年代後半迄表面化し無かった」と語るメスメール氏

 〜悪化の一途を辿り、改善の糸口も見え無い日韓関係。日本と韓国の双方を取材するヨーロッパメディアのジャーナリストはこの問題を客観的にどう見て居るのか? 
 「週プレ外国人記者クラブ」第144回は、フランス「ル・モンド」紙の東京特派員のフィリップ・メスメール氏に聞いた〜






 ・・・所謂「徴用工訴訟問題」に端を発した今回の日韓対立を、メスメールさんはどう見て居ますか?

 徴用工訴訟問題は、日韓双方が輸出管理の優遇対象国から排除する「貿易問題」や、韓国政府によるGSOMIA(軍事情報包括保護協定)の破棄と云う「安全保障問題」と言った、全く別の問題に迄発展して居ます。私が気に為るのは、両国の「対立」ばかりが注目されて居て、個々の問題を切り分けた冷静な議論が行なわれていない点です。
 政府、民間の両面で関係が修復不能に陥ら無い為の努力が続いて居て、話し合いのチャンネルが完全に閉ざされてしまった訳ではありませんが、ここ迄拗(こじ)れると修復には可なりの時間が必要でしょう。

 両国の対立が深まった経緯を振り返ると、昨年10月に韓国の最高裁にあたる「大法院」が日本製鉄に対し、戦時中、徴用工として動員された韓国人4人へ1人当たり約1000万円の損害賠償を命じた判決が切っ掛けでした。
 この判決に対して、日本政府は徴用工への補償問題は「1965年の日韓請求権協定で全て解決済み」と主張し「司法の判断を尊重する」とする韓国政府と激しく対立して居ます。

 ここで検証する必要があるのは、日韓請求権協定が結ばれた1965年当時の韓国の状況です。この合意は、日韓の和解を強く望んで居たアメリカの強い意向を受け、当時、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の独裁政権下に在った韓国と日本政府の間で結ばれたものです。
 この時、朝鮮戦争で荒廃した韓国は戦後復興の為に巨額の資金援助が必要な状況でした。一方、既に戦後の経済成長が軌道に乗り始めて居た日本は新たなマーケットを求めて居て韓国はその一つでした。

 個人への補償分も含め、日本政府が韓国に巨額の賠償金を支払う形で合意に至った訳ですが、朴政権は経済復興を優先し、賠償金の大部分をインフラの建設等に使った為、戦争や日本統治下での被害者には十分な補償が行なわれ無かった。
 当然「その責任は誰に有るのか?」と云う議論は有るでしょう。但し、韓国には日本統治下で徴用工として働きながら未だに補償を受けられて居ない人達が存在すると云うのは紛れも無い事実で、人権的な観点で言えば、彼等が救済を求めて声を上げる権利そのものは否定出来無いと思います。

 もうひとつ考慮し無ければいけ無いのは、日韓請求権協定が結ばれた当時の韓国には「自らの被害を名乗り出られずに居た人達」が数多く居たと云う点です。
 これは従軍慰安婦問題にも共通する事ですが、韓国には戦後長い間、日本統治下で自分が徴用工や従軍慰安婦として働かされた事を心理的に「恥」と感じ、その事実を隠して居た人達が少なくありませんでした。そうした「隠れた被害者」達が、要約、公に声を上げられる様に為ったのは、独裁政権が終わり民主化が始まった1980年代後半に入ってから。詰まり、日韓請求権協定が結ばれた1965年時点で彼等の被害は表面化して居なかったのです。

 



 ・・・1965年時点では明らかに為って居なかった「被害」が有り、彼等が未だに補償を受けられずに居るという現実は無視出来無いと?

 第二次大戦後のヨーロッパでもこれと似た様な事が起きて居て、戦争中に迫害されたユダヤ人の中にも、終戦直後には心理的な被害を名乗り出る事が出来無かった人達が数多く居ました。第二次大戦中にナチスの占領下に在ったフランスでもユダヤ人に対する迫害は有り、その被害者達の存在は1960年代後半に為るまで、ナカナカ表面化しませんでした。
 先日亡く為ったシラク元大統領が、戦時中のユダヤ人迫害に対する政府の責任を初めて認めて謝罪したのは、終戦から半世紀を経た1995年の事。

 この様に、戦争や植民地支配等が残した傷は戦争が終わると同時に全貌が明らかに為る訳では無く、30年、40年と云う長い年月を経て表面化するものも少無くないのです。過去の戦争や植民地支配がもたらした傷は、条約や賠償金だけで癒えるものでは無く、それで不幸な歴史が消えてしまう訳でもありません。

 例えば、ポーランドへの戦後補償に付いてドイツは「政治的・法的に解決済み」と云う立場を取って居ます。それでもナチス・ドイツのポーランド侵攻から80年の節目にポーランドで行なわれた、今年9月1日の式典にはドイツのシュタインマイヤー大統領が出席し「過つて、独裁国家だったドイツの犠牲者と為ったポーランド国民の前に私は頭を下げ許しを乞う」とポーランド語で謝罪の言葉を述べました。
 日本の安倍首相もアメリカに対しては、ハワイの真珠湾を訪問した時に、真珠湾攻撃の犠牲者達に頭を下げ、哀悼の意を表して居たではありませんか。

 恐らく、日本政府が韓国に対してこれだけ強硬な態度を取って居るのは、元徴用工の個人的請求権を認め日本企業への賠償を求めた韓国大法院の判決が、今後、他の日本企業への大量提訴に発展する事を危惧して居るからでしょう。
 しかし、そうした「現実的な理由」を差し引いても、両国間の歴史的背景を考えれば、強硬な態度が韓国側の強い反発を招く事は、日本政府に取って十分に予想出来た事だと思います。
 因みに日中間の徴用工問題に付いて言えば、1972年の日中共同声明で解決済みと云う事に為って居ますが、2000年代に入ってから、戦時中の中国人強制徴用に付いて西松建設や三菱マテリアル等の日本企業が賠償や和解に応じて居るケースもあります。

 何れにせよ「補償の責任が誰に有るのか」と云う議論は兎も角、徴用工の問題が「日本の植民地支配下で起きた」と云う歴史的背景があるのですから、日本政府は「補償問題は全て解決済み」と云う公式な立場を頑なに繰り返すだけで無く、この問題の「当事者の一人」として韓国政府と協力し、被害者の救済の為にあらゆる可能性を検討する必要があると思います。
 その為には日韓両国がお互いをリスペクトする姿勢が欠かせませんが、現状はそれとは程遠い処にあるのが残念です。

 



 ・・・「嫌韓」や「反日」と言った言葉に代表される、両国の感情的な対立の背景には何があると思いますか?

 その点に関しては2点程指摘したいと思います。一つは、日韓両国の首脳の、余りにも対照的な政治的バックグラウンドの存在です。

 日本の戦争責任や従来の歴史認識に否定的な「右派的ナショナリズム」を背後に抱える安倍首相は、日本会議等に象徴される右派の支持を得る為に、今回の徴用工を巡る問題でも、韓国に対して常に強硬な態度を取り続ける必要がある。
 一方、学生時代から韓国の民主化運動に関わり、長く人権派弁護士として活動して来た経歴を持つ文在寅大統領に取っては、旧日本軍の朝鮮人将校だった朴正煕大統領が交わした日韓請求権協定は、忌まわしい独裁政権時代の遺物だと感じて居る筈です。こうした韓国の「左派的ナショナリズム」を背景に持つ彼も、日本に対して強硬な態度を貫かざるを得無い。

 こうした日韓のリーダーの「極端に異なる政治的背景」が対立を必要以上に悪化させ、両国民の間に感情的な対立を引き起こして居る様に感じます。

 ・・・では、もうひとつのポイントは?

 もうひとつは「メディアの問題」です。先日、大きな批判を受けた「韓国なんていらない」と云う週刊誌の特集が象徴的ですが、テレビや新聞、ラジオ等も連日の様に日韓対立を報じて居る。
 しかし、冒頭でも述べた様に、その多くは個々の対立点に付いて丁寧な検証を行なうのでは無く、単に日本政府や韓国側の公式見解を伝えるだけのものや、相手側の問題を批判するだけで、この問題に付いて国民が深く理解し議論する為の材料を提供して居るとは言い難い。
 しかし、本当はそれこそがジャーナリズムの果たすべき大切な役割の筈で、こうしたメディアの現状も両国の感情的な対立を深めて居る大きな要因ではないかと思います。

 繰り返しますが、過去の戦争や植民地支配によって生まれた傷は、簡単に癒えるものではありません。それは日韓の問題だけで無く、フランスを含め、過つて多くの植民地を支配したヨーロッパの国々も、そうした歴史がもたらした被害に付いて、全ての責任を果たして居るとは言い難い。
 その傷を癒す為には、過去の歴史と正面から向き合う事が必要ですし、何よりもお互いが敬意を持って、丁寧な対話を続けて行くしか無い。それは簡単な事では無いと思いますが、結局、それ以外に解決の道は無いと思います。

 フィリップ・メスメール 1972年生まれ フランス・パリ出身 2002年に来日し夕刊紙「ル・モンド」や雑誌「レクスプレス」の東京特派員として活動して居る


     取材・文 川喜田 研 撮影 長尾 迪  以上


 




 【管理人のひとこと】

 ・・・繰り返しますが、過去の戦争や植民地支配によって生まれた傷は、簡単に癒えるものではありません。それは日韓の問題だけで無く、フランスを含め、過つて多くの植民地を支配したヨーロッパの国々も、そうした歴史がもたらした被害に付いて、全ての責任を果たして居るとは言い難い。
 その傷を癒す為には、過去の歴史と正面から向き合う事が必要ですし、何よりもお互いが敬意を持って、丁寧な対話を続けて行くしか無い。それは簡単な事では無いと思いますが、結局、それ以外に解決の道は無いと思います・・・


 この全てに現れて居ます。日本政府の頑なな態度がこの様な状況を作り出し、更に深みへと追い遣る。更にメディアが政府寄りの報道を繰り返し「韓国は怪しからん」と国民の感情を煽る・・・この様な状況は決して我が国の為にも韓国の為にも為らず、いたずらに憎悪の感情を高めるだけです。
 少し冷静に戻り、自分の主張を一方的に叩き付けるのでは無く、先ずは相手の意見を十二分に聞く事から遣り直さなくては為ら無い。それには担当窓口を変えたり意識的な交渉態度の変化が必要です。それが可能な政治家が日本に居る為らばの話ですが・・・



 




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その船の名前すら知ら無い 徴用工とは何か(3)




 その船の名前すら知ら無い 徴用工とは何か(3)


              〜47NEWS 10/3(木) 11:42配信〜


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 1942年 貨物船として使われて居た頃の浮島丸 シンガポールで横浜市の福井静夫さん撮影


 




 大型船が湾内にユックリと入って来た。敗戦から9日後の1945年8月24日午後5時過ぎの京都・舞鶴湾。予兆は無い。
 突然、湾内に「ドカーン」と云う大音響が響き渡った。船は中央が盛り上がって「へ」の字に為り、次に「V」の形に為って、前へ進みながら沈んで行った。沢山の人が零れ落ちる様に船から海中に落ちて行く・・・(47NEWS編集部 共同通信編集委員佐々木央)

 死者は500人以上とされる。「以上とされる」と書くしか無いのは、正確な数が分から無いからだ。日本の海難史上最悪とされる1954年の洞爺丸事故が死者1.155人。それに次ぐ規模なのに、国は正確な死者数さえ把握して居ない。又、不思議な事に、当時全ての新聞がこの爆発・沈没に付いて沈黙した。
 船名「浮島丸(うきしままる)」4730トン。元々は民間の貨客船だったが、海軍に徴用され輸送船として使われて居た。戦争は民間船に迄、徴用から爆沈へと受け入れ難い運命を与えたのだ。


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       事件から70年の追悼集会 手前は「殉難の碑」京都府舞鶴市


 港に響く「マンセイ!」の大合唱

 浮島丸がこの時、運んで居たのは何か。浮島丸はその2日前、8月22日の夜、青森県下北半島の大湊港から出航した。大湊は陸奥湾に面した良港である。出航前の光景を「下北の地域文化研究所」所長だった斎藤作治が、元海軍飛行予科練習生・赤田年巳から聞き取り、次の様に記録して居る。

 「赤田さんが浮島丸に乗って釜山港に帰ろうとして居た朝鮮人を見たのは終戦から間も無くの日、潜水艦基地からでした。大湊海軍施設部の朝鮮人労務者の宿舎が潜水艦基地から近い宇曽利川(うそりがわ)に在ったが、赤田さんが見たのは恐らくその人達であったと思われます」(1994年8月 地域誌「はまなす」創刊号))

 斎藤はそう説明した後、赤田の証言をそのまま採録する。

 「黒に近い濃紺の作業服を着た朝鮮人が大勢トラックに立ったママ乗って居ました。2台や3台では無かったと思います。そうだ。同じ色の帽子も被って居ました。潜水艦基地には軍艦が1隻係留されて居たので、恐らく此処を自分達が出航する菊池桟橋と勘違いしたのでしょう。こちらに向かって<マンセイ! マンセイ!>と大合唱が始まりました。物凄い迫力でしたね」(同)
 
 浮島丸が乗せて居たのは戦争中、朝鮮半島から連れて来て下北半島で働かせて居た人達や家族の内約4千人とされる。実はこれも人数がハッキリしない。軍はその人達を「釜山港に送り返す」として集め、船に乗せた。
 8月22日と云う出航日は、偶然であろうが、1910年の日韓併合条約調印の日である。朝鮮の人達に取っての「屈辱の日」に船上の人と為り、それは帰還への旅立ちの「歓喜の日」と為る筈だった。「マンセイ!」の大合唱に、彼等の抑え難い思いを聞く。


 




 大間鉄道のタコ労働者は居たか
 
 では、この人達に大間鉄道のタコ部屋労働者は含まれて居たのか。大間鉄道の工事は1943年12月に中止に為ったから、その前後に飯場は消えて居る。その時点でタコ部屋の労働者は解放されたと考えれば、含まれて居ないと云う事に為る。
 だが、折角の労働力を手放す筈は無い。他にも人手が必要が現場は幾らでもあった。昨年死去したノンフィクション作家金賛汀は、著書「浮島丸 釜山港へ向かわず」で、当時の下北半島の朝鮮人飯場20カ所以上を図示、更に大湊警備府が本土決戦に備え、下北半島の軍事要塞化を急ぎ、大規模な防空壕、地下倉庫、隧道を建設して居たと述べる。

 そして、大間鉄道のタコ部屋に付いて「そこで働いて居た朝鮮人労働者は、ソックリ、大湊警備府の防空壕作りに転用された」とする。そうだとすれば、大間鉄道のタコ労働を生き延びた者が、浮島丸に上船した可能性は高い。だが金は、その転用を裏付ける資料的根拠を示して居ない。
 浮島丸出航前の朝鮮人達の風景を聞き取った斎藤作治らのグループは「アイゴーの海・・・浮島丸事件 下北からの証言・・・」を出版して居る。中に「証言の部」があり、28人の記憶が刻まれて居る。

 その1人、むつ市の郷土史家・鈴木和一の記録に注目したい。鈴木は先ず、戦前に補助憲兵だった知人(原文は実名)の話を紹介し、朝鮮人労働者募集の実態に迫る。

 「労務者募集の事で朝鮮に渡った事がある。その時、面事務所(日本の村役場に当たる)に、人数の割り当てをして、何日迄に集める様に予め頼んで置くんだが、予定通りに集まら無い時には員数を合わせる為に、強制的に連行した者も有った。そんな事もあったので、日本へ向かう途中で汽車から飛び降りる者や、海のど真ん中で飛び込んだ者が在った」

 海のど真ん中に飛び込んだら、余程泳ぎが達者でも生存は覚束なかっただろう。

 「祖国へ帰る」の期待虚しく
 
 鈴木は更に、大間鉄道着工に先立つ大湊線(1921年開通)工事の頃、大湊の海軍病院で働いて居た看護師の談話を記す。

 「大湊線の工事では多くの朝鮮人と日本人のタコが酷い労働に従事させられて居ました。それは、まさに奴隷そのものの様に残酷な重労働を強制されて居ました。鬼の様な棒頭(ぼうがしら・監視兼人夫頭 筆者注)の厳しい監視付きで、怠けたり反抗したりすると棒頭に殴り付けられて、好く手や足の骨を折られて治療に担ぎ込まれて来ることがありました」

 強制労働が行われた時期に付いての重要な証言だ。鈴木は文末をこうまとめる。

 「これ等の事実から朝鮮人への迫害は、逼迫した太平洋戦争の特別な状態がもたらしたものでは無く、今から82年前の日韓併合による朝鮮の植民地支配からズーッと続いて居たものだと云う事が理解されます」

 「証言の部」では他にも、大湊港の1万トンドック建設に従事した宇曽利川(うそりがわ)飯場、樺山(かばやま)飛行場建設の飯場、安部城(あべしろ)鉱山の飯場における朝鮮人労働者が、悲惨な境遇で働いて居たと、地元の人達が明かして居る。
 辛うじて分かって居る事を繋げれば、下北半島の各地に奴隷労働や差別に苦しんだ朝鮮の人達が居た。そう云う人を含む数千人が、1945年8月22日「要約祖国に帰れる」と信じて浮島丸に乗った。だが浮島丸は2日後、舞鶴湾で爆沈し夥しい人が亡く為った。


 




 誰を乗せ誰が死んだのか

 日本政府はこの事件に付いて、対外的な謝罪処か、真面な調査もして居ない。それ故、爆発原因も科学的に確定されて居ない。国による朝鮮人の帰還事業が緒に就くのは9月に入ってからだが、何故大湊警備府は帰還をこれ程急いだのか。本当に釜山に行く積りだったのか。そして何より、誰を船に乗せ誰を死なせてしまったのか。だが、日本人の多くは、浮島丸の名前すら知ら無い。


              終わり


 



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【世界史】モンゴル帝国の盛衰 世界を変えた遊牧民




 



 
 【世界史】モンゴル帝国の盛衰 世界を変えた遊牧民


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 歴史学者  京都大学大学院研究科教授 杉山 正明 氏

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 杉山 正明(右)1952年静岡県生れ 1974年京都大学文学部史学科卒業 1979年同大学大学院文学研究科東洋史学専攻博士課程修了後 京都女子大学文学部東洋史学科専任講師 助教授 1992年京都大学文学部史学科助教授を経て1995年現職に。
 1992年に放送されたNHKの番組『大モンゴル』の監修を行う 著書に『大モンゴルの世界』(1992年角川書店)『クビライの挑戦』(1995年朝日新聞社)『モンゴル帝国の興亡(上・下)』(1996年講談社)『耶律楚材とその時代』(1996年白帝社)『遊牧民から見た世界史』(1997年日本経済新聞社)等


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 歴史的に重要な存在だった遊牧民

 ・・・先生はモンゴル時代史を研究されて居ますが、著書「遊牧民から見た世界史」を読みまして、目から鱗が落ちたと言いますか驚きました。
 と云うのは、私達が中学や高校で習った世界史は、エジプトを初めインダス・メソポタミア・黄河等の文明が、広大なユーラシア大陸の大河の河口に点在し、それが段々滲む様に広がって行って、世界の文明が作られ今日に至ったと云う事だったんです。
 しかし先生は、そうでは無く、丁度その時代の地図で国の名前が記されて居ない空白の部分・・・ユーラシアの真ん中が、歴史を動かした原動力だった。又、その人達が或る意味の主役だったと。


 杉山 勿論、エジプト等一般的に教科書で教わるそれ等文明は、事実素晴らしいものを生み出しました。しかし、それ等「文明圏」の人達に取ってユーラシアの真ん中に居た人々コソが、実は大変重要な存在だったのです。
 彼等は遊牧民と言って、あの広大な大地を移動しながら生活して居ました。そして彼等のお蔭で、点在して居た文明圏は各々孤立する事を免れ、広がりを可能にしたと言えます。彼等が居たからコソ、文明が世界に広がって行った。
 どの時代でも、遊牧民は歴史に大きく関わって居たんです。後に、驚異的な勢力拡大を見せ、ユーラシア一帯を手中に収めもしました。世界史の教科書に登場するチンギス・カンは、それを遣って退け、巨大な「モンゴル帝国」を作ったのです。

 ・・・しかし、それ程までの歴史を持って居る彼等に付いて、何故それ迄世界史上では空白だったのでしょう。

 杉山 一般的に教え込まれて居る歴史像は、ヨーロッパ人が19世紀末から20世紀の初めに作ったものなんです。彼等は「ヨーロッパ以外は文明じゃ無い」と思って居ましたから、自分達中心の「歴史」を作り出してしまったんです。

 ・・・モンゴルの歴史には野蛮、残酷と云った様な負のイメージが有りますが、これも彼等が植え付けたのでしょうか。

 杉山 それも有ります。しかし実際の被征服民よりも、その子孫とされる後世の人達によって作り上げられてしまったと思われます。彼等は「近代文明社会」の優位を無条件に信じたい余り、無意識にモンゴルの過去を見下してしまったんでしょう。ヤッと最近、モンゴルとその時代について、東西一通りの文献が眺められる様に為りました。


 




 遊牧民は「仲間」と云う意識を持った集団

 ・・・しかし、当時の地図で空白だった所の人達、所謂遊牧民が天下を取れたのは何故でしょう。

 杉山 一番の理由は、何と言ってもモンゴル帝国が、素晴らしい戦闘力・機動力を備えて居た事です。当時の戦力と言えば馬と弓が必需品でした。遊牧民の彼等は馬に乗り慣れて居り、騎乗し乍ら弓矢も使える最強で最大の軍隊でした。そして、異様とも言える程統制されて居たんです。

 ・・・アレだけ広い地域ですから、顔や言葉、生活だってマチマチの筈です。そう考えると、凄い事をチンギス・カンは遣って退けたんですね。

 杉山 本当にそうです。チンギスがアノ広大な土地を統合する前は、大小幾つもの集団が入り乱れ割拠して居ました。モンゴル帝国形成の中核と為った「モンゴル」も、その内の一つに過ぎず、余り強い集団ではありませんでした。
 しかし、チンギスと云う人が出現した事で、一つにマトメ上げる事が出来たんです。モンゴル帝国には、色んな集団が集まって居り、まさに「連合体」と云う感じでしたが、現代の様に民族や人種、言語、宗教に囚われず「仲間」と云う意識で集団を形成出来る人達だったから出来た事だと思います。

 ・・・モンゴルと云う所は、砂漠あり荒野ありの非常に厳しい大地だと思います。そう云う中で培われた忍耐力と言いますか、精神的な強さを持って居たからと云うのも在ったのでは無いでしょうか。

 杉山 それも有ると思いますね。モンゴルや中央アジアでは、冬は非常に寒いし、草が生えて居ると言ってもポツポツ程度の所も少無くない。近くで見ると地肌だけが目に入って来ます。そこで暮らすと云うのは、本当に大変な事ですよ。


 


     

 モンゴル帝国では、既に紙幣が使用されて居た

 ・・・日本とモンゴルの最初の出会いは、鎌倉時代の「元寇」ですね。アノ時、日本は天候等が味方に付いて、運良く逃れる事が出来ましたが、本当は強大な軍事力を持って居たんですね。

 杉山 軍事だけで無く、既に日本とは比べものに為ら無い位の経済活動が進んで居た凄い国だったんです。特にチンギスの孫のクビライの統治以降、経済を重視した政策が執られました。
 当初は、ムスリム・ウイグルと云う2つの国際商業組織が、モンゴル帝国に資金や物資の調達をして居たんですが、商業や貿易が活発化するに連れ、仲間・組合と云う意味の「オルトク」と呼ばれる企業・会社組織の形に発展して行ったんです。

 ・・・今で云う処の企業グループの様なものですか。


     10-4-7.jpg  塩引・交鈔


 杉山 そうです。又、帝国の財政運営は、専売と通商の商業利潤で殆ど賄われる重商主義でした。専売とは、その頃非常に貴重だった為、専売品とされて居た塩の引換券「塩引(えんいん)」を発行し、通貨である銀と交換して収入を得ると云うものです。これは塩そのものを転売するのでは無く、塩とリンクさせた言わば有価証券の様なもので、紙幣としても使用されて居たんです。

 ・・・この頃既に紙のお金が有ったんですか。それは凄いですね。

      10-4-10.jpg

 杉山 この頃の通貨は銀でしたが、帝国の拡大に応じ切れる程の銀が産出出来無かった為、それを補う意味もあったんです。
 そして、もう一つの収入源の方は、商取引から徴収する「商税」です。クビライは、都市、港湾、関門等を通る人々から徴収して居た通過税を撤廃し、最終売却地で売却代金の約3%を商税として1回だけ払えば良い事にしたんです。
 これにより、遠距離貿易の活発化に繋がり流通量が増え、結果的には商税収入も増大しました。その上、民衆の税金負担額も低く抑える事が出来た訳です。これは、所謂間接税ですが、消費者が直接納税しない点で、内税方式の消費税とも言えます。歴史的に見ても可なり先進的な政策です。


 




 今も昔も軍事力が大国を支える

 ・・・モンゴル帝国を支えたのは、まさにその経済力だったんですね。

 杉山 結果的には経済ですが、実は軍事力が在ったからコソなんです。モンゴル帝国は、本当に途轍も無い広さで、それだけの富を持って居た国ですから、手に入れたいと思って居た国が居ても不思議ではありません。弱ければアッと云う間に他の国に吸収されてしまったでしょうし、或は内側から、何処かの集団が独立しようとしたかも知れません。
 強大な軍事力が在ったあったからコソ、刃向かう者も無く分裂もせず、長期に渉り安定的に続く事が出来ました。そのお蔭で、通商の安全も保障され経済も発展し得たのです。

 ・・・しかし、それだけの強い軍事力を持ったモンゴル帝国が、滅亡したのは何故ですか。

 杉山 一番の理由は、クビライの死後、巨大な帝国を治めるだけの器を持った人が居なかったからです。これにより中央政局内で暗殺が起き内戦が勃発し、軍事力が弱まりました。丁度同時期に、黄河の大氾濫の為近くに在った塩の大生産地を失いました。
 そしてこの氾濫を防ぐ為に召集した農民達が反抗し、反乱軍と為ってしまったのです。最早帝国には、それを抑えるだけの軍事力も無く、耐え切れ無く為った帝国は、1388年に等々滅亡してしまいました。

 ・・・処で現代は、世界経済に可なりの影響力を持つアメリカが「帝国」的な存在に為って居ます。世界を制すのは経済の様に思いますが・・・

 杉山 イイエ、ヤッパリ今も変わらず軍事力アリキです。誰が見てもアメリカの軍事力は世界最強です。彼等は、その軍事力をチラつかせ、他国に物言わせ無い処がありますからね。又、モンゴル帝国は陸と海を制しましたが、アメリカは空をも制して居ます。更に、文化の様な見え無い処迄支配して居る事を考えると、最早「モンゴル帝国が人類史上最大の世界帝国だ」とは言え無く為ってしまいました。
 只、モンゴル帝国の良い処は、人種的な問題を抱えて居るアメリカとは違い、民族とか人種、言語、宗教等を超越して居た国家と云う事ですね。


 ・・・今、世界を見回すと、そうしたものに振り回され、憎み合い、戦う事を余儀無くされて居る人々が沢山居ます。特定の理念とかイデオロギーを押し着け無いモンゴル帝国は、人間社会としては、或る意味進んで居たと云えるかも知れません。私達現代人にも、沢山見習うべき点がありますね。本日は有難うございました。

               以上


 




 【管理人のひとこと】

 管理人は、世界史の中で「モンゴル帝国」の壮大な建国のロマンに心からの感嘆と夢を持って居ます。このブログでも何度も取り上げましたが、アノ広大なユーラシア大陸を一望する(広大過ぎて一望出来無いのだが・・・)、中華帝国・文化を超越した強大な帝国を築き上げた人間の偉大さを感ずるのです。
 今でこそ人口14億を抱える広大な中国の、その何十倍以上のもの広大な領土を支配したのですから、その力たるや比類出来ぬ奇跡とも思われる壮大な国家建設の事業だったのです。キナ臭い世の中に為った時には、必ずや「モンゴル帝国」の治世を学び、世界平和の道への一大模範として参考にするべきです。特に中国の習近平氏は「偉大な中国」と余り誇らず、モンゴル帝国の平和的な帝国統治を見習う事も必要です。



 



 





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