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2019年05月15日

「愛子さま天皇論」に違和感 「女性・女系天皇」皇室記者らの見解は?〈AERA〉



 





 【ネットニュースより】




「愛子さま天皇論」に違和感 「女性・女系天皇」皇室記者らの見解は?〈AERA〉


 5/15(水) 8:00配信 AERA dot. より引用します



 天皇の「代替わり」で新しい時代を迎えた。現憲法下で、退位によって 新天皇が即位した事は〈変わる皇室〉を強く印象付けた。だが実際は課題が山積であり、皇位継承問題もその一つだ。長年の取材経験を持つ皇室ジャーナリスト3人が「女性天皇」「女系天皇」の容認の可能性等意見を交わした。


 座談会参加者

 久能靖さん  元日本テレビアナウンサー。数々の報道番組を担当。「皇室日記」のキャスターを長年務めた
 近重幸哉さん 「女性自身」皇室担当記者。長年皇室取材を担当。著書に『明仁天皇の言葉』など
 山下晋司さん 元宮内庁職員・元「皇室手帖」編集長。現在はBSテレ東「皇室の窓」監修等


 




 ・・・祝賀ムードに沸く一方で、将来の皇位継承に付いての議論も急がれて居ます。皇位継承権を持つ皇族が少ないと云う問題に直面して居ます。


 久能 私が好い機会だと思ったのは、1日にあった「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」です。これには、皇位継承権のある男性皇族しか出られません。30年前は両側に3人ずつ6人の男性皇族が立っていらっしゃったが、今回は秋篠宮さまと常陸宮さまの2人だけでした。アノ場面を見た人は「これは大変なことだ」と思った筈ですよ。
 山下 継承者の減少を、誰もが認識しただろう場面でしたね。
 近重 皇統は男系男子の継承で、126代にわたり繋いで来ました。それが現実問題として難しいと為ると、対策を考えねば為らなく為ります。今回、光格天皇から202年振りに生前でのご譲位と為りましたが、光格天皇の2代前は女性の後桜町天皇です。
 女性天皇はこれ迄にも8人10代いらっしゃったので、女性天皇の復活は難しく無いとも思います。そして、女性宮家に付いては早急にと思います。しかし、女系天皇と為ると、これ迄の天皇家には無かったものですから、国民に説明し慎重に検討し無ければ為りません。


 




 山下 「女性宮家」と云う概念に付いて、余りにも誤解が多いですよね。先日、或る政治家が「女性宮家の問題を先に検討する」と言うのを聞いたのですが、明らかに誤解しています。本筋は皇位継承の問題であって、この二つを切り離すことは出来ません。民主党の野田政権の時に目新しい「女性宮家」と云う言葉が出て来て、マスコミが飛び着き言葉が独り歩きして居る様に感じます。
 近重 女性宮家の理由が「今いらっしゃる皇室の方々がこのまま残ることが好い」と云う考えが前提であれば、何の解決にも為りません。悠仁さまがお生まれに為る前、小泉政権で設置された「皇室典範に関する有識者会議」が、「女性天皇」「女系天皇」を容認する報告書を出しました。紀子さまの悠仁さまご懐妊に伴い、皇室典範改正案の国会提出は見送られ、それから13年。後継者減少と向き合う皇統の問題は、今も何も解決されて居ません。
 山下 「女性天皇」「女系天皇」の容認にも、積極的な容認と消極的な容認があるでしょう。消極的に容認して居た人達は、悠仁親王殿下がお生まれに為ってから、声が小さく為った。


 




 近重 今の不安定な状況を打開するには、女性・女系を認める必要があると思います。ですから、女性宮家の創設を認めると云う議論も成立すると思います。けれども、これ迄男系男子を大切にして来た訳ですから、先ずは男系男子を優先して行き「万が一の為に女系も認める」と云う考え方も将来的には必要なのかも知れません。
 山下 それに、今は未だ「女性」「女系」と云う選択肢があるから議論が出来るんです。現状の制度のままで居る内に、眞子内親王殿下も佳子内親王殿下も愛子内親王殿下もご結婚され皇籍を離脱されれば、選択肢が無く為る事態も起こり得ます。
 近重 悠仁さまが天皇に即位された時、お子様がどうかと云う事も大問題に為ります。
 山下 悠仁親王殿下が結婚された時に今の内親王、女王方がどなたもいらっしゃら無くても、新しいご夫婦に全て賭けるのか。お子様が生まれ無かったらどうするのか。女の子だけだったらどうするのか。
 近重 皇室の存続を願うのであれば、喫緊の課題として考え無ければなら無いと思います。


 




 ・・・世間では一部「愛子さま天皇論」が盛り上がりを見せて居る様です。


 久能 問題の本質に付いて、積極的な議論が交わされていないのが残念です。「愛子さまか悠仁さまか」と言った二者択一の議論には違和感があります。
 山下 人を見て居るからでしょうか、制度の議論がし辛く為って居ますね。こうした状況を、ご本人達にも申し訳無いと思わ無いのでしょうか。
 久能 今後の皇統をどうして行くのかと云うことを総括的に考え無いといけ無いと思います。
 近重 そして、愛子さまがもし女性天皇に為られるのなら、少しでも早く国は示すべきだと思います。お心構えもご準備も必要です。

 久能 上皇后陛下は天皇陛下がお生まれに為った時に「あづかれる宝にも似てあるときは吾子(わこ)ながらかひな畏(おそ)れつつ抱く」と云う御歌(みうた)を詠まれましたでしょう。将来の天皇を育てる覚悟をお持ちに為り、既にうたって居られた。
 山下:そうですよね。天皇陛下はそんな環境でお育ちに為りましたから、子供の頃から「将来は皇太子、何れは天皇に為る」と云う意識を持たれて居た筈です。考えを育まれる上でとても大切なことです。急に皇太子や天皇に為ると決まることは制度上有り得ると思いますが、出来れば将来を踏まえた上でお育ちに為るのが望ましいと思います。
 近重 現行の皇室典範のまま進めば、ユクユクは悠仁さまが皇位を継承されることに為ります。けれども、私は皇位継承者がお一人しか居ないと云う状況は避けるべきだと思います。先日報じられたお茶の水女子大学附属中での事件もあり、何が起きるか判りません。上皇陛下が望まれて居るのは、時代を超えた安定的な皇位の継承ではないでしょうか。


 (構成/編集部・小田健司)

 ※AERA 2019年5月20日号より抜粋



 





 もう一つのレポートを参照します。男系男子に固執する天皇・皇室学者の八木教授のお話です・・・


 





 『女系・女性天皇』6割超賛成の危険性


 八木秀次教授 皇統は「男系の血筋を継承すべき」 


 産経・FNN世論調査 5/15(水) 16:56配信 夕刊フジ



      5-16-4.jpg

     「皇統に付いてのの正しい認識を持つべきだ」と語る八木秀次氏



 産経新聞社とFNNが11、12両日に実施した合同世論調査で、極めて深刻な結果が出た。「女系天皇」に賛成が64・2%で、「女性天皇」に賛成は78・3%だった。女系天皇の誕生は「皇統の終わり」を意味するものだが、その危険性が明確に理解されて居ない様なのだ。皇室制度に詳しい麗澤大学の八木秀次教授に聞いた。


 





 「万世一系とされる皇統は一貫して男系継承で、天皇の正統性の根拠と云える。126代の天皇はこの原理を外れたことは無い。皇位継承を、感情論や女性活躍と言った次元で論じては為ら無い」


 八木氏はこう語った。先ず「女性天皇」「女系天皇」は全く違う。女性天皇は過去に8人10代存在したが、全て男性の天皇や皇太子の皇女だった女性が即位されたもので「男系女子」の天皇である。
 一方、「女系天皇」は、女性天皇と民間出身の夫の間に生まれたお子さま(男女問わず)が即位する場合であり、その時点で男系の皇統は終わる。男系を簡単に云うと、父方だけをさかのぼれば皇室と血の繋がりがある事である。八木氏は、皇位継承の基本を次のように示す。

 (1)皇統は一貫して男系継承
 (2)過去の女性天皇は「男系の女子」
 (3)女性天皇は、次期天皇(男系の男子)が幼少等の理由で中継ぎ役
 (4)女性天皇のお子さま(女系)が天皇に為ったケースは無い
 (5)過去の皇統断絶の危機には、別の男系の血筋から天皇と為って居る
 (6)皇位は直系継承では無く飽く迄男系継承である。

 こうした基本を踏まえて、八木氏は総括する。

 「GHQ(連合国軍総司令部)占領下だった1947年、皇籍離脱を余儀無くされた旧11宮家の系統の男子に皇籍に戻って貰うべきだ。初代天皇以来の男系の血筋を引く家系だ。その男系の男子を、男性の継承者が存在せずに廃絶する可能性がある宮家に『養子』として迎え、宮家を存続出来る様に皇室典範を改正するのも一案だ。何れにせよ、万策尽きるまで男系継承の道を探るべきだ」

                   以上



 






 【管理人のひとこと】



 色々なTV番組で何度この八木教授のお話を聞いただろうか・・・初代天皇以来の男系の血筋を引く家系こそが男系男子の正式な天皇である・・・詰まりさかのぼって行くと初代天皇とされる神武天皇の血に行き着くのだと云う。

 先ずこれを認めるとすると、神武天皇が実在の天皇だと誰が認めるかだ。神武天皇は神話上の天皇(当時、天皇と呼ばれる者は存在せず大王・おおきみと呼ばれた)であり、彼が生きて居たとする何等の確証も無い。そして、それが仮に実存したとしても、神武の血が男系を通じて現在まで流れて居るとする〈一統〉だと信じるに足る何物も無い。
 神話で云えば、西暦の起源何百年も前の血筋をどうこう云う根拠が何も無いし出し様も無い。詰まり、想像での話に過ぎ無い。

 昔の昔の大昔の話なので、〈一統〉だと云う方が無理なのだ。恐らく表向きは男系の血をひく何代か前の天皇の男系子孫だと作り話をした上で皇統を繋いで行った・・・と考える方が自然だ。都合好くその家系だけが生き延びるのは万に一つも有り得無い奇跡以上の奇跡・・・作り話に過ぎ無いと断定出来る。当時の人は、今以上に病に弱く医療も無に等しい。祈祷して占う程度であり治療するとの考えも無い。
 でも又、未だ有り得たと仮定したとして「男系男子」に一体何の価値があるのだろう・・・天皇の血をひくのは男女共同じで、天皇の娘が皇室以外の男性と結婚して出来た子供が天皇と為る(女系天皇)のが何処が拙(まず)いのかの説得力が弱い。

 間に皇室以外の血が混じっては為ら無いのだろうか・・・詰まり、皇室以外の血が混じるのが嫌なのだろう。それなら近親間結婚しか無いがそんな事は無いだろう。天皇のお妃に男子が生まれ無ければ、何人もの女官を次々と変えて男子が生まれるまで努力しただろうし、どうしても出来なければ、血の濃い者を養子として迎えたであろう。何れも血はドンドン薄く為り・・・ヤガテ消えて行く。
 この事に何で大層に騒ぐのだろう・・・何度聞いても理解出来無い。八木氏は「今迄そうやって来た」「それが真実であり、女系は存在しない」とのみ回答するだけ。何の説得力も無く根拠も無いのである。


 




 観念でも宗教的な信心でも無い、一体何なのか・・・思い込みとそうあるべき論に始終するので理解しようとしても無理なのだ。そして、この男系男子に加担するのが産経・フジグループや安倍氏のブレーンとして有名な八木氏の様な人達で固まって居る。後に出て来る橋下徹氏も指摘する様に、彼等の意図する事が廻りに決して広がら無い。
 何度質問されても「今までそうヤッテ来た」と云うだけなのである。家を継ぐのであれば、娘しか居なかったら養子を迎えてその子に家を継がせる。過去にヤッテ居た普通の家督の継承だ。その何処が拙いのか・・・特に商人の家は、下手な息子より娘に優秀な社員を迎えて後を継がすのも好い方法だ。それで今まで生き延びた家系も多数存在する筈である。何の根拠の無い「男系男子」のお話だ。








 

秀吉の朝鮮出兵 必ずしも無謀とは言え無い?



 




 【管理人】


 歴史のお話ですが、面白い記事を見ましたので皆様と一緒に考えたいと存じます。



 秀吉の朝鮮出兵 必ずしも無謀とは言え無い?



 5/14(火) 12:07配信 PHP Online 衆知(歴史街道)より引用します



     5-16-1.jpg

              東大・山本博文教授



 朝鮮出兵 秀吉の目的は何だったのか?




 





 後陽成天皇が秀吉の朝鮮渡海を止めた理由


 全国統一を実現した豊臣秀吉は朝鮮への出陣を命じ、天正20年(1592)第一軍の小西行長等は4月13日に釜山城を包囲します。その後、日本軍は破竹の進撃を続け、5月3日には首都・漢城(現在のソウル)を落とします。
 これに気を好くした秀吉は、同月18日、甥の関白豊臣秀次に朱印状を出し、後陽成天皇を北京に移すと云う構想を表明します。後陽成天皇を明の帝位に就け、大唐関白に秀次を当て、日本の帝位には若宮(後陽成天皇の皇子良仁親王)か八条宮(皇弟の智仁親王)を就け、羽柴秀保(秀次の弟)か宇喜多秀家を日本関白にすると云うものです。
 そして秀吉は、居ても立っても居られず朝鮮に渡海すると表明します。自ら軍勢を率いて明を征服しようと云う事でした。

 これを不安に思った徳川家康と前田利家は「船頭共の言うには、土用の内7月は不慮の風が吹く恐れがあるので、万一の時は天下一同が相果てる事に為ります。私と前田利家を先ず派遣頂ければ、上意の趣はおおむね命じます」と涙を流して秀吉を止めました。この為秀吉は自身の渡海を延期し、石田三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行を朝鮮に派遣します。
 その後、秀吉は、大政所(秀吉の母)の葬儀の為京都に戻り、正親町上皇や後陽成天皇の止めるのも聞かず再び九州の名護屋に行き渡海の準備をします。


 




 翌文禄2年(1593)正月5日、正親町上皇が崩御します。祖父上皇を失った後陽成天皇は、渡海の準備をして居る秀吉に宛てて宸翰(天皇の手紙)を出します。これには、次の様な事が書いてありました。

 「高麗への下向、険路波濤を乗り越えて行く事は勿体無い事です。家臣を遣わしても事足りるのではないでしょうか。朝廷の為天下の為、発足は遠慮為さって下さい。遠い日本から指示して戦いに勝つ事にし、今回の渡海を思い留まって貰えれば大変嬉しく思う」

 後陽成天皇は、何故秀吉の朝鮮渡海を止めようとしたのでしょうか。これ迄の研究では、後陽成天皇が秀吉の方針にヤンワリと反対を表明した政治的な手紙だとしています。しかし、そうでしょうか。
 後陽成天皇は、秀吉から北京へ行幸すると云う話を聞いた時、連れて行く公家の人選を始めて居ます。(跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』)秀吉の方針に異を唱える事等考えて居ません。後陽成天皇は、未だ20歳ソコソコです。秀吉が日本から居なく為る事に、言い知れ無い不安を覚えたのではないでしょうか。この為、縋る様な思いで、秀吉の渡海を止めたのだと思います。


 





 秀吉の関心は明のその先にあった!?


 それでは、何故秀吉は明の征服を考えたのでしょうか。実はこれは秀吉の独創では無く、秀吉の主君だった織田信長も大陸出兵の構想を持って居た様です。
 日本の史料には無いのですが、宣教師ルイス・フロイスが1582年(天正10)11月5日付で、島原半島の口之津から発信したイエズス会総長宛日本年報の追信(『16・7世紀イエズス会日本報告集』第3期第6巻)に、信長の考えとして次の様に書いて居ます。


   5-16-2.jpg



 「毛利(氏)を征服し終えて日本の全六十六カ国の絶対領主と為ったならば、シナに渡って武力でこれを奪う為一大艦隊を準備させること、及び彼の息子達に諸国を分け与える事に意を決して居た」

 この文章は、信長が本能寺の変で死んだ後に書かれて居るものですが、信長がフロイスに語って居たか、もしくは信長の関係者から漏れ聞こえて来た事だと推測されます。恐らく秀吉もこの構想を聞いて居り、心の中に有ったのだと思います。
 秀吉が朝鮮に出兵したのは天正20年(1592)ですが、未だ九州も支配下に置いて居ない天正13年(1585)に既に中国への出兵を表明しています。では、明を攻める目的は何だったのでしょうか?これは、学説の中でも色々と推測されて居ます。


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 1)秀吉の征服欲、名誉欲があったとする説
 2)当時、明とは国交が無く、貿易も出来なかったことから、明を服属させて貿易を行おうとしたと云う経済的な面から説明する説
 3)国内の統一戦争が終わった為、不要に為った兵力を国外に振り向けさせて大名を統制しようとしたと云う説
 4)ヨーロッパ勢力が進出して来たことに対する反発と云う説

 1〜3は、古くから唱えられて居る説で、夫々秀吉の意図のある部分は掴んで居ると思います。
 4平川新・東北大学名誉教授が主張した新しい論点です。

 確実な事は、秀吉は明と講和交渉に為った時「勘合」と云う事を持ち出して居る事です。詰まり秀吉は、中国との直接的な貿易を望んで居たのです。これに関連して、4に近い説ですが、武田万里子氏が、

 「秀吉の目的は、明の征服では無く、明を屈服させて大明四百余州の内の百カ国を割譲させ様としたもので、秀吉の関心は明そのもの、内陸では無くて、東シナ海から南シナ海に有り、これはイスパニア(スペイン)やポルトガルと云うキリシタン国のアジア進出への警戒と軌を一にして居る」

 と主張して居ます。(「豊臣秀吉のアジア地理認識―『大唐都』は何処か・・・」)こう考えると、秀吉の大陸進出と云うのも、全く無謀な計画と云うのでは無いのかも知れません。私も、秀吉の意図は、キリシタン国に対抗する為、海禁政策を執る明に軍事的な圧力を掛け、中国沿岸から東南アジアに掛けて展開して居た東アジア海域の中継貿易の主導権を握ると云うものであったと考えて居ます。

 一撃を与えれば、明が譲歩すると云う可能性が全く無いとは言い切れません。秀吉は、ソモソモ明の軍隊を弱いと思って居ました。「明は長袖(貴族)の国だから、戦国の中で鍛えて来た日本の軍勢には敵う訳が無い」と檄を飛ばして居ます。


 




 朝鮮に出兵した大名達は、朝鮮国内を直ぐに制圧して平壌まで行きます。だから、秀吉もその感を強くしたのですが、そこへ明の援軍が遣って来ます。明の援軍は、北方警備に当たる軍隊で、明を圧迫して居た女真族との激烈な戦いを経験して居たので、戦争の中で鍛え抜かれて居ました。その為小西行長達は、平壌を放棄して漢城近くまで戻ら無ければいけませんでした。
 この為秀吉も、体面を保つ事が出来れば、明と講和しても好いと考える様に為りました。しかし、明は、秀吉を「日本国王にする」と言うだけで、他の条件は無視したことから、結局、戦いを再開することに為ったのです。


 ※本稿は、山本博文著『東大流 教養としての戦国・江戸講義』(PHPエディターズグループ』より、一部を抜粋編集したものです。

 山本博文(東京大学教授)



 






 【管理人のひとこと】


 私達の多くは、秀吉の朝鮮出兵を「歳を取って耄碌(もうろく)した秀吉の誇大妄想」「国内を平定した戦後処理の為、大名達への領地を分け与える為」等と習ったか聞いた様な覚えがあります。何れにしろ結果として失敗したことで、余り評判の好いものでは無かった様に受け取られて居る。
 朝鮮から引き揚げた大名達と、参謀・目付として派遣された石田三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行との対立が始まるのも、延いては関ヶ原の戦いの元に為ったのもこの朝鮮出兵が大本の様です。朝鮮で苦労し逃げ帰った大名達と、参謀・目付としての立場の違いがハッキリと対立せざるを得無い状況へと育てて行き、結局は、豊臣から徳川家康へと天下が動いたのも、豊臣支持が二つに割れたのも、全ては朝鮮出兵の敗戦だったのだと思います。

 しかし、秀吉がヨーロッパ勢のアジアへの牽制を快く思わず、それを阻止しようと考えての出兵だと考えると、信長にしろ秀吉にしろ大した先見の明が在るものだと感心します。日本史は決して日本独自で形作られたのでは無く、世界史の中に世界史と共に存在して居たのです。



 





 


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