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2018年06月21日

司馬史観とは? 司馬遼太郎の「張り扇史観」その4(最終)



 司馬史観とは? 司馬遼太郎の「張り扇史観」その4(最終)


 司馬遼太郎の「張り扇史観」その4(最終)

 明治の俊才達を賛美する司馬遼太郎は、彼等が如何なる土壌から生まれて来たか考察する。彼によれば、それは江戸時代の精神的遺産からだと云う。

 (司馬) 子規は、極普通の人であった。明治期には子規の様な一種の人生の達人と言った感じの風韻(ふういん)の持ち主は、どの町内にも村にも有り触れて存在して居た様に思われる。
江戸期が残した精神遺産が子規の時代位まで継続して居たと言えるかも知れず、ひるがえって言えば日露戦争期の明治と云うのはそう云うものの上に成立して居る。


 正岡子規が「人生の達人」であったかどうかは議論の分かれる処だが、昭和をもたらしたのが明治だった様に、明治をもたらしたのが江戸時代だった事に疑いは無い。だが、それを「江戸時代の精神的遺産」だとして、問題を精神面に限定してしまう処に司馬遼太郎の限界がある。

 明治政府が江戸時代から継承したのは五公五民の高額年貢制度であり、農民を支配対象としか見無い治者意識だった。幕藩時代の諸藩は、農民から収量の半分を年貢として取り立て、明治に為って藩が消滅してからは、地主がこれを引き継いで50%近い高額小作料を取り立てた。明治以後、農村が消費市場として成長し無かったのは政府が農業問題に積極的に取り組ま無かった為である。

 明治維新のリーダー達も農民を支配対象としてしか見て居なかった。彼等が、如何に農民を軽視して居たかは西郷隆盛の行動を見れば分かる。情愛の人だった西郷は、時代から取り残された弱者に同情の目を注いだとされて居るけれども、彼が同情したのは維新に依って失業した武士達だった。
 彼の征韓論は少数の旧武士の為のもので、彼が国民の大多数を占める農民の為に何か建設的な提案をしたと云う話を聞いた事は無い。「敬天愛人」の「人」とは身内の武士を意識したものに他なら無かった。西南の役では、その武士主体の西郷軍が農民主体の政府軍に敗れたのだから皮肉である。

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 司馬遼太郎は唯物史観や貧農史観に対する反発からか、唯「心理」史観と云うべきものに傾斜してしまう。
日露戦争に際して圧倒的に優勢なロシア軍が敗れた原因を、彼は指揮官の心理や性格に帰して居る。司馬遼太郎は、ロシア軍の基本戦略が日本軍を満州奥地に引き込む事にあったと認めて居ながら、クロパトキン総司令官が戦略的後退を続けたのは精神病的な心理によると説明する。
 クロパトキンには、恐怖体質に基づく完全主義があり、自軍の体制が完璧に整わ無い内は決戦に出る事を避けたと云うのである。

 日本海海戦に敗北したロシア艦隊司令官も、自分だけが天才で他の者は全て愚人だと考える自己肥大的性格の所有者だったとして居る。その為水兵でさえ知って居る軍隊統率の初歩を実行し無かったと云うのだ。
 ここは、矢張りロシアの社会体制を掘り下げて原因を追及すべきだったと思う。ロシアでは貴族で無いと将校に為れず、従って兵士の間に戦艦ポチョムキンの反乱に見られる様な気分が横溢(おういつ)して居た。この辺は明治維新によって四民平等の体制を打ち出して居た日本の軍隊とは違って居たのだ。

 「坂の上の雲」には、日露戦争の様相が生き生きと描かれ類書には無い充実した内容に為って居る。何しろ司馬遼太郎はこの作品の為に10年を掛けたのである。戦争の流れを掴む為に、彼は自分を戦争当事者の立場に身を置いた。

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 (司馬) 満州に於ける陸軍の作戦は、最初から自分で遣ってみた。満州への軍隊輸送から戦場におけるその展開、そして一つ一つの作戦の価値を決める事を自分一人の中で作業してみるのである。
戦術的規模より戦略的規模で見る様にした為、師団以上の高級司令部の動きや能力を通じて、時間の推移や事態或いはその軍隊運用の成否を見て行こうとした。


 彼は日露戦争を追体験するに当たって、専ら指揮官の立場に自分を置いたのが間違いだった。この為彼は心理主義的偏向に陥ってしまったのだ。司馬遼太郎は、指揮官とそれを取り巻く小状況だけに目を遣り社会経済的背景と云う大状況を検討する労を惜しんだ。
 それは彼が当代屈指の流行作家だったからでもある。殺到する原稿依頼に応える為には近景に目を遣るだけで精一杯で遠景を顧みる余裕は無かったのだろう。彼の文章を読んで居て気に為る癖がある。「・・・の奇妙さは」「・・・の不思議さは」「・・・の面白さは」と言う様な叙述法である。「坂の上の雲」にもこの叙法が頻出する。

 (司馬)「明治海軍の面白さは、山本権兵衛が一大佐か少将の身で大改革を遣り得たと云う事である」
「西郷従道の不思議さは、海軍に付いて何も知ら無いこの人物が明治18年伊藤内閣で初めて海軍大臣を遣ったのを皮切りに、明治26年に就任し更に松方、伊藤、大隈の三内閣と続いて海軍大臣を遣った事である」


 だが、こんな事は面白くも無いし不思議でも無い。藩閥政府が人材不足の宿命を負って居たと云うだけの話なのだ。彼がこう云う叙法を多用したのも、そして又歴史の分岐点に為る様な事件をスター的英雄の個性や知略に還元して描いたのも文筆稼業が繁盛し過ぎて沈思黙考する時間が無かった為と思われる。

 「坂の上の雲」を通読した処では、司馬遼太郎の史観は講釈師が張り扇を叩きながら天下国家を論じるのと大差が無い様な気がする。
 彼は一つ一つの作品をもっと時間を掛けて書くべきだったのだ。そして息抜きに「梟の城」の様な忍者物を作って居れば好かった。だが、彼は新幹線で突っ走る様な超多忙な作家生活を送り、沿線の細部を見落とす大味な歴史小説を書いてしまった。そして自身の寿命まで縮めてしまったのである。

 おわり

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 有難う御座いました・・・明治維新以来の日本の膨張主義的対外侵略体質をこの様に分析されたのは実に納得が行きます。そして、日露戦争の原因として、日露両国が遅れた近代国家であった事・・・共に皇帝・天皇を頭に頂く帝政国家であり貧しい農民が主体な国民であり、工業生産の未熟な貧しさが海外への覇権に陥った原因だとするのは的確な指摘だと思います。
 私も、戦後GHQの政策の中の「農地解放」は実に的を得た民主的な政策であり戦後経済発展の為には不可欠なものだと考えて居ました。地主から田畑を耕す小作人を開放する・・・まるで革命です。勿論、地主には色々な保障政策を執ったでありましょうが、旧来の思想的な支配被支配の関係を一新したものと考えて好いでしよう。

 確かに売れっ子作家として大阪に住みながら、彼は一つの時代を象徴する国民的作家としてこの世を去りました。幕末ものの作品には、維新の英雄だけで無く敗者の新選組を取り上げても居ます。その内容の本質までは問いませんが、司馬史観と呼ばれる彼独特の思想があるのでしよう。
 司馬史観=薩長史観とも言われますが、何事も全てを鵜呑みにせずこの記事の様な批評も時には必要だと感じました。好く「歴史上の尊敬する人は?」「断然坂本龍馬!」とする人を見ますが、それは、司馬氏の描いた坂本龍馬であり実像とは別の人格です。この様に作品が独り歩きする程の影響を与えるのも偉大な作家と言えるのでしょう。

 が、歴史を学ぶのが現在・未来の為の勉強だとするのなら少し厄介な事に為ります。奥行きを深く広く持って多方面な見方が必要な歴史の解析は、一人の思い込みや心情を少しでも薄める事から始めなくては、今でも「吉田松陰や教育勅語を尊敬する」何処かの総理大臣の様な人を量産する結果に為ってしまう。この恐ろしさに気づいて欲しいものです・・・以上

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司馬史観とは? 司馬遼太郎の「張り扇史観」その3



 司馬史観とは? 司馬遼太郎の「張り扇史観」その3


 司馬遼太郎の「張り扇史観」その3


 日本を誤った方向に導いたのは明治期に大陸進出路線を決定した薩長系の政治家達だった。明治前期の政治史は、薩長系の国権派と非薩長系の民権派による対立抗争期だったと云う風に要約する事も出来るだろう。
 この争いに勝利した国権派は明治憲法を成立させ、富国強兵路線、詰り中国大陸進出路線を決定した。この縛りが如何にも強烈だったので、その後の日本はこの大国路線をひた走るしか無く為り、中江兆民や石橋湛山の「小国主義」に耳を傾ける者は無く為ったのである。
 司馬遼太郎は富国強兵路線を敷いた明治の為政者達を賛美する。そして昭和の政治家・軍人を全否定する。彼等は愚かにも、日露戦争の勝利が薄氷の勝利だった事を忘れて日米開戦に突き進んだと云うのが司馬遼太郎の解釈なのだ。

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 (司馬) (彼等は反省する処か)寧ろ勝利を絶対化し日本軍の神秘的強さを信仰する様に為り、その部分に置いて民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂い出して太平洋戦争を遣って退けて敗北するのは日露戦争後僅か四十年後の事である。
 敗戦が国民に理性を与え、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史から観れば戦争の勝敗等と云うものは真に不可思議なものである。


 だが、司馬遼太郎と言えども、日露戦争後に参謀本部が官修の「日露戦史」10巻を刊行した事を記さざるを得無かった。日本側に都合の悪い事を全て隠蔽したこの本は、司馬の賞賛して止ま無い明治の将軍達が部下に書かせたものなのである。

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 (司馬) これ(官修「日露戦史」)によって国民は何事も知らされず、寧ろ日本が神秘的な強国であると云う事を教えられるのみであり、小学校教育によってその様に信じさせられた世代がやがては昭和陸軍の幹部に為り、日露戦争当時の軍人とはまるで違った質の人間群と云うか、兎も角狂暴としか言い様の無い自己肥大の集団を作って昭和日本の運命を途方も無い方角へ引きずって行くのである。                    

 「大本営発表」式の上からの騙しは既に明治の頃から行われ、お人好しの庶民はそれにスッカリ騙されて居たのである。しかし昭和の政治家達はお人好しだったのでは無い。明治の為政者が作り上げた国家の枠組み、司馬の用語で言えば「国の形」に忠実だったから「昭和日本の運命を途方も無い方角に引きずって行く」事に為ったのだ。
 では、薩長系の政治家達は何故、大国路線に執着したのだろうか。・・・日本が貧しかったからなのだ。貧しかったから日本は、日清・日露の戦争に打って出て挙げ句の果てアメリカに迄戦いを挑む事に為ったのである。
 昭和20年の敗戦後、アメリカから各種の視察団が日本に遣って来た。来日した調査団員は一様に「こんな貧弱な工業力しか無いのに、日本はどうして戦争を始めたのか」と呆れたと云う。

 ニコライ二世統治下のロシアが、他国の顰蹙(ひんしゅく)を招く程露骨な対外膨張政策を執ったのもロシアが貧しかったからなのだ。日露戦争は、貧しさの為に対外冒険主義に走らざるを得無かった日露両国が、成算をを度外視して始めた非合理な戦争だったのである。
 日本もロシアも国民の圧倒的多数は農民であり、そして両国の農民は何れも極貧に喘いで居た。両国共、近代工業育成策を実行した結果、新たに労働者層が生まれて来はしたが、彼等の賃金は国内に貧農の大群が存在するが故にその線まで引き下げられ、国内の消費市場は殆ど育って居なかった。

 国内の消費市場が未発達なら商工業も発展しない。と云う事に為れば、商工業者の利益を代弁するメンバーが政策決定の場に加わる事も無い。明治政府を動かしていた政治家は殆ど全員が薩摩長州の中下級武士であり、産業経済のエキスパートは皆無に近かった。
 明治政府が行った殖産興業政策は、農民から吸い上げた税金で官営模範工場を作りこれを民間に払い下げると云うレベルのもので、外貨の獲得は専ら生糸の輸出によると云う哀れな状況にあった。
 当時、朝鮮・満州と日本の間の貿易関係は極めて僅かだったから、明治政府は海外市場を確保する為に朝鮮や満州に執着したのでは無い。武士的意識を清算し切れ無かった政府のリーダー達は、一種のサムライ的感覚からこれ等の地域を自国防衛の外郭部分として、叉、資源や税収を取り上げる略奪対象として執着したのである。

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 朝鮮・満州、更には中国全土が海外市場として浮上して来るのは、大正、昭和と進み日本の工業生産力がある程度上昇し始めてからだった。軽工業を中心にして工業部門の生産量が増えて来たものの、農民の所得は増えず、これに右へ倣えして工場労働者の所得も増え無い。国内の消費市場が未熟なら製品は外国に持って行って売り着けるしか無いのだ。
 日本の周辺にはこれはと言う様な軍事強国は無かった。だから、日本は羊の群れの中のオオカミの様にアジア諸国を侵略して彼等を自己の経済圏に組み入れようとしたのである。

 従って、日本国家の侵略的性格を無くすには、明治の藩閥政府が敷いた大国路線を改めるだけでは足り無かった。国民全体の生活水準を引き上げて国内に安定した消費市場を形成し無ければ為ら無かったのだ。進駐軍が日本政府に指示して農地解放やら労働組合保護を遣らせたのはこの為だったのである。

 その4につづく

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司馬史観とは? 司馬遼太郎の「張り扇史観」その2


 司馬遼太郎の「張り扇史観」その2


 司馬遼太郎の「張り扇史観」その2

  司馬遼太郎は、日露戦争を戦った日本を全面的に肯定している。だが、今日的な観点から見れば、日本は戦争を始めるべきでは無かったし、もし戦争が止むを得ないものだったとしたらロシアに負けた方が好かったのだ。その辺の事情に付いて説明してみよう。

 日清戦争は、日本と清国が朝鮮半島の支配権を巡って始めた戦争だった。惨敗を喫した清国は、日本に賠償金を支払った上に台湾・遼東半島・澎湖島を譲渡した。これを日本の儲け過ぎだとして、ロシア・ドイツ・フランスの三国による横槍が入って、結局、日本は遼東半島を清国に返還する事に為る。この時、我が国が三国干渉を教訓にして以後大陸への進出を諦め、台湾と澎湖島の経営だけに専念して居たらその後の日本の悲劇は無かった筈なのだ。

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 台湾に対する日本の植民地政策は、最初、強圧策を取って失敗続きだったが、総督に就任した児玉源太郎が後藤新平や新渡戸稲造を登用して融和策を取るに及んで見事な成功を収める様に為った。日本が太平洋戦争に負けて、中国や朝鮮で反日運動侮日運動が盛んに為った時にも、台湾原住民だけが唯一親日的な態度を執り続けて居る

 ロシアは日本に遼東半島を返還させて置いて、その遼東半島を清国から租借し満州全体に勢力を延ばし、更に朝鮮にも進出し始めた。
 中国大陸に進出したのはロシアばかりでは無かった。イギリスは揚子江沿岸一帯の支配権を手に入れ、フランスは広東・広西・雲南三省、ドイツは山東省を手中に収めた。三国干渉によって国際的に孤立して居た日本は、列強諸国の中国進出を指を咥えて見て居るしか無かった。
 日本がこのまま中国大陸への進出を諦めて欧米によるアジアの切り取り合戦を座視し、ロシアが満州全域と朝鮮半島を支配下に置くのを傍観して居たらどう為ったか。日本国内の商工業は発展し、中国・朝鮮は日本の友好国に為ったのである。

 当時の日本には二つの路線が争って居た。一つは薩長政府が推進する強国路線・大国路線であり、もう一つは自由民権派の主張する富国路線・小国路線だった。薩長政府は、日本を大国にする為に軍事予算を増やそうとし、政党勢力は「民力休養」を唱えて軍事費を減らそうとして争って居たのだ。
 大国路線と小国路線の何れかを選ぶかと云う事に為れば国民は個人の利己心に繋がる大国路線を選ぶ。政府に反対し続けた政党勢力も、日清戦争が始まるとコロリと態度を変えて軍事費拡張に賛成し、明治28年には総歳出中の軍事費の割合が32%と云う予算案を承認し、明治30年には総歳出中の軍事費の割合55%と云う予算を通してしまう。

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 大国路線を選んだ事で、その後の日本は泥沼の様な中国侵略戦争にのめり込み、昭和20年の敗戦を招いたのだから、この路線を推進した明治の元勲達の罪は深いと言わ無ければ為ら無い。山田風太郎が言う様に、明治の日本が昭和の日本を作ったのである。
 日本が帝国主義路線では無く小国路線を選んで居たら、我が国は北海道から台湾に至る弧状列島国家に為り、その地理上の優位性を生かして海洋貿易国家として発展したであろう事は疑い無い。それだけでは無い、日本はアジアにおける近代化運動・植民地解放運動のリーダーに為った筈なのだ。

 中国も朝鮮も、日本の明治維新を範として自国の近代化を目指すグループを輩出する様に為って居た。そして日本国内にはそうした運動を援助する一群の「大アジア主義者」が現れ、彼等は国境を越えてアジア諸国の志士と手を結ぶんで居たのである。宮崎滔天(みやざきとうてん)は孫文を生涯に渉って援助したし、フィリピンのアギナルドを後援した日本人も居る。
 もし日本が台湾を基地にして中国革命を物心両面から援助したら、日本は全ての面で中国と提携する様に為り、第一次世界大戦後の「民族自決主義」の潮流に乗じて両国は植民地化されて居たアジア諸国の独立運動を支援したと思われる。
 第二次世界大戦が始まる頃には、日本・中国を中軸とする東アジア諸国は「国際連盟」の場で共同歩調を取る様に為り戦争には中立を守ったろう。そして、これを政治的経済的飛躍のチャンスとして夫々が発展路線に乗ったに違い無い。

 だが、現実には明治時代に富国強兵政策に反対し、小国主義を唱道したのは中江兆民や少数の社会主義者に過ぎ無かった。

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 次に、日露戦争に敗北した場合を想定してみよう。

 実際、日本は紙一重の差で勝ったのだった。多くの研究者が指摘する様にもしロシアがもう半年戦争を続けたら日本は確実に敗北して居たのである。 司馬遼太郎も、書いている。

 (司馬) 大山巌は・・・・・「戦略目標は敵の塁壕(るいごう)に非ず、敵の野戦軍にあり」と、訓示して居る。今までの経験では、日本軍が惨烈な戦いをしてやっとロシア軍の「塁壕」を奪った時は、ロシア軍はサッサと逃げてより北方の塁壕で待って居ると云うものであった。
 確かに日本軍は勝って来た。しかしその勝ちは戦略的観点からの「勝ち」と云う必要かつ十分な条件を具備して居らず、この様ないわば追っ掛けっこを繰りかえして居る限り、国力の微弱な日本側としてはやがては軍事的体力を消耗し、最終的には大負けに負けてしまうと云う恐れが濃厚にあった。


 大山巌訓示のこの項はその事を痛烈に指摘し、

 (司馬) 「敵の野戦軍そのものを遣らねば為ら無い」と云う意味の事を言う。序ながらこの場合も、撃滅(げきめつ)殲滅(せんめつ)と云う過大表現は使って居ない。しかしながら内実はクロバトキンの軍隊を粉々に砕いてしまう以外に日露戦争の勝利は在り得無いと言って居るのである。
 が、この目的は結果としては遂に達成出来無かった。ロシア軍は一大損害を受けたとは言え十分に戦力を残した主力が、鉄嶺へ逃げ更にその北方へ逃げると云う過去の繰り返しをこの時も繰り返した。


 更に彼は次の様な事まで言っている。

 (司馬) 例えばクロバトキンが考えて居た大戦略は、遼陽での最初の大会戦で勝つ事では無かった。遼陽でも退く奉天でも退く。ロシア軍の伝統的戦術である退却戦術であり、最後にハルビンで大攻勢に転じ一挙に勝つと云うもので、それは要するに遼陽、沙河、奉天で時を稼ぐ内に続々とシベリア鉄道で送られて来る兵力を北満に充満させ、その大兵力を以て日本軍を撃つと云う事であった。
 もしこの大戦略が実施されて居れば、当時奉天の時点では最早兵力が著しく衰弱して居た日本の満州軍は、ハルビン大会戦において恐らく全滅に近い敗北をしたのでは無いかと思われる。


 司馬遼太郎は、日本の勝利が紙一重の勝利だった事を認めた上で、もし日本が負けたらどう為って居たかを次の様に予想する。

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 (司馬) 当然、日本国は降伏する。この当時日本政府は日本の歴史の中で最も外交能力に富んだ政府であった為に、恐らく列強の均衡力学を利用して必ずしも全土がロシア領に為ら無いにしても、最小限に考えて対馬島と艦隊基地の佐世保はロシアの租借地に為り、そして北海道全土と千島列島はロシア領に為るであろうと云う事は、この当時の国際政治の慣例から見ても極めて高い確率を持って居た。

 司馬のこの予想は余りにも悲観的である。日本の勝利が紙一重の勝利だった様に、ロシアが勝つとしてもそれは紙一重の勝利だから、ロシアが日本に過大な要求を突き着けられる筈は無い。第一、戦争は第三国の領土内で為されてロシア軍は日本の国土に一歩も踏み込んで居ないのである。そして戦争を幾ら継続した処で、制海権を日本に奪われて居るロシア軍は日本に上陸する可能性は全く無かった。
 
 日露戦争の勝者と為った日本は、講和条約で賠償金を要求したがロシアから拒否され樺太の半分を割譲させただけだった。ロシアが勝利した場合も、ロシアは千島列島と日本周辺の島の幾つかを獲得する程度の事で満足し無ければ為ら無かったろう。
 国土の幾分かをロシアに割譲したとしても、敗戦後の日本が内政面で得る処はそれらを償って余りある程大きかったに違い無い。

 敗北によって薩摩・長州による藩閥政治は完全にトドメを刺され政党政治の時代に入るからだ。政党政治が、戦前の「民力休養」政策を直ぐ採用する事は出来無いかも知れ無い。ロシアへの復讐を叫ぶ右派の勢力が存在するからである。
 だが、日露戦争に反対した社会主義者や西欧のデモクラシーの洗礼を受けたインテリ層の勢力が徐々に増加して行く。国家予算に占める軍事費の割合は縮小を続け、その分がインフラの整備と国民生活の向上に振り向けられる。国民の生活水準が上がれば国内市場も拡がり、海外市場の獲得を目指して対外冒険主義に走る必要は無く為る。
 侵略戦争を辞めた日本は、中国・朝鮮の自立を援助してその友好国と為り、これ等の国への資本輸出によって相手国の産業育成に貢献した筈だ。中国、朝鮮が豊かに為れば日本産業の市場も自ずと増えるのである。

 詰り、日露戦争の敗北は、太平洋戦争敗北後の日本の路線変更を先取りする形に為り、一足早く戦後民主主義を実現する事に為った筈なのだ。司馬遼太郎はこうした展望を欠いたまま、日露戦争を始めた日本を是認する。

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 (司馬) 日本は、その歴史的段階として朝鮮を固執し無ければ為ら無い。もし、これを捨てれば朝鮮処か日本そのものもロシアに併呑されてしまう恐れがある。

 日露戦争前夜に戦争熱を煽る一部マスコミがロシアによる日本占領の危機を訴えたのは事実である。だが、その頃、日本は先進国から最新鋭の軍艦を買い集めて老朽化したロシア艦隊が太刀打ち出来無い程の海軍を作り上げて居たのだ。
 だから、政府部内にもロシア軍が日本に上陸する等と云う事態を想定する人間は殆ど居なかったのだ。戦争責任に付いての司馬遼太郎の見解にも行き過ぎがある。

 (司馬) 戦争責任者はロシアが八分日本が二分。ロシアの八分の内殆どはニコライ二世が負う

 日本とロシアは共に朝鮮を植民地化しようと狙って居た。その朝鮮半島に対するロシアの圧力が増して来たから日本は自国の防衛の為では無く朝鮮を確実に自己の勢力下に置く為に開戦に踏み切ったのだ。しかも日本は真珠湾攻撃の時と同様にロシア艦隊に奇襲攻撃を掛けて居る。戦争責任は彼我五分五分と言って好い。

 司馬遼太郎は通俗の日露戦争観をなぞる様にして「坂の上の雲」を書いた。彼は、ロシアが悪いから戦争は始まり、圧倒的に優勢なロシアが敗れたのは現地日本軍将兵が優秀だったからだと云う世上の通説に縛られてしまって居る。
 これでは、仮に彼が秋山兄弟の目を通して日露戦争の暗部を描くと云う目論見を抱いて居たとしても、中途で挫折してしまうのは当然と言える。

 その3につづく

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 何時でも走れるように手入れを忘れずに!


司馬史観とは? 司馬遼太郎の「張り扇史観」


 幕末・維新の歴史の本を読む際に出て来るのが、作家・司馬遼太郎氏の歴史観と比較する人達が多い事だろうか。そこで司馬遼太郎の「張り扇史観」から引用して彼の歴史観の一部を紹介したいと思います。

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 司馬遼太郎の「張り扇史観」

  その1

 戦前の国民的作家と言えば吉川英治だが、戦後の国民的作家は司馬遼太郎である。処が、私には抵抗があってこの国民的作家の作品をどうしても読み通す事が出来ないのだ。「梟の城」等の伝奇的な作品なら何とか読む事が出来る。けれども、それ以外の歴史長編と為るともうダメなのである。
 ジャーナリズムの世界に於ける司馬遼太郎は、野球の世界での長嶋茂雄の様な存在で、誰からも好意を持たれて居る。二人とも敵を作ら無い温厚なタイプだから何処に行っても評判が好いのである。だが私は、その評判の好い処に引っ掛かるのだ。

 司馬遼太郎の読者には健全な常識を備えた実務家が多い。一言で言ってしまえば、司馬遼太郎を愛読するのは平均的日本人なのである。だから、彼は読者の好みに合わせて歴史上の人物を軽量化しアイドル化する。彼の歴史小説を読んで居ると、イージーリスニングにしたクラシックを聴く様な気がして来るのだ。
 森鴎外や中島敦の作品には歴史の重さや暗さがリアルに書き込まれて居る。この点は、松本清張、中山義秀、吉村昭等も同じで、歴史の残酷で非情な面を憚る事無く描き出す。事実、暗黒面を描く事無しに過去を浮かび上がらせる事は不可能なのである。

 司馬遼太郎は明治を賛美し昭和時代を酷評している。だが、明治史は自由民権運動、社会主義者への惨たらしい弾圧によって血塗られて居る。為政者間にも、松本清張の「梟首」に見る様な陰惨な内部抗争が繰り広げられて居た。
 だが常識的な歴史は、それらから目を逸らして明治日本を賛美する。我が司馬遼太郎も、俗説に調子を併せて明治を矢鱈に賛美するのである。彼は、アッケラカンとしてこう書くのだ。

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 (司馬) ・・・維新後、日露戦争迄と云う三十余年は、文化史的にも精神史の上からでも、永い日本歴史の中で実に特異である。これ程楽天的な時代は無い。
 無論、見方によってはそうでは無い。庶民は重税に喘ぎ国権は飽く迄重く民権は飽く迄軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、その様な被害意識の中から観ればこれ程暗い時代は無いであろう。しかし、被害意識でのみ観る事が庶民の歴史では無い。明治は好かったと云う。その時代に世を送った職人や農夫や教師等の多くが、そう言って居たのを私共は少年の頃に聞いて居る。


 司馬遼太郎は明治史の暗黒面を承知の上で、その時代を生き残った庶民が「明治は好かった」と言って居たと云う理由で、明治を明るい楽天的な時代だったと云う。
 彼は、常識に寄り添い体制に寄り添い歴史の暗部に蓋をして、明るくて心地好い「庶民向けの」歴史パノラマを繰り広げて見せる。明治物に限らず彼が作品に取り上げる主人公は、日本人好みの英雄であり歴史上のスターであり日の当たる場所に居る成功者達だ。
 彼はそれ等の人物に新しい解釈を施し、現代風にリフォームされた人物像を読者の前に提供するけれども、基調は相も変わらぬ通俗的な歴史ロマンなのである。彼が既製の歴史観を大きく転換した事は一度も無い。

 では、彼の歴史観は、如何して既成観念に媚びる形に為ってしまうのか。歴史上の権力闘争や合戦を描くに当たって、状況を上から俯瞰するレフェリーの視点に立つからなのだ。
 レフェリーの立場で作品を書けば、勝者の勝因・敗者の敗因を記す事で結局勝者の行動を正当化する事に為る。作者は常に勝者の側に立って全局を見通す事に為り、関ヶ原合戦を描けば家康の視点が第一義的に優先され石田三成は失敗者として位置付けられる。かくて作者は時代の流れを追認する体制派に転落するのである。

 鴎外・中島敦の歴史小説を読むと悲運に倒れた歴史上の人物が主人公に為る事が多い。そして、それ等の作品では局面が敗者の側から見られて居る。読んでいて、やり場の無い悲痛な印象を受けるのは、作品がハッピーエンドで終わら無いからだ。
 が、司馬遼太郎の作品は常にハッピーエンドで終わって居る。彼の本を読んでいると、自分が歴史を俯瞰する賢者に為った様な気分に為り、勝者との一体感に包まれながら明るい気持ちでページを閉じる事が出来る。

 私は司馬遼太郎の文体から小賢しさを感じる。そして、その作品全体からは夜郎自大の増長慢と云った印象を受ける。しかし、世間では頻りに「司馬史観」なるものを持て囃すのだ。私は世に言う「司馬史観」と云うものを研究してみようと思い立って世評の高い「坂の上の雲」を読んでみた。そして読み終わって、もしかすると自分は司馬遼太郎を過小評価して居たのかも知れ無いぞとチラッと思った。

 この作品は正岡子規と秋山兄弟の青春と重ね合わせて、近代日本の青春を描いて居ると云う事に為って居る。「坂の上の雲」と云う題名も、子規と秋山兄弟が坂の上の輝く雲を仰ぎ、明るい未来を目指して闘った事から付けられたと云う事に為って居る。
 だが、坂の上の太陽や青空を目指したと云うのなら分かるけれども、坂の上の雲を目指したと云うのでは、少々イメージ的に可笑しくは無いか。雲は矢張り明るい空を隠す邪魔物であり、常識的にはマイナス要因なのだ。

 私がこうした印象を持ったのは、作者が記して居る日露戦争後の秋山兄弟の身の振り方に奇異の感を抱いたからだった。司馬遼太郎は乃木希典と比較して秋山好古の事をこう書いている。

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 (司馬) 乃木は身を犠牲にすると言いつつも、台湾総督を務めたり、晩年は伯爵に為り、学習院長に為ったりして、貴族の子弟を教育した。
 しかし好古は爵位も貰わず、しかも陸軍大将で退役した後は自分の故郷の松山に戻り、私立の北予中学と云う無名の中学の校長を務めた。黙々と六年間務め、東京の中学校長会議にも欠かさず出席したりした。従二位勲一等功二級陸軍大将と云う様な極官に上った人間が田舎の私立中学の校長を務めると云うのは当時としては考えられぬ事であった。
 第一、家屋敷ですら東京の家も小さな借家であったし松山の家は彼の生家の徒土屋敷のままで、終生福沢諭吉を尊敬しその平等思想が好きであった。好古が死んだ時、その知己達が「最後の武士が死んだ」と言ったが、パリで武士道を唱えた乃木よりも或いは好古の方が極自然な武士らしさを持った男だったかも知れ無い。


 司馬遼太郎は、更に秋山好古の弟、秋山真之についてこう書く。

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 (司馬) 彼は海軍を辞めて出家しようとし、その事を部内の人々から留められると自分の長男の大(ひろし)に僧に為る事を頼み、現にその長男は無宗派の僧に為る事によって父親のその希望に応えた。
 この天才は、敵の旗艦スワロフやオスラービア等が猛炎を挙げて沈もうとして居る時、その事に勝ちを感ずるよりも、明治を支えて続いて来た何物かがこの瞬間に於いて消え去って行く光景をその目で見たのかも知れ無い。


 「坂の上の雲」の主役を務めた秋山兄弟は、日露戦争後、軍と政府に背を向け時代に逆らう様な生き方をして居る。二人は自らの過去を否定し日本の将来に寧ろ絶望して居るかの様に見える。
 司馬遼太郎が、日本に絶望した秋山兄弟を念頭に置いて作品を書いたとしたら、坂の上に浮かんで居る雲は希望の象徴では無くて凶兆としての雲なのである。この考え方が正しければ、司馬遼太郎は私が想像して居たよりも遙かに明晰な作家だったと云う事に為る。しかし、本当にそうなのだろうか。

 トルストイは「戦争と平和」を書く事によって、戦争を潜り抜ける事で変化する人間群像を描いた。「坂の上の雲」に描かれた秋山兄弟も戦後に全く別人に為った。司馬が兄弟の回心、二人の内面的な変化に焦点を置いて「坂の上の雲」を書いたら、或いは上質の文学作品に為ったかも知れ無い。
 処が、司馬遼太郎は秋山兄弟の内面に殆ど触れていない。彼は、作品の冒頭から兄弟に関する俗耳に入り易いエピソードを並べて、彼等が如何に優れた才能人であったかを強調するだけだ。だから、作品の後半に二人が戦後、軍国日本に背を向けたと云う記述が出て来ると如何にも唐突だと云う感じを受けるのである。

 好意的に見れば、作者は最初秋山兄弟の挫折を描く事によって日本の挫折を描く積りだったかも知れ無い。が、日露戦争に付いて調べている内に戦史的興味の方が強く為って、登場人物の人間的成長を書く事を放棄したとも考えられるのだ。
 実際に「坂の上の雲」の半分以上が日露戦争に関する戦史的叙述に費やされている。作者はこの作品の為に準備期間を含めて40代の10年間を費やしたと云う。と云う事に為れば、司馬遼太郎の歴史観や人間観を知るには、子規や秋山兄弟の描き方よりは日露戦争の描き方を見た方が好い事に為る。

 その2につづく

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 梅雨が明けたら遠くまで走ろうね!


 

2018年06月17日

小学生に教える日本神話とは?



  古代史の詰まらなさ

 何度も日本の歴史を学ぼうとするのだが、初めの土器・石器時代から縄文・弥生と時代を経るに従い、古墳時代以降に入ると極端に面白く無く為り興味を失ってしまうのが常であった。本当は、天皇家の出現に一番の興味があるのだが・・・
 私の想像では、近畿地方の豪族の一部が力を持ち勢力を伸ばした末に大和にその基盤を築いた。如何して力を着けたのかは、彼等が朝鮮からの渡来人であり優れた文化・技術を持って居たからだろう。特に戦争の概念の薄かった縄文時代の先住民達に取って、戦いを知る渡来人の思想や武器・戦法にはとても歯が立た無く、組織だった営み方も知ら無かっただろうから、彼等に戦い方や耕作の全てを学び同化して行ったのだろう。

 恐らく大陸(朝鮮半島を含む)からは、幾度にも渉って渡来人が押し寄せた筈で、大陸での勢力争いに負けた種族が纏まって渡来したであろう。勿論、全てが勢力争いに負けた種族では無く、気候や疾病・天変地異等の何らかの理由で新たな地を求めてのを移動もあるだろうし、台風等の気候によって思い掛けずに漂流した人達も居るだろう。
 何れにせよ、縄文人種と弥生人種には共通点が余り見られ無いとする今までの学説によると、急激に弥生人種に支配吸収されたのか、滅ぼされたのか・・・その辺を一番に知りたいのだが・・・

 特に天皇の出現は何か意図的に隠されて居る様で釈然としない。それが気に掛かって前へ進め無く為ってしまうのである。卑弥呼の件から天皇への時代へと突然飛び越してしまうので興味の文脈が途切れてしまうのである。
 特に天皇を中心とする物語は、古事記や日本書紀を下に解説されても、嘘か真か判ら無いので途端に興味を失う事と為ってしまう。例え神話であってもその辺りが釈然としないので何とか突破口が欲しい。果たして神話ではどの様に説明しているのだろうか?


  塾で教える日本の歴史 神話の誕生(古事記・日本書紀) から引用

 今 テキストでは、日本の神話は教えていません。国語の文学史の中で記紀について少し触れる程度です。
では小中学生がどこで「日本の神話」に触れるかというと、その機会はほとんどないのだと思います。
私の子供の頃は手塚治虫の「火の鳥」を読んだり、神話の映画を学校で見たりしたものです。神話を知らない民族は滅びるといいます。
 そこで神話が誕生したであろうこの律令国家誕生時期に神話について触れることにしましょう。「イザナギ・イザナミ」「天照大神」「スサノウのミコト」「ヤマトタケル」などの日本の英雄たちを紹介して行きます。

・古事記は712年完成 「古事記には、うそは書かないつ(712)もりです」
  
天武天皇の意思に発し、稗田阿礼が暗唱していたものを、漢字だけを使って太安万侶が筆録しました。神話と神武天皇から推古天皇までの天皇家の系譜を整理した最古の書物です。

・日本書紀は 720年成立 「何を(720年)書こうか?日本書紀」
  
最初の正史で舎人親王が編纂。漢文体で神話と神武天皇から持統天皇までが編年体で書かれました。 ここでは古事記の神話編を紹介します。

  イザナキ・イザナミ

混沌から天地が分かれ、神々の地を「高天原」と言います 。最初に「天の御中主の神(アメノミナカヌシノカミ)」など「別天つ神」と呼ばる神々が出現されます。その後ご夫婦の神々が出現され、最後に現れた男女の神が「伊耶那岐命(イザナキノミコト)」と「伊耶那美命(イザナミノミコト)」です。
 イザナキとイザナミは苦労して淡路島始め日本の島々を生み、海の神・山の神・穀物の神など様々な神を生みますが、火の神を生んだことでイザナミは死んでしまいます。イザナキは出雲にあると云う「死者の住む黄泉の国」にイザナミを取り返しに行きますが、叶わず戻り九州の日向の地で禊(みそぎ)をされます。

 アマテラスとスサノオ

 禊(みそぎ)を済ませたイザナキはその後も様々な神を生みますが、最後に尊い三柱(神様は柱と数えます)を生み国造りを完成させます。即ち、高天原を支配する「アマテラス大御神」・夜の国を支配する「ツクヨミ神」・海を支配する「スサノオ神」です。
 この内「スサノオ神」は乱暴者で父イザナキより追放され、姉の住む高天原でも乱暴を働きます。恐ろしいと思った「アマテラス大御神」は「天の岩屋」の戸を開いて隠れてしまいました。これにより高天原も地上も暗く為り、困った八百万の神々の中からアメノウズメが歌い踊りその楽しそうな様子からアマテラスも出てきました。このエピソードは「日食」を彷彿とさせますね。アマテラスは太陽神ですしね。

 ヤマタノオロチ

 スサノオは高天原を追い出され出雲に着き、そこで八つの頭を持つ「ヤマタノオロチ」を退治し「草なぎの剣」を得てアマテラスに差し出しました。この辺りまるでロールプレイングゲームのようです。ドラクエみたいですね。

 大国主命と国譲り

 さてスサノオの子孫に「大国主命」が居ます。その大国主命には「イナバノシロウサギ」を助けると云う物語が残っています。大国主命はスサノオの後「スクナビコナ神」と協力して「葦原中国(日本のこと)」を造り上げます。
 しかしアマテラス大御神より遣わされたタケミカヅチ神の要請により「葦原中国」をアマテラスに譲渡し、自分は幽冥界の主となりました。国譲りは簡単にはいかなかったでしょうね。

 天孫降臨

 アマテラス大御神は孫の「ニニギノミコト」を地上に降ろし葦原中国を任せました。この時にアマテラスはニニギニミコトに三種の神器を授けます。即ち「ヤタの鏡」「ヤサカニの勾玉」「草薙の剣」です。この三種の神器は歴代天皇が継承して居ると伝えられています。

 海彦山彦

 ニニギノミコトはコノハナサクヤヒメ(綺麗な名前ですね)と結婚して子を産みます。兄の海彦、弟の山彦の物語が残って居ます。弟の山彦が神武天皇の直接の祖先です。聖書にも「カインとアベルという兄弟の確執の話がありますね。

 神武天皇の東征

 ニニギノミコト以下3代を「日向3代」と云い、次に「カムヤマトイワレヒコ」が誕生し、日本の中心である「大和」を目指して東征します。カムヤマトイワレヒコは熊野の地から「八咫烏」に導かれて大和を平定し、そこで即位し初代天皇「神武天皇」となりました。九州から大和への東征、何らかの歴史的事件が背景にありそうです。

 ヤマトタケル

 12代景行天皇の子である「日本武尊(ヤマトタケル)」は父より命じられて、熊襲や東国等全国を平定して廻ります。「草薙の剣(天叢雲の剣ともいう)」を片手に全国を駆け回ったヤマトタケルの足跡は多くの場所に残されています。最後は現在の三重県で力尽き、白鳥に為って飛んで行ったと云う美しくも悲しい伝説が残されて居ます。

 日本の神話は、紹介して来た様に「ギリシャ神話」や世界各地の神話に劣ら無い壮大な物語です。人間味溢れる神様が、悩み、失敗し、イキイキと活躍して居るのが特徴ではないでしょうか。「ロードオブザリング」などを凌ぐ大長編映画になると思いますよ。
 実在の卑弥呼がアマテラスと同一人物なのかどうか、天皇家の祖先はなぜ女性神なのでしょうか?何故子では無く天孫が降臨したのでしょうか、興味は尽きません。成立当時の皇位継承を調べてみるのも面白いですね。本を買い漁り、文献を調べ出すと立派な古代史マニアです。 矢頭嘉樹

 
 この様な説明で納得されましたか? このコーナーでは時間を掛けて深く掘り進めて行きたいと思います。


2018年06月15日

物部氏とは 過つて日本国を治めて居た出雲王朝の末裔である


 物部氏とは、過つて日本国を治めて居た出雲王朝の末裔である


 出雲と物部氏


 「日本神話」によれば「出雲」は天上から天降ってヤマタノオロチを倒したスサノオに始まるとされて居ます。そして、オオナムチ(大国主)に主権が移され、オオナムチスクナヒコナオオモノヌシによって本格的な国造りが成され(国づくり神話)、高天原の神々と争った結果(葦原中国平定)アマテラスの子孫のニニギに国が譲られます(国譲り神話)。尚、このニニギの子孫が後のヤマト王権へと続いて行きます。

 出雲神話について

 スサノオの追放から国譲りまでの神話については下記のリンクを参照して下さい。

 ・スサノオのヤマタノオロチ退治(古事記版)
 ・因幡の白兎/大国主の根の国訪問(古事記版)
 ・大国主の国づくり/葦原中国平定(古事記版)


 この神話における歴史を考古学的に紐解くと、古代日本では紀元前から紀元後300年辺りまで「勾玉(マガタマ)」を中心とする「鏡・玉・剣」の文化があったのにも関わらず、300年以降はその文化がパッタリと無くなり、その代わりに「馬具」や「王冠」等の文化に変わって行ったことが明らかと為っています。
 この変わり目とされる4世紀の事は未だに明らかにされて居ない為「空白の4世紀」等と呼ばれており、それに伴って大陸から渡って来た騎馬民族により古代日本は征服されたとする「騎馬民族征服王朝説」などが唱えられています。
 しかし「日本神話」には、上記の通り出雲の神々によって国作りが 為されて、それを高天原の神々(後のヤマト)に譲ったとあり、これは「出雲王朝」と「ヤマト王権」が争って出雲が負けたとも言い換える事が出来ます。

 これに付いては、今までは出雲に王朝があった証拠など無く只のおとぎ話であるとして片づけられて居ましたが、近年、出雲の荒神谷遺跡から大量の銅剣や銅鐸が発見された事から、考古学的な物証が裏付けられた為、出雲王朝の存在は軽視出来なく為りました。
 叉、北は東北から南は九州に至る迄、全国の遺跡から勾玉が発掘されて居る事から、出雲王朝は「鏡・玉・剣」の文化を以って、北海道、沖縄を除く全国を支配して居たと云う事が言えます。
 
 サテ、その出雲王朝と物部氏の関係ですが、物部氏は「饒速日尊(にぎはやひ)」を始祖とする氏族であるとされて居ます。このニギハヤヒは「日本神話」に於ける神武東征の際に突然名前が登場し、後の初代天皇と為るイワレビコの敵として描かれて居ます。その為詳しい出自については諸説あり未だに議論されて居ます。
 ニギハヤヒは多くの別名を持つ事でも知られて居り、神社によっては「天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと>」と云う名前で祀られて居ます。この名前には「アマテラス」や「ホアカリ」等別の神とされる名前も含まれて居る事から、これらは神としての役割を表す世襲名では無いかとも取れます。
 叉、これ等を包括する名を持つニギハヤヒは、ヤマト王権以前の日本国に於いて最も尊い神であったとされて居たのではないかとも取れます。

 尚、このニギハヤヒの出自については諸説あります

 『先代旧事本紀』によれば、オシホミミとタクハタチヂヒメの子であり、ニニギの兄に当たるとされニニギ以前に天降って地上を平定したものの、子のウマシマジを儲けた後に亡く為ってしまったと記されています。
 一方、第73世武内宿禰を自称する竹内睦泰氏によれば、スサノオとカムオオイチヒメの子である「大年神(おおとしのかみ)」がニギハヤヒであり、現在は奈良県桜井市の三輪山(大神神社)に祀られていると云う事だそうです。

 大神神社の主祭神と言えば大物主(オオモノヌシ)であり「国づくり神話」によれば、

 「大国主(オオクニヌシ)はスクナヒコナと国作りを行っていたが、スクナヒコナは途中で常世国に帰ってしまった。一人に為った大国主が国づくりに付いて悩んでいると、彼方から海を照らして遣って来る神がおり、その神は大国主に自分を三輪山に丁重に祀るのであれば国作りに協力しようと言った。大国主は その神の言う通りに三輪山に丁寧に祀ると、国は見事に治まった」
 
 とされています。尚『古事記』において「国づくり神話」の後直ぐに大年神の系譜が説明されるのですが、「大物主=大年神」である為らばその流れにも納得がいきます。

 大物主(オオモノヌシ)と大国主(オオクニヌシ)

 よって「国づくり神話」における主要な神の一柱に「大物主」こと「ニギハヤヒ」が居り、そのニギハヤヒは「鏡・玉・剣」の文化を以って日本国を統治した出雲王朝の神でもあると云うと云う事に為ります。尚、上記の事をまとめると、物部氏の始祖であるニギハヤヒの出自は以下のようになります。

 1.オシホミミとタクハタチヂヒメ(オモイカネの妹)の子(『旧事紀』による)
 2.スサノオとカムオオイチヒメ(オオヤマツミの子)の子の大年神であり大物主である(竹内睦泰氏による)

 これ等は出自が異なる為、その信憑性について考えさせられますが、その血統はとどのつまりスサノオに帰結します。

 素戔嗚尊(スサノオ)

 スサノオが天降って最初に辿り着いたのは島根県です。その島根県では石見(西部)・出雲(東部)問わずスサノオを尊崇して居り、アマテラスを祀る神社や知名度は比較的少ない傾向にあります。叉、スサノオを主祭神とする神社やスサノオに纏わる地名なども多いです。
 よって、スサノオは最初に島根県から国家を造り始め、後のオオナムチ(大国主)の時代に出雲王朝と云う大王朝に迄成長したものと考えられます。そして、大年神ことニギハヤヒが出雲から出て大和の三輪山に拠点を置き、そこから畿内を平定した事で出雲王朝が初めて日本国を治めたと推測出来ます。

 その後、アマテラスの子孫であるヤマト王権が日本国の主権を主張して出雲王権と争ったと云う事でしょう。そして、出雲王朝が敗北して国譲りが行われた後、先ずはニニギが九州に君臨し、後にその子孫であるイワレビコ(神武天皇)が九州から大和に東征した際、ニギハヤヒからイワレビコに主権が譲渡され、その際にニギハヤヒの臣下が物部氏と為ってヤマト王権に仕えたと云う事なのだと思われます。

 上記の事から、物部氏はスサノオから続くニギハヤヒの臣下であった者達であり、その源流は出雲王朝にあると言えます。よって「物部氏とは、過つて日本国を治めて居た出雲王朝の末裔である」と言い換える事が出来るでしょう。

 以上

古代東北にも天孫降臨の伝説が


 古代東北にも天孫降臨伝説があった


 2018年6月15日 朝日新聞・宮城版 「東北細見」 記事より

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 物部氏と天孫降臨伝説 

 秋田県大仙市の唐松(からまつ)神社に伝わる「韓松宮(からまつみや) 物部氏記録」によれば、物部氏の祖先である饒速)日の命(にぎはやひのみこと)は鳥海山(ちょうかいさん)に降臨したと云う。記紀などで知られる天孫降臨は、天皇家の祖に当たる邇邇芸命(ににぎのみこと)が日向(ひゅうが)の高千穂峰(たかちほのみね)に天降(あまくだ)ったと云う。何故東北に天孫降臨の伝説が存在するのか?

 唐松神社を訪れた私を思いがけ無い光景が待って居た。唐松宮天日宮(からまつみやあまつひのみや)は円形の水堀に囲まれ、無数の自然石が敷き詰められた築山の上に立つ。

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 神社建築と云うよりも古代の円墳そのものだ。敷地の奥まった所にある神殿も一風変わっている。階段を下りた低い場所に鎮座し、拝殿内側の壁には夥しい数の鈴が吊り下げられて居る。それらが何かを語り掛けて来るように思えてならない。

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 宮司の物部長仁(もののべさきひと)氏に話を聞いた。天日宮(あまつひのみや)が完成したのは1932年(昭和7年
)だが、円墳の様な形に為った理由は伝わっていない。敷地を覆い尽くす自然石は、講中の信者らによって持ち込まれたものだと云う。
 江戸期にさかのぼってみても、秋田藩主佐竹公が蛇頭神楽(じゃがしらかぐら)の巡回を許可するなど手厚く庇護(ひご)した。何故唐松神社は人々の崇拝を集めたのか。「神社が東西南北に延びる交通の要衝にあったから」と宮司は背景を語った。しかし、もっと奥深いものが潜んで居る様にも思える。

 私は社殿が階段下などの低いところに建造される「下り宮(くだりぐう)」に着目した。それは全国的に少なく、宮崎県の鵜戸神宮(うどじんぐう)や群馬県の一之宮(貫先いちのみやぬきさき)神社など数える程しかない。しかも鵜戸神宮は天孫降臨の日向3代と関りがあり、一之宮貫先神社の祭神は古代の物部氏と関係が深い。下り宮を検証することで、漫然と乍も天孫降臨や物部氏の影がほの見えて来るのだ。

 東北の天孫降臨伝説は、何らかの必然があって語り継がれた来た事は間違い無い。唐松神社に向けられて来た信仰の原点には、古代の九州と東北を繋いだ物部氏の活躍と功績へのオマージュがありそうだ。神社の特異な建築から、古代東北の未知なる歴史の存在が浮き彫りに為る。 (探検家・高橋大輔) 以上


 それでは、物部氏とは一体どの様な人達だったのでしようか?

 物部氏の出自

 『古事記』では、 神武東征に於いてニギハヤヒがイワレビコに大和の支配権を渡した後、ウマシマジが物部氏の祖と為ったと記される 
 『日本書紀』では、 神武東征に於いてニギハヤヒがイワレビコに大和の支配権を渡した後、ニギハヤヒが物部氏の祖と為ったと記される 
 『先代旧事本紀』では、 オシホミミとタクハタチヂヒメの子であるニギハヤヒは、天神の御祖神の命により天磐船で哮峯(生駒山)に天降った、その際、ニギハヤヒの守護として計32柱の天津神と5部の首長を従えて天降った。その後更に5部の造、又更に25部の天物部と船頭らが天降った。 これ等の中に各国の物部氏の祖が居るとされて居る(ウマシマジは、後に天物部の代表的存在となる) 天物部は、そもそも高天原に居た者達と云うニュアンスで記されて居る。(神代から存在して居た様な記述)

 
 秋田・唐松神社にて 

 −物部の神の復権−

 先日、鉱山の神事で北秋田へ出向いた。車で東京の都心から高速を走り約八時間弱の行程だが、温泉に浸かる予定もあり、古神道講座の受講生に運転をお願いした。

 東北の山あいの新緑は眼に優しい

 秋田へ入り『物部文書』が伝わる唐松神社がある事に気付いた。『物部文書』の付いて知ってはいたが、未だ物部氏の末流が代々宮司職を継承する神社を訪ねたことは無い。早速、同行者らの快諾を得て参拝に向かった次第。
 神社の参道の両側には、樹齢二・三百年と思われる杉の大木が並立する。普通、一般的には何段か石段を上り社殿に辿り着くのだが、此処は何故か参道を徐々に下り低地の社殿に到る。江戸初期建造とされる社殿はさほど大きくは無いが、安産と子授けの神と親しまれている所為か幼児連れの家族が多い。

 参道より下がった低地に神を祀ると云う例は、奈良の広瀬神社等にも見られる。この低地に祀られる神は、一部には「蔑まれる神」と云う見方がある様だ。当時の事情を少し振り返ってみたい。

 先ず、物部氏だが遠祖は饒速日(にぎはやひ)の命(みこと)である。『日本書紀』神武天皇の記述の中で、“嘗(むかし)、天神の子有(みこま)しまして、天磐船に乗りて天より降止(いでま)せり。號(みな)を櫛玉饒速日命と曰(まを)す”とある。
 この饒速日命は大和の豪族・長髓彦の妹三炊屋媛(みかしきやひめ・亦名は鳥見屋媛)を娶り、初めは東遷の神武天皇の侵攻に対して共に立ち向うが、己れが天神である事を知り逆に長髓彦を裏切りこれを殺してしまう。そして神武天皇に帰順する。
 この饒速日命が降臨されたとする処は何ヵ所かある。『先代舊事本紀』では天神の御祖から天璽の瑞寶十種を授けられ、河内國・河上(いかるが)の哮峯(たけ)に天降る。秋田の『物部文書』では、秋田県と山形県境の鳥見山(鳥海山)に降ったとしている。

 この他、紀伊、筑前、筑後、丹波、と云った処にも饒速日の降臨伝承があるが、元々は大陸或いは朝鮮半島からの渡来系種族の、夫々集団毎の始祖神話がその土地に集約した形で創り上げられたようだ。

 この饒速日命から八代後が膽咋連(いくいのむらじ)である。『日本書紀』では、仲哀天皇が崩御し政情不安に為る事を恐れた神功皇后は竹内宿禰と諮り一時期その死を隠そうとする。その際、相談する四名の重臣の中に膽咋連が登場している。

 唐松神社の秋田物部家の家系図では、この膽咋連を鼻祖とする。そして四代を省略して物部尾輿が記されている。尾輿の後継者は物部守屋だが、蘇我氏との戦いで有名な守屋の名は何故か表に出た形で記載されず、守屋の子、詰り尾輿には孫の那加世(なかよ)が秋田物部家の祖・初代として扱われている。
 仏教が公然と伝来したのは欽明朝(五三九〜五七一)だが、日本の神を奉斎する排仏派の尾輿と守屋は、帰化系氏族と結んで新たに台頭して来た崇仏派・蘇我氏と神仏の宗教戦争を引き起こす。用明天皇崩御の年(五八七)両氏族は皇位継承を巡って対立する。穴穂部皇子を擁立する物部守谷は、崇峻天皇を立てて聖徳太子と組んだ蘇我馬子との戦いに敗れてしまう。百済王家出自の蘇我氏の勝利は、百済からの多くの帰化人と当時の経済テクノクラートを押さえた結果と思われる。

 蘇我氏の天下で仏教は隆盛の一途を辿るが、蘇我氏に追われた物部の一族は各地へ離散し山間や海辺の僻地で隠れ住む様に為る。『物部文書』に依ると、守屋の子で三歳に為ったばかりの那加世は祖父・尾輿の家臣に匿われ奥州を転々としたと云う。
 聖徳太子の崩後、蘇我氏は旧にも増して横暴と為る。遂には太子の一族をも滅ぼし天皇の廃立さえも企てる様に為り周囲の反感も強まる。ここに中大兄皇子・中臣鎌子等が蘇我氏打倒を目指し蘇我入鹿の暗殺を決行する。翌日、入鹿の父、馬子の子・蝦夷は自殺し、物部氏が滅亡してから約五十八年後、隆盛を誇った蘇我氏も呆気無く潰え去った。

 この六世紀から七世紀に掛け、大化改新を経て古代国家確立に向けての時代は激動の時代でもあった。蘇我氏が天下を取って居た半世紀の間に物部本流の影は消え、祭祀についても奉斎する神に変動があったようだ。

 秋田物部家は那加世を初代として、現在迄六十代以上続いて居る。物部氏は饒速日に繋がるが、古代の歴史の中で様々な表情を見せる。物部守屋に纏わる伝承や物部氏を祀る神社も数多い。
 先の広瀬神社は、若宇迦能売命の他櫛玉命、穂雷命を祀るが、この櫛玉命は饒速日命のことである。饒速日は長髓彦と共に大和朝廷に刃向い、後でそれ迄共に国を治めて来た長髓彦を裏切って殺している。叉、物部氏と蘇我氏の闘争で敗れた為、物部氏は朝敵として追われている。
 守屋の子孫達が神社を建立するにしても、朝敵と為った自分達の祖神を祀ることを、朝廷に対しての気遣わ無くては為ら無い。叉、祖神の行動を認め無いと云う証明として、低地に祀ったのではないか・・・これから先、物部の神の復権はあるのか・・・

 基は秋田物部家の邸内社と云う天日宮は、周囲に花が綺麗に活け込まれ、何十万個かの天然石で築造されて居る。変わった神社建築の空間の中で、フト時の経つのを忘れてしまった。

 (奈良 泰秀  H16年6月) 以上




2018年06月11日

貴方の常識は間違ってる?



 貴方の常識は間違っている!

 「日本の歴史」のこんなにある"新発見!  (更新 2013/6/12 21:19)


 日本史の”定説”は、研究が進むに連れて更新されて居る。今の歴史教科書を開くと鎌倉幕府の成立は「イイクニつくろう」の1192年では無いし、蘇我入鹿が暗殺された事件は「大化の改新」とは呼ばれ無い。多くの読者が教わった歴史と違って居るのでは無いだろうか。そんな日本史の”新発見”の一端をご紹介しよう。

      聖徳太子像.jpg

 【その1】 聖徳太子は絶対的な実力者では無かった!

 憲法十七条や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣等、7世紀に革新的な政治を行った重要人物とされて来た聖徳太子。だが今や、実在が疑われる程影の薄い人物に為ってしまった。聖徳太子の高い評価は『日本書紀』の記述に基づくが、そもそも『日本書紀』は8世紀に律令国家や天皇制の正統性を示す為に編さんされた書物。内容の信憑性を疑う研究者は多く、その為太子の存在そのものを否定する説も出た。今の定説はこうだ。
 
 厩戸王(うまやとおう)と云う皇子(おうじ)が、推古天皇の即位直後から政治を補佐した。この皇子は蘇我馬子と共に推古天皇を支えた有力王族の一人に過ぎず、憲法制定等様々な政策も政権全体で執り行った。だが死後、彼は「聖徳太子」として信仰の対象に為り、聖人として過大評価されて行った様だ。
 
 現在の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」等と併記されるのが主流だ。過つて1万円札の顔にも為った肖像画も本人と断定する根拠が無い為「伝聖徳太子像」と注付きで掲載される様に為って居る。最早聖徳太子は、飛鳥時代の絶対的存在では無いのだ。

      中大兄皇子 像.jpg

 【その2】 蘇我入鹿の暗殺事件を「大化の改新」と言わ無い

「ムシゴメ(蒸し米)で祝う」等と年号暗記の定番だった「大化の改新」。しかし、今は645年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我入鹿を白昼堂々宮中で暗殺した古代史の一大事件は「乙巳(いっし)の変」と云う。
 と言っても「大化の改新」と云う言葉自体が教科書から消えた訳では無い。大化の改新は646年の「改新の詔」によって始まった、律令国家建設を目指す一連の政治改革の事を指す。因みにその「改新の詔」に関しても『日本書紀』の記述がそのまま当時のものかどうか信憑性について議論が続いて居る。

 【その3】 「和同開珎」が日本最古の貨幣では無い

 日本で作られた最も古い貨幣は「和同開珎(わどうかいちん)」と覚えていないだろうか。確かに708年(和銅元年)に発行された和同開珎が、長く日本最初の鋳造貨幣と言われて来た。しかし、その情報はもう古い。
 1999年 奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から7世紀後半の銅銭の鋳造跡が見つかった。「富本(ふほん)」と鋳(い)こまれた大量の銅銭の他鋳造道具等も見つかり、大規模な生産態勢があった事が確実に為って居る。

 『日本書紀』には「今後は必ず銅銭を用い、銀銭は用いては為ら無い」と云う記述があり、今ではこの富本銭こそがそれに当たると解釈されて居る。但し、富本銭は流通貨幣では無く、呪いに用いられる「厭勝銭(えんしょうせん)」だったと云う説もありマダマダ謎は多い。

 【その4】 源氏と平氏の全面戦争は無かった

「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声・・・」の語り出しで有名な『平家物語』は、「源平の戦い」を記した、読むも涙、語るも涙の国民的物語だが、この源平の戦いは「源氏と平氏の戦い」では無かったと云うのが最新の定説だ。
 
 源頼朝が1180年に伊豆で挙兵したのと前後して、河内源氏や甲斐源氏・木曽義仲等が反平氏の兵を挙げた。九州や四国等源氏以外の反乱も起きた。彼等は最初から頼朝に味方したのでは無く、義仲の様に頼朝に滅ぼされた者も居た。
 又、伊豆の北条氏など頼朝に味方した平氏も各地に居た。飽く迄、清盛率いる平氏の支配に反発した武士達が入り乱れた戦乱だったのである。その為専門家は源平の戦いを「治承・寿永の乱」と呼ぶ。頼朝は一時、平氏との和平を望んだ様だ。だが、独自に行動した義経が平氏を壇ノ浦で滅ぼしてしまった。

      源 頼朝 像.jpg

 【その5】 鎌倉幕府の始まりは1192年では無い
 
 鎌倉幕府が成立した年を「イイクニつくろう」で1192年と覚えて居た、そこのアナタ。半分は正解だが、半分は間違いだ。源頼朝が、朝廷から征夷大将軍に任じられたのは1192年。だが、そもそも武士達反乱軍の実効支配による武家政権の始まりを朝廷の基準で区切るのはミスマッチだろう。 
 今は1180年に頼朝が鎌倉入りして南関東を支配した時から、武家政権の道のりはスタートしたと考える。その後1183年 朝廷に東国支配を追認され翌年には公文所・問注所等の統治機構が整う。1185年に守護・地頭を設置し、1190年に頼朝は貴族社会における武門の頂点の右近衛大将に任じられる。鎌倉幕府の成立は階段を上る様にして実現したと云うのが今や定説だ。

 【その6】 源頼朝も足利尊氏も…肖像画は別人!?

 頼朝に関しては、他にも“常識”が覆った事がある。教科書にも載り、好く知られる肖像画(国宝「伝源頼朝像」)は、神々しいまでに眼光鋭く細部まで描き込まれた優品だが、今ではこのモデルは頼朝では無いとの説が有力と為って居る。

 天皇や公家の肖像画が描かれる様に為ったのは平安末期で次第に武家もその対象と為った。だが、武家が自分達の肖像画を好んで描かせる様に為ったのは鎌倉時代も後半の事。作風や描かれた時期等から推察して、この肖像画のモデルは足利尊氏の弟・直義ではないかと云う説があり未だ議論が続いて居る。
 武家の肖像画では、以前は学校でも足利尊氏像だと教えられた「騎馬武者像」も今では別人と云う説が有力だ。他にも、北条時宗像や武田信玄像等に疑いの目が向けられている。考えてみれば、写真が残されていない歴史上の偉人がどんな顔だったか何て知る由も無い。明治時代以後でも、写真嫌いだった西郷隆盛の肖像画や銅像も本人に何処まで似て居るか確証は無いのだ。

【関連リンク】

 週刊「新発見!日本の歴史」記事で紹介したような日本史の常識を覆す新発見・新視点満載のシリーズが新創刊! http://publications.asahi.com/news/325.shtml

2018年06月09日

古代からのお話し その16


 古代からのお話し その16


 第八章 高松塚古墳の被葬者の謎
 
 オケ、ヲケの物語

 今までの説明で天武天皇が蘇我入鹿の子であり、天智天皇が蘇我馬子の孫、即ち蘇我入鹿の従兄弟である事を論証して来た。しかし余りにも通説と異なる結論に未だ信じ難いと思われる読者は少なく無いのでは無いだろうか。
 その様な読者の為にここでは別の角度からこの事を証明してみたい。先に『古事記』の説話の多くが天武天皇自身の体験、見聞、周辺の人間関係を利用して書かれたものだと云う事を解説した筈である。これ迄の論証で天武天皇は蘇我入鹿の子であり、天智天皇が蘇我入鹿の従兄弟であるらしいと云う事も判明した。

 ではこの様な人間関係で書かれた説話が『古事記』の中に存在するだろうか。 その様な説話が『古事記』の中に存在するとすれば、その事によって筆者のこれまでの説明を裏付ける事が出来る筈である。もし読者が『古事記』をお持ちなら、読むのは一時止めて『古事記』の中にその様な話があるか捜して貰いたい。系譜等が記載されて居たならそれを参考にすれば簡単に見つける事が出来る筈である。果たしてその様な物語が『古事記』の中に存在するだろうか。

 実は、その様な物語が『古事記』の中に存在するのである。それは『古事記』の最後に登場する仁賢天皇(意{ケ}、オケ)、顕宗天皇(袁{ケ}、ヲケ)の物語である。

 この物語は皇統譜で見ると、丁度履中天皇から武烈天皇の間の物語と為る。 処がこの間の天皇はその前後の応神、仁徳、継体、欽明天皇とされる陵墓が二百メートル以上の巨大な前方後円墳なのに、小型の古墳ばかりが多く、安康天皇に至っては古墳では無く単なる山の一部ではないかとさえ言われて居る程だ。
 又、雄略天皇陵も前方後円墳と為って居るが、形が歪で円墳にその近くにあった方墳を後世に組み合わせて作ったものでは無いかと見られて居る。

 履中天皇陵は全長三六〇メートルの日本で三番目の巨大古墳だが、考古学的には父とされる仁徳天皇陵より古い古墳と言われて居て履中天皇陵と云う比定も宛に為ら無い。 
 『日本書紀』に書き記された天皇の事跡に付いても、系譜だけ、又系譜と説話だけの天皇も多くその存在感が乏しい天皇が多いのが特徴で、この様な事から従来から存在のかなり疑わしい天皇が多いと指摘されて居る。

 更に、オケ、ヲケの話自体も、登場人物の名前がオケ、ヲケの兄弟や雄略天皇の兄でシロヒコ、クロヒコの兄弟の様に語呂合わせの様な名前だったり、清寧天皇の様に皇后や御子も無く、髪の毛が白いから白髪武広国押稚日本根子尊と名付けられたりと殆ど実話であったとは思え無い。
 登場人物の多くが存在感の希薄な架空の人物と考えられるので、この話も実話では無いと考えて差し支え無いだろう。

 次ぎにこの話を紹介して置こう。話の舞台は近江の蚊屋野から始まる。この蚊屋野は、天智天皇が即位後に大海人皇子と共に狩りをし、例の額田王の「あかねさす・・・・」の歌が歌われた蒲生とほぼ同じ場所にある。

 近江の佐々紀山君の祖である、名は韓?(カラブクロ)と云う者が大長谷王(後の雄略天皇)に、「近江の久多綿の蚊屋野には、沢山猪や鹿が居ます。その足は茂った林の様で、頭に突き出て居る角は、枯れた松の様です」と申し上げた。
 そこで、大長谷王は市辺押歯王(オケ、ヲケの父)を連れて近江にお出かけに為り、その野に着くと、夫々別々に仮宮を作ってお泊まりに為った。そして翌朝、未だ日が昇ら無い宇ちに、市辺押歯王は何時も通りの様子で、馬に乗ったままで大長谷王の仮宮の傍に遣って来て来られて、その大長谷王子の伴の者に、「未だ目を覚まされ無いのか。早く申し上げよ。夜は既に明けた。狩り場に出かけ様と」と言って、直ぐに馬を進めて出て行かれた。

 そこでその大長谷王の傍に仕えている者たちが、「気に入ら無い物言いをする王子です。用心すべきでしょう。武装為さって下さい」と申し上げた。そこで衣服の中に鎧を着込み弓矢を携えて馬に乗って出て行き、忽ち市辺押歯王に馬を並べると、矢を抜いてその市辺押歯王を射落とし、その体を斬って飼葉桶に入れ、そのまま土に埋めた。

 そこで市辺押歯王の王子たち、オケ王とヲケ王の二柱はこの変事を聞いて直ぐに逃げ去られた。そして、山代の苅羽井に着かれて乾飯を召し上がって居た時、顔に入れ墨をした老人が来てその乾飯を奪った。
 そこでその二柱の王が言うには、「乾飯は惜しく無い。しかしお前は誰だ」と仰せに為ると、その老人は「私は山代の豚飼いだ」と答えた。そして、玖須婆の河を逃げ渡って播磨国に行き、その国の住人で名は志自牟と云う者の家に入って、身分を隠し、馬飼い、牛飼いとして使われて居た。

 ・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・

 大長谷王の御子の白髪大倭根子命(シラカノオホヤマトネコ)は、磐余の甕栗宮において、天下を治められた。この天皇には皇后は居らず、又御子もいなかった。そこで、天皇の御名代として白髪部を定められた。そして、天皇が亡く為られた後、天下を治めるべき王が居なくなった。そこで皇位を受け継ぐ王を探すと、市辺押歯王の妹、忍海郎女、又の名は飯豊王が、葛城の忍海の高木の角刺宮に居られた。
 さて、山部連小楯を播磨国の長官に任じた時、小楯はその国の人で名は志自牟と云う者の新築祝いの宴に参加した。そこで酒盛りをして、宴もたけなわと為った頃、順番に見な舞を舞う事に為った。そして、火を焚く役の少年が二人、竈の傍に居たので、その少年達にも舞を舞わせた。

 その少年の一人が、「兄さんが先に舞って下さい」と言うと、その兄は、「弟が先に舞い為さい」と言った。この様に譲り合って居ると、そこに集まって居た人達は、その譲り合う様子を見て笑った。そこで到頭兄が舞い終えて、次に弟が舞う番となり歌った歌は

 物部の わが夫子が        武人である我が君が
 取り佩ける 大刀の手上に     腰に帯びている太刀の柄には
 丹画き着け              赤い色を塗りつけ
 その緒は 赤幡を載せ       緒には赤い布をとりつけ
 赤幡を 立てて見れば      天子の赤い旗を立てて敵の方を見やると
 い隠る 山の三尾の         敵の隠れている山の峰の
 竹をかき苅り              竹を根元から刈り
 末押しなびかすなす         その先を地面に敷きなびかすように
 八紘の琴を 調べたるごと     八紘琴の調子を整えて演奏するように
 天の下治めたまひし         見事に天下をお治めになった
 伊耶本和気の 天皇の御子    イザホワケ天皇の御子
 市辺の 押歯王の          市辺の押歯王の
 奴末                   私は子であるぞ

  と歌った。
 
 そこで、小楯連はこれを聞いて驚き、床から転げ落ちた。そしてその部屋の人たちを追い出して、その二人の王子を左右の膝の上に抱き寄せ、泣き悲しんだ。直ぐに人民を集めて仮宮殿を作り、その仮宮殿に二人をお住ませになり、早馬の使いを大和へ走らせた。その叔母の飯豊王はこの知らせを聞いて喜び、角刺宮に二人を呼び寄せられた。

 ・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・

 二人の王子達は、夫々天皇に為る事を譲り合われた。オケ命が、その弟のヲケ命に、「播磨国の志自牟の家に住んで居た時、もし貴方が名を明かさ無かったら、こうして天下を治める君主には為って居なかったでしょう。これは貴方の手柄です。そこで、私は兄ではあるけれども、矢張り貴方が先ず天下を治めなさい」と仰せに為り、堅くお譲りに為った。その為辞退する事が出来ずに弟のヲケ命が先ず天下を治める事に為った。

 顕宗天皇がその父の市辺押歯王の遺骨を探された時、近江の国に居る賤しい老婆が遣って来て「お父上のお骨を埋めた処は、私だけが知って居ます。又、その特徴のある歯の形で判るでしょう」と申し上げた。そこで、人々を使って土を掘り起こしその遺骨を探した。そしてその遺骨を見着けて、蚊屋野の東の山にお墓を作って葬り、そして先の韓{袋}の子供達を墓守りとした。

 ・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・

 天皇は,その父王を殺した大長谷天皇を深く恨み、その霊魂に報復をしようとお思いに為った。
 そこで、大長谷天皇の御陵を壊そうと考え、人を遣わそうとした時、その同母兄オケノ命が申し挙げるには「この御陵を破壊するのに他人を遣わすべきではありません。私自身が行って天皇のお考えの様に破壊して参りましょう」と申し上げた。そこで天皇は「それでは貴方のお言葉の通りにお行きなさい」と仰せになった。

 こう云う訳でオケノ命は自ら行かれて、その御陵の傍らを少し掘って皇居に帰り、天皇に「もう掘り壊しました」と申し上げた。それで天皇はオケノ命が早くお帰りに為った事を不思議に思われて、「どんな風に破壊為さったのですか」と仰せに為った。オケノ命は答えて「その御陵の傍らの土を少し掘りました」と申し上げられた。
 天皇は「父王の仇を討とうと思ったら、必ずその陵をスッカリ破壊する筈であるのに、どうして少しだけ掘ったのですか」と仰せに為った。

 オケノ命はお答えして、「その様にした理由はこの様な事です。父君の恨みをその霊魂に報復しようと思うのは実に最もな事です。けれども、あの大長谷天皇は、父の怨敵ではあるけれど、翻って考えますと私達の従父であり、又、天下をお治めに為った天皇です。
 ここで今、単に父の仇であると云う気持ちにのみ囚われて、天下をお治めに為った天皇の御陵をスッカリ破壊してしまったなら、後世の人が必ず非難するでしょう。只父の仇だけは討た無ければ為りません。そこで、その陵の傍らを少しだけ掘ったのです。最早この様な辱めで、後の世に私達の報復の志を示すのに十分でしょう」と申し上げた。この様に申し上げられると、天皇は「これは大変道理に叶って居ます。貴方のお言葉の通りで結構です」と仰せられた。

 何時の時代でもそうだが成功した人間は自分の栄光の歴史を後世に残したいと願うものである。その時中心に為る話は成功してからの話では無い。例えば事業に成功し、一代で大会社の社長に為った人物が人々の前で話したがるのは、事業に成功してからの裕福な生活の自慢話では無い。必ず成功する迄の苦労話と決まって居る。天武天皇も同じ気持ちを持って居た筈である。
 しかし、ここでもし自らの歴史を直接に書き残せ無い事情があったとしたらどうであろうか。自分の話を何とか後世に残す為に、別の時代に於ける他の人物の話しに置き換えてでも残そうと考えたとしても不思議では無い。

 このオケ命とヲケ命の父の市辺押歯王がその従兄弟の大長谷王に殺害された事に始まり、様々な苦難の後、天皇に即位するこの二人の王子の苦難と栄光の物語こそ、天武天皇の父の蘇我入鹿が乙巳の変に於いて殺害されて以降の体験に基づいて作られた説話と考えられる。オケ命とヲケ命の周りの人間関係と天武天皇の主な人間関係を比較してみよう。
 
 この二つの系譜は天武天皇が顕宗天皇と仁賢天皇の二人の天皇に為って居る事を除けばほぼ重なり合って居る。雄略天皇以後の皇位継承の順序も天智天皇以後のそれとほぼ同一である。
仁徳天皇から武烈天皇までの系譜は蘇我氏の系譜を基にして作られたものと考えられ、そこに登場する皇統譜も説話も架空のものなのだろう。
 皇統譜のこの部分は中国の歴史書に登場する所謂「倭の五王」(履中天皇から雄略天皇とするのが有力な説である)に相当する部分と考えられて居るが、中国側の記述と「日本書紀」の記述が殆ど符合し無いのも皇統譜が架空のものである事を裏付けて居る。

 この説話の主人公のオケ命とヲケ命は二人の王子に為って居るがこの二つの系譜の比較から判る様に天武天皇を二人の皇子としたものと思われる。この二人の皇子が天武天皇をモデルにして居る事は志自牟の家で弟が舞を舞った時に歌った歌から判る。
 この歌の出だしでヲケ命は「物部の 我が夫子が 取り佩ける 大刀の手上に 丹画き着け その緒は 赤幡を載せ 赤幡を 立てて見れば」と歌っている。この歌は壬申の乱に於ける大海人皇子自身の事をヲケ命に託して歌ったものだろう。

 自分の太刀の柄には、赤い色を塗り着け、緒には赤い布を取り付け、赤い旗を立てたと歌って居るのだが、この赤い色と云うのは壬申の乱に於いて大海人軍が近江朝廷軍と区別する為に付けた印の色である。『日本書紀』には近江朝廷軍と区別する為に赤い布を衣服の上に付けさせたと記されて居る。
 更にオケ命とヲケ命の父が暗殺されたと聞いて直ちに逃げたと云う話しから大海人皇子は事件当時、飛鳥に居たらしい事が判る。恐らく甘橿丘の蘇我入鹿の館に居たのでは無いだろうか。
 彼は危急を聞いて直ぐに飛鳥から脱出したのだろう。壬申の乱の時もそうであるが素早い決断と逃げ足の早さがこの人の真骨頂である。そして何処かの豪族の元に何年か潜伏した後、飛鳥に復帰したと思われる。その時、無事を喜ぶ者、報復を恐れる者、飛鳥は大騒ぎに為った事だろう。

 尚出雲大社では国造が死去すると、その嗣子は直ちに国造の館を出て一目散に熊野大社に向かう。そこで国造を継承する為の儀式(火継式)が行われ、その間に前国造の遺骸が運び出される。その後神事を終えた新国造が帰館し、氏子達が新国造の誕生を覆いに祝うと云う。

 蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の真実は出雲大社の神事として今に伝えられて居たのである。

 雄略天皇のモデルは天智天皇

 又雄略天皇のモデルは天智天皇と考えられる。雄略天皇は「大悪天皇」と呼ばれたほど猜疑心が深く、又残虐な天皇として描かれて居る。シロヒコ、クロヒコと云う兄を言い掛としか思え無い様な些細な理由で殺害したり、眉輪王と云う幼い皇子や自分の后の父、葛城円大臣を殺害したり、又新羅を攻めて敗北したり、高句麗に攻められて一時滅亡した百済の復興を支援したりと、これら雄略天皇の事跡は天智天皇の事跡と実に好く似て居る。

 天智天皇は乙巳の変の直後、吉野へ出家して居た異母兄の古人大兄皇子を殺害し、孝徳天皇の崩御後はその皇子の有馬皇子を罠に嵌めて未だ十九歳の若さで殺害して居る。
 更に天智天皇の二人の后の父で乙巳の変の同志だった右大臣の蘇我倉山田石川麻呂を謀反の疑いで死に追い遣っても居る。又百済が唐と新羅の連合軍に敗れて滅亡し、その復興の為大軍を朝鮮半島に派遣したものの白村江の戦いで敗北したのは有名だ。

 雄略天皇はその人物像、事跡がソックリな事からも天智天皇がモデルに為って居ると見て好い。万葉集は雄略天皇の歌から始まって居るので、雄略天皇の存在を架空であると迄断定する事は出来ないが、その事跡は天智天皇の事跡を基にして書かれたものである。

 サテ、話の主人公のオケ、ヲケの兄弟であるが、この二人が何でも譲り合う大変仲の良い兄弟として描かれて居るのは何とも微笑ましいが天武天皇の心の内を窺わせる様で実に面白い。天武天皇は天智天皇の事を父親の仇として当然憎く思って居たであろうが、一方この二人は同じ母を持つこの世で唯一の血の繋がった兄弟として心の底には熱いものが流れて居たのでは無いだろうか。

 それだけに血を分けた兄弟でありながら、天智天皇が天武天皇の父を殺害し、又天武天皇が天智天皇の子を死に追い遣った様に、何もかも奪い合う険悪な兄弟関係であった事に無念の思いがあったに違い無い。この無念の思いがオケ、ヲケの兄弟に反映されて居るので無いだろうか。
 又この思いは天武天皇八年(六八〇)五月五日に吉野の宮で皇后、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、河嶋皇子(天智天皇の皇子)、芝基皇子(同)に兄弟が助け合い争わ無いことを誓わせた、所謂「吉野の盟約」に繋がって居ると筆者は思うのだがどうであろうか。

 清寧天皇の後、先ず弟のヲケの皇子が顕宗天皇として即位し、次に兄のオケの皇子が仁賢天皇として即位する。仁賢天皇は雄略天皇の皇女の春日大娘皇女を后とし武烈天皇が生まれるが、ここで仁徳天皇から続く皇統が断絶する。
 ここで皇統は大きく切り替わり、越前から来た応神天皇の五代目の子孫とされる継体天皇にと話が繋がって行く。

 市辺押歯王の墓

 この話では先ず弟のオケの皇子が顕宗天皇として即位する訳だが、この話の後半は大変興味深い話と為って居る。顕宗天皇は即位すると雄略天皇に殺され、亡骸を馬の飼葉桶に放り込まれ、そのまま土に埋まられると云う粗末な形で埋葬されて居た父の市辺押歯王の遺骨を探し出し新たに墓を作り埋葬したと云うのである。
 オケ、ヲケの話が天武天皇の体験を元にして書かれたものなら、天武天皇は即位した後、乙巳の変に於いて中大兄皇子達に暗殺され、何処かに埋葬されて居た父の蘇我入鹿の遺骸を探し出し丁寧に埋葬し直した事に為る。

 恐らく父の蘇我入鹿だけでは無く祖父の蝦夷の墓も作り埋葬し直したと考えられる。そしてその墓は天武天皇の父や祖父に相応しい立派な墓だった筈である。こう云うとピンと来るものがある筈である。その蘇我蝦夷、入鹿の墓こそが華麗な壁画で知られる高松塚古墳、或いはキトラ古墳では無いだろうか。

 高松塚古墳の被葬者は蘇我蝦夷、キトラ古墳は蘇我入鹿

 高松塚古墳は昭和四十七年三月に奈良県明日香村で発見された極彩色壁画で大変有名な古墳である。極彩色壁画の発見は当時「歴史的大発見」として全国的に大きな話題と為った。
 それ迄は簡単な図柄の装飾古墳は幾つか発見されて居たが、この様な立派な極彩色壁画を持った古墳が我が国に存在するとは誰も考えていなかったのである。この古墳に付いてはその後も事ある毎に報道されて居るので知ら無い人は殆どいないだろう。

 発見後、古墳の被葬者は誰であるかと言う事に大きな関心が集まり、考古学者、歴史学者、或いは歴史作家等多くの人達によって議論されたが未だに決定的な被葬者は割り出されていない。被葬者の候補として様々な人物の名が上げられた。天武天皇、草壁皇子、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子、百済王善光、最近有力視されて居る石上朝臣麻呂等々恐らくその数は十人近いと思うが、何れも決め手に欠け、決定的な被葬者は不明のままで今に至って居る。

 被葬者に付いての殆どの説は『日本書紀』の記述に依拠して居る。しかしその肝心の『日本書紀』の記述に嘘が書かれて居たり、重要な事が書かれていなかったりしたのでは、学者や研究者がどんなに頑張った処で被葬者が誰か判明する筈が無い。
 最近では被葬者に付いての議論もスッカリ出尽くした様で、余り聞かれ無く為ってしまった。しかし墓である以上被葬者が誰であるかは最も重要な事である筈だ。

 高松塚古墳は奈良県明日香村平田地区にあり、高松塚古墳から約七百メートル北方に天武、持統天皇陵(檜隈大内陵)があり、約二百メートル北方に真の文武天皇陵ではないかと言われる中尾山古墳がある。キトラ古墳は南方に約千百メートルの位置にあり、これらの古墳はほぼ南北に連なって居る。所謂『聖なるライン』である。
  
 天武、持統天皇陵の檜隈大内陵の名から判る様にこの辺りは飛鳥時代、檜隈と呼ばれて居て現在でも明日香村桧前と呼ばれて居る。ここには於美阿志神社と呼ばれる古社がある。場所は高松塚古墳とキトラ古墳の丁度中間辺りだ。
 於美阿志神社の祭神は東漢一族の祖の阿知使主で、社名の於美阿志は「使主阿知」が転化したものと言われて居る。又ここは、七世紀に建立された東漢一族の氏寺であった檜隈寺跡でもあり、境内には重要文化財の十三重の石塔が残されて居る。

 この事からこの近辺は渡来系氏族の東漢氏の一族が多く居住して居た地域だったとされて居る。古墳の被葬者を考える時最も重要な事はその古墳が築かれた時代にその場所はどの様な人達が住み、どの様な事があった所かと云う事である。

 この時代、被葬者に全く縁も縁も無い処に墓が造られると云う事は先ず有り得ない。亡命者の百済王善光や物部一族の石上朝臣麻呂の墓がこの様な場所にある筈は無いのだ。天武天皇陵がこの様な場所に存在するのは天武天皇と東漢氏が深い関係にあったからである。前述したが東漢氏は蘇我宗本家の配下と言って言い一族で、この事からでも天武天皇が蘇我宗本家に繋がる人物である事が判る。同様に高松塚古墳、キトラ古墳の被葬者も蘇我宗本家に繋がる人物と考えて好い。

 高松塚古墳は直径二十三メートルの二段築成の円墳で版築によって作られて居た。版築とは土を何層にも突き固めて築き上げて行く寺の基壇にも好く使われる丁寧な工法で、飛鳥寺や川原寺にもこの工法が使われて居た。キトラ古墳も同じく版築で作られて居たが直径十三・八メートル、高さ三・三メートルの二段築成の円墳で規模は高松塚古墳に較べてかなり小型である。

 面白い事に高松塚古墳の直径二十三メートル、キトラ古墳の直径十三・八メートルと云う墳丘の規模は石舞台古墳(一辺が約五十メートルの方墳又は上円下方墳)、都塚古墳(一辺が約二十八メートルの方墳又は上円下方墳)の夫々約半分に当たる。
 又高松塚古墳、キトラ古墳と構造が好く似た古墳にマルコ山古墳がある。この古墳は高松塚古墳のほぼ真西の方向、千三百メートルの位置にあり、直径が高松塚古墳とほぼ同じ二十四メートルの二段築成の六角墳と言われて居るが、石槨内には漆喰が塗られて居るだけで壁画は描かれていなかった。

 壁画が無く石槨の内容では劣る筈のマルコ山古墳が高松塚古墳とほぼ同じの直径二十四メートルもあるのだから、キトラ古墳も直径が二十四メートルであっても可笑しく無い筈。キトラ古墳は意識的に高松塚古墳より小さく作られて居るのでは無いだろうか。
 即ち高松塚古墳とキトラ古墳の間には石舞台古墳と都塚古墳と同じ様に大小の序列が存在して居るのでは無いだろうか。勿論高松塚古墳の方が序列は上である。
 高松塚古墳の石槨内には余り多くは無いが遺骨が残されて居たので被葬者に付いてある程度の情報は得られて居る。

 それによると身長は約一六三センチメートルの当時としてはかなり長身の、筋骨の発育の良好な男性で、推定年齢は熟年或いはそれ以上、老年者である確率も否定出来ないとされて居る。キトラ古墳も遺骨が残されて居たので鑑定結果は出ている。
 被葬者の身長は不明だが骨太の男性で推定年齢は五十歳代の熟年者が有力とされて居る。又高松塚古墳は人物壁画の美しさが良く話題にされるがここで注目すべきは壁画の示す内容だ。即ち壁画に何が描かれ、その内容は何を意味するものであるかと云う事である。

 高松塚古墳の壁画には描かれていたものは

 一、 天文図
 二、 日像、月像
 三、 四神像(玄武、白虎、青龍、朱雀は不明)
 四、 一六人の人物群像

 以上の四つで、これ以外には何も描かれていない。石槨(せっかく)の天井には天文図が描かれて居た。天文図とは言え高松塚古墳の場合は政治的にかなり様式化された図柄となっている。  
 天井の中央、約一メートルの範囲内に径0・9センチ程の金箔を張り付け、夫々を赤い線で結ばれて表現されて居たその星座の内容は次の様なものである。

 先ず中央に「天極五星」と「四補四星」が描かれて居る。天極五星とは「天の中心の星」とそれに連なる「後宮の星」、「庶子の星」、「天帝の星」、「皇子の星」の四つである。「四補四星」は天帝を補佐する星と言われて居る。これ等の星を紫微垣の星と言い、宮中を表現するものとされて居る。
 これら紫微垣の星を中心にその周りに東方七宿、西方七宿、南方七宿、北方七宿の二十八宿が描かれて居たのである。古代の中国では天は地上を反映し、地上は天を反映したものと考えられて居た。
 即ちこれらの星々は天帝による全天の支配を表現し、それは又地上に於ける帝王を中心とした国の支配体制を意味して居るのである。

 「日像、月像」、「四神像」については『続日本紀』の大宝元年(七〇一)正月の条に次のような注目すべき記載がある。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀の様子は正門には鳥形の幢を立て、左には日像、青龍、朱雀の幡を立て、右には月像、白虎の幡を立て、蕃夷の国の使者が左右に分かれて並んだ。こうして文物の儀がここにおいて整備された。
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 これは高松塚古墳の「日像、月像」、「四神像」の壁画の配置とよく似ている。 「四神像」は周から漢に賭けて儒学者が纏めた礼に関する書である「礼記」に基づき、天帝の守護神とされて居て、単なる守り神と云う訳では無い。
 この時代の「四神像」の例として有名なものに薬師寺の「四神像」がある。薬師寺は天武天皇八年(六八〇)に天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して建立されたものだが、その本尊の薬師如来の台座に「四神像」の彫刻が施されて居る。

 薬師寺には数多くの仏像があるが「四神像」があるのは薬師寺の本尊の薬師如来のみで他の仏像には存在しない。四神像は中心にあるものを守って居る。それがこの時代の「四神像」に対する認識なのである。そして薬師如来の、向かって右に日光菩薩、向かって左に月光菩薩の「日」と「月」が祀られて居て、これは正に高松塚古墳に通じて居る。即ちこの古墳の被葬者は十六人の従者を従え、四方を四神像によって守護され、国の支配体制を表す天文図を見上げながら永遠の眠りに着いて居たのである。

 従ってこの古墳の被葬者は国を支配して居た様な人物以外には有り得ず、天皇若しくはそれに準ずる人物としか考えられ無い。
 遺骨の鑑定結果が熟年以上の男性である事を考え逢わせ、被葬者は天武天皇自身であると云う説もある程だ。しかし天武天皇の陵は現在比定されて居る檜隈大内陵でほぼ間違い無いとされて居る。鎌倉時代に盗掘され、この時の調査記録『阿不幾及山陵記』や藤原定家の『明月記』に内部の状況の記録が残されて居てその内容が『日本書紀』と一致するからである。従って天武天皇の可能性は無い。
 又天武天皇の皇子であると云う説もある。しかし天武天皇の皇子の中でも序列の最上位は、持統天皇との間に出来た草壁皇子であるが、草壁皇子の墓は奈良県高取町佐田にある束明神古墳と言われて居る。

 束明神古墳は対角線の長さが三十メートルの八角形墳で石室も長さ三・一メートル、幅二メートル、高さ二・五メートルと七世紀末の古墳としてはかなり大規模な古墳で、この古墳が草壁皇子の墓であることは被葬者の年齢、地元の伝承等からもかなり確実とされているが石室内に壁画はおろか、壁面には漆喰も塗られていない。
 従って草壁皇子以下の序列の皇子が高松塚古墳に葬られたとは思われず、天皇、皇族以外の人物ではなおさらありえない。
 唯一考えられるとすれば壬申の乱の功労者で太政大臣にもなった高市皇子だが、『延喜式』の諸陵寮によれば皇子の墓は大和国廣瀬郡にあった三立岡墓とされて居るので高市皇子の可能性も有り得ない。

 キトラ古墳も人物群像は無いが代わりに十二支像が描かれ、高松塚古墳同様に四神像や日像、月像も描かれて居た。天井には極めて精密な天文図が描かれて居て、この天文図は東アジア最古のものと言われ、この時代としては大変正確な物と言われて居る。
 人物群像こそ無いがキトラ古墳の被葬者も高松塚古墳同様極めて高い身分の人物と考えられる。推古天皇が即位して以降、平城京遷都(七一〇年)までの時代に国を支配して居た様な高い身分の人物と言えば天皇、さも無くば大和朝廷を牛耳り、事実上日本の支配者であった蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三人に限られる。

 しかし天武天皇以外の天皇の陵も夫々他の場所が陵として比定されて居るし、前述の河上邦彦によれば形のハッキリしない孝徳天皇を除けば舒明天皇以降の天皇陵は八角形墳と見られるが高松塚古墳とキトラ古墳は円墳である事が確認されて居る。従ってこの二つの古墳は天皇陵とは考え難い。
 そうすると被葬者の可能性があるのは蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三人と云う事に為る。
 このうち蘇我馬子の墓は牧野古墳と考えられる。と為ると残るのは蝦夷、入鹿の二人だけと為る。更に天武天皇は天文には大変関心をもって居たと言われている。『日本書紀』の天武天皇の巻の最初に  

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 天文、遁甲を良くした
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 との記載があり、天武天皇四年(六七六)一月五日には初めて占星台を作ったとの記録が残って居る。この時代、天文とは占星術の事を意味して居る。又壬申の乱において天武天皇は東国へ脱出する途中、天を見て最後には自分が天下を得るだろうと占って居る。
 石室内に天文図が描かれた古墳は日本では他に例が無い。この頃の時代の遺物として天文図も存在していない。従って高松塚古墳、キトラ古墳を築造した人物は天文に関して極めて高い関心と知識を持った人物と見て間違い無いだろう。

 蘇我蝦夷、蘇我入鹿の没年齢に付いての記録は無いが斉明天皇(皇極天皇)が崩御したのが六六一年で没年齢は『本朝皇胤紹運録』や『神皇正統記』等によると六八歳と為って居る。
そうすると乙巳の変(六四五年)では皇極天皇は五二歳だったと思われるので蘇我入鹿の没年齢は五十から六十歳と見て良いだろう。蘇我蝦夷は七十から八十歳のかなり高齢だったと思われる。これは人骨の鑑定結果ともほぼ一致している。

 これらの事から高松塚古墳、キトラ古墳は天武天皇によって築造された蝦夷、入鹿の墓だと筆者は考えて居る。
 ではどちらの墓が蝦夷で、入鹿だと為るのだが墳丘が大きく壁画の内容も国の支配者により相応しく、更に石舞台古墳、都塚古墳の関連性から見て高松塚古墳が蘇我蝦夷の墓で、キトラ古墳は蘇我入鹿の墓と筆者は考えて居る。

 古墳が築かれた時期は、壬申の乱の後、大海人皇子が飛鳥に帰ったのは九月十二日だから年内にあれだけの古墳を造る事は恐らく無理だろう。古墳が築かれたのは、共に壬申の乱の翌年、六七三年頃では無いだろうか。

 高松塚古墳の墓守

 更にこのオケ、ヲケの物語には興味深い話が続く。市辺押歯王を誘い出しその殺害に関わった韓{袋}と言う名の人物が顕宗天皇の即位後その責任を取らされ、その子供達を墓守りにしたと言う話が記載されて居る。
 『日本書紀』によれば誅される寸前に平謝りに謝り、その姿が余りに哀れであったので許されたと為って居る。どうやら乙巳の変の折、蝦夷、入鹿殺害に関してその責任を取らされ、子孫に墓守をする様に命じられた人物が居る様だ。驚いた事にこの話の通り、先祖代々高松塚古墳を祀り続けて来た人達が今も存在して居る。

 その人達は明日香村の上平田在住の村民で「橘」の家紋を共通にする人達と言うから、元は同じ一族だったのだろう。旧暦の十一月十六日に高松塚古墳において祭祀を行って居たらしいが、現在では古墳での祭祀は無く為って折各戸に祀られている。
 明日香村には数多くの古墳が存在して居るがこの様な祭祀が昔から続けられて居るのはこの古墳だけだそうで、祭祀が何時頃から行われて居たかも不明だそうである。古墳を先祖代々祀り続けて居ると言う話も他では余り聞いた事が無い。

 乙巳の変の時、蘇我蝦夷の館を警護して居た東漢一族は、蝦夷を見捨てて戦わずして退散、その為蝦夷は殺されてしまったが、壬申の乱の後にこの事が問題視されたのでは無いだろうか。
 最も壬申の乱から二十七年も昔の話である上に、東漢一族は壬申の乱に於いて大海人軍として大奮戦して居たのでこの件で関係者が刑に処せられる事は無かっただろうが、罰としてその子孫に蝦夷の墓の墓守をする事を天武天皇に命じられたのでは無いだろうか。飛鳥時代の記憶は今なお明日香の人々に受け継がれて居るのである。

 又古墳の祭祀に関して興味深い事実がある。高松塚古墳の東約五百メートルに八坂神社がある。ところがキトラ古墳の東三百メートルにも神社がありこの神社は八王子神社と呼ばれている。八坂神社だから祭神は当然スサノオである。八王子神社の八王子というのはスサノオの八柱の御子神のことだ。したがって八坂神社と八王子神社は祭神が親子関係にあることになる。この二社は二つの古墳の、被葬者の関係を暗示しているように思えてならない。

 考古学者はこのようなことにはあまり注目しないが飛鳥時代以降の終末期古墳ともなれば古墳の近くに存在するかあるいは存在した社寺との関係は被葬者の推測に大変に重要だと思う。このような例をもう一つ挙げてみよう。例の牧野古墳である。

 牧野古墳にも関係のありそうな神社がいくつかある。まずこの古墳のほぼ真北の斑鳩町には龍田神社が、ほぼ真東には舒明天皇の時代に創建されたと伝わる小北稲荷神社があり、共に古墳と関わりがありそうな神社だ。
 しかしそれより重要なのは古墳の北東方向に北東の鬼門を守護する大忌神を祀る広瀬神社があり、西北方向に西北を守護する風神を祀る龍田大社があることである。

 この二社は天武天皇四年(六七六)に天武天皇の命で現在地に於いて祭祀が始められ、国家的行事として年に二回祭祀が行われたことが『日本書紀』に記されている。
 その後も歴代天皇にたいへん崇拝され、平安時代には国家の一大事に特別に奉幣がおこなわれる神社の二十二社にも選ばれている。現在も旧官幣大社として多くの人々の信仰を集めている。

 広瀬神社と龍田大社は牧野古墳からは東西ほぼ対称の位置にあるのでこの二社は牧野古墳の被葬者のために創建されたと見てよい。このことからも牧野古墳が「皇祖大兄」押坂彦人大兄皇子、すなわち蘇我馬子を葬った成相墓であるとみてまず間違いないだろう。

 そして最期の話も大変興味深い。

 オケ、ヲケの兄弟は父の仇を討つために雄略天皇の墓を壊そうと思い、墓を壊しに兄が行くのだが、墓の側の土を少しだけ掘って帰って来る。父の仇とはいえ、天皇の墓なのですっかり壊してしまったなら後世の人に悪口を言われかねない。しかし父の仇は討たねばならない。そのため少しだけ壊した。それで十分だというのである。
 即ち自分達には分別があるといっているのだ。しかしこの話、聞きようによっては、以前に分別の無い人物が居て人の墓をスッカリ壊してしまったと皮肉をいって居る様にも聞こえないだろうか。スッカリ壊されてしまった墓と云えば直ぐに思い浮かぶのは石室を覆う封土が無くなり、石室が剥き出しに為っている明日香村の石舞台古墳のことである。この話からも石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓で、壊した犯人は天智天皇と考えてよさそうである。

 そしてこの話しを最期に、後は系譜だけを残して『古事記』の物語は全て終了する。

 以上 おしまい


  


  

古代からのお話し その15


 古代からのお話し その15

 飛鳥時代にあった王朝の交代
 
 『日本書紀』の記述に従えば舒明天皇は敏達天皇の孫、天智天皇や孝徳天皇は敏達天皇の曾孫と為って居るが実はそうでは無かった事に為る。即ち前王朝は推古天皇で断絶し、その後を蘇我馬子の子や孫達が継承し天皇に即位して居た事に為る。これは王朝の交代があったと云う事である。天皇家は万世一系だとは好く言われる事だがそうでは無かったのだ。

  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
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 これは大日本帝国憲法の第一条である。大日本帝国憲法は皇統の万世一系を国家の基礎を構成する最も重要な要素として居たが、実はその大日本帝国は万世一系では無い天皇によって統治されて居たのである。
 この様な王朝交代があった事は『古事記』の記述からも窺える。『古事記』の記述は推古天皇で終わって居るが、勿論これは推古天皇以降の記録が無かったからでは無い。記録は残って居り書こうと思えばそれも出来た筈だが、『古事記』は天皇が万世一系である事を示し、その正当性を主張する為の書物の様なものなので、王朝交代があった等と云う本当の事を書く訳にはいか無い。

 仮に偽りを書いたとしても推古天皇から半世紀しか経た無い天武天皇の時代では、真実を知る人達が未だ多く居たと思われるので直ぐに嘘とバレてしまい反って藪蛇な事に為り兼ね無い。都合の悪い事は書か無いと言うのが最も賢い手段なのだ。推古天皇以降の事を歴史書に記述するには更に半世紀『日本書紀』まで待た無ければなら無かったのである。

 天智天皇と天武天皇の真の関係

 蘇我馬子、天智天皇、天武天皇の関係を表にすると次の様に為る。        

          天智天皇と天武天皇の関係

 この図から明らかな様に天智天皇は蘇我馬子の孫で天武天皇は蘇我馬子の曾孫だった事に為る。即ち天武天皇は天智天皇より年齢は上でも世代は一つ下と云う事である。この時代は年齢より世代が重視されて居たのだろう。従って世代が上で目上の人物を弟とする訳には行かない。その為世代が一つ上の天智天皇が目上と云う事で兄とされ、天智天皇より年上ながら天武天皇が弟と云う事にされたのではないかと思われる。

 又蘇我氏は実は皇族であった事に為り、蘇我入鹿の子の天武天皇が天智天皇の皇太子と為り、その後天皇に即位出来たのである。飛鳥時代において蘇我氏が皇族だった事は冠位の事からも判る。
 推古天皇十一年(六〇三)に聖徳太子によって冠位十二階が制定される。しかし、この冠位を受けた中に馬子を初め蘇我氏の名は一人も見あたら無い。蘇我氏は臣下として冠位を授かる立場では無く、皇族として冠位を授ける立場に居たのである。

 更に大海人皇子の妃であった額田王が大海人皇子との間に一子を設けた後、中大兄皇子に嫁いだのは、蘇我入鹿の妃であった宝皇女(皇極天皇)が蘇我入鹿との間に大海人皇子を設けた後、舒明天皇に嫁いだ事をそのまま踏襲したものである事もこれで判る。
一般に言われる様に、額田王に横恋慕した兄の中大兄皇子が弟の妃を取り上げたと言う訳では無かったのである。

 この様な婚姻関係が存在したのは天皇家と蘇我宗本家の絆を深める為の政略結婚である。天皇と蘇我宗本家が母を同一とする兄弟と為るなら、本来これ程強力な政略結婚も無かっただろう。


 第七章 天孫降臨と聖徳太子

 ウケヒの神話の謎を解く

 次ぎに示す蘇我馬子とその子孫、推古天皇の関係と先に示したウケヒの図を比較して見て欲しい。好く似た形に生って居る事が判る筈だ。                 
 この事から天の安河で、アマテラスの吹き出した息の中から生まれた三柱の女神が物実に依ってスサノオの子とされ、スサノオの吹き出した息の中から生まれた五柱の男神が物実に依ってアマテラスの子とされたのは、推古天皇の娘が蘇我馬子に嫁ぎ、蘇我馬子の子や孫達が推古天皇の後継者として天皇に即位したと云う事に基づく神話である事が判る。

 即ち王朝の交代を象徴する神話だったのである。この神話が特に丁寧に語られて居たのは、この事が蘇我氏即ち天皇家に取って最も重要な出来事だったからに他なら無い。
 又、この図の中で聖徳太子を蘇我馬子の子として居るが、それは次に述べる天孫降臨の神話から説明する事が出来る。

 天孫降臨の神話

 天孫降臨の神話では、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(ホノニニギ)がアマテラスの命で地上を統治する為に降臨する事に為る訳だが、当初の予定では降臨するのは天の安河のウケヒでスサノオの吹き出した息の中から最初に生まれ、その後アマテラスの太子に為った正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)であった。
 アメノオシホミミが降臨せずにホノニニギが降臨する様に為った事情は『古事記』にはこの様に語られて居る。

 十二、葦原の中つ国の平定

 アマテラスの仰せで、「豊葦原の千秋長五百秋(チアキナガイホアキ)の水穂国(ミズホ)は、我が子のアメノオシホミミが統治すべき国である」と、統治を御委任に為って、アメノオシホミミを高天原からお降しに為った。
 処がアメノオシホミミは、天の浮き橋にお立ちに為り、「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、酷く騒がしい事だ」と仰せに為って、又高天原に帰って、アマテラスに指図を仰がれた。

 そこでタカミムスヒとアマテラスの命令で天の安河の河原に多くの神々を集めて、オモヒカネに考えさせて「この葦原中国は我が子の統治する国として支配を委任した国である。しかし我が子はこの国には乱暴な国つ神が多く居ると思って居る。この為にはどの神を遣わして平定させたら好いであろうか」と仰せに為った。
 オモヒカネと多くの神々は相談して「アメノホヒを遣わすのが好いでしょう」と申し上げた。それでアメノホヒを遣わしたのだが、忽ち大国主に媚びてしまって、三年経っても復命し無かった。
 その様な訳でタカミムスヒとアマテラスは又神々に「葦原中国に遣わしたアメノホヒは長い間復命しない。今度はどの神を遣わしたら好いであろうか」とお尋ねに為った。
 そこでオモヒカネは「天津国玉神(アマツクニタマ)の子、天若日子(アメノワカヒコ)を遣わすのが好いでしょう」とお答え申し上げた。そこで鹿を射る弓と矢をアメノワカヒコに授けて遣わした。処がアメノワカヒコは葦原中国に降りると直ぐに大国主神の娘の下照比売(シタテルヒメ)を娶り、又その国を自分の物にしようと思い、八年経っても復命し無かった。

 そこでタカミムスヒとアマテラスは又神々に「アメノワカヒコは長い間復命しない。今度はどの神を遣わして、アメノワカヒコが長く留まる理由を尋ね様か」と仰せに為った。
 そこで多くの神々とオモヒカネが「鳴女と云う名の雉を遣わすのが好いでしょう」と答え申し上げた。そこで鳴女に「お前が行きなさい。そしてアメノワカヒコに『お前を葦原中国に遣わした理由は、その国の乱暴な神達を服従させよと云う事である。何故八年にも為るのに復命しないのか』と問いなさい」と仰せに為った。

 そこで鳴女は高天原より降って、アメノワカヒコの家の、門の神聖な楓の木に止まって、天つ神の仰せに為った事をつぶさに伝えた。
 そこで天佐具売(アメノサグメ)が鳥の言う事を聞いて、アメノワカヒコに「この鳥は鳴く声が大変悪い、射殺してしまいなさい」と進言した。アメノワカヒコは天つ神から賜った弓と矢でその雉を射殺してしまった。
 その矢は雉の胸を貫き、逆に射上がって天の安河の河原に居たアマテラスと高木神の所に届いた。この高木神はタカミムスヒの別名である。

 高木神がその矢を取りご覧に為ると、矢の羽に血が付いていた。そこで高木神は「これはアメノワカヒコに授けた矢である」と仰せに為り、多くに神にお見せに為って「もしアメノワカヒコが命令に背かず、悪い神を射た矢が此処に届いたのなら、アメノワカヒコには当たら無い。もし汚い心があるなら、アメノワカヒコにこの矢が当たって死ぬだろう」と仰せに為った。
 そこでその矢を取って、その矢が来た穴より下に衝き返した処、朝の床に寝て居たアメノワカヒコの胸に当たり、アメノワカヒコは死んだ。又その雉は帰って来なかった。「雉のひたつかい」と云う諺はこれが起源である。

 サテ、アメノワカヒコの妻の、シタテルヒメの泣く声が風に乗って高天原まで届いて来た。
 そこで、高天原に居るアメノワカヒコの父のアマツクニタマや妻子が聞いて、降って来て泣き悲しみ、直ぐにそこに喪屋を作った。河の雁を死者に食事を捧げ持つ役とし、鷺を掃除をする役とし、翡翠を食事を作る役とし、雀を米を着く女とし、雉を泣き女として役を定め、八日八晩賑やかに死者を弔った。
 この時に、阿遅志高日子根神(アヂシキタカヒコネ)が遣って来て、アメノワカヒコの喪を弔った。高天原より降ったアメノワカヒコの父と妻は泣きながら「我が子は死なずに生きて居た。我が夫は死なずに此処に居られた」と手足に取り縋って泣いた。この様に見間違えたのはこの二柱の神の容姿が大変良く似て居たからで、それで間違えたのである。

 そこでアヂシキタカヒコネは大変怒って「私は親しい友人だから弔いに遣って来たのだ。何故に私を汚らわしい死人に見立てるのか」と言い、佩いて居た十拳の剣を抜いて喪屋を切り倒し、足で蹴飛ばしてしまった。
 これが美濃の国の、藍見川の川上にある喪山である。喪屋を切った太刀の名は大量(オオハカリ)と言い、又の名を神度剣と云う。そうしてアヂシキタカヒコネが怒って飛び去った時、その妹の高比売命は兄の名を知らしめ様として、この様に歌った。

 天なるや 弟たなばたの うながせる 玉のみすまる みすまるに 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴 高日子根の神ぞ

 (天上の若い機織女が、頸に掛けて居る糸を貫き通した玉飾り、その玉の様に、谷二つを渡られる阿治志貴 高日子根の神である)

 この歌は夷振(ヒナブリ)である。ここでアマテラスは「今度は何れの神を遣わしたら好いであろうか」と仰せに為った。
 そこでオモヒカネと多くの神が「天の安河の川上の天の石屋に居る、名は天尾羽張神(アメノヲハバリ)を遣わしたら好いでしょう。もしこの神で無ければ、その神の子、タケミカヅチノヲを遣わすのが好いでしょう。又そのアメノヲハバリは天の安河の水を堰き止めて、道を塞いで居るので、他の神は行く事が出来ません。そこで別に天迦久神(アメノカク)を遣わして尋ねるのが好いでしょう」と申し上げた。

 そこでアメノカクを遣わし、アメノヲハバリに尋ねると、アメノヲハバリは「畏まりました。お仕えしましょう。しかしこれには我が子の建御雷神(タケミカヅチ)を遣わすのが好いでしょう」と答えて、直ぐにタケミカヅチを奉った。そこで天鳥船神(アマノトリフネ)をタケミカヅチに添えてお遣わしに為った。

 十三、大国主神の国譲り

 この様な訳で、この二柱の神は出雲国の伊耶佐(イザサ)の浜に降って、十拳の剣を抜き、波の上に逆さまに刺し立て、その剣の先に胡坐をかいて座った。
 そして大国主神に「アマテラス、高木神の命令で貴方の意向を尋ねにやって来た。貴方の治めて居る葦原中国はアマテラスが、我が子が治める国として支配を委任に為った国である。そこで貴方の考えはどうであろうか」と言われた。

 そこで大国主神は「私にはお答え出来ません。我が子の八重事代主神(ヤヘコトシロヌシ)がお答えするでしょう。しかし、鳥や魚を捕りに美保の崎に行ったまま、未だ帰って来ません」とお答えに為った。
 そこで天鳥船神を遣わし、ヤヘコトシロヌシを呼び寄せ、尋ねた処、その父の大国主神に「畏まりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と答えて、直ぐにその乗って来た船を踏み傾け、天の逆手を打って、青柴垣の中に隠れてしまいました。

 そこで大国主神に「今、お前の子のコトシロヌシがこの様に申した。他に意見を言う様な子が居るか」とお尋ねに為った。
 すると「もう一人、我が子に建御名方神(タケミナカタ)が居ます。これ以外には居ません」と答えて居る間に、そのタケミナカタが千人引きの大石を手の先に捧げて遣って来て「誰だ。我が国に遣って来てひそひそ話をするのは。それでは、力比べをしようではないか。では、私が先ずお前の手を取ろう」と言った。

 そこでその手を取った途端、氷の柱に変わり、又剣の刃に変わった。タケミナカタは恐れを為して退いた。そこで今度はタケミカヅチがタケミナカタの手を取ろうと申し出てその手を取ると、若い葦を掴む様に掴み潰して放り投げると忽ちタケミナカタは逃げて行った。
 タケミカヅチはタケミナカタを追い掛け、信濃の国の諏訪湖迄追い詰めて殺そうとした時、タケミナカタが「恐れ入りました。私を殺さないで下さい。ここ以外、他には行きません。又父の大国主神やヤヘコトシロヌシの言葉に従います。この葦原中国は天つ神の御子の言葉通りに献上致しましょう」と申し上げた。
 
 そこでタケミカヅチは又出雲に帰って来て、大国主神に「お前の子のコトシロヌシ、タケミナカタの二柱の神は天つ神の御子の仰せに従いましょうと言った。処で、貴方の考えはどうであろうか」と言われた。
 これに答えて「我が子の、二柱の神の言う通りに私も従いましょう。この葦原中国は仰せのとおり献上致しましょう。只私の住む所として、天つ神の御子が皇位をお継ぎに為る立派な宮殿の様に地下の岩盤に太い柱を立て、千木を高々と聳え立たせた神殿をお作り下さるなら、私は遠い幽界に隠れましょう。又私の子の多くの神達もヤヘコトシロヌシが神の後に立ち先に立ってお仕えしたなら背く神は無いでしょう」とお答えに為った。

 そこで天つ神達は出雲国の多芸志の小浜に立派な御殿をお作りに為って、水門の神の孫の櫛八玉神(クシヤタマ)が料理人と為って御馳走を奉った。
 そして櫛八玉神が鵜に為って海の底に潜り、海底の粘土を咥え出て多くの器を作り、海藻の茎を刈って燧臼に作り、菰の茎で燧杵に作って、火を鑽り出して「この私が鑽り出した火は高天原では、カムムスヒの御祖の新しい宮殿の煤が長く垂れる迄炊き上げ、地下は地下の岩盤を焼き固め、延縄を長く伸ばして釣りをする海人が口の大きい尾や鰭の張った鱸をザワザワと引き寄せ上げて、割竹の台が撓む程に多くの魚の料理を奉ります」とお祝い申し上げた。

 そこでタケミカヅチは高天原に参上して、葦原中国を平定した状況を報告された。そこでアマテラスと高木神は、日嗣の御子のアメノオシホミミに対して「今、葦原中国を平定し終わったと申して来た。だから、先に委任した通りその国に天降って統治なさい」と仰せに為った。
 処が、その日嗣の御子のアメノオシホミミが答えて、「私が天降ろうとして支度をして居る間に、子が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ、以下ホノニニギ)と申します。この子を降すのが良いでしょう」と申し上げた。

 この御子はアメノオシホミミが高木神の娘の万幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)と結婚して生んだ子で、天火明命(アメノホアカリ)と、次にホノニニギの二柱である。
 こう云う訳でアメノオシホミミの申された通りに、ホノニニギに「この豊葦原の水穂国は、貴方が統治為さるべき国であると委任します。だから命令に従って天降りなさい」と仰せに為った。

 十四、天孫降臨

 ここでホノニニギが天降ろうとした時に、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神が居た。
 そこでアマテラス、高木神はアメノウズメに命じて「貴女はか弱い女だが、向き合う神に面と向かって気後れしない神です。そこで、貴女一人で行ってその神に『アマテラスの御子が天降りする道にこの様にして居るのは誰か』と尋ねなさい」と仰せに為った。

 そこで問われた神は「私は国つ神で、名は猿田毘古神(サルタビコ)である。この様にして居る訳は天つ神の御子が天降ると聞いたので道案内に仕え奉ろうとしてお迎えに参ったのです」と申し上げた。
 ここで、アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、伊斯許理度売命(イシコリドメ)、玉祖命(タマノオヤ)併せて五柱の部族の長を従えて天降りされた。

 その時、八尺の勾玉、鏡、草薙の剣、常世のオモヒカネ、手力男神(タヂカラヲ)、天石門別神(アメノイハトワケ)も添わせて、「この鏡は専ら我が御霊として、私を拝む様に奉りなさい。次にオモヒカネは私の祭りに関する事を取り扱って政治をしなさい」と仰せに為った。
 この二柱の神(アマテラスとオモヒカネ)は五十鈴宮にお祭りして居る神である。

 次に登由気神(トユケ)、この神は度会に祭られて居る神である。次ぎにアメノイハトワケ、又の名は櫛石窓神(クシイハマト)と言い、又の名は豊石窓神(トヨイハマト)と云う。この神は宮廷の門に居る神である。次にタヂカラヲは佐那那県に鎮座して居る。
 又、アメノコヤネは中臣連等の祖、フトダマは忌部首等の祖、アメノウズメは猿女君等の祖、イシコリドメは作鏡連等の祖、タマノオヤは玉祖連等の祖である。

 サテそこで、天つ神に命じられたホノニニギは、高天原の岩座を離れ、天に八重に棚引く雲を押し分け、堂々と道を掻き分け掻き分けて天の浮き橋に立ち、そこから筑紫の日向の、高千穂の峰に天降りされた。
 その時天忍日命(アメノオシヒ)、天津久米命(アマツクメ)の二人は立派な靫(うつぼ)を背負い、頭(あたま)椎(しい)の太刀を腰に着け、櫨(はぜ)弓(ゆみ)を持ち、真(ま)鹿児(かこ)矢(や)を持って、ホノニニギの先に立ってお仕えした。そのアメノオシヒは大伴連等の祖、アマツクメは久米直等の祖である。

 そこでホノニニギは「ここは朝鮮に向かい、笠沙の御崎に真っ直ぐに道が通り、朝日が差し、夕日が照る大変良い場所である」と仰せに為って、地下の岩盤に太い柱を立て、千木を高々と聳え立たせた宮殿をお作りに為り、住まわれた。
 そしてホノニニギはアメノウズメに「道案内に奉仕したサルタビコは、正体を明らかにした貴方が送りなさい。そして、その神の名は貴方が貰い受け、今後も奉仕しなさい」と仰せに為った。こうして猿女君らはサルタビコの男神の名を貰い受け、女を猿女君と呼ぶ事に為ったのである。

 そこでサルタビコが阿邪訶に居て、漁をして居た時、ひらぶ貝に手を噛まれて海に沈み溺れてしまった。そこで海の底に沈んで居た時の名は底どく御魂と言い、その泡が裂ける時の名はあわさく御魂と云う。
 ここにサルタビコを送って帰って来て、直ちに全ての大小の魚を追い集めて「お前達は天つ神の御子にお仕え申し上げるか」と問うた時、全ての魚たちは「お仕えしましょう」と答えた中で、なまこだけは、そうは答え無かった。そこでアメノウズメはなまこに「この口は答えない口」と言って、細い小刀でその口を裂いた。そこでなまこの口は今でも裂けて居るのである。

 こう云う事で代々、志摩国から初物の海産物が献上された時にはそれを猿女君らに賜るのである。

 蘇我馬子と聖徳太子は親子

 推古天皇の後継者として天皇に即位したのは舒明天皇である。しかし当初から推古天皇の後継者が舒明天皇だった訳では無い。アマテラスの太子であり乍ら天孫降臨し無かったアメノオシホミミと同様に推古天皇の皇太子としてその後継者とされながら遂に天皇に即位する事の無かった人物が居る。その人物とは聖徳太子である。
 尚聖徳太子と云う呼称は奈良時代中期以後に成立したものである。従って『記・紀』には聖徳太子の名は登場しない。『古事記』は上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』では厩戸皇子の他、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と記載されて居る。本書では混乱を避ける為通称の聖徳太子を使わせて頂いて居る。

 アメノオシホミミはこの聖徳太子がモデルと考えられる。聖徳太子は豊聡耳皇子(トヨトミミ)とも呼ばれて居たので、アメノオシホミミはその名から来て居るのだろう。
 聖徳太子が推古天皇の後継者として皇太子と為りながら、天皇に即位出来なかったのは推古天皇が長生きした為その在位が思いの他長期に為り、彼が推古天皇より早く死んでしまったからなのだが、天孫降臨は高天原での話なので死んだとする訳には行かず、子が出来たのでその子を降臨させる事にしたと云う話にしたと思われる。

 天安河でのウケヒでスサノオがアマテラスの持って居た玉を使って吹き出した息の中から生まれた五柱の男神は推古天皇の後継者として皇位を継承した、蘇我馬子の子達の事である事は前述したが、アメノオシホミミはその五柱の男神の一人で、しかも最初に生まれて居る。この事から聖徳太子は実は蘇我馬子の子だったのでは無いだろうか。

 近年、聖徳太子は架空の人物で実は存在しなかったと云う説が出され、色々議論もある様だが、聖徳太子の存在はアマテラスの太子として神話に確り反映されて居る。但し聖徳太子は、母は欽明天皇の娘の穴穂部間人皇女とされて居るが父は『日本書紀』に記述してある用明天皇では無く蘇我馬子だとすると、推古天皇以前に於いて、彼は実は皇族では無かったと云う事に為る。

 崇峻天皇五年(五九二)崇峻天皇が蘇我馬子によって弑逆され、次に天皇に即位する適当な人物が居なく為る。しかしそうかと言って直ぐには皇族では無い自分の子を崇峻天皇の後継者として天皇に即位させるのは余りにも露骨過ぎ、他の氏族の承認を得られ無かったのでは無いだろうか。
 その為聖徳太子が即位する迄の中継ぎとして推古天皇を即位させたものと思われる。聖徳太子は推古天皇の後に天皇に即位する予定で推古天皇の摂政として蘇我馬子と共に政治を担う傍ら、推古天皇後の自らの即位に備えて斑鳩宮や法隆寺を造営して居たのだろう。

 蘇我馬子は大々王

 飛鳥寺の由来を書き記した文献に『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』がある。 この文献は東大寺や大安寺等二十の縁起をまとめた醍醐寺所蔵の『諸寺縁起集』の中の一つであるが、この縁起の中に大々王なる正体不明の人物が登場する。この文献にも『暗号』が使われて居る。

 この縁起の中に用明天皇が馬屋門皇子と大々王に法師寺を建てるべき場所を見定める様命令し、その後、聡耳皇子と馬古大臣(蘇我馬子)が共に寺を建てる場所を見定めたと記載されて居る。
 馬屋門皇子と聡耳皇子は同一人物で共に聖徳太子の事である。同一人物をあえて別々の名で記す事によって、大々王と馬古大臣が、名が異なって居ても同一人物だと『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』の作者は暗示して居るのである。
 この様な一人の人物を、別名を使って恰も複数の人物に見せ賭けるやり方は『日本書紀』とも共通して居る。作者は蘇我馬子の正体を隠しつつ、この様な『暗号』を使って何とか歴史の真実を後世に残そうと苦心して居るのである。

 更にこの縁起の中で大々王は聡耳皇子を我が子だとも言って居る。蘇我馬子と聖徳太子は親子だと言って居るのである。これは神話の内容とも見事に一致して居る。
 『縁起』の内容から推古朝において蘇我馬子は大王より上の大々王と称されて居たと思われるが、この事は馬子の墓、牧野古墳の規模からも頷ける筈である。

 『日出ずる処の天子』は蘇我馬子

 『隋書』倭国伝の中で推古天皇八年(六〇〇)、倭国王が隋に使者を送った事が記されて居る。『日本書紀』には記されていないがこれが第一回目の遣隋使である。この時、隋の高祖文帝は倭国の使者を謁見して居るがこの時倭国の使者は倭王の姓を阿毎、字は多利思比狐(タリシヒコ)と言い、阿輩{き}弥と号して居ると述べて居る。又王の妻は{き}弥と言い、太子は利歌弥多弗利と号して居るとも述べて居る。

 倭王の名はタリシヒコと為って居るが名前に男性を表すヒコと付いて居る事と妻が存在する事から倭王は男性と云う事に為るが、この時代の日本の天皇は女帝の推古天皇なのでこれでは『隋書』と『日本書紀』は大きく食い違う事に為る。女帝に妻が存在する訳が無いのである。
 これをどう解釈するかは古代史研究の難問の一つに為って居て、様々な説があるのだが主な説としては次の様なものがある。

 一、 女帝だと未開の国と思われるから男帝と言い換えた。
 二、 タリシヒコは大和では無く九州にあった国の王である。
 三、 タリシヒコは聖徳太子の事である。
 四、 タリシヒコは蘇我馬子の事である。

 この様に様々な説があり、一般的には三の聖徳太子の事であると云うのが通説とされて居るが、聖徳太子は蘇我馬子の子である事、蘇我馬子が大々王と称されて居たらしい事から、倭王のタリシヒコは蘇我馬子と考えるのが妥当である。太子の利歌弥多弗利は蘇我蝦夷か聖徳太子の事だろう。

 更に推古天皇十五年(六〇七)、小野妹子を遣使として隋の煬帝に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや云々」と云う大変有名な出だしで始まる。
倭国の王は当時東アジアの超大国であった隋の王と対等だと言わんばかりの何とも居丈高な国書を送り煬帝を激怒させたが、この書の中の「日出ずる処の天子」を多くの歴史家は聖徳太子として紹介して居るが、天子と云うのは帝王の事であるからこれも蘇我馬子の事と考えられる。

 如何にも傍若無人な蘇我馬子らしい内容の国書で、「和を持って尊しと為す」の聖徳太子ではとてもこの様な国書は書け無かっただろう。最もこの国書に対する煬帝からの返書もかなり強烈なものだったらしく、小野妹子は国書を帰国の途中で百済人に盗まれたと言い訳し、「天子」に渡す事は無かった。
推古天皇や聖徳太子に渡すのなら兎も角、渡す相手が蘇我馬子では怖くて渡せ無かったのだろう。

 推古天皇の死後、田村皇子が舒明天皇として即位するが彼は蘇我馬子の子なので、舒明天皇は皇統が蘇我氏に切り替わって最初の天皇として即位したと言う事に為る。
 この蘇我氏に取っては記念すべき天皇即位の話が神話の中で舒明天皇がモデルのホノニニギの天孫降臨神話として描かれて居るのである。ホノニニギが天孫降臨して以降の話は次ぎの様な物語と為って居る。

 十五、木花之佐久夜毘売

 サテ、ホノニニギは笠沙の岬で美しい女に出会った。そこで「誰の娘だ」とお尋ねに為ると、女は「オオヤマツの娘、名は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、又の名は木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)と言います」とお答えした。
そこで「お前の兄弟は居るか」と尋ねられると、「姉に石長比売(イワナガヒメ)が居ます」とお答えした。

 そこで「私は貴女と結婚したいと思うがどうであろうか」と仰せに為ると「私はお答え出来ません。我が父のオオヤマツミがお答え申すでしょう」とお答えした。そこでその父のオオヤマツミに結婚を乞う為に使いを遣わした処オオヤマツミは大変喜び、姉のイワナガヒメを添えて多くの台に乗せた献上物を持たせて奉った。
 処がその姉は大変醜くかったので、恐れを為し親元に送り返し、只その妹のコノハナノサクヤビメだけを留めて、一夜の契りをお結びに為った。

 そこでオオヤマツミはイワナガヒメが返されたのを大変恥じて、
「我が娘を二人一緒に奉ったのはイワナガヒメを遣わせば、天つ神の御子の命は雪が降り、風が吹いても常に石の様に何時までも変わら無いでしょう。又コノハナノサクヤビメを遣わせば、木の花が咲き誇るが如く栄える様にと願い奉ったのです。
 しかしイワナガヒメを送り返し、コノハナノサクヤビメを留められたので天つ神の御子の寿命は木の花の様に儚く為られるでしょう」
と言った。この様な理由で今に至るまで天皇達のお命は長く無いのである。

 暫くしてコノハナノサクヤビメがホノニニギの元に遣って来て「私は貴方の子どもを孕みました。今出産の時に為りました。この天つ神の御子は私だけで産む訳にはいきません。だから打明けるのです」と申し上げた。
 そこでホノニニギは「コノハナノサクヤビメは只一夜の契りで妊娠したと云うのか。これは私の子ではあるまい。きっと国つ神の子に違いない」と仰せに為った。これに答えて「私が孕んだ子が、もし国つ神の子ならば産む時に無事に産まれ無いでしょう。もし天つ神の子ならば無事に産まれるでしょう」と言い、直ちに戸の無い大きな御殿を作り、その中に入り、土で塗り塞ぎ、子を産む時に火をその御殿に点けて子をお産みに為った。

 その火が盛んに燃えて居る時に産んだ子の名は火照命(ホデリ)、これは隼人阿多君の祖である。次に産んだ子の名は火須勢理命(ホスセリ)、次に産んだ子の名は火遠理命(ホヲリ)、又の名は天津日高日子穂穂手見命(アマツヒコヒコホホデミ)の三柱である。

 十六、山幸彦と海幸彦

 サテ、ホデリは海佐知毘古(海幸彦)として大小、色々な魚を捕り、ホヲリは山佐知毘古(山幸彦)として大小、色々な獣を捕って居た。そこでホヲリはその兄のホデリに「夫々の獲物を捕る道具を取り替えて使ってみよう」と言って、三回お願いしたが許され無かった。しかし遂にやっとのことで、取り替える事が出来た。
 そこでホヲリは魚釣りの道具で魚を釣って見たが一匹も釣る事が出来ず、その釣り針を海の中に失ってしまった。

 そこで、その兄のホデリがその釣り針を返す様に「山の獲物も海の獲物も夫々捕る道具は自分の道具が好い。夫々返そうではないか」と言った時に、弟のホヲリが「兄の釣り針は魚釣りをしても一匹も釣れず、遂には海に失ってしまいました」とお答えした。しかし兄は釣り針の返還を強く求めた。そこで弟は腰に着けていた十拳の剣を潰して五百の釣り針を作ったが兄は受け取ら無かった。そこで千の釣り針を作ったが兄は受け取らず「矢張り元の釣り針を返せ」と言った。
 そこで弟が泣き悲しんで海辺に居た時、塩椎神(シオツチ)が遣って来て「どうして虚空津日高(ソラツヒコ)は泣き悲しんで居るのか」と問うと、「私と兄と釣り針を交換し、兄の釣り針を失ってしまったのです。そこで釣り針を返す様求められた時に多くの釣り針を作り弁償しようとしたのですが受け取らず『矢張り元の釣り針を返せ』と言うので、泣き悲しんで居るのです」とお答えに為った。

 そこでシオツチは「私に好い考えがある」と言って、直ぐに竹を隙間無く編んだ小船を作った。そしてその船にホヲリを乗せて「私がその船を押し流しますので、暫くそのまま進んで下さい。好い潮の道があるでしょう。そしてその潮に乗って進むと、魚の鱗の様に作られた宮殿に着きます。それがワタツミの宮殿です。その宮殿の門に至った為らば、傍の泉の上に神聖な桂の木があります。そこでその木の上に座って居ると、その神の娘が貴方を見て、取り計らって呉れるでしょう」と言った。

 そこで教えられた通りに少し進むと全くシオツチの言った通りであったので、直ぐにその桂の木に登り、座って居た。すると、ワタツミの娘の豊玉比売(トヨタマビメ)の召使いが美しい器を持って来て水を汲もうとした時、泉に光るものがあった。上を見てみると美しい男が居た。
 大変不思議に思って居るとホヲリは召使いを見て水が欲しいと仰せに為った。直ぐに召使いは水を汲んで器に入れ献上した。そこで水を飲まずに首に巻いて居た玉を外し、口に含んでその器に吐き出された。するとその玉は器に付き、召使いはその玉を離せ無かったので玉が付いたままトヨタマビメに奉った。

 そこでトヨタマビメはその玉を見て、召使いに「もしかしてだれか門の外に居るのですか」とお尋ねに為ると、召使いは「泉の上の、桂の木の上に人が居られます。大変美しい男性です。我が宮の王にも勝る大変立派な人です。その人が水を所望するので、献上した処水を飲まずにこの玉を吐き入れられたのです。この玉は離す事が出来ません。そこで玉を入れたままにして持って来て献上したのです」とお答えした。

 そこでトヨタマビメは不思議な事だと思い、出てみるや、直ぐに一目惚れして、心を通じ合わされた。そしてその父に「我が宮の門の処に立派な人が居ます」と仰せに為った。そこでワタツミが自ら出て、その男を見て「この人は天津日高の御子で虚空津日高と云う方である」と言って、直ぐに宮殿の中に連れて入った。
 そして海驢の皮を敷物として幾重にも敷き、又その上に絹を幾重にも敷いて、その上にホヲリを座らせて、台の上に様々なものを乗せた御馳走を差し上げ、直ぐに娘のトヨタマビメと結婚させた。そして三年間その国にお住みに為った。

 そこでホヲリはその最初の事を思い出して大きな溜息をされた。そこでトヨタマビメはその溜息を聞き、父に「三年お住みに為って居ますが、何時もは溜息を着く事が無いのに今夜は大きな溜息を着かれました。何か訳があるのでしょうか」と申し上げた。
 するとその父の大神はその婿に「今朝我が娘が語るのには「三年お住みに為って居ますが、何時もは溜息を着く事が無いのに今夜は大きな溜息を着かれました。」と言って居りました。何か訳があるのでしょうか。又貴方がここに来られた理由は何でしょうか」とお尋ねに為った。

 そこでその大神に、兄が釣り針を失った事を責め立てた様子を詳しく語った。 そこでワタツミは大小全ての魚を呼び集め、「この中に釣り針を取った魚が居るか」とお尋ねに為った。すると多くの魚たちが「この頃、赤鯛が喉に何か刺さって、物を食べる事が出来ないと悩んで居りました。きっとこれを取ったのでしょう」と申し上げた。
 そこで赤鯛の喉を調べてみると釣り針があった。直ぐに取り出して洗い清め、ホヲリに奉った時に、ワタツミが教えて言うには、「この釣り針を貴方の兄に返す時、『この釣り針は心が塞ぐ釣り針、気持ちが落ち着か無い釣り針、貧乏に成る釣り針、愚かに為る釣り針』と唱えて、後ろ向きに渡しなさい。そして兄が高い処に田を作った為らば、貴女は下に田を作りなさい。そうした為らば、私が水を支配して居ますから三年で必ず兄は貧しく為るでしょう。
 もしそう為った事を恨んで攻めて来たなら、塩盈珠(シオミツタマ)を出して溺れさせ、もし苦しんで許しを乞うたなら塩乾珠(シホフルタマ)を出して生かして遣り、こうして悩まし苦しめてやりなさい」と言われて、塩盈珠と塩乾珠の併せて二つを授けた。

 そして直ぐに、全ての鰐鮫を呼び集めて「今、天津日高の御子の虚空津日高が上の国へ出発しようとして居る。誰が幾日でお送りして帰って来る事が出来るか」とお尋ねに為った。そこで夫々が身の丈のままに日を限って申し上げた中で、一尋の鰐が「私は一日で送って帰って来ることが出来ます」と言った。そこでこの一尋の鰐に「それではお前がお送り申し上げなさい。但し海の中を渡る時、恐い思いをさせてはいけません」と告げて、直ぐにその鰐の頸にホヲリを乗せて送り出した。

 そこで約束通り鰐鮫は一日の内にお送り申し上げた。その鰐を返そうとする時、佩いていた細い小刀を外してその頸に付けて返した。そこでその一尋の鰐は今でも佐比持神(サヒモチ)と云うのである。こう云う訳でホヲリは海神が教えた通りにその釣り針をお返しに為った。そこでそれから後、兄は段々貧しく為り、更に荒々しい心を起こして攻めて来た。
 攻めて来た時は塩盈珠を出して溺れさせ、助けを乞うて来たならば塩乾珠を出して救い、こうして悩まし苦しめた時に、兄は頭を下げて「私は今より後は、貴方の昼夜の守護人と為ってお仕えしましょう」と言った。そこで今に至るまでホデリの子孫の隼人は、その溺れた時の様々な仕草を演じて天皇にお仕えして居るのである。

 一四、鵜葺草葺不合命の誕生

 その後、海神の娘のトヨタマビメ自ら遣って来て「私は既に身籠って居ます。丁度今、出産の時に為りました。天つ神の御子は海で産むべきでは無いと思い、この様に遣って来たのです」と言った。そこで直ぐに海辺の渚に,鵜の羽を葺草にして産屋を作った。しかしその産屋に未だ葺草がふき終わら無いのに、お腹の子が産まれそうで我慢出来なくなった。そこで産屋にお入りに為った。

 そこで正に産もうとする時に、ホヲリに「全ての他国の人は産む時には元の国の形に為って産みます。今私は元の身体に為って産もうと思います。お願いですから私を見中井で下さい」と言った。そこでホヲリは不思議な事を言うものだと思い、正に子どもを産もうとする処を密かに覗くと八尋の鰐と為って腹這いに為ってノタウチ回って居た。ホヲリはこれを見て驚き、恐れ,逃げて行った。

 そこで、トヨタマビメは覗き見られた事を知り、恥ずかしいとお思いに為って、直ぐに産まれた子を置いて「私は海の道を通じて、ここに通おうと思って居ました。しかし私の姿を覗き見られてしまいました。これはとても恥ずかしい事です」と言われて、直ぐに海神の国とこの国の境を塞いで海神の宮に帰って行った。そこでこの産まれた御子を名付けて天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズ)と云う。

 しかしその後、覗き見られたのを恨みはしたが、夫が恋しいと云う気持ちに耐えられず、その御子を養育すると云う縁で、その妹の玉依毘売(タマヨリビメ)に託して歌を献上された。
 
 ♪ 紅玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
 (赤い玉はその緒まで美しく光るが、それにも増して白玉の様な貴方の姿は貴く美しい事でした)

 と歌われた。そこでホヲリは答えて歌われた。

  ♪ 沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世の事毎に 
 (鴨が寄り着く島で、私が共寝をした妻を忘れはしないだろう、私の生きて居る限り)

 と歌われた。そこで日子穂穂手見命(ヒコホホデミ)は高千穂の宮に五百八十年間お出でに為った。御陵は高千穂の山の西にある。

 このウガヤフキアヘズが、その叔母のタマヨリビメを娶って産まれた子は五瀬命(イツセ)、次に稲氷命(イナヒ)、次に御毛沼命(ミケヌ)、次に若御毛沼命(ワカミケヌ)、又の名は豊御毛沼命(トヨミケヌ)、又の名は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコ、神武天皇)の四柱である。
 そしてミケヌは波の上を踏んで常世の国に渡り、イナヒは亡き母の国の海原にお入りに為った。

 ホノニニギは笠沙の御崎でコノハナノサクヤビメと云う美しい女性に出会う。このコノハナノサクヤビメは舒明天皇の皇后に為った宝皇女(皇極天皇)の事と考えられる。その後、ホノニニギはコノハナノサクヤビメと結ばれる。そして直ぐにコノハナノサクヤビメは子を孕むのだがここでホノニニギは奇妙な事を言い出す。

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 コノハナノサクヤビメは只一夜の契りで妊娠したと云うのか。これは私の子ではあるまい。きっと国つ神の子に違いない。
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 コノハナノサクヤビメはホノニニギと結ばれる前に国つ神と男女関係を持って居たと云うのだ。皇極天皇は舒明天皇に嫁ぐ前に高向王に嫁いで居たと云う『日本書紀』の記述を思い出して欲しい。この国つ神と云うのはスサノオや大国主神に繋がる神の事である。皇極天皇の前夫の高向王(蘇我入鹿)の存在がここに反映されて居る。コノハナノサクヤビメ(皇極天皇)の孕んだ子は国つ神(高向王)の子かも知れ無いと匂わせて居るのである。

 その後、コノハナノサクヤビメは皇極天皇と同様、二男一女の三人の子を生む。ホスセリと言う女の子とホデリ(海幸彦)、ホヲリ(山幸彦)と云う例によって仲の悪い兄弟だ。ここで有名な海幸彦と山幸彦の神話が語られる。
 兄に無理難題を突き着けられ、海神の神の宮に行った弟のホヲリが海神から授かった玉を使って兄のホデリを屈服させ、ホノニニギの後継者と為り海神の娘、トヨタマビメと結ばれると云う神話だが、この神話は前述したが大国主神の根の国訪問同様、天武天皇の体験を元にして創られた神話である。

 従ってホヲリは天武天皇、トヨタマビメは持統天皇がモデルと考えられる。そして二人の間に一人の子が生まれる。ウガヤフキアヘズだ。ウガヤフキアヘズは天武天皇と持統天皇の間の子、草壁皇子がモデルと云う事に為る。
 草壁皇子の妃は母の持統天皇の異母妹、阿閉皇女(後の元明天皇)であるが、ウガヤフキアヘズが娶るのも草壁皇子同様、母のトヨタマビメの妹、タマヨリビメと為って居る。
 ウガヤフキアヘズとタマヨリビメの間に生まれたのが神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)、即ち初代天皇の神武天皇である。次にホノニニギからウガヤフキアヘズ迄と舒明天皇から草壁皇子迄の間の系図を較べてみよう。    

 この二つの系図の人間関係とその皇統の流れは大変好く似て居る。この事から天孫降臨の神話とそれに続く神話は聖徳太子、舒明天皇から草壁皇子迄の出来事と人間関係を基にして作られた神話である事が判るであろう。
 これまでの説明で神話は推古天皇から天武天皇迄の人間関係と出来事を元にして書かれたものであった事がお判り頂けた筈である。言い方を替えれば日本神話とは日本の支配者と為った天武天皇と蘇我氏の真の由来を書いたものだったのである。

 『日本書紀』は皇統を改竄し万世一系のものとした為、真実の歴史は書き残される事は無かった。しかし天武天皇が書いた神話は歴史では無いが為に反ってそこには真実が残されて居たのである。

 その16につづく




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