2018年06月09日
古代からのお話し その16
古代からのお話し その16
第八章 高松塚古墳の被葬者の謎
オケ、ヲケの物語
今までの説明で天武天皇が蘇我入鹿の子であり、天智天皇が蘇我馬子の孫、即ち蘇我入鹿の従兄弟である事を論証して来た。しかし余りにも通説と異なる結論に未だ信じ難いと思われる読者は少なく無いのでは無いだろうか。
その様な読者の為にここでは別の角度からこの事を証明してみたい。先に『古事記』の説話の多くが天武天皇自身の体験、見聞、周辺の人間関係を利用して書かれたものだと云う事を解説した筈である。これ迄の論証で天武天皇は蘇我入鹿の子であり、天智天皇が蘇我入鹿の従兄弟であるらしいと云う事も判明した。
ではこの様な人間関係で書かれた説話が『古事記』の中に存在するだろうか。 その様な説話が『古事記』の中に存在するとすれば、その事によって筆者のこれまでの説明を裏付ける事が出来る筈である。もし読者が『古事記』をお持ちなら、読むのは一時止めて『古事記』の中にその様な話があるか捜して貰いたい。系譜等が記載されて居たならそれを参考にすれば簡単に見つける事が出来る筈である。果たしてその様な物語が『古事記』の中に存在するだろうか。
実は、その様な物語が『古事記』の中に存在するのである。それは『古事記』の最後に登場する仁賢天皇(意{ケ}、オケ)、顕宗天皇(袁{ケ}、ヲケ)の物語である。
この物語は皇統譜で見ると、丁度履中天皇から武烈天皇の間の物語と為る。 処がこの間の天皇はその前後の応神、仁徳、継体、欽明天皇とされる陵墓が二百メートル以上の巨大な前方後円墳なのに、小型の古墳ばかりが多く、安康天皇に至っては古墳では無く単なる山の一部ではないかとさえ言われて居る程だ。
又、雄略天皇陵も前方後円墳と為って居るが、形が歪で円墳にその近くにあった方墳を後世に組み合わせて作ったものでは無いかと見られて居る。
履中天皇陵は全長三六〇メートルの日本で三番目の巨大古墳だが、考古学的には父とされる仁徳天皇陵より古い古墳と言われて居て履中天皇陵と云う比定も宛に為ら無い。
『日本書紀』に書き記された天皇の事跡に付いても、系譜だけ、又系譜と説話だけの天皇も多くその存在感が乏しい天皇が多いのが特徴で、この様な事から従来から存在のかなり疑わしい天皇が多いと指摘されて居る。
更に、オケ、ヲケの話自体も、登場人物の名前がオケ、ヲケの兄弟や雄略天皇の兄でシロヒコ、クロヒコの兄弟の様に語呂合わせの様な名前だったり、清寧天皇の様に皇后や御子も無く、髪の毛が白いから白髪武広国押稚日本根子尊と名付けられたりと殆ど実話であったとは思え無い。
登場人物の多くが存在感の希薄な架空の人物と考えられるので、この話も実話では無いと考えて差し支え無いだろう。
次ぎにこの話を紹介して置こう。話の舞台は近江の蚊屋野から始まる。この蚊屋野は、天智天皇が即位後に大海人皇子と共に狩りをし、例の額田王の「あかねさす・・・・」の歌が歌われた蒲生とほぼ同じ場所にある。
近江の佐々紀山君の祖である、名は韓?(カラブクロ)と云う者が大長谷王(後の雄略天皇)に、「近江の久多綿の蚊屋野には、沢山猪や鹿が居ます。その足は茂った林の様で、頭に突き出て居る角は、枯れた松の様です」と申し上げた。
そこで、大長谷王は市辺押歯王(オケ、ヲケの父)を連れて近江にお出かけに為り、その野に着くと、夫々別々に仮宮を作ってお泊まりに為った。そして翌朝、未だ日が昇ら無い宇ちに、市辺押歯王は何時も通りの様子で、馬に乗ったままで大長谷王の仮宮の傍に遣って来て来られて、その大長谷王子の伴の者に、「未だ目を覚まされ無いのか。早く申し上げよ。夜は既に明けた。狩り場に出かけ様と」と言って、直ぐに馬を進めて出て行かれた。
そこでその大長谷王の傍に仕えている者たちが、「気に入ら無い物言いをする王子です。用心すべきでしょう。武装為さって下さい」と申し上げた。そこで衣服の中に鎧を着込み弓矢を携えて馬に乗って出て行き、忽ち市辺押歯王に馬を並べると、矢を抜いてその市辺押歯王を射落とし、その体を斬って飼葉桶に入れ、そのまま土に埋めた。
そこで市辺押歯王の王子たち、オケ王とヲケ王の二柱はこの変事を聞いて直ぐに逃げ去られた。そして、山代の苅羽井に着かれて乾飯を召し上がって居た時、顔に入れ墨をした老人が来てその乾飯を奪った。
そこでその二柱の王が言うには、「乾飯は惜しく無い。しかしお前は誰だ」と仰せに為ると、その老人は「私は山代の豚飼いだ」と答えた。そして、玖須婆の河を逃げ渡って播磨国に行き、その国の住人で名は志自牟と云う者の家に入って、身分を隠し、馬飼い、牛飼いとして使われて居た。
・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・
大長谷王の御子の白髪大倭根子命(シラカノオホヤマトネコ)は、磐余の甕栗宮において、天下を治められた。この天皇には皇后は居らず、又御子もいなかった。そこで、天皇の御名代として白髪部を定められた。そして、天皇が亡く為られた後、天下を治めるべき王が居なくなった。そこで皇位を受け継ぐ王を探すと、市辺押歯王の妹、忍海郎女、又の名は飯豊王が、葛城の忍海の高木の角刺宮に居られた。
さて、山部連小楯を播磨国の長官に任じた時、小楯はその国の人で名は志自牟と云う者の新築祝いの宴に参加した。そこで酒盛りをして、宴もたけなわと為った頃、順番に見な舞を舞う事に為った。そして、火を焚く役の少年が二人、竈の傍に居たので、その少年達にも舞を舞わせた。
その少年の一人が、「兄さんが先に舞って下さい」と言うと、その兄は、「弟が先に舞い為さい」と言った。この様に譲り合って居ると、そこに集まって居た人達は、その譲り合う様子を見て笑った。そこで到頭兄が舞い終えて、次に弟が舞う番となり歌った歌は
物部の わが夫子が 武人である我が君が
取り佩ける 大刀の手上に 腰に帯びている太刀の柄には
丹画き着け 赤い色を塗りつけ
その緒は 赤幡を載せ 緒には赤い布をとりつけ
赤幡を 立てて見れば 天子の赤い旗を立てて敵の方を見やると
い隠る 山の三尾の 敵の隠れている山の峰の
竹をかき苅り 竹を根元から刈り
末押しなびかすなす その先を地面に敷きなびかすように
八紘の琴を 調べたるごと 八紘琴の調子を整えて演奏するように
天の下治めたまひし 見事に天下をお治めになった
伊耶本和気の 天皇の御子 イザホワケ天皇の御子
市辺の 押歯王の 市辺の押歯王の
奴末 私は子であるぞ
と歌った。
そこで、小楯連はこれを聞いて驚き、床から転げ落ちた。そしてその部屋の人たちを追い出して、その二人の王子を左右の膝の上に抱き寄せ、泣き悲しんだ。直ぐに人民を集めて仮宮殿を作り、その仮宮殿に二人をお住ませになり、早馬の使いを大和へ走らせた。その叔母の飯豊王はこの知らせを聞いて喜び、角刺宮に二人を呼び寄せられた。
・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・
二人の王子達は、夫々天皇に為る事を譲り合われた。オケ命が、その弟のヲケ命に、「播磨国の志自牟の家に住んで居た時、もし貴方が名を明かさ無かったら、こうして天下を治める君主には為って居なかったでしょう。これは貴方の手柄です。そこで、私は兄ではあるけれども、矢張り貴方が先ず天下を治めなさい」と仰せに為り、堅くお譲りに為った。その為辞退する事が出来ずに弟のヲケ命が先ず天下を治める事に為った。
顕宗天皇がその父の市辺押歯王の遺骨を探された時、近江の国に居る賤しい老婆が遣って来て「お父上のお骨を埋めた処は、私だけが知って居ます。又、その特徴のある歯の形で判るでしょう」と申し上げた。そこで、人々を使って土を掘り起こしその遺骨を探した。そしてその遺骨を見着けて、蚊屋野の東の山にお墓を作って葬り、そして先の韓{袋}の子供達を墓守りとした。
・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・
天皇は,その父王を殺した大長谷天皇を深く恨み、その霊魂に報復をしようとお思いに為った。
そこで、大長谷天皇の御陵を壊そうと考え、人を遣わそうとした時、その同母兄オケノ命が申し挙げるには「この御陵を破壊するのに他人を遣わすべきではありません。私自身が行って天皇のお考えの様に破壊して参りましょう」と申し上げた。そこで天皇は「それでは貴方のお言葉の通りにお行きなさい」と仰せになった。
こう云う訳でオケノ命は自ら行かれて、その御陵の傍らを少し掘って皇居に帰り、天皇に「もう掘り壊しました」と申し上げた。それで天皇はオケノ命が早くお帰りに為った事を不思議に思われて、「どんな風に破壊為さったのですか」と仰せに為った。オケノ命は答えて「その御陵の傍らの土を少し掘りました」と申し上げられた。
天皇は「父王の仇を討とうと思ったら、必ずその陵をスッカリ破壊する筈であるのに、どうして少しだけ掘ったのですか」と仰せに為った。
オケノ命はお答えして、「その様にした理由はこの様な事です。父君の恨みをその霊魂に報復しようと思うのは実に最もな事です。けれども、あの大長谷天皇は、父の怨敵ではあるけれど、翻って考えますと私達の従父であり、又、天下をお治めに為った天皇です。
ここで今、単に父の仇であると云う気持ちにのみ囚われて、天下をお治めに為った天皇の御陵をスッカリ破壊してしまったなら、後世の人が必ず非難するでしょう。只父の仇だけは討た無ければ為りません。そこで、その陵の傍らを少しだけ掘ったのです。最早この様な辱めで、後の世に私達の報復の志を示すのに十分でしょう」と申し上げた。この様に申し上げられると、天皇は「これは大変道理に叶って居ます。貴方のお言葉の通りで結構です」と仰せられた。
何時の時代でもそうだが成功した人間は自分の栄光の歴史を後世に残したいと願うものである。その時中心に為る話は成功してからの話では無い。例えば事業に成功し、一代で大会社の社長に為った人物が人々の前で話したがるのは、事業に成功してからの裕福な生活の自慢話では無い。必ず成功する迄の苦労話と決まって居る。天武天皇も同じ気持ちを持って居た筈である。
しかし、ここでもし自らの歴史を直接に書き残せ無い事情があったとしたらどうであろうか。自分の話を何とか後世に残す為に、別の時代に於ける他の人物の話しに置き換えてでも残そうと考えたとしても不思議では無い。
このオケ命とヲケ命の父の市辺押歯王がその従兄弟の大長谷王に殺害された事に始まり、様々な苦難の後、天皇に即位するこの二人の王子の苦難と栄光の物語こそ、天武天皇の父の蘇我入鹿が乙巳の変に於いて殺害されて以降の体験に基づいて作られた説話と考えられる。オケ命とヲケ命の周りの人間関係と天武天皇の主な人間関係を比較してみよう。
この二つの系譜は天武天皇が顕宗天皇と仁賢天皇の二人の天皇に為って居る事を除けばほぼ重なり合って居る。雄略天皇以後の皇位継承の順序も天智天皇以後のそれとほぼ同一である。
仁徳天皇から武烈天皇までの系譜は蘇我氏の系譜を基にして作られたものと考えられ、そこに登場する皇統譜も説話も架空のものなのだろう。
皇統譜のこの部分は中国の歴史書に登場する所謂「倭の五王」(履中天皇から雄略天皇とするのが有力な説である)に相当する部分と考えられて居るが、中国側の記述と「日本書紀」の記述が殆ど符合し無いのも皇統譜が架空のものである事を裏付けて居る。
この説話の主人公のオケ命とヲケ命は二人の王子に為って居るがこの二つの系譜の比較から判る様に天武天皇を二人の皇子としたものと思われる。この二人の皇子が天武天皇をモデルにして居る事は志自牟の家で弟が舞を舞った時に歌った歌から判る。
この歌の出だしでヲケ命は「物部の 我が夫子が 取り佩ける 大刀の手上に 丹画き着け その緒は 赤幡を載せ 赤幡を 立てて見れば」と歌っている。この歌は壬申の乱に於ける大海人皇子自身の事をヲケ命に託して歌ったものだろう。
自分の太刀の柄には、赤い色を塗り着け、緒には赤い布を取り付け、赤い旗を立てたと歌って居るのだが、この赤い色と云うのは壬申の乱に於いて大海人軍が近江朝廷軍と区別する為に付けた印の色である。『日本書紀』には近江朝廷軍と区別する為に赤い布を衣服の上に付けさせたと記されて居る。
更にオケ命とヲケ命の父が暗殺されたと聞いて直ちに逃げたと云う話しから大海人皇子は事件当時、飛鳥に居たらしい事が判る。恐らく甘橿丘の蘇我入鹿の館に居たのでは無いだろうか。
彼は危急を聞いて直ぐに飛鳥から脱出したのだろう。壬申の乱の時もそうであるが素早い決断と逃げ足の早さがこの人の真骨頂である。そして何処かの豪族の元に何年か潜伏した後、飛鳥に復帰したと思われる。その時、無事を喜ぶ者、報復を恐れる者、飛鳥は大騒ぎに為った事だろう。
尚出雲大社では国造が死去すると、その嗣子は直ちに国造の館を出て一目散に熊野大社に向かう。そこで国造を継承する為の儀式(火継式)が行われ、その間に前国造の遺骸が運び出される。その後神事を終えた新国造が帰館し、氏子達が新国造の誕生を覆いに祝うと云う。
蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の真実は出雲大社の神事として今に伝えられて居たのである。
雄略天皇のモデルは天智天皇
又雄略天皇のモデルは天智天皇と考えられる。雄略天皇は「大悪天皇」と呼ばれたほど猜疑心が深く、又残虐な天皇として描かれて居る。シロヒコ、クロヒコと云う兄を言い掛としか思え無い様な些細な理由で殺害したり、眉輪王と云う幼い皇子や自分の后の父、葛城円大臣を殺害したり、又新羅を攻めて敗北したり、高句麗に攻められて一時滅亡した百済の復興を支援したりと、これら雄略天皇の事跡は天智天皇の事跡と実に好く似て居る。
天智天皇は乙巳の変の直後、吉野へ出家して居た異母兄の古人大兄皇子を殺害し、孝徳天皇の崩御後はその皇子の有馬皇子を罠に嵌めて未だ十九歳の若さで殺害して居る。
更に天智天皇の二人の后の父で乙巳の変の同志だった右大臣の蘇我倉山田石川麻呂を謀反の疑いで死に追い遣っても居る。又百済が唐と新羅の連合軍に敗れて滅亡し、その復興の為大軍を朝鮮半島に派遣したものの白村江の戦いで敗北したのは有名だ。
雄略天皇はその人物像、事跡がソックリな事からも天智天皇がモデルに為って居ると見て好い。万葉集は雄略天皇の歌から始まって居るので、雄略天皇の存在を架空であると迄断定する事は出来ないが、その事跡は天智天皇の事跡を基にして書かれたものである。
サテ、話の主人公のオケ、ヲケの兄弟であるが、この二人が何でも譲り合う大変仲の良い兄弟として描かれて居るのは何とも微笑ましいが天武天皇の心の内を窺わせる様で実に面白い。天武天皇は天智天皇の事を父親の仇として当然憎く思って居たであろうが、一方この二人は同じ母を持つこの世で唯一の血の繋がった兄弟として心の底には熱いものが流れて居たのでは無いだろうか。
それだけに血を分けた兄弟でありながら、天智天皇が天武天皇の父を殺害し、又天武天皇が天智天皇の子を死に追い遣った様に、何もかも奪い合う険悪な兄弟関係であった事に無念の思いがあったに違い無い。この無念の思いがオケ、ヲケの兄弟に反映されて居るので無いだろうか。
又この思いは天武天皇八年(六八〇)五月五日に吉野の宮で皇后、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、河嶋皇子(天智天皇の皇子)、芝基皇子(同)に兄弟が助け合い争わ無いことを誓わせた、所謂「吉野の盟約」に繋がって居ると筆者は思うのだがどうであろうか。
清寧天皇の後、先ず弟のヲケの皇子が顕宗天皇として即位し、次に兄のオケの皇子が仁賢天皇として即位する。仁賢天皇は雄略天皇の皇女の春日大娘皇女を后とし武烈天皇が生まれるが、ここで仁徳天皇から続く皇統が断絶する。
ここで皇統は大きく切り替わり、越前から来た応神天皇の五代目の子孫とされる継体天皇にと話が繋がって行く。
市辺押歯王の墓
この話では先ず弟のオケの皇子が顕宗天皇として即位する訳だが、この話の後半は大変興味深い話と為って居る。顕宗天皇は即位すると雄略天皇に殺され、亡骸を馬の飼葉桶に放り込まれ、そのまま土に埋まられると云う粗末な形で埋葬されて居た父の市辺押歯王の遺骨を探し出し新たに墓を作り埋葬したと云うのである。
オケ、ヲケの話が天武天皇の体験を元にして書かれたものなら、天武天皇は即位した後、乙巳の変に於いて中大兄皇子達に暗殺され、何処かに埋葬されて居た父の蘇我入鹿の遺骸を探し出し丁寧に埋葬し直した事に為る。
恐らく父の蘇我入鹿だけでは無く祖父の蝦夷の墓も作り埋葬し直したと考えられる。そしてその墓は天武天皇の父や祖父に相応しい立派な墓だった筈である。こう云うとピンと来るものがある筈である。その蘇我蝦夷、入鹿の墓こそが華麗な壁画で知られる高松塚古墳、或いはキトラ古墳では無いだろうか。
高松塚古墳の被葬者は蘇我蝦夷、キトラ古墳は蘇我入鹿
高松塚古墳は昭和四十七年三月に奈良県明日香村で発見された極彩色壁画で大変有名な古墳である。極彩色壁画の発見は当時「歴史的大発見」として全国的に大きな話題と為った。
それ迄は簡単な図柄の装飾古墳は幾つか発見されて居たが、この様な立派な極彩色壁画を持った古墳が我が国に存在するとは誰も考えていなかったのである。この古墳に付いてはその後も事ある毎に報道されて居るので知ら無い人は殆どいないだろう。
発見後、古墳の被葬者は誰であるかと言う事に大きな関心が集まり、考古学者、歴史学者、或いは歴史作家等多くの人達によって議論されたが未だに決定的な被葬者は割り出されていない。被葬者の候補として様々な人物の名が上げられた。天武天皇、草壁皇子、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子、百済王善光、最近有力視されて居る石上朝臣麻呂等々恐らくその数は十人近いと思うが、何れも決め手に欠け、決定的な被葬者は不明のままで今に至って居る。
被葬者に付いての殆どの説は『日本書紀』の記述に依拠して居る。しかしその肝心の『日本書紀』の記述に嘘が書かれて居たり、重要な事が書かれていなかったりしたのでは、学者や研究者がどんなに頑張った処で被葬者が誰か判明する筈が無い。
最近では被葬者に付いての議論もスッカリ出尽くした様で、余り聞かれ無く為ってしまった。しかし墓である以上被葬者が誰であるかは最も重要な事である筈だ。
高松塚古墳は奈良県明日香村平田地区にあり、高松塚古墳から約七百メートル北方に天武、持統天皇陵(檜隈大内陵)があり、約二百メートル北方に真の文武天皇陵ではないかと言われる中尾山古墳がある。キトラ古墳は南方に約千百メートルの位置にあり、これらの古墳はほぼ南北に連なって居る。所謂『聖なるライン』である。
天武、持統天皇陵の檜隈大内陵の名から判る様にこの辺りは飛鳥時代、檜隈と呼ばれて居て現在でも明日香村桧前と呼ばれて居る。ここには於美阿志神社と呼ばれる古社がある。場所は高松塚古墳とキトラ古墳の丁度中間辺りだ。
於美阿志神社の祭神は東漢一族の祖の阿知使主で、社名の於美阿志は「使主阿知」が転化したものと言われて居る。又ここは、七世紀に建立された東漢一族の氏寺であった檜隈寺跡でもあり、境内には重要文化財の十三重の石塔が残されて居る。
この事からこの近辺は渡来系氏族の東漢氏の一族が多く居住して居た地域だったとされて居る。古墳の被葬者を考える時最も重要な事はその古墳が築かれた時代にその場所はどの様な人達が住み、どの様な事があった所かと云う事である。
この時代、被葬者に全く縁も縁も無い処に墓が造られると云う事は先ず有り得ない。亡命者の百済王善光や物部一族の石上朝臣麻呂の墓がこの様な場所にある筈は無いのだ。天武天皇陵がこの様な場所に存在するのは天武天皇と東漢氏が深い関係にあったからである。前述したが東漢氏は蘇我宗本家の配下と言って言い一族で、この事からでも天武天皇が蘇我宗本家に繋がる人物である事が判る。同様に高松塚古墳、キトラ古墳の被葬者も蘇我宗本家に繋がる人物と考えて好い。
高松塚古墳は直径二十三メートルの二段築成の円墳で版築によって作られて居た。版築とは土を何層にも突き固めて築き上げて行く寺の基壇にも好く使われる丁寧な工法で、飛鳥寺や川原寺にもこの工法が使われて居た。キトラ古墳も同じく版築で作られて居たが直径十三・八メートル、高さ三・三メートルの二段築成の円墳で規模は高松塚古墳に較べてかなり小型である。
面白い事に高松塚古墳の直径二十三メートル、キトラ古墳の直径十三・八メートルと云う墳丘の規模は石舞台古墳(一辺が約五十メートルの方墳又は上円下方墳)、都塚古墳(一辺が約二十八メートルの方墳又は上円下方墳)の夫々約半分に当たる。
又高松塚古墳、キトラ古墳と構造が好く似た古墳にマルコ山古墳がある。この古墳は高松塚古墳のほぼ真西の方向、千三百メートルの位置にあり、直径が高松塚古墳とほぼ同じ二十四メートルの二段築成の六角墳と言われて居るが、石槨内には漆喰が塗られて居るだけで壁画は描かれていなかった。
壁画が無く石槨の内容では劣る筈のマルコ山古墳が高松塚古墳とほぼ同じの直径二十四メートルもあるのだから、キトラ古墳も直径が二十四メートルであっても可笑しく無い筈。キトラ古墳は意識的に高松塚古墳より小さく作られて居るのでは無いだろうか。
即ち高松塚古墳とキトラ古墳の間には石舞台古墳と都塚古墳と同じ様に大小の序列が存在して居るのでは無いだろうか。勿論高松塚古墳の方が序列は上である。
高松塚古墳の石槨内には余り多くは無いが遺骨が残されて居たので被葬者に付いてある程度の情報は得られて居る。
それによると身長は約一六三センチメートルの当時としてはかなり長身の、筋骨の発育の良好な男性で、推定年齢は熟年或いはそれ以上、老年者である確率も否定出来ないとされて居る。キトラ古墳も遺骨が残されて居たので鑑定結果は出ている。
被葬者の身長は不明だが骨太の男性で推定年齢は五十歳代の熟年者が有力とされて居る。又高松塚古墳は人物壁画の美しさが良く話題にされるがここで注目すべきは壁画の示す内容だ。即ち壁画に何が描かれ、その内容は何を意味するものであるかと云う事である。
高松塚古墳の壁画には描かれていたものは
一、 天文図
二、 日像、月像
三、 四神像(玄武、白虎、青龍、朱雀は不明)
四、 一六人の人物群像
以上の四つで、これ以外には何も描かれていない。石槨(せっかく)の天井には天文図が描かれて居た。天文図とは言え高松塚古墳の場合は政治的にかなり様式化された図柄となっている。
天井の中央、約一メートルの範囲内に径0・9センチ程の金箔を張り付け、夫々を赤い線で結ばれて表現されて居たその星座の内容は次の様なものである。
先ず中央に「天極五星」と「四補四星」が描かれて居る。天極五星とは「天の中心の星」とそれに連なる「後宮の星」、「庶子の星」、「天帝の星」、「皇子の星」の四つである。「四補四星」は天帝を補佐する星と言われて居る。これ等の星を紫微垣の星と言い、宮中を表現するものとされて居る。
これら紫微垣の星を中心にその周りに東方七宿、西方七宿、南方七宿、北方七宿の二十八宿が描かれて居たのである。古代の中国では天は地上を反映し、地上は天を反映したものと考えられて居た。
即ちこれらの星々は天帝による全天の支配を表現し、それは又地上に於ける帝王を中心とした国の支配体制を意味して居るのである。
「日像、月像」、「四神像」については『続日本紀』の大宝元年(七〇一)正月の条に次のような注目すべき記載がある。
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天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀の様子は正門には鳥形の幢を立て、左には日像、青龍、朱雀の幡を立て、右には月像、白虎の幡を立て、蕃夷の国の使者が左右に分かれて並んだ。こうして文物の儀がここにおいて整備された。
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これは高松塚古墳の「日像、月像」、「四神像」の壁画の配置とよく似ている。 「四神像」は周から漢に賭けて儒学者が纏めた礼に関する書である「礼記」に基づき、天帝の守護神とされて居て、単なる守り神と云う訳では無い。
この時代の「四神像」の例として有名なものに薬師寺の「四神像」がある。薬師寺は天武天皇八年(六八〇)に天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して建立されたものだが、その本尊の薬師如来の台座に「四神像」の彫刻が施されて居る。
薬師寺には数多くの仏像があるが「四神像」があるのは薬師寺の本尊の薬師如来のみで他の仏像には存在しない。四神像は中心にあるものを守って居る。それがこの時代の「四神像」に対する認識なのである。そして薬師如来の、向かって右に日光菩薩、向かって左に月光菩薩の「日」と「月」が祀られて居て、これは正に高松塚古墳に通じて居る。即ちこの古墳の被葬者は十六人の従者を従え、四方を四神像によって守護され、国の支配体制を表す天文図を見上げながら永遠の眠りに着いて居たのである。
従ってこの古墳の被葬者は国を支配して居た様な人物以外には有り得ず、天皇若しくはそれに準ずる人物としか考えられ無い。
遺骨の鑑定結果が熟年以上の男性である事を考え逢わせ、被葬者は天武天皇自身であると云う説もある程だ。しかし天武天皇の陵は現在比定されて居る檜隈大内陵でほぼ間違い無いとされて居る。鎌倉時代に盗掘され、この時の調査記録『阿不幾及山陵記』や藤原定家の『明月記』に内部の状況の記録が残されて居てその内容が『日本書紀』と一致するからである。従って天武天皇の可能性は無い。
又天武天皇の皇子であると云う説もある。しかし天武天皇の皇子の中でも序列の最上位は、持統天皇との間に出来た草壁皇子であるが、草壁皇子の墓は奈良県高取町佐田にある束明神古墳と言われて居る。
束明神古墳は対角線の長さが三十メートルの八角形墳で石室も長さ三・一メートル、幅二メートル、高さ二・五メートルと七世紀末の古墳としてはかなり大規模な古墳で、この古墳が草壁皇子の墓であることは被葬者の年齢、地元の伝承等からもかなり確実とされているが石室内に壁画はおろか、壁面には漆喰も塗られていない。
従って草壁皇子以下の序列の皇子が高松塚古墳に葬られたとは思われず、天皇、皇族以外の人物ではなおさらありえない。
唯一考えられるとすれば壬申の乱の功労者で太政大臣にもなった高市皇子だが、『延喜式』の諸陵寮によれば皇子の墓は大和国廣瀬郡にあった三立岡墓とされて居るので高市皇子の可能性も有り得ない。
キトラ古墳も人物群像は無いが代わりに十二支像が描かれ、高松塚古墳同様に四神像や日像、月像も描かれて居た。天井には極めて精密な天文図が描かれて居て、この天文図は東アジア最古のものと言われ、この時代としては大変正確な物と言われて居る。
人物群像こそ無いがキトラ古墳の被葬者も高松塚古墳同様極めて高い身分の人物と考えられる。推古天皇が即位して以降、平城京遷都(七一〇年)までの時代に国を支配して居た様な高い身分の人物と言えば天皇、さも無くば大和朝廷を牛耳り、事実上日本の支配者であった蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三人に限られる。
しかし天武天皇以外の天皇の陵も夫々他の場所が陵として比定されて居るし、前述の河上邦彦によれば形のハッキリしない孝徳天皇を除けば舒明天皇以降の天皇陵は八角形墳と見られるが高松塚古墳とキトラ古墳は円墳である事が確認されて居る。従ってこの二つの古墳は天皇陵とは考え難い。
そうすると被葬者の可能性があるのは蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三人と云う事に為る。
このうち蘇我馬子の墓は牧野古墳と考えられる。と為ると残るのは蝦夷、入鹿の二人だけと為る。更に天武天皇は天文には大変関心をもって居たと言われている。『日本書紀』の天武天皇の巻の最初に
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天文、遁甲を良くした
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との記載があり、天武天皇四年(六七六)一月五日には初めて占星台を作ったとの記録が残って居る。この時代、天文とは占星術の事を意味して居る。又壬申の乱において天武天皇は東国へ脱出する途中、天を見て最後には自分が天下を得るだろうと占って居る。
石室内に天文図が描かれた古墳は日本では他に例が無い。この頃の時代の遺物として天文図も存在していない。従って高松塚古墳、キトラ古墳を築造した人物は天文に関して極めて高い関心と知識を持った人物と見て間違い無いだろう。
蘇我蝦夷、蘇我入鹿の没年齢に付いての記録は無いが斉明天皇(皇極天皇)が崩御したのが六六一年で没年齢は『本朝皇胤紹運録』や『神皇正統記』等によると六八歳と為って居る。
そうすると乙巳の変(六四五年)では皇極天皇は五二歳だったと思われるので蘇我入鹿の没年齢は五十から六十歳と見て良いだろう。蘇我蝦夷は七十から八十歳のかなり高齢だったと思われる。これは人骨の鑑定結果ともほぼ一致している。
これらの事から高松塚古墳、キトラ古墳は天武天皇によって築造された蝦夷、入鹿の墓だと筆者は考えて居る。
ではどちらの墓が蝦夷で、入鹿だと為るのだが墳丘が大きく壁画の内容も国の支配者により相応しく、更に石舞台古墳、都塚古墳の関連性から見て高松塚古墳が蘇我蝦夷の墓で、キトラ古墳は蘇我入鹿の墓と筆者は考えて居る。
古墳が築かれた時期は、壬申の乱の後、大海人皇子が飛鳥に帰ったのは九月十二日だから年内にあれだけの古墳を造る事は恐らく無理だろう。古墳が築かれたのは、共に壬申の乱の翌年、六七三年頃では無いだろうか。
高松塚古墳の墓守
更にこのオケ、ヲケの物語には興味深い話が続く。市辺押歯王を誘い出しその殺害に関わった韓{袋}と言う名の人物が顕宗天皇の即位後その責任を取らされ、その子供達を墓守りにしたと言う話が記載されて居る。
『日本書紀』によれば誅される寸前に平謝りに謝り、その姿が余りに哀れであったので許されたと為って居る。どうやら乙巳の変の折、蝦夷、入鹿殺害に関してその責任を取らされ、子孫に墓守をする様に命じられた人物が居る様だ。驚いた事にこの話の通り、先祖代々高松塚古墳を祀り続けて来た人達が今も存在して居る。
その人達は明日香村の上平田在住の村民で「橘」の家紋を共通にする人達と言うから、元は同じ一族だったのだろう。旧暦の十一月十六日に高松塚古墳において祭祀を行って居たらしいが、現在では古墳での祭祀は無く為って折各戸に祀られている。
明日香村には数多くの古墳が存在して居るがこの様な祭祀が昔から続けられて居るのはこの古墳だけだそうで、祭祀が何時頃から行われて居たかも不明だそうである。古墳を先祖代々祀り続けて居ると言う話も他では余り聞いた事が無い。
乙巳の変の時、蘇我蝦夷の館を警護して居た東漢一族は、蝦夷を見捨てて戦わずして退散、その為蝦夷は殺されてしまったが、壬申の乱の後にこの事が問題視されたのでは無いだろうか。
最も壬申の乱から二十七年も昔の話である上に、東漢一族は壬申の乱に於いて大海人軍として大奮戦して居たのでこの件で関係者が刑に処せられる事は無かっただろうが、罰としてその子孫に蝦夷の墓の墓守をする事を天武天皇に命じられたのでは無いだろうか。飛鳥時代の記憶は今なお明日香の人々に受け継がれて居るのである。
又古墳の祭祀に関して興味深い事実がある。高松塚古墳の東約五百メートルに八坂神社がある。ところがキトラ古墳の東三百メートルにも神社がありこの神社は八王子神社と呼ばれている。八坂神社だから祭神は当然スサノオである。八王子神社の八王子というのはスサノオの八柱の御子神のことだ。したがって八坂神社と八王子神社は祭神が親子関係にあることになる。この二社は二つの古墳の、被葬者の関係を暗示しているように思えてならない。
考古学者はこのようなことにはあまり注目しないが飛鳥時代以降の終末期古墳ともなれば古墳の近くに存在するかあるいは存在した社寺との関係は被葬者の推測に大変に重要だと思う。このような例をもう一つ挙げてみよう。例の牧野古墳である。
牧野古墳にも関係のありそうな神社がいくつかある。まずこの古墳のほぼ真北の斑鳩町には龍田神社が、ほぼ真東には舒明天皇の時代に創建されたと伝わる小北稲荷神社があり、共に古墳と関わりがありそうな神社だ。
しかしそれより重要なのは古墳の北東方向に北東の鬼門を守護する大忌神を祀る広瀬神社があり、西北方向に西北を守護する風神を祀る龍田大社があることである。
この二社は天武天皇四年(六七六)に天武天皇の命で現在地に於いて祭祀が始められ、国家的行事として年に二回祭祀が行われたことが『日本書紀』に記されている。
その後も歴代天皇にたいへん崇拝され、平安時代には国家の一大事に特別に奉幣がおこなわれる神社の二十二社にも選ばれている。現在も旧官幣大社として多くの人々の信仰を集めている。
広瀬神社と龍田大社は牧野古墳からは東西ほぼ対称の位置にあるのでこの二社は牧野古墳の被葬者のために創建されたと見てよい。このことからも牧野古墳が「皇祖大兄」押坂彦人大兄皇子、すなわち蘇我馬子を葬った成相墓であるとみてまず間違いないだろう。
そして最期の話も大変興味深い。
オケ、ヲケの兄弟は父の仇を討つために雄略天皇の墓を壊そうと思い、墓を壊しに兄が行くのだが、墓の側の土を少しだけ掘って帰って来る。父の仇とはいえ、天皇の墓なのですっかり壊してしまったなら後世の人に悪口を言われかねない。しかし父の仇は討たねばならない。そのため少しだけ壊した。それで十分だというのである。
即ち自分達には分別があるといっているのだ。しかしこの話、聞きようによっては、以前に分別の無い人物が居て人の墓をスッカリ壊してしまったと皮肉をいって居る様にも聞こえないだろうか。スッカリ壊されてしまった墓と云えば直ぐに思い浮かぶのは石室を覆う封土が無くなり、石室が剥き出しに為っている明日香村の石舞台古墳のことである。この話からも石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓で、壊した犯人は天智天皇と考えてよさそうである。
そしてこの話しを最期に、後は系譜だけを残して『古事記』の物語は全て終了する。
以上 おしまい
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