2021年04月02日
判り易い日本の歴史 その12 明治時代
判り易い日本の歴史 その12 明治時代
明治時代(1868年〜1912年)
江戸幕府は外国の圧力に負けて不平等な条約を結んでしまいました。その為「外国人を排斥しよう」と云う考えが各地に広まりって行きました。先ず動いたのが朝廷・幕府共に深い関係にあった薩摩藩でした。朝廷と幕府が一緒に為って国の政治を安定させ強い国を作る様に働き掛けました。
しかし長州藩が、薩摩藩が留守のスキを突いて朝廷の実権を握り、京都で反対派を次々に暗殺。手段を選ばず天皇崇拝と外国人排斥の思想を実行しようとします。これを快く思わ無かった薩摩藩と孝明天皇は、武力によって長州藩を京都から追い出しました。
薩摩藩と長州藩の敗北
丁度その頃、薩摩藩はイギリスと戦争し敗北しました。これにより外国の武力を思い知った薩摩藩は、外国人を排斥出来ない事を悟りました。翌年、長州藩もイギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合国と戦争して敗北。外国人排斥の運動が無意味だと悟り倒幕の考えに移りました。
薩摩藩と長州藩・・・お互いに今のママでは日本が危ないと感じて居ましたが、京都での一件があり両者は険悪な関係が続いていました。そこに坂本龍馬が登場。龍馬は薩摩と長州の会談を実現させ、薩長同盟を結ばせる事に成功しました。こうして、強力な力を手に入れた薩摩藩と長州藩は、江戸幕府を倒し明治時代が始まりました。
新政府による近代化
新政府の中心は江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩・・・天皇中心の中央集権国家を作り、近代化を進め始めました。先ず取り掛かったのが、藩を解体して新しく県を定める廃藩置県。当時、政府の財政は苦しく、藩主が夫々兵力を持って居た為、何もし無ければ新政府が直ぐに崩壊する事が分かって居ました。
そこで、新政府から各地を統治する為の地方官を派遣し県を統治させました。この時、藩の武士達が反発すると考えていた新政府ですが、予想外に反乱は起きずスムーズにことが進みました。理由として考えられるのは、主に以下の3つです。
⊡ 倒幕の時の戦いで各藩の財政が苦しかったこと
⊡ 廃藩置県の必要性を藩主が理解して居た事
⊡ 武士に優遇措置を捕った事
その後、新政府は近代化の為の政策を徐々に打ち出して行きました。
【四民平等】 国家の独立を守り、欧米諸国と肩を並べるには日本を近代化する必要がありました。そこで、古い身分制度を廃止して武士と農工商民を平等にしました。これにより、職業選択が自由になり身分間の結婚も出来る様に為りました。
但し、建前上は平等でしたが、暫く差別が続き、特に「えた・ひにん」の流れを汲む人達は長い間、居住・教育・就職・結婚で不利な立場が続きました。
【徴兵令】 今まで戦いは武士のものでしたが、新政府は身分に関係無く20歳以上の男子に兵役の義務を課すことにしました。銃を使った近代兵器メインの戦闘に為り、強い軍隊を作るにはこの方法にする必要があったのです。
【地租改正】 様々な改革を進めるには、財政の安定が不可欠でした。そこで、今まで取れ高に応じてお米を徴収して居ましたが、土地の価値の3%を現金で納める形式に変えました。これにより、政府には毎年同じ額のお金が入って来る様に為り、土地所有者も明確に為りましたが、税が重過ぎた為一揆が何度も起こり2.5%に引き下げました。
【官営工場】 政府は、経済力の差が国力の差を生んでいると考えました。そこで、幕府や藩が運営していた工場や造船所を国が運営することにし、多額の資金を投じて新たな工場を作り始めました。
近年、世界遺産に登録された富岡製糸場もその一つです。政府はこれらの他に、貨幣制度改革・鉄道の設置・郵便事業の開始・小学校の設立等様々な改革を打ち出しました。しかし、明治新政府の近代化は余りにも急激で、国民の生活を無視したものも少なくありませんでした。
巨額の経費を賄う為に農民から重い税を取り立てたり、兵役の義務や小学校の設置義務などを負わせたり。特に士族(元武士)は、次々と特権を奪われ経済的に行き詰まりました。そんな中、遂に士族の不満が爆発。 西南戦争が起こりました。
明治政府は徴兵制で作った新たな軍隊を総動員し士族4万人と対決しました。この戦は8ヶ月にわたって九州で展開されましたが、結局政府軍が勝利しました。
国会開設の要求が各地で高まる
西南戦争が起こった頃、選挙で議員を選び政治を行う為、国会開設の要求が出されました。この要求は雑誌や新聞上で議論と為り、ヤガテ自由民権運動と云う大きな運動に発展して行きました。1870年代末に為ると、米や農作物の価格が上昇した為農民の生活にユトリが出来、政治活動の資金も豊かに為りました。
これにより、自由民権運動は農民にも広がり、25万人もの人が関わる様に為りました。これに危機感を抱いた政府は、運動を弾圧する条例を出しました。
しかし、運動は衰える事無く、政府は10年以内に国会を開くことを約束しました。国会開設に伴い、憲法案が次々と出される様に為りました。ドイツやイギリス・オーストリア・ベルギーなど、近代国家の憲法やその運用方法を研究し、1889年、遂に大日本帝国憲法が発表されました。この憲法により、天皇中心の国家体制が確立され、国民の権利と自由が認められる様に為りました。
残る不平等条約と世界情勢の変化
急激な改革を進めた結果、欧米による植民地化を切り抜けた日本。しかし、マダ、江戸幕府が結んだ不平等条約が残って居ました。そこで、日本は欧米諸国と条約改正の交渉をしますが、近代的制度を整えて居ない事を理由に断られてしまいました。
その後、世界情勢は少しずつ変化して来ました。中でも、ロシアが勢力を拡張し東アジアに進行して行く様子は、植民地を持つイギリスに取って脅威でした。その為イギリスは、日本を使ってロシアの南下を防ごうと考え不平等条約の改正に応じました。
ロシアに危機感を抱いていたのは日本も同じでした。ロシアの南下に備える為、先ずは朝鮮に中国から独立して貰い同盟を結べるだけの力を着けて貰おうと考えました。日本は朝鮮を開国させ、日本の商人や商社を進出させて行きました。しかし、コレにより朝鮮の経済は混乱。
豊臣秀吉が行った朝鮮侵略による反日感情もあって、民衆は反乱を起こしました。この反乱を中国軍が鎮圧。こうして、日本は朝鮮での影響力を失ってしまいました。
力を蓄え戦争へ
暫くの間、日本は朝鮮に手を出せませんでしたが、その間に軍事力を強化しました。そして、中国にも勝てる位の軍事力を手に入れると、今度は中国と戦争する機会を窺う様になりました。1894年 様々な策略を巡らせ、朝鮮から中国軍を追い払うと云う大義名分を獲得すると、日清戦争が始まりました。
日本軍は凄まじい速さで中国軍を打ち破り、朝鮮半島を北上。1895年4月に講和条約が結ばれ日本の勝利に終わりました。この戦争により、日本は1億5000万円以上の利益を獲得し、中国に朝鮮の独立を認めさせました。
ロシア vs 日本=白人 vs 有色人種
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眠れる獅子として恐れられていた中国。しかし、日本に敗れたことで弱体振りを明らかにすると、各国はこぞって中国に進出し鉱山開発等の権益を獲得して行きました。そんな中、ロシアが満州を占領し朝鮮半島にも影響力を強めて来た為、日本はロシアと交渉。しかし、交渉は成立せず日露戦争が始まりました。
白人大国ロシアとの戦争は、日本に取って国の命運を賭けた戦いでした。日本は、イギリスとの同盟を後ろ盾にして、17億円と云う巨額の経費を用意しました。これは、当時の数年分の国家予算にも上りました。
日本が総力を挙げて日露戦争にあたる中、ロシアでは専制政治に対する反対運動が高まりました。これにより、戦局を有利に展開出来た日本ですが、両者とも経済的・軍事的理由で戦争継続が困難に為り、1905年にポーツマス条約を結びました。内容は日本に有利なものでしたが、賠償金は払われず戦争の損失に見合ったものと云えませんでした。
20万人もの死者を出して苦しい生活を強いられた国民に、不満が溜まってしまったのです。その後、日本は欧米の植民地政策を真似て、韓国併合を行い、植民地支配を始めました。日露戦争から10年後の1914年時代は大正時代へ移り、第一次世界大戦が始まります。
次は大正時代へ
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