2021年03月30日
判り易く面白い日本史 11 江戸時代の流れを解説!!
判り易く面白い日本史 その11 江戸時代の流れを解説!!
11 江戸時代の流れを解説!!
江戸時代(1603年〜1868年)
豊臣秀吉がこの世を去った後の1600年 天下分け目の戦いが始まりました。この戦いに勝ったのは徳川家康。関ヶ原で石田三成率いる西軍を見事に破りました。1603年 徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。
幕府を開き全国を支配した家康は、先ず、豊臣家の力を削ぐ為に将軍職を徳川秀忠に譲りました。これにより、将軍は代々徳川家が受け継ぐと云う事を周りに知らしめたのです。
将軍職を降りた家康ですが、その後も幕府の実権を握り制度を整えて行きました。各地の大名に“武家諸法度”を出して厳しく統制。支配地域を巧みに配置し、長年味方だった大名は江戸の近くに置き、天下分け目の戦いで味方に為った大名は江戸から離れた所にしました。
又、朝廷や公家に対しても“禁中並公家諸法度”を制定して、天皇を政治から遠ざけました。こうして260年も続く幕府の基礎が作られて行きました。
歴代将軍による政策 江戸幕府の基礎が固まる
r33 <徳川家光 出典 wikipedia>
3代目・徳川家光の時代に為ると、参勤交代を制度化して幕府と大名の主従関係を明確に為りました!! 参勤交代で一年毎に江戸まで往復し無くては行けなく為った大名は、財力を蓄えることが出来無く為り反乱を起こせ無く為りました。又、家康の時代から進められていた鎖国政策を完成させました。
鎖国の主な理由は、キリスト教の普及が幕府に取って都合が悪かったことと、キリスト教により密かに植民地化される事を恐れた為です。
4代目、家綱の時代に為ると新たな問題が浮上。今までは武力で問題を解決して居ましたが、処罰により行き場を失った牢人が激増したのです。1651年7月、幕府政治への批判と牢人の救済を訴えて反乱が起きました。
反乱は幕府が鎮圧しましたが、この事件を切っ掛けに統治方法が変わり始め、武力での支配から、儒教思想に基づいた文治政治に切り替わりました。やがて将軍の下に大名、その下に家臣と云う関係が定着し幕府の基礎が固まりました。
5代目・綱吉は武家諸法度を改定し、更に文治政治を進めて行きます。今まで武士は武芸が最も重要だと説いて居ましたが、武家諸法度を改定し忠孝と礼儀こそが重要だと説きました。
また、1687年に“生類憐みの令”を出して、犬を初めとする動物の殺生を禁止しました。
この法令で庶民は混乱しましたが、戦国時代の殺伐とした雰囲気が一掃されました。綱吉がこの世を去ると、家宣が6代目将軍に着きました。家宣が将軍に為ると、直ちに生類憐みの令を撤廃。新井白石をサポート役にして政治を始めました。処が、家宣は将軍に為って僅か4年で亡く為ってしまいました。次の将軍は家継。この時、家継は5歳だった為新井白石らが政治を運営しました。
新井白石は綱吉の時代に作られた粗悪通貨によるインフレを抑制しようとして、金の含有量が多い正徳小判を作り物価の安定を図りますが失敗してしまいました。新政権になって3年後、家継は僅か8歳でこの世を去りました。
8代目将軍に選ばれたのは徳川吉宗でした。新井白石の政治に不満を持った人たちが吉宗を推薦したのです。
吉宗は将軍に為ると、幕府や大名の贅沢な生活と赤字財政を問題視。自ら率先して質素な生活をして、大名達にも贅沢を控える様に指示しました。又、大名の財政負担を減らす為に参勤交代を減らし、年貢を増やす為に新田開発を推進する等の政策を行いました。
再び財政悪化 止まらない幕府の衰退
10代目 家治の時代に為ると再び幕府の財政が悪化。そこで、サポート役の田沼意次が政策を打ち出しました。田沼は市場経済の発展に目を着け、商業中心の経済を作ることで幕府の財政を再建しようとしました。
商人の力を借りて国家事業に着手!!しかし、田沼の急進的な改革は保守派の反感を買ってしまいました。そこに、1782年の大飢饉・米の価格が急上昇し、農業軽視の政策に批判が集まり田沼は失脚してしまいました。
11代目は家斉 家斉の元で政治の実権を握ったのが松平定信でした。定信は、田沼の政策を否定して、農業重視・質素倹約の政策を進めました。
しかし、定信の改革は思想や言論を統制するものだったので民衆の反発を招き、僅か6年で失脚してしまいました。その後、政権を取り戻した徳川家斉は、1837年に将軍職を子供の家慶に譲り、大御所として実権を握りました。
家斉は50年にわたり政治を行いますが、倹約から徐々に贅沢な生活を求める様に為り政治が腐敗してしまいました。
ちなみに、この頃、欧米では産業革命に成功し、原料を確保する為植民地を求めてアジアに進出を開始しました。欧米の船は日本近海にも出没する様に為り、幕府に貿易を求めて来ました。幕府はこれを拒否し、1825年に外国船を打ち払うように命じました。
1833年 天保の大飢饉が全国に広がり、多くの餓死者が現れました。しかし幕府は有効な対策を打ち出せず反乱が起こりました。1841年に為ると、幕府の権威と財政を再建する為に水野忠邦が改革を行いました。
しかし、この改革は前の改革を模倣したもので時代に合って居なかったので失敗し水野忠邦は失脚しました。
幕府の政策が幾つも失敗する中、九州の薩摩藩や長州藩は改革に成功。薩摩は黒砂糖を専売して財政を立て直し長州は殖産興業を進めました。
日本中に衝撃!! ペリーと黒船
r34
1842年 日本に衝撃的なニュースが入って来ました。何とアジアの大国、清(中国)がイギリスとの戦争に敗れ開国したのです。これに危機感を抱いた幕府は、鎖国政策を和らげました。
1853年に為ると、ペリーが軍艦4隻を率いて遣って来て、強大な軍事力を背景に開国を迫って来ました。この時は上手く交渉して、何とか一年後にもう一度話し合うと云う事に為りました。
1854年 再びペリーが軍艦7隻を率いて遣って来ました。強大な軍事力を恐れた幕府は、ペリーの圧力に屈して鎖国体制を終えました。
1858年に為ると、今度はハリスが来航。関税を自由に掛けられ無い、日本で起きた問題でも外国人を日本で裁け無い等、不利な条約を結ばされてしまいました。アメリカと不利な条約を結ぶと、同じ様にオランダ、ロシア、イギリス、フランスも圧力を掛けて来て、結局それらの国とも不平等条約を結ぶ事と為りました。
武士達は幕府が不平等条約を結んだ事に納得出来ませんでした。すると当時の権力者、井伊直弼は反対勢力を次々と処罰し始めました。厳しい弾圧を実行した井伊直弼ですが、1860年に暗殺されてこの世を去りました。
14代将軍徳川家茂の元で政権を握ったのは、安藤信正でした。安藤は天皇と協力して国難に立ち向かおうとしますが、又も暗殺されてしまいました。
そんな情勢の中で、九州で力を着けて居た薩摩藩と長州藩が動き出し、江戸幕府を倒す雰囲気が流れ始め、時代は明治へと向かって行きます。
次は明治時代へ
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/10630974
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック