2021年03月22日
判り易く面白い日本史 その7 平安時代の流れと食事・服装・生活を解説
判り易く面白い日本史 その7
7 平安時代の流れと食事・服装・生活を解説
平安時代(794年〜1185年)
道鏡に主導権を握られて居る事が気に食わ無かった藤原氏。称徳天皇の後に光仁天皇を擁立する事で、道鏡の力を排除する事に成功しました。光仁天皇は律令国家を取り戻そうとして、政治と宗教を分け、僧侶の監督を強化し行政の簡素化を進めました。
光仁天皇の死後は、桓武天皇が即位しました。光仁天皇が幾ら律令国家を取り戻す政策を進めても、奈良にはマダマダ寺院や貴族の力が残って居ました。
そこで、桓武天皇は784年に都を長岡京に移しますが、長岡京の責任者“藤原種継”が暗殺されてしまいます。事件に関与したのは大友氏や佐伯氏等の旧豪族。それに加え、早良親王にも事件関与の疑いが掛けられました。早良親王は無罪を主張し続けましたが聞き入れて貰えず、淡路島に流される途中で亡く為ってしまいました。
相次ぐ不吉な事件
早良親王の死を機に、桓武天皇の周辺では不吉な事件が相次ぎました。
788年 妻の藤原旅子が病死
789年 実母の高野新笠が死去
790年 皇后の藤原乙牟漏と夫人の坂上春子が死去 天然痘と云う疫病の流行。天候不順による飢饉
「これ等の事件は、早良親王が怨霊と為って災いを起こして居るのだ!!」そう考えた桓武天皇は、怨霊を鎮める為、794年に都を平安京に移しました。
平安時代の幕開け
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8世紀後半、農村では重い税金から逃れる為に農民の逃亡が相次ぎました。戸籍を偽って税負担を軽くしようとする農民も急増しました。その所為で土地は荒れ財源が不足。そこで桓武天皇は、792年に軍事の得意な少数精鋭部隊を作って農民から兵役の義務を無くしました。
又、805年には平安京の建築を途中でストップして農民の負担を軽くしました。823年に為ると税の徴収方法を変え、土地単位で税を徴収し始めました。しかし財政は益々苦しく為って行った為、天皇や皇族、官人は直接土地を持って収入を得る様に為りました。こうして、天皇中心の律令制度は財政面でも崩れて行きました。
再び藤原氏の台頭
9世紀初め迄は桓武天皇やその次の嵯峨天皇が権力を握り、天皇中心の律令国家を取り戻そうとしましたが徐々に藤原氏が台頭。藤原冬嗣は天皇の機密を扱う責任者に為り力を手に入れました。
藤原冬嗣の仕事を引き継いだ藤原良房は、政治を自分の思う様に動かし始めました。良房は対立する貴族を排除し朝廷での高官職を藤原氏が独占。天皇と親戚関係に為り、自分の所有する土地も広げて行きました。更に良房は、子供の基経を天皇サポート役“関白”と云う役職にして力を手に入れました。
基経が死ぬと、藤原氏と外戚関係が無く為った宇田天皇は、摂政や関白の役職を無くし菅原道真を重用する様に為りました。道真は後世に学問の神様と呼ばれる程賢い人物で、宇田天皇や次の醍醐天皇の元で活躍しましたが、901年、藤原時平の策略で左遷されてしまいました。
道真を左遷し再び権力を握った藤原氏。藤原時平の弟、忠平が摂政・関白の地位に着き政治の実権を握りました。その後、敵対勢力を排除し、摂政・関白の地位を藤原氏が独占する様に為りました。道長の時代に為ると、藤原氏は全盛期に突入します!!
道長は4人の娘に天皇の子供を産ませ、天皇の祖父として50年間も政治を支配しました。ちなみに、天皇家と藤原氏の政権争いの元で、各地の統治方法も大きく変わって行きました。
貴族の圧力と私有地の増加
8世紀〜9世紀 墾田永年私財法によって、力のある貴族や寺院が次々に土地を開拓し更に力を着けて行きました。また、開拓した土地には税金が課されますから、政府の財政も少しはマシに為って来ました。
貴族や寺院が強大に為ると「税を免除しろ」と云う圧力を掛ける様に為りました。この時、政権は藤原氏が握って居ましたから、自分の利益を拡大する為に税を免除する制度を作りました。
税を免除して貰える寺院や貴族が現れると、農民や領主はそこに土地を譲ってしまいました。それにより農民は少額の税を貴族や寺院に払うだけで好く為り、国には税を納め無く為ったのです。こうして、国家が介入出来ない土地がドンドン増えて行きました。そして、政府の力が弱く為り社会が荒廃して行きました。
社会が荒れると、自分の土地を自分で守ろうとした豪族や有力農民は、武装して弓矢を持ち馬に乗って戦う武士に為りました。やがて、武士同士が手を組んで大きな集団に為り、地方武士の力が強力に為って行きます。
そして武士は“承平・天慶の乱”を鎮圧する程力を着けました。この事件により、武士の力を知った朝廷や貴族達は、武士を警護や治安維持に用いる様に為りました。
強力な仏教勢力
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さて、貴族だけで無く武士の力も強く為った9〜10世紀 貴族、武士の勢力に加えて、もう一つ厄介な勢力がありました。それが墾田永年私財法で力を着けた寺院の僧侶達。僧侶は武装して国司と争ったり朝廷に大勢で押し掛けて自分達の主張を通そうとしました。僧侶達の力と勢いは凄まじく、当時権力を握って居た藤原氏でさえ迂闊に手を出せませんでした。
時は流れ天皇中心の政治に!!
天皇、貴族、武士、僧侶・・・ 様々な勢力が入り乱れたママ時代が流れて行きます。1068年!!後三条天皇が即位すると、血縁関係が無い藤原氏の力は弱く為って行きました。後三条天皇は即位した時、既に34歳でした。政治に対して熱い情熱を持ち、貴族に遠慮すること無く堂々と政治を実行しました。
自分の遣りたい様に政治をするには、僧侶の脅威から身を守ら無くてはいけないので、武士の力を借りる様に為りました。
次の代は白河天皇 白河天皇は後三条天皇の意志を引き継ぎ天皇中心の政治を行いますが、途中で天皇の位を8歳の子供に譲りました。当然、未だ幼かった子供には政治を運営する能力が無い為、白河天皇は白河上皇と為って政治を支配。
上皇は天皇による任命の手続きを必要としなかった為、法と慣例に拘らず政治が出来、他の貴族の力を抑えるのに有効だったのです。その後、白河上皇は孫、ひ孫が天皇に為った40年間もの上皇として政権を支配することに為りました。上皇の制度は100年程続きましたが、後に大きな争いを生みます。
源氏と平氏 強力な武士の登場
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1156年 鳥羽上皇と崇徳天皇は、新たな天皇の座を巡って争います。この争いは貴族や武士を巻き込み大きな戦に。ここで活躍した源氏と平氏と 武士は、大きな力を身に着けることに為ります。
1159年 源氏と平氏が対立し争いを始めました。これに勝利した平氏のトップ“平清盛”は娘に天皇の子供を産ませる事で政権を握り、清盛の子供達で高官の位を独占しました。
しかし、平氏の独裁政治が進むと利権を奪われた貴族や寺院、地方武士が反発。平氏は滅ぼされ、時代は鎌倉時代へと移って行きます。
次 鎌倉時代
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