2021年03月25日
判り易く面白い日本史 その8 鎌倉時代の流れと文化・食事・服装を解説
判り易く面白い日本史その8 鎌倉時代の流れと文化・食事・服装を解説
鎌倉時代(1185年〜1333年)
太政大臣に任命された平清盛は、朝廷内の重要な地位を独占。貴族や武士・僧侶は不満を持ちました。1180年 不満を持った武士が全国各地で挙兵すると、源頼朝が中心と為って 平氏軍を破りました。頼朝は平氏を倒した後、鎌倉に戻って地盤固めに専念しました。
1184年正月 平氏は再び政権を奪おうとしましたが、後白河法皇は源頼朝に平氏追討の命令を出しました。そこで、頼朝の弟・義経が討伐に向かいました。そして義経は平氏を壇ノ浦に追い詰め、見事に平氏を滅ぼしました。
源頼朝が全国を支配!鎌倉幕府を開く!!
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<出典:wikipedia>
平氏が滅亡すると、後白河法皇に取って次の脅威は源頼朝。そこで、義経に対して頼朝討伐の命令を出しました。しかし武士の多くが、頼朝こそが武士のリーダーに相応しいと考え集結した為、義経は敗北。
天皇に力を見せ着けた頼朝は、義経追討を名目にして各地を管理する“守護”や“地頭”の設置を認めさせました。こうして、源頼朝は全国の支配権を獲得したのです。
後白河法皇の死後、源頼朝は朝廷から征夷大将軍の任命を受け、鎌倉幕府を開きました。これにより、日本初の武士政権・鎌倉幕府が誕生しました。
鎌倉幕府の大きな特徴は、御恩と奉公による封建制度。武士は天皇や幕府を警護したり、戦の時には命懸けで戦って幕府の為に尽くすことを約束。武士の奉公に対して、幕府は御恩で応えます。地頭に任命して収入を増やして挙げたり、先祖伝来の土地所有権を認めて挙げたり、手柄に応じて新たな領地を与えたりしました。
北条氏が政権を握る
源頼朝がこの世を去ると、長男の頼家が将軍に就任。しかし、未だ18歳の頼家に幕府をまとめる力は無く、政治が乱れ幕府の武士他ちは主導権争いを始めました。頭角を表したのは、頼家の祖父・北条氏でした。北条氏は、頼家が病で倒れると弟の源実朝を3代目将軍にしました。この時実朝は12歳。
実朝の補佐を名目に北条氏が政治の実権を握りました。その後も、代々、北条氏が政治の実権を掌握する様になりました。
次第に独裁色を強める北条氏。これに不満を持つ武士が多いと感じた後鳥羽上皇は北条義時討伐の命令を下しました。しかし、上皇の期待とは裏腹に、大多数の武士が幕府側につき敗北。
幕府側はこの戦いに勝ち、朝廷を監視する為に六波羅探題を設置しました。こうして、幕府の勢力は西国に迄及び、朝廷に対して優位に為りました。
元軍の侵攻と武士の不満
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1274年 朝鮮半島から約3万の元軍(中国軍)が九州に攻めて来ました。迎え撃つ武士たちは、集団戦法と火薬を使った飛び道具に大苦戦。戦の初日は敗北を喫してしまいました。
その日の夕方、元軍は夜襲を恐れ船に撤退。しかし、ここで突然の暴風雨が吹き荒れました。これにより、元軍は壊滅。 幕府は勝利しました。
1281年 日本制圧を諦め無い元軍は、14万の大軍を率いて再び日本を襲いました。
しかし、今度は幕府も確りと守りを固めて居た為、海岸の制圧に手こずります。そんな中またも暴風雨発生。元軍は壊滅状態に陥り、幕府が勝利しました。
さて、元軍侵略の危機を脱した幕府。しかし、この戦で新たな土地を獲得出来ませんでした。その為、武士に十分な恩賞を与えられませんでした。多額の戦争費用を出し、命懸けで戦った武士は当然不満に思いました。
やがて、幕府に反抗する武士が登場し、打倒幕府の雰囲気が流れ始めました。この流れを察知した後醍醐天皇は、足利尊氏や新田義貞等の武士の力を借りて鎌倉幕府を滅亡させました。
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