2018年06月11日
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「日本の歴史」のこんなにある"新発見! (更新 2013/6/12 21:19)
日本史の”定説”は、研究が進むに連れて更新されて居る。今の歴史教科書を開くと鎌倉幕府の成立は「イイクニつくろう」の1192年では無いし、蘇我入鹿が暗殺された事件は「大化の改新」とは呼ばれ無い。多くの読者が教わった歴史と違って居るのでは無いだろうか。そんな日本史の”新発見”の一端をご紹介しよう。
【その1】 聖徳太子は絶対的な実力者では無かった!
憲法十七条や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣等、7世紀に革新的な政治を行った重要人物とされて来た聖徳太子。だが今や、実在が疑われる程影の薄い人物に為ってしまった。聖徳太子の高い評価は『日本書紀』の記述に基づくが、そもそも『日本書紀』は8世紀に律令国家や天皇制の正統性を示す為に編さんされた書物。内容の信憑性を疑う研究者は多く、その為太子の存在そのものを否定する説も出た。今の定説はこうだ。
厩戸王(うまやとおう)と云う皇子(おうじ)が、推古天皇の即位直後から政治を補佐した。この皇子は蘇我馬子と共に推古天皇を支えた有力王族の一人に過ぎず、憲法制定等様々な政策も政権全体で執り行った。だが死後、彼は「聖徳太子」として信仰の対象に為り、聖人として過大評価されて行った様だ。
現在の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」等と併記されるのが主流だ。過つて1万円札の顔にも為った肖像画も本人と断定する根拠が無い為「伝聖徳太子像」と注付きで掲載される様に為って居る。最早聖徳太子は、飛鳥時代の絶対的存在では無いのだ。
【その2】 蘇我入鹿の暗殺事件を「大化の改新」と言わ無い
「ムシゴメ(蒸し米)で祝う」等と年号暗記の定番だった「大化の改新」。しかし、今は645年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我入鹿を白昼堂々宮中で暗殺した古代史の一大事件は「乙巳(いっし)の変」と云う。
と言っても「大化の改新」と云う言葉自体が教科書から消えた訳では無い。大化の改新は646年の「改新の詔」によって始まった、律令国家建設を目指す一連の政治改革の事を指す。因みにその「改新の詔」に関しても『日本書紀』の記述がそのまま当時のものかどうか信憑性について議論が続いて居る。
【その3】 「和同開珎」が日本最古の貨幣では無い
日本で作られた最も古い貨幣は「和同開珎(わどうかいちん)」と覚えていないだろうか。確かに708年(和銅元年)に発行された和同開珎が、長く日本最初の鋳造貨幣と言われて来た。しかし、その情報はもう古い。
1999年 奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から7世紀後半の銅銭の鋳造跡が見つかった。「富本(ふほん)」と鋳(い)こまれた大量の銅銭の他鋳造道具等も見つかり、大規模な生産態勢があった事が確実に為って居る。
『日本書紀』には「今後は必ず銅銭を用い、銀銭は用いては為ら無い」と云う記述があり、今ではこの富本銭こそがそれに当たると解釈されて居る。但し、富本銭は流通貨幣では無く、呪いに用いられる「厭勝銭(えんしょうせん)」だったと云う説もありマダマダ謎は多い。
【その4】 源氏と平氏の全面戦争は無かった
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声・・・」の語り出しで有名な『平家物語』は、「源平の戦い」を記した、読むも涙、語るも涙の国民的物語だが、この源平の戦いは「源氏と平氏の戦い」では無かったと云うのが最新の定説だ。
源頼朝が1180年に伊豆で挙兵したのと前後して、河内源氏や甲斐源氏・木曽義仲等が反平氏の兵を挙げた。九州や四国等源氏以外の反乱も起きた。彼等は最初から頼朝に味方したのでは無く、義仲の様に頼朝に滅ぼされた者も居た。
又、伊豆の北条氏など頼朝に味方した平氏も各地に居た。飽く迄、清盛率いる平氏の支配に反発した武士達が入り乱れた戦乱だったのである。その為専門家は源平の戦いを「治承・寿永の乱」と呼ぶ。頼朝は一時、平氏との和平を望んだ様だ。だが、独自に行動した義経が平氏を壇ノ浦で滅ぼしてしまった。
【その5】 鎌倉幕府の始まりは1192年では無い
鎌倉幕府が成立した年を「イイクニつくろう」で1192年と覚えて居た、そこのアナタ。半分は正解だが、半分は間違いだ。源頼朝が、朝廷から征夷大将軍に任じられたのは1192年。だが、そもそも武士達反乱軍の実効支配による武家政権の始まりを朝廷の基準で区切るのはミスマッチだろう。
今は1180年に頼朝が鎌倉入りして南関東を支配した時から、武家政権の道のりはスタートしたと考える。その後1183年 朝廷に東国支配を追認され翌年には公文所・問注所等の統治機構が整う。1185年に守護・地頭を設置し、1190年に頼朝は貴族社会における武門の頂点の右近衛大将に任じられる。鎌倉幕府の成立は階段を上る様にして実現したと云うのが今や定説だ。
【その6】 源頼朝も足利尊氏も…肖像画は別人!?
頼朝に関しては、他にも“常識”が覆った事がある。教科書にも載り、好く知られる肖像画(国宝「伝源頼朝像」)は、神々しいまでに眼光鋭く細部まで描き込まれた優品だが、今ではこのモデルは頼朝では無いとの説が有力と為って居る。
天皇や公家の肖像画が描かれる様に為ったのは平安末期で次第に武家もその対象と為った。だが、武家が自分達の肖像画を好んで描かせる様に為ったのは鎌倉時代も後半の事。作風や描かれた時期等から推察して、この肖像画のモデルは足利尊氏の弟・直義ではないかと云う説があり未だ議論が続いて居る。
武家の肖像画では、以前は学校でも足利尊氏像だと教えられた「騎馬武者像」も今では別人と云う説が有力だ。他にも、北条時宗像や武田信玄像等に疑いの目が向けられている。考えてみれば、写真が残されていない歴史上の偉人がどんな顔だったか何て知る由も無い。明治時代以後でも、写真嫌いだった西郷隆盛の肖像画や銅像も本人に何処まで似て居るか確証は無いのだ。
【関連リンク】
週刊「新発見!日本の歴史」記事で紹介したような日本史の常識を覆す新発見・新視点満載のシリーズが新創刊! http://publications.asahi.com/news/325.shtml
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