2018年06月15日
古代東北にも天孫降臨の伝説が
古代東北にも天孫降臨伝説があった
2018年6月15日 朝日新聞・宮城版 「東北細見」 記事より
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物部氏と天孫降臨伝説
秋田県大仙市の唐松(からまつ)神社に伝わる「韓松宮(からまつみや) 物部氏記録」によれば、物部氏の祖先である饒速)日の命(にぎはやひのみこと)は鳥海山(ちょうかいさん)に降臨したと云う。記紀などで知られる天孫降臨は、天皇家の祖に当たる邇邇芸命(ににぎのみこと)が日向(ひゅうが)の高千穂峰(たかちほのみね)に天降(あまくだ)ったと云う。何故東北に天孫降臨の伝説が存在するのか?
唐松神社を訪れた私を思いがけ無い光景が待って居た。唐松宮天日宮(からまつみやあまつひのみや)は円形の水堀に囲まれ、無数の自然石が敷き詰められた築山の上に立つ。
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神社建築と云うよりも古代の円墳そのものだ。敷地の奥まった所にある神殿も一風変わっている。階段を下りた低い場所に鎮座し、拝殿内側の壁には夥しい数の鈴が吊り下げられて居る。それらが何かを語り掛けて来るように思えてならない。
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宮司の物部長仁(もののべさきひと)氏に話を聞いた。天日宮(あまつひのみや)が完成したのは1932年(昭和7年
)だが、円墳の様な形に為った理由は伝わっていない。敷地を覆い尽くす自然石は、講中の信者らによって持ち込まれたものだと云う。
江戸期にさかのぼってみても、秋田藩主佐竹公が蛇頭神楽(じゃがしらかぐら)の巡回を許可するなど手厚く庇護(ひご)した。何故唐松神社は人々の崇拝を集めたのか。「神社が東西南北に延びる交通の要衝にあったから」と宮司は背景を語った。しかし、もっと奥深いものが潜んで居る様にも思える。
私は社殿が階段下などの低いところに建造される「下り宮(くだりぐう)」に着目した。それは全国的に少なく、宮崎県の鵜戸神宮(うどじんぐう)や群馬県の一之宮(貫先いちのみやぬきさき)神社など数える程しかない。しかも鵜戸神宮は天孫降臨の日向3代と関りがあり、一之宮貫先神社の祭神は古代の物部氏と関係が深い。下り宮を検証することで、漫然と乍も天孫降臨や物部氏の影がほの見えて来るのだ。
東北の天孫降臨伝説は、何らかの必然があって語り継がれた来た事は間違い無い。唐松神社に向けられて来た信仰の原点には、古代の九州と東北を繋いだ物部氏の活躍と功績へのオマージュがありそうだ。神社の特異な建築から、古代東北の未知なる歴史の存在が浮き彫りに為る。 (探検家・高橋大輔) 以上
それでは、物部氏とは一体どの様な人達だったのでしようか?
物部氏の出自
『古事記』では、 神武東征に於いてニギハヤヒがイワレビコに大和の支配権を渡した後、ウマシマジが物部氏の祖と為ったと記される
『日本書紀』では、 神武東征に於いてニギハヤヒがイワレビコに大和の支配権を渡した後、ニギハヤヒが物部氏の祖と為ったと記される
『先代旧事本紀』では、 オシホミミとタクハタチヂヒメの子であるニギハヤヒは、天神の御祖神の命により天磐船で哮峯(生駒山)に天降った、その際、ニギハヤヒの守護として計32柱の天津神と5部の首長を従えて天降った。その後更に5部の造、又更に25部の天物部と船頭らが天降った。 これ等の中に各国の物部氏の祖が居るとされて居る(ウマシマジは、後に天物部の代表的存在となる) 天物部は、そもそも高天原に居た者達と云うニュアンスで記されて居る。(神代から存在して居た様な記述)
秋田・唐松神社にて
−物部の神の復権−
先日、鉱山の神事で北秋田へ出向いた。車で東京の都心から高速を走り約八時間弱の行程だが、温泉に浸かる予定もあり、古神道講座の受講生に運転をお願いした。
東北の山あいの新緑は眼に優しい
秋田へ入り『物部文書』が伝わる唐松神社がある事に気付いた。『物部文書』の付いて知ってはいたが、未だ物部氏の末流が代々宮司職を継承する神社を訪ねたことは無い。早速、同行者らの快諾を得て参拝に向かった次第。
神社の参道の両側には、樹齢二・三百年と思われる杉の大木が並立する。普通、一般的には何段か石段を上り社殿に辿り着くのだが、此処は何故か参道を徐々に下り低地の社殿に到る。江戸初期建造とされる社殿はさほど大きくは無いが、安産と子授けの神と親しまれている所為か幼児連れの家族が多い。
参道より下がった低地に神を祀ると云う例は、奈良の広瀬神社等にも見られる。この低地に祀られる神は、一部には「蔑まれる神」と云う見方がある様だ。当時の事情を少し振り返ってみたい。
先ず、物部氏だが遠祖は饒速日(にぎはやひ)の命(みこと)である。『日本書紀』神武天皇の記述の中で、“嘗(むかし)、天神の子有(みこま)しまして、天磐船に乗りて天より降止(いでま)せり。號(みな)を櫛玉饒速日命と曰(まを)す”とある。
この饒速日命は大和の豪族・長髓彦の妹三炊屋媛(みかしきやひめ・亦名は鳥見屋媛)を娶り、初めは東遷の神武天皇の侵攻に対して共に立ち向うが、己れが天神である事を知り逆に長髓彦を裏切りこれを殺してしまう。そして神武天皇に帰順する。
この饒速日命が降臨されたとする処は何ヵ所かある。『先代舊事本紀』では天神の御祖から天璽の瑞寶十種を授けられ、河内國・河上(いかるが)の哮峯(たけ)に天降る。秋田の『物部文書』では、秋田県と山形県境の鳥見山(鳥海山)に降ったとしている。
この他、紀伊、筑前、筑後、丹波、と云った処にも饒速日の降臨伝承があるが、元々は大陸或いは朝鮮半島からの渡来系種族の、夫々集団毎の始祖神話がその土地に集約した形で創り上げられたようだ。
この饒速日命から八代後が膽咋連(いくいのむらじ)である。『日本書紀』では、仲哀天皇が崩御し政情不安に為る事を恐れた神功皇后は竹内宿禰と諮り一時期その死を隠そうとする。その際、相談する四名の重臣の中に膽咋連が登場している。
唐松神社の秋田物部家の家系図では、この膽咋連を鼻祖とする。そして四代を省略して物部尾輿が記されている。尾輿の後継者は物部守屋だが、蘇我氏との戦いで有名な守屋の名は何故か表に出た形で記載されず、守屋の子、詰り尾輿には孫の那加世(なかよ)が秋田物部家の祖・初代として扱われている。
仏教が公然と伝来したのは欽明朝(五三九〜五七一)だが、日本の神を奉斎する排仏派の尾輿と守屋は、帰化系氏族と結んで新たに台頭して来た崇仏派・蘇我氏と神仏の宗教戦争を引き起こす。用明天皇崩御の年(五八七)両氏族は皇位継承を巡って対立する。穴穂部皇子を擁立する物部守谷は、崇峻天皇を立てて聖徳太子と組んだ蘇我馬子との戦いに敗れてしまう。百済王家出自の蘇我氏の勝利は、百済からの多くの帰化人と当時の経済テクノクラートを押さえた結果と思われる。
蘇我氏の天下で仏教は隆盛の一途を辿るが、蘇我氏に追われた物部の一族は各地へ離散し山間や海辺の僻地で隠れ住む様に為る。『物部文書』に依ると、守屋の子で三歳に為ったばかりの那加世は祖父・尾輿の家臣に匿われ奥州を転々としたと云う。
聖徳太子の崩後、蘇我氏は旧にも増して横暴と為る。遂には太子の一族をも滅ぼし天皇の廃立さえも企てる様に為り周囲の反感も強まる。ここに中大兄皇子・中臣鎌子等が蘇我氏打倒を目指し蘇我入鹿の暗殺を決行する。翌日、入鹿の父、馬子の子・蝦夷は自殺し、物部氏が滅亡してから約五十八年後、隆盛を誇った蘇我氏も呆気無く潰え去った。
この六世紀から七世紀に掛け、大化改新を経て古代国家確立に向けての時代は激動の時代でもあった。蘇我氏が天下を取って居た半世紀の間に物部本流の影は消え、祭祀についても奉斎する神に変動があったようだ。
秋田物部家は那加世を初代として、現在迄六十代以上続いて居る。物部氏は饒速日に繋がるが、古代の歴史の中で様々な表情を見せる。物部守屋に纏わる伝承や物部氏を祀る神社も数多い。
先の広瀬神社は、若宇迦能売命の他櫛玉命、穂雷命を祀るが、この櫛玉命は饒速日命のことである。饒速日は長髓彦と共に大和朝廷に刃向い、後でそれ迄共に国を治めて来た長髓彦を裏切って殺している。叉、物部氏と蘇我氏の闘争で敗れた為、物部氏は朝敵として追われている。
守屋の子孫達が神社を建立するにしても、朝敵と為った自分達の祖神を祀ることを、朝廷に対しての気遣わ無くては為ら無い。叉、祖神の行動を認め無いと云う証明として、低地に祀ったのではないか・・・これから先、物部の神の復権はあるのか・・・
基は秋田物部家の邸内社と云う天日宮は、周囲に花が綺麗に活け込まれ、何十万個かの天然石で築造されて居る。変わった神社建築の空間の中で、フト時の経つのを忘れてしまった。
(奈良 泰秀 H16年6月) 以上
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