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2018年06月09日

古代からのお話し その15


 古代からのお話し その15

 飛鳥時代にあった王朝の交代
 
 『日本書紀』の記述に従えば舒明天皇は敏達天皇の孫、天智天皇や孝徳天皇は敏達天皇の曾孫と為って居るが実はそうでは無かった事に為る。即ち前王朝は推古天皇で断絶し、その後を蘇我馬子の子や孫達が継承し天皇に即位して居た事に為る。これは王朝の交代があったと云う事である。天皇家は万世一系だとは好く言われる事だがそうでは無かったのだ。

  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 これは大日本帝国憲法の第一条である。大日本帝国憲法は皇統の万世一系を国家の基礎を構成する最も重要な要素として居たが、実はその大日本帝国は万世一系では無い天皇によって統治されて居たのである。
 この様な王朝交代があった事は『古事記』の記述からも窺える。『古事記』の記述は推古天皇で終わって居るが、勿論これは推古天皇以降の記録が無かったからでは無い。記録は残って居り書こうと思えばそれも出来た筈だが、『古事記』は天皇が万世一系である事を示し、その正当性を主張する為の書物の様なものなので、王朝交代があった等と云う本当の事を書く訳にはいか無い。

 仮に偽りを書いたとしても推古天皇から半世紀しか経た無い天武天皇の時代では、真実を知る人達が未だ多く居たと思われるので直ぐに嘘とバレてしまい反って藪蛇な事に為り兼ね無い。都合の悪い事は書か無いと言うのが最も賢い手段なのだ。推古天皇以降の事を歴史書に記述するには更に半世紀『日本書紀』まで待た無ければなら無かったのである。

 天智天皇と天武天皇の真の関係

 蘇我馬子、天智天皇、天武天皇の関係を表にすると次の様に為る。        

          天智天皇と天武天皇の関係

 この図から明らかな様に天智天皇は蘇我馬子の孫で天武天皇は蘇我馬子の曾孫だった事に為る。即ち天武天皇は天智天皇より年齢は上でも世代は一つ下と云う事である。この時代は年齢より世代が重視されて居たのだろう。従って世代が上で目上の人物を弟とする訳には行かない。その為世代が一つ上の天智天皇が目上と云う事で兄とされ、天智天皇より年上ながら天武天皇が弟と云う事にされたのではないかと思われる。

 又蘇我氏は実は皇族であった事に為り、蘇我入鹿の子の天武天皇が天智天皇の皇太子と為り、その後天皇に即位出来たのである。飛鳥時代において蘇我氏が皇族だった事は冠位の事からも判る。
 推古天皇十一年(六〇三)に聖徳太子によって冠位十二階が制定される。しかし、この冠位を受けた中に馬子を初め蘇我氏の名は一人も見あたら無い。蘇我氏は臣下として冠位を授かる立場では無く、皇族として冠位を授ける立場に居たのである。

 更に大海人皇子の妃であった額田王が大海人皇子との間に一子を設けた後、中大兄皇子に嫁いだのは、蘇我入鹿の妃であった宝皇女(皇極天皇)が蘇我入鹿との間に大海人皇子を設けた後、舒明天皇に嫁いだ事をそのまま踏襲したものである事もこれで判る。
一般に言われる様に、額田王に横恋慕した兄の中大兄皇子が弟の妃を取り上げたと言う訳では無かったのである。

 この様な婚姻関係が存在したのは天皇家と蘇我宗本家の絆を深める為の政略結婚である。天皇と蘇我宗本家が母を同一とする兄弟と為るなら、本来これ程強力な政略結婚も無かっただろう。


 第七章 天孫降臨と聖徳太子

 ウケヒの神話の謎を解く

 次ぎに示す蘇我馬子とその子孫、推古天皇の関係と先に示したウケヒの図を比較して見て欲しい。好く似た形に生って居る事が判る筈だ。                 
 この事から天の安河で、アマテラスの吹き出した息の中から生まれた三柱の女神が物実に依ってスサノオの子とされ、スサノオの吹き出した息の中から生まれた五柱の男神が物実に依ってアマテラスの子とされたのは、推古天皇の娘が蘇我馬子に嫁ぎ、蘇我馬子の子や孫達が推古天皇の後継者として天皇に即位したと云う事に基づく神話である事が判る。

 即ち王朝の交代を象徴する神話だったのである。この神話が特に丁寧に語られて居たのは、この事が蘇我氏即ち天皇家に取って最も重要な出来事だったからに他なら無い。
 又、この図の中で聖徳太子を蘇我馬子の子として居るが、それは次に述べる天孫降臨の神話から説明する事が出来る。

 天孫降臨の神話

 天孫降臨の神話では、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(ホノニニギ)がアマテラスの命で地上を統治する為に降臨する事に為る訳だが、当初の予定では降臨するのは天の安河のウケヒでスサノオの吹き出した息の中から最初に生まれ、その後アマテラスの太子に為った正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)であった。
 アメノオシホミミが降臨せずにホノニニギが降臨する様に為った事情は『古事記』にはこの様に語られて居る。

 十二、葦原の中つ国の平定

 アマテラスの仰せで、「豊葦原の千秋長五百秋(チアキナガイホアキ)の水穂国(ミズホ)は、我が子のアメノオシホミミが統治すべき国である」と、統治を御委任に為って、アメノオシホミミを高天原からお降しに為った。
 処がアメノオシホミミは、天の浮き橋にお立ちに為り、「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、酷く騒がしい事だ」と仰せに為って、又高天原に帰って、アマテラスに指図を仰がれた。

 そこでタカミムスヒとアマテラスの命令で天の安河の河原に多くの神々を集めて、オモヒカネに考えさせて「この葦原中国は我が子の統治する国として支配を委任した国である。しかし我が子はこの国には乱暴な国つ神が多く居ると思って居る。この為にはどの神を遣わして平定させたら好いであろうか」と仰せに為った。
 オモヒカネと多くの神々は相談して「アメノホヒを遣わすのが好いでしょう」と申し上げた。それでアメノホヒを遣わしたのだが、忽ち大国主に媚びてしまって、三年経っても復命し無かった。
 その様な訳でタカミムスヒとアマテラスは又神々に「葦原中国に遣わしたアメノホヒは長い間復命しない。今度はどの神を遣わしたら好いであろうか」とお尋ねに為った。
 そこでオモヒカネは「天津国玉神(アマツクニタマ)の子、天若日子(アメノワカヒコ)を遣わすのが好いでしょう」とお答え申し上げた。そこで鹿を射る弓と矢をアメノワカヒコに授けて遣わした。処がアメノワカヒコは葦原中国に降りると直ぐに大国主神の娘の下照比売(シタテルヒメ)を娶り、又その国を自分の物にしようと思い、八年経っても復命し無かった。

 そこでタカミムスヒとアマテラスは又神々に「アメノワカヒコは長い間復命しない。今度はどの神を遣わして、アメノワカヒコが長く留まる理由を尋ね様か」と仰せに為った。
 そこで多くの神々とオモヒカネが「鳴女と云う名の雉を遣わすのが好いでしょう」と答え申し上げた。そこで鳴女に「お前が行きなさい。そしてアメノワカヒコに『お前を葦原中国に遣わした理由は、その国の乱暴な神達を服従させよと云う事である。何故八年にも為るのに復命しないのか』と問いなさい」と仰せに為った。

 そこで鳴女は高天原より降って、アメノワカヒコの家の、門の神聖な楓の木に止まって、天つ神の仰せに為った事をつぶさに伝えた。
 そこで天佐具売(アメノサグメ)が鳥の言う事を聞いて、アメノワカヒコに「この鳥は鳴く声が大変悪い、射殺してしまいなさい」と進言した。アメノワカヒコは天つ神から賜った弓と矢でその雉を射殺してしまった。
 その矢は雉の胸を貫き、逆に射上がって天の安河の河原に居たアマテラスと高木神の所に届いた。この高木神はタカミムスヒの別名である。

 高木神がその矢を取りご覧に為ると、矢の羽に血が付いていた。そこで高木神は「これはアメノワカヒコに授けた矢である」と仰せに為り、多くに神にお見せに為って「もしアメノワカヒコが命令に背かず、悪い神を射た矢が此処に届いたのなら、アメノワカヒコには当たら無い。もし汚い心があるなら、アメノワカヒコにこの矢が当たって死ぬだろう」と仰せに為った。
 そこでその矢を取って、その矢が来た穴より下に衝き返した処、朝の床に寝て居たアメノワカヒコの胸に当たり、アメノワカヒコは死んだ。又その雉は帰って来なかった。「雉のひたつかい」と云う諺はこれが起源である。

 サテ、アメノワカヒコの妻の、シタテルヒメの泣く声が風に乗って高天原まで届いて来た。
 そこで、高天原に居るアメノワカヒコの父のアマツクニタマや妻子が聞いて、降って来て泣き悲しみ、直ぐにそこに喪屋を作った。河の雁を死者に食事を捧げ持つ役とし、鷺を掃除をする役とし、翡翠を食事を作る役とし、雀を米を着く女とし、雉を泣き女として役を定め、八日八晩賑やかに死者を弔った。
 この時に、阿遅志高日子根神(アヂシキタカヒコネ)が遣って来て、アメノワカヒコの喪を弔った。高天原より降ったアメノワカヒコの父と妻は泣きながら「我が子は死なずに生きて居た。我が夫は死なずに此処に居られた」と手足に取り縋って泣いた。この様に見間違えたのはこの二柱の神の容姿が大変良く似て居たからで、それで間違えたのである。

 そこでアヂシキタカヒコネは大変怒って「私は親しい友人だから弔いに遣って来たのだ。何故に私を汚らわしい死人に見立てるのか」と言い、佩いて居た十拳の剣を抜いて喪屋を切り倒し、足で蹴飛ばしてしまった。
 これが美濃の国の、藍見川の川上にある喪山である。喪屋を切った太刀の名は大量(オオハカリ)と言い、又の名を神度剣と云う。そうしてアヂシキタカヒコネが怒って飛び去った時、その妹の高比売命は兄の名を知らしめ様として、この様に歌った。

 天なるや 弟たなばたの うながせる 玉のみすまる みすまるに 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴 高日子根の神ぞ

 (天上の若い機織女が、頸に掛けて居る糸を貫き通した玉飾り、その玉の様に、谷二つを渡られる阿治志貴 高日子根の神である)

 この歌は夷振(ヒナブリ)である。ここでアマテラスは「今度は何れの神を遣わしたら好いであろうか」と仰せに為った。
 そこでオモヒカネと多くの神が「天の安河の川上の天の石屋に居る、名は天尾羽張神(アメノヲハバリ)を遣わしたら好いでしょう。もしこの神で無ければ、その神の子、タケミカヅチノヲを遣わすのが好いでしょう。又そのアメノヲハバリは天の安河の水を堰き止めて、道を塞いで居るので、他の神は行く事が出来ません。そこで別に天迦久神(アメノカク)を遣わして尋ねるのが好いでしょう」と申し上げた。

 そこでアメノカクを遣わし、アメノヲハバリに尋ねると、アメノヲハバリは「畏まりました。お仕えしましょう。しかしこれには我が子の建御雷神(タケミカヅチ)を遣わすのが好いでしょう」と答えて、直ぐにタケミカヅチを奉った。そこで天鳥船神(アマノトリフネ)をタケミカヅチに添えてお遣わしに為った。

 十三、大国主神の国譲り

 この様な訳で、この二柱の神は出雲国の伊耶佐(イザサ)の浜に降って、十拳の剣を抜き、波の上に逆さまに刺し立て、その剣の先に胡坐をかいて座った。
 そして大国主神に「アマテラス、高木神の命令で貴方の意向を尋ねにやって来た。貴方の治めて居る葦原中国はアマテラスが、我が子が治める国として支配を委任に為った国である。そこで貴方の考えはどうであろうか」と言われた。

 そこで大国主神は「私にはお答え出来ません。我が子の八重事代主神(ヤヘコトシロヌシ)がお答えするでしょう。しかし、鳥や魚を捕りに美保の崎に行ったまま、未だ帰って来ません」とお答えに為った。
 そこで天鳥船神を遣わし、ヤヘコトシロヌシを呼び寄せ、尋ねた処、その父の大国主神に「畏まりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と答えて、直ぐにその乗って来た船を踏み傾け、天の逆手を打って、青柴垣の中に隠れてしまいました。

 そこで大国主神に「今、お前の子のコトシロヌシがこの様に申した。他に意見を言う様な子が居るか」とお尋ねに為った。
 すると「もう一人、我が子に建御名方神(タケミナカタ)が居ます。これ以外には居ません」と答えて居る間に、そのタケミナカタが千人引きの大石を手の先に捧げて遣って来て「誰だ。我が国に遣って来てひそひそ話をするのは。それでは、力比べをしようではないか。では、私が先ずお前の手を取ろう」と言った。

 そこでその手を取った途端、氷の柱に変わり、又剣の刃に変わった。タケミナカタは恐れを為して退いた。そこで今度はタケミカヅチがタケミナカタの手を取ろうと申し出てその手を取ると、若い葦を掴む様に掴み潰して放り投げると忽ちタケミナカタは逃げて行った。
 タケミカヅチはタケミナカタを追い掛け、信濃の国の諏訪湖迄追い詰めて殺そうとした時、タケミナカタが「恐れ入りました。私を殺さないで下さい。ここ以外、他には行きません。又父の大国主神やヤヘコトシロヌシの言葉に従います。この葦原中国は天つ神の御子の言葉通りに献上致しましょう」と申し上げた。
 
 そこでタケミカヅチは又出雲に帰って来て、大国主神に「お前の子のコトシロヌシ、タケミナカタの二柱の神は天つ神の御子の仰せに従いましょうと言った。処で、貴方の考えはどうであろうか」と言われた。
 これに答えて「我が子の、二柱の神の言う通りに私も従いましょう。この葦原中国は仰せのとおり献上致しましょう。只私の住む所として、天つ神の御子が皇位をお継ぎに為る立派な宮殿の様に地下の岩盤に太い柱を立て、千木を高々と聳え立たせた神殿をお作り下さるなら、私は遠い幽界に隠れましょう。又私の子の多くの神達もヤヘコトシロヌシが神の後に立ち先に立ってお仕えしたなら背く神は無いでしょう」とお答えに為った。

 そこで天つ神達は出雲国の多芸志の小浜に立派な御殿をお作りに為って、水門の神の孫の櫛八玉神(クシヤタマ)が料理人と為って御馳走を奉った。
 そして櫛八玉神が鵜に為って海の底に潜り、海底の粘土を咥え出て多くの器を作り、海藻の茎を刈って燧臼に作り、菰の茎で燧杵に作って、火を鑽り出して「この私が鑽り出した火は高天原では、カムムスヒの御祖の新しい宮殿の煤が長く垂れる迄炊き上げ、地下は地下の岩盤を焼き固め、延縄を長く伸ばして釣りをする海人が口の大きい尾や鰭の張った鱸をザワザワと引き寄せ上げて、割竹の台が撓む程に多くの魚の料理を奉ります」とお祝い申し上げた。

 そこでタケミカヅチは高天原に参上して、葦原中国を平定した状況を報告された。そこでアマテラスと高木神は、日嗣の御子のアメノオシホミミに対して「今、葦原中国を平定し終わったと申して来た。だから、先に委任した通りその国に天降って統治なさい」と仰せに為った。
 処が、その日嗣の御子のアメノオシホミミが答えて、「私が天降ろうとして支度をして居る間に、子が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ、以下ホノニニギ)と申します。この子を降すのが良いでしょう」と申し上げた。

 この御子はアメノオシホミミが高木神の娘の万幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)と結婚して生んだ子で、天火明命(アメノホアカリ)と、次にホノニニギの二柱である。
 こう云う訳でアメノオシホミミの申された通りに、ホノニニギに「この豊葦原の水穂国は、貴方が統治為さるべき国であると委任します。だから命令に従って天降りなさい」と仰せに為った。

 十四、天孫降臨

 ここでホノニニギが天降ろうとした時に、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神が居た。
 そこでアマテラス、高木神はアメノウズメに命じて「貴女はか弱い女だが、向き合う神に面と向かって気後れしない神です。そこで、貴女一人で行ってその神に『アマテラスの御子が天降りする道にこの様にして居るのは誰か』と尋ねなさい」と仰せに為った。

 そこで問われた神は「私は国つ神で、名は猿田毘古神(サルタビコ)である。この様にして居る訳は天つ神の御子が天降ると聞いたので道案内に仕え奉ろうとしてお迎えに参ったのです」と申し上げた。
 ここで、アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、伊斯許理度売命(イシコリドメ)、玉祖命(タマノオヤ)併せて五柱の部族の長を従えて天降りされた。

 その時、八尺の勾玉、鏡、草薙の剣、常世のオモヒカネ、手力男神(タヂカラヲ)、天石門別神(アメノイハトワケ)も添わせて、「この鏡は専ら我が御霊として、私を拝む様に奉りなさい。次にオモヒカネは私の祭りに関する事を取り扱って政治をしなさい」と仰せに為った。
 この二柱の神(アマテラスとオモヒカネ)は五十鈴宮にお祭りして居る神である。

 次に登由気神(トユケ)、この神は度会に祭られて居る神である。次ぎにアメノイハトワケ、又の名は櫛石窓神(クシイハマト)と言い、又の名は豊石窓神(トヨイハマト)と云う。この神は宮廷の門に居る神である。次にタヂカラヲは佐那那県に鎮座して居る。
 又、アメノコヤネは中臣連等の祖、フトダマは忌部首等の祖、アメノウズメは猿女君等の祖、イシコリドメは作鏡連等の祖、タマノオヤは玉祖連等の祖である。

 サテそこで、天つ神に命じられたホノニニギは、高天原の岩座を離れ、天に八重に棚引く雲を押し分け、堂々と道を掻き分け掻き分けて天の浮き橋に立ち、そこから筑紫の日向の、高千穂の峰に天降りされた。
 その時天忍日命(アメノオシヒ)、天津久米命(アマツクメ)の二人は立派な靫(うつぼ)を背負い、頭(あたま)椎(しい)の太刀を腰に着け、櫨(はぜ)弓(ゆみ)を持ち、真(ま)鹿児(かこ)矢(や)を持って、ホノニニギの先に立ってお仕えした。そのアメノオシヒは大伴連等の祖、アマツクメは久米直等の祖である。

 そこでホノニニギは「ここは朝鮮に向かい、笠沙の御崎に真っ直ぐに道が通り、朝日が差し、夕日が照る大変良い場所である」と仰せに為って、地下の岩盤に太い柱を立て、千木を高々と聳え立たせた宮殿をお作りに為り、住まわれた。
 そしてホノニニギはアメノウズメに「道案内に奉仕したサルタビコは、正体を明らかにした貴方が送りなさい。そして、その神の名は貴方が貰い受け、今後も奉仕しなさい」と仰せに為った。こうして猿女君らはサルタビコの男神の名を貰い受け、女を猿女君と呼ぶ事に為ったのである。

 そこでサルタビコが阿邪訶に居て、漁をして居た時、ひらぶ貝に手を噛まれて海に沈み溺れてしまった。そこで海の底に沈んで居た時の名は底どく御魂と言い、その泡が裂ける時の名はあわさく御魂と云う。
 ここにサルタビコを送って帰って来て、直ちに全ての大小の魚を追い集めて「お前達は天つ神の御子にお仕え申し上げるか」と問うた時、全ての魚たちは「お仕えしましょう」と答えた中で、なまこだけは、そうは答え無かった。そこでアメノウズメはなまこに「この口は答えない口」と言って、細い小刀でその口を裂いた。そこでなまこの口は今でも裂けて居るのである。

 こう云う事で代々、志摩国から初物の海産物が献上された時にはそれを猿女君らに賜るのである。

 蘇我馬子と聖徳太子は親子

 推古天皇の後継者として天皇に即位したのは舒明天皇である。しかし当初から推古天皇の後継者が舒明天皇だった訳では無い。アマテラスの太子であり乍ら天孫降臨し無かったアメノオシホミミと同様に推古天皇の皇太子としてその後継者とされながら遂に天皇に即位する事の無かった人物が居る。その人物とは聖徳太子である。
 尚聖徳太子と云う呼称は奈良時代中期以後に成立したものである。従って『記・紀』には聖徳太子の名は登場しない。『古事記』は上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』では厩戸皇子の他、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と記載されて居る。本書では混乱を避ける為通称の聖徳太子を使わせて頂いて居る。

 アメノオシホミミはこの聖徳太子がモデルと考えられる。聖徳太子は豊聡耳皇子(トヨトミミ)とも呼ばれて居たので、アメノオシホミミはその名から来て居るのだろう。
 聖徳太子が推古天皇の後継者として皇太子と為りながら、天皇に即位出来なかったのは推古天皇が長生きした為その在位が思いの他長期に為り、彼が推古天皇より早く死んでしまったからなのだが、天孫降臨は高天原での話なので死んだとする訳には行かず、子が出来たのでその子を降臨させる事にしたと云う話にしたと思われる。

 天安河でのウケヒでスサノオがアマテラスの持って居た玉を使って吹き出した息の中から生まれた五柱の男神は推古天皇の後継者として皇位を継承した、蘇我馬子の子達の事である事は前述したが、アメノオシホミミはその五柱の男神の一人で、しかも最初に生まれて居る。この事から聖徳太子は実は蘇我馬子の子だったのでは無いだろうか。

 近年、聖徳太子は架空の人物で実は存在しなかったと云う説が出され、色々議論もある様だが、聖徳太子の存在はアマテラスの太子として神話に確り反映されて居る。但し聖徳太子は、母は欽明天皇の娘の穴穂部間人皇女とされて居るが父は『日本書紀』に記述してある用明天皇では無く蘇我馬子だとすると、推古天皇以前に於いて、彼は実は皇族では無かったと云う事に為る。

 崇峻天皇五年(五九二)崇峻天皇が蘇我馬子によって弑逆され、次に天皇に即位する適当な人物が居なく為る。しかしそうかと言って直ぐには皇族では無い自分の子を崇峻天皇の後継者として天皇に即位させるのは余りにも露骨過ぎ、他の氏族の承認を得られ無かったのでは無いだろうか。
 その為聖徳太子が即位する迄の中継ぎとして推古天皇を即位させたものと思われる。聖徳太子は推古天皇の後に天皇に即位する予定で推古天皇の摂政として蘇我馬子と共に政治を担う傍ら、推古天皇後の自らの即位に備えて斑鳩宮や法隆寺を造営して居たのだろう。

 蘇我馬子は大々王

 飛鳥寺の由来を書き記した文献に『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』がある。 この文献は東大寺や大安寺等二十の縁起をまとめた醍醐寺所蔵の『諸寺縁起集』の中の一つであるが、この縁起の中に大々王なる正体不明の人物が登場する。この文献にも『暗号』が使われて居る。

 この縁起の中に用明天皇が馬屋門皇子と大々王に法師寺を建てるべき場所を見定める様命令し、その後、聡耳皇子と馬古大臣(蘇我馬子)が共に寺を建てる場所を見定めたと記載されて居る。
 馬屋門皇子と聡耳皇子は同一人物で共に聖徳太子の事である。同一人物をあえて別々の名で記す事によって、大々王と馬古大臣が、名が異なって居ても同一人物だと『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』の作者は暗示して居るのである。
 この様な一人の人物を、別名を使って恰も複数の人物に見せ賭けるやり方は『日本書紀』とも共通して居る。作者は蘇我馬子の正体を隠しつつ、この様な『暗号』を使って何とか歴史の真実を後世に残そうと苦心して居るのである。

 更にこの縁起の中で大々王は聡耳皇子を我が子だとも言って居る。蘇我馬子と聖徳太子は親子だと言って居るのである。これは神話の内容とも見事に一致して居る。
 『縁起』の内容から推古朝において蘇我馬子は大王より上の大々王と称されて居たと思われるが、この事は馬子の墓、牧野古墳の規模からも頷ける筈である。

 『日出ずる処の天子』は蘇我馬子

 『隋書』倭国伝の中で推古天皇八年(六〇〇)、倭国王が隋に使者を送った事が記されて居る。『日本書紀』には記されていないがこれが第一回目の遣隋使である。この時、隋の高祖文帝は倭国の使者を謁見して居るがこの時倭国の使者は倭王の姓を阿毎、字は多利思比狐(タリシヒコ)と言い、阿輩{き}弥と号して居ると述べて居る。又王の妻は{き}弥と言い、太子は利歌弥多弗利と号して居るとも述べて居る。

 倭王の名はタリシヒコと為って居るが名前に男性を表すヒコと付いて居る事と妻が存在する事から倭王は男性と云う事に為るが、この時代の日本の天皇は女帝の推古天皇なのでこれでは『隋書』と『日本書紀』は大きく食い違う事に為る。女帝に妻が存在する訳が無いのである。
 これをどう解釈するかは古代史研究の難問の一つに為って居て、様々な説があるのだが主な説としては次の様なものがある。

 一、 女帝だと未開の国と思われるから男帝と言い換えた。
 二、 タリシヒコは大和では無く九州にあった国の王である。
 三、 タリシヒコは聖徳太子の事である。
 四、 タリシヒコは蘇我馬子の事である。

 この様に様々な説があり、一般的には三の聖徳太子の事であると云うのが通説とされて居るが、聖徳太子は蘇我馬子の子である事、蘇我馬子が大々王と称されて居たらしい事から、倭王のタリシヒコは蘇我馬子と考えるのが妥当である。太子の利歌弥多弗利は蘇我蝦夷か聖徳太子の事だろう。

 更に推古天皇十五年(六〇七)、小野妹子を遣使として隋の煬帝に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや云々」と云う大変有名な出だしで始まる。
倭国の王は当時東アジアの超大国であった隋の王と対等だと言わんばかりの何とも居丈高な国書を送り煬帝を激怒させたが、この書の中の「日出ずる処の天子」を多くの歴史家は聖徳太子として紹介して居るが、天子と云うのは帝王の事であるからこれも蘇我馬子の事と考えられる。

 如何にも傍若無人な蘇我馬子らしい内容の国書で、「和を持って尊しと為す」の聖徳太子ではとてもこの様な国書は書け無かっただろう。最もこの国書に対する煬帝からの返書もかなり強烈なものだったらしく、小野妹子は国書を帰国の途中で百済人に盗まれたと言い訳し、「天子」に渡す事は無かった。
推古天皇や聖徳太子に渡すのなら兎も角、渡す相手が蘇我馬子では怖くて渡せ無かったのだろう。

 推古天皇の死後、田村皇子が舒明天皇として即位するが彼は蘇我馬子の子なので、舒明天皇は皇統が蘇我氏に切り替わって最初の天皇として即位したと言う事に為る。
 この蘇我氏に取っては記念すべき天皇即位の話が神話の中で舒明天皇がモデルのホノニニギの天孫降臨神話として描かれて居るのである。ホノニニギが天孫降臨して以降の話は次ぎの様な物語と為って居る。

 十五、木花之佐久夜毘売

 サテ、ホノニニギは笠沙の岬で美しい女に出会った。そこで「誰の娘だ」とお尋ねに為ると、女は「オオヤマツの娘、名は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、又の名は木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)と言います」とお答えした。
そこで「お前の兄弟は居るか」と尋ねられると、「姉に石長比売(イワナガヒメ)が居ます」とお答えした。

 そこで「私は貴女と結婚したいと思うがどうであろうか」と仰せに為ると「私はお答え出来ません。我が父のオオヤマツミがお答え申すでしょう」とお答えした。そこでその父のオオヤマツミに結婚を乞う為に使いを遣わした処オオヤマツミは大変喜び、姉のイワナガヒメを添えて多くの台に乗せた献上物を持たせて奉った。
 処がその姉は大変醜くかったので、恐れを為し親元に送り返し、只その妹のコノハナノサクヤビメだけを留めて、一夜の契りをお結びに為った。

 そこでオオヤマツミはイワナガヒメが返されたのを大変恥じて、
「我が娘を二人一緒に奉ったのはイワナガヒメを遣わせば、天つ神の御子の命は雪が降り、風が吹いても常に石の様に何時までも変わら無いでしょう。又コノハナノサクヤビメを遣わせば、木の花が咲き誇るが如く栄える様にと願い奉ったのです。
 しかしイワナガヒメを送り返し、コノハナノサクヤビメを留められたので天つ神の御子の寿命は木の花の様に儚く為られるでしょう」
と言った。この様な理由で今に至るまで天皇達のお命は長く無いのである。

 暫くしてコノハナノサクヤビメがホノニニギの元に遣って来て「私は貴方の子どもを孕みました。今出産の時に為りました。この天つ神の御子は私だけで産む訳にはいきません。だから打明けるのです」と申し上げた。
 そこでホノニニギは「コノハナノサクヤビメは只一夜の契りで妊娠したと云うのか。これは私の子ではあるまい。きっと国つ神の子に違いない」と仰せに為った。これに答えて「私が孕んだ子が、もし国つ神の子ならば産む時に無事に産まれ無いでしょう。もし天つ神の子ならば無事に産まれるでしょう」と言い、直ちに戸の無い大きな御殿を作り、その中に入り、土で塗り塞ぎ、子を産む時に火をその御殿に点けて子をお産みに為った。

 その火が盛んに燃えて居る時に産んだ子の名は火照命(ホデリ)、これは隼人阿多君の祖である。次に産んだ子の名は火須勢理命(ホスセリ)、次に産んだ子の名は火遠理命(ホヲリ)、又の名は天津日高日子穂穂手見命(アマツヒコヒコホホデミ)の三柱である。

 十六、山幸彦と海幸彦

 サテ、ホデリは海佐知毘古(海幸彦)として大小、色々な魚を捕り、ホヲリは山佐知毘古(山幸彦)として大小、色々な獣を捕って居た。そこでホヲリはその兄のホデリに「夫々の獲物を捕る道具を取り替えて使ってみよう」と言って、三回お願いしたが許され無かった。しかし遂にやっとのことで、取り替える事が出来た。
 そこでホヲリは魚釣りの道具で魚を釣って見たが一匹も釣る事が出来ず、その釣り針を海の中に失ってしまった。

 そこで、その兄のホデリがその釣り針を返す様に「山の獲物も海の獲物も夫々捕る道具は自分の道具が好い。夫々返そうではないか」と言った時に、弟のホヲリが「兄の釣り針は魚釣りをしても一匹も釣れず、遂には海に失ってしまいました」とお答えした。しかし兄は釣り針の返還を強く求めた。そこで弟は腰に着けていた十拳の剣を潰して五百の釣り針を作ったが兄は受け取ら無かった。そこで千の釣り針を作ったが兄は受け取らず「矢張り元の釣り針を返せ」と言った。
 そこで弟が泣き悲しんで海辺に居た時、塩椎神(シオツチ)が遣って来て「どうして虚空津日高(ソラツヒコ)は泣き悲しんで居るのか」と問うと、「私と兄と釣り針を交換し、兄の釣り針を失ってしまったのです。そこで釣り針を返す様求められた時に多くの釣り針を作り弁償しようとしたのですが受け取らず『矢張り元の釣り針を返せ』と言うので、泣き悲しんで居るのです」とお答えに為った。

 そこでシオツチは「私に好い考えがある」と言って、直ぐに竹を隙間無く編んだ小船を作った。そしてその船にホヲリを乗せて「私がその船を押し流しますので、暫くそのまま進んで下さい。好い潮の道があるでしょう。そしてその潮に乗って進むと、魚の鱗の様に作られた宮殿に着きます。それがワタツミの宮殿です。その宮殿の門に至った為らば、傍の泉の上に神聖な桂の木があります。そこでその木の上に座って居ると、その神の娘が貴方を見て、取り計らって呉れるでしょう」と言った。

 そこで教えられた通りに少し進むと全くシオツチの言った通りであったので、直ぐにその桂の木に登り、座って居た。すると、ワタツミの娘の豊玉比売(トヨタマビメ)の召使いが美しい器を持って来て水を汲もうとした時、泉に光るものがあった。上を見てみると美しい男が居た。
 大変不思議に思って居るとホヲリは召使いを見て水が欲しいと仰せに為った。直ぐに召使いは水を汲んで器に入れ献上した。そこで水を飲まずに首に巻いて居た玉を外し、口に含んでその器に吐き出された。するとその玉は器に付き、召使いはその玉を離せ無かったので玉が付いたままトヨタマビメに奉った。

 そこでトヨタマビメはその玉を見て、召使いに「もしかしてだれか門の外に居るのですか」とお尋ねに為ると、召使いは「泉の上の、桂の木の上に人が居られます。大変美しい男性です。我が宮の王にも勝る大変立派な人です。その人が水を所望するので、献上した処水を飲まずにこの玉を吐き入れられたのです。この玉は離す事が出来ません。そこで玉を入れたままにして持って来て献上したのです」とお答えした。

 そこでトヨタマビメは不思議な事だと思い、出てみるや、直ぐに一目惚れして、心を通じ合わされた。そしてその父に「我が宮の門の処に立派な人が居ます」と仰せに為った。そこでワタツミが自ら出て、その男を見て「この人は天津日高の御子で虚空津日高と云う方である」と言って、直ぐに宮殿の中に連れて入った。
 そして海驢の皮を敷物として幾重にも敷き、又その上に絹を幾重にも敷いて、その上にホヲリを座らせて、台の上に様々なものを乗せた御馳走を差し上げ、直ぐに娘のトヨタマビメと結婚させた。そして三年間その国にお住みに為った。

 そこでホヲリはその最初の事を思い出して大きな溜息をされた。そこでトヨタマビメはその溜息を聞き、父に「三年お住みに為って居ますが、何時もは溜息を着く事が無いのに今夜は大きな溜息を着かれました。何か訳があるのでしょうか」と申し上げた。
 するとその父の大神はその婿に「今朝我が娘が語るのには「三年お住みに為って居ますが、何時もは溜息を着く事が無いのに今夜は大きな溜息を着かれました。」と言って居りました。何か訳があるのでしょうか。又貴方がここに来られた理由は何でしょうか」とお尋ねに為った。

 そこでその大神に、兄が釣り針を失った事を責め立てた様子を詳しく語った。 そこでワタツミは大小全ての魚を呼び集め、「この中に釣り針を取った魚が居るか」とお尋ねに為った。すると多くの魚たちが「この頃、赤鯛が喉に何か刺さって、物を食べる事が出来ないと悩んで居りました。きっとこれを取ったのでしょう」と申し上げた。
 そこで赤鯛の喉を調べてみると釣り針があった。直ぐに取り出して洗い清め、ホヲリに奉った時に、ワタツミが教えて言うには、「この釣り針を貴方の兄に返す時、『この釣り針は心が塞ぐ釣り針、気持ちが落ち着か無い釣り針、貧乏に成る釣り針、愚かに為る釣り針』と唱えて、後ろ向きに渡しなさい。そして兄が高い処に田を作った為らば、貴女は下に田を作りなさい。そうした為らば、私が水を支配して居ますから三年で必ず兄は貧しく為るでしょう。
 もしそう為った事を恨んで攻めて来たなら、塩盈珠(シオミツタマ)を出して溺れさせ、もし苦しんで許しを乞うたなら塩乾珠(シホフルタマ)を出して生かして遣り、こうして悩まし苦しめてやりなさい」と言われて、塩盈珠と塩乾珠の併せて二つを授けた。

 そして直ぐに、全ての鰐鮫を呼び集めて「今、天津日高の御子の虚空津日高が上の国へ出発しようとして居る。誰が幾日でお送りして帰って来る事が出来るか」とお尋ねに為った。そこで夫々が身の丈のままに日を限って申し上げた中で、一尋の鰐が「私は一日で送って帰って来ることが出来ます」と言った。そこでこの一尋の鰐に「それではお前がお送り申し上げなさい。但し海の中を渡る時、恐い思いをさせてはいけません」と告げて、直ぐにその鰐の頸にホヲリを乗せて送り出した。

 そこで約束通り鰐鮫は一日の内にお送り申し上げた。その鰐を返そうとする時、佩いていた細い小刀を外してその頸に付けて返した。そこでその一尋の鰐は今でも佐比持神(サヒモチ)と云うのである。こう云う訳でホヲリは海神が教えた通りにその釣り針をお返しに為った。そこでそれから後、兄は段々貧しく為り、更に荒々しい心を起こして攻めて来た。
 攻めて来た時は塩盈珠を出して溺れさせ、助けを乞うて来たならば塩乾珠を出して救い、こうして悩まし苦しめた時に、兄は頭を下げて「私は今より後は、貴方の昼夜の守護人と為ってお仕えしましょう」と言った。そこで今に至るまでホデリの子孫の隼人は、その溺れた時の様々な仕草を演じて天皇にお仕えして居るのである。

 一四、鵜葺草葺不合命の誕生

 その後、海神の娘のトヨタマビメ自ら遣って来て「私は既に身籠って居ます。丁度今、出産の時に為りました。天つ神の御子は海で産むべきでは無いと思い、この様に遣って来たのです」と言った。そこで直ぐに海辺の渚に,鵜の羽を葺草にして産屋を作った。しかしその産屋に未だ葺草がふき終わら無いのに、お腹の子が産まれそうで我慢出来なくなった。そこで産屋にお入りに為った。

 そこで正に産もうとする時に、ホヲリに「全ての他国の人は産む時には元の国の形に為って産みます。今私は元の身体に為って産もうと思います。お願いですから私を見中井で下さい」と言った。そこでホヲリは不思議な事を言うものだと思い、正に子どもを産もうとする処を密かに覗くと八尋の鰐と為って腹這いに為ってノタウチ回って居た。ホヲリはこれを見て驚き、恐れ,逃げて行った。

 そこで、トヨタマビメは覗き見られた事を知り、恥ずかしいとお思いに為って、直ぐに産まれた子を置いて「私は海の道を通じて、ここに通おうと思って居ました。しかし私の姿を覗き見られてしまいました。これはとても恥ずかしい事です」と言われて、直ぐに海神の国とこの国の境を塞いで海神の宮に帰って行った。そこでこの産まれた御子を名付けて天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズ)と云う。

 しかしその後、覗き見られたのを恨みはしたが、夫が恋しいと云う気持ちに耐えられず、その御子を養育すると云う縁で、その妹の玉依毘売(タマヨリビメ)に託して歌を献上された。
 
 ♪ 紅玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
 (赤い玉はその緒まで美しく光るが、それにも増して白玉の様な貴方の姿は貴く美しい事でした)

 と歌われた。そこでホヲリは答えて歌われた。

  ♪ 沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世の事毎に 
 (鴨が寄り着く島で、私が共寝をした妻を忘れはしないだろう、私の生きて居る限り)

 と歌われた。そこで日子穂穂手見命(ヒコホホデミ)は高千穂の宮に五百八十年間お出でに為った。御陵は高千穂の山の西にある。

 このウガヤフキアヘズが、その叔母のタマヨリビメを娶って産まれた子は五瀬命(イツセ)、次に稲氷命(イナヒ)、次に御毛沼命(ミケヌ)、次に若御毛沼命(ワカミケヌ)、又の名は豊御毛沼命(トヨミケヌ)、又の名は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコ、神武天皇)の四柱である。
 そしてミケヌは波の上を踏んで常世の国に渡り、イナヒは亡き母の国の海原にお入りに為った。

 ホノニニギは笠沙の御崎でコノハナノサクヤビメと云う美しい女性に出会う。このコノハナノサクヤビメは舒明天皇の皇后に為った宝皇女(皇極天皇)の事と考えられる。その後、ホノニニギはコノハナノサクヤビメと結ばれる。そして直ぐにコノハナノサクヤビメは子を孕むのだがここでホノニニギは奇妙な事を言い出す。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 コノハナノサクヤビメは只一夜の契りで妊娠したと云うのか。これは私の子ではあるまい。きっと国つ神の子に違いない。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 コノハナノサクヤビメはホノニニギと結ばれる前に国つ神と男女関係を持って居たと云うのだ。皇極天皇は舒明天皇に嫁ぐ前に高向王に嫁いで居たと云う『日本書紀』の記述を思い出して欲しい。この国つ神と云うのはスサノオや大国主神に繋がる神の事である。皇極天皇の前夫の高向王(蘇我入鹿)の存在がここに反映されて居る。コノハナノサクヤビメ(皇極天皇)の孕んだ子は国つ神(高向王)の子かも知れ無いと匂わせて居るのである。

 その後、コノハナノサクヤビメは皇極天皇と同様、二男一女の三人の子を生む。ホスセリと言う女の子とホデリ(海幸彦)、ホヲリ(山幸彦)と云う例によって仲の悪い兄弟だ。ここで有名な海幸彦と山幸彦の神話が語られる。
 兄に無理難題を突き着けられ、海神の神の宮に行った弟のホヲリが海神から授かった玉を使って兄のホデリを屈服させ、ホノニニギの後継者と為り海神の娘、トヨタマビメと結ばれると云う神話だが、この神話は前述したが大国主神の根の国訪問同様、天武天皇の体験を元にして創られた神話である。

 従ってホヲリは天武天皇、トヨタマビメは持統天皇がモデルと考えられる。そして二人の間に一人の子が生まれる。ウガヤフキアヘズだ。ウガヤフキアヘズは天武天皇と持統天皇の間の子、草壁皇子がモデルと云う事に為る。
 草壁皇子の妃は母の持統天皇の異母妹、阿閉皇女(後の元明天皇)であるが、ウガヤフキアヘズが娶るのも草壁皇子同様、母のトヨタマビメの妹、タマヨリビメと為って居る。
 ウガヤフキアヘズとタマヨリビメの間に生まれたのが神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)、即ち初代天皇の神武天皇である。次にホノニニギからウガヤフキアヘズ迄と舒明天皇から草壁皇子迄の間の系図を較べてみよう。    

 この二つの系図の人間関係とその皇統の流れは大変好く似て居る。この事から天孫降臨の神話とそれに続く神話は聖徳太子、舒明天皇から草壁皇子迄の出来事と人間関係を基にして作られた神話である事が判るであろう。
 これまでの説明で神話は推古天皇から天武天皇迄の人間関係と出来事を元にして書かれたものであった事がお判り頂けた筈である。言い方を替えれば日本神話とは日本の支配者と為った天武天皇と蘇我氏の真の由来を書いたものだったのである。

 『日本書紀』は皇統を改竄し万世一系のものとした為、真実の歴史は書き残される事は無かった。しかし天武天皇が書いた神話は歴史では無いが為に反ってそこには真実が残されて居たのである。

 その16につづく




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