2018年06月09日
古代からのお話し その14
古代からのお話し その14
第五章 スサノオと天皇家
祭神がスサノオに変わったのは何故か
出雲大社の祭神が平安時代に為ってから大国主神からスサノオに変わった事は前述したがこの事を更に掘り下げて考えてみたい。実は奈良時代から平安時代に掛けて、天皇家にも大きな変化が生じて居た。次の天皇の系譜を見て頂きたい。
天智天皇から桓武天皇
天智天皇の崩御の後、壬申の乱に勝利した大海人皇子が天皇に即位(天武天皇)し、それ以降、天皇は持統天皇(女帝)・文武天皇・元明天皇(女帝)・元正天皇(女帝)・聖武天皇・孝謙天皇(女帝)・淳仁天皇・称徳天皇(女帝、孝謙天皇が重祚)と続く。この天武天皇に繋がる天皇を天武系の天皇と云う。
処が、天武系の天皇は称徳天皇を最後に断絶する。この称徳天皇と云うのは例の怪僧弓削道鏡に入れ挙げた挙げ句、擦ったもんだを引き起こした事で有名な女帝である。この称徳天皇朝に於いて、天武系の多くの有力な皇族が粛清されてしまった為天武系の適当な後継者が居なく為ってしまったのである。そこで称徳天皇の崩御後、天智天皇の孫の白壁王に白羽の矢が立ち、宝亀元年(七七〇)十月一日 天皇(光仁天皇)に即位する。
光仁天皇は和銅二年(七〇九)の一〇月一三日生まれと云うから即位した時の年齢は六十二歳と可成りの高齢であった。今では六十二歳の人を老人呼ばわりしたら怒られるが当時としては立派な老人である。『続日本紀』の光仁天皇即位前紀には、白壁王は孝謙朝以降、次々と起きた皇位継承を巡る政争に巻き込まれて暗殺される事を恐れ、酒を飲んでは行方を晦まして居たと情け無い様な事が記載されて居る。
この時代は淳仁天皇が廃位に為って淡路島に流され横死したり、長屋王が陰謀に嵌まって自刃したりと有力な皇族に取っては受難の時代で、そこで白壁王は自分に禍が及ぶのを恐れアル中で無能を装って居たのだ。処がその白壁王に突然皇位が転がり込んで来た。要するに時の実力者の左大臣藤原永手らに依って担ぎ出されたのである。
光仁天皇以降天皇家は、他の系統に切り替わる事無く現在の天皇に続いて居る。この天智天皇に繋がる天皇を天智系の天皇と云う。そして、光仁天皇の子の山部王が次に天皇に即位(桓武天皇)する。この桓武天皇の時、都が京都に遷都され平安時代が始まる事に為るのである。即ち、奈良時代天武系の天皇の時代には出雲大社には大国主神(天武天皇)が祀られ、天皇が天智系に切り替わった平安時代以降にはスサノオ(蘇我馬子)が祀られて居た事に為る。
これは一体どう云う理由からであろうか。天智系の天皇のスサノオに対する崇拝は出雲大社だけに留まら無い。
上皇達の熊野詣
平成一六年七月七日に『紀伊山地の霊場と参詣道』がユネスコの世界遺産リストに登録され色々話題に為ったが、その紀伊山地の霊場の中心に位置するのが熊野三大社(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)所謂熊野三山で、神と仏を共に祀る神仏習合の熊野信仰の霊場で古来より修験道の修行の地とされて居る。
延喜七年(九〇七)に宇田上皇が熊野に詣でて以来、亀山上皇迄の歴代の上皇達は熱心に熊野詣(上皇の熊野詣は熊野御幸と云う)を繰り返し、その様子は「蟻の熊野詣」に例えられる程で熊野へ参拝する都人は後を絶た無かったと言われて居る。
宇田上皇の熊野詣から一八三年後の寛治四年(一〇九〇)に白河上皇が熊野を詣で、この白河上皇が実に九回もの熊野詣をした。この白河上皇の度重なる熊野詣が、熊野信仰が高まる切っ掛けと為ったと言われて居る。
多くの上皇が熊野詣をして居るが、取り分け白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇・後鳥羽上皇の四人の上皇が熱心に熊野詣をして居る。と云うより上皇の熊野詣は殆どこの四人の上皇に限られる。中でも後白河上皇は三四回、後鳥羽上皇は二八回も訪れて居る。しかし何故この時代上皇達は盛んに熊野詣をしたのであろうか。この事は大きな謎とされて居る。
この時代の動きは興味深く、又複雑なので簡単に説明して置こう。熊野詣が盛んになる切っ掛けに為った白河上皇はそれ迄朝廷を支配して居た藤原氏から政治の実権を奪い「院政」を始めた上皇として知られて居る。それまでの藤原氏の行った政治は摂関政治と呼ばれて居た。
自分の娘を天皇に嫁がせ生まれた男子を天皇にする、そして自分は天皇の外祖父として天皇が幼少の頃は摂政、天皇が成人してからは関白として政治の実権を握ると云うのが摂関政治である。これを繰り返し行う事によって藤原氏は朝廷の実権を長期間に渡って維持して来たのである。
処が藤原氏の娘を母に持った後冷泉天皇の時に一人の子も出来無いまま天皇が崩御してしまった為、宇多天皇以来一七〇年振りに藤原氏と外戚関係を持た無い弟の尊仁親王が後三条天皇として即位(一〇三四年)してしまった。
後三条天皇は政治の実権を藤原氏から取り上げ国政の改革を行う。子の白河天皇は、母は藤原氏の出身だったが、一旦取り上げた政治の実権を藤原氏に戻す事は無く父の路線を引き継いだ。應徳三年(一〇八六)に天皇の位を子の善仁親王(堀河天皇)に譲り、上皇に為った後も政治の実権は手放さ無かった。これを「院政」と云う。
政治の実権を奪われた藤原氏の地位は完全に下落し、逆に白河上皇は「意の如くに為らざる者、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」と云う言葉が残る程権勢を誇る様に為った。大治四年(一一二九)白河上皇が崩御すると、その権力と富はその頃既に天皇を退位し上皇に為って居た孫の鳥羽上皇に移る。
永治元年(一一四一)鳥羽上皇は子の崇徳天皇を退位させて、崇徳とは異母弟の躰仁親王(近衛天皇)を即位させた。しかし、近衛天皇は久壽二年(一一五五)僅か十六歳で子を設ける事無く崩御してしまった。そこで鳥羽上皇は崇徳の同母弟の雅仁親王(後白河天皇)を二十九歳で即位させその子を皇太子とした。
翌年、鳥羽上皇が崩御する。するとその直後、これ迄鳥羽上皇に押さえられ続け不満を抱いて居た崇徳上皇が実力で政権を奪うべく挙兵し、保元元年(一一五六)後白河天皇の間に戦いが起こる。これが武家の政治が始まる切っ掛けと為った保元の乱である。
この戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐に配流され京都に帰れぬまま不遇の最期を遂げた。
保元の乱から僅か三年後の平治元年(一一五九)今度は平清盛と源義朝の間に戦いが起こる。平治の乱である。平清盛が勝利を収め平氏が政治の実権を握り、今度は「平氏に在らざれば人に非ず」と言われる程の平家の全盛時代と為ってしまった。
その為政治の実権を奪われた後白河上皇は武家政権打倒の陰謀を次々に画策し、その手腕は源頼朝をして「日本国第一の大天狗」と呆れさせて居る。その後平氏は源氏によって滅ぼされ、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれる事と為る。
後白河上皇の後を継いだ孫の後鳥羽上皇は承久三年(一二二一)鎌倉幕府倒幕の為挙兵(承久の乱)したが敢え無く失敗、隠岐に島流しにされてしまった。これにより政治の実権は完全に武士に移ると共にあれ程盛んだった上皇達の熊野詣も終焉を迎えたのである。
この様に上皇達が盛んに熊野詣を繰り返して居た時期はそれ迄政治の実権を握って居た藤原氏が没落し、それに代わって武士が台頭し、朝廷と色々な軋轢を生じて居た時代と重なる。そして盛んに熊野詣を繰り返して居た四人の上皇達は「治天の君」と呼ばれた天皇家の実権を握って居た実力者達なのである。天皇や「治天の君」では無い上皇は殆ど熊野詣をしていない。
後白河上皇は三四回熊野詣をして居るが熊野本宮大社には毎回必ず参拝して居るのに対し、熊野速玉大社・熊野那智大社には十五回参拝したのみである。この事から上皇達の熊野詣の目的は熊野本宮大社参拝であった事が判る。
熊野本宮大社の主祭神は家津御子大神(ケツミコノオオカミ)である。随分変わった名前だがこの神はスサノオの事とされて居る。即ちこの時代、藤原氏や武家達との権力闘争の矢面に立って居た「治天の君」達は熊野本宮大社を盛んに参拝しそこに祀られて居たスサノオに頭を垂れて居たのである。
後醍醐天皇と出雲大社
天皇家とスサノオの関係は更に続く。文保二年(一三一八)後醍醐天皇が即位する。後醍醐天皇は元寇の役の後、鎌倉幕府に武士達の不満が募って居たのに付け込み倒幕を計画したのである。
先ず正中元年(一三二四)に鎌倉幕府打倒を計画したが事前に発覚し失敗してしまった。しかし天皇の倒幕の意志は固く元弘元年(一三三一)に再度倒幕を企てたが肝心の兵が集まらず失敗、天皇は捕らえられて翌年隠岐島に流罪と為ってしまった。
しかしそれでも倒幕を諦め無かった後醍醐天皇は元弘三年(一三三三)、名和長年ら名和一族の働きで隠岐島から脱出し伯耆国船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)で再度挙兵したのである。
その後、後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞・楠木正成達の働きで鎌倉幕府を倒すのだが(建武の中興)、隠岐島から脱出した際天皇は船上山から三月十四日、出雲大社に対して一通の綸旨(紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨・重要文化財)を送って居る。
その内容は出雲大社に天皇政治の再興を誓い奉りその成就を祈念したものだがその僅か三日後の三月一七日に、今度は三種神器の一つである草薙剣の代わりとして出雲大社の神剣の内一振りを差し出す様に命じた綸旨(後醍醐天皇宝剣勅望綸旨・重要文化財)を出して居る。その後、出雲大社から差し出された神剣を手にした後醍醐天皇は大層喜んだと伝えられて居る。
前述した様にこの頃の出雲大社の祭神はスサノオである。草薙剣の代わりに出雲大社の神剣を所望した後醍醐天皇は自分をスサノオに準えて居たのである。
明治天皇と氷川神社
更に天皇家のスサノオに対する崇拝は明治維新にも及ぶ。明治天皇は明治元年(一八六八)九月 長年天皇の住まいであった京都御所を発って江戸に向かい十月十三日に江戸城に入った。その直後の一七日には埼玉県さいたま市(旧大宮市)の氷川神社を「武蔵野国総鎮守」とする勅書を出し、十一日後の二八日に氷川神社に行幸し祭祀を行って居る。
天皇が勅使を差し遣わして奉幣を行う神社の事を勅祭社と云うが、明治維新以降近代に為ってからの正式な勅祭社はこの氷川神社が最初である。因みに氷川神社の氷川は出雲を流れる簸川に由来すると言われて居る。
又、行幸の直前の十月二十日に祭神をスサノオだけとし、それ迄祀られて居た大国主神・櫛稲田姫を祭神から外して居る。但し、後に元出雲国造であった千家尊福が埼玉県知事に就任した際に大国主神・櫛稲田姫は再び祭神に戻され現在に至って居る。
この様にスサノオは歴代天皇に大変崇拝されて居た事がお分かり頂けると思う。それも天皇家に取って大きな節目毎にスサノオに篤い崇拝を寄せて居た事に為る。スサノオは神話の中においてアマテラスに反逆し追放される神として描かれ、その正体は蘇我馬子なのだからこれは一体どうした訳であろうか。
それに較べると皇祖神とされるアマテラスを祀る伊勢神宮への天皇の行幸は江戸時代までは持統天皇しか記録に無く、初代天皇の神武天皇を祀る橿原神宮が創建されたのも明治二十三年(一八九〇)でしか無い。それも地元の有志の運動によって建てられたと云うのだから、歴代の天皇の出雲神、取り分けスサノオに対する崇拝は際だって居る。何故歴代の天皇はこれ程までにスサノオを崇拝して居たのであろうか。
奈良時代の天武系の天皇が天武天皇を大国主神として出雲大社に祀り崇拝して居たのは良く理解出来る。天武系の天皇に取って天武天皇は偉大な先祖だったからだ。彼等は天武天皇を皇統譜の起点即ち皇祖として認識し、天武天皇を大国主神として出雲大社に祀って居たのである。
では何故、平安時代以降の天智系の天皇は出雲大社の祭神をスサノオに切り替え、それ以後スサノオをこれ程までに熱心に崇拝して居たのであろうか。考えられる理由はただ一つだ。それは「実は天智系の天皇と蘇我馬子は血で繋がって居る。それも太い繋がりがある」と考える他無い。
天武系の天皇に取っての天武天皇がそうであった様に、天智系の天皇は蘇我馬子を皇統譜の起点即ち彼等に取っての皇祖として認識して居たのでは無いだろうか。そう考えれば、出雲大社の祭神が平安時代に為って大国主神からスサノオに切り替わった事が理解出来るのである。
この様に歴代天皇のスサノオに対する態度は明らかに蘇我馬子と天智系の天皇には血の繋がりがある事を窺わせるものがある。しかし『日本書紀』の記述では天智天皇と蘇我馬子の間には一切血の繋がりは無い事に為って居る。血の繋がりがあると云う事は『日本書紀』の何処かに欺瞞があると云う事に為る。
次に、このことを確かめるために『日本書紀』の記述から蘇我馬子と天智天皇の関係を探って見る事にしたい。
第六章 天智天皇の出自
謎の皇子 押坂彦人大兄皇子
『日本書紀』では中大兄皇子の父は舒明天皇と為って居る。この事に関しては何ら不審な点は無い。舒明天皇が中大兄皇子の父である事は間違い無いと思うが、問題は祖父の押坂彦人大兄皇子である。この人物が怪人物である。『日本書紀』によれば押坂彦人大兄皇子の系譜は次の様に為って居る。
押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一皇子で又の名を麻呂子皇子とも言い、母は息長真手王の娘で敏達天皇の皇后の広姫とされて居る。広姫の没後、豊御食炊屋姫(後の推古天皇)が皇后に立てられて居るので敏達天皇は皇后を二人立てて居る事に為る。皇后を二人立てた天皇は歴史上何人か居るが六世紀から八世紀に掛けては唯一の例と為って居る。
『日本書紀』には太子彦人皇子とも書かれて居るので、時期は不明だが敏達期に於いて太子の地位にあったとされ、舒明天皇の父であり天智天皇、天武天皇、皇極天皇(斉明天皇)、孝徳天皇の祖父に当たる人物だから、皇統譜の上では大変重要な人物だ。処がこの人物、調べれば調べる程驚く程謎の多い人物である。
『日本書紀』の大化二年(六四六)三月二十日条の中に「皇祖大兄」の名が見え、それに「彦人大兄を言う」の註が施されて居る。この事から押坂彦人大兄皇子は「皇祖大兄」と呼ばれて居た事が判る。しかし押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の皇子だから「皇祖」と呼ばれるのは不可解である。
実はこれは『日本書紀』の編纂者が残した『暗号』の中でも最も重要な『暗号』の一つなのだがこの謎は後に解きたい。
更に、生没年・没年齢に関する記載が一切無い。この内生年・没年齢については『日本書紀』には天皇や皇族の生年・没年齢は書かれていない方が普通だから書かれていないのは問題無いのだが、これだけ重要な人物にも関わらず没年に付いて全く記載が無いのは不審としか言いようが無い。
舒明天皇の没年齢が「本朝皇胤紹運録」「神皇正統記」等によると四九才である。この年齢は他の史料でもほぼ一致して居る。没年は六四一年だから生年は推古元年(五九三)頃に為る。その頃に押坂彦人大兄皇子が生存して居た事は先ず間違い無いだろう。
又、推古天皇は敏達天皇(五八五年没)に一八才で嫁いで皇后と為り二男五女を設けて居る。三四才の時敏達天皇が崩御し、三九才で天皇に即位(五九三年)して居るので、押坂彦人大兄皇子の妃と為った末子の桜井弓張皇女は、少なくとも推古天皇の即位後に妃に為ったものと思われる。
その後桜井弓張皇女は山背王と笠縫王の二人の子を産んだとされて居るので、恐らく推古天皇八年(六〇〇)以降も生存して居たものと思われるが没年に付いての記載が全く存在しないのである。事跡に付いてもその記載は僅かしか無いがその内容は実に興味深いものがある。
『日本書紀』の用明二年(五八六)四月二日条に
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中臣勝海連が自分の家に兵を集めて、物部守屋を助けようとした。そして太子彦人皇子と竹田皇子の像を作り、その像を傷つけ呪った。暫くして事の成り難い事を知って、帰って彦人皇子の水派宮の方に着いた。
舎人迹見赤檮(とねりとみのいちい)は勝海連が彦人皇子の所から退くのを伺い、刀を抜いて殺した。
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敏達天皇一四年(五八五)三月一日に中臣勝海連は物部守屋と共に崇仏派の蘇我馬子に対抗して、天皇に仏教を排する様奏上した人物で反蘇我馬子派の重要人物の一人とされて居る。その中臣勝海連が物部守屋を助ける為太子彦人皇子と竹田皇子を呪ったと言うのだが、物部守屋や中臣勝海連が最も敵対視して居た筈の蘇我馬子の名がこの中には無い。
その後物部守屋を裏切って押坂彦人大兄皇子の側に着こうとした中臣勝海連を彦人皇子は許す事無く舎人の迹見赤檮に斬殺させたと言うのだから、押坂彦人大兄皇子は可成り激しい性格の人物と思われる。
用明二年(五八六)四月二日と言うと敏達天皇の跡を継いで天皇に即位した用明天皇が重い病に罹り、物部守屋と蘇我馬子の確執が愈々激しく為った頃である。四月九日に用明天皇が崩御し、その後継を巡り両者が戦いを交えたのは七月だからこの話はその直前と言う事に為る。
その頃に押坂彦人大兄皇子は竹田皇子と共に物部守屋側に最も憎まれて居た人物と思われる。即ち物部守屋と蘇我馬子の対立の渦中に在ったと言う事である。処が面白い事に、物部守屋と蘇我馬子の戦いに於いて蘇我馬子の側に味方した皇族や重臣達の名前が『日本書紀』の記述の中には出て来るがその中に押坂彦人大兄皇子の名が無いのである。
しかも押坂彦人大兄皇子の名が在りませんよと言わんばかりに蘇我馬子の側に味方した全ての皇子の名前をこの時に限って全て列挙して居る。何とも微妙な書き方をするものである。『日本書紀』がこの様な書き方をする時にはトリック、即ち『暗号』の存在を疑わ無ければ為らない。
そしてこれ以降、押坂彦人大兄皇子の名は歴史に全く登場し無くなる。病死したか或いは蘇我馬子に暗殺されたのでは無いかと云うのが通説とされて居るが、勿論その様な記録は一切無い。
『日本書紀』は押坂彦人大兄皇子の曾孫、元明天皇の監修の元に編纂されて居たと思われるから、これ程重要な人物にこの程度の事跡しか残されて居らず、没年の記載すら無いと言うのは実に不可解な事と言わ無ければ為らない。又、『日本書紀』の中の物部守屋と蘇我馬子の戦いの記述の中に次の様な記載がある。
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迹見首赤檮が大連(物部守屋)を木の股から射落として、大連とその子等を殺した。
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迹見首赤檮は前述の押坂彦人大兄皇子の屋敷から出て来た中臣勝海連を斬り殺した舎人の迹見赤檮と同一人物である。何と、押坂彦人大兄皇子は戦いに名が見え無くともその舎人の迹見赤檮は戦いに参加して居たのである。
迹見首赤檮はナカナカ剛の者だったらしく、物部守屋とその子達を討ち取ると言う大活躍をして居たと言うのである。この迹見首赤檮の活躍によってそれまで馬子側の苦戦だった戦況が一変、戦いは馬子の勝利に終わる事に為る。この後、迹見首赤檮はこの戦いの功によって馬子より田一万代(一代は百畝)を賜って居る。
因みにこの迹見赤檮は聖徳太子の生涯を記した『聖徳太子伝暦』に依れば、聖徳太子の舎人とされて居る。舎人は天皇や皇族に近侍する官吏の事でその警護も担って居たから忠誠心の強い人物が選ばれて居た筈である。「忠臣二君に仕えず」と言う諺もある様に忠誠心の強い人物はそう簡単には仕える主を代えたりはしないものだ。もし、そうだとすると聖徳太子と押坂彦人大兄皇子は極めて近い関係だった事に為る。
押坂彦人大兄皇子の不可解な人間関係
更にその系譜の内容も大変不可解なものだ。押坂彦人大兄皇子には『日本書紀』の記載によれば四人の后が居る。糠手姫皇女、大俣女王、小墾田皇女、桜井弓張皇女の四人である。その内小墾田皇女、桜井弓張皇女は敏達天皇の皇后、推古天皇の娘だ。
又、糠手姫皇女の母は敏達天皇の采女、伊勢大鹿首小熊の女の伊勢菟名子で、糠手姫皇女は敏達天皇と伊勢菟名子の間に生まれた子である。従って三人とも父は敏達天皇と言う事に為る。一方押坂彦人大兄皇子は前述した様に敏達天皇と皇后の広姫の第一皇子とされて居る。と言う事は、押坂彦人大兄皇子は何と自分の異母妹を三人も后にして居た事に為る。
この時代、近親結婚は左程珍しい事では無いが、自分の異母妹を三人も后にすると為ると何とも異常な事としか言い様が無い。
飛鳥時代、皇族で自分の妹を娶ったと云うケースは、押坂彦人大兄皇子の父とされる敏達天皇が異母妹の豊御食炊屋姫(推古天皇)を皇后にして居るので前例が無い訳では無い。しかし皇族が自分の妹を娶る場合は皇后・正后に限られ、増してや三人とも為ると他に例をみ無い。「万葉的おおらかさ」と解釈するにも程度と言うものがある。
これに較べると天武天皇が兄の天智天皇の娘を四人も妃にして居た事の方がヨッポド真面である。押坂彦人大兄皇子は本当に敏達天皇の皇子だろうか。そもそも敏達天皇の第一皇子で太子とされ乍ら天皇に即位し無かったと言う点も不審である。
巨大古墳 牧野古墳の謎
更に押坂彦人大兄皇子にはその墓の記録が残されて居るのだがその規模が実に驚くべきものだ。『延喜式』の中の諸陵寮と云う項目には歴代天皇、皇族、貴族の陵墓の名称、位置やその規模が記載されて居る。右の図を見て頂きたい。陵墓の規模は墳丘の規模では無く陵域を表して居る。
表(延喜式に記載された主な陵墓)
被葬者名 没年 東西(町)・南北(町) 陵墓名
神武天皇 - 1・2 畝傍山東北陵
応神天皇 - 5・5 惠我藻伏崗陵
仁徳天皇 - 8・8 百舌鳥耳原中陵
雄略天皇 - 3・3 丹比高鷲原陵
継体天皇 531 3・3 三嶋藍野陵
欽明天皇 571 4・4 檜隈坂合陵
敏達天皇 585 3・3 河内磯長中尾陵
用明天皇 587 2・3 河内磯長原陵
崇峻天皇 592 ー ・ ー 倉梯岡陵
聖徳太子 622 3・2 磯長墓
推古天皇 628 2・2 磯長山田陵
押坂彦人大兄? 15・20 成相墓
茅渟皇子 ? 5・5 片岡葦田墓
舒明天皇 641 9・6 押坂内陵
孝徳天皇 654 5・5 大阪磯長陵
斉明天皇 661 5・5 越智崗上陵
天智天皇 671 14・14 山科陵
天武天皇 686 5・4 檜隈大内陵
藤原不比等 720 12・12 多武峯墓
藤原武智麻呂 737 15・15 後阿{施}墓
藤原良継 777 15・15 阿{施}墓
これを見ると押坂彦人大兄皇子の墓域が最大である事が判る。その規模は実に南北二十町と東西十五町である。一町は約百九メートルだから南北約二千二百メートル、東西約千六百メートルもあったと云う事に為りその大きさは全く尋常では無い。
日本最大の墳墓と言えば誰もが思い出すのは仁徳天皇陵である。確かに墳丘だけならそうであるが墓域で比較すれば恐らくこの牧野古墳が日本最大の墳墓だろう。
『延喜式』が編纂された時代は藤原氏の全盛期で、歴代藤原氏の墓の墓域は流石に大きいのだが、それを除くと、次が天智天皇の十四町と十四町である。この二つが大変大きく墳丘の長さが五百メートルもある仁徳天皇の陵域が八町四方、押坂彦人大兄皇子の父とされる敏達天皇が三町四方、押坂彦人大兄皇子の子の舒明天皇が南北六町東西九町、推古天皇の皇太子だった聖徳太子でも三町四方なので、天皇に即位した訳でも無い押坂彦人大兄皇子の墓の墓域は抜群の大きさである。
一体どうしてこの様に大きいのであろうか。大きいのは墓域だけでは無い。その墳丘もこの時代、最大級の大きさを誇って居る。押坂彦人大兄皇子の陵墓の位置は『延喜式』の諸陵寮によると大和国広瀬と為って居る。現在の奈良県北葛城郡広陵町の辺りである。広陵町は法隆寺のある斑鳩から南へ約五キロメートル、斑鳩と明日香の間にある町で広陵町と云う町の名前からして大きな陵墓の存在を窺わせる。
墓の名は『延喜式』によれば成相墓と為って居る。四世紀から五世紀に掛けての古墳群がある事で有名な馬見丘陵公園を東西に通り、竹取公園の前を通ってほぼ西に延びる緩い上り坂に為った広い道路がある。この道を一キロメートル程行き坂を上り切った処で、右手の住宅街の中に緑の樹木に覆われた一角が見えて来る。
これが押坂彦人大兄皇子の墓とされる牧野古墳のある牧野史跡公園である。牧野古墳を過ぎると道路は一転して下り坂に変わるので牧野古墳は巨大でナダラカナ丘陵の頂点にある事に為る。
この近辺は近年新興住宅街として開発された所なのだが、残念な事に古墳の墳丘だけを残して周りはスッカリ住宅地として開発されてしまって居る。
馬見丘陵には多くの古墳があるのだが、この牧野史跡公園の付近には牧野古墳と同時代の古墳が全く無く一基だけポツンと孤立した様な形で存在して居て、明日香村の様に同時代の古墳が沢山あってどれが誰の墓だか判ら無いと言う様な事が無い。
その為、牧野古墳が押坂彦人大兄皇子の成相墓である事はかなり確実と見られ、全国的にも大変珍しい被葬者の名前をほぼ特定する事の出来る古墳の一つとされて居る。被葬者が特定出来ると言う事は築造年代がほぼ正確に割り出せる訳で須恵器(すえき)副葬品が意外に多く残されて居た事と相まって、この時代の古墳や土器の年代判定の基準とされて居る様だ。
牧野古墳の巨大石室
牧野古墳は直径約五十メートルの大型円墳で、墳丘は三段築成に造られて居る。二段目に横穴式石室の入り口があるのだが、残念ながら古くに盗掘されて居て、発掘調査時には石室の入り口は開いて居た。
石室の規模は玄室が長さ七メートル(七・七)、幅三・三メートル(三・五)、高さ四・五メートル(四・八)。羨道が長さ一〇・二メートル(一一・五)、幅一・八メートル(二・四)、高さ二・二メートル(二・六)。全長が一七・二メートル(一九・二)である。因みに( )内が明日香村にある巨大石室で有名な石舞台古墳の数値である。
玄室には奥に横向きに刳抜式の家形石棺が置かれ、手前には組合せ式の石棺が置かれて居たと見られて居るが、石棺は盗掘によって殆ど破壊されて居た。石舞台古墳より僅かに小型だがほぼ同じ規模の石室である。直径が五十メートル程の円墳でありながら大変大きな石室を持って居る。この事からこの古墳が飛鳥時代に造られた古墳である事は明らかで、しかも当時としては最大級の規模を誇る古墳である。
押坂彦人大兄皇子が推古天皇即位後も生存して居た事から見て、築造されたのは推古天皇即位後である事は間違い無い。従って蘇我馬子が政権を掌握して以降の蘇我氏の全盛期にこの古墳は作られた事に為る。しかもこの古墳は大きいだけで無くこの時代の交通の要所にある。
何時の時代でもそうだったのだが、大陸との窓口であった難波と大和を結ぶ交通路は大変重要であった。難波と大和を結ぶルートは牧野古墳の北を通り奈良、斑鳩とを結ぶ龍田越えルートと牧野古墳の南を通り難波と飛鳥を結ぶ竹ノ内越えルートの二つがある。
即ち牧野古墳はこの時代の交通の要所に作られて居て立地的にも第一級の古墳で、恐らく難波と大和を行き来する人々はこの巨大な牧野古墳を横目で見ながら通った事だろう。
しかし、考えても見て欲しい。敏達天皇の太子だったとは言え、天皇に即位した訳でも無く大した事跡も記録に無い様な人物が蘇我氏の全盛期にこの様な立派な墓に葬られると云う事があるだろうか。増してや蘇我馬子に暗殺された人物がこの様な大きな墓に葬られる筈は無い。
古代に於いて権力者達は自らの力を誇示する為に巨大な墓を築造した。墓の規模は葬られた人物の生前に於ける力の大きさを表して居ると見られて居る。従ってこれ程大きな墓に葬られた押坂彦人大兄皇子は飛鳥時代の大実力者だったと見て間違い無い。
天智天皇は蘇我馬子の孫
ではこの巨大古墳に埋葬された押坂彦人大兄皇子とは一体、何者なのだろうか。ここまで来ればもうお判りだろう。答えは簡単である。
前章で述べたが、蘇我馬子と天智天皇の間には血の繋がりがあるらしいと云う事を考え併せると、押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は実は同一人物、即ち押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子の別名であるとしか考え様が無い。そう考えれば押坂彦人大兄皇子に纏わる全ての謎は容易に解ける筈である。
『日本書紀』は蘇我馬子の名を蘇我氏の系譜に記し、馬子の別名の押坂彦人大兄皇子を皇統譜に記し、一人の人物を恰も二人であるかの様に書いたと云う事に為る。この様な記述の仕方は蘇我入鹿を蘇我氏の系譜に記し、蘇我入鹿の別名の高向王を皇統譜に記したのと同様のトリックである。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子が同一人物と云う事は、押坂彦人大兄皇子の孫の天智天皇は実は蘇我馬子の孫だったと云う事に為る。
従って舒明天皇、天智天皇から今に繋がる天皇は蘇我馬子を皇祖、スサノオを皇祖神とする蘇我朝の天皇である。『日本書紀』で押坂彦人大兄皇子が「皇祖大兄」と称されて居たのも『出雲国造神賀詞』でスサノオが「かぶろき」と冠されて居たのもこの為だったのである。
『日本書紀』では押坂彦人大兄皇子を敏達天皇の子として居るのでこれは明らかに欺瞞だ。『日本書紀』は押坂彦人大兄皇子が蘇我馬子の別名であると云う重大な事を記載せず、押坂彦人大兄皇子を敏達天皇の子として記載して居たのである。ここに『日本書紀』最大の欺瞞があるのである。では何故この様な皇統譜の改竄が行われたのであろうか。次の系譜を見て頂きたい。
押坂彦人大兄皇子の真の系譜
実は蘇我入鹿と皇極天皇の子であった天武天皇を舒明天皇と皇極天皇の子とし、実は蘇我馬子の子であった舒明天皇を敏達天皇の孫として居る。
こうする事によって天武天皇以降の天皇の系譜を推古天皇以前の王朝の系譜と繋いだのである。『日本書紀』が編纂された飛鳥時代から奈良時代に掛けては律令体制の整備が強力に進められて居た時代である。その為天皇の権威を高める必要があった。その目的の為には天皇の出自が蘇我氏である事を隠蔽し、皇統譜を神に繋がる万世一系のものにする必要があったのである。
石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓
この様に押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物と考えられるので、蘇我馬子の墓は通説では石舞台古墳だと言われて居たが実は牧野古墳と云う事に為る。
蘇我馬子は推古三四年(六二六)五月二〇日に死んで居る。舒明天皇元年(六二八)九月以降の記録に蘇我馬子の墓を作る為に蘇我一族が集まったとの記載がある。余りに巨大な墓域なので完全に整備する迄には相当な時間を要したものと思われるが、馬子が死んで二年四ヶ月以上経って未だ墓を作って居る。この事からも明日香村の奥の狭い谷間にある石舞台古墳より牧野古墳の方を蘇我馬子の墓と考えた方が好いだろう。
そうすると石舞台古墳は一体誰の墓なのだろうか。石舞台古墳の方が牧野古墳より造りも精巧で新しい古墳と考えられて居るので蘇我馬子以降の人物と考えて間違い無い。蘇我馬子以降の人物であの様な大きな墓を築く事が出来た人物と為ると、その場所が蘇我馬子の邸宅があったと言われる嶋の庄付近である事を考えても蘇我蝦夷かその子の蘇我入鹿しか考えられ無い。
明日香村の遺跡発掘に長年携わった、考古学者の河上邦彦氏がその著書「飛鳥発掘物語」(産経新聞社)の中でこの古墳に付いて興味深い指摘をして居る。
氏によると飛鳥川の支流の冬野川を挟んで反対側にある都塚古墳(一辺が約二十八メートル)が石舞台古墳(一辺が約五十メートル)と同じ方墳で石室の開口方向が同じ南西だそうだ。同時代の古墳の開口方向は大半が真南なのでこの二つの古墳は関係があるのではないかと述べて居る。又、石舞台古墳と都塚古墳は石の積み方が好く似て居ると指摘されて居る。『日本書紀』の皇極天皇元年の条に蘇我蝦夷と蘇我入鹿の墓に付いてこの様な記述がある。
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双墓を今来に造った。一つを大陵と言い、蝦夷の墓とした。一つを小陵と言い、入鹿の墓とした。
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蘇我蝦夷と蘇我入鹿は生前に夫々の大小二つの墓を今来に作ったと云う。河上氏は大小の同じ様な古墳が冬野川を挟んで並んで見える事からこの二つの古墳こそが今来の双墓、即ち石舞台古墳が蘇我蝦夷の墓、都塚古墳が蘇我入鹿の墓では無いだろうかと述べて居るが、筆者もその様に考えて好いと思う。
石舞台古墳からは都塚古墳は間に林が邪魔をして居るので見る事は出来ないが、石舞台古墳の近くに少し高台に通じる周遊遊歩道があり、この遊歩道を登って行くと眼下に雄大な石舞台古墳を見る事が出来る。そして左手に都塚古墳が見通せる。
この二つの古墳は明日香村に存在する古墳の中でも大変好く目立つ位置にある古墳で、古墳からは飛鳥全体が良く見渡せる。恐らく昔は飛鳥からは二つの古墳は綺麗に並んで見えた筈である。
又都塚古墳のある地域は古来より坂田と呼ばれ、飛鳥時代に渡来氏族の鞍作一族が居住して居た地域と言われて居て、この近くには鞍作氏の氏寺と言われる坂田寺の跡が都塚古墳からそれ程隔たっていない所にある。
法隆寺金堂の本尊銅造釈迦三尊像や安居院(飛鳥寺)本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を作った鞍作鳥(止利仏師)はこの一族の出身と言われて居る。『日本書紀』によると蘇我入鹿は「鞍作」とも呼ばれて居たから鞍作一族とも深い関係があった事が判る。この事からもこの古墳と蘇我入鹿の関係が窺われる筈である。
明日香村には多くの古墳があるが石棺を見る事の出来る古墳はそう多くは無い。都塚古墳には凝灰岩で出来た巨大な石棺がほぼ完全な形で残されて居て今も見る事が出来る。もし石舞台古墳に訪れる機会があったらここも是非見学して欲しい。
牧野古墳と桃の核
『日本書紀』の推古天皇三十四年(六二六)五月二十日条によれば、蘇我馬子は「桃原墓」に葬られたとあるが、面白い事に牧野古墳が発掘調査された折、その名の通り石棺の後ろから桃の核が見つかって居る。
偶々馬具の中にあった為に鉄錆が付着して腐敗を免れ奇跡的に残って居たらしいのだが、落ちて居た位置から見て元は石棺の蓋の上に魔除けの供え物として置かれて居たものと見られて居る。石棺の四隅に置かれて居た桃が腐り、その核が転がり落ち、その中の一つが運良く残った様だ。
桃の字が逃に通じる処から、古代において桃の実は邪気を払う呪物として用いられて居て、『古事記』の神話の中にも黄泉の国で雷に追われたイザナキが桃の実を投げつけて退散させる話がある。因みに桃の実が成る季節は初夏である。蘇我馬子が無くなったのは旧暦の五月二十日で、その月の内に葬られて居るのでこれはほぼ符合して居る。
天智天皇が実は蘇我馬子の孫であると云う事は古代史の問題に留まら無い。天皇家の正当性にも関わる極めて重要な事であるのでここは十二分な検証をして置きたい。
『日本書紀』にみる中大兄皇子と蘇我馬子の関係
天智天皇が蘇我馬子の孫である事は『日本書紀』の記述の中からも窺う事が出来るのでここでは幾つか列挙してみよう。先ず、天智天皇の父、舒明天皇の即位の話から。
推古天皇三十六年(六二八)三月七日に長い間天皇の位にあった推古天皇が崩御した。本来推古天皇の後継者は聖徳太子だったが、既に聖徳太子は六年前に亡く為って居る。推古天皇は生前に自分の後継者をハッキリとは決めていなかったので当然次の天皇選びが問題と為った。
候補者は田村皇子(後の舒明天皇)と聖徳太子の子で山背大兄皇子の二人である。後継者を巡って、田村皇子を推す蘇我蝦夷と山背大兄皇子を推す馬子の弟と言われる境部臣摩理勢が対立するが、蘇我蝦夷は境部臣摩理勢を殺害し、その結果蝦夷の押す田村皇子が天皇に即位する訳だが、しかしこれは実に奇妙な話である。
何故なら山背大兄皇子の父は聖徳太子、母は馬子の娘の刀自古娘だから山背大兄皇子は蘇我氏の同族と言って好い程蘇我氏の血の大変濃い皇子である。
一方田村皇子の父は押坂彦人大兄、母は糠手姫皇女だから、押坂彦人大兄を敏達天皇の太子とする『日本書紀』の記述に従えば蘇我氏とは血の繋がりは全く無い事に為る。
蘇我氏は天皇家との血縁関係を重視し、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇と次々と蘇我氏と血の繋がりがある天皇を擁立して権勢を保持して来たのに、ここで山背大兄皇子を外し蘇我氏と血縁関係の全く無い田村皇子を天皇に擁立するなどと云う事は考えられ無い事である。
蘇我蝦夷は田村皇子が敏達天皇の孫では無く蘇我馬子の子だったから天皇に推挙したのである。次に大化改新の切っ掛けと為った大化元年(六四五)六月十二日に起きた乙巳の変の話しである。
この事件で飛鳥板蓋宮に於いて中大兄皇子達によって蘇我入鹿が暗殺された訳であるが、事件に関わった人物の中では中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)の名は歴史の教科書に必ず載って居るので好く知られて居る。しかし、この事件にはもう一人重要な人物が関わって居る。
その人物とは蘇我倉山田石川麻呂である。彼は蘇我馬子の孫だから蘇我入鹿とは従兄弟の関係と云う事に為る。蘇我本宗家滅亡には蘇我氏自らも関わって居た訳で、この事だけでもこの事件が只単に中大兄皇子達が天皇を蔑ろにして専横を極める蘇我本宗家を滅ぼしたと云う単純な図式で無い事が判る。
蘇我入鹿殺害後、急を聞いた東漢氏の一族が武装して集まって来るのだが彼等の動きには興味深いものがある。東漢氏は明日香村の檜隈の地(天武、持統天皇陵や高松塚古墳のある付近)に居住し、主に政治や軍事面で活躍した、蘇我氏の配下とも云うべき渡来系の雄族で、蘇我蝦夷や入鹿の館の警護も彼らが担って居た。征夷大将軍として名高い坂上田村麻呂はこの東漢氏の末裔である。
東漢氏は飛鳥時代に起きた様々な事件に実働部隊として「大活躍」して居たらしく壬申の乱の後、天武天皇に「七つの不可」、即ち七つの大罪を犯したとして大叱責を受ける嵌めに為った程だ。
主が殺害されたのだから彼等と中大兄皇子達との間に戦いが始まっても可笑しく無いのだが不思議な事に戦いは起こら無かった。当初彼等は蝦夷を助ける為集まり戦おうとするのだが、蘇我の一族の高向臣国押に「我等は入鹿の罪によって殺されるだろう。蝦夷も今日、明日にも殺される事は決まって居る。されば誰の為に空しく戦い、皆処刑されるのか」と説得され戦わずに散ってしまったと云うのだ。何とも連れ無い話である。
既に入鹿が殺され、残されたのは高齢で病気勝ちの蝦夷とあっては、このまま最後まで蝦夷を守る為に戦って滅ぶより大海人皇子の再起に賭けたのだろう。その後壬申の乱で彼等は活躍する事に為る。
東漢氏を説得した高向臣国押だけで無く、蝦夷の館を攻めた将軍の巨勢徳陀臣も高向氏と同様に蘇我氏の一族だから、中大兄皇子側には多くの蘇我の一族が味方に付いて居ただけでは無く事件では中心的な役割を果たして居た事に為る。蘇我の宗本家は中大兄皇子と蘇我の一族に依って滅ぼされたと言って好い程だ。事件は蘇我氏の内紛だったのである。
事件の二年前に蘇我入鹿は皇位継承を巡って対立して居た山背大兄王の一族を滅ぼして居る。それを聞いた蘇我蝦夷は「アア、入鹿は何と愚かな事をしたのだ。お前の命も危ういものだ」と激怒した。山背大兄王の一族を滅ぼした事で蘇我入鹿は蘇我一族の中でスッカリ孤立してしまって居たのである。
入鹿殺害後、中大兄皇子達は蘇我氏の氏寺と言って好い飛鳥寺(法興寺、元興寺とも云う)に陣を設営したが、この時全ての諸々の皇子、諸王、諸卿大夫、臣、連、伴造、国造等がこれに従って居る。中大兄皇子達は彼等に服属を要求し、その場として近くにある皇極天皇の宮殿では無く飛鳥寺を選んで居る。自分達が蘇我宗本家に取って代わり蘇我馬子の後継者に為った事を誇示する為と考えられる。
この後天智朝、天武朝に於いて飛鳥寺は外交、政治の重要な舞台として度々登場する。更に、事件の約2ヶ月後の八月八日に、事件の直後、退位した皇極天皇の後に即位した孝徳天皇は使いを飛鳥寺に使いを遣わし、僧尼を集めて次の様に詔を出して居る。
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欽明天皇の一三年に百済の聖明王が仏法を我が国に伝えた。この時、群臣達は皆これを広めようとし無かった。しかしながら蘇我稲目宿禰は一人その法を受け入れた。
天皇は稲目宿禰に詔して、その法を信奉させた。敏達天皇の世に、蘇我馬子宿禰は父の遺風を尊重して、仏の教えを重んじた。しかし他の臣は信じ無かった。その為仏法は殆ど滅びようとして居た。
天皇は馬子宿禰に詔して、その法を信奉させた。推古天皇の世に馬子宿禰は天皇の為に、丈六の繍像、丈六の銅像を造った。仏教を顕揚し、僧尼を慎み敬った。 自分は更に又、正教を崇め、大きな道を照らし開こうと思う。
沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣、恵妙を以て、十師とした。別に恵妙法師を百済寺の寺主にした。この十師達は、多くの僧を教え導き、釈教を修行する事、必ず法の如くせよ。
およそ天皇より伴造に至る迄の人々の造った寺が、営む事が難しければ、自分が皆助けて遣ろう。今、寺司達と寺主とを任命する。諸寺を巡って、僧尼、奴婢、田畑の実情を調べて、全て明らかにして奏上せよ
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要するに、天皇は蘇我蝦夷・入鹿の暗殺事件の直後でありながら、入鹿の祖父の蘇我馬子や祖祖父の蘇我稲目の仏教に於ける功績を大いに賞賛し、そして自分も彼等に習って仏教を尊ぶ事を表明して居るのだ。
天皇が賞賛して居たのは日本で仏教を広めたとされる聖徳太子では無いのである。歴史学者は蘇我の宗本家を滅ぼした直後にこの様な詔が出されるのは実に奇怪な事だと言って居る。『日本書紀』に従うならば全くその通りであろう。しかし蘇我馬子は中大兄皇子や孝徳天皇の祖父なのだから何ら奇怪な話しでは無いのである。
又、天智天皇三年(六六四)の六月に
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嶋皇祖母命薨りましぬ
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とある。天智天皇の祖母(敏達天皇の娘の糠手姫皇女)が死んだと云う記事なのだが、名前に「嶋」と付いて居る事に注意して貰いたい。蘇我馬子は「嶋大臣」とも呼ばれて居たと云う事が『日本書紀』に記載されている。
これは蘇我馬子の邸宅に池があり、その池の中に小さな嶋が築かれて居た事からその様に呼ばれて居たと記載されて居るが、天智天皇の祖母に「嶋」と付いて居るのは祖母が蘇我馬子の妃であった事を示して居るのでは無いだろうか。
中大兄皇子は皇太子の時にその宮殿(飛鳥稲淵宮)を蘇我馬子の邸宅の近くに建てて住んで致し、大海人皇子も壬申の乱の時吉野へ向かう途中、嶋の宮に宿泊して居る。嶋の宮はこの蘇我馬子の邸宅の事で、飛鳥に於ける大海人皇子の宮殿であった。
天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子も同様に嶋の宮に居を構えて居る。即ち次期皇位継承予定者は次々と蘇我馬子の邸宅があった所に住んで居た事に為る。次期皇位継承予定者に取って嶋の宮に住む事は、自分が蘇我馬子の正統な後継者で次期の天皇である事を世間に認知させる為に必要な事だったと考えられる。
更に、天智天皇十年(六七一)九月に天智天皇は病に臥す。翌十月に、天皇は使いを遣わし、袈裟、金鉢、象牙、沈水香、栴檀香、及び数々の珍宝を飛鳥寺に奉納して居る。詰まり自らの病の平癒を飛鳥寺に祈願して居るのである。父母に縁のある百済寺や川原寺では無く飛鳥寺なのである。
飛鳥寺は蘇我馬子の発願によって建てられた蘇我氏の氏寺である。崇峻天皇を殺した人物が建て、天皇を蔑ろにして専横を極めたとされる一族の氏寺に天智天皇が自らの病の平癒を祈願して居たのだ。天智天皇は蘇我の一族であると見なければこの様な天智天皇の行動は到底理解する事が出来ない。
天智天皇の死の直前、大友皇子は近江京の内裏の西殿に於いて主な臣下を集め、忠誠を誓わせて居る。その顔触れは左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣である。紀氏も高向氏や巨勢氏同様、蘇我氏の一族だ。即ち中臣鎌足の従兄弟と言われる中臣金連を除けば他は全て蘇我氏とその一族と云う事に為る。皇子や王等の皇族すら一人も入って居ない。
天智天皇は主な重臣を蘇我氏とその一族で固めて居た訳で、この事からしても天智天皇は蘇我の一族である事が判ろうと云うものだ。そうで無ければこれ程蘇我氏に偏った人事を行なう必要は何処にも見い出す事はできない。
以上の事から舒明天皇は蘇我馬子の子であり、天智天皇は蘇我馬子の孫である事は十分理解して頂けたと思う。もし天智天皇に蘇我氏と全く血の繋がりが無いと云う事なら飛鳥時代、飛鳥にはおおよそ理解し難い様な思考の持ち主ばかりが居たと云う事に為ってしまうだろう。
その15につづく
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