2018年06月09日
古代からのお話し その13
その13
第四章 天武天皇と壬申の乱
大国主神とスサノオの関係
ここで注目して頂きたいのはスサノオと大国主神の系譜上の関係である。ここから実に驚くべき事が判明する。『古事記』ではスサノオと大国主神の関係は次の図の様に為って居る。
スサノオの系譜はスサノオと正妻のクシナダヒメの間から六代後に大国主神に繋がって居る。『日本書紀』の正伝では、大国主神はスサノオの子とされて居るし、異伝では五代後又は六代後の子孫とされて居る。
それも単なる子孫では無い。六代もの長きに渡って途中で枝分かれする事無くそのまま、真っ直ぐ大国主神まで繋がって記述されると云う大変判り易く、しかも特異な形と為って居る。即ち大国主神は、スサノオの直系の子孫なのである。
そうすると、大国主神の正体は天武天皇、スサノオの正体は蘇我馬子と考えられるから天武天皇は蘇我馬子の直系の子孫だったのでは無いだろうか。そうで無ければ天武天皇はこの様な系図の書き方はしないだろう。
恐らく天武天皇は、自分は蘇我氏の嫡流であると強く意識して居たのでは無いだろうか。蘇我氏の嫡流は、馬子の次は子の蝦夷、そして孫の入鹿と続き、それ以降の記録は存在しないが、天武天皇が蘇我氏の嫡流と為ると世代から考えて蘇我入鹿の次と考えて好いだろう。即ち天武天皇は実は蘇我入鹿の子だったのでは無いだろうか。
『日本書紀』で天武天皇は兄の天智天皇や間人皇女と共に舒明天皇と皇極天皇(後に重祚して斉明天皇、重祚とは一度退位した天皇が再度即位する事)の間の子であると明記されて居るから、これは明らかに『日本書紀』の記述とは大きく異なる事に為る。
天武天皇出生の謎
天武天皇は実は蘇我入鹿の子だったのでは無いか、と云うとビックリ仰天された読者も多いのでは無いだろうか。実はこの天武天皇の出生に付いて、強い疑問が主に在野の歴史研究者からだが、近年次々に出されて居る。
『日本書紀』では天武天皇と天智天皇は共に父が舒明天皇・母が皇極天皇の実の兄弟とされて居るのだが、実はそうでは無いのでは無いかと云うのである。
最初にこの疑問を提出したのは歴史作家の佐々克明氏である(「天智・天武は兄弟だったか」『諸君』 文藝春秋社 一九七四)。因みに、氏は危機管理で有名な元内閣安全保障室長の佐々淳行氏の兄である。それは次の様な理由による。
先ず『日本書紀』では天武天皇は天智天皇の弟として居るが、後世の文献を調べると天武天皇と天智天皇の兄弟関係が逆転してしまうのだ。『日本書紀』によれば、天智天皇は父の舒明天皇が舒明天皇十三年(六四一)に亡く為った時「東宮開別皇子(天智天皇)、年十六にして誄をされた」とある。
「誄」とは今で言うと葬式で述べられる弔辞の事だが、舒明天皇十三年に十六歳と云う事は天智天皇が崩御(六七一年)した時は四十六才だった事が判る。一方、天武天皇に付いては『日本書紀』に年齢の記載が全く無い。只朱鳥元年(六八六年)九月九日に崩御したと記されて居るだけだ。
天武天皇の命で『日本書紀』に至る国史の編纂が開始されたとされ、天武天皇の記載に関して『日本書紀』は三〇巻中二巻を費やして居る。一代の天皇に二巻を費やして居るのは天武天皇のみで、一巻は壬申の乱を中心とした即位に至る経緯を、もう一巻は即位後の事跡を記している。
記載が最も多いにも関わらず、年齢に関する記載が全く存在しないのである。
処が後世の歴史書『一代要記』(鎌倉中期成立)や『本朝皇胤紹運録』(南北朝時代成立)等には没年齢が記載され、それによると天武天皇の没年齢は六五歳と為って居る。
天武天皇の没年齢を六五歳とすると、天武天皇が崩御したのが朱鳥元年(六八六)だから、天智天皇が崩御した十五年前には天武天皇は五十才だった事に為る。
そう為ると天武天皇の方が天智天皇より四歳年上と云う事に為ってしまい、『日本書紀』の記述と食い違う事に為ってしまう。その為六五歳を五六歳の写し間違い、或いは錯誤とする説が出され、これだと年齢の矛盾は無く為り、どうした訳かこの説が今では通説と為って居る。しかしアラビア数字なら兎も角、漢数字での記載にこの様な写し間違い、錯誤は考え難く、この様な解釈はかなり無理がある。
天智天皇と天武天皇以外の天皇ではこの様な矛盾は生じてはいないので天智天皇と天武天皇の兄弟関係に不審が持たれたのである。更に不可解なのは、天智天皇の娘が四人(大田皇女・鸕野讃良皇女・新田部皇女・大江皇女)も天武天皇に嫁いで居る事だ。
この時代は朝廷内に於いて血統が重視される余り近親結婚が大変多く、例えば古人大兄皇子の娘の倭姫皇女は古人大兄皇子の異母弟の中大兄皇子に嫁いで居るし、天武天皇の母の斉明天皇は叔父の舒明天皇に嫁いで居る。又、天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子は母の異母妹の阿閉皇女(後の元明天皇)を后として軽皇子(文武天皇)氷高皇女(元正天皇)を設けて居る。
しかし、兄の娘が実の弟に四人も嫁いだと言うのは如何にも異常である。何より兄が実の弟に娘を四人も嫁がせ無ければ為らない理由が見あたら無い。そこから天智天皇と天武天皇は実の兄弟では無く、天智天皇が娘を四人も嫁がせたのは、大海人皇子との争いを避け自分の側に引き着けて置く為の政略結婚なのでは無いかと見られたのだ。実の兄弟ならこの様な政略結婚は必要無いと言う訳である。
天智天皇と天武天皇は異父兄弟
ではこの兄弟は実の兄弟では無いとすると、どの様な兄弟だったのだろうか。蘇我入鹿は中大兄皇子によって暗殺されて居るので、大海人皇子の父が蘇我入鹿と云う事なら父が同一と云う事は有り得無いだろう。一方『古事記』の話の内容からみて天武天皇は、天智天皇とは兄弟であると云う認識は持って居るので、この事から母は同じと見て好い。父が違うのに母まで違って居たら兄弟では無く為ってしまうからだ。
『日本書紀』の天武天皇即位前紀にも天武天皇は天智天皇の同母弟であると明記されて居る。即ち天武天皇と天智天皇は、母は同じでも父の異なる異父兄弟だったのでは無いだろうか。この事に関して『日本書紀』の斉明紀の初めに次の様な注目すべき記載がある。
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天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)は、初めに用明天皇の孫高向王に嫁いで、漢皇子をお生みに為った。
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斉明天皇は最初に用明天皇の孫の高向王に嫁いで漢皇子と云う皇子を産み、その後、天智天皇の父の舒明天皇と再婚したと云うのだ。ワザワザ書か無くても好い様な記事である。前述した二つの奇妙な記述もそうであったが、無用とも思える様な記事がさり気無く書かれて居ると云うのが『暗号』の特徴の一つである。この様な記事には注意し無ければ為らない。
高向王の名は『日本書紀』のここにだけ見える名で、王と為って居るので皇族であると思われるが、他の文献には高向王の名は全く存在しない。歴史研究家の小林惠子氏がその論文「天武天皇の年齢と出自について」(「東アジアの古代文化」一六号)で、この漢皇子が大海人皇子では無いかとの説を出して以来、この説を唱える研究者が増えて居る。小林惠子氏は、この漢皇子は大海人皇子の別名では無いかと考えたのである。
天智天皇も中大兄皇子の他に葛城皇子とか開別皇子と言った名前があり、天武天皇が複数の名前を持って居たとしても何ら不思議な事では無い。筆者も大海人皇子と中大兄皇子は異父兄弟で、漢皇子は大海人皇子の別名であると考えて居る。
そうすると天武天皇の父は蘇我入鹿と考えられるので、皇極帝の前夫の高向王は蘇我入鹿と云う事に為る。即ち『日本書紀』は蘇我入鹿とその別名の高向王を恰も別人の様に記し、蘇我入鹿を蘇我氏の系図に、そして入鹿の別名の高向王を皇統譜に記して居たと考えられるのである。
地獄に墜ちた皇極天皇
蘇我入鹿が皇極天皇の前夫の高向王とすると、大化元年(六四五)六月十二日に起きた乙巳の変(大化の改新)で、蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮大極殿に於いて中大兄皇子達に暗殺されるのだが、蘇我入鹿は何と気の毒な事に元妻の皇極天皇の眼前で、天皇の再婚相手(舒明天皇)との子である中大兄皇子に惨殺された事に為る。
これでは蘇我入鹿も堪ったものではあるまい。このまま黙って成仏する訳にも行か無いだろう。この様な時古今東西、人間の考える事は決まって居る。それは「化けて出てやる」だ。蘇我入鹿もそれを実行に移して居る。
『日本書紀』の斉明天皇元年(六五五)五月一日条に
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空に竜に乗ったものが現れた。その容貌は唐の人に似て居た。油を塗った青い絹で作られた笠を着け、葛城山の方から空を馳せて生駒山の方向に隠れた。正午頃に住吉の松嶺の上から西に向かって馳せ去った。
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斉明天皇七年(六六一)五月九日条には
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宮殿内に鬼火が現れた。この為大舎人や近侍の人々に、病気に為って死ぬ者が多かった。
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更に斉明天皇が朝倉宮(福岡県朝倉町)にて崩御した後、斉明天皇七年八月一日条には
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この宵、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を覗き見て居た。人々は皆怪しんだ。
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怪人が空を飛び回って居たり、斉明天皇の周辺に鬼火や鬼が現れたりと、現実にこの様な事が起きて居たとはとても思え無いが、斉明天皇に前夫の殺害に関わったと云う忌わしい過去が存在する事を『日本書紀』の編纂者はこの様な不吉な『暗号』として書き残して居たのだろう。
又、長野県に本田善光を開祖として皇極天皇(斉明天皇)の勅願によって創建されたと言われる善光寺がある。この善光寺に仏教の誕生から日本への伝来、善光寺創建の経緯を語った有名な『善光寺縁起』があり、この縁起の中にも皇極天皇に関する記載がある。それはこの様な物語だ。
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善光の嫡子善佐が突然死んだ為、悲しみに暮れた善光夫婦は、善佐の命を救って呉れる様如来に祈願した。
そこで如来は地獄の閻魔大王に掛け合う事に為った。そして夫婦の願いが叶い、善佐はこの世に帰る事に為ったのだが、その途中で善佐は地獄に堕ちて地獄の責苦に遭って居た高貴な女性と出会う。
女帝の皇極天皇である。このいとやんごと無きご婦人を是非お救い下さる様善佐は如来にお願いし、如来はお供の観世音菩薩を閻魔大王に遣わし救って呉れる様乞うのだが、女帝の罪状は重いのでそれは不可能であると拒否されてしまった。
しかし何とか願いが叶って二人とも生き返る事が出来た。娑婆に戻る事が出来た皇極天皇は大変感謝し、善佐を甲斐の国司に任じ、善光を信濃の国司として、勅願によって善光寺を創建した。
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皇極天皇は地獄に堕ちて居たとは散々な書かれ様であるが、地獄に堕ちた具体的な理由は書かれていない。皇極天皇が地獄に堕ちたのは以上の様な事情があったのである。
又奈良県桜井市の藤原鎌足を祀る談山神社に伝わる多武峯縁起絵巻(室町時代)の蘇我入鹿暗殺場面の絵には中大兄皇子によって切り落とされた蘇我入鹿の首が後ろ向きに為って逃げ様とする皇極天皇に向かって飛んで行く、一寸不気味な絵が描かれて居る。
恐らく蘇我入鹿暗殺の真相はかなり後世迄一部で密かに語り継がれて居たのだろう。この様な醜聞めいた噂話はナカナカ消えて無く為らないものだ。『暗号』は様々な処で多くの人々によって残されて居たのである。
この蘇我入鹿暗殺事件は皇極天皇に取って大きな衝撃だったに違い無い。事件後直ぐに天皇は退位してしまった。そして斉明天皇の晩年は精神的に不安定だったらしく奇行が目立つ様に為る。『日本書紀』の斉明天皇二年(六五六)にはこの様な記載がある
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多武峯に、周りを取り巻く垣を築かれた。又頂上の二本の槻の木の傍に高殿を建てた。名付けて両槻宮と言った。又天宮とも言った。天皇は工事を好まれ、水工に香久山の西から石上山まで溝を掘らせた。舟二百隻に石上山の石を載せ、水の流れに従って引き、宮の東の山に石を積み垣とした。
時の人はこれを非難して、「戯れ心の溝工事。無駄に人夫を三万余も費やした。垣造りの人夫の無駄は七万余。宮材は腐り、山頂は埋もれた」と言った。又「石の山岡を作る。作った端から壊れるだろう」と非難する者も居た。
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多武峯を中心に石垣を張り詰めた様な異様な構造物を次々に建造し、斉明天皇の戯れ心だと言って人々の顰蹙を買ったと云うのだ。この時斉明天皇が作った宮の遺構が明日香村に遺されて居る。明日香村岡の「酒船石遺跡」である。
「酒船石遺跡」は伝飛鳥板蓋宮跡の東方、謎の石造物・酒船石がある丘陵で、平成十一年十一月からの発掘調査で亀型の石造物や大規模な石垣の遺構の一部が見つかり全国的な話題に為ったので覚えて居られる方も多いと思う。
天智天皇は父の仇
又、天武天皇が蘇我入鹿の子だったとすると、天武天皇に取って天智天皇は、父の仇と云う事に為る。『古事記』に於いて天武天皇が兄の天智天皇を扱き下ろして居るのもこれが原因と見て好いだろう。
父の仇とは言え、一方では母を同じくする血の繋がった兄弟だから母の目の前で敵討ちをする訳にも行かず『古事記』の中で立派で無い人物を天智天皇をモデルに描く事によって鬱憤晴らしをしたと云う処では無いだろうか。
又、乙巳の変に於いて中大兄皇子達は蘇我蝦夷・入鹿の殺害には成功したが、大海人皇子は逃がしてしまったのだろう。この様な事態は周到な計画を立てて居た中大兄皇子に取っては計算外の事であった。従って、その後の関係改善の為、次々と自分の娘を大海人皇子に嫁がせたものと思われる。
中大兄皇子と共に入鹿の殺害に加わった中臣鎌足も同じく自分の娘の、藤原氷上娘と藤原五百重娘の二人を大海人皇子に嫁がせて居る。一方、鎌足は中大兄皇子には娘を一人も嫁がせて居ない。中臣鎌足は乙巳の変の首謀者の一人だから大海人皇子には特に気を遣わざるを得無かったのだろう。
しかし、この位では大海人皇子の怒りは収まら無かったらしく、天智天皇の即位を祝う宴で、大海人皇子が突然長槍で敷板を刺し貫き、激怒した天皇は大海人皇子を殺そうとしたが、中臣鎌足の必死の執り成しで事無きを得たと云う話が『大織冠伝』(鎌足の伝記)に記載されて居て、この事件以降、それ迄中臣鎌足を嫌って居た大海人皇子は鎌足に対する考え方を改めたと言われて居る。
何故中大兄皇子は長年即位出来無かったか
中大兄皇子は孝徳天皇の時、皇太子とされながら、孝徳天皇崩御の後、中大兄皇子は天皇に即位せず、母が重祚して天皇に即位する。斉明天皇没後は、七年間も即位せずに政務を執って(称制と云う)居り、足掛け23年間も皇太子のままであった。これは古代史の大きな謎とされて居る。
この謎は大海人皇子が蘇我入鹿の子と考えれば容易に説明する事が出来る。蘇我馬子や蘇我蝦夷がそうだったが、蘇我の宗本家は皇位継承の決定権を握って居た。中大兄皇子は天皇に即位したくても蘇我宗本家に当たる大海人皇子の同意無しには即位する事は出来なかったのでは無いだろうか。
恐らく父の仇である中大兄皇子の天皇即位を大海人皇子は簡単には承認し無かったのだろう。そこで仕方無く二人の母の皇極天皇が再度斉明天皇として即位したものと思われる。
斉明天皇六年(六六〇)に百済が唐に攻められて滅亡し、百済復興を目指し斉明天皇は九州の筑紫の朝倉宮に移るが間も無くそこで崩御した。
その後、孝徳天皇の皇后で中大兄皇子の実妹の間人皇女が天皇の地位を代行して居た(中皇命として万葉集に登場する)と思われるが、その間人皇女も天智天皇四年(六六五)に没し、中大兄皇子以外には天皇に即位出来る人物はいなく為る。
天皇位は空位に為り、誰も即位しないまま中大兄皇子が政務を執り続けるが、百済復興を目指し朝鮮半島に派遣した日本軍が白村江の戦い(六六三年)で大敗し、国防の強化を迫られるに及び、流石に何時までも天皇を空位にして置く訳にもいかず、中大兄皇子の天皇即位(六六八年)を大海人皇子は渋々了承したのではないかと筆者は考えている。
壬申の乱は何故起きたのか
大海人皇子が蘇我入鹿の子と為ると壬申の乱の原因も考え易く為る。壬申の乱は皇位に野心を持って居た大海人皇子と、天智天皇の子で皇太子の大友皇子が天智天皇の崩御後、皇位継承を巡って戦ったと云うのが通説と為って居て教科書にもそう説明されている。しかし筆者はこの説には全く従え無い。
何故なら大友皇子の妃は大海人皇子の娘の十市皇女である。しかも額田王との間に生まれた大海人皇子に取っては最初の子で、彼女に対する思いは一入だった筈。しかも二人の間には葛野王と云う子も生まれて居た。
古代に於いて妃や母の実家は天皇に取っては重要な政権基盤だったから大海人皇子は天皇に即位しなくても大きな影響力を行使出来る立場にあった筈だ。現に後の藤原氏はこの様な形で権勢を誇って来た。
天智天皇からの即位の要請を断り、出家した大海人皇子が大友皇子を倒してまで皇位に就きたいと思って居たとは考えられ無いのである。
一方大友皇子に取って、大海人皇子は叔父であると共に義父にも為る。大友皇子の母は伊賀国出身の妥女(地方豪族から天皇に献上された身分の低い女官)だから母方の実家の実力は知れている。
大友皇子に取って強力な後ろ盾になり得るのは妃の父の大海人皇子しかいなかった筈である。大友皇子は大海人皇子との関係を重視しこそすれ殺害しなければなら無い理由は無い。大海人皇子が居なくなると一番困るのは大友皇子自身である。
では何故壬申の乱は起きたのであろうか。蘇我入鹿や蝦夷が殺害された乙巳の変では中大兄皇子や中臣鎌足以外にも多くの者が事件に関わって居たと考えられる。それらの者達やその関係者は天智朝において未だ多く居たと考えられ、彼等は大海人皇子の存在を恐れて居たのでは無いだろうか。
大海人皇子が吉野へ出家する際に、宇治まで見送りに来た重臣達の誰かが「翼を着けた虎を野に放した様なものだ」と言ったのはその現れだ。「虎」は強くて恐ろしいものを象徴して居る。その虎を自由にしてしまった事を重臣達は不安に思って居たのである。
更に天智天皇の死後、大友皇子の政権基盤の脆弱さに着け込み、政治の実権を握る事も考えて居た彼等に取って、大海人皇子は何としても排除して置きたい存在だったと思われる。
天智天皇の崩御後、彼等は大海人皇子の殺害を共謀し、大友皇子はそれに巻き込まれたと云うのが事件の真相だったのでは無いだろうか。
『日本書紀』の中でも大海人皇子とその臣下は、大海人皇子の殺害を謀って居るのは近江朝の廷臣であると言って居り、大友皇子だとは一切書かれて居ない。
寧ろ大友皇子は大海人皇子殺害には消極的だった様で、大海人皇子が東国に脱出した直後、大海人皇子を急追する様臣下から進言を受けたが大友皇子はそれには従わ無かったと『日本書紀』には記されて居る。
この事に関してNHKの某歴史番組の中で大友皇子は大海人皇子を追撃せずに寧ろ堂々と戦いを挑み、大海人皇子だけで無くその支持勢力をも一掃しようと考えて居たとのコメントがされて居たが、当時の近江朝廷の状況を全く無視した内容にビックリした。
大海人皇子が近江から吉野に向かったと云うだけで不安に戦き、東国に脱出したと聞かされて大騒ぎに為った近江朝廷側にその様な余裕があるとは思え無い。
この様な場合には例え失敗に終わろうとも、一刻も早く追撃し、相手の戦力が不十分な内に決戦に持ちこむと云うのが戦いの定石だ。臣下の進言に従わ無かった大友皇子には大海人皇子と戦うと云う積極的な意志は無かったと見るべきである。
大友皇子の后、十市皇女の父である大海人皇子も同じ気持ちを持って居たと思われる。大海人皇子が天智天皇から即位する事を打診された時、大海人皇子は即位を断ると共に皇后を天皇に即位させる事を進言して居る。
天智天皇が崩御した後、その重臣達との間に戦いが起こり得る事は大海人皇子も十分覚悟して居ただろう。もしそう為った場合、女帝なら傍観する事も可能で少なくとも命を落とす事は無いだろうが、大友皇子が天皇に即位して居たのではその立場上、戦いに巻き込まれざるを得無いのである。
有間皇子の殺害にも関わり、重臣達の中で最高位の左大臣蘇我赤兄を中心とする近江朝廷の重臣達と大海人皇子の権力闘争だったと云うのが壬申の乱に対する筆者の考えである。
乱の後、天武天皇は、若くして自ら命を絶つ事に為ってしまった大友皇子を不憫に思って居た様で、大友皇子には葛野王と大友与多王と云う二人の男子が居たが、二人とも殺される事も流罪に為る事も無かった。
葛野王は後の持統朝で活躍して居た。又大友与多王は後に父を弔う為寺を建てて居るが、その時に天武天皇から「園城寺」の勅額を賜ったと言われて居る。勅額を賜ったと云うのだから寺の創建に当たってはかなりの支援を受けたのだろう。
この寺が滋賀県大津市にある湖国切っての名刹として知られる天台寺門宗総本山、園城寺(三井寺)で、大友皇子の墓(弘文天皇陵)はこの寺の近くにある。
年上の天武天皇が何故弟か
サテ、大海人皇子が実は皇極天皇が最初に嫁いだ高向王、即ち蘇我入鹿の子だとすると、大海人皇子の方が皇極天皇が舒明天皇と再婚して設けた中大兄皇子より年上だと云う事に為るが、ここで読者は大きな疑問を抱かれた筈だ。
『日本書紀』の中で大海人皇子は皇弟、大皇弟、或いは皇太弟と書かれて居る。『古事記』の神話や説話の内容からも大海人皇子は、自分は弟であると云う認識を持って居た事が判る。何故大海人皇子は中大兄皇子より年上にも関わらず弟なのだろうか。
年上の妻と云うのは好く聞く話だが兄より年上の弟と云うのは先ず聞いた事が無い。兄より年下だからこそ弟なのではないのか。大海人皇子と中大兄皇子を異父兄弟とし、大海人皇子を中大兄皇子より年上と見る研究者もこの問題は避けて居る。しかし避けて通れる問題では無いだろう。
又、大海人皇子が蘇我入鹿の子と云う事なら彼は皇族で無かった事に為る。それなのに何故彼は天智天皇の皇太子と為り、壬申の乱の後、天智天皇の後継者として天皇に即位出来たのであろうか。
この謎を解き明かす為に更にスサノオについて調べて行きたい。
その14につづく
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