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2018年06月28日

一兵士の戦争体験 その4


 その4


 ◆教官の手伝い

 一ヵ月二ヵ月過ぎて行く内に、体操は先ず教官が指導し助教が遣って見せる。次に「小田、お前号令を掛けて体操を遣れ」と言う。又、私を名差して「週番士官の実施目標を言ってみよ」と為る。何時、何を聞かれても私なら確実に答える。教育を受けた内容を全て覚えて居るので、教官、助教、助手から認められ、同期の教育兵からも信頼される様に為った。

     8-31-8.jpg 倒れた馬を助ける


 中学(旧制)で五年間、更に専門学校(旧制)で三年間教練を正課授業で受けて居るが、教練と云う学科は軍隊でする事と同じ事を習うので誰よりも好く出来るのは当たり前の事である。
 私も召集で来ているが、現役と同じ年令で来て居り、若い最中なので記憶力は好いし私より年が五歳も十歳も大きく地方で各種の職業を持ち召集で来た人より学科で一歩先んじて居るのは当然の事だった。寧ろ、基本の教科が分から無い同期の人達に好く教えて挙げたものだ。
 そんな事で模範的存在に為り有難い事だった。又、同期の召集兵だけの時には常に私が引率者と為り号令を掛けて居り、皆も安心して付いて来ていた。しかし、馬の扱い方や車を引く実務に着いては皆と同じで、自信は無く半分恐る恐る遣って居り、只、事故を起こさ無い様に特に目立った失敗をし無い様に心掛け、細心の注意を払って来た。

 その結果、馬の扱い方も順調に身に着き人並に遣れる様に為った。馬を扱う実務に着いては、お互いに協力し合って遣る事が多いので皆に助けて貰った事の方が多かったかも知れ無い。しかし自分自身も好く頑張って来たと思う。
 何処の社会でも同じであるが、軍隊では特に要領が悪いと叱られたり殴られたりする事が多く為る。例えば、指示に従わ無い、生意気、感じが良く無い、サボって居る、不真面目、動作が鈍い、覚えが悪い、事故を起こす等悪い印象を与えてしまうとメッコを入れられて叱られ殴られる回数が多く為る。
 それは訓練時間中は勿論、厩に居ても内務班内に於いても所構わず、教官、助教、助手を始め下士官や班内の古年兵からもその他兵営内の先輩の兵隊からも遣られるのだ。

  

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 軍隊では朝昼晩の区切りは無い、眠って居る間以外は二十四時間連続であり、それも激しい制裁だから堪ら無い。それで鍛えられるのだと言えばそれまでだが。
 私は格別要領が好い方では無く敏捷(びんしょう)な方でも無い。でも、入隊前に郷里の河本梅雄さんに聞いた事を大いに参考にして頑張った。それに本来真面目だし、内務班での行動も的確だからお陰で評判も悪く無かった。偶に些細なヘマやミスがあっても機転を利かし要領良くカムフラージュし、上手に息を抜く事も結構遣って居た。そうでなけば遣って行けないから。

 兎に角、体を使い心も使い一生懸命に遣った。そんな事で数ヵ月の教育期間を済ませ、お陰で検閲(けんえつ)を優秀な成績で終える事が出来た。軍隊で教育を受ける期間は決して樂では無い。苦しい苦しいの連続であるけれども、皆に認められながら過ごせた事は有難い事であった。今顧みると、それは私の青春を飾る一コマであったかも知れ無い。  
 軍隊では心身鍛錬と気分転換の為相撲を好く取らされていたが大抵(たいてい)勝って居た。ある時勝ち残りにしたら、五人に連続で勝ったのは痛快だった。特に相撲の練習をした訳では無いが案外腕の力が強く柔道の業を習って居たので体格の大きい人をも負かせる事が出来た。
 学生時代から、マラソンや千五百メートルを走る事は苦手で中以下であった。軍隊に入ってから軍装を整え長距離を走る事は苦しく苦手であった。小柄だからコンパスが短く、ヤヤ太り目でガブガブの靴を履いて走るのだから、尻から三分の一位の順位で目立った遅れ者に為ら無い様頑張った。
 でも軍隊の訓練は厳しいので次第に駆け足にも馴れて来て、月日が経つと苦しさは緩和し大分好く走れる様に為って来た。

  ◆橘(たちばな)教官のこと

 或る夜、皆床に着いた消灯後、教官である橘見習士官が「小田、遣って貰いたい用事があるから将校室に来い」と第四班の入り口で大きな声で私を呼んだ。今迄に何回か書き物や図表等を作成する作業を手伝った事はあったが、何だろうかと思いながら将校室に入った。当然の事ながら電灯は明るく点いて居り他の見習士官(みならいしかん)は本を読んでいた。

「小田、これを食え」と言って出されたものは、箱に一杯入った鮪(まぐろ)寿司ではないか。赤く輝く魚のトロがコンモリと波打って居た。私は思わず胸が迫った。何故、私をこんなに可愛がって下さるのだろうかと思いながら「ハイ」とやっと返事が出来ただけである。
「遠慮せずに食え」と言われ「有難う御座います」と返事はしたものの、教官の余りの温かさに胸が震えるのである。
「さあ、食え。余り遅くなっても行かん。早く食って帰れ、今日町へ出て来た時に買ったのだ」と勧められた。
「では、遠慮無しに頂戴致します」一つ摘(つま)んで口に入れた。久し振りに食うトロの味は又格別で何とも言え無い美味しさだ。鮪(まぐろ)寿司は大好物で、米沢に居た時も東京に居た時も好く食べに行ったものだ。

  

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 入隊後は、初年兵の厳しい訓練を受けて居るので毎日腹が減ってペコペコに為って居るのだから、これ程美味いものが又とあろうか。ペロリと喉を超し又一つ摘んでムシャムシャ食べた。蕩ける様な鮪の舌触り、四っばかり食べたが未だ幾らでも入りそうだ。でも、この辺で遠慮しなくてはいけないと思い一度辞退した。
「遠慮するな、もっと食え」と勧められ更に手を出した。厳しい軍隊の中で教官と初年兵とでは天地程の隔たりがあるのに、この様に特別可愛がって頂き涙が出る程有難く嬉しく橘教官の情を骨の髄まで感じた。仮に私が教官と同じ立場に為ったとしても、初年兵に対してこの様な温かい心配りをする事が出来るだろうか?タダタダ教官のお心に頭が下がるだけであった。

 その後、ある時「小田、お前勉強するのなら、将校室の隣に小さい部屋があるから消灯後そこに来てしたら好い」と言われた。当初から幹部候補生の試験は受けたい、それ為らば他の人が寝て居る間に勉強しなければ行けないと考えて居たので、本当に有難い事だと感謝し早速毎晩その部屋を使わせて貰う事に為った。
 昼間の厳しい訓練で疲れて居る、その上に勉強するのは容易では無かったが頑張った。誰がこんな便宜を与えて呉れるだろうか。厳格な軍隊組織の中、融通の効か無い堅い兵営生活の中で橘教官にしても同僚や他の人に気兼ねはあろうに、良くぞ私の為に小室を使わせて下さった事だ。教官は、召集兵のそれ迄の学歴、職歴等を何かの書類で知って居るのだろうか?どう云う風に為って居るのか私には分から無いが、少なくとも私から公式に学歴を言った覚えは一切無い。

     8-31-10.jpg ラクダの荷車

 只、その時見習士官をして居る人は殆(ほとん)どの人が夫々学校は異なるが、昭和16年12月に旧制専門学校や旧制高等学校を卒業した人で私と同級生と云う事に為る。
 私は俗に言う七つあがりで順調に進学して居た結果、在学中に徴兵検査(ちょうへいけんさ)の適齢に届いて居なかったので、学校卒業前に検査を受けられず一年遅れて一般の人と同じく昭和十七年八月頃、本籍地で徴兵検査を受けた。処が、この度私は一般現役の人より少し早く召集を受け入隊する事と為ったのである。
 橘教官は、私が同学年の旧制専門学校卒業者である事を知って不憫(ふびん)に思われたのだろうか。今も感謝の気持ちで一杯である。

 色々な苦労と訓練を経験をして居る間に、桜の花が咲き始め、馬の蹄(ひづめ)を洗う水も冷たさが緩み凌(しの)ぎ易く為った。兵営生活にも馬の取り扱いにも大分馴れて来た。でも、次第に程度の高い訓練と為り、それ為りに気合いを入れてしなければならない状況の中で教育が続けられて行く。

   つづく

  

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一兵士の戦争体験 その3


 その3
 

 ◆厩(うまや)当番

 或る日厩当番に就いた。夜中から朝迄の勤務である。私の四班には30頭の馬が居るがこれ等の番を一人でするのだ。立ったままで眠る馬が普通なのだが、中には座ったりゴロンと横に為って寝る馬もあり中には鼾(いびき)を掻いている馬も居る。
 馬の糞を取って回るのも仕事の内だ。真夜中とも為れば眠く為るが絶対寝てはいけない。何時週番士官が来るか分から無い。立ったままで何か遣って居れば眠る事は無い。 只、腹が減るのには適わ無い。平常でも腹が減るのに夜まで仕事をして居ると尚更(なおさら)の事だ。だが食べる物は無い。
 同期の兵隊から「厩には、馬にやる豆粕(まめかす)があるから腹が減ったら食べたら好い、食えるぞ」と聞いて居たのを思い出し粒状の豆粕を一握り取り、少しずつ口に入れ噛み砕いてみると満更でも無い。

 食える。暫くして又口に入れたが、もう面倒だと思い大量に口に入れ頬ばって居ると、向こうからコツコツと靴の音がして来た。いけない週番士官が来るぞ、豆粕を口に入れて居る場合では無い。素早く手に吐き出し馬房の中に放り込んだ。馬糞(ばふん)取りの道具を持って仕事をして居る格好をした。週番士官が来たので敬礼をして「第四班厩異常なし」と大きな声で報告した。
 見習士官は暫く私の顔を見て居る。口の廻りに豆粕が着いて居るのを見つけたのかと一瞬思ったが、そうでは無く「居眠りをせん様に遣れよ」と言って次へ行った。ヤレヤレこれで助かったと思った。

  

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 深夜午前三時頃、パカパカと馬の歩く音がする。可笑しい、全部繋いで居り離れる筈が無いのにと思いながら行って見ると一頭が離れて歩いて居る。その馬は笹倉少尉の真黒い乗馬で尻に赤い印が着けてある。蹴る癖があると云う目印である。更に頭にも赤い印が着いて居るので、咬(か)む癖もあると云う質(たち)の悪い馬である。
 選(よ)りも選(よ)って、そんな一番怖い馬がどうして離れて居るんだろう。「どうしよう?」好く見ると、や・け・い・と・う・ろ・く・と云う頭を繋いだ綱を全部外して居り、捕まえる所が全然無く困ってしまった。
 暫く馬の様子を見ていたが、厩の中を歩くだけで外に出る気配は無い。でも、近寄れば咬まれるか蹴られるかしそうだ。朝まで放って置くと叱られるに決まって居るし泣くに泣け無い・・・・隣の二班の当番兵が私と一緒に入隊した兵隊だったので、二人掛なら何とか為るだろうと思い助けを頼んだ処彼は快く承知して呉れた。

 だがどうするか?お互いに未だ馬に馴れて居ないが、思案の末、私が馬糧袋に馬糧を入れ馬が頭をそれに突っ込んで居る間に彼が上手に、や・け・い・と・う・ろ・く・を嵌めて呉れ、案外難無く繋ぐ事が出来て胸を撫で下ろした。彼は同年兵の明石(あかし)二等兵であったと思うが本当に有難く感謝した。
 ・・・その後彼は、同じ野戦部隊の輜重聯隊で第二中隊の自動車中隊に転属に為り、戦争中は別々の行動と為ったが同じ方面の戦場で大いに活躍をした。彼の戦闘振りは第二中隊の他の戦友から後日聞いたが、勇敢に敵陣地の兵を撃ち倒したり、終始元気で聯隊長(れんたいちょう)当番をも立派に勤めたと聞いて居る。
 抑留(よくりゅう)生活中には私と同じ岡山県の中隊に為り、何かに着け彼に大変親切にして貰った。軍隊生活の当初から最後の復員迄を共にした仲で、私の軍歴は彼と共にあったと言って過言では無い。彼は爽やかな性格素晴らしい人柄で、その上力持ちで労を惜しま無い人であった。

  

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 ・・・現在も旧交を温め合って居るが、何時までも元気で居て欲しい。入隊当初21歳の時の彼の姿を今も思い起こす。お互いに年老いたが労わり合いながら過ごしたい。

 召集を受け入隊した新兵に平穏な日は無く、厩でも内務班でも練兵場でも何処に居ても毎日大小様々(さまざま)な雷が落ち、厳しい教育と鍛錬が繰り返され気合いを入れられ通しであった。だからこそ早く兵隊らしい一人前の兵隊に育つのかも知れ無い。

 ◆飯上げ当番

 前にも述べた通り、軍隊生活、特に新兵は腹が減るものだ。幾ら飯を食っても不思議な位腹が減って困る。ある日、当番で炊事場へ飯上げに行った。「第一中隊第四班教育班飯上げに来ました」と炊事場の入り口で言うと、炊事当番の古年兵が飯の入った食缶(しょっかん)と汁の入った食缶を出して呉れるのである。
 しかし、貰いに来た教育兵の当番が並んで居ないとか、言い方が拙いとか色々文句を着けられ後回しにされる。時には、スコップの様な大きなしゃもじを持ち上げ叩く様にして脅かされたりするので、飯上げに行くのも新兵に取っては容易い事では無い。ウロウロして居ると、炊事班常当番(すいじはんじょうとうばん)の上等兵にビンタを貰ったりする。ビンタは、貰っても持って帰って皆に分ける訳には行かないし自分が痛いだけである。

 当番は、内務班に持ち帰った飯と汁と副食物を各人のアルミ製の茶碗とお碗に人数分に分けて注いで置くのだ。古年兵には新兵より多いめに盛り付けをして並べて置くのだ。早く分配を終えていないと、皆が訓練や厩作業を終え帰って来る。遅れると食後の次の作業に差し支えるのでそれは当番の責任となり大変だ。
 食事が済むと自分の食器は自分で洗うが、大きい食缶は当番が奇麗に洗って炊事場へ返さなければならない。ここでも、洗い方が悪く一粒でも飯粒(めしつぶ)が残って居れば受け取って呉れない。洗い直しである。中には洗い方が悪いと言って缶を頭から被(かぶ)せられて居る新兵も居た。

 私は入隊後間も無い頃、当番に当たり食缶を洗いながら底に残って居た僅かの飯粒を手で取り、少しでも腹の足しに為ればと思い咄嗟に口の中へ入れた。その瞬間炊事の上等兵が来て「貴様!」と言ったかと思う間も無く、飯粒の着いた大きなし・ゃ・も・じ・で私の頬を殴った。
 ピシャリと大きな音がして頬の皮が裂けた様な気がした。しかも顔に飯粒が一杯付いた。自分乍らその姿は滑稽(こっけい)であり、哀れであった。

  

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 ◆多忙と要領

 こうして一日二日と過ぎて行くが、毎日鞭で尻を叩かれ追い回されて寸刻(すんこく)の暇も無い。時間が無く忙しく教育に追われ、厩動作と内務に掻き立てられる日の連続であった。その内、皆朝の起床も要領が好く為り、起床ラッパの鳴る前に目を覚まし毛布の中で靴下を履き服も上着まで着てしまう。
 酷い兵隊は靴まで履いて何食わぬ顔で狸寝(たぬきね)入りして居て、ラッパが鳴ると飛び起きて毛布を畳(たた)んで外に一番早く飛び出す者も出て来た。寒い時期であり、靴下を履いて寝る者も多く私も靴下を履いて寝る事にした。それも何足か重ね履きした。靴下を履く時間だけ早く出来るので助かる。
 兎に角人より早く行動する事が肝心な事であった。余談に為るが軍隊では服や靴に体を合わせる事に為って居る。私は小柄なので靴が大きい。靴の中で足が踊って居る。これでは走れ無いので靴下を何足も重ねて履く事にした。それでやっと調節が着いて居た。

 要領の悪い兵隊が居て、帽子の行方が分から無く為り帽子を被(かぶ)らず整列した者が居た。軍隊は必ず外に出る時は帽子を被らなければならない事に為って居るのにこの有様だ。叱られる事激しい。
 助手より「犬に為って探して来い」と言われて犬の様に四・っ・ん・這・い・になり、ワンワンと言いながら冷たい地面を這(は)わされた。可笑しくても笑いも出来ず口を紡いで我慢をする始末。何時自分がその様な羽目(はめ)になるか分から無いからである。

 毎日食事前三度三度馬に接触し世話をし無ければならないので、次第に慣れては来るが矢張り恐ろしい。大人しい馬なら好いが全部はそうは行かない。
 蹴る馬の他に咬(か)みつく馬、前足を持ち挙げて被(か)ぶさる様に抱き着く馬等色々であるが、中には癖を多く持つて居る馬も居り危険で、何時何をされるか分から無いので油断出来無い。そんな気持ちで居る上に取り扱い方が下手だから「これは初年兵だ」と馬の方が先に感づき馬に馬鹿にされる事もあった。

  

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 ある時、思いも掛けず馬房内(ばぼうない)の馬に胸をガブリと咬まれた。あの笹倉少尉の乗馬で癖の悪い馬にだ。直ぐに後に下がったが馬の顔を見ると耳を後に立てて気の立った顔をして居る。
 何故この馬は私に咬みついたのだろうか?私が何か悪い事をしただろうか? 考えても分から無い。しかし、馬には気に入ら無い事がその前にあったのだろう。兎に角畜生だ何時何をするか分から無い、用心用心。後から服を脱いでみると胸の所に馬の歯型がクッキリと着いて居た。

 寝藁(ねわら)に沢山の糞が着いていて汚く臭い。それを素手で掴むのだから嫌気がする。そんな様子を見て居た上等兵が「馬糞(ばふん)が汚い様では駄目だ。一度馬糞をお茶漬けにして食べてみい!そうしたら治るわい」これには皆ダーと為った。
 又「お前達は馬の手入れが悪い。体がピカピカ光る程磨かなければいかんのだ」 「この蹄(ひづめ)の手入れは何だ、未だ汚れて居るではないか。舌でね・ぶ・り・と・れ・」と言われ頭を小突かれた。偉い事だナアーとツクヅク感じて居ると「お前達は葉書一枚の召集で来るが、馬はそうは行かないんだ。馬の方が偉い事を知って置け」と言われた。

 将に主客転倒だが事実そうなのである。昔徳川に犬公房(いぬくぼう)将軍が居り、犬を人間以上に大切にしたと伝えられて居るが、それと同じ様に馬の方が兵隊より遥かに大切にされて居るのである。 兵隊は一度だって馬より先に飯を食った事は無いし、馬の手入れをしない日は無いが、兵隊は忙しくて風呂に入れ無い事はしよっ中であり、馬の汚れ物に触った手を洗う間も無く飯を食わねば為らぬ事は屡々であった。
「オオ、馬よ神様よ」そして自分の手は二月の寒風に晒され入隊後半月も経過しない間に皹(ひび)で荒れ霜焼けに為り、ガサガサな汚い手に為って居た。

      8-31-7.jpg  

 ◆鍛錬

 厳しい鍛錬が毎日続く。銃を持つ手に冷たい練兵場の風が吹き着ける。戦闘訓練では凍り着いた地面の上を這(は)って進む匍匐前進(ほふくぜんしん)を遣らされた。遣り方が悪いと言って叱られたり蹴飛ばされる。
 大部分の人は初めての事で形に為らず、遣り直しを何回かした後にやっと「それで好し」と言われ皆ホッとした。処がその後直ぐに「では、その要領で向こうの松の木の所まで行って来い」との号令。見れば松の木までは百メートルもある。「そら行け」で一斉に這い出した。

 体で覚えさせる猛烈な訓練が毎日続いた。馬鹿か阿呆かと言って叱られ、鉄拳制裁を受けながらも歯を食い縛り頑張るより他に仕方が無いのだ。毎日毎回の食事は、次の作業や訓練の準備の為に、それに加え叱られる為にも時間を費やされるのでユックリ食べられ無いのである。
 この頃は必要に迫られ、食べるのが段々早く為って来たが、どれ程早く食べ終え次の仕事に掛かっても遅いと言って絞られるのが軍隊である。

  

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 この日は軍装を整え銃や剣を持って集合したのだが「遅い」と言って助教の大仲伍長が怒り、次々にビンタが飛んだ。それも握り拳で力一杯だから矢野二等兵はヒックリ返り二メートルも飛ばされた。殴られる前には眼鏡を外し、殴られても怪我等し無い様に歯を食い縛り予め準備する事に為って居る。
 私の左の頬にも「ガッン」と一発炸裂(さくれつ)した。体がグラリとヨロケ目から火が出た。この日は寒い日であったが、左の頬は何時までも痺れて熱く火照(ほて)り、右の頬は寒く冷たく大変なアンバランスだった。

 今日はガスに対する訓練だ。ガスマスクを被る。大森助手が見て回る。大仲助教も、教官の橘見習士も丹念に見て回る。着装の仕方が悪いと空気が入る。「ガスを吸うぞ」 「絞め紐(しめひも)が緩(ゆる)い」 「斜めに被って居るぞ」等と指摘され直された。
 ああでも無いこうでも無いと色々遣る内に大分時間も経過した。やっと全員が確りと着装したのを見届けた上で「駆け足」の号令で走り出した。
 銃を肩にして居る上に、マスクを着けての駆け足では空気を充分吸う事が出来ず大変な苦しさだが止まってはいけない。ドンドンと走る。ここで遅れるとどんな制裁を受けるか?人一倍酷い目に遭うに決まっている。兎に角、遅れないように着いて走るより仕方が無い。
 目が回りそうで自然に足が前に出無い。無茶だが走るより仕方が無い。ここで、インチキをしてマスクを緩めるとか顔とマスクの間に隙間を拵えれば楽に為るのだろうが、銃を持って居るのでそう器用に指先が働か無い。見つかればこれまた大変叱られる事と為る。

 幾らキツクても走るより方法が無い。教える側も同じくマスクをして居るのだが苦しく無いのだろうか?そこはそこ、日頃の駆け足訓練で鍛えて居るので左程でも無いのだろう。それに教える側のプライドもあろう。
そんな事を考えながら走って居ると「コラ、弛むな」と声が掛かった。もう寒くは無い。汗が顔を流れて居るのが分かる。
 当時使われた言葉で、自分の事を顧みず国家の為に尽くす事を「滅私奉公(めっしほうこう)」と言い、それを誓って故郷を送られて出て来たのであるがまさに死にそうな訓練が続く。私は幹候(かんこう)を目指して居り学課にはある程度自信があるが、この様な訓練にも負け無い様耐えて行かねばならないと心に誓った。

       8-31-1.jpg 輜重兵の仕事


 ◆輜重兵(しちょうへい)としての訓練

 この様に、一般の歩兵の訓練の他に輜重隊は輸送業務、特に我が一中隊は輓馬(ばんば)中隊で馬で荷物を運ぶ部隊だからその訓練が必要なのである。今日は輜重車に弾薬箱を積み上げそれを太い綱で括(くく)り絞(し)めるやり方の訓練である。
「箱の乗せ方はこうするのだ。綱の絞め方はこうするのだ」 「綱がこう緩くては戦争に行って荷物が落ちてしまうぞ」 「遣り直しだ、輜重結(しちょうむすび)はこうするのだ好く覚えて置け」

 私がやり直しをして居る間に他の人はドンドン次に進んで居る。やっとの事で荷物を輜重車に確りと積載固定する事が出来た。今度は、馬を馬房から出し鞍(くら)を背中に置き固定し輜重車の所迄連れて来る。車の腕木(うでぎ)の間に馬を尻から押し入れるのだがナカナカ上手く行か無い。初年兵に取っては苦労する処だが、やっと馬の鞍の金具と車の腕木の接続を終える。
 これから出発だ。馬に荷物を載せた車を引かす事に為るが、ここで馬を慌てさせてはいけない。暴れられては大変な事に為るし大怪我の元にも為る。細心の注意が必要である。広い練兵場に十数台の車が並び歩き始めた。馬の手綱を握った手に力が入る。この間入隊したばかりなのによくぞここまでに為ったものだと自分ながらに感心する。

  

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 懸命に為り過ぎて手綱を握って居るので馬も多少窮屈(きゅうくつ)なのだろう。右に左に車を引いて訓練して居ると、山舛(やまます)二等兵の持った馬が突然走り出した。
 車を引いたままでガラガラ、ガラガラと暴れた様に走るので皆ビックリした。山舛新兵は一生懸命手綱を持って居るが、手綱捌きが悪いのか自分も走って行くだけで馬を止める事が出来ない。馬は益々早く駈けて行く。凸凹の多い練兵場で躓いて彼は転んだ。馬は車を引いたままそこを走り抜けて行く。一瞬轢(ひ)かれたと思った。
 馬は遥か向こうまで行って止まったので、皆で捕まえた。普段大人しい馬でも突然どんな事に為るか分から無い。山舛二等兵は幸か不幸か足先を轢(ひ)かれただけで済んだ。私達は彼を庇いながら医務室へ連れて行った。「練兵休(れんぺいきゅう)」と言って怪我や病気で休む事を公然と認めて呉れる制度があり、一週間の練兵休と為った。山舛二等兵に取ってとんだ災難だった。

      8-31-2.jpg 輜重兵の訓練


 次には道無き道や、やっと通れる細い橋を渡る訓練をした。更に、駄馬訓練と言って、車が行け無い山を馬の背中に荷物を振・り・分・け・に載せて行く訓練だ。 『ひよどり越えの坂落し』の様な急斜面の岩山を登り下りする訓練をするのである。
 馬も滑るし、人間も滑る。馬の蹄(ひずめ)で足を踏まれ、馬も人も転がる様にして必死に訓練を受けるのだ。軍隊に入り、強制だから出来るのだが、遂二ヵ月前までは馬の事を全く知ら無い者がここまで出来る様に為る軍隊教育の早さと厳しさに驚いた。しかし、危険を伴うものでこの訓練中に馬の背中に載せた弾薬の箱で頭を打ち意識不明に為った兵隊も居た。

 ◆余分な訓練

 或る日、午前の演習で絞られ厩作業を終え班内に帰ってみるとゴッタ返しに為って居た。整理箱も整頓して置いた衣服類も引き落とされ、皆バラバラで誰のが何処に散らばって居るのか分から無い。ここでは、広峰山(ひろみねさん)と云う姫路の北の山から吹き降ろす風を「広峰お・ろ・し・」と云うのだが、その風が来て吹き飛ばしたのだと言って居る。

 整理が悪い時の懲(こ)らしめに教育兵は全体責任を負えと云う意味の制裁だ。理不尽(りふじん)な思いをしながら片づけるのだが、服を重箱の様に四角に畳んで几帳面(きちょうめん)に直すには大分の時間が掛かる事に為る。
 誰がするのか分から無いが、こうして教育兵は虐め抜かれるのだ。こんな事をして居ると食事をする時間が更に少なく為るし午後の演習へ出る時間が遅く為るのだ。やっと飯をかき込んでいると、助教から「午後は輓馬教練だから馬が直ぐ出せる様にして置け」と言われ昼飯もそこそこに厩へ走ら無ければ為らない。馬を出す用意をしていると、早教官は自分の馬に乗って来た。

  

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「何を愚図愚図して居るのか」 「そこに並べ」との命令だ。横一列に並ぶと、馬の上から指揮刀(しきとう)を持って皆んなの頭の天辺(てっぺん)を容赦なく次々に叩いた。私も叩かれたが頭蓋骨(ずがいこつ)が割れる程応え本当に痛かった。もう少しで脳震盪(のうしんとう)を起こすのでは無いかと思った。あの時の痛さは今も記憶に残っている。

 つづく

  

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一兵士の戦争体験 その2



 その2


 ◆点呼

 軍隊では、朝夕、人員の状況を調べる為の集合があり「点呼(てんこ)」と言って居たが、その日は夜の点呼前に為り、助教の大仲伍長が来て召集兵の皆を整列させた。「気をつけ」「休め」「気をつけ」「休め」と何回も号令を掛け、又「番号」の号令で「一」 「二」 「三」 「四」・・・・と次々に番号を唱えた。
 何回も遣り直しがあり、その後は一人一人を見て回り「お前は腰が伸びていない、シャンとせい」「お前は右肩が上がって居る、少し下げろ」「ああ、よし」等と注意を与えた。

  

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 次は、服装だ。「ボタンが外れて居る」「衿の掛け金が掛かって居ない」「靴下の履き方がだらしない」等と注意を受ける。自分も注意されるのではないかとひやひやする。 ここでも、もう一度「官等級氏名(かんとうきゅうしめい)を言え」と命ぜられ、次々に名乗った。「声が小さい」「発音が不明瞭だ」等と指摘された。その内、週番士官が赤い襷(たすき)を掛けて遣って来た。見習士官であった。週番下士官も付いて居た。教育係班長で助教の大仲伍長が「気をつけ」「敬礼」と号令を掛け「教育隊第四班、総員三十名、現在員三十名、異常無し」と報告した。入隊最初の点呼も無事終わった。

 大森助手が寝床の作り方を教えて呉れた。四枚の毛布を上手に敷き包んでそこに入って寝るのだが、何回か遣ってみた。そして折り畳んで片づける事も早くし無ければならないので皆練習をした。三回、四回と競争させられた。遅い者は「お前は何時も遅い、ナメクジか」と叱られた。
 万事、軍隊は機敏で要領の良いこと、荒くても動作を早くする事が肝心である。やがてラッパが鳴った。消灯ラッパだ、皆用を済まし寝床に入った。電燈が消えた。兵営生活の長い初日を振り返って居るうちに、何時しか眠りに着いた。

       8-30-34.jpg
  
 ◇軍隊生活と教育訓練

 ◆起床


 起床ラッパが鳴った瞬間皆跳ね起きた。六時丁度である。室内は騒然とし大急ぎで毛布を折り畳んだ。少々荒くても何でも好い。早く服装を整え靴を履き外へ出た。
 一番後や後から二番目当たりに為ると叱られ気合(きあい)を入れられるからだ。当時軍隊では、早くしろ、元気を出せ、怠けるな、弛んでいる、しゃんとしろと言葉で注意されるだけで無く鉄拳制裁(てっけんせいさい)をも受ける事と、自分自身に対して勇気を出す様奮起する事をも『気合を入れる』と言って居た。
 何にしても気合を入れ早く行って整列し、上半身裸に為ってワッショイ、ワッショイと掛け声を挙げ乾布摩擦をするのだ。二月の朝六時は薄暗く寒いが、擦(こす)って居ると背中が段々暖かく為った。
 終わると直ぐ上着を着て整列、番号を二、三回繰り返し、ヤット人員異常無し。その内、週番士官が遣って来る。各班毎に異常の有無の報告がされ、軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)の奉読が始まる。

     8-30-35.gif

 一ッ、軍人ハ忠節ヲ尽クスヲ本分トスベシ
 一ッ、軍人ハ礼儀ヲ正シクスベシ
 一ッ、軍人ハ武勇ヲ尊ブベシ
 一ッ、軍人ハ信義ヲ重ンズベシ
 一ッ、軍人は質素ヲ旨トスベシ


 やがて東の空が明るく為って来る。こうして軍人精神を叩き込まれるのだから強く為るのも当たり前であると思った。私生活においてもこれ位の気概で遣れば如何なる仕事も成功するであろうと感心したのである。しかし自分の自由意志のみでは実行する事は困難であろう。こうして強制され皆と一緒だから出来るのだ。

 体も暖まり気合いも入った処で、各班共、当番兵を残して全員厩(うまや)へ隊列を組み駆け足で行くのである。軍隊では大抵の場合駆け足であり歩いて居ては間に合わ無い。ボツボツ歩けば、ダラダラして居ると言って叱られ気合を入れられるのだ。

        8-30-36.jpg
  
 ◆厩動作(うまやどうさ)

 第四班の厩に行くともう古年兵が来て、馬房(ばぼう)と云う馬が一頭ずつ繋(つな)がれて休む場所から馬を外に引き出して居る。新兵の我々がウロウロして居ると、古年兵が「コラ!教育兵、タラタラせずに遣らんか」と怒鳴った。
 厩に入っても何をどうするのか分から無い、その上馬が恐ろしいから手のつけ様も無い。「寝藁(ねわら)を外へ出さんか」と言われて、古年兵が馬を連れ出した後の馬房にヤット入る事が出来た。

 馬糞(ばふん)塗(まみ)れに為った寝藁を手で掴むと、糞の臭いと汚らしさで何とも言え無い。「愚図愚図せんと遣らんかい!」と罵声(ばせい)が又も飛んで来た。 馬の糞と寝藁を担架に乗せて二人で担(にな)って運び出し、広場へ広げて天日に当てて乾かすのである。馬糞の臭い事、生まれて初めて馬糞を手で掴んだのである。
「何を愚図愚図して居るのか」「何をしとるか!」と言われ追い回された。こう為ればもう臭くも汚くも無い。叱られるのが恐くて一生懸命に藁を掴んでは担架に乗せ外に運び出し広げた。

  

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 その内また「お前らは藁ばかり運んで、馬を出さんかい、馬を。お前らはタルンで居るぞ」と来た。サア大変だ。ウロチョロと箒(ほうき)を持ったり藁を運んで、成るべく馬に触れ無い様にして忙しい振りをして居たがもう許して呉れそうに無い。
「馬を連れて出すんだ」と古年兵が言ったかと思うと、アッと云う間も無く私は馬房の中に突き飛ばされた。馬は頭を奥にして繋(つな)がれ尻を入り口に向けて居るので、丁度馬の後足の横辺りに押し込まれた格好だ。馬に蹴られるのが怖くて馬に近づか無いで居るのにこう為っては死にもの狂いだ。外へ逃げて行く事も出来ず、仕方無く馬の腹の横を恐る恐る通って頭の所に行った。

 咬(か)まれるのでは無いかと近づいたが、幸い馬はジーッとして居た。しかしどう遣って繋いだ金具を外すのか分から無い。やっとの事で金具を解き馬を外に連れ出す事が出来た。他の教育兵達もアチラコチラで、「これ位のものが怖いのかバカ野郎」と怒鳴られて居た。
 全部の馬が外に出された。馬の手入れが始まったが、昨日入隊したばかりの我々には全く知ら無い事ばかりだった。何も教えて呉れず「そら遣れ、そら遣れ」だから適わ無い。馬に触った事も無い召集兵ばかりで皆オドオドして居る。
「早く馬の手入れをせんかい、こうやるんだ」「好く見ておけ」と言って、古年兵は馬の前足を引き上げ手入れをし、続いて後足の手入れをした。案外容易くやって居る様である。

「わかったか」「そらやれ」と道具を渡された。彼方でも此方でも馬の手入れがされて居る。早くしないと叱られる、恐ろしいがそんな事を言っては居られない。何が何でも遣らねば為ら無いのだ。古年兵が傍で見て居るのだから仕方が無い。
 恐る恐る馬に近づいた、馬が首を振ってもドキリとする。やっと、前足の所に行き中腰に為り足首を持った。思い切って両手で持ち上げた。案外容易く足を曲げて持ち上げさせて呉れ、先の古年兵が遣った様に膝の上に足首を左手で持って乗せた。手が離れて滑り落ち、ポカリと蹴られはしないかと一生懸命だ。

「お前の持ち方は反対だ。逆に持ち替えろ」と注意された。持ち替えると矢張りその方が確り持てる。右手にへ・ら・を持ち馬の蹄(ひづめ)の裏の汚れを落とした。へ・ら・の当て方によってか、馬が時々足を動かすので無我夢中だった。水の入った鉄製の桶を引き寄せ、た・わ・し・で足の裏を洗った。
 二月の水は冷たく手が凍えそうだ。手がカジカンでも馬の足だけは離しては行けない。離すと私の足を踏みつけたり、暴れる事にも為る。洗った後は蹄油(ていゆ)を塗ってお仕舞だが、二本の前足を済ましてヤレヤレと思って居た。

  

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「こら、早く後足もせんかい」と怒鳴られた。前足より後足の方が一層恐ろしい。一発蹴られたら大変だと思ったが仕方が無い。そろりと左足を両手で掴み引き上げ様としたが上がら無い。もう一度力を入れて引き上げた。今度は案外楽に上げて呉れた。滑り落ちそうに為るのを引き上げ引き上げしながら、どうにか四本の足を済ました。非常に長い時間の様な気がした。
 左右を見ると、今述べた様にして足を洗って居る者や馬の背中を刷毛(はけ)で奇麗にして居る者も居た。上等兵達は皆ノンビリ遣って居るが、新入兵達は恐る恐るして居る。次に馬の胴体の手入作業に入った。大きな鉄製の金櫛(かなぐし)と大きな刷毛(はけ)を使って胴体や足の方まで奇麗にするのだ。慣れた兵隊が遣って居るのを見ると訳無い様だが遣ってみるとどうにも上手く行かない。
 刷毛には毛や垢(あか)が一杯着き、それをどうして落とすのか分から無い。慣れ無い事ばかりである。前に行けば咬まれはしないかと思い、後へ回れば蹴られはしないかと思い、馬が動けばヒヤリとして、恐る恐る触る始末であった。

 それが済むと、馬糧(ばりょう)の豆粕(まめかす)、コーリャン、ボレーマツ、奇麗な藁を小さく刻んで水に漬けたものを混ぜて、馬房の奥にある桶に入れて遣り、その他に乾草(かんそう)を一抱えずつ入れて置くのである。
「ヒョロ、ヒョロせずに駆け足で遣らんか!」又も気合いが掛かり、ドンドン遣らされ息つく暇も無い。次は馬を元の馬房に連れて入れるのだが、どの馬が何処の場所だったか分から無い。

 そこは古参兵「その馬はそこだ」「この馬はあそこだ」と、又「金甲は五番目だ」「その金錦は八番房だ」と馬の名前を呼んで指示する。初年兵の我々は懸命に馬の鼻を捕まえて連れて入れるのである。金具の外し方掛け方も考え乍らの動作でありどうしても早くは出来ない。それに馬が何時どんな動き方をするか分から無いから心配だ。やっと馬を全部厩へ入れた。
 手を充分洗う間も無く、うがい水でガラガラとうがいをして居ると、早くも「集合、駆け足」の命令、夫々の内務班(常に兵隊が起居する所)へ帰る。
 朝飯までに歯磨き洗面終了なのだが丁寧にする暇は無い。当番が、アルミの茶碗に飯をアルミの汁碗に汁を注いで呉れて居る。各人に一杯ずつである。箸もアルミだから割れたり折れたりする心配は無い。大急ぎで食べなければ間に合わ無いのである。

 味わう様な食べ方をする暇は無い。兎に角早い事全部を食べて置かないと次迄腹が持た無いのである。食べ終わら無い内に「全員服装を整え、弊社前の広場、社前(社全)に集合」と助手の大きな声。一寸一服と云ってタバコを吸う間は無い。
 集合すると「右へならえ」 「気を付け」 「番号」これの繰り返しであるが、その前に「集合が遅い」 「最後の三人は、中隊の兵舎を一周走って来い」と、罰として労働を余計に科せられるかビンタかである。

 その時の風向きによると最後の一人には更に「もう一度走って来い」と為る。その人はハアハア息を着きながらヤット帰って来たのに、もう一度とは泣けそうに為るが仕方が無い。続けてもう一度走りに行った。その間じゅう、こちらはこちらで皆「気をつけ」の不動の姿勢のままで服装の検査で帽子の被(かぶ)り方が悪い、服に名前が着いていない等厳しく注意を受ける。
 二回兵舎を回った者がやっと帰って来る。ハアー ハアーと息をし大変苦しそうである。「よし」と言ってやっと許して貰うが、私達教育兵は何時誰がこんな目に遭わされるかも知れ無いのである。昨日から始まった軍隊生活は新兵の誰にとっても厳しいものであった。

     8-30-37.jpg 38式歩兵銃


   ◆兵器受領

 大仲助教は「今日はこれから兵器受領だ」 「駆け足」の号令と共に我々を引率して兵器庫の前まで行った。皆、三八式騎兵銃(さんぱちしききへいじゅう)と帯剣(たいけん)を受け取った。この兵器の番号を兵器係の人が控えて居る。
 又助教から兵器について話があった。「銃には菊の御紋(ごもん)が着いて居る。絶対粗末にしては行けない。銃の手入れい・か・ん・で、その人の精神状態が分かるから、充分手入れをしなければいけないぞ」

 その様な話を聞いて居る最中に後の方でガチャンと云う音がした。皆がハッとしてその方を見ると、新井二等兵がどうしたのか銃をヒックリ返し急いで拾い上げて居るではないか。
「出て来い!」助教の鋭い声がした。新井二等兵の顔色は無かった。「バカヤロウ」と言うが早いか、ポカリ、ポカリと左右の頬を殴られた。「こんな奴が居るからいけないんだ。バカヤロウ!皆も気をつけろ」と大きな声がした。
「兵器を粗末にしたら営倉(えいそう)だぞ、営倉と云うのは軍隊の刑務所だが、そこに放り込まれるのだ。分かったか」と脅された。

    8-30-38.jpg 分解組み立て

 それから細かく、銃、剣の手入れ方法の説明があり、各自、自分の兵器の手入れをした。私は学校で何年も習って来たので容易い事であったが、これ迄に遣った事の無い人に取っては覚え難い様であった。
「一回言ったら覚えておかんか」と怒鳴られて居る。全てこの様に強制的に詰め込む教育である。ガンガンと叱りつけて覚えさせるのである。体で当たって悟らさせるのである。気合いを入れ、殴ってでも遣らせるのである。学校や会社での遣り方とは大分趣が変わって居るがこれが軍隊のスパルタ式教育である。

 一通り兵器の分解、組み立て、掃除手入れの仕方等を教えられて班内に帰った。班内の所定の場所、銃を立て掛ける銃架(じゅうか)に銃を立て架け、枕元の棚の下にある鈎(かぎ)に剣を吊した。
 他人の物と自分の物と間違え無い様に、又間違えられ無い様に気をつけなければなら無い。早速自分の銃と剣の番号と一目見て分かる特徴を覚え右から何番目に置いたかを確認した。暗闇でも握っただけで自分の銃が分かる様にしなければならないのだと教えられた。

 それが済むと、「全員駆け足で外に並べ」の号令で外に出て並んだ。部隊内の建物や設備の位置を知る為駆け足で一周した。一中隊の位置は分かって居たが、二中隊三中隊の建物、聯隊本部、お菓子やたばこや日用品を売る酒保(しゅほ)、炊事場、物干場、将校集会所等々を教えて呉れた。
 未だ十二時前かと思って居たらトックに過ぎて居り、そのまま厩に向かって駆け足だ。馬に昼の馬糧(ばりょう)を遣りに行くのだ。馬は頭を奥にして繋がれて居るので奥にある桶に馬糧を入れるには、馬の尻の側から入り胴体の所を潜る様にして入らなければならない。

  

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 馬は腹が減って居るのでガタガタして居る。慣れて居ない我々には容易な事では無く、またしても恐る恐るの作業である。それが済むと、やっと兵隊達の昼飯と為る。班内に帰って昼飯を食った。飯は幾らか臭いが、腹が減って居るので全部食べた。食事が済みアルミ製の食器を洗って、たばこを取り出そうとした。途端に「貴様らは、食った後の机の上を奇麗に掃除しないのか」と大きな声で雷が落ちた。皆で、零れた飯粒を拾い、机の上を拭いたり床の上を掃いたりした。

 軍隊では金物で出来た丈夫な灰皿を煙缶(えんかん)と云うのだが、「たばこは煙缶の所で吸わ無くては為らんぞ」と言われて居り、やっと火を点けて一服した。今朝から初めての一服であり、何とも言え無い美味しさであった。
 ものも言えず良い気分に為り掛けて居た処、三分も経た無い内に「これから卷脚半(まききゃはん)を着けて舎前に集合」との号令が掛かった。遅く為ればなる程叱られ、余分に駆け足をさせられる事は分かって居る。たばこの火をもみ消し、皆、靴を履き、卷脚半を巻き、外に整列した。

  
 ◆訓練

 午後の訓練は三班と四班と一緒であった。教官は橘(たちばな)見習士官で我々四班担当の助教大仲伍長、助手の大森上等兵。三班にも助教と助手がついていた。
 まず徒手(としゅ)の基礎訓練からである。不動の姿勢「気をつけ」「休め」の繰り返し、敬礼の仕方、歩行中の敬礼、停止敬礼等何回も何回も繰り返しやらされた。午後とは言え寒風の吹く冷たい日であった。
 訓練中に三班の谷田二等兵は教官の目を盗んで、冷たく凍えた手をポヶットに入れた。直ぐに見つかり、教官が「コラ出て来い」と一喝したかと思う間も無くビンタ一つ。激しい一撃で彼はヨロメキ倒れそうに為った。教官は皮の手袋を履いて居て、好いなあと私は思ったが、仕方が無い。今の身分は違い過ぎる。手が幾ら冷たくても我慢我慢。

 その後は駆け足と為り、庭を何回も何回も皆で走った。走る事の苦しさは段々増したが、次第に寒さは感じ無く為った。
 午後の訓練が終わると、又厩行きだ。今度は馬を先ず出して繋ぎ、日中乾かした寝藁を馬房に運び込み、馬糧を桶に入れて遣り、それから馬を連れ込むのだ。これらの動作も皆駆け足だ。歩いて居ると「こら!」と怒鳴られ叱られる。
 夕方の馬の手入れは簡単で、時間は余り掛から無いが、私は馬の出し入れは怖い。やっと厩作業が終わったと思うと「集まれ」の号令、暫くの間「軍歌演習」をした。先輩の兵隊達に先導され、我々教育兵も小さい声で軍歌を歌った。「知っている歌は大きな声で歌え」と活が入る。その頃西の空には夕日が沈み掛けており、一瞬故郷を思った。こうして色々の場面で気合いが入れられ、段々兵隊らしく為るのである。

 やっと夕食の時間を迎えた。肉と野菜のこってりとした汁と漬物と、ご飯の山盛りだが、腹が空いて居たので直ぐに食べ終える。その後、銘々食器を洗いに行くのだが、多くの兵が一度に為るので混雑し時間が掛かり、その上肉の油でぬるぬるしたお碗は洗い難かった。

     8-30-39.jpg  

 ◆入浴その他日課

 それから、入浴しなければいかんぞと言われて居るので大急ぎで行った。風呂場には一杯の人が入って居る。脱いだ服を盗まれる事があると注意を受けて居た。そんな事に為ら無い様に、隅の方に脱いで硬め、その上に眼鏡を置いて間違われ無い様にした。

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 盗まれたらそれまでだ。風呂に入ら無い訳にはいかない。風呂の中では裸だから、二等兵か一等兵かの位を示す肩章を着けていない。ウッカリすれば初年兵の我々は、上級の古い兵隊に何時叱られるかも知れ無い。早く洗って出た方が安全だ。それに服を取られるのを防ぐ為にも、早い方が良い。「烏(からす)の行水(ぎょうずい)」で、石鹸をユックリ使う間も無くサッサと出る。風呂から出ても着替え等は無く、脱いだこの服のみである。同じ物を着て同じ靴下を履き、急いで班へ帰るのである。

 靴の手入れをしたり寝床を用意して居ると、助教が「皆床の前に並べ、早く並べ」と言った。三人が未だ班に帰って居無い事を確認の上、「整理棚の整理が悪いから直せ」と指摘され、皆懸命に直した。
 今着て居る服が下装用の平生着(へいぜいぎ)で、その他に少し良い上装用の服があり、着替え用の下着も同じ棚の上に並べて居るのだが、それ等の整理が悪いとの事である。服は四角に為る様板で叩いて、キッチリ整理しなければならないのだ。

「お前のは何だ、もっとキチンとせい」「お前のは幅が広い。この整理棚に丁度に為る様にするんだ」と一つ一つ注意され、やっと終った頃、三人が戻って来た。
「お前達は何処へ行っていた」助手の厳しい問いに黙って居た。「返事をせい」と言われ「酒保(しゅほ)へ」と小さい声で答えた。「馬鹿者、早酒保へ行きやあがって、靴の手入れも寝床の用意も出来て居ないじゃあないか。それにお前の整理棚は何じゃあ!」と言った調子。三人は呆気に取られて居たが、急いで整理に取り掛かった。

  

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 続いて「中隊長の名前を言える者は手を挙げよ」と問われた。私は直ぐに手を挙げた。続いて五人ばかりが手を挙げた。他には手を挙げる者は居なかった。「お前達はもう忘れたのか、昨日教えたばかりなのに」「お前教えて遣れ」と私が指名された。「金井塚久(かないづかひさし)中隊長です」と答えた。
「そうだ、皆好く覚えて置け」と助手は言った。この辺りから、私は助手に認めかけられて来た様だ。   

 ---この時初めて「金井塚久中隊長」の名前を口にした私だったが、二年半後にこの方の最期を見届ける屍衛兵(しかばねえいへい)に為り、しかもビルマの土地に埋葬する役目を勤める事に為ろうとは思いも拠ら無い事だった。

 点呼前に為り助教の大仲伍長が入って来て「気をつけ」の号令に皆不動の姿勢に為る。それから一巡回って顔と姿勢と服装を見た後「今週の週番士官の実行方針は何か」と尋ねられた。皆ポカンとして居た。「未だ知らないのか、教えて遣る。今週は森野見習士官が週番だ。一つ規律の厳正、二つ起床動作の敏速、三つ敬礼の正確である。好く覚えて置け」やがて点呼のラッパが鳴った。

 週番士官が赤い襷(たすき)を掛けて入って来た。昨日と同じ人であった。大仲伍長が「第四教育班、総員三十名事故無し。現在員三十名」と報告をした。付き添いの週番下士官が記録をして居る様である。森野見習士官は全員を目で追う様にしたが、「よし」と言って立ち去った。
 その後も大森助手から色々の注意があり、消灯ラッパが鳴ると同時に皆ベッドに潜った。今日もこれで一日終わった。寝ている間は誰にも邪魔され無い。

 つづく

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一兵士の戦争体験 その1



 素敵な「自転車と家庭水族館」管理人より
 

 ・・・世にある数多くの戦記とは、大本営とか野戦部隊の幕僚たち、所謂、高級将校たちの記す作戦の立案やその結果等を示したものが殆どであった。言わば、如何いう意図で作戦が企画されどの様な結果と為ったのかの検証であった。
 だから、一兵卒として戦場で味わった生の声を伝えようとしたのは限られた従軍作家・記者達の手記だけだった。そんな経験者達が次々と体験記を記す様に為ったのは「私達は間も無く居なくなる、その前に実際の戦争の姿を伝えたい」とする、戦争を知らない私達への最後の託(ことづけ)なのだろう。国から強制的に徴集され止む無く従った一市民がどの様な日々を送らされたのか・・・戦争とはどんなものなのかを知るには、是非とも一読して頂きたい・・・



  

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『一兵士の戦争体験』ビルマ戦線 生死の境


          i1.jpg


 
 著者:小田敦巳(おだあつみ)氏の従軍体験記をご紹介しよう


 二 軍隊教育


 ◇入営

 ◆入隊当日


 昭和18年2月15日午前9時 輜重兵(しちょうへい)第54聯隊(れんたい)前の城北練兵場には大勢の人が集まって居た。応召者(おうしょうしゃ)と付き添いの者である。
 空は灰色で太陽の顔は見えず練兵場の風は冷たい。やがて衛門(えいもん)から少尉(しょうい)を中心に見習士官、下士官、上等兵等三十人が一組と為って出て来た。他の組もあったかどうか覚えて居ない。少尉の指揮の元で役割が決められて居た様である。向こうの方ではもっと偉そうな中尉(ちゅうい)が全体を眺めて居た。

 立て札を持った兵隊が一定の間隔で並び、1〜30、31〜60等と書いた看板を立てた。やがて胸を張った少尉が大きな声で「応召者は各自の荷物を持って立て札の所に並べ。付き添いの者は混雑するから後に下がって待て」と言う。この命令が終わると応召者は各自の番号の所に移動し始めた。しかし、全体では300人近く、それに付き添いの人も居り荷物の事もありナカナカ進まない。皆右往左往して居た。
 「愚図愚図せずに早く遣らんか!」と大きな声がした。古参軍曹(こさんぐんそう)であろうか、大きな声が出るものだとビックリした。ざわめきが止まり皆急いで自分の所を探して居る。番号順なので、前後に来る人を確かめ合って居る。「付き添いの人は列に近づくな」と又大きな声が飛んで来た。

 一応指示された番号の前に並び終わった頃「これから番号を調べに行くから、番号と姓名を言え」大きな声だから好く聞こえる。その頃には一組毎に下士官一名、兵隊一名が配置され、二組毎に一名の見習士官が付いて居り、その他には先程の少尉の所に台帳を持った軍曹と上等兵が付いて居た。
 応召者をどの様にして調べて行くのだろうかと思って居ると、先に立札を持って居た兵隊が札をそこに立てて於いて「真っ直ぐに並ばんかい!」と言って前から後まで見て回った。その後を、各組毎に名簿を持った下士官が前から順に見ながら遣って来る。
 入隊者が「一番 大賀俊雄」 「二番 井上弥治」 「三番 山田哲雄」等と告げると、「よし」 「よし」と言いながら顔を覗(のぞ)き込む様にして名簿にチェックして行く。

 番号のみ言って名前を言わない者、名前だけ言って番号を言わ無い者がありその都度叱られて居た。私の所は91〜120番の所で、私は93番であった。調べに来て居る下士官は伍長(ごちょう)の肩章(けんしょう)を着けて居り、四角な顔をし一重瞼の細い目をした人で、体は中背ガッチリとした体格の方であった。一人一人点検を受けた。「93番 小田敦巳」と言った。ジロリと顔を見られた。「よし」と太い声が返って来た。
 先程から色々指示や注意があったが、どの言葉も命令的で威圧的である。それだけにハッキリして居る。私は今迄殆どこんな言い方を聞いた事が無かった。見送りに来た人はどんな気持ちでこれを聞いたのだろうか。
 私が中学(旧制)5年生の頃、岡山駅で、一人の伍長の指揮下に居た3、4名の兵隊が無断でホームに降り買物をして居た。それを見付けた伍長が大きな声で「貴様達何をするんだ」と怒鳴り兵隊は震え上がった。そんな光景に接し、物凄いナアと感じた事があるが、今日も流石軍隊は命令用語が多いと感じた。

  

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 一巡、検査が終わったが、更にここで「前より番号」と号令が掛かった。 「1」 「2」「 3」 「4」 「5」・・・・と番号を唱えた。伍長と上等兵はもう一度名簿と人数の確認をした。各組共同じ様に念入りに点呼がされて居た。
 その頃、黒いピカピカの皮長靴を履き背の高い恰幅の好い中尉が現れて、手を後に組み全体の様子を監督して居た。軍曹が全体を纏め終え少尉は確実に掌握(しょうあく)出来たのだろう、中尉の所に行き敬礼をして異常の有無を報告した。後で分かったのだがこの中尉が聯隊本部付きの手島中尉であった。

「これから営内に入るから忘れ物の無い様にせよ」と少尉が私達に命じた。少尉は見習士官を集め指示を与えて居た。
 第一中隊教育隊一班及び二班、担当見習士官・・・・から始まり、第二中隊教育隊一班・・・・第三中隊教育隊一班・・・・重ねて申し付けと確認をした。私達は順序好く営内に入って行った。小雪がパラパラ降って来た。右にも左にも兵舎がある。ガラス窓には全部紙が貼られて居り薄汚く寒々として居た。

 私は第一中隊教育隊の第四班で、第一中隊は馬部隊である事が分かった。第二中隊と第三中隊が自動車の部隊である事も分かった。馬の部隊とは馬で荷物を運ぶ役で輓馬(ばんば)中隊と称するものであった。
 第一中隊は一班から順に身体検査を受ける事に為った。医務室前に並ばされ「裸になれ」「待っていろ」と言われ上半身脱いだ。長い間裸のままで待たされた。廊下は好く風が通り寒かった。やっと順番が来て室内に入った。
 姓名を名乗り次々と見て貰うのだ。内臓関係、目、耳、口等それから痔と性病関係、嫌な所もあからさまにして見せねば為ら無い。マゴマゴシテ叱られる者も居る。寒かったがやっと検査も終わり、服を着ると暖かく為って来た。

 数名の者が即日帰郷(ききょう)を命じられた。身体の状態が良く無い人で、入隊が許されずその日に家へ帰らされるのだ。折角歓呼の声に送られて来たのに、体が悪くては仕方の無い事で命ぜられるままに帰ら無くては為ら無い。
 どの様な気持ちだろうかと察し気の毒に思われた。でも反面、数多い中にはそれを願う人が居ないでも無いのである。誰しも心の奥の片隅にはその方を願う気持ちがあるのではなかろうか?
 他人の事を心配する暇は無かった。私達は元の広場に帰って昼飯をせよとの事、寒い露天でお湯も無く持って来た弁当を食べた。

  

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 午後は被服の受領に行った。服の上下二組、襦袢(じゅばん)・袴下(こした)・帽子・靴・靴下等を受け取った。何れもかなり古いものばかりで、私の様に体の小さい者には服も靴も大きかった。しかし文句は言え無い。与えられた服に早速着替えた。
 今まで、個々別々の服装をして居たが、皆同じ服装に為り兵隊らしく見えて来た。そして階級章も一つ星即ち二等兵のものを貰い、そして今まで着て居た各自の服は風呂敷(ふろしき)に包んだ。更に毛布を四枚ずつ貰った。

 助教と助手の先導で、中庭から夫々の教育班毎に分かれ指定された部屋に入った。真ん中が土のままのたたきの通路で下足のまま、両側が三十センチ程の高さの板張りで一人一人にマットが敷かれて居た。マットは厚い布の中に藁(わら)を入れたもので、厚さ約十センチ位で殆ど間隔を置かずに並べてあった。番号の順番にマットが決められた。

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 参考に教育隊第四班の教育係の担当助教は大仲伍長で助手は大森上等兵で、大仲伍長は別に下士官室がありそこが定位置で寝起きし、助手の大森上等兵はこの部屋の一番奥の位置のベッドに寝起きして居た。
 マットが決まったので毛布を整理して窓側に置き、私物の風呂敷包みを所定の場所に掛けた。上等の服を上装用(じょうそうよう)と言い平常の服を下装用(かそうよう)と言うが、それ等や下着類を助手の指導を受け、几帳面に四角に畳んで整理棚に乗せその上に上装用の帽子と下装用の帽子を並べて乗せた。

 軍隊では服の畳み方まで一様にし無ければなら無い。そして、折り目を着けて奇麗に整理しなくては為らないのだとは聞いて居たが正しくその通りである。整理棚には衣服の外に手箱が各人に一個ずつ与えられて居り、本や文房具や小物等を入れ整理する事に為って居た。大森助手の細かい指導を受け、遣り方が分かり整頓を済ませこれで一応落ち着く事が出来た。
「十分間休憩する」と助教が言った。小便に行く者もあり服の整理を遣り直す者もあった。私は自分の左右の人を改めて好く見た。左は難波と云う眼鏡をかけた丸顔の男で、右は新谷と云う背の高い顎(あご)のやや張った男であった。
 他の人達も皆初めての環境で、知ら無い者同士多くを語る人も居ない。鳩が豆鉄砲を食った様な顔をして居る。その内誰かが「今日は寒かったのう」などとボツボツ話し始めた。

  

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 学生時代には学校の寄宿舎が大分お粗末だと思って居たが、兵舎はそれの比較では無い。一室の人口密度は高く、僅(わず)かにマット一枚分が自分に許されたスペースだ。即ち、幅二・六尺(85センチ)奥行は整理棚を含めて六尺(2メートル)が与えられた面積である。畳は無く板張で何か不潔で窓はあるが薄暗い。私達の兵舎は平屋建であるが、屋根は低く勿論天井は無い。隙間がアチコチにあり風通しが好く寒そうであった。
 
 ◆内務班での取り決め

 アレコレ見て居る内に大森助手が「これから兵営生活についての取り決め等について話すから好く聞いて置け。好く聞いて居ないと困るぞ」と前置きした。
「起床は六時、起床ラッパが鳴ったら起き、毛布をキチンと畳み、中庭に出て乾布摩擦(かんぷまさつ)をし、朝の点呼を受ける」
「点呼が済むと、班内当番は班内の掃除と飯上(めしあ)げをして来る。飯上げとは炊事場に行って『飯上げに来ました』と言って飯やおかずや汁を貰って来て全員の食器に着ける。食事が済むと、この容器を洗って返すのだ。当番以外は、皆厩(うまや)に行って馬の手入れをするのだ、分かったか」大森助手は注意を続ける。

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 「朝飯後は教育だ。午前中の教育が済めば、馬に飼いばを遣りそれからお前達の昼飯だ。午後も教育を受け、それが終わると厩へ行って寝藁(ねわら)を入れ馬運動と馬の手入れだ。それから夕食と入浴時間と為る。機敏にしないと間に合わ無いぞ。夜の点呼は九時からでこれは班内だ。不潔に為ら無い様好く身の回りの手入れをし洗濯なども好くする事だ」
「それから、何時でも自分の所在をハッキリして置く事。この大森に、何処何処へ行くと言ってからか、戦友に伝えてから行く事だ」
「次に、敬礼を忘れ無い様にする事だ。ここにはお前達より上のものばかりだから欠礼(けつれい)するな。それから我々第一中隊の中隊長は金井塚久(かないづかひさし)中尉だ。好く覚えて置け。その他気が付いた事はその都度言う事とする」

  

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「サテ、一度、官等級氏名(かんとうきゅうしめい)を言ってみよう」「陸軍二等兵 山田一郎」と云う様にだ。お前言ってみよと、私の前の者が指された。
 モジモジしてから「山田一郎」と言った。「自分のを言うのだ」と注意され、浜岡初年兵は今度は「陸軍一等兵 浜岡良夫」と言った。途端に「お前は何時の間に一等兵に為ったのか。今日入ったばかりの二等兵では無いか。言い直せ」と大きい声で注意された。
 今度は「陸軍上等兵 浜岡良夫」と言ってしまった。上がったのでこんな事に為ったのだろうが「馬鹿野郎、何が上等兵だ分からん奴だ」と怒鳴られた。私は可笑しかったが、笑われもせず気の毒でもあった。四回目にやっと「陸軍二等兵 浜岡良夫」と言った。

 大森助手の注意事項は続いた。「早速本日の当番はこちらから四人とするから晩飯から取りに行け。尚、今日は初めてだから、特に次の四人も当番として食器の受領、班内の用品、煙缶(えんかん・灰皿)、掃除道具等を物品倉庫より受け取って来い。今日はこれから服に名前を着けよ。 そして、夕食迄に手紙でも書いて出して置け」と言われた。言われるまま取り掛かったたが、時間が無く葉書はやっと一枚書いただけだった。

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 夕食後は一人一人自己紹介をした。「僕はここに来るまでは・・・・」と言い掛けると、助教から、軍隊では「僕」「私」「俺」等と言わ無いのだ。自分の事を「自分」と言うのだと教えられた。暫くは、私は近年東北や東京に住んで居たので常時使って居た「俺」が出そうであったが、次第に「自分」と云う表現に慣れて来た。「自分」と云う言い方は軍隊特有のものである。

「自分は、神戸の造船所に勤めて居ました。赤井明と言います」
「僕は、嫌自分は吉岡太郎と言います。鳥取市で旅館をして居ました」
「俺は、満州国で官吏を・・・・嫌、自分は満州国で官吏をして居ました」

 漁師も居れば散髪屋も居り、お寺の住職が居れば大工も居り農家の人も居り多種多様な職業である。輜重兵で輓馬(ばんば)中隊なのに、特に馬に関係のある人は一人も居なくて適材適所で無い事をここでも感じた。しかし、そんな事を言って居る時世では無いのである。
 この輜重兵の本科は体格の良い人ばかりであるが、教育召集や召集兵は昔の特務兵とか輜重輸卒(しちょうゆそつ)と呼ばれる名残があり、比較的背の高く無い人が多かった様に思われた。
 軍隊も兵科によって主要任務が異なり、輜重兵は歩兵や砲兵の様に華々しい兵科では無く、弾薬や食料や種々の物資を輸送する任務を帯びた兵科で、重要であるが地味で苦労の多い縁の下の力持ち的な兵科であった。

 つづく

 

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2018年06月25日

福島第一原発の廃炉作業員が足りない!


 私達は今、ロシアで開催されているサッカーW杯の模様に一喜一憂して居るのだが、それはさて置き日本では静かに新たな原発の新安全基準が承認され、次々と原発の再稼働が認められようとしている現状を忘れられては居ないだろうか?
 熱し易く冷め易い我々の性格は簡単には修正出来無くとも、その現実を忘れては為ら無い。そして、福島第一原発の事故処理だけで相当な問題を抱えて居る現状もである。既に3.11から7年も経つのに現場では一向に処理への目途も立た無いのだ。既に事故から1年経た時点で多くの問題点を露呈している。少し昔の記事だが次のレポートをご紹介しよう・・・


 原発作業員が去って行く 福島第一原発“廃炉”の現実

 NHK No.32692012年11月5日(月)放送から


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 “廃炉”の現場 原発作業員は今

 朝6時。福島第一原発に向かう作業員の志賀央(しが・あきら)さんです。地元・浪江町出身の志賀さんは、6年前から下請け会社の社員として原発で働いて来ました。原発までは2時間の道のりです。
 志賀さん 「今日は普段通りなのでこんなものかなって。遅く為ると、もっと進ま無い」

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 原発迄、およそ20キロ。途中、志賀さんは、防護服やマスク等の装備を整える為にこの施設に立ち寄ります。照明機器の設置工事をしている志賀さん。装備を全身に纏って行う作業は極めて厳しいものだと言います。
 志賀さん「全面マスクして線量の高い場所に行く時は、マスクをしながら走ら無きゃ行け無かったり、慣れて居ない内は一寸厳しい。こんなので作業出来るのかなって感じで。実質、夏場30分・1時間遣ったら休憩しないと倒れるんじゃ無いかなって」
 志賀さんの周りではこの半年で、10人近くが福島第一原発の仕事を辞めました。志賀さん自身何時まで、この仕事を続けるか迷って居ると言います。
    
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「将来何時まで原発で作業を?」
 志賀央さん「それはもう判ら無いですね。本当に考えちゃうとその時には、違う所で遣った方が好いんじゃないかって思ったりする時もあるし、(地元の)友達とかの為にって云うのも可笑しいんですけど、一緒に為って頑張って行こうかなって思うんですけど。まとまらないです、先は」 
    
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 原発を去る作業員が相次いで居るのは何故なのか。その原因の1つが依然として高い放射線量です。地元の元請け企業の1つが取材に応じて呉れました。この会社では汚染水から放射性物質を取り除く設備の建設に携わって居ます。作業員がその日の仕事を終えて、福島第一原発から帰って来ました。
 現場責任者「今日、被ばくは幾つ?」
 作業員「0.02(ミリシーベルト)です」
 会社では、作業員の1日の被ばく量を全て記録し確認して居ます。福島第一原発で被ばくする量は今でも他の原発での作業に比べ平均で10倍近くに為っています。国は作業員に対し1年間で50ミリシーベルト5年間で100ミリシーベルトと云う被ばく量の上限を設けています。これを超えると原発で働く事は出来ません。
 この会社では20人居た作業員の内、被ばく量の上限に近づいた2人を福島第一原発の仕事から外すしかありませんでした。残された作業員も、被ばく量は日々上限に迫っています。

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 元請企業 梅田義弘さん 「毎日綱渡りに近い部分もあるんですけれど、辞めて行く人配置転換を求める人が一杯居ます。どうにも為ら無いと云うか、しょうが無い事。現場としては非常に苦しい処で」

 作業員が原発を去るもう1つの原因が待遇の悪化です。関西出身の40代の男性です。去年(2011年)の秋から下請け企業の社員として福島第一原発で働いて来ました。週5日の仕事で、当初月給は手取りでおよそ25万円。しかし、その後5万円減り20万円程度に為りました。更に、今年8月、会社から宿舎の旅館を出て行くと共に食費も自己負担する様求められました。

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 「ここは特殊な仕事なので、働いている者にしたら辛いものがある。僕等みたいな人間が頑張って居るから第一原発が落ち着いて居る訳ですよ。そう云う人間に対して、そう云う状況に持って行くこと自体が理不尽だと僕らは感じています」
 この待遇では被ばくのリスクを背負ってまで働く事は出来ない。男性は、今年9月同僚10人と共に仕事を辞めました。

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 待遇の悪化の背景には何があるのか。私達(NHK)は東京電力から直接受注する元請け企業28社にアンケートを行い15社から回答を得ました。すると、廃炉に向けた工事の受注単価が最近下がる傾向にある事が分かりました。単価が下がったと答えた10社の内8社が理由として挙げたのが、東京電力のコスト削減に伴う競争入札の拡大。
 受注競争の激化で単価が下がり、結果として作業員の人件費に影響が出ていると見られています。影響は、下請け企業の経営にも及び始めています。この会社では福島第一原発の建設当初から作業を請け負って来ました。この春以降、同じ規模の工事の受注金額が以前より3割程下がったと言います。

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 下請け企業 横田善秀社長「うちとしては建設から携わって居たので廃炉まで関わって居たいと思って居るが、今のままでは会社の存続が危ぶまれると云う事です。地元の原子力発電所に携わった会社は同じ様な状況だと思う」

 更に、このままでは将来、廃炉を担う技術を持った作業員が居なく為ると危機感を募らせる企業もあります。原発の計器の保守管理に当たって居るこの会社では事故後、福島第一原発で働く社員を採用出来ていません。

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 下請け企業 名嘉幸照会長「今の状態では将来、若い人が原発に携わる人が居なくなる。これはハッキリしている。トータル的にマンパワーも予算も考え無いと、将来どう為るかと危惧している」

 原発作業員 悪化する待遇

 ゲスト野津原有三記者(社会部)

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 事故の後、これ迄合計で2万人以上が作業に当たって居るんですが、どの程度入れ代わって居るかと云う正確な数字は把握されて居ません。しかし、取材をしていますと事故から1年8か月経った現在でも可成り入れ代わりは多いと感じます。
 特に、放射線量が高い現場では3か月程で被ばく線量の限度に近づいて原発を離れるケースもあります。そして最近、理由として増えて居るのが待遇の悪化です。VTRで紹介した男性は例外では無く、地元のハローワークの求人票を見ても1日の給料が1万円前後。月に直して20万円前後と云うものも多く出されていました。

 ●作業員はどんな思いで居るのか?

 作業員は地元・福島県出身の方が多く、自分達の作業が地域を守って居ると云う気持ちに支えられて居ます。厳しい環境で仕事をして居ますがその支えが失われて来ていると云う声が今出ています。例えば、国が直接行う福島県の除染の作業では、日当に加え国が金額を定めた1日1万円の手当が出る様に為って居ます。その結果、原発で働くよりも除染作業で働いた方が高く為ると云うケースも出て来て居るんです。高い線量の中、働く原発の作業員からは何故、待遇に差が出るのかと云う不満の声も出て居ます。

 ●作業員が去って行く 問われる東電

 東京電力は、これまで人材の確保には問題が無いと説明して居ます。その根拠は福島第一原発で働く為に行う従事者登録を行った作業員の総数です。東京電力はこの数が当面必要な作業員の数を十分上回って居るとして大丈夫だと説明して居るんです。しかし、その説明には根拠が不足して居る事が今回私達の取材で分かって来ました。

 原発作業員は足りるのか?

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 今年7月、東京電力は廃炉作業の見通しを発表しました。「作業員の従事者登録の方が多めに為って来て居ります」今年必要な人数は1万1700人なのに対し、従事者登録をして居る作業員は2万4300人居ると説明。要員の不足は生じ無いとして居ました。

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 しかし、福島第一原発では次々に新たな作業が必要に為って居ます。事故後、瓦礫の処理等を行っていた元請けの大手建設会社です。
「ここが、1班?タンクの組み立て?」
「タンクの組み立てですね。」
「で、もう1班はここ?」
 東京電力から別の作業の要請を受け対応に当たって居ます。それが、大量の汚染水を保管するタンクの設置作業です。原子炉建屋の地下で増え続ける汚染水。これを汲み上げ保管する必要に迫られたのです。

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 大成建設福島地区事務所 東 輝彦所長「間に合わ無い場合は昼夜で遣った事もありますし、作業員、労務の段取り、調達、職員も各支店からローテーションを組んで、皆が駆けつけて何とかミッションを達成すると云う事で遣って参りました」

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 これまでに設置されたタンクは900基。今後も、相当数のタンクが必要に為ると見られています。当初、計画には無かった作業員が必要に為って居るのです。今、福島第一原発では実際にどれ程の作業員が働いて居るのか。東京電力の内部資料を元に作成した9月のある1日の作業員の配置図です。黄色で示して居るのが作業員。
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 当初、原子炉建屋を中心に行われて居た作業は汚染水のタンクを初め敷地内の様々な場所に広がって居ました。1日に必要な作業員は3000人に上って居ました。東京電力が作業の増加や被ばく限度による交代等を考慮して改めて試算した処、1年間に必要な作業員は1万8000人である事が分かりました。これまで発表して来た1万1700人から6000人も増えて居たのです。
 更に取材を続けると、或る事実が浮かび上がって来ました。東京電力が確保出来るとして来たおよそ2万4000人は事故以降、福島第一原発で働いた事のある作業員の総数でした。この内1万6000人は既に従事者登録を解除。先月(10月)の時点で登録している作業員は8000人しか居ませんでした。必要な作業員が増える一方で確保出来る作業員の数が当初の発表よりも少ない実態。

 作業員は、本当に確保出来るのか。東京電力に問いました。     
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 東京電力 原子力・立地支部 山下和彦部長「或る一定の幅を以て不透明な部分があると思う。(作業員は)入れ替えが多くて、他の仕事に入って叉再登録と云う事をされて居ますので、全体としては(登録者数は)そんなに変わって行かないのかなと」
 東京電力は、1日に必要な作業員は3000人の為、8000人を確保して居れば短期的には問題無いとしています。しかし、長期的には懸念がある事を認めました。

 「必要な作業員が増えて行くと、危機感や懸念はどの様に考えていますか?」

 山下和彦部長「長期の人材の確保ですね。これが相当に難しく為る可能性がある。従って、人材の確保と育成に力を入れていかなければいけない」

 廃炉作業を監督する立場の資源エネルギー庁です。今後40年続くとも言われる廃炉作業を担う人材の確保について国として、どう考えているのか問いました。

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 資源エネルギー庁 中西宏典大臣官房審議官「実態を踏まえて改善すべきは改善すべき点として認識しようと。今時タイミング的には遅いと云う事もあるかも知れませんけれど、我々は色々な所で言われて居る事に対して、現場の皆様の声に出来るだけ耳を傾ける事が第一歩だと思う」

 ゲスト安念潤司さん(中央大学法科大学院教授)

 ●人材確保 把握が曖昧に為った訳は

 登録作業員の数は増減しますし、被災地の一部では復興需要によって人手不足の現象もありますので、ナカナカどれだけの人員を確保出来るかを正確に予測するのは確かに難しい作業ではあると思うんです。
 只、矢張り大きな組織と云うのはどうしても、本部と言いましょうか本社と現場との間のコミュニケーションが十分上手く取れ無いと。本社はどうしても、現場がどう云う環境で働いて居るのか把握していないと云う事がままありますので、それも矢張りあるだろうと思います。只、長期的には今、東京電力の方がおっしゃって居ましたが、ナカナカ不安があると云うことを率直におっしゃる様に為ったのは私は寧ろ好い事だと思います。

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 ●若い人材が集まら無いと云う状況

 深刻な事態ですね。既に悟紹介がありました様に福島第一の廃炉だけで40年掛かると言われて居ります。それから福島第一だけでは無くて、今後経年した年月が経った原子炉が次から次からと廃炉に為って行く訳ですから、廃炉の為の技術者・作業員は幾らでも必要に為る訳です。
 そうした中で若い人の参入が無いと云うのは大変深刻な事態だろうと思います。(今、作業をして居る方々の知識や経験は)国民全体に取っても宝と言って好い位私は大切だと思います。

 ●福島第一原発“廃炉” 何が求められるか?

 難しい問題だと思うんですが、ややセンチメンタルな事を申し上げれば、例えば福島第一の場合あの現場の作業員の人々の努力のお陰で辛うじて冷温停止状態が保たれて居ると云う事を好く認識すべきでしょう。
 我々は、彼等の努力に対して敬意と感謝を忘れてはいけないと思います。只、矢張り何と言ってもお金が必要です。賃金の水準は確保しなければいけません。一定の線量に為ると、職場を離れなければ為りませんから、その後の雇用も確保しなければいけません。
 更には、長期的な健康の不安はどうしてもありますので5年・10年を睨んで健康管理をする・医療を提供すると言った体制を整えなければ為りませんが、何れにしても可成りのお金の掛かる事です。

 ●今後どの様にお金を確保して行くのか?

 難しい問題ですね。お金はどうしても必要です。そのお金をどうやって調達するかは基本的には2つしかありません。電気料金を値上げして東電自身が確保する。もう1つ、それが出来無ければ税金を投入する。どちらかです。
 しかし、現在既に東電は一度値上げをした訳ですし除染も廃炉も、それから被災者に対する損害賠償も皆東電が負うと。これはナカナカ長期間に渉って維持する事は出来無いでしょう。そうしますと矢張り国が関与せざるをえません。
 元々、原発は国策として導入されたものですし国民全体が利益を受けて来た事ですから、その後始末も矢張り国民全体の課題として考えなければ行けないんじゃないでしょうか。(責任の主体が東電だけでは)私は、無理だと思います。

 ●東電と国の“廃炉”の責任は?

(東電は)改めて問われるでしょうね。これは、色んな形で示すしかありませんが矢張りマダマダ資産の売却や子会社の売却と云うものの余地はありますし、それに、何と言いましても修繕費等の外部からの調達と云うものの削減する努力も必要です。
 更には、何と言っても一番大きい燃料費ですが、これをどう遣って安く調達するかマダマダ考え無ければ為ら無い余地があると思います。(最早、東京電力だけの問題では無く)国全体の問題です。兎に角原発の将来をどうするかと云う事のビジョンをハッキリ示して、その中で福島第一の処理をどの様にするかを位置づける必要があると思います。しかも、それはもう待ったなしの課題です。

 以上


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2018年06月22日

西郷さんのガッカリなお話し・・・その2


 西郷さんのガッカリなお話し・・・その2


 将軍家に正室篤姫(天璋院)迄出して政権を支え様とした薩摩藩が何故、徳川幕府の討幕の主人公に為って行くのかの理由を明らかにします。

 西郷が戊辰戦争に繋がる討幕を決意した時期と理由
 坂本龍馬暗殺は西郷隆盛の早とちり説と言う異説の可能性を提示


 薩摩の藩論は元々公武合体論で、武力討幕では無かった?

 薩摩藩は斉彬(なりあきら)公の時代より、当時の老中首座阿部正弘(あべ まさひろ)の私的政治顧問的な役割を実質努めて居ました。 ぺりー来航後の『日米和親条約締結』は島津斉彬の助言に基づいて阿部正弘が実行させたとも言えます。
 その後斉彬は、第13代将軍家定(とくがわ いえさだ)の正室に篤姫(あつひめ)を送り込む事に成功し、英明を謳われた開明派の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)を第14代将軍にする工作を始めます。

 詰り、斉彬は飽く迄も幕政の改革を目指す方向性で進み幕藩体制そのものを壊す考え方は全く無かったと言えます。嘉永6年(1953年)のペリー来航問題に始まる開国論議で、老中首座の阿部正弘の政策判断ミス(諸侯に黒船問題の意見を求めてしまった事)があり、それが幕府の権威失墜を招き次第に眠って居た『朝廷の権威』を目覚めさせるに至りました。
れを受けて、俄かに勤皇派と称する動きが各地で惹起し始め尊皇攘夷の運動(反幕府・反政府運動)が活発に為ります。

 今日目立つのは活躍する尊皇攘夷の志士達の動きですが、実際は当時の現実問題として、彼等尊攘志士(下級武士階級)には所属する藩(藩主)から幕閣(幕府要路)に具申する事で、幕政に関与する方法以外に効果的な政策アピールの方法はありませんでした。
 大半は話にも為らず脱藩するしか道は無いのですが、開明派の大名(藩主)の場合は、藩士の尊攘志士等に理解があるので熾烈な藩内抗争は避けて通れ無いものの、尊攘志士の考えが藩内有力者を動かし藩論を構成する可能性もあり得た訳です。

 そして西郷の所属する薩摩藩の場合は、斉彬公が幕政関与出来る事と為った諸侯の筆頭と為って居ましたので、先ずは嘉永6年以降失墜し始めた幕府の権威の回復を図る事が薩摩藩の喫緊の課題でした。そこで考え出されたのが、朝廷の権威を取り込もうとする公武合体論(皇女和宮の降嫁)でした。
 斉彬公死去以後、主役が久光公に替わってからも薩摩藩のこの方針(藩論は公武合体論)に変化はありませんでした。 詰り後の討幕・維新の立役者と為る大久保利通等も幕藩体制擁護の為に、未だ藩政の実権者久光公側近として公の手足と為って動いて居ました。(西郷隆盛は久光公に嫌われて『島流し』の憂き目に遭って居ましたが)
 当時の薩摩藩を含む武士階級の頭には、極一部の過激派を除いて幕藩体制の破壊(維新)と云う選択肢は、未だ無かったと言えそうです。

 薩摩藩は後の仇敵会津藩と最初は蜜月状態だった?

 文久2年(1862年)は薩摩の島津久光公が上洛を企画し、西郷も3年に及ぶ奄美大島への『島流し』から呼び戻されたにも関わらず、僅か2ヶ月後には久光公の勘気を受けて沖永良部島へ再度島流しに遭った年でもありました。
 4月16日に藩兵を率いて京都に到着した久光に京都警備の勅命が下り、4月23日に伏見の船宿寺田屋に集まって京都所司代の襲撃計画して居た薩摩の過激派を上意打ちにして鎮圧し、朝廷の更なる信頼を得てそのまま勅使を警護する形で江戸へ下りました。
 江戸では、朝廷の権威を背景に幕府への人事介入をし一橋慶喜の将軍後見職就任と越前藩主松平春嶽の大老就任を決めました。

 しかし、江戸からの帰途、神奈川宿付近生麦村で英国人の殺傷事件(生麦事件)を引き起こし京都へ辿り着くも、留守中に長州藩が公武合体論から破約攘夷論へ藩論を転換させて京都の朝廷内を引っ掻き回して居ました。 結果、京都の朝廷内では久光が江戸へ下る時とは一変して長州藩がイニシアティブを握る破約攘夷論が席巻して居り、朝廷のその好い加減さにスッカリ嫌気の指した久光は薩摩へ帰国してしまいます。
 当時京都では、長州藩が黒幕と思われる尊攘過激派による殺傷事件が多発して治安は極度に悪化し、その為幕府からの要請で新たに京都守護職として会津藩松平容保(まつだいら かたもり)が藩兵1000名を引き連れて京都に駐屯します。薩摩藩島津久光は、京都は退いたものの長州に奪われた政局の主導権を取り戻すべく、今度は新たに進駐して来た会津藩と連携する事を企画します。

 偶々、会津藩公用方重臣秋月悌次郎(あきづき ていじろう)と薩摩藩儒者重野安繹(しげの やすつぐ)が江戸の昌平黌(しょうへいこう)の同期生だった事から薩摩藩から仕掛けて行きます。藩論がどちらも公武合体論だった事から関係は一気に進み、両藩の重臣同志が会食する等ほぼ同盟関係と言う処まで直ぐに為りました。
 そして、運命の文久3年(1863年)『八月十八日の政変』を迎えます。 島津久光は島流しして居た西郷隆盛を再び急遽赦免して、薩摩軍を指揮させ過激な攘夷論を唱えてテロを行う長州藩と黒幕の公家達の京都からの追放を行い、薩摩藩は会津藩の力を借りた形で京都の政局主導権を奪回する事に成功しました。
 孝明天皇からお褒めの言葉を戴く会津藩松平容保の陰に隠れて、薩摩藩(島津久光)は再び公武合体論を主導する立場を回復しました。

 薩摩の西郷隆盛は遂に幕府を見限った!何時?

 前章に出た八月十八日の政変の後、実権を回復した諸侯等が長州が進めて居た破約攘夷の方針の転換を孝明天皇に働き掛けを進めて居た処、島津久光のお陰で将軍後見職に就く事が出来て居た一橋慶喜が突然方針を変更して、孝明天皇に横浜鎖港を約束します。詰り、出来もし無い破約攘夷を天皇に突然約束してしまったのです。
 要するに、諸侯と共に実権を握る立場に立った途端に一橋慶喜は、久光等諸侯主導で朝議や幕政が動かされる事に不快感を覚え、権力の一人占めを図り暴走を始めたのです。 この慶喜の行為と身勝手に驚き呆れ、この重大な違反行為に諸侯達は慶喜本人への不信感を高めて皆京都を離れてしまいますが、久光の命により必死に慶喜の将軍後見職就任に尽力した大久保利通も一橋慶喜を信用し無く為ります。
 一方の慶喜は、元々佐幕派の孝明天皇の信認を得て元治元年(1864年)3月25日に将軍後見職を辞してから、改めて朝廷より「禁裏御守衛総督」に任命されます。

 薩摩が、この一連の政治抗争を続けて居る間に、追放された過激派に主導されて居る長州勢力は着々と復権の準備に取り掛かって居ました。次いで、元治元年6月5日に新撰組による所謂池田屋事件が起こり、長州勢を中心とする過激派の『京都騒乱と天皇動座事件』のテロの存在が発覚します。
 これに刺激された長州は藩を挙げて京都攻撃の軍を挙兵します。元治元年(1864年)7月19日に勃発し京都を火の海にした『禁門の変』の発生です。

 再度、遠島を赦免されて薩摩藩兵を率いて京都に居た西郷隆盛は、盟約に基づき京都守護の会津藩兵と協力して長州藩の京都侵攻を撃退します。引き続き、孝明天皇より御所に発砲した罪で長州藩を朝敵として征討の勅が発せられ『第一次長州征伐』が始まります。
 西郷隆盛は、その征討軍の総督徳川慶勝(とくがわ よしかつ)の参謀と為り、実質的には司令官として征討軍を指揮して広島迄行きます。そこで、西郷は薩摩主導の長州説得工作を続け、結果戦火を交えずに長州を恭順させて12月27日には征討軍を撤兵させる事に成功します。 西郷にしてみれば、佐幕派(幕藩体制維持派)である薩摩藩の一員として遣るべき仕事を成し遂げた訳です。

 処が、江戸の幕閣はこの西郷の行った処置に何とダメ出しをして来ます。征討軍総督徳川慶勝の戦後処置は長州藩に余りに寛大に過ぎると言うものでした。 結局『第二次長州征伐』の方針が出されたのです。
 西郷が知恵を絞って皆の顔が立つ様に現場での穏便な解決に奔走したにも関わらず、その結果を頭っから否定される事態と為ってしまいました。ここに至って西郷は如何に藩論とは言え徳川幕藩体制の護持にスッカリ嫌気が指して慶喜・会津容保を含む徳川幕府に見切りを付け始めたと思われます。

 『薩長盟約』を蔭で演出した坂本龍馬が助言をした山内容堂の(土佐藩)『大政奉還』の建白は、本当は徳川家温存政策だったの?

 西郷・大久保等薩摩藩重臣が一橋慶喜と幕閣を信用し無く為って居た慶応元年(1865年)頃に、以前から長州と薩摩両藩に大変世話に為って居て顔の広い坂本龍馬が動き始めます。 政治の中心地として復権した京都で主導権争いをし互いに凌ぎを削った同志の薩摩と長州を口説き手を結ばせようとしたのです。
 マァ、実態は如何であれ敵(かたき)同志の藩の歴史的な盟約が坂本龍馬”の仲介により慶応2年(1866年)1月21日に薩摩藩家老小松帯刀の京都私邸で結ばれました(薩長盟約)。
 その効果は直ぐ現れ、慶応2年6月から始まった『第二次長州征討』に薩摩藩は参戦せず、大坂まで出征した将軍家茂の死去も手伝って実質長州軍の勝利に終わりました。この戦争には龍馬も伏見奉行の襲撃で受けた傷も癒えて、長崎から長州へ武器を届けがてらに幕府軍との戦闘(海戦)に参加しました。

 その後薩摩の首脳陣は、幕府軍に勝利した長州と共に討幕行動準備に謀殺され始めて忙しく為り、龍馬への援助もお座成りで、薩摩の肝入りで作った商社と言うより運送屋の亀山社中も経営難に陥り始めました。
 翌年慶応3年(1867年)3月に為ってやっと、牢人龍馬の原籍地でもあり海運業に興味を示して居た土佐藩の参政後藤象二郎(ごとう しょうじろう)に亀山社中を拾って貰い、会社を海援隊に衣替えして、龍馬は再び土佐藩に関わり始めます。

 長州に敗れた徳川幕府の権威失墜は覆うべくも無く、その復権の可能性が低い中、土佐藩実権者山内容堂は有力諸侯として再度中央政界復権を模索して居ました。そこで、参政後藤象二郎は容堂公の片腕として、坂本龍馬から示唆を受けた徳川幕府の大政奉還(公議政体論)を土佐藩の新たな政策として建白するに至ります。
 坂本は、慶応3年(1867年)の夏以降この『大政奉還』以後の新政体構想の検討に熱中し、秋口には新政府の人材探しの為に越前まで出張する程でした。後藤が建白した大政奉還は、土佐藩侯山内容堂から第15代将軍に就いた徳川慶喜に上申する事と為りました。

 こうして土佐藩が上申した大政奉還は慶喜によってアッサリ受け入れられて、10月14日に朝廷へ即上奏されました。(実は、慶喜サイドから建白する様に督促されて居たとの異説がある程です)
 慶喜が受け入れたのには大きな理由があり、実は土佐の建白は大政奉還後の新政体(改造政府)で、内大臣として相変わらず慶喜が政府の実権を持つものだったのです。徳川の政権存続を認めていない薩長には全く受け入れられ無い内容でした。
 しかしこの裏で薩長連合はこの内容であっても慶喜が土佐の上申を受け入れるのに時間が掛かると踏んで居て、その間薩摩大久保利通と公卿岩倉具視は倒幕の為に朝廷工作を行い倒幕の密勅を準備して、将に10月14日には密勅が下りて居る手筈した。
 処が、前述の理由で慶喜の対応が予想外に早く、迅速に慶喜より朝廷に土佐案の大政奉還の上奏が為された為、薩長の倒幕の大義名分と為る密勅は空振り(大政奉還を受けて、10月21日に密勅実行中止のお沙汰書が出されます)に終わりました。

 龍馬暗殺後、薩摩は急速に長州と武力討幕へ向かう?

 慶応3年(1867年)6〜7月頃には、長州にセッツかれる形で徐々に武力討幕方針を固め始めて居ましたが、未だ柔軟に時期を見て居る感じの薩摩藩(西郷ら)でした。しかし西郷は、土佐の公議政体論を飽く迄も倒幕の第一段階と見てある程度容認して居たのですが、挙兵準備の為に土佐へ帰国した筈の後藤が9月3日にまさかの手ぶらで土佐本国より帰坂して来ました。
 その為西郷は、土佐の後藤(山内容堂)が倒幕では無くて、徳川を交えた平和解決を本気で考えて居る事に気が付き失望し、もう見切りを着けて土佐を外して動く事に決心した様です。

 この時点で実は、坂本龍馬は訪問した先で聞いた長州の伊藤(博文)の話から、京都の情勢が逼迫し最早武力討幕しか選択肢が無く為って居る事に気が付き、長州木戸孝允への9月20日付の書簡で、後藤を外して武力討幕派の乾(板垣)退助を京都へ行かせると言って居ます。

 慶応三年九月二十日 木戸孝允宛て

 ・・・今日下の関まで参候処、不計も伊藤兄上国より御かへり被成、御目かゝり候て、薩土及云云、・・・・急々本国をすくわん事を欲し、・・・小弟思ふに是よりかへり乾退助ニ引合置キ、夫より上国に出候て、後藤庄次郎を国にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕と存申候」(引用:宮地佐一郎『龍馬の手紙』より)

 龍馬は、伊藤のホットな京都政局の話を聞いて状況が平和主義の大政奉還では最早何の役にも立た無い事に気が付いて手を打つ(武力討幕)気に為って居た様です。後藤象二郎は優秀な人物ですが、飽く迄も藩公の山内容堂に気に入られる事が第一義の官僚的人間だった様で、時代の変化に付いて行こうとはし無かったのです。龍馬は、後藤の考え方のベースは良く知って居ましたので、即座にこりゃダメだと判断したのだろうと思います。
 一方薩摩・長州は武力討幕の為の挙兵に対して、頑強に反対する国許の藩内勢力を何とか抑え込んで出兵に漕ぎ着けます。

 流れからみると、龍馬の暗殺後に薩長による12月9日に王政復古のクーデターが起こり、維新への分水嶺と為った小御所会議が開かれて朝議としての倒幕が決まり、年明けに鳥羽伏見の戦いから『戊辰戦争』へと繋がって行く訳です。
 武力討幕方針の薩長に対して小御所会議でも大音声で徳川家の政権存続を主張した政権参与の山内容堂は強力な武力討幕反対派でした。その部下で有能な官僚である後藤象二郎の事は、問題にして無かった様ですが、薩摩(西郷)が危険視したのは政治家の坂本龍馬でした。
 もし、坂本が存命であったなら小御所会議でも薩長は負けた可能性があったのでは無いでしょうか。そう為ると9月に土佐を見限った薩摩(西郷・大久保)は、坂本の暗殺を仕組んだ可能性は否定出来無いのでは無いでしょうか?

 しかし、これは坂本を良く知ら無い薩摩の早トチリだった訳で、前述した様に龍馬は既に自分の提案した大政奉還(公議政体論)では事態が収まら無い事は察知して、早速武力討幕に土佐も参戦する方針を出して居ました。 私見ですが、薩摩(西郷)はこれを知ら無かったのだろうと思います。あの頃の西郷は、もう武力討幕で頭が一杯で邪魔する者は全て排除する位の勢いだったと考えられます。
 11月15日の京都近江屋で龍馬が暗殺された時、大久保利通も涙した話がありますが、あれは巻き添えを食った中岡慎太郎を悼んでの事だった様です。中岡は、大久保と組んで討幕を仕組んで居た公卿岩倉具視(いわくら ともみ)の手足と為って居ましたので大久保とは親しかったのです。

 坂本龍馬暗殺実行犯は、幕臣旗本で京都見廻組のチーフ佐々木只三郎以下4〜5名である事が判明して居ます。中でも腕ッコキの剣客である佐々木只三郎(ささき たださぶろう)は、当時の京都駐在会津藩公用人手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)の実弟でした。
 京都見廻組も新選組と同じ京都守護職松平容保(まつだいら かたもり)の支配下であり、そしてボスは当時の会津藩公用人の手代木直右衛門でした。従来この手の汚れ仕事は新選組の範疇(はんちゅう)だと考えられるのですが、この時は何故か京都見廻組へお鉢が回りました。
 矢張り最初は、当然の様に坂本龍馬暗殺は新選組の仕業と言うデマが誰からとも無く流れました。『禁門の変』での盟友であった関係から坂本龍馬の斡旋で薩摩が長州と組んだ後でも、会津と薩摩の藩士同志の個人的な付き合いは続いて居たと言われて居ます。
 詰り京都見廻組へは西郷が手を回せた可能性が充分存在しますし、私が思って居る程西郷達と坂本龍馬は親しくありませんでした。親しかったのは中岡慎太郎の方だったのです。勿論証拠はありませんがこの可能性は『龍馬暗殺』の動機論からは有り得るかも知れません。

 叉、有名な話ですが薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允は超仲が悪くてお互い話を殆どしなかった事も龍馬には致命傷だった様です。木戸と龍馬の方は若い頃江戸で有名道場の師範代同志で剣士仲間だった為に親しかったですけどね。仮説に過ぎませんが、坂本龍馬は西郷隆盛の早とちりで暗殺されたとすると、本当に残念なお話ですね。
 信じられませんが、薩摩藩要人達が倒幕挙兵準備の為に帰国して居る間、京都に留まって居た見分役?の薩摩藩重役吉井友実(よしい ともざね)は、京都河原町の龍馬暗殺現場に駆けつけて居て結果を見分しその後関係先に早飛脚を出して居ますが、その相手の中に有名なイギリス公使館アーネストサトウが居て、この事はアーネストサトウの日記に記されて居ます。当時の薩摩藩とイギリスの関係が好く分かる話ですね。

 西郷の最後の一手は『赤報隊』による江戸騒乱のテロ行為で幕府を挑発?

 平和解決派(徳川家の参政維持)の土佐藩山内容堂・後藤象二郎等が実現させた大政奉還へ対抗する様に、慶応3年(1867年)12月9日に武力解決派(徳川家の追放)の公卿岩倉具視と薩摩大久保利通等が進める王政復古の大号令と言う政治クーデターが進められました。
 しかし将軍慶喜は着々と手を打って行き、引き続き政権を徳川家が担当して行く事をドンドン内外に印象付けて行き武力解決派(武力討幕派)のクーデターを骨抜きにして行きます。このままでは倒幕の意味を失ってしまいそうに為り、徳川慶喜の粘りによって政権からの徳川家排除が進ま無い事に業を煮やした西郷隆盛は、武力衝突の切っ掛け作り(幕府への挑発行動)を始めます。

 それは、慶応3年(1867年)11月15日の近江屋事件であの坂本龍馬と一緒に惨殺された土佐藩陸援隊長中岡慎太郎(なかおか しんたろう)が、慶応3年6月22日に結ばれた薩土盟約に先立って、5月21日に西郷を訪問して居り、その折土佐の過激派板垣(乾)退助(いたがき たいすけ)を薩摩の西郷隆盛に紹介した事から始まりました。
 その時同席した者は、薩摩が西郷隆盛・家老小松帯刀・吉井友実、土佐は中岡慎太郎・乾(板垣)退助・谷守部(干城)・毛利恭助(吉盛)で、西郷と板垣は初対面でした。

・・・中岡の日記に曰く、乾退等と此の夜、小太夫邸に会し、西郷、吉井集居。・・・中略・・・・

 は云う「我が藩論常に佐幕に傾く。真に恥ずかしい。しかし余ら同志の徒も、亦決して寡無くは無い。今や断然藩を脱して兵を挙げ、討幕の師に加わりたいと思う。・・・」
 隆盛言う「誠に立派なるお考え、感服の外無い。ご意見を聞いて大いに意を強うする。是非力を合せて貰いたい」
 言う「ここに一つお願いがある。江戸に中村勇吉外数名の浪士・・・これは筑波の残党であるが・・・を匿って居る。まさかの時には役に立つ人物と思う。そのままにして上京したのが気に掛かる。何とか工夫はあるまいか」
 隆盛言う「御心配には及ばぬ。直ちに人を遣って田町の邸に潜匿さする様にしよう」

 討幕に関する乾と隆盛の一種の密約はかくして成立したのである。(西郷全集)(引用:徳富蘇峰『近世日本国民史 明治維新と江戸幕府(二)』《講談社学術文庫》より)

 とあり、土佐過激派の板垣退助が組織した浪士隊が薩摩西郷に引き継がれました。これが西郷・大久保の考えて居た武力討幕戦の準備が始まる端緒と為りました。
 その後在京の西郷は、薩摩浪士が連れて来た江戸育ちの武闘革命の勤皇志士小島四郎(相楽総三)を9月下旬に江戸へソッと送り出しました。 10月上旬に三田の江戸薩摩藩邸に到着した相楽総三(さがら そうぞう)は、西郷が板垣より預かった浪士隊に加えて各地に潜伏する過激派志士達へ激を飛ばして三田の江戸薩摩藩邸への参集を呼び掛けます。
 慶応3年の12月時点で薩摩の江戸藩邸にはこうした経緯で、西郷(相楽総三)の命令一下で動ける「水戸天狗党の残党」等を中核にして集められた浪士隊(約500名程)が組織されて居ました。 この浪士隊が後に「赤報隊(せきほうたい)」と呼ばれる西郷の討幕非合法活動部隊に為ります。

 通説では慶応3年(1867年)11月半ば以降、西郷の指令を受けたこの「浪士隊(赤報隊)」が江戸市中騒乱を引き起こし、「市中強盗暴行致し候に付き」と言う状態で治安悪化を創り出し、その徒党を組んで悪事を働く下手人達は皆、三田の薩摩藩邸へ逃げ込んで行く事がハッキリして居ました。
 江戸の治安維持に責任を持つ幕府に揺さ振りを掛け、社会不安を醸成する事によって幕府の権威失墜を謀り幕府側から攻撃を仕掛けさせる為の西郷のテロ行為だったと言われて居ます。
 結果、ものの見事に幕府は西郷の計略に引っ掛かり、慶応3年12月25日未明に江戸取締の庄内藩等4藩の藩兵が江戸薩摩藩邸へ押し寄せ、午前7時頃から攻撃が始まり江戸薩摩藩邸は焼失します。(薩摩藩邸焼き打ち事件)

 これを原因として幕府と薩摩藩の戦争が始まり、結果的に幕府(幕藩体制)の息の根が止まる戊辰戦争・明治維新の切っ掛けと為りました。この浪士隊(赤報隊)は、薩摩藩が江戸市中のゴロツキを掻き集めて豪商や一般商家に強盗暴行を遣り放題に遣ったテロ事件と捉えられ勝ちですが、実際には勤皇の志士達で構成されるキチンとした部隊行動を執った敵後方攪乱・王政復古促進を目的とする軍事行動だったのです。
 10月中に攻撃対象の幕府御用商人達の内定調査を行い、先ず野洲挙兵隊・甲府城攻略隊・相州襲撃隊の40〜50人づつの3部隊に分けて部隊編成を終えた相楽総三(さがら そうぞう)は、11月24日から順次出発をさせて地方から作戦を開始します。

 各地で小規模な戦闘が行われますが全て幕府軍に敗退し残存者は三田の薩摩藩邸に撤退します。地方での活動(戦闘)を終えた浪士隊(赤報隊)は、12月に入り今度は江戸市中の幕府に対する激烈な挑発活動を開始します。攻撃に当って、隊士達に次の規則を守らせました。

 「一二幕府ヲ佐クル者、二二浪士ヲ妨害スル者、三二(ふた)唐物(からもの)商法(しょうほう)スル者、此ノ三者ハ勤皇攘夷ノ讐(しゅう)敵(がたき)ト認メ誅戮ヲ加フベキモノトス。私慾ヲ以テ人民ノ財貨ヲ強奪スルヲ許サズ」(引用:長谷川伸『相楽総三とその同志(一) 中公文庫』より)

 事実、個人宅を襲った浪士一名が薩摩邸内で処刑されて居る様です。最初の幕府を助ける者とは、幕府の御用商人達、2番目の浪士を妨害する者とは、荘内藩に着いて居た新徴組・新整組・幕府別手組・撤兵組等です。薩摩の浪士隊はこの原則を厳しく守って行動して居り、通説にある様な手当たり次第に民間人を残虐に殺害はして居なかった様です。
 前述の軍事行動等順序立てて作戦を展開して居る処から、通説にある様な夜盗紛いの活動・無差別なテロ活動は無かったと見て好い様です。とは云うものの、当時は薩摩を名乗る強盗が横行し江戸の治安は極度に悪化して居ました。
 彼等の大半は、実は無頼漢の変装した者、旗本の三男坊等で遊蕩に身を持ち崩した者が多かった様です。当時幕府を始め諸藩の財政状況は極度に悪化して居り、御家人に対する家禄も半高が御借り上げと為り、詰り年収半減して居て、生活難から薩摩を名乗る強盗に変身するケースが後を絶た無かった様です。薩摩藩もその意味では、飛んだ濡れ衣と為ったものですね。

 まとめ

 薩摩藩は島津斉彬公の頃より幕政に参加する外様雄藩大名のポジションを目指して対幕府政策を進めて居ました。それが、幕末五賢候達、蘭癖(らんぺき)大名と言う改革派の領主達と連携する動きと為って行きました。
 260年も続いた徳川幕府の鎖国政策が世界の時流の中で最早維持する事が不可能に為りつつあり、国防問題に外交問題にどう対処して行くかの主権者としての徳川幕府の政治能力が問われる時を迎えて居ました。

 徳川の幕藩体制と云うものは、武士社会の基本構造を支えて居り、基本的に幕府は気に入ら無くても幕藩体制に替わるべき政体が想像出来ずに、この体制の変更・維新・革命と言う考えが武士階級には皆無であった言えそうです。
 詰り、維新に対して新たな政体転換をイメージするのは、完全に歴史の後知恵であって当時に於いては精々天下取りとか徳川に取って代わる位の感覚では無いかと思われます。 薩長の重役達も、徳川幕府が世界の時流に対応出来無いが故に、新しい考えを持って居る自分達の幕政への参政を求める処から入って行く訳です。所謂幕末の五賢候達の発想もそこ迄だったと思われます。案外一番進んで居たのは、”徳川慶喜”だったのかも知れません。

 慶喜はかなり早い段階(将軍に為る前)から藩制度の廃止と郡県制への移行を考えていました。政体変更で一番重要なのは本当はここなので、明治新政府にしても西郷が廃藩置県を遣って初めて本当の政体転換が出来て居るのです。
 島津久光等は、最後に気が付いて廃藩置県に猛烈に反対して居ます。冗談でしょうが久光は『西郷は、俺を何時将軍にして呉れるんだ』と言って居たと伝わって居ます。中央集権制と統一国家の認識が全く無いのです。こんな人が幕末政治を動かして居たのですから、後は推して知るべしでしょう。

 西郷隆盛は、軍事に強い国際政治家として討幕を決意した辺りから、新政府のイメージが出来上がって居たのではないかと思います。最初の頃に土佐藩後藤象二郎の公議政体論(大政奉還)に乗って居たのも、260年間も続いた徳川家を排除するならその段階を踏む位の事も必要かと思って居たからではないでしょうか。
 しかし、後藤の上に立つ山内容堂の発想が徳川をトップに置いた雄藩会議の枠を全く脱却出来無い事が判明すると、土佐との政治的連携には見切りを着けて徳川体制を完全に解体する武力討幕の方向へ舵を切ります。
 既に慶応3年(1867年)5月末に土佐武闘派の板垣退助と出会った後の段階では、朝敵にされた為に政局の表舞台に出て来れ無い長州重臣達と過激派公卿岩倉具視や土佐藩陸援隊長中岡慎太郎を介して、盟友大久保利通・家老小松帯刀ら共意見を合わせて武力討幕の方針は固めて居たと考えられます。

 それでも、長州にイライラされながらも土佐藩後藤の倒幕挙兵に期待して大政奉還に付き合って居たのでしょう。あの時、後藤は山内容堂を説得出来て土佐藩が薩摩に付き合って本格的に挙兵して居たら、ヒョットすると新政府での後藤総理大臣、板垣総理大臣もあったかも知れませんし、日本での自由民権運動は存在し無かったかも知れません。
 坂本龍馬も途中で薩摩の動きに気が付いて、土佐に小銃を数百丁急遽船で送ったりして後藤象二郎の側面支援をしますが頑迷な山内容堂には全く通じ無かった様です。

 西郷隆盛の江戸騒乱演出による、幕府への挑発行動における赤報隊の乱暴狼藉に関して、為らず者を多数使って一般商家を襲い殺戮をしたい放題したと言う様な話は、前述の通りどうも薩摩の名を語った別人達の犯行だった様で、薩摩藩邸の浪士隊の行動にはキチンと行動基準と規範があった事が判明しました。
 しかし、赤報隊はその後官軍の一員としても戦闘を行ったにも関わらず、維新の汚れ仕事を行なった事が原因なのか逆賊として処刑されてしまいます。新政府は赤報隊の存在そのものを消したがって居た様で、要するに『赤報隊』の討幕志士達・若者達は、結局政治の捨て駒された事が分かります。そこに『明治維新』と言う歴史的な大きな政治事件の怖さを見る事に為りました。


 以上


西郷さんのガッカリなお話し・・・



          西郷隆盛 写真 西郷どん大河ドラマ.png

      コピーライトマーク 東洋経済オンライン 「英雄」の真の姿に、歴史家の武田鏡村氏が迫ります(写真:アフロ)


 私は西郷さんの大ファンです・・・勿論会った事も見た事も無く、全てがドラマや小説等の受け売りですし、その殆どは作り上げられたものだとは承知して居ます。
 ですから、本当の西郷さん詳しく知りたい気持ちもありますが、架空の話であってもその様な人格を持った人は素晴らしいと思って居ます。ですから「坂本龍馬が好き!」「尊敬する!」と司馬遼太郎の描く「竜馬がゆく」を読んで竜馬ファンに為った人と似たり寄ったりです。でも、偶には彼の悪口を言う人の話も聞きたいと思い、2回にわたって取り上げようと思います・・・
 


 その1 「西郷どん」は本当に立派な人物だったのか ?

 2018年NHK大河主人公の「がっかりな実像」  武田 鏡村 2018/01/07 09:00      

 NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」を毎回観ている。主人公の西郷隆盛と言えば、歴史小説・ドラマ等でも数多く取り上げられて来た薩摩(鹿児島県)の大英雄である。鈴木亮平が西郷を演じる今回のドラマでは「愛に溢れたリーダー」として描かれると云う。
 しかし、西郷の実際の行跡を辿って行くと「愛」とは真逆の冷酷非情な人物像が浮かび上がって来る。『薩長史観の正体』を刊行した武田鏡村氏に知られざる「西郷どん」の実像について解説して頂いた。

 「最大の功労者」と「悲劇のヒーロー」の両面

 西郷隆盛は「薩長同盟」を結んで維新回天を行い、江戸城を無血開城した明治維新の最大の功労者として「大西郷(だいさいごう)」「大南洲(だいなんしゅう・隆盛の号)」とも呼ばれ最高の尊敬を集めて居る。しかも、明治政府に反逆した西南戦争に担ぎ上げられた総大将で、敗北して自決に至ったにも関わらず悲劇的なヒーローとして国民的な人気を集めて居る。
 
 明治維新の偉業と明治新政府への反逆と云う矛盾した行動を取った西郷の人気は、実は数々の暴虐や策謀の末に成立した明治新政府への国民の無言の反感に依って成り立って居ると言って好いだろう。所謂「判官びいき」である。
 明治新政府が作り上げた「薩長史観」では、当然の事ながらこの辺りに付いての評価を下す事無く西郷を単に傑出した偉人と見なす事で、明治維新で行った数々の不行跡を隠蔽して居る様に思える。そればかりか、幕臣であった勝海舟が「俺は今まで天下に恐ろしい者を二人見た。それは横井小楠(しょうなん)と西郷南洲だ」と、熊本藩士で改革を推進した横井と共に讃えて居る事を引き合いに出して、幕府の重臣からも認められた人物として西郷を評価する。
 或いは、坂本龍馬が「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」と西郷の人物の大きさを語って居る事を引き合いに出して、人並み外れた包容力があったと賛美している。

 だが、勝海舟の場合は西郷と会見して江戸城を無血開城させて江戸を戦火から救った事から、西郷の度量の大きさを讃える事で自分の業績を誇示したと言える。
 坂本龍馬の場合は、西郷は周囲の影響に依ってしか「響か無い」と云う主体性の無い人物であった事を正確に捉えて居る。事実、西南戦争でも煮え切ら無い態度を取って懇願された末に要約総大将に就いたと云う経緯がある。果たして西郷隆盛は本当に傑出した人物であったのであろうか。

 僧侶を「殺害」してしまった過去 

 「私事、土中の死骨にて忍ぶべからざる儀を忍びまかりあり候次第……、天地に恥ずかしき儀の御座候えども、今更に為りて候ては、皇国の為に暫く生を貪り居り候」
 (私は一旦死んだ人間であり土の中の死骨に等しく、その恥を忍んで居る身であるが、暫くは皇国の為に命を長らえて居る・長岡監物宛の西郷隆盛の書簡)

 西郷は、幕府の追っ手から逃れて来た京都清水寺の月照(げっしょう)と云う僧侶と入水自殺を図って自分が生き残り結果として月照を殺した。先の書簡は、生き残った西郷の悔恨の告白である。
 安政5(1858)年11月15日夜半 西郷は月照と鹿児島の錦江湾で入水を図った。月照46歳西郷が32歳の時である。薩摩藩は月照を殺せと命じて居たが西郷は殺すのは忍び無いと月照と合意して入水したとされて居る。
 
 だが、維新後に西郷の述懐を聞いた人の話が、『南洲翁逸話』(鹿児島県教育会編)に載っている。

 「自分が最も遺憾に思うのは僧月照の身の上だ。月照が舟の舳先に出て小便をして居る処を後ろから自分が抱き込んで飛び込んだ処、月照のみは死し自分が生き残ったのは至極遺憾な訳である」

 これに依れば、入水は合意では無く西郷による無理心中で、西郷が生き残ったのであるから殺人を犯したと見る事も出来る。事件後、奄美大島に流された西郷は、そこで出会った少壮学者で後に東大の教授と為る重野安繹(やすつぐ)に対しては、次の様に語って居る。

 「サテさて残念な事をした。和尚(おしょう)独り死なして自分独り死に損無い、活きて居るのは残念至極だ。士の剣戟を用いずして身を投げる等と云う事は、女子のしそうな事で、誠に天下の人に対しても言い分が無い。只和尚は法体の事であれば、剣戟を用いずして死んだ方が宜(よ)かろうと云う考えで投身したけれども、寧(むし)ろ死する為らば、女子の為す様な真似をして自分独り活き残って面目次第も無いと、歯咬(か)み為し涙を流して拙者に話した」 『重野安繹演説筆記』

 薩長史観では、西郷の偉業の前にこの入水は語るに値し無いと見て居る様だ。だが、西郷の心には深い悔恨が残り、その屈折した感情の発露として討幕への様々な卑劣で残虐な行為を行ったと指摘する事が出来るのではないだろうか。

 「不犯」から「好色」に変心 

 西郷は「生涯不犯」詰り一生涯女性と交わら無いと言って居たと云う。その為月照とは「男色」であったと云う説もある。だが、奄美大島に流されると、生き残った事への慙愧(ざんき)の涙を流す一方で現地の女性との間に二児を設けて居た。叉、沖永良部(おきのえらぶ)に再流罪に為った時、台湾へ密航して現地の女性に子を産ませたと云う伝承もある。
 勿論人間の心と云うものは、変化するものであるから初心を破ったからと言って非難される事は無い。処が京都で活躍の場を見出すと、鹿児島に妻がありながら幕末の志士に有り勝ちな放蕩に耽る。奈良屋と云うお茶屋の仲居のお虎と祇園の川端井末の女将お末と云う肥満した2人の女性を可愛がった。だが、お末に振られた西郷はお虎に求愛しこちらは上手く行った。お虎は大きな女性で「豚姫」と渾名を着けられて居た事が、勝海舟の『氷川清話』に載っている。
 
 西郷は大女が好みだった様で、誰彼と無く「お虎の体は最高でゴワス」と惚気(のろけ)て居たと云う。これが土佐藩主の山内容堂の耳に入って散々揶揄(からか)われたとか。一夫一妻の現代とは時代が全く異なり、幕末の志士と称する面々は何れも愛妾を囲って居たから西郷だけを槍玉に挙げる訳には行か無い。それにしても「豚姫」の惚気は当時としても頂け無いものがある。 
 同じ薩摩で西郷の幼馴染であった大久保利通も無口で実直そうだがナカナカの女好きで、祇園一力(いちりき)のお勇を囲って子供を設けたと云う。討幕のシンボルとされる「錦の御旗」は岩倉具視の側近と為る国学者の玉松操(たままつみさお)がデッチ上げた草案だが、その材料と為る西陣織を買いに遣らされたのがこのお勇である。大久保はこれを長州の品川弥二郎に渡して「錦の御旗」を作らせた。これが突如として鳥羽・伏見の戦いの最中に翻(ひるが)ったのである。
 「討幕の密勅」と言い「錦の御旗」と言い、既に大久保や西郷は「偽造」と「欺瞞」に依って、何が何でも討幕を果たそうとして居たのである。因みに玉松操は「討幕の密勅」にも関与して居たが、純粋な「尊皇攘夷派」で、明治新政府の開国方針を約束違反として批判し新政府の招きを拒絶して居る。

 残虐な策謀家としての側面
 
 幕末の日本は開国したものの、如何に外国勢力から自立するかが急務であった。それには国内戦争をせずに外国からの介入を防ぐ事である。幕府は勿論、勝海舟や坂本龍馬もその事に腐心して居た。処が薩摩も長州も国内の権力闘争に目を向けた。特に西郷は「自藩意識」だけで行動して居た。 
 西郷は、勝海舟から幕府を解体して雄藩連合で平和裏に日本をまとめる必要があると言われて初めて日本を意識する様に為ったと云うが、それでも「自藩意識」を取り去る事が出来ない。西郷に取って薩摩藩は、幕府に代わる権力主体と考え続けたのである。その為には、様々な謀略や恐喝・暴動計画を実行する。

 平和的な政権移行として「大政奉還」が行われても西郷は武力による政権奪取を放棄し無かった。国内戦争への道を追求したのである。徳川慶喜の「大政奉還」によって新国家への道が開けたと喜ぶ坂本龍馬の暗殺に加担したのは、如何も西郷や大久保であった様である(参考:明治維新より輝かしい「大政奉還」と云う偉業)。
 新体制を決める小御所(こごしょ)会議でも、西郷は「短刀一本あれば済む事だ」と反対派を恫喝し、幕府が到底飲め無い処置を決定させて居る。冷酷な武闘主義者振りを見せたのである。

 「大政奉還」後京都を去った幕府軍を挑発する事を目的として、江戸を騒擾化する為に薩摩藩士等を送り込んだのも西郷である。彼等は「薩摩御用盗(ごようとう)」と恐れられるテロ集団を作り、江戸市中で強盗・殺人・強姦・放火とあらゆる犯罪を行った。
 大店を次々に襲って、家人らを殺害し大金を強奪し軍用金とした。江戸城の二の丸にも放火して居る。江戸の薩摩藩邸を根城にして悪逆非道の限りを尽くしたのである。薩摩の暴虐はここに極まれり、と怒った勘定奉行の小栗忠順(ただまさ)は、庄内藩を中心にした幕府軍を編成して薩摩藩邸を焼き討ちにした。この知らせを聞いた西郷は興奮して「これで戦端開けたり」と語ったと云う。
 矢張り薩摩の暴虐に憤った大坂の幕府軍が鳥羽・伏見に進攻した時、西郷は桐野利秋に命じて最初の砲撃を加えさせた。全く無益な戊辰戦争を始めたのが西郷であったと言って好いだろう。

 江戸城無血開場で見捨てられた東北諸藩 

 江戸城の無血開城は西郷の英断であるとされて居るが、そこには新政府に逆らう藩を討伐する事を黙認する約束が勝海舟との間で結ばれて居たのである。勝は、江戸城を開城する事で、東北方面で起こるであろう戦争を黙認したのである。それを知った福沢諭吉は勝を糾弾して居る。その後、東北・越後方面に舞台が移った戊辰戦争では日本人同士の凄惨な殺戮が行われた。 
 天皇に忠誠を捧げ続けた会津藩は「賊軍」と貶められ徹底的に蹂躙された。長岡や庄内では奥羽越列藩同盟軍が善戦したものの他の東北地方では「官軍」の一方的で残虐な行為が繰り広げられた。それを惹起(じゃっき)したのが西郷隆盛である。

 NHK大河ドラマ「西郷どん」がどの様に都合好く西郷を描こうがこうした事実は消え無い。庄内藩に対して寛大な措置を執った事が殊更賞揚されるが、それは以前の記事(幕末最強「庄内藩」無敗伝説を知って居ますか)で紹介した様な庄内側の努力があったからである。
 西郷は「敬天愛人」を唱えて居たと云うが、それとは裏腹な「汚天殺人」を実行した人物であったと言われても仕方無いであろう。


 その2につづく



美化され過ぎた明治維新に今新たな見直しが・・・その2


 美化され過ぎた明治維新に今新たな見直しが・・・その2


 「維新正観─秘められた日本史・明治篇」

 蜷川 新著

 批評社の紹介文をそのまま紹介する。幕府側から見た明治維新を知る事の出来る貴重な本である。

 
 明治維新の正しい見方         

 「維新」の名は美しく世人には響くけれども、事実は極めて醜悪に満ちて居る。我々が国定教科書で教えられた事の大部分は偽瞞の歴史である。その真実の究明から新日本の「民主」を推進したい。「序文」より


 尊王攘夷から始まった志士達の行動

 尊皇攘夷の旗の下、幕府の開国政策に無謀な異議を唱え、孝明天皇の毒殺を初めとする奸策と狡知に依って倒幕・権力詐取に成功したのが薩長の奸賊集団であった。幕末維新史の実相を、史実に即して大胆にして且つ独自の視点から「正観」した明治維新論。類まれ為る名著の翻刻版である。幕末・維新史に関する文献は様々にあり、様々な視点から分析されて居るが、この本程当時の事実に即して書かれた本は珍しい。何故なら著者は明治6年生まれで幕臣小栗上野介の縁戚(甥)に当たる人物だからである。

 徳川幕府の開国政策は、ペリーが東インド艦隊を率いて1853(嘉永6)年6月3日(7月8日)浦賀沖に来航し開国を求めるアメリカ大統領国書を提出した事によって大きく進展するが、老中阿部正弘等を中心に、諸大名から庶民まで幅広く意見を求めて開国への準備を進めて居た。
 翌1853(嘉永7)年1月(1854年2月)ペリーは再び浦賀へ来航し、3月3日(3月31日)に日米和親条約が結ばれ下田と箱館を開港したのに続けて、8月には日英和親条約が、12月には日露和親条約が夫々締結されて幕府の開国政策は大きく進展したのであった。
 叉、幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為に万延元年(1860年)1月、大老井伊直弼の発案により正使新見正興・副使村垣範正・監察小栗忠順(上野介)をアメリカから回送されたポータハン号と幕府の軍艦咸臨丸の2隻の軍艦に乗ってアメリカに向けて品川沖から出帆した。使節団一行はアメリカの地で大歓迎を受け、更にヨーロッパに向けて見聞を広めて帰国したのだが、その間に大老井伊直弼は桜田門外で暗殺されてしまった。

 この様に幕府の開国政策に無謀な異議を唱え「尊皇攘夷」と云う時代錯誤も甚だしいこの攘夷運動に決起したのが薩長土肥の勤王志士と言われる謀略集団であった。
 孝明天皇は頑な攘夷論者であったが、孝明天皇の妹和宮と第14代将軍家茂の結婚に依って公武合体を推進し、攘夷派の無謀を譴責(けんせき)して倒幕の愚挙を排撃し長州藩と公家の7卿の処分を宸筆(しんぴつ)の勅許を以て公式に伝えたのである。
 これに憤激したのが薩摩の西郷吉之助・大久保利通・長州の木戸孝允(桂小五郎)・井上馨と公家の三条実美・幽閉されて居た岩倉具視等下級公家の陰謀集団である。彼等は薩摩藩や長州藩とは関係無い中で、倒幕へ向けて様々な陰謀、奸策を巡らし、暴力や毒殺による暗殺等あらゆる策謀を図ったのである。

 桜田門外事件と孝明天皇毒殺事件

 こうした動きがある中で、大老井伊直弼は安政の大獄と言われる粛正を断固として敢行し、尊皇攘夷派を抑え込みながら開国へ向けて大きく舵を切って行ったが、その反動とも言える事件が勃発し、更にその後に孝明天皇の毒殺と云う一大事件が勃発した。将に暴虐の連鎖による内乱へと突き進んで行ったのである。
 安政7年3月3日(1860年3月24日)桜田門外で大老井伊直弼が水戸徳川家の家臣によって斬殺され、慶応2年7月20日(1866年)大阪城内で第14代将軍家茂が毒殺されたが(同年8月20日まで伏せられた)、著者の父親の蜷川左衛門尉親賢は当時小姓組頭で将軍家茂に近侍して居た為極秘事を好く知って居たのである。
 更に宮中に於いては、岩倉具視が妹を女官として宮中に潜り込ませ孝明天皇の毒殺を試みたが、一度目は失敗し、二度目に孝明天皇を毒殺したが、岩倉の妹女官は薩摩に連れて行かれ斬殺されたと云う。

 一般に、孝明天皇は1866年12月25日に天然痘で亡く為った事にされて居るが、一度目の毒殺は失敗に帰し、12月11日頃から症状が出始めて居たが17日から便通もあり食欲も回復し熱も順調に下がり始めて居た。二度目の毒殺で21日から膿が出始め23日には膿の吹き出しも収まって全快に向かって居た。病状が急変したのは25日激しい下痢と嘔吐、最後には体中の穴等穴から出血と云う激しい死に様だったと云う。
 「風評では(孝明天皇)崩御の原因は天然痘と言われたけれども、幾年か後に私は裏面の消息に精通する日本人から、帝は毒殺されたのだと教えられた」(遠山茂樹著『明治維新』211頁)

 江戸城無血開城と戊辰戦争

 当時の武士には武士道の矜恃が未だ残って居たが、薩長の反幕集団には武士では無く郷士と云う武士階級(士分)の下層に属した人々が多く「尊皇」の志も無いまま損得利害だけで天皇毒殺と云う大それた犯罪もそれ程の抵抗無く行われた。
 その端的な事例は、西郷吉之助等が江戸市中に放った500人近い組織的強盗団である。無頼の徒と化した強盗団は、放火・掠奪を恣にして50万両に上る江戸市民の財物を強奪したと云う。(この記録は残って居る)この強盗団による謀略を誘い水に幕府を挑発し江戸薩摩藩邸への攻撃を誘い出した。西郷は谷干城(たにたてき)に「戦端開けたり。速に乾君(板垣退助)に報ぜよ」と放言したと云う。
 西郷は幕府を内戦に引き込む為の策謀を巡らし、その為だけに無頼の徒と化した強盗団を放ってあらん限りの掠奪を繰り返したのである。西郷と云う人は、謀略・奸策長けた人で根が陰湿な所為か江戸無血開城を巡って幕臣の勝海舟と密談した際に、奥羽越列藩同盟諸藩への武力攻撃を江戸無血開城と引き替えに断行する脅しを掛けた節がある。

 勝は優柔不断な人で幕臣であるにも関わらず西郷の脅しに屈服してしまったらしい。江戸無血開城は「如何為る事があっても慶喜の首を取る迄は・・・」と言い張った西郷がイギリス公使パークスに脅されて中止させられたのである。
 「徳川慶喜が恭順の意を示し、謹慎・平伏して居るのに江戸武力総攻撃とは何事か・・・」とヨーロッパ社会の掟(倫理)を楯に抵抗され、もし総攻撃するならイギリスも黙ってはいないと脅されたからである。

 その後に続く混乱の中で、西郷・大久保・木戸・岩倉等薩長の無頼の徒が偽造した私文書でしか無い「王政復古の大号令」「倒幕の密勅」「会津、桑名の藩主誅殺」の勅や鳥羽伏見の乱で幕府方を驚かせた錦旗の偽造(京都の染物屋が作った)に依って「尊皇攘夷」と云う時代錯誤の王政復古運動を倒幕・権力奪取へと摩り替えて行ったのである。
 従って権力掌握後の薩長は、恥も外聞も無く舌の根も乾かぬ内に「尊皇攘夷」の衣を脱ぎ捨てて開国・欧化を一挙に推し進め幕末・維新史を捏造して行ったのである。

 第15代将軍慶喜は世に言う「大政奉還」に依って徳川幕府の政治統治に終止符を打ち、新たな国内体制を構築する為の上奏文を認めて居る。(書いたのは三河の幕臣永井玄蕃頭と言われて居る)

 「前略、当今外国の交際日に盛為るにより、愈朝権一途に出不申候ては、綱紀難立候間、従来之旧習を改め、政権を朝廷に奉帰、広く天下之公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と可並立候、云々」

 慶喜は、幕府権力を朝廷に帰一して広く天下の公議を尽くして合議制の下で協力し、皇国を保護すれば必ず諸外国と並び立つ事が出来る事を宣言して居るのである。この上奏文は、五箇条の御誓文と基本的な枠組みは同じである。慶喜の上奏に対し朝廷は、

 「祖宗以来、御信任厚く、御依頼在らせられ候えども方今宇内の形勢を考察し、建白の趣旨、尤に思し召され候間、聞こし召され候。
 猶天下と共に、同心尽力致し、皇国を維持、宸禁を安んじ奉るべき御沙汰に候事。大事件外夷一条は、衆議を尽し、其余諸大名同じく仰出され等は、朝廷 両役(伝奏、議奏)に於て取扱い、自余の儀は、召しの諸侯上京の上、御沙汰これあるべく、それまでの処、徳川支配地、市中取締等は、是れまでの通りにて、追て御沙汰に及ぶべく候事」


 として10万石以上の諸侯に直ちに上京すべき事を命じたのである。徳川親藩の諸侯や有力諸侯は、朝廷の意向に賛意を持って居たが、掠奪無頼の徒と化した集団の薩長には倒幕・権力奪取の野望しか無い。事前に行われた小御所会議で叉も岩倉具視の背後に控える薩長の陰謀と暴力によって会議は制圧されてしまうのである。
 尾張藩主徳川慶勝・越前藩主松平慶永・広島藩主浅野長勲・土佐藩主山内容堂・薩摩藩主島津忠義・岩倉具視・三条実美が列席して居たが、薩長・岩倉側の旗色が悪く為るや否や、薩摩の岩下万平が西郷に相談すると、西郷は「岩倉に向かい、貴殿の懐剣は利れるもの為りや否やと問うてみよ」と脅しを掛ける様に伝えたと云う。
 西郷は天皇の面前でも構わずに山内容堂を刺せと示唆したのである。慶喜は、こうした薩長の陰謀を阻止するだけの胆力も先見の明も持ち合わせて居なかった。幕府軍と長州軍が戦った蛤御門の変で、幕府軍は長州軍を敗退させるが、二度に渉る長州征討に失敗し慶喜は数十万の兵を見捨てて松平容保と共に江戸に帰還してしまった。

 小栗上野介の処刑

 勘定方奉行の小栗上野介は、帰還した慶喜に薩長軍を打ち破る秘策を奉じるが、慶喜には最早戦意も無く、小栗上野介に胸倉を掴まれても只黙って居るだけであった。将軍の器で無い慶喜は只管命乞いの為に恭順の意を示す為上野寛永寺に引き籠って謹慎してしまった。
 小栗上野介は、仕方無く故郷の上野国権田村へ引き籠る為に帰郷し東善寺に寓居するが、そこへ西郷の指図で江戸市中であらん限りの暴虐を繰り返した無頼の盗賊団が押し掛け、小栗上野介には「7000人の暴徒が潜んで居る、7千余人を撃退する武力がある」「朝廷に反逆する企図がある」と喧伝(けんでん)し、発砲、放火、掠奪を繰り返した。

 更に薩長軍に命令された高崎藩・安中藩・吉井藩の3藩の藩士1000人が東善寺を囲み、捕縛される理由も無いまま烏川畔の河原で斬首され、挙げ句鮮血に塗れた首を武竿の先端に突き刺し路傍に立て梟首の辱めを与えたのである。
 こうしてあらゆる権謀術策を弄して権力を詐取した薩長は、血塗られた明治維新政府(藩閥政府)を樹立し、五箇条の御誓文とは似て非なる近代国家を作り出して行ったのである。

 ネジレにネジレた明治維新政府は、日清・日露戦争に勝利を収め更なる海外侵略を目論み、朝鮮・中国への侵略を現実化してアジア・太平洋戦争へと突入し崩壊してしまうが、近代日本の保守思想にはこうした忌まわしい歴史が底流と為って流れて居るのではないかと思う。 (引用終わり)

 色々なご意見はあるだろうが、これ程貴重な歴史の証言は無いだろう。小栗忠順の甥が書いて居るのだから。時間のある方には一読を勧めたい。

 <蜷川 新 略歴>

 1873(明治6)年5月生まれ(1959年8月没)。東京大学法学部卒、同大学院国際法専攻、法学博士。ベルサイユ講和会議、ワシントン軍縮会議等、政治、外交、赤十字国際会議に列席。
第1次世界大戦後、「平和時の赤十字」を提唱し、5大国代表と協議し1919年赤十字社連盟を創立した。歴史の専門家では無いが、法学的視点から幕末・維新史の特異な分析を試みる。

 以上


美化され過ぎた明治維新に今新たな見直しが・・・その1


 美化され過ぎた明治維新に今新たな見直しが・・・その1


 司馬史観の見直し

 戦後の国民作家である司馬遼太郎氏が創り上げた<明治維新の夢>から目を覚ます時を日本人は迎えて居る。
 (最も十代・二十代・小生もその夢を事実だと思って居たのだが)

 元スタンフォード大学の西悦夫氏が「誰も知ら無い明治維新の真実」と云う講演で明治維新の真実を暴露したり、原田伊織氏の「明治維新の過ち〜日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〜」と云う本が出版され、結構売れて居るのも恐らくそんな時代の大きな変化の現れだ。
 そう言えば小栗上野介忠順の甥である蜷川新氏の「維新正観」と云う名著も本年再刊された様だ。知ろうと思えば、本当の事を知る事の出来る環境が整って来たと云う事だろう。未だ一方でNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の様な明治維新勝利者側の官製プロパガンダドラマも相変わらず放映されて居るが、間違い無く日本の長い歴史から考えても現在日本は大きな節目を迎えて居ると考えて好い。
 私達は平安時代の藤原氏の摂関政治でも150年一寸しか続か無かった事を思い浮かべるべきだ。明治維新以降の現在迄続く藩閥政治も丁度150年でソロソロ幕引きの時を迎えて居る。

 明治維新の時はイギリスと、戦後はアメリカと取引して居る訳だが、現在、長州閥の安倍氏が総理をして居るのも何かの因縁だろう。
 ここで大切な事は純粋にお金の流れから日本の近代史を見直す事だ。ポイントはヨーロッパが200年に渉る略奪・殺戮を欲しいままにして居た1820年に於いても未だアジアの方が豊かだった事を知る事だ。

 1820年に於いて中国・インド・東南アジア・朝鮮・日本から為るアジアの所得は世界の58%を占めて居た。その後、19世紀に於けるヨーロッパの産業革命や20世紀に入ってアメリカの工業化が進む事に依って1950年には、ヨーロッパとイギリスとイギリスの4つの旧植民地(アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド)が世界所得の56%を占める一方、アジアのシェアは19%迄に落ち込んだ。
 処が、この頃からアジアは成長し始め1992年の段階で39%迄に回復。2025年には57%に達し、200年振りに過つての地位を取り戻す事が予想されて居る。(「アジア経済論」原洋之介編NTT出版、「近代中国の国際的契機」東京大学出版会)

 私達日本人は、米国が行った戦後の教育改革に依って東大卒のエリートであっても、国際銀行家とお金の存在がソックリ丸毎抜け落ちて居る近代史しか意図的に教えられて居ないのが現実だ。年表を見れば直ぐ判る様に近代に於ける歴史は戦争が主役である。
 そして戦争がどの様に作られるのかと言えば、その原動力はお金であり、そしてそのお金が何処から誰に依ってもたらされたのかと云う金融の仕組みを知る事無しに近代の歴史を本当に理解する事は出来ない。大英帝国を基盤とする国際銀行家のお金が日本に影響を与え始めるのは幕末からである。伊藤博文や坂本龍馬もロスチャイルド一族と繋がって居た人物である事を絶対に私達は忘れては為ら無い。この事は「一外交官の見た明治維新」(アーネスト・サトウ)等の本を行間まで読むとハッキリと浮かび上がって来る。

 周知の事だが、明治維新を成し遂げたのは薩摩藩や長州藩それに土佐藩等地方の下級武士であったとされて居る。代表的な人物には、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允(桂小五郎)等が居る。他にも、テレビドラマに再三登場する坂本龍馬等が居る。
 彼等の背後に居たのがロスチャイルド一族の使用人のイギリス人のトーマス・グラバーと云う武器商人で、実はこの人物こそが明治維新のキーマンだ。グラバーはイギリスのロスチャイルド一族の貿易会社マセソン商会の社員として中国の上海に来た後日本の長崎に遣って来た。そこでマセソン商会の日本支社であるグラバー商会を立ち上げ、幕末の混乱を利用して薩摩藩や土佐藩等の倒幕側に武器や弾薬その資金まで提供して居る。
 そして坂本竜馬もグラバーから約7000丁のライフルを売って貰い、それを薩摩藩名義で長州藩へ横流しする事で薩長同盟を成功させた。詰り、龍馬も幕府を倒したいグラバーの計画通りに動かされて居たと云う事だ。

 この様にグラバーがイギリスのロスチャイルド家の為に働く一方で、フランスのロスチャイルド一族は江戸幕府を支援して居た。この様に日本の幕末から明治初期の動乱の間、ロスチャイルド一族は幕府側と倒幕側の両方に武器を提供して大儲けを狙って居た。
 詰り、どちらが勝っても彼等が利益を手にし支配権を握る分断統治の仕組みであった。これこそがヨーロッパで彼等が実践し今も尚世界各地で活用して居る常套手段だ。表向きには、イギリスとフランスは日本の支配権争いで対立して居る様に見えて居たが、これがロスチャイルド一族一流の遣り方で、彼等は国を超えて繋がって居る。しかしその事は当時の幕府側も倒幕側も知る由も無かった。

 ご存じの様に日本の初代内閣総理大臣の伊藤博文は若い時(明治維新前)に、長州藩の仲間と一緒にイギリスに留学して居る。そしてイギリスのロスチャイルド家当主やそれに繋がる人達のお世話に為って居る。この若者達は5人居たので「長州ファイブ」と呼ばれたが、イギリス側からは「マセソン・ボーイズ」と呼ばれて居た。それは彼等の世話をして居たのがロスチャイルド一族に仕えグラバーのボスでもあったマセソン商会社長のヒュー・マセソンだったからだ。
 伊藤博文を初めとする5人の長州藩の若者は何れも後に明治新政府で要職に就く事に為る。他にも15名の薩摩藩士の若者達がイギリスに留学して居る。これが偶然の筈が無い。彼等は政治家や経営者に為った後に、恩を受けたロスチャイルド一族の要求に沿った制度改革を実行に移して行く事に為るのは当然の事だろう。

 この様にイギリス人の存在も含めて明治維新を見直すと、明治維新がロスチャイルド一族とその配下のイギリス人達が、日本の下級武士達に起こさせたテロ・クーデター(倒幕)であった性格を持つ事がハッキリと見えて来る。
 この様にして、イギリス勢は下級武士と協力し明治維新と呼ばれる数々の構造改革を行ない日本の近代を間接的にコントロールして行く事に為る。その事が戦争ばかりをする日本近代史に繋がって居る事をソロソロ私達日本人は、気が付くべきだ。

 処で、戦後保守論壇を代表する江藤淳氏は、自殺する前に書いた「南洲残影」で【明治維新と云う近代化】に付いて、西郷隆盛に下記の様に語らせてその欺瞞を鋭く指摘して居る。

 「それでは何故に『天子』と皇族と政府の輩とが相集うて国を亡ぼそうとして居ると言えるのか。彼等こそは兵力と小銃大砲と弾薬と軍資と糧食と運輸機関と軍艦と通信電線との力に依ってこの国を西洋に変えようとして居る者達である。
 黒船を撃ち攘(はら)い国を守る事こそ維新回天の大業の目的だったではないか。然るに今や「天子」と皇族と政府の「姦謀」は、自らの手でこの日本の津々浦々に黒船を導き入れ国土を売り渡そうとして居るではないか。西郷はそれが赦せ無い、しかるが故に立ったのだと」(58ページ)

 そして、妻に先立たれた江藤淳氏は西郷隆盛の様に欧米主導の日本近代史の真実に気が付き、日本の近代に絶望して自裁したのであったと思われる。

 叉「明治維新」と言う言葉は、昭和に為ってから2・26事件、5・15事件等に見られるファシズム運動に依って一般化した言葉で幕末の御一新の時には全く使われて居なかったものである事も私達現代人は理解して置く必要がある。
 維新と言う言葉は水戸学の藤田幽谷が生み出した言葉で攘夷と云う言葉も彼の造語だ。一番大きなポイントは、薩摩・長州の倒幕をした下級武士には討幕後の体制の展望が何も無かった事。全て、その後始末をしたのが幕府の老中の阿部正弘等が育てた能吏達であった事も大きな声で語られ無い日本の近代史だ。

 それでは「明治維新の過ち〜日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〜」原田伊織著には何が書かれて居るのか。以下、簡単に紹介する。
         
 敗戦後の占領を自覚しなかった日本人

 原田氏が生まれた年に米軍の占領が始まり、小学校に上がる前年日本は独立を回復する。処が日本人自身に、自国が外国に占領されて居たと云う自覚が殆ど無いと著者は指摘して居る。叉日本が歩いた敗戦に至る過ちを「総括」する事も無かった。只単純に、昨日迄は軍国主義、今日からは民主主義と囃し立て軸を大きくブラしたに過ぎ無かったと。
 そして明治維新の時も同じだったと著者は主張して居る。それ迄の時代を全否定し、只管(ひたすら)欧化主義に没頭した。没頭した挙句、吉田松陰の主張した対外政策を忠実に従って大陸進出に乗り出して行ったのだと云う。日本に近代化をもたらしたとされる「明治維新」と称するものを一度も総括する事が無く、只極端から極端へとブレる事を繰り返しただけなのだと著者は言っている。

 私達が知って居る明治維新は官軍の創作に過ぎ無い

 歴史と云うものは勝者が作り上げるものであり、そこには多かれ少なかれ嘘や捏造が紛れ込んで居ると云う考え方がある。しかもその多くが薩長政権による創作であるとしたら如何だろう。NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が描く様な吉田松陰や門下生による幕末・明治維新は本当に存在したのだろうか。
 松陰や門下生の活躍を描いた司馬遼太郎「世に棲む日々」を読むと、吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作達が遣った事は、現在で云うならテロである。異国船での密航・英国公使の暗殺未遂・英国公使官の焼き討ち・幕府老中の暗殺計画等は間違い無くテロである。司馬遼太郎はそれ等を「革命」と云う言葉で誤魔化して居るが、果たしてそれは正しい歴史認識なのだろうか?

 官軍教育が教える明治維新とは

 原田氏は先ず、薩長政権が作り上げた「明治維新」とは何かを提示する。長く鎖国が続き封建体制のまま停滞して居た日本を、欧米の列強による植民地化から防ぎ大い為る近代化をもたらした革命。その立役者が薩長土肥の下級武士を中心とした「志士」達だった。長州の桂小五郎・吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作・山県有朋・伊藤博文・井上馨・薩摩の西郷隆盛・大久保利通・土佐の坂本龍馬・板垣退助・後藤象二郎・肥前の大隈重信・江藤新平等である。

 彼等は幕府や佐幕派の勢力の弾圧に屈せず「戊辰戦争」に勝利して討幕を成し遂げ、日本は要約近代化への道を進み今日の繁栄がある。それが、著者が教えられた「官軍の歴史」だ。しかも学校での教育だけでは無く、エンターティンメントの分野でも「新撰組等悪の勢力と戦い勤皇の志士を助ける正義の味方の鞍馬天狗」等の作品が偽りの「明治維新」を国民に刷り込んで行った。
 「竜馬がゆく」を書いた司馬遼太郎にもその責任の一端はあると云う。著者は、この「官軍による明治維新」をほぼ全て否定して居る。そして勝者では無い側の視点から幕末史をもう一度見つめ直そうとして居る。

 テロリスト集団、長州藩

 原田氏が先ず注目するのは薩長土肥の勤皇の志士の人物像である。彼等は、今で云うなら「暗殺者集団」詰りテロリストであると著者は云う。我が国の初代総理大臣は「暗殺者集団」の構成員だった。叉維新の精神的支柱と言われた吉田松陰が、事ある毎にどれだけ暗殺を主張したか・・・著者は、本書で多くのページを費やして長州そして薩摩のテロリスト振りを紹介して居る。
 高杉晋作による英国公使の暗殺未遂や英国公館の焼き討ち、久坂玄瑞等による京での残虐なテロの数々・そして天皇の拉致・御所への砲撃も辞さ無かった長州のクーデター計画。幕府を挑発する為に、江戸に於いて火付け強盗・強姦・殺人等暴力の限りを尽くした薩摩の赤報隊。「大政奉還」や「王政復古」を巡る薩長勢力と幕府や佐幕派の熾烈な暗闘・そこで薩長が仕組んだ天をも恐れぬ策略の数々・・・そして著者は、テロリスト達の元凶とも言える吉田松陰の実像に迫って行く。

 吉田松陰像の嘘

 長州の志士達の中でも最も嘘で固められて居るのが吉田松陰であると著者は云う。松陰は、乱暴者が多い長州人の中でも特に過激な若者に過ぎず、言わば地方都市の悪ガキであると著者は決め着けて居る。松陰が開いたとされる松下村塾は、実は松陰の叔父の玉木文之進が開いたもの。松陰が神格化されるのは維新後暫く経ってから、自らの出自を権威付けたかった山県有朋の手に依ってだ。
 松陰の思想と云うのも稚拙なもので、北海道の開拓・北方の占拠・琉球の日本領化・朝鮮の属国化・満州・台湾・フィリッピンの領有等を主張して居る。奇妙な事に、長州閥が支配する帝国陸軍を中心とした勢力は、松陰が主張した通りにアジアを侵略しその挙句日本を敗戦に導いて行く。

 松陰の思想のルーツは水戸学

 原田氏は、更に松陰や長州の志士達を駆り立てた思想のルーツは「水戸学」にあると指摘する。吉田松陰は、水戸学の中心人物である藤田東湖を崇拝したと云う。著者によると、
 「水戸学は学問と言える様な代物では無く、空虚な観念論を積み重ね、それに反する生身の人間の史実を否定し、己の気分を高揚させて自己満足に浸る為だけの檄文£度のものと考えて差し支え無い。
この気分に依って水戸藩自身が四分五裂し、幕末には互いに粛清を繰り返すと云う悲惨な状況に陥った」

 と云う。水戸で生まれた浅薄な狂気の思想が長州を狂気に駆り立て幕府を滅ぼし、その後も水戸藩縁の人物達に依って日本ファシズム運動として受け継がれて行く。この流れが昭和初期に5.15事件や2.26事件を惹き起こし、日本を大東亜戦争へと導いて行く。

 この水戸学を生み出した張本人が2代目藩主である水戸光圀(水戸黄門)と9代目の徳川斉昭であると著者は云う。水戸の攘夷論の特徴は「誇大妄想・自己陶酔・論理性の欠如」に尽きると著者は云う。大言壮語して居る内に自己陶酔に陥って行く。この傾向は長州軍閥にそのまま継承され、昭和陸軍が結局軍事と云う最も論理性を求められる領域で論理性を放棄し、自己陶酔と膨張本能だけで中国戦線を拡大して行った事に繋がって行ったと云う。

 以上

 <原田伊織氏は昭和21年京都伏見生まれで、幼少時代を近江・佐和山・彦根で過ごし、司馬遼太郎と同じ大阪外国語大学を卒業、広告・編集の世界に。マーケティングプランナー、コピーライター、クリエイティブ・ディレクター、として活動している>

 その2につづく

2018年06月21日

(1)日露戦争 正しい戦史を伝えなかった軍部




 <対談「薩長史観」を超えて>

 日露戦争 正しい戦史を伝えなかった軍部

 2018年2月20日 朝刊


 日本の憲法や歴史等について対談する作家の半藤一利さん(左)と保阪正康さん=東京都千代田区で


 今年は明治150年。安倍晋三首相が今国会の施政方針演説を維新の話題から切り出すなど、明治時代を顕彰する動きが盛んだ。維新を主導した薩摩(現鹿児島県)長州(現山口県)側の視点で「明るい時代」と明治期を称える「薩長史観」は根強い。来年四月末に平成が終わり、改憲の動きが活発化する時代の節目に、近現代史に詳しい作家の半藤一利さん(87)とノンフィクション作家の保阪正康さん(78)が語り合った。

 米国の仲介で薄氷を踏む形で講和に至った日露戦争について、半藤さんは大正・昭和の軍人に正しい戦史が伝えられ無かったと指摘。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」では「正しい戦史は資料として使われ無かった」と語り、人気小説がノンフィクションと思われて居る事に懸念を示した。「太平洋戦争は維新時の官軍(の地域出身者)が始めて賊軍(の地域出身者)が止めた。これは明治150年の裏側にある一つの事実」と強調した。

 保阪さんは「日露戦争の本当の部分が隠蔽(いんぺい)された。昭和史を追うとそこに行き着く」と指摘。日清戦争で国家予算の1.5倍の賠償を取り軍人は味を占めたと述べ「日中戦争初期の停戦工作が不調に終わったのも政府が賠償金の吊り上げをやったから」と分析。「軍部に強圧的に脅され、昭和天皇は皇統を守る手段として戦争を選んだ。太平洋戦争の3年8カ月を一言でいうと『悔恨』。今の陛下はその苦しみを深く理解しているはずだ」と語った。

                    

 ・・・「明るい明治、暗い昭和」と云う歴史観を持つ人が多い気がします。日露戦争を描いた司馬遼太郎*さんの「坂の上の雲」*の影響もある 様です。生前の司馬さんと交流があった半藤さんはどう捉えていますか?

 半藤 日露戦争後、陸軍も海軍も正しい戦史を作りました。しかし、公表したのは日本人が如何に一生懸命戦ったか、世界の強国である帝政ロシアを如何に倒したかと云う「物語・神話」としての戦史でした。
 海軍大学校や陸軍大学校の生徒にすら本当の事を教えていなかったんです。海軍の正しい戦史は全百冊。三部作られ、二部は海軍に残し一部が皇室に献上されました。海軍はその二部を太平洋戦争の敗戦時に焼却しちゃったんですね。司馬さんが「坂の上の雲」を書いた当時は、物語の海戦史しか無く、司馬さんはそれを資料として使うしか無かった。

 ◆小説と全然違う

 処が、昭和天皇が亡くなる直前、皇室に献上されていた正しい戦史は国民に見て貰った方が好いと宮内庁から防衛庁(現防衛省)に下賜されたんです。私は直ぐ飛んで行って見せて貰いました。
 全然違う事が書いてある。日本海海戦で東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ時に右手を挙げたとか、微動だにしなかったとか、秋山真之の作戦通りにバルチック艦隊が来たと云うのは大嘘でした。危うく大失敗する処だった。

 陸軍も同じです。二百三高地の作戦が如何に酷かったかを隠し、乃木希典と参謀長を持ち上げる為に白兵戦と突撃戦法で遂に落としたと云う美化した記録を残しました。日露戦争は国民を徴兵し重税を課しこれ以上戦え無いと云う厳しい状況下で、米国のルーズベルト大統領の仲介で何とか講和に結び付けたのが実情でした。
 それなのに「大勝利・大勝利」と大宣伝してしまった。日露戦争後、軍人や官僚は論功行賞で勲章や爵位を貰いました。陸軍62人・海軍38人・官僚30数人です。こんな論功行賞を遣って置きながら国民には真実を伝えずリアリズムに欠ける国家にしてしまったんですね。

 ◆爵位を得る為

 保阪 昭和五十年代に日米開戦時の首相だった東条英機*の事を調べました。昭和天皇の側近だった木戸幸一*が未だ生きて 居て取材を申し込みました。何故、東条や陸海軍の軍事指導者はあんなに戦争を一生懸命やったのかと書面で質問しました。その答えの中に「彼等は華族に為りたかった」とありました。満州事変<注5>の際の関東軍司令官の本庄繁は男爵に為っています。東条達は、あの戦争に勝つ事で爵位*が欲しかった。それが木戸の見方でした。
 当たって居るナアと思いますね。何万、何十万人が死のうが、天皇の名で遣るので自分は逃げられる。明治の嘘の戦史から始まった好い加減な軍事システムは昭和の時代に拡大解釈され肥大化したのです。

 *司馬遼太郎 1923〜96年。坂本龍馬を主人公とした「竜馬がゆく」幕末を舞台にした「峠」「翔ぶが如く」等、歴史上の人物や出来事を描き「国民的作家」と呼ばれた。「街道をゆく」等のエッセーでも文明批評を展開した。
 *坂の上の雲 司馬遼太郎さんの歴史小説。陸軍の秋山好古と海軍の真之兄弟と俳人の正岡子規が主人公。陸軍の乃木希典第三軍司令官や海軍の東郷平八郎連合艦隊長官らも登場し、日本が日露戦争でロシア軍を破る 迄を英雄的な視点で描いた。明治百年の1968年に産経新聞で連載が始まった。
 *東条英機 1884〜1948年。41年、陸相のまま首相に就任し対米開戦を決定した。44年のサイパン陥落を機に辞職した。戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として起訴され有罪判決を受けて死刑と為った。
 *木戸幸一 1889〜1977年。主に宮中で活動した戦前の政治家。幕末、明治初期に活躍した木戸孝允(長州出身)の孫。内大臣などを務め、昭和天皇の最側近として実権を握り、戦局が悪化すると和平に動いた。東京裁判でA級戦犯として終身禁錮の判決を受けた。
 *満州事変 1931年に日本の関東軍が南満州鉄道の爆破事件を自作自演し中国東北部への軍事侵攻に踏み切った。翌32年には軍事力を背景にかいらい国家の「満州国」を作り上げた。国策として27万人の日本人が移住。敗戦時のソ連軍侵攻の混乱の中、逃避行中の8万人が死亡した。残された幼児は残留孤児となった。
 *爵位 明治憲法下では公家や大名の家系の他、明治維新の功労者や実業家など国家に功績があった者は「華族」と 云う特権的な身分とされた。栄典として公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵と云う五等の爵位を授与された。1947年、現憲法施行により廃止された。

 <はんどう・かずとし> 1930年、東京都出身。東京大卒。「文芸春秋」編集長などをへて作家に。「日本のいちばん長い日」「幕末史」「ノモンハンの夏」など近現代史関連の著書多数。
 <ほさか・まさやす> 1939年、札幌市生まれ。同志社大卒。出版社勤務をへて、昭和史を中心とする著述活動に入る。「昭和陸軍の研究」「昭和史七つの謎」など。


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