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2018年06月28日
一兵士の戦争体験 その24
その24
◆山間へ移動収容
終戦後英軍の命令により、戦後俘虜だから現地人の家を借りるには不適切であり現地人に接触しない場所に集めるのが適切だと判断されたのかも知れ無いが、その後チェジャンジー地区内の民家から離れた山間に移動した。一つには、日本兵の逃亡を防止する為であったのかも知れ無い。
ここは野宿なので、細い木と木の葉で覆いをしただけの粗末な小屋を拵(しつら)えた。幸いにして雨期も終わり雨も降ら無く為って居り助かった。十月上旬から十月中旬に掛けて此処に居たが、毎日戦争し逃げ回る事も無い。そこに休んで居れば好いのだから休養が出来助かった。
米と塩は旧日本軍の倉庫に行って取って来れば好いので十分あった。しかし副食の肉類や野菜類は欠乏して居たので、少し離れた民家の軒先に干してあるとんがらしや里芋の茎を貰って来て食べた。
少しずつ体が回復に向かって居り嬉しい。皆の顔がやや丸味を帯びて来た。中には顔が腫れる様に為る人も居た。急に沢山食べ調子を狂わす兵士も居た。でもこの頃は未だ、戦争中の疲労が回復し無いまま息を引き取る人もあった。
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◇草むす屍
◆金井塚輜重聯隊本部付少佐 元第一中隊長を葬る
前にも書いたが、金井塚少佐は五月上旬カバイン付近の戦闘で足を負傷し歩行不能と為り、担架や牛の背中に乗せられ、その後は杖に縋りながら長い苦痛な行軍に耐えてこの地点迄辿り着いたが、衰弱した身体は病魔に冒され息を引き取られた。
昭和二十年十月六日、溝口指揮班長より「小田、お前はレミナに居る頃、中隊長と同じ家に住み、特別縁が深いから、今晩屍衛兵(しかばねえいへい)を遣れ」と命じられた。自分は有難い事だと思った。
私が二年八ヵ月前の昭和十八年二月十五日に召集を受け、初めて金井塚中隊長を拝む様な気持ちで見上げた時の事を思い、その凛々(りり)しい威厳に溢れたお姿、中隊全員に号令や訓示をされて居られた堂々とした様子を思い出す。
又、十九年一月頃レミナの町で中隊長以下溝口曹長達八名で一軒の整った家を借り、通信班として和やかな雰囲気で任務に就いた時の事や中隊長の人間らしさに触れ感激した事を思い出す。
屍の傍に立ち守って居ると今の姿は余りにもお気の毒である。顔を覆う白い布は何処にも無いので、緑の葉が多く着いた木の枝を折って来て顔を覆って差し上げた。冷たく硬直した身体を見ていると、草むす屍を思い出し命の果敢なさをシミジミト感じさせられた。
埼玉県出身の陸軍士官学校出の青年将校、レミナに居る時特に親しくして頂いただけに、悲しく、寂しく、色々の事を思い出しながら一夜を屍と共に明かした。最も重要な最後の屍衛兵をさせて頂き、御恩に報いる事が出来た事を感謝した。併せて溝口准尉のこの配慮を有難く思った。
翌日は溝口指揮班長の指揮により草原に穴を堀り、屍を埋葬し墓標を建て懇ろにお別れをした。墓標は何処から用意されたのか、材料も大工道具も無いこの宿営の中で良くぞ用意されたものとだと感心した。
残念だったのは、皆弱って居る上に分散して露営して居たので、十四、五名位しか埋葬に加われ無かった事だ。号令一下と言う訳に行か無かった事だ。本来、日本軍の華やか為りし頃の中隊長の葬儀であれば、中隊四百名全員が正装して厳粛盛大な葬儀が行われたのだろうに、敗戦の今は生き残りの兵隊も少なく命絶え絶えで仕方の無い事だった。金井塚久少佐殿安らかにお眠り下さい。
・・・あれから五十二年の時が流れたがその時の状況が彷彿(ほうふつ)として思い出される。遠く過ぎた悲しい夢であり、戦争の歴史も遥かに遠ざかって行く。今でもあの埋葬した草原に草が生え茂り、灼熱(しゃくねつ)の太陽が照りつけて居るだろうか。合掌。
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◆幻想
終戦後の当時、野営中も弱った者を一ヵ所に集めて病室として居た。私も以前より回復して来たが、未だ弱って居るのでその病人の居る室に入れられて居た。病室と言っても別に変わった建物では無く、地面の上にお粗末な小屋があるだけであり、患者を集めて寝かせて居るだけの事である。別に薬がある訳でも無い。
只、炊事を自分でし無くても、誰かが粥を作って呉れる。それに衛生兵が近くに居るので心丈夫だったし、作業に引き出される事は無かった。言わば患者が枕を並べて寝て居るだけだった。
私の隣に井上上等兵が休んで居た。もう三十歳位で私に比較すれば世間の事も好く知った人であった。「何時まで英印軍に使われるのだろうか、何時帰れるだろうか」とか「帰れば花子さんが待って居る」とか「日本の若い女の肌は忘れられ無い」「リンゴの様な頬にカジリ着きたい」等と面白く話をして居た。特に体調が悪い様でも無く、私も同じ様な事を考え話したり聞いたりして居た。
その夜中、彼が独り言で「船が迎えに来た。ホレ、あそこに復員船が二艘来て居るぞ。早く乗ろう。波止場に早く行こう」と言い出した。「あの島は内地の島だ」等と。初めは寝言かと思って居たがどうも可笑しい。起きて歩こうともする。薄暗い夜中で明かり一つ無いので表情が分から無いが、どうも気が狂って居る。急に脳症を起こしたらしい。
衛生兵を探して来たが手の施しようも無い。当時薬を持って居ないし成り行きに任せるより仕方が無く、押さえ着けて寝かせた。しかし二、三日経った後に息を引き取りそれ切りだった。
今我々は俘虜の身であり、何時内地に帰れるか一生労働者として使われるか見当が着か無い。或いは、き・ん・抜・き・にされるのかも知れ無いと思った。全ては戦勝国側の意志次第であり誰にも先の事は分から無かった。
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◆奇遇だ 勇気を出そう
私の隣の患者は酷く弱って居る様だ。年令は私より十歳程上で軍曹の階級章を着けて居るが、見慣れ無い顔である。尋ねると岡山の歩兵聯隊所属との事である。どうしてその聯隊の人がここに居るのか分から無いが兎に角混じって居るのだ。
青息吐息なので余り話し掛け無かった。でも私が「自分は岡山県の赤磐郡の出身だが、岡山県の何処の出身ですか?」と尋ねた。彼は「和気郡(わけぐん)本庄村(今は和気町)の出身だ」と答えた。私が「和気郡山田村(今は佐伯町)に親戚がある」と言うと彼も「山田村に親戚がある」と言う。私が「康広(やすひろ)と言う家で、私の母の出所だ」と言うと彼も「康広は親戚だ」と答える。偉い近い話である。
私は「母の父は康広治四郎と言って山田村の村長をして居た家です」と言うと、彼の返事が弾んで「そこが、叔母さんが嫁いだ家です」と答える。私は「村長をして居た治四郎は私の祖父で私は外孫です」と言うと「それではお互いに、親戚ではないか」と言う事で一気に親しく為った。
世の中は狭いもので、私の従兄(いとこ)の「栄さん」をも好く知って居り本当に懐かしく為った。お互いに元気に為って必ず復員し山田村で会おうと約束した。これが大きな励みと勇気付けに為った。
三、四日の後、国友政夫軍曹は何処かへ転出して行った。復員後聞いたのだが、その時野戦病院に運ばれたとの事であった。幸いに彼も私も元気に為り二年間の抑留生活を別々の所で送ったが、二人とも無事復員出来、約束通り再び山田村(現在の佐伯町)の康広家で会う事が出来お互いの無事を喜び合った。
つづく
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一兵士の戦争体験 その23
その23
◆旧友との再会
シャン高原に入り半月位経った頃だろうか、敵機が飛んで来るが爆撃も銃撃もし無く為った。「可笑しいぞ」と誰かが言い出した。「そう言えば、敵の飛行機が撃って来ないぞ。もしかしたらソビエットが仲裁に入り、戦争が終わったのではないか?」と誰とも無く言い出した。これだけ戦況が悪くても負けたとは考えられ無いし、負けたと思いたく無いのだ。
日本が勝つ事は難しいが、負ける事は無いと信じて戦って居るのだ。「講和が出来たのかも知れ無いぞ」その頃から大きい部隊でも昼間の行軍に切り替え、色々の部隊が相前後して歩いて居る。岡山の歩兵聯隊も三々五々と言った形で東に向かって歩いて居た。
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その時、中学(旧制)同級生の内田有方君に会った。五ヵ月前に第二アラカン山脈の中で奇遇して以来、これで二回目である。岡山の歩兵聯隊に所属して居り今度も偶然の出会いであった。この前は元気で逞しい将校姿であったが、今度は力無くヒョロヒョロと歩いて居る。服は着て居るが装具は何も着けて居無い。丸腰と言った姿。マラリヤの高熱に侵され夢遊病者の様にフラフラして居る。
直ぐにお互いが分かり視線が合った。直ぐに彼の所に近寄り「オイ、内田か」「小田よ、元気かい」「この前アラカンで会って以来久し振りだが元気かい」と懐かしく声を掛け合った。
元気かいと声を掛けたが、お互いに痩せ衰え元気で無い事は分かる。哀れな姿でお互いに手を握り頑張ろうと励まし合った。彼の手は高熱で熱く目は黄色く濁り光が無かった。私は、彼はこんなに弱って居るが悪性マラリヤではないか。大丈夫だろうかと心配した。彼も又、小田はアンナに骨皮に為って居るのに、持ち応える事が出来るだろうかと心配した様子。でも、彼に会った事が大きな気力の支えに為った。
・・・その様に疲労衰弱して居たが、不思議に二人共幸運に恵まれ、九死に一生を得て終戦を迎え、更に二年間の抑留生活を別々の地方でしたので会う事は無かったが、昭和二十二年七月に夫々無事復員した。
復員後暫くして中学の同窓会で会いお互いの無事を喜び合った。その後は、更に色々の事で会う事も多く密接な関係を保って居るが彼は岡山県ビルマ会の世話を好くして居り、後に私もその会員と為り関係行事に参加している。
特に、慰霊訪問団の一員として私が二回ビルマへ行く機会に恵まれたのも彼の勧めによる処が大きい。今だに、彼は「あの時は苦しかった、生きて帰れるとは思わ無かった。小田、お前はメガネを糸で括り耳に掛けて居たが、痩せこけて居たぞ。お互いに運があったのだナア」と語り合った。
その内田君も平成七年二月永遠の旅に出てしまった。彼が健在ならば私が今書いているこの原稿作成を支援して呉れただろうに。今は心よりご冥福をお祈りするばかりである。皆老いて来て、学友も戦友も次第に旅立ち寂しく為り時は容赦なく過ぎて行く。
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◆うわさ
誰からとも無く噂が流れて来た。敵の飛行機からビラが撒かれ、それには「日本が降伏した。戦いは終わったのだ」「日本軍は兵器を捨てて降伏して来い」「アイサレンダー アイサレンダー(降参の意味)と言って、手を挙げて来い」「戦っても無駄だ」と書いてあるとの事だが誰も信じ無かった。
しかし、嘘だと決め着ける情報も根拠も無い。ビルマ方面軍司令部とか策軍司令部とか師団司令部等の友軍側の正確なルートによる情報は全然入って来ない。当時師団司令部にある通信機は既に使用不能に為って居り、それにこれら司令部も聯隊も分散して居り統一性を欠いで居た。伝令の兵士が直接徒歩によって連絡するしか手段が無く連絡に何日も掛かる状況であった。
情報と言えば、信じたく無い敵のこのビラしか無いのだ。嘘かも知れ無い?敵側の「日本が負けた」と言うこのビラは英印軍の謀略(ぼうりゃく)かも知れ無い。でも敵は、ここ数日攻撃をして来なく為っている。飛行機は飛んで来るが撃って来ない。不思議だが、負けたと言う事は信じられ無かったし信じたく無かった。それは八月二十二、三日の頃である。
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◆様々な戦い
敵の飛行機が射撃して来ないので、昼間の行動が出来る様に為った。遮蔽物の少ない丘陵地帯を進むと、道端の屍が目に着く。手榴弾を抱いて自決したばかりなのか腹がポッカリと吹き飛び、真っ赤な血が流れ出て居る。夜間の行軍なら幾ら死体があっても見え無いが生々しく見え過ぎる。
又、地雷に遣られて二人が道の真ん中で折り重なり死んで居る。死体が未だ新しい。蝿が二、三匹来て居るだけで未だ屍臭(ししゅう)も気に為ら無い位である。屍の傍らを避けるようにして通る。
この様に、所々に地雷が仕掛けられて居るが、退却して来る日本軍を殺傷する為に現地人が仕掛けたとする為らば、その地雷は何処から入手したのか不思議である。だが、現実我々は被害を被って居る。
山の谷間に行き奇麗な水を汲もうと近寄ると水を汲んで居る者が居る。動か無いので好く見ると、その姿勢のままで息絶えて居る。そう為るとそこで水を汲む気に為れ無い。幅十メートル位の浅い小川を歩いて渡って居ると、そこにも俯せに倒れた屍がある。何処の部隊の兵士なのか分から無いがこの様に点々と屍に出会う。ペグー山系に比べるとやや少ないがここにも幽気が漂って居る。
今までに数えられ無い程の死骸を見て来て居り神経も麻痺して居る筈だが、可哀相にと思うと同時に臭く見苦しい姿には目を背け、自分だけはアンナ姿に為りたく無いと思った。戦争はこんな場面を数知れず作って居るのである。
小休止に為りシラミ取りをして居ると、どうも股の間が痒(かゆ)く痛みを感じる。好く見るときん玉の近くにもう一つの玉があり、大きく紫色をして居る。ヒイルが喰い付いて思う存分血を吸い膨(は)れ上がって居るのだ。
取ろうとしても固く喰いついてナカナカ取れ無い。やっと引き千切ってみると大きなヒイルだ。私は痩せ衰え血液も少なく為って居り一滴でも惜しいのにこんな吸血鬼に血を吸い取られて居るのだ。この憎い奴は木の枝に居り、動物や人間が下を通ると上から落ちて来て衣服に止まり、やがて体に喰らい着き皮膚から血を吸うのだ。気持ちが悪い位大型で凄いヒイルが居るものだ。
次はダニだ。何時の間にか顔や耳などに喰らい着いている。戦友が顔をこちらに向け、この辺が可笑しいので見て呉れと言う。好く見ると目尻にポッリと黒子の様なものが少し盛り上がって黒く見える。ダニだ、一寸摘もうとしても摘め無い。爪を立ててやっと引き千切った。
潰すと赤い血を一杯吸うて居た。所構わず、ダニがさばり着き血を吸う。山の中には物凄い数のダニが居る様だ。
次はサソリだ。青黒い大きな奴を何回か見た。又小さな茶色をしたのも見たが、刺された事は無く刺されて困った話も私は聞いた事が無かった。
次は蛇だ。首を持ち上げたコブラを一度見た事があるが、それは一回だけ。滴る様な緑色をした五十センチ位の蛇を見た。それは灌木に登って居たが美しいだけに気持ちが悪く忘れられ無い。猛毒を持つ蛇だと言う事だ。
アラカン山脈シンゴンダインで二十頭の猿の群れに会った。その時自分一人だったので気持ちが悪かった。野性の象の群れを見たと誰かが言って居た。この様に色々の生きものに出会ったが、大した被害は聞か無かった。前に書いた虎についての被害と恐ろしさだけは格別だった。
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十 終戦と抑留(よくりゅう)生活
◇終戦
◆終戦の知らせ届く
八月二十日過ぎにビルマの南西地区の山間に到達し、そこに駐屯して居た兵士に出会った。彼等は、前線から退却して来た我々に僅かではあるが湯茶の接待や味噌汁を作り飲ませて呉れた。弱った我々を親切に迎えて呉れお陰で体の中まで温かく為った。
彼等兵士は一応服装も整って居り、銃剣等も手入れしたものを持って居た。乞食の様に汚れ垢だらけに為り破れた服を着た裸足の我々とは余りにも違いお互いにビックリした。ビルマで戦争をしても、前線と後方、場所場所によってかなりの差があった事を知った。
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この事は、我々がタンガップに居た時、それより前線から帰って来た兵士が弱り果てボロボロに為って居たのを見た事があったが、それと同じ様に今は私達がそんな姿に為って居るのだ。全て運であり人の所為では無い。
数日後「小銃に刻印されている菊の御紋(ごもん)を消せ」との命令が下りて来た。今度は「兵器を一ヵ所に集め、返納(へんのう)せよ」との命令が来た。だが私は上官から明確に「敗戦」とか「負けた」とのけじめの言葉を直接聞いた事は無かった。
只何と無く負けたのだと感じ悟ったのである。我々が転進して居る道の直ぐ近くに英軍の将校が立ち、その左右を日本の兵士が護衛し我が軍の状況を監視して居たが、その様子から英国が勝ち日本が負けたのだと実感した。その頃正式ルートから負けたと言う知らせが我々の耳にも入った。
一日一日と敗戦の実感が心を締めつけて来る。全ての兵器を敵軍に渡し丸腰に為った。完全な武装解除である。敗戦兵士の屈辱を味わう事が始まった。
英国とインド軍の指示に従いマルタバン方面に向かい毎日の行軍が続く。英印軍の兵士が武器を持って我々日本兵を監視警護しながら歩いて行く。給水車が遣って来て水を配給して呉れる。今迄の日本軍では無かった事で給水は有難い。
群がる様にして水を水筒等に注いで居ると、英印軍の兵士がお互いに「ジャプ ピッグ」「ジャプ ピッグ」と言って笑って居た。日本人野郎の豚がと言って居るのだ。馬鹿にされた言葉だが仕方が無い。
久し振りにアスファルトの広い道に出た。裸足の足には余りにも熱い道だった。今迄は主に山中で土の上や田んぼの畦道(あぜみち)だったので熱さを感じ無かったが舗装道路では足の裏が焼ける様だった。幾ら熱くても一歩一歩煮えて軟らかく為ったアスファルトの上を歩か無ければなら無かった。色々の試練があるものだ。
マルタバンに着き何回も何回も人数を調べられ船に乗せられモールメンに着いた。その後チェジャンジーの村落に暫く滞在した。それは昭和二十年九月中下旬と思う。
五月初旬、アラカン山脈のベンガル湾側のシンゴンダインを出発してから、ここに到着する迄約百四十日間、雨に濡れ野宿し道無き道を探しつつ、河を渡り迷ったり取り逸れたり、紆余曲折(うよきょくせつ)の道を行きつ帰りつした。千二百キロ、これは岡山〜盛岡間の距離に為るが、この長い長い道程を激戦、転進、敵中突破、飢餓、病魔と戦いながら裸足で歩き通し、やっと戦闘と行軍が終わったのだ。
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◆身体の回復を待つ
チェジャンジーで民家を借り上げ宿泊した。もう弾丸に当たる心配が無くなり雨に濡れ食べるものが無く飢餓で死ぬ事を極端に心配する必要も無くなり最悪の状態から抜け出した。
だが、これ迄に弱って居た兵士は次々に死んで行った。勿論、栄養のある食物が有る訳では無い。少しでも早く体力の回復をと願い器用な人が犬を罠(わな)に掛けて取り皆で分けて食べたりした。私も美味しく食べ体力が少しでも回復しそうな気がした。
英軍の支配下に入ったとは言え未だ過渡期なので、日本軍が今迄管理して居た倉庫に行き米や砂糖その他副食品を貰って来る事が出来た。
毎朝点呼と体操をする事に為ったが、この処私の腕は神経痛の為上に挙がら無い。真横までしか挙げられ無いし耳鳴りは未だ続いて居り、視力も衰えたままで声も依然として小さな弱い声しか出せ無かった。その頃戦友に「小田、お前の頭はうぶ毛ではないか」と言われビックリした。
自分では今まで全く気が着か無かった。鏡がある訳では無いし、戦友達もやっと落ち着き私の頭を観察する余裕が出来たのだ。私も自分の頭がどう為って居るかなど別に痛くも無いし思いも着か無い事だった。治るだろうか?と心配に為った。
それから、顔だ。自分の顔は自分では見え無いが、戦友の顔は皆土の様で煙突掃除から出て来た様な煤けた顔、髭(ひげ)は伸び放題で仙人の様だ。将校も下士官も兵隊も皆この様な顔をして居た。
この頃に為り、嬉しい殊に血の小便が止まった。毎日雨に濡れ水に浸かり冷えて居たが、終戦後は水に浸かる事も逃げる事も無く楽に為ったからだ。戦争の最中は自分の命を維持し持って逃げるのに一生懸命で、身体の細部まで見る事は無かったが、ここに来て好く見ると手の爪が皺(しわ)だらけで黄色く土色をして居る。死人のそれの様である。
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◆水浴
疲労衰弱の激しい時は水浴する元気も無い。水浴すると熱が出るのでは無いかと思い転進作戦中から戦後迄の五ヵ月間、裸に為り身体を洗う時間も無いし弱り果て洗おうとする気にも為ら無かった。転進中は、只生き延びる事命を持って逃げる事で一生懸命だった。
九月中旬に為り、やっと水浴しようかと思う程度に体が回復したので、晴天の日に小川へ皆と一緒に行った。裸に為ってみると酷く両足の間が空いて居る。二本の足の間に大きく隙間が出来て居る。可笑しいなと思って好く見ると、太腿(ふともも)が痩せて細く為ってしまって居る。全く骨皮だけに為って居りビックリした。太腿に両手の指を廻して測ってみると健康な頃に比べて非常に細く為っており驚いた。
胸を見ると肋骨が一本一本浮き出て肩の骨はゴツゴツと飛び出し、これ以上痩せる事が出来ない位痩せてしまって居た。恐らく、四十キログラムを切って居ただろう。小川の流れで洗うと垢が皮膚から剥がれ出し、何と流れる水が薄黒く濁る程であった。
好くもこんなに垢が着いて居たものだ。石鹸も無いので擦って垢を落とすだけであったが気持ちが好い。でも一度に垢を落とすと熱が出たり体調を損なう恐れがあるので早々に引き上げた。
長い間、積もり積もった戦塵の荒落しが出来たのである。その時は汚れたままの服を着て居り、これを洗う程の元気が無かった。 数日後の二回目には着たきりの服を水洗いし干した。干して居る間は着替えが無いので褌(ふんどし)一つで乾くのを待った。乾燥した空気、しかも太陽が強く照り着けて居るので三、四時間する内にほぼ乾いた。
衣服を五ヵ月振りに洗濯し気持ちが好かった。好く見ると服も大分傷んでおり歴戦の跡を残して居た。服の裏の縫い目にシラミとその卵が鈴為りにくっ付いて居たが、この程度の洗濯では半分程しか取れて居ない様であった。その後もシラミに食われ続けた。
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◆シラミ退治
シラミと言えば転進の半ば頃から次第に多く為り、体中シラミに食われ痒(かゆ)くて堪ら無い。食われた跡形で体全体がザラザラして居る。小休止の間も皆服を脱ぎシラミ取りに一生懸命だ。
しかし少し位殺した処で繁殖力の方が旺盛で増えるばかりで処置無しである。昼と言わず夜と言わず痒くて痒くて堪ら無い。服の内側の縫い目に卵を産み着け、その辺りを根拠地として体中を這い回る。深夜余りの痒さで寝られず辛抱しかねて跳ね起きる。
だが明かりが一つも無いので、シラミを取る事は出来ない。咄嗟の判断で服を裏返しに着てシラミが表に回って来る間に眠るのだ。
或る日、使役で精米所に作業に行った時、ボイラーから熱湯が出て来て溜まって居る場所があった。その熱湯の中に浸ければシラミが死ぬだろうと思い衣服を十分間位漬けてみた。それでも全部は死な無かった。強いものである。
一番効いたのは、英印軍にDDTを体と装具一式に真っ白に為る程掛けられた時である。将兵全員一斉に実施した。以後完全に撲滅した。凄い威力であった。当時日本軍にはそんな良い薬品は無いし、在ったかも知れ無いが実用化されて居なかった。そんな事にも彼我の衛生面での対策に大きな差がある事を見せ付けられた。俘虜(ふりょ)生活の中だが、シラミの居ない生活は健康で衛生的であった。
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◆蚊とマラリヤ
序に蚊に付いてだが、蚊に対する防備は当初は頭に被る網の袋だった。未だビルマに着いて三ヵ月位過ぎた頃、ヘンサタ市方面の渡河作業をし夕方を迎えた時、物凄い蚊の大群に襲われた事がある。暗闇の中だからどれ位居るのか見え無いが、空気の中の半分は蚊ではないかと思われる程であった。
その時、この網を被ってみた事があるが、鬱陶しいだけでどれ程効果があったか分から無い。焚火をしたり枯草を燃やして蚊を防いだがどうにも為ら無かった。手や足は剥き出しであり顔だけ覆ってみてもむさ苦しいだけなので、このネットはその後使用する事は無かった。
十人程度入れる蚊帳(かや)があったが、纏まって家の中で生活する場合なら役立つが分散した露営には役立た無い。その内破れて無く為り常に蚊に刺され通しであった。
或る平原地帯のビルマの民家に居る時も、アラカン山脈の中に住む時も無防備で、マラリヤを媒介する蚊に刺されパナシであった。次々とマラリヤの病に為るのは当り前の事である。
悪性のマラリヤ菌を持つ蚊が一杯居り、昼も夜も所構わず刺して居るのだから仕方が無い事である。マラリヤの特効薬でキニーネがありその錠剤を毎食後飲む事にして居たが、蚊に刺され方が激しいのでどれ位効果があるか好く分から無かった。
キニーネは胃腸には好く無いし、後にはこれも補給が無くなり対応策無しであった。昔からビルマは、しょうれい・病魔の地と言われて居るが将にマラリヤの蔓延(はびこ)る国である。
ビルマ全土で、我が軍は三十三万人の内十九万人が戦死した。私の概算ではその内十二万人がマラリヤに直接間接関わりがあり戦死したと言って好いと思う。それ程迄にマラリヤ蚊によって大勢の兵士が殺された事に為る。悪性マラリヤに罹れば、四十度の高熱が一週間乃至十日間連続し亡く為る人が多い。
マラリヤとアメーバー赤痢の併発で命を落とす人、間接には高熱で歩いて着いて行け無くなり落伍してしまった多くの人々。マラリヤと疲労で弱ってしまい自決した人、マラリヤで体力が奪われ糧秣を取りに行けず餓死した人も数限り無い。
マラリヤに罹り衰弱して居たのでシッタン河を筏で泳ぎ切る事が出来なかった人達もある。考え方によるとマラリヤとの戦いに破れたとも言えるのである。
処で、国が戦争で負けたので一括して捕虜に為った場合は俘虜(ふりょ)と言うが、そのビルマでの俘虜生活では間も無くアースとかD・D・T等が配給され、噴霧器による蚊の退治を徹底する様に為り、しかも三ヵ月後には早くも全員に個人用の蚊帳を配り防蚊体制が整備された。
俘虜抑留者に対してこれだけの事が出来るのは大した事だと感心した。この様に英印軍の環境衛生対策は日本軍より遥かに上であると思った。
戦争中の日本軍の様に「ビルマの山の中には、何でも食べるものがある、本来人間は草食動物であるからそれを食い生きて行けるのだ。食うものが無ければ敵のを取って食え」と命令した事と比較すれば大きな相違である。
人命尊重の思想が全く異なるのである。万事に大きな差異がある事が次第に分かって来た。マラリヤで多くの兵士が死んで行ったのも人命尊重の思想が乏しく安全衛生思想が低く当然の結果であったとも考えられる。
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一兵士の戦争体験 その22
その22
◆生と死の境
その頃、師団司令部の藤井中尉を長とする将校斥候(せっこう)が編成され十名が選ばれ、五名が輜重隊から、他の隊から五名が選ばれた。重要な斥候である事が想像された。
この将校斥候は、師団司令部及び輜重第一中隊等は迂回ルートを行くが、それと分かれて近道が行けるかどうかを偵察するのが任務であった様である。約一週間の予定で別行動をするのだが、この道は後続する者が来無いルートであると聞かされて居た。
溝口指揮班長より「小田 この斥候に行け」と命令された。私は長い間下痢が続いて衰弱しその上悪性マラリヤでは無いが三十八度の熱が引き続いて居たので、斥候に出て行くと途中で落伍してしまう様な気がして為ら無かった。
命令を断わる事は軍隊では出来無い事と好く知っては居たが、以前から溝口指揮班長に可愛がって貰って居た甘えもあり、体の不調を訴え「自分には出来そうに無い」と懇願した。
しかし「弱って居るのは皆だ」「行って呉れなくてはいけない。他に行ける者は居ないのだ」とガンとして断られた。幾ら可愛い部下であっても発令者の立場から言えば当然の事であり、ここは一刻を争う戦場なのだ。「アアそうか、そうか」と聞いて居たのでは節度が着か無い。
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溝口指揮班長を恨む気持ちは全く無かった。命令に従うのは当然だと思った。しかし大変な事に為った。任務が果たせるだろうかと心配に為った。途中で皆に迷惑を掛けては行けない、石に齧りついても斥候の任務を果たすのだと改めて自分に言い聞かせた。
藤井中尉の指揮下に入り出発した。私は機関銃の弾薬を携行する役と為った。シヤン高原の山の中を登り谷を渡り水に浸かり細い道を進んだ。
時々中尉はセルロイドのファイルに入れてある地図を出して見て居られたが、大分草臥(くたび)れたものだった。磁石と照らし合わせて居たが、こんな地図では今我々が歩いて居る様な細い道は無い筈なのにどんなにして進路を間違い無く定めて居るのだろうか?師団司令部のこの中尉の才覚と方向感覚に頼る外は無い。
小川を日に何回も渡るので、下半身は何時も濡れて冷えが起き小休止の度毎(たびごと)に下痢をしに走った。便の量は少しだが腹が絞(しぼ)る様な感じで粘液の様なものが出るだけである。ここ数日が特に好く無い。
将校斥候に出て二日目の午後は小さな雨が降って居た。私は着いて歩け無く為った。激しい熱に襲われ足に力が無く為り体を支える事が出来無くなった。戦友が「頑張れ」と勇気付けて呉れたがどうにも為ら無い。
自分が持っていた機関銃の弾薬を他の兵隊に渡した。持ち物は自決用の手榴弾と飯盒と水筒、空に近い背嚢だけである。それに肌身離さず持って居るお守りである。
私は「自分はもう歩け無いのでここで休むから置いて行って呉れ」と八木兵長に言った。八木兵長は「休んだら着いて来いよ。何れ俺達も夕方に為り今日の目的地に着けば休むのだから」「着いて来るんだぞ、諦めてはいかんぞ」「諦めてはいかんぞ」と力を込めて言った。
しかし、誰もがこれで終わりだと思い私も最後の別離だと覚悟をした。藤井中尉から特に叱られはし無かった。皆私を残して行ってしまった。私は道端にヘタバッタままで動け無い。高熱の為目も眩(くら)みそうで、精根尽き果てしゃがみ込んでしまった。皆行ってしまったし、誰も後からこの道を来る兵士が居ない事は決まって居る。孤独であり只一人自分だけなのである。
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全てを諦(あきら)めねば為らないのだ。意識のある間にするべき事をして置かないといけない。意識が朦朧(もうろう)としてしまえば自決する決断も出来なくなり野垂死してしまう。それではいけない。今自決をする事だ。『自決だ』手榴弾を腰から外した。
目の前が黒い帳(とばり)に覆われる様な感じだ。これで自分もビルマの土に為るのだ。両親の顔が目に浮かぶ。「お父さん、お母さん、長い間大変お世話に為りここまで育てて頂き、恵まれた日々、楽しい人生を過ごさせて頂き有難うございました。先に行く事に為りますがお許し下さい。兵隊として立派に今日まで尽くして来ましたからご安心下さい」
幼い日の事から、青野ヵ原行きの汽車の中で最後の別れをした時の事が思い出され、何とも言え無い気持がした。「妹よ、兄は御国の為に命を捧げるが、お前は元気で両親に孝行をして呉れ、俺の分までも」と心で言った。
学生時代の親友内田富士雄君、情緒豊かな君に学ぶ事も多かった。俺はビルマに散って行く、青春の日々を懐かしみつつ。会社の上司や、先輩の方々が東京駅で送って下さった時の歓呼の声が思い出され震える。
米沢の西澤とよ子さんからの、懐かしく心を時めかし勇気づけられた便り「米沢のさくらんぼが小田さんのお帰りを待って居ます」の一節が思い出された。あれ程祈って呉れて居るのに、もう内地へ帰る事は出来なくなり今自分はこの世を去ろうとしている。可憐な彼女の姿が目蓋に浮かぶ。「さらばだ、今生の別れだ」悲痛な覚悟。手榴弾の安全栓を抜いた。
先端の突起を固い所に打ち着けて発火を確認し、敵陣を目掛けて投げると四秒後に爆発するのだ。本来は敵を損傷させる兵器でナカナカの威力を発揮するものだが、それが今は自決する為に確実に死ねる方法として使用されて居り腹に手榴弾を抱いて死んだ姿を数限り無く見て来た。
イザ突起(とっき)を打ちつけ様とすると固い地面が無い。雨に濡れた柔らかい道だけである。近くに何か固い石でも無いかと探したが無い。十メートル程離れた所に大きい木の幹があるが、弱り切った体はそこ迄動いて行け無い。打ち着ける所が無く困った。
困ったナアーと思うと一気に緊張が弛(ゆる)んで力無く横に転んだ。高熱で朦朧(もうろう)とした身体は直ぐに眠ってしまった様である。冷たい雨に打たれフト気がつくと「未だ生きているではないか!」「自分は生きて居るのだ!」の実感。
二、三時間眠ったのだろうか大粒の雨が頬を濡らして居る。自決し無かったのだ、手榴弾をそこに置いたままである。高熱が下がったのだろうか頭も痛く無い。
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暫く茫然(ぼうぜん)として居たが、幾分疲労が回復して居る様だ。不思議だが未だ若い体だから眠って居る間に少し元気に為ったのだろうか。今度のマラリヤは悪性で無かったから熱が下がったのか?それとも、体が免疫に為ったのでこの程度で済んだのか知れ無いが兎に角歩けそうだ。
前に行った斥候の一団に追い着いてみようと心が動いた。抜いて居た手榴弾の安全栓を元に差し込みキッチリと締めた。立ち上がり歩き始めた。
あれだけ高熱で弱って居たのに歩けるではないか。奇跡だろうと何であろうと歩けるのだ。ボツボツ歩いた。山道を十人が歩いて居るので、柔かい土の上に足跡が残って居り道を間違えず容易に後を追う事が出来た。
その間何処にも家は無く人にも出会わず、喘ぐように黙々として細い山道を歩いた。三時間ばかり歩いた頃日が暮れ出した。次第に薄暗く為り道が分り難く為って来た。「アア、駄目か、追い着け無い」一人で野宿すると、この地方では虎が少ないが出て来るかも知れない。
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ガックリと力を落とし再び自決をする事を思い・・・・寂しさと、迫り来る闇の恐怖を感じ、道も見え難いのでもう歩くのを諦め様かと思って居た。その時、忽然(こうぜん)と目の前に柱が二本、鳥居の様に立って居るではないか。
部落の入り口である事が直ぐに分かった。部落だ、嬉しい、有難い。山間に小さい家があり、近づいて様子を伺うと現地人の声だ。可笑しい、確かに一行はここへ来て居るに違い無いのに?更に十軒ばかりの集落の奥の方の家に行き、耳を澄ますと今度は日本人の声がする。
もし、五分間、日が暮れるのが早かったなら運命はどう為って居たか分から無い。全てを諦めて居たかも知れ無いのに。やっと追い着いたのだ。転げる様にして家の中に飛び込んだ。
八木兵長や他の者が「小田お前来たのか」 「ビックリした」 「好く来たのう、もう会え無いかと思って心配して居たのに、よう追いついたナア」 「好かった、好かった」と皆で迎えて呉れた。藤井中尉に追及出来た事を報告した。
この頃は、一度落伍したら最後、追い着く事は殆ど出来ないのに、それが二、三時間も遅れて追い着いて来たのだから皆がビックリするのも無理が無い。誠に幸運中の幸運であり、神霊の加護によるものであると思わざるを得ない。
地面が軟らかかったのも、地獄の閻魔(えんま)さんが受付けて呉れ無かったからだ。それに私に人一倍粘り強い処があったからかも知れない。
夜に為っており皆の炊事も出来ていた。誰かが煮物を分けて呉れ、それを皆と一緒に食べた。ご飯と芋蔓(いもづる)を煮た汁物、それにガピーが少しあった。 疲れた体で炊事をするのでは無く、出来上がった物を食べるのだから大変助かった。焚火の明かりがチョロチョロと皆の顔を照らして居た。野宿で無く家の中で休めるのは何と言っても有難かった。
「疲れて居るだろうから、早く休めよ」と誰かが言った。疲労して居たので間も無くグッタリと為って眠った。
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次の日の朝、藤井中尉将校斥候長から「近道をしたので、目的地に早く行けそうだ。今日と明日はこのままここで休むから十分休養して置け」との指示があり皆は大喜び。
子豚を捕まえ料理して皆で分けて食べ体力回復に努めた。私もこの二日間の休みで幾らか元気に為った。この休みが無くて続けて強行軍して居た為らば再び落伍したかも知れ無いのに。
三日目の行軍にはどうにか着いて行けた。四日目も五日目も楽な行軍で中隊本部や師団本隊と合流した。本隊は毎日歩いたのに、私達は近道をしたので二日間十分休みながら悠々と到着出来たのである。これも幸運だった。
考えてみると、私が斥候に行かず師団本隊と共に行動して居たら、迂回路なので毎日歩き通しで着いて行け無かったかも知れない。運とはこんなもので不思議である。
ここでも二重三重四重の幸運に恵まれ生死の境を乗り越え、斥候の任務を終えた。運命は分から無いが神霊の加護により、母の信心により生かされた事を私は感謝しなければ為らない。この辺りが、シヤン高原のユアガレと言う地名の付近であった。
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◆戦友友田上等兵を残して
シヤン高原に入ってからは敵の地上部隊に追い回されず空襲を警戒すれば好い。食物も所々に小さな部落があるのでどうにか飢えを凌ぐ事が出来た。 小さい部落さえ無いペグー山系の中より増しであった。大きい集団で行動する事は山の中とは言え、昼間は避けて夜し無ければなら無かった。昼は林の中に隠れ煙を出さ無い様に炊事をして休み夜の行軍を続けた。
その日は好く晴れた月明かりの夜行軍であった。だが林のある所は暗かった。私と友田上等兵は弱った者同志で一中隊主力部隊の最後尾を遅れながら竹の杖をつきトボトボと歩いて居た。
彼は割合元気で、数日前私が酷く弱って居た時に私の装具を持って助けて呉れた事もあったのに、ここ一両日でマラリヤに罹り弱って居た。三叉路に差し掛かった時、部隊は右に行ったのに私達二人は月明かりで好く見え無かったので左へ進んでしまった。
暫く行った所で、友田上等兵は「もう歩け無い」と言って座り込んでしまった。私は「元気を出して行こう」と声を掛けたが「もう一歩も歩け無い」と言って青い顔をしている。
「ここで挫けては駄目だ。苦労してここ迄来たのだ、もう一踏ん張りだ」と言って励ましたが動か無い。私は持って居た竹の杖で彼の背中を一発殴った。「どうにも為ら無い、体が動か無いんだ、ほっといて行って呉れ」と彼は答えるだけであった。
「サア、立て」問答が続いたがどうにも為ら無い。お互いの頬に涙が光った。 「元気に為ったら後から行くから」と答えた。私は「ジャア仕方が無い、必ず後から着いて来るんだぞ」と励ました。彼は「小田よ、気を着けて行けよ」と言った。「有難う、では行くぞ」と言い残し彼と別れた。
私は本隊に追い着こうと歩いた。その頃は夜が明け朝に為って居た。三、四百メートル程行くと道が消える様に無く為ってしまい途方に暮れた。これは何処かで道を間違えたのだと初めて感じた。
山の中で方向が分から無くなり迷いそうに為ったが、やっと引き返して来ると友田上等兵が居る。「道を間違えた、逆戻りして居るのだ。一緒に行こう」と誘った。しかし、彼は首を横に振るだけである。もう一度「友田、行こう、元気を出して行こう」と励ましたが、彼は「小田よ、ビルマの道は分から無いから、気を着けて行けよ」と注意して呉れただけで立とうとはし無かった。
「では、行くぞ。元気に為ったら着いて来るんだぞ。では先に行くぞ」と言った。それが最後に交わした言葉であった。嗚呼(ああ)!
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元来た道を引き返して居ると、滅多に人に会う事が無い山の中なのに現地人二人が向こうから遣って来る。山男の様な格好をして居た。細い道だからどちらかが縁(へり)に寄らなければ通れ無い。
私は武器としては手榴弾一個しか持って居なく、しかも弱った体であるが未だ日本人のプライドがある。こちらが縁(へり)に避ける事は無い。もし彼等が危害を加えて来ればそれ迄だと覚悟を決め、睨みつけながら道の真ん中を進んで行った。相手が避け道を空けて呉れた。
ビルマ人の中には日本人に対し好意を持った者が多いが、色々の事情から反感を持って居る者も居た。戦況が日本に不利な現在では可笑しく為り掛けて来たが普通は積極的に日本兵に危害を与え無かった。この二人は彼の所を直後に通る事に為ると、私は気に為ったがどう為ったか分ら無い。私の想像ではビルマ人は友田上等兵を無視して通り過ぎたであろうと思う。
・・・その後、彼は自決しただろうか、全て分から無い。私が彼と別れた最後の戦友だったので、復員後早い時期にお墓にお参りしたいと思いながら機会を逸してしまい心残りと為って居る。
あれから五十二年が経った今も、あの別れた悲しい場面が思い出されて仕方が無い。只管友田勇喜雄戦友の御冥福をお祈りするのみである。
更に引き返すと三叉路があった。ここを間違えたのだと分かった。部隊は右に行ったのに我々二人は気がつかず左へ行ってしまいこんな事に為ってしまったのだ。アレコレして居る間に部隊より約一時間余り遅れた事に為り追いつこうと懸命に歩いた。
午後遅く、やっと本隊へ追い着いた。本隊は大休止をして居た。戦友達は「小田、好く追い着いて来たナア。一度遅れると殆ど駄目なのだが、お前は好く頑張るからナア」 「頑張り屋だ」と言って迎えて呉れた。しかし、そんな事より彼の事を早速上官に報告した。
友田上等兵を残したのは、私の責任の様な気がして為ら無い。彼は隣の班であるが私と親しい戦友で、玉島市近辺の出身で銀行員であったと記憶して居る。良き戦友を失い残念で為らない。何時までも何時までも心に残る辛い別れだった。
つづく
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一兵士の戦争体験 その21
その21
◇シツタン河の渡河作戦
◆小舟で渡れる
我々手島中隊の者は舟でシッタン河を渡る事に為った。昨夜舟を収拾(しゅうしゅう)して来た苦労が報われた訳だ。私はその時、日にちの感覚は明確で無いが、輜重兵ビルマ戦線回顧録(かいころく)に拠ると、シッタン河は五つの作戦区分に分かれ渡河したが、第一中隊は師団司令部等と同じ右縦隊中央突破縦隊に属して居り、渡河した日は二十年七月二十六日と記されて居る。
日が暮れると行動が開始された。渡河地点まで約一キロを歩いて行った。部隊毎に順序好く並ぶ。舟は小さいので四人しか乗れ無い。漕ぐ人が別に二人乗り計六人である。この突破縦隊は何百人も居り一晩では渡り切れ無い。
この地点に、もっと部隊が居たのか、他にもう一艘あったのかも私には好く分から無い。私達は三時間程待つ内に順番が来たので河岸に行き装具を持って舟に乗った。暗闇の中に水は岸に溢れんばかりにと・う・と・う・と流れて居た。水はどれ程濁って居るか分から無いが黒いうねりの様に見え大変な水量で圧倒されそうである。流れの速さも凄く目測で毎秒三メートルと記録されて居る。
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岸を離れ兵隊二人が一生懸命に漕いで居る。我々は兵隊の指示通りに飯盒で舟の底に溜まる水を汲み出した。舟の整備もしたのだろうが、可成り浸水して居る様である。皆祈る様な気持ちで乗って居ると、舳先(へさき)を上流に向けて漕いで居るのに流され流されして居る。
暗いので好く分から無いが流れは渦を巻いたり湧き上がる様な所もあった。 河の中程を過ぎると対岸が黒ずんで薄く見え出した。次第に近づく。もう直ぐだ。舟が岸に着いた!
岸にしがみ付き草の根を固く握りながら這(は)い上がった。三、四メートルも土手を攀じ登った。こちらの平地の方が水面に比べ大分高い様だ。兎に角シッタン河を無事に渡ったのだ。筏を押して泳いで渡るのでは無く舟に乗り労せずして渡れたのだ。 漕手の兵士に心から「有難う、有難う」と感謝のお礼を言った。将に「生」への喜びの一瞬である。
小舟は次の人を迎える為に帰って行った。舟の着く位置も多少異なるし暗闇の中では先行した人が何処に居るか分から無い。岸の小高い草叢に腰を下ろして暗黒の流れを振り返り眺めて居ると、私達は非常な幸運に恵まれ小舟のお陰で渡れたのだと感激一入であった。
誰が漕手をしたのか知ら無いが、その兵隊だって弱って居た筈である。元々漁師か何かで舟を漕ぐ事に慣れて居たのかも知れ無いが大変な仕事だったと思う。その漕手で、皆を渡して呉れた人は果たして最後迄転進をし内地に帰ったのだろうか?幸運に私達の第一中隊主力は夜明け迄に渡河を完了したようだ。
・・・最近本誌の執筆に当たり、当時指揮班長をされこの渡河についても細部の取り仕切りをされて居た溝口登元准尉に聞いた処、その時の漕手は堀、三枝、山崎の各上等兵で、この人達が好く遣って呉れたので皆渡河出来たと感慨を込めて教えて下さった。
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他の部隊の一部は、夜が明けてしまい渡河出来ずそこに残ったままと思われる。昼は敵の飛行機が偵察し、流れて居る日本軍兵士が居ると機関銃で撃って来るし下流の岸からは敵や現地人が撃って来るので、舟であろうと筏であろうと渡河は不可能である。それに長時間水の中に居ると、弱り果て筏から手が離れ溺死してしまうのである。
私は、渡河地点近くに民家があったがそこには入らず、バナナ畑に入って休んだ。日が高く為った頃敵機が数機飛来して、昨日迄我々が居た対岸の部落を目がけて銃撃し始めた。ここから見ると約千五百メートル離れた所であるが、こちらが高台なので手に取る様に見える。小型爆弾の炸裂する音や、機関砲の音も聞こえて来る。やがて、火の手が上がり煙と炎が遠望される。将に地獄絵図さながらである。
あれ程遣られると全滅したのでは無いかと思われた。良くぞ昨夜、十時間前に渡河して居たものだ。一日遅れて居たらあの硝煙の中に居るのだと思うと何とも言え無い戦慄(せんりつ)を覚えた。敵は、我々が渡河点前に集結して居ると思い徹底的に攻撃をして居るのだ。マタマタ、シッタン平野に多くの若い血が流されて居るのだ。敵の攻撃を受け傷つきながらも運のある人はその夜、筏に縋り渡河して来た。だが多くの人は濁流の藻屑(もくず)と消えた。
その夜渡って来た人に聞いた処によると、その日の攻撃は物凄く、大変な犠牲者が出て屍が累々として重なり、渡河も各人の筏で銘々(めいめい)に泳いで来たので多くの人が流されたとの事であった。
◆シッタン河の悲劇
既にビルマの主要部分は敵の支配下に落ち、このシッタン平野も英印軍に制圧されて居た。敵の勢力下にある地帯を突破する悲壮な作戦である。その為に突破梯団が組まれ、渡河区分も大きく五つに分かれ渡河地点も三十キロに渉る長い展開であった。
場所によって河幅も流れの速さも異なり、又ペグー山系を下りた所からシッタン河迄の距離も異なるし地形もマチマチ、敵の警戒度合いも場所により異なって居たが何処も厳しいものであった事に違いは無かった。
シッタン河渡河は我が軍団に取り最大の難関であり決死の一大作戦であった。世界の戦史に末長く残る極めて稀な激しい渡河作戦であったと言える。 渡河した将兵の殆どは竹の筏に装具を乗せ四、五人で組に為り筏に掴(つか)まり泳いで渡ったのである。それも夜の闇に紛れての行動である。人間の体力のみではどうにも為るものでは無い。
流れは右に曲がり左に折れ怒涛(どとう)の如く荒れて居る。波も立ち目線も筏に掴まって居るのだから低く、周囲の様子も分かり難い最悪の条件である。それに皆疲れ切って居る。対岸を目指して泳ぎ出したものの、浮かぶ筈の筏はアッと言う間に沈み乗せた兵器は流れ去り、筏は身軽に為って再び浮き上がりこれに取り縋(すが)った兵士は急流に押し流され多くの命が奪われた。
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濁流に翻弄され激流に呑まれ、泳いで居ても筏から手がズルズルと離れ激流の波を頭から被る。筏はグルグル回ったりバラバラに分解したりして「助けて呉れ!」「助けて呉れ!」と叫びながら多くの人が流されて行く。やっと対岸に近づいたと思ったらアレヨアレヨと言う間に沖に押し戻されてしまう。もう諦(あきら)め様としながらも又岸に向かって泳いで筏を押したと言う。
私は、渡河出来た人からの話しか聞いていない。渡河出来無くて流された人、即ち死んだ人の話を聞く事は出来無いが、その人達は下流へ流されて居る時どんな目に遭いどんなに悲痛な思いをした事か。その事を忘れる訳には行かない。
私達の中隊に舟が無かった為らば、私は筏で泳ぎ渡る体力は無く急流に流され渦に巻き込まれ死んで居ただろう。元気な時には二百メートルや三百メートル泳げる人も、水泳の選手で幾らでも泳げた人も、今は痩せ衰え極度の栄養失調で半病人、体が駄目に為って居るからこの流れを泳ぎ通す事は到底困難な事である。
次から次に「助けて呉れ!」「助けて呉れ!]と叫びながら流されて行く声。「軍旗(ぐんき)を持って居るのだ、助けて呉れ!」と絶叫しながら流される、元気な旗手が腹に巻きつけて泳いだのだろうが、何分重い旗でありしかも水に濡れれば重く体の自由が効か無く為ったのかと想像する。後に為って聞いたのだが、幸いにこの軍旗は渡河に成功し、終戦迄大切に守られて来た由である。
「助けて呉れ!」と言う声は聞こえても暗黒の闇、何処を流されて居るのか分から無い。よしんば声の所在が分かっても長い棒やロープや浮き輪がある訳では無く、精々「頑張れー」と声援するだけで為すべき手段が無い。その人自身の努力と運しか無いのだ。流れの表面に沿って岸に近づくのを待つだけである。
熱帯地方とは言え夜の水の中、次第に手も足も痺れ筏から離れ沈んで行くのだ。心臓麻痺で死ぬ人もあろうし、流れて行く内に夜が明け敵に撃たれた兵士もあっただろう。私は後日、他の河の橋桁(はしげた)に白骨を乗せた筏が引っ掛かって居たのを見た。
身体は本人がロープで筏に括(くく)り着けたのだろうが、そのまま息が絶え朽ち果てて骨のみが筏の上に残されて居るのだ。誠に哀れと言うより言葉が無かった。筏に掴まり流され、息絶える迄の相当の時間、この戦友達は何を思い何を願って居たであろうか?故国を思い、父母妻子を懐かしみ、どんなに残念無念の思いをしながら死の時を待っただろうか。
流れる間に放心した者もあるかも知れ無い。又理性的に自決を覚悟した人もあっただろうが、装具の中から手榴弾を取り出す事も、流れる水の中ではママ為らず流れに身を任すだけと為り死ぬに死ねず最期を待ったのだろうが、こんなに酷(ひど)い事がこの世にあるだろうか?
不利な戦とは、こんなものである。歓呼の声に送られ勇ましく征途に着いた将兵が無情にも、夥しい数、こうしてシッタン河の藻屑(もくず)と為ってしまったのである。
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終戦後の抑留期間中に、他の師団で当時シッタン河の下流に布陣して居た兵士から聞いた話だが、
「毎日毎日夥しい屍が筏と共に流れて来て、禿鷹(はげたか)が舞い降りて屍の肉を食べその惨状は実に目を覆うものがあった」
「河口付近は満潮で筏が海に流れず溜(た)まり、死者の腐臭(ふしゅう)が一帯に充満して居た」
と聞いたが悲惨の極みと言う他は無い。
シッタン河に流された確かな人数を把握して居ないが、英印軍の集計によると六千の遺体が流されて居たと記録されて居る。しかし沈みながら流れて居るものや、岸に引っ掛かった屍等を合わせると一万にも達するのでは無かろうか。
これも後日聞いた話で一例であるが、岡山の歩兵聯隊では、渡河前千人居た者が渡河直後五百人に半減して居たとの事で、各聯隊共に似た様な惨状であった事が想像される。この夥しい死体を河は飲み込み、大部分は流れて海に行ったのだろう。しかし途中に引っ掛かった屍の処理を現地人はどの様にしたのだろうか?これも大変な作業だった事と思う。
全世界の何処にこんな河があるだろうか。世界の戦争史の中で稀に見る悲劇である。永遠に流れるシッタンの流れよ、この河に散って行った日本兵士を何時までも弔って呉れ。私達はシッタンの悲劇を永久に忘れては為ら無い。私の命ある限り無き戦友に哀悼の誠を捧げなければならない。
ペグー山系の餓死、シツタン河での水死、ここに数万人もの犠牲者を出しながら撤退作戦は更に続けられた。
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◇シャン高原での戦い
◆シッタン平地からシャン高原へ
渡河後昼はバナナ畑に退避、夜は民家に入り食糧を集め飯盒炊事をしてどうにか飢えを凌ぐ事が出来た。三日ばかり集結の為その辺りに止まった。幸いに敵の攻撃は河のこちら側には及んで来なかった。
渡河により各梯団とも人数が激減して居た。又しても夜間の行軍が始まった。目指すはビルマの東南のモールメン地区で、ビルマ方面軍司令部は既にその地区へ後退して居た。
そこ迄の道程はマダマダ遠く二百キロも先であった。シヤン高原の道はクネクネと曲がり細く為ったり太く為ったりして居た。平地を過ぎ森林部を抜けナダラカナ山間部へと毎日夜間の行軍が続いた。敵の地上部隊は未だここ迄は来て居なかったが、飛行機による追跡と機銃掃射は続いた。
又、至る所に地雷が仕掛けられて居た。我々より先行して居た兵士が地雷に遣られ倒れて居り、死体がアチラコチラに散らばって居た。
或る日の事である。道の真ん中に将校が座って居る。何で端に座ら無いで真ん中に居るのかと不審に思い近づいて見ると、地雷に遣られ上半身のみが路面にドッカリと倒れずに立って居る。下半身は吹き飛んで居るのだ。叉、ペグー山系程では無いが、シヤン高原の道端にも体力が尽き果て自決した兵士の屍が至る所に残され惨状を呈して居た。
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終戦後、秋田衛生下士官から聞いた話だが、彼も落伍し無い様に一生懸命に歩いて居た。路傍に屍が点々とあるのは当時としては珍しい事では無かった。彼がフト見ると、仰向けの死体の口の中から芽が青く出ている。好く見ると、生の籾を食べようとして口の中に入れたがそのまま息を引き取った姿だ。
死体の兵隊は米が無く為りやっと籾(もみ)を現地人の家から取る事が出来たが、これを白米にする力も無く火に掛けて焼いて食べる事も出来無いまま体力が衰え、籾のままを食べようとして口に入れたがそのまま息絶えて居るのだ。
そこへ雨期の雨が適当に口の中に降り注ぎ籾から芽が出て青く育って居るのである。屍の口の中で籾が発芽して青い芽が育つ、そんな事がこの世にあって好いのだろうかと思ったとの事。
我々はコウモリの様に夜歩き夜明けと共にあばら家でもあれば潜り込み、敵の飛行機に見つから無い様にして東南モールメンの方向に転進を続けた。しかし、敵英印軍は日本軍の動向を好く偵察して居り飛行機で山林の上空にも飛来し機関砲で撃って来る。
シャン高原はアラカン山脈の様に高くは無いが起伏が連続して居り、雨期で谷川は増水し激流と為って居る。幅十メートル程の川でも、岩を咬(か)み飛沫を挙げて滝の如く流れて居り歩いてこの川を渡る事は出来ず行き止まりである。
幸いな事に、先行の工兵隊だろうか、上手(じょうず)に大木を川の上に切り倒し向う側からも大木を切り倒し川の中程で交叉させて曲がったり上下して居るが、兎に角橋を拵えて呉れて居たので難なく川を越える事が出来た。
でも、丸木で先の方は細く、他部隊の将校は滑り落ち死んだとも聞いた。そんな事をして激流を越えた事もあるが、激流で無く腰まで漬かって歩いて渡れる所が多かった。
ここの道は泥濘は無く歩き易かった。しかし、相変わらず裸足で竹の杖に縋(すが)りながらの後退である。 山の間を細い道に沿って行くと、時に山間民族チン族の部落が十軒〜十五軒点在して居た。住民は我々が行く前に素早く逃げて居り、顔を合わす事は無く豚や鶏はそのまま置いてきぼりに為されていた。
辺りには水田も無く家の中には米は無かったが、部落には椰子の木が何本かありバナナが何本かあった。我々は当時大部隊としてでは無く分散して行動をして居たので案外食物に有り付く事が出来た。
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吹けば飛ぶ様な竹細工のあばら家でも、雨に打たれて地面にゴロ寝するより家の中は遥かに有難かった。ある部落で柵の中に居る子豚に目を着け、兵隊三人で追い掛けたが豚は必死に逃げるので捕まら無い。仕方無く小銃で仕留めた。豚の料理も荒い事だが肉を裂き薄切れにし肉汁や焼肉にした。
椰子の実が為って居るが高い木を登るのにも技術が居る。それに弱った身体では登れ無い。偶々大きい鋸(のこぎり)があったので引き倒した。その方が労力が要ら無かったので悪いと思ったがそうした。高い木がバタリと音を立てて倒れた。椰子の実が沢山着いて居り皆で分けて食べた。
長い間果物らしいものも食べて居ないので堪ら無く美味しい。現地人に対しては椰子の木を切り倒して済まないと思ったが許して欲しい、我々は今命を繋ぐのに一生懸命であり食べ無ければ死ぬのだ。
一度や二度、豚や鶏を食べたとて急に元気に為るものでも無い。人によっては急に食べたので体が腫(は)れたり下痢を始めるものも居た。こうして我々が通った後は、部落は荒らされ食物は無く為り家の一部は焚火に燃やされ、後には日本兵の屍が残され或いは瀕死(ひんし)の兵隊がそのまま残って居るだけであった。
こんな事は不本意な事であり、現地人に対し誠に気の毒な事である。しかし我々は戦いに破れ敵に追われ食物が無く毎日をやっと生きて居るのだ。
雨期の最盛期は過ぎたが、マダマダ雨は激しく降る。ボロボロの携帯テントに包まりながらトボトボと歩いて行くだけである。雨の中で地面に竹を敷き身体の上に木の葉を覆い寝るのだ。時には焚火で被服を乾かす事もあるが、濡れたまま寝る場合が多い。疲れ切って居るのでそれでも眠れる。
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恨めしい雨は小降りに為ったが未だ続いて居た。その頃はシャン高原の中程ユアガレと言う部落を目指して歩いて居たと思う。 私達第一中隊本部に有吉(ありよし)獣医下士官が居た。敵弾に右足下腿を酷く遣られ、太い木を松葉杖の様にして身体の半分の重さを乗せ片足で歩いて居た。傍にマウンテンと言う青年が付添装具等を持ち手助けをして居た。
この人はビルマの獣医で、ずっと以前から有吉軍曹を慕い気が合い日本軍に協力し転進中も苦労を共にして居た。
この青年の並々為らぬ援助のお陰もあり、普通なら重傷で着いて行ける様な状態で無いのに毎日早めに出発し途中の小休止もしないで歩き抜かれて居り、その精神力その忍耐強さに敬服した。私は、転進中の長い期間気の毒な姿を見て居たが、本当に好く辛抱(しんぼう)されたものであると驚いた。負傷して居ない私がヘトヘトなのに、足に重傷を負いながら良くぞ歩かれたものだと感心した。
・・・彼の若い奥さんが、青野ヵ原から姫路迄の最後の行軍の時、和服姿で彼の傍を離れ無い様にして見送りされて居た。六月下旬の暑い日で軍馬車両が濛々(もうもう)と砂塵を立てて進む中を一生懸命歩いて居られた姿が目に浮かんで来た。
その真心が通じ合ったのでは無かろうか。その後無事復員され元気で今日を迎えて居られる。今だに、歩き方に後遺症が残って居る様だが、有吉獣医軍曹の忍耐強さを尊敬し簡単にここに記す。
・・・有吉義夫氏は、最近私宛にあの重傷で転進中マウンテン君に助けて貰ったのに何のお礼をする事も出来無いままに為って居り心残りだ。恩人マウンテンさんに感謝のお礼を、ビルマの人達に心からお礼を申し上げたいと、切々とした手紙を送って来られた。ここに明記して置く。
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◆輜重隊の活躍
私は一兵隊だから全体の事は好く分から無いが、当時第一中隊は手島中隊長の指揮の下で私達の第二小隊と、片岡東一軍曹や光畑上等兵等の第三小隊、及び溝口指揮班長や志水衛生軍曹等の本部指揮班の総勢約七十名が固まって行動して居たと思う。
中隊長以外の将校は既に戦死されて居たので、指揮班長の溝口准尉が細部の指示を与えて居た。戦力が貧弱に為って居りこれが第一中隊の主力であった。
こうして、第一中隊即ち、手島中隊長以下の主力は師団司令部と一緒に行動をし、師団長の直接警護をしたり司令部の食糧を調達したりして居た。シッタン河渡河の折も、我が中隊の光畑機関銃手が師団長の舟に乗り直接身辺をお守りした。師団司令部の参謀達を小舟で渡したのも我が中隊の兵士であり、そんな事で師団参謀を近くで見る機会も多かった。
前にも述べたが、編成最初からの太田聯隊長は二十年五月十一日戦死され、金井塚聯隊付き大尉も負傷され、その後は植田中尉が聯隊長代理をされて居た。
我々がペグー山系に入った頃、畑聯隊長が着任されて居たが、聯隊や中隊は分散し転進して居たので我々は直接拝顔する事無しに指揮命令を受けて居た。内地に居る時とか一ヵ所に集結して居る時であれば、聯隊長の着任は全員揃って厳粛(げんしゅく)にされただろうが、こんな戦闘中で特に状況の悪い最中では末端には徹底され無かったが仕方の無い事であった。
ともあれ、我々は畑聯隊長の指揮下で後半の転進作戦を実行したのである。 手島中隊長は、頑強な身体の持ち主で鳥取県出身の方であった。中隊がタンガップ方面の警備に当たって居た頃の昭和十九年十一月中旬、聯隊本部付きから当第一中隊へ着任され、以後一番苦しい時に中隊を掌握し転進作戦を指揮されたが、途中、敵弾で片腕を負傷し、三角布で吊し乍らも常に勇敢に陣頭に立ち中隊を終戦まで率い大任を果されたのである。
武士の魂を立派に備えた方の様にお見受けして居た。無事復員をされたが残念な殊に昭和二十六年頃逝去された。もっと長生きされ、日本の発展を見守って頂き、輜重隊戦友会にも来席して頂きたかった。堂々とした体躯で先頭指揮されて居た当時の雄姿が懐かしく今も目蓋(まぶた)に浮かぶ。合掌
つづく
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一兵士の戦争体験 その20
その20
九 敵中突破
◇マンダレー街道と鉄道突破
牟田口司令官
◆闇夜の中を
夕方前に集結地を出発した。何千人何万人もの死体と落伍者を残し地獄のペグー山系と別れた。
皆、余り装具も兵器も持って居なかった。私は三ヵ月にわたる死の行軍で小銃も無くして居り、持ち物は帯剣と自決用の手榴弾と空の背嚢、その中に空の飯盒があり水筒をぶら下げているだけであった。
筏を組む為に用意した青竹はかなり重いが、それを担いで山を下った。平地に出た頃には日は暮れて居り一回小休止をした。「間も無く街道と鉄道を横切るが、音を出さ無い様に静かに素早く渡るのだぞ」と改めて注意が為された。
闇夜の中を歩いた。平原の中、小川の中、田んぼの畔(あぜ)の上を滑り滑りヨロメキながら歩いた。水が一面溜まった水田の中をも横切り歩いた。誰もものを言わ無いで前の人に遅れると道が分から無く為るので一生懸命に歩いた。ナカナカ道路も鉄道も現われて来ない。原野の中の道無き道を、只管(ひたすら)西から東へ向かって歩き続けた。
どの部隊が、どの様な順序で撤退して居るのか分から無いが、千人余りが私達と同じ梯団(ていだん)を組み師団司令部も一緒であった。
小川を渡る時は腰まで浸(つ)かり、畔(あぜ)を歩くと小さな刺(とげ)の草が裸足にチクチクと刺さり痛かったが、野いちごの刺の様に固い物で無くて我慢出来た。ヌルヌルの土の上は滑り易く暗闇の中に転んだ者も居た。しかし、軟らかい土の上を裸足で歩くのだから多人数であっても足音を立てずに進む事が出来た。数時間も休み無く歩きに歩いた。
疲労衰弱した兵士達は、喘(あえ)ぎ喘ぎゴチャゴチヤに為りながら歩いた。我々の中隊も一丁の重機関銃を銃身と脚に分解し重いので交替しながら担(かつ)いで行った。私も銃身を担いだ。歩く事がやっとの自分には五十キロもある銃身は大変な重さである。闇の中を一緒に為ったりバラバラに為ったり取り逸れたり、ヨロメキ乍ら歩いた。
三メートル程の溝を渡り土手を上がると、そこに舗装した道路が横に伸びて居て一気に横切った。幅約十メートルのマンダレー街道である。続いてマンダレー鉄道をも踏み越えた。感激の一瞬である。しかし立ち止まり感傷に耽る時間は無かった。
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一刻も早くその地点を離れる必要があった。この幹線は敵の支配下にあり敵が厳重に警備して居るラインである。昼間は敵の機動部隊が頻繁に行き来して居るので、我が軍は警備の薄い夜、闇に紛(まぎ)れ鼠(ねずみ)の様に越えるしか無いのである。後日、輜重隊の記録によると二十年七月二十一日午前二時と記されて居る。
横切り終わると一層速度を早め、田んぼの畔道を東へ東へと突き進んだ。真っ暗闇の中を、前の人に遅れまいとして歩いた。誰が何処を行って居るのか全く分から無い。直ぐ前を行く兵士の姿のみが頼りであった。
畔を歩いて居ると畑があった。暗いので好く分から無いがどうやら砂糖きび畑らしい。急いで一本折ってみると砂糖きびだ。皮を剥(む)いて噛(か)むと甘い汁が口の中を潤して呉れる。美味しい、貪る様に汁を吸った。
腹の空いた身体に沁み通る様であった。二、三本食べた。重い竹の筒を持ち歩き歩き食べるのだから、落ち着か無いし前を行く人を見失ってはいけない。砂糖きび畑も終わった。ウネウネと曲がった畔を小休止もせず歩き続けた。
もうマンダレー街道を横断してから三〜四時間経っただろうか、夜が明け始めた。それでも辛抱強く道無き道を東へ向かって進んだ。
コンモリと木の茂った部落に到着した。百軒程の村が田んぼの中にポツンとあった。部落に入るや米と塩を探した。部落の現地人は驚いた様子で、全く予知しない出来事であった為、逃げるにも逃げられず抵抗する事は無駄であり、親切にして好いものか英印軍に知らすべきか否かと迷った様子であった。
日本軍が直接ビルマ人に危害は与え無いと分かって居ても狼狽して居た。 その内、ビルマ人は部落の外に逃げて行った。
我々は米を手に入れ、早速飯を炊き久し振りにご飯らしいものを食べた。私は玄米しか手に入れる事が出来ず、それを好く煮て食べた。玄米だから消化が好く無いだろうと思い好く咀嚼(そしゃく)して食べた。長い間飢えに苦しんで居たので腹一杯食べた。ヤレヤレ一眠りしようかなと思った時、敵が砲撃をして来た。
これ以上部落内に居る事は危険だと判断し野原に出た。大平原には大きい木も無く遮蔽物が無かった。我が軍はクモの子を散らした様にバラバラに散って逃げた。敵の射つ弾丸がアチラコチラで炸裂した。しかし、大事に至ら無い内に夜の帳(とばり)に包まれ長い一日が終わった。
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分かれ分かれに為って居たが、何時とは無しに集まり中隊は纏まった。昼間は行動が出来ないので、その日も又夜道を歩き始めた。一晩中歩いたが夜が明けてみると元の所に舞い戻って居た。「骨折り損の草臥れ儲(もう)け」と言った処で、ビルマの荒野の中では色々の事が起きる。ブツブツ言っても仕方が無い。弱り切った体は余計に疲労するだけである。これも戦争だ。
又も下痢が始まった。玄米を食べたのが行け無かった。長い間禄に食べて居ないのに一気に米のご飯を食べたので胃腸が着いて行けず下痢と為った。下痢が以後も長く続き私を苦しめた。
今夜も夕方から行動を開始し、闇の中シッタン平野を東の方向に歩いた。夜明けに小さい農村に辿り着いた。ヤレヤレ大休止だと思い地面に身体を横たえた。この部落よりシッタン河までは後三日の行程らしいと聞いた。
◆重機関銃(じゅうきかんじゅう)を収容(しゅうよう)に行くが
その時中隊長から「伊多(いだ)軍曹と小田、長代(ながしろ)、米田(よねだ)の兵隊三名は、三日前マンダレー街道を横断した際所在不明に為った兵士と重機関銃を助け収容(しゅうよう)して来い」との命令を受けた。「必死の覚悟で捜(さが)し助けて来い」と念を押された。大変な事である。
重機が取り逸(はぐ)れたのは三日も前の事であり、夜々(よるよる)歩いて来たので道は分から無い。分かるのはここより西の方角と言う事だけである。しかし中隊長にしてみれば、師団司令部から預かった大事な重機関銃を無くしたと為ると、幾ら状況が悪いと言っても責任を感じる事は当然で、この「収容命令」と為ったのである。
丸山班長以下五、六名が取り残されて居るので助けて来なければ為ら無い。考えてみると、丸山班長以下全員が責任感強く、重機関銃を運ぶ為に中隊に着いて来れ無く為ってしまったのである。それ程重機は重かったのである。
伊多(いだ)軍曹は大変困難な事と思ったが、返す言葉も無く命じられた通り「行って来ます、只今出発します」と答えた。伊多軍曹は三人の兵隊に対し「我々は生きて中隊に追及出来無いと思う。ここに一握り砂糖がある。お前達好く味わって置け」と言って砂糖を少しずつ分けて呉れた。この砂糖は昨日か一昨日部落で、せ占めたのだろうが貴重品である。
私も決死の覚悟をした。西の方角に向かって出発、兎に角西の方へ草原を歩いた。或る地点で小休止をした処、一度休んでしまうと身体の自由が効か無く為り草叢の中に寝込んでしまった。
目を覚ますと真昼に為っており太陽が上から照り着ける。背丈程の草叢の中だが、日陰が無いので暑くて堪ら無い。敵の飛行機が三機飛来して来た。私達は見つから無いかと心配したが飛行機は上空を飛んで旋回(せんかい)し向こうに見える部落を攻撃した。間も無く火の手が上がった。
雨期の間でも今日は好く晴れた日で、空には雲一つ無く、西には先日まで我々が苦闘した痛恨(つうこん)のペグー山脈が見え、東は果てし無くペグー平地が続き遥か遠くにシャン高原が見える。
夕方に為り目指す西の方向に歩き始めたが、日が暮れ方向も定まらず道も分から無いので田んぼの中の民家に入り休んだ。飯盒で飯を炊き食べ弱った体を休める為眠った。
野宿と違い幾ら粗末な家でも家の中は有難い。それに薪は家の一部を壊せば直ぐに間に合うので簡単に炊事が出来た。濡れた衣服も乾かす事が出来て助かった。
翌日も、当ての無い事だが兎に角マンダレー街道の方向を目指し四人で歩いた。雨期の最中だから何処も水びたしで腰を下ろして休む所が無い。それに私は下痢をして居るので余計に苦しい。
その時、前方に小さな部落があり、その取っ掛かりに寺院がありその端に二階建てのハウスが目に着いた。そこに行って休もうと畔道(あぜみち)を伝って進んで行き、もう後五十メートル位まで近づいた時、そのハウスから「パン」「パン」「パン」と突然銃撃して来た。田んぼの水面に弾が当たり水飛沫を上げた。思いも掛けない事でビックリした。
四人の前後左右に弾丸が飛んで来た。三丁位の小銃で狙い射って来る。咄嗟に水田の中に身を伏せた。広い水田の真っ只中(ただなか)で遮蔽物は何も無い。 我々四人の姿は相手から丸見えだ。何時までも伏せして居る訳には行か無い。お互は、銘々勝手に立ち上がり田んぼの中を走って逃げた。走ると言っても水田の中は走れるものでは無い。
それに敵から真っすぐ逃げたのでは照準(しょうじゅん)にされるので、ジグザグに逃げては伏せ、伏せては逃げ息の続く限り走った。我々を敵弾が追って来て水面に「パッ」「パッ」「パッ」と飛沫(しぶき)を上げた。
水面に伏せたり、ジグザグに逃げたりして敵から四百メートル程離れ一息着いた。幸い誰にも弾が当たら無かった。だが全身水浸しで泥だらけである。背嚢の中まで濡れて居た。
敵と言っても、現地人だろうから鉄砲の扱い方が上手で無く、我々をもっと引き着けて置いてから射って着て居たら誰かが遣られて居ただろう。彼等も怖かったので早い内から撃って来たので私達は助かったのだ。ここでも泥んこに為りながらも紙一重スレスレで命拾いをしたのだ。
次の日も天気だったので夕方迄灌木の茂みに体を隠して休んだ。夜に為り方向が分から無いので、アバラ小屋を見付け潜(もぐ)り込んだ。
昼間は敵に見つかるので行動し難いし夜は道が全然分から無い。疲れ切って居るので行動が緩慢で体が動か無い。重機収容の任務を帯びて居るが如何(いかん)ともし難い。悶々(もんもん)の内に二日三日四日が過ぎて行く。
師団司令部や私達の一中隊はシッタン河へ向かって前進しただろう。そんな事を思うと早く中隊へ追い付か無いとシッタン平野に取り残されてしまう事に為る。この平野は敵の勢力下にあり動く事も容易では無いのだ。
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重機関銃はどうしても見つから無い。仕方無く中隊へ追い着く事にした。シッタン平野に下りてからは、米に有り付け塩やガピー等も徴発(ちょうはつ)する事が出来たので体力も少し回復しつつあった。しかし私は玄米を食べて以来下痢(げり)が続き、一日に幾度も排便するので体調が良いとは言え無かった。焚火の後の炭を下痢止めと思いガシガシと噛んで食べた。
次の日は朝から本隊に追い着くべく東に向かって歩いた。だが、本隊は既に東へ移動し、シッタン河手前二キロの地点に行って居た。月明りの夜遅く師団が屯して居る付近まで追い付いた。これでヤレヤレ一先ず安心だ。シッタン河の手前に取り残される事は無いと思った。
翌朝、中隊長に重機収容が出来ないまま復帰した事を告げた。叱られはしなかった。この責任を負わされた伊多軍曹は、それ迄にペグー山系で迫撃砲弾で頭を負傷し包帯をして居たのに、重い任務を果さ無ければなら無い心境は如何だっただろうか。
一兵卒の私とは責任の度合いが違うが、好く判断され的確な措置を取られた事と感心した。流石優秀な下士官だと思った。その後私は自分の十二班に帰った。帰ると言っても散り散りバラバラで誰も居なく道端で力無く佇んで居た。
◆玉古班長との別れ
そこへ溝口指揮班長が来て「アソコで玉古(たまご)班長が死んで居るから行ってみよ」と指示された。遺骨を収拾して葬って遣れとの意味である。玉古兵長は貧しい民家の中、その片隅の押入れの様な所で壁に凭れ掛かる様にして死んで居た。
触ってみると未だ温もりが残って居た。一週間程前には私は彼と一緒に四人で行動し、彼が引っ張って呉れたからこそ私はペグー山系を歩き通せ助かったのに。私に取って命の恩人がこんな事に為ってしまった!
思い返せば、私が青野ヵ原に転属した時から「小田よ」 「小田よ」と言って可愛がって呉れ、何かと感化を受けて居たのに。軍隊では先任の古年兵に好意を持って貰える事は特に嬉しく有難い事だった。思い出は尽き無いが、今は感傷に耽る間は無く何とかし無ければなら無かった。
自分もヘトヘトだったが私一人だけである。農家に鍬(くわ)があったので庭先に穴を掘った。土は黒い色をして居り雨期でもあり、軟らかくて掘り易かったが体力が無いので深くは掘れ無かった。穴を堀り終えると家に入り彼を抱き抱え自分の背中に背負った。薄い肌着を通して彼の冷たく為り掛けた身体が私の背中にベッタリと覆い被さって来た。
死人を背負うのは難しい。死人は手を貸して呉れ無いから背負い難かったが、彼は小柄で痩せて居たのでどうにか背負って外に出て穴まで運んだ。出来るだけ大切にし滑らかに優しく穴に入れ様としたが、私に力が無いのでギコチナクドタリと音がして穴に入った。
生きた人ならこんな落ち方はしないがもう一つの物体なのである。丁寧に土を被(かぶ)せて合掌した。疲労し切った自分にはそれだけの事しか出来なかったが悔いは残ら無かった。
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・・・その時の事は、今でも鮮明に脳裏に焼きついて居り忘れられ無い。私と関係の深かった玉古源吉班長の最期のお世話が出来、些かでも御恩に報いる事が出来たと思って御冥福を心よりお祈りする。
この文章を書いている今も、玉古班長が機敏に動かれて居た姿や、額(ひたい)が広く、冴えた目元の顔が思い出されて為ら無い。又彼は大工さんで、頭も切れるタイプで我々の住む小屋を建てる時にも大いに活躍し、機関銃手としても好く任務を果たされ、我が班で無くては為ら無い重要な人であった事を思い出す。
私の属する十二班の歴代班長がこの様に次々に去って行かれ悲しく残念至極である。
◆血に染まったシッタン平野
重機関銃収容に行った私達四人は田んぼの中で敵に射たれた時に、筏にする竹の筒を無くしたのでそれに替わる物を作ら無ければ為ら無かった。それが無ければシッタン河は渡れ無いのだ。
この辺りには竹薮が無いのでビルマ人の家を壊しその材料の竹を取り出し何本か纏めて筏を作るのだが、古い竹で割れたのもあり細くて頼り無いものだった。それを縛る紐が無いのでアレコレ算段して、苦心して作るのに一日掛かった。 夜に為り河を偵察に行ってみた、為るほど凄い。星明かりで対岸は好く見え無いが二百メートル以上はありそうだ。
その土手一杯に盛り上がる様に黒々と水が流れて居る。岸の近くでも流れは早く中程では渦を巻いて居るとの事である。雨期の最盛期で大変な河だ。これを見て、余程確りした筏で無いと駄目だと思った。それに疲労困憊した今の体では耐えられ無いだろうと思った。そこで筏の組み替えを考えた。「バナナの太い軸が浮力があるのだ」とも聞いたが実行は難しい。
ペグー山系を出発してからシッタン河に差し掛かる迄に、我々の梯団(ていだん)は約一週間を要したが、その間にも多くの犠牲者を出した。飛行機の銃撃に倒れる者、落伍してしまい行方不明に為った者、弱り果て自決する者等色々である。確実に兵士の数が減少して居る。
今日も、マラリヤで苦しんで居た北浜上等兵が遂に死を選んだ。一軒のボロ家に長代上等兵達四、五人が休んで居た。彼は仲の良かった長代上等兵へ「お世話に為ったが、わしは行く」と小さな声で伝え外に出て行った。皆弱って居り、もう誰も止める者も居なかった。止めた処でどう為るものでも無い。
彼は死期が近いと覚悟したからだろう。可哀相にと思ってもどうする術(すべ)も無かった。お互いに皆重病人であり自分の命を支えるのに精一杯、お互いに死に直面して居り冷静に考えるユトリも無かった。私自身もそうであったが、死んだ方が楽だとさえ思った事がある。
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二十五歳の青年北浜上等兵。目元の美しい彼も長い敗走の間に髪は伸び放題、髭(ひげ)は顔を覆い今は見る影も無く痩せ衰え垢に汚れ黄色く為った顔、恐らく高熱に冒されて居たのだろう。
彼が外に出て行ってから暫くして「ドガン!」と言う手榴弾の破裂音がした。彼は自ら命を絶ったのだ。こんな事が随所に起りシツタン平野は阿修羅(あしゅら)の巷(ちまた)と為った。
今晩渡河予定だったが予定変更と為った。近くに舟があるのを見着けたのでそれを取りに行く事に為り、私もその一員と為った。シッタン河に沿って四キロばかり上流に行った所に民家がありその軒先に舟があった。
十人ばかりで担いだり田んぼの水の上を引いたりして持ち帰り、その夜は数名で舟の整備をした。『舟で渡れるぞ』と喜びユックリ休んだ。
ここ三、四日は不思議と天気が続き今日も朝から好く晴れて居る。愈々今晩は渡河だと思うと、大きな期待と恐怖が入り交じって来る。処が、日本軍の作戦を知った敵は空陸一体と為って攻撃して来る。シッタン河に沿った部落を何回も空襲し、機関砲を射ち小型爆弾を落として行く。我々は家の床下に隠れたり部落外の田んぼの間にある木の影に隠れたりした。
私は背丈位ある竹で編んだ大きな籾の槽(おけ)の間に蹲り一日中そこに居た。敵のするがままで他に良い方法は無い。
嵐の様な機関砲の弾、耳を劈く爆弾の破裂音、逃げたとてどうしょうも無い。弾が当たれば当たれだ、当たるなら即死する様に当たれとさえ思う。
フト母からの手紙を思い出した。母が金光教(こんこうきょう)を一心に信心して呉れて居るから大丈夫だ、敵弾は当たるものかと信じると妙に心が落ち着いた。又、西澤とよ子さんから来た手紙の一節「米沢のさくらんぼが待っています」を思い出し、私は死な無いと予言してみるのである。
部落の一部が燃え出した。固唾(かたず)を飲んで様子を伺い思わずお守りを握り絞めて居た。この空襲で隣の十一班の班長小田兵長と二階堂上等兵が機関砲の弾を頭に受け最期を遂げた由、苦労してここまで来たのに誠に残念で悲しい事だ。
この様に、我々手島中隊は師団司令部と一緒に行動し戦火の被害を受けて居るが、その他の聯隊でも大変な犠牲者があり多くの血がこの平野に流されたのである。
英印軍(えいいんぐん)の優勢な力にシッタン河河畔に追い詰められた我々は、竹の筏に掴まり泳いで渡河を決行するか、渡河を諦めここで最後迄戦い通すか、自決するかの決断に迫られた。
多くの者は渡河手段を選択したが、既に負傷したり体力が衰弱した者は泳げ無いのでここに残らざるを得無かった。残った兵士は以後数日間、敵弾に晒され生命を落とす事と為ったかと思われる。
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・・・終戦後に分かった事だが、傷つき意識不明と為り何時の間にか現地人に助けられた者もあった。又、自決出来無いままやっと生きて居る処や、昏睡(こんすい)状態の処を英印軍に拾われ捕虜に為った者もあった。
戦争中に、或いは抑留(よくりゅう)期間中にビルマ人に為った人が沢山あると当時から聞いて居たが、この様な状況の中で色々の運命を辿らざるを得無かった。
余談に為るが、竹山道雄の「ビルマの竪琴」とか、梶上英郎の「ビルマ曼陀羅」等の書籍にビルマ人に為り生活して居る状況が書かれて居るが、多くの日本兵がビルマ人と為ってしまった。
その経過は色々だろうが、辛く、悲しく、耐え難い困難があったに違い無い。私が想像する様な単純なものでは無く大変な犠牲を被(こうむ)られた方々である。戦争の為に、生きていながら日本に帰れず人生が全く変わったのである。
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・・・私は昭和五十八年一月、ビルマ慰霊の旅に行った際、トングーと言う町に泊まった。トングーは、我々がシッタン河を渡河した地点の近くで多くの戦死者を出した所である。
この町にはホテルが無いので校長先生の家に泊まらせて貰った。朝市を見てブラリと歩いて居ると一人の中年の女性が私の傍に来て「日本人か?」と尋ねる。「イエース」と答えた。すると手真似とビルマ語でこちらに来て呉れと誘う。
女に誘われて行くのは危険かとも思ったが、普通の女であり朝市の買物帰りである。それにビルマ人だから日本人に好意を持っての話であり、悪だくみがあってで無い事は直ぐに分かった。その時私は一人であったので多少の警戒はしながら着いて行った。
二百メートルばかり行くと、醤油屋の様な大きな構えの家に案内された。家族で朝食をして居る様子であったが、家の主人を紹介して呉れた。この主人は英語で話掛けて来た。「日本人ですか、ご苦労さん、一寸待って下さい」と言って、十六、七歳の女の子を連れて来た。
「この子のお父さんは日本の兵隊さんです」「この子のお父さんは日本人です」と紹介して呉れた。私の心はジーンと痺(しび)れた。この可愛らしい娘の中には日本人の血が流れて居るのかと思うと、いじらしく不憫(ふびん)に感じられた。
彼女は勿論ビルマ語しか話せ無い。ビルマ人の多くは中国系で日本人と殆ど変わら無い。見た目には普通のビルマ人であるが、兎に角日本の血を引いて居るのかと思うと胸に応え戦争の落とし子の幸せを祈らずには居られなかった。「お父さんは今いますか?」と尋ねると「二年程前に死にました」と言う答えが返って来た。
お父さんは実際は未だ生きて居るのかも知れ無いが、何かの都合で出て来ない方が好いので、死んでしまった事にして居るのかも知れ無い。詮索は無用である。戦争の影響の大きさとその深さを肌で感じさせられた。
この子のお父さんはどの様な事で生き残り、ビルマ人に為らざるを得なかったのか知る由も無いが、あの戦争で生死の境を彷徨っている間にこの様な運命を歩むしか無かったのだろう。誠に気の毒な事である。
私の心は疼(うず)いた。彼女はビルマ語、私の英語を主人が通訳して伝えて呉れるもどかしさはあったが、宿に帰り日本から持って来た土産物、日本製の布地、シャープペンシル、ライター等沢山持ち出し彼女に渡し「幸せに遣りなさい」と祈り別れた。
これは、私が直面した一例であるが、ビルマに残った人の幸せと、日本ビルマ混血児の幸福を心から祈った。
つづく
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一兵士の戦争体験 その19
その19
◇屍(しかばね)が道標(みちしるべ)
◆白骨街道を行く
本隊に追い着こうと毎日歩くがナカナカ追い着け無い。この山道を早い部隊は一ヵ月も前に転進し、十日前に通った部隊もあり様々である。我が手島中隊は半日程前に通った筈である。
その事を示す様に色々の屍が残されて居る。一ヵ月以前のものは、白骨と為っておりもう臭気も薄らいで居る。蝿は食べる部分を食い尽くしたのだろうかもう一匹も居ない。虚しさを感じる。「夏草や兵どもが夢の跡」の句を思い出す。
一週間程前の屍は非常に臭く何とも形容出来ない臭さである。どす黒い汁が流れ出て居り見られたものでは無い。屍によっては黒い大型のピカピカ光った蝿(はえ)が群がって居り、黒い大きな固まりがそこにある様に見える。
蛆(うじ)が湧き、ゾロゾロと腐った肉を食べて居るのだろうか這(は)い回っている。気持ちが悪く視線を逸らす。自然で一応清潔な山の中なのにどうしてこんなに沢山の蝿が居るのだろうか?最初は不思議に感じたが、蝿の好む腐れ掛けの肉があれば旺盛な繁殖力で一気に増える様だ。
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屍、それは尊い命であり日本軍の兵士の姿なのである。歓呼の声に送られて出征し頼もしかったその人なのである。余りにも酷い姿であり余りにも悲惨な姿である。半日前とか一時間程前に息を引き取ったのは、道端に腰掛けて休んで居る姿で小銃を肩に持たせかけて居る屍もある。又、手榴弾を抱いたまま爆破し腹わたが飛び散り真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。その傍らに飯盒と水筒は大抵(たいてい)置いて居る。
又、ガスが屍に充満し牛の腹の様に膨れて居るのも見た。地獄とは正にこんな処か。その屍にも雨が降り注ぎ私の心は冷たく震える。
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その様な姿で屍は道標と為り後続の我々を案内して呉れる。それを辿って行けば細い道でも迷わず先行部隊の行った方向が分かり行けるのだ。皆これを白骨街道と呼んだ。この道標(みちしるべ)を頼りに歩いた。
ここら辺りは泥濘は無く普通の山道で緩い登り下りである。雨があがり晴れれば、流石に熱帯、強い太陽が照り着ける。暑い、衰弱し切った体には暑さは格別厳しく感じられる。
米はどうにか食い繋いで居るが塩が無い。ここ何日か全然塩分を取って居ない。塩分不足の為か体がだら〜っとした感じでピリッとした処が無い。今までに経験した事の無い気怠(けだる)さである。
食物不足と疲労だけで無い何か別のボンヤリして身体が怠けた様な感覚の苦しさである。自分自身塩分不足と感じた。しかし塩は何処にも無い。暑いので汗が出た。その出た汗を舐(な)めた。少しでも塩分不足を補う為に。身体を守る為に色々考え遣ってみる、これが戦地であり窮地に活路を見出す方法であろう。だがそんな事では塩分不足はどうにも為らず気怠さが続く。
処で、相変わらず裸足のままで歩いて居るが、数日前、糧抹収集に行った時、砂の小川を気持ち好く歩いたが、砂でフヤケタ足の皮が剥(は)がれ赤裸(あかはだか)に為り、ザラザラと言う表現が好いのかも知れ無いが痛い事痛い事大変な痛さである。
粘くても軟らかい土は好いが砂が悪かった。足の甲辺りの皮膚が剥けて痛く、砂・む・け・である。ザラザラで赤裸の足の皮膚である。これは、為った人で無いとその苦痛は分から無いがナカナカ治ら無い。そんな時、誰かが豚か鶏の油を塗れば好いと言い出した。何とか油身を貰って来て暇がある度に塗った。これは、痛さを和らげ好い治療に為った。有難い事であった。兵士達は色んな知恵を出すものである。
◆私の体調
前にも書いたが私の耳鳴りは続いて居り、立って歩いて居る間は何時も脈拍と共にドッキン ドッキン ドツキン と響いており、休憩して横に寝るとその間だけドッキン ドッキン が止まるが、何とも言え無い気持ちの悪い苦しさであり、聴力も次第に衰えた様だ。
それに大きな声も出せずボソボソと弱い声しか出無い。声帯が疲労してしまって居る所為か、肺から出る空気の圧力が乏しい為なのか、瀕死(ひんし)の患者が細く弱い声しか出せ無いのと同じである。力んでみてもハキ ハキ とした声に為ら無い。
何時の頃からか分から無いが両眼とも視力が次第に衰え、真正面が薄暗くしか見え無い。上下左右は明るく普通に見えるが足元が見難く歩き難い。恐らく栄養失調と体力減退によるのだろうが次第にその程度が進んで来る。
この頃から小便の終りに、血が赤い雫(しずく)と為りポタリ、ポタリと落ちジーンと沁みる。小便中も血が交(ま)ざって居るのだろうが見え無いだけであろう。弱り果てた体から更に血が外に出て居るので心配だ。恐らく、毎日水に浸かり下半身が冷えて居る所為か。膀胱炎(ぼうこうえん)だろう。
下痢の事は度々述べたが、絞る様な粘液の下痢が続いた。食べていなくても排泄があると言う事は体内に蓄えられて居る成分が体外へ放出されて要る事に為る。
下痢は止まったり始まったりの繰り返しである。これによる体力の消耗は激しく、相変わらず一日数回の下痢。お尻を拭く紙等無く為って久しい。木の葉を選んでそれで間に併せる。気持ちが悪いが他に方法が無い。
この頃は便と言っても便らしい便で無くズルズルした物であった。軍隊では皆んな褌(ふんどし)だがその頃私はその褌も汚れてしまい予備も無くスットコで軍袴(ぐんこ・ズボン)を履いて居るだけであり、それも垢だらけに為り、時には便もくっ付いて汚れに汚れた物であった。
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その軍袴は雨や水に濡れて腐り、それを火に当てて乾かすのだから焦げて痛み破れ始めており、裏の縫い目にはシラミが一杯鈴為りに着いて居りギラギラ光って居たが、そんな服で身体を包んで居た。
この様に下痢はして居たが悪性のものでは無く助かった。亦マラリヤらしい熱が出たり引いたりして居たがこの頃は、特別激しい悪性のものでは無く辛うじて持ち応えていた。タンガップで罹った様な激しいものだったなら死の道へ直行して居ただろうが、何時もスレスレに死の淵(ふち)を通り抜け不思議に助かった。
重い荷物は大分処分して居たが、痩せ衰えた肩に背嚢が食い込む。だが小銃だけは持って居た。手が神経痛に為り疼(うず)き、麻痺してしまい両腕とも水平より上に挙がら無くなってしまった。
勿論腕の力も無く為り、ダラリとぶら下って居る状態である。横目で自分の肩を見るとポキポキと骨が突き立って居る様であった。裸に為って自分の胸の辺りを注意して見る暇も余力も無いが、どうも肋骨が筋に為っており痩せて要る様だ。そう感じると心も傷着き弱く弱く為って来る様だ。
だが、自分の命を保ち身体を運び皆に遅れ無い様に歩か無ければ為ら無い。それが精一杯で自分の身体を点検する余裕も気力も無いのである。
戦友を好く見ると、頭髪と髭(ひげ)が長く伸び放題で顔は土色で垢に汚れて居り、それも相当な汚れ方である。若い勇士の顔では無い。顔を洗う暇も元気も無いのだ。自分自身の顔は見え無いが、同じ様に汚く痛んで居る筈で、もし自分の顔を鏡に写して見えたとしたらビックリしてしまった事だろう。
毎日雨に濡れ川を渡り、直ぐそこに水が沢山ありながら皮肉な事に顔を洗うユトリが無く、只生きる為に必死なのである。勿論水浴する様な暇と体力は既に無く、もう二ヵ月も三ヵ月も着たままで体中垢だらけである。先日ピュー河を裸で渡ったが、それは渡る為に裸に為っただけで顔や体を洗ったり点検する事はしなかった。その様な心の余裕と体力は既に無かった。
裸足で砂・む・け・の足を庇いながら歩く。足を傷つけては行け無い。傷つけて化膿でもすれば命取りに為る。幸いビルマは肌理の細かい土の所が多く小石や割れた石が無く助かった。昼は足元が見えるが、暗闇の中を裸足で歩くのは並み大抵の苦労では無かった。
この頃の事であるが私に取り悲しい個とが起きた。前に述べた様に私の班長は寺本班長で、ビルマに到着してから半年程で他の聯隊に転属(てんぞく)に為りその後戦死された。次に戸部兵長が班長をして居たが、この方も敵の陣地攻撃の時戦死されその後、玉古兵長が班長代理をして居た。
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私はこれ倮の方に終始気に入られ可愛がって頂いて居た。入隊以来、上下関係や戦友関係で辛いと思った事は無く、特に玉古兵長には「小田よ」「小田よ」と言って大事にして貰って居たのに、ある時急に「馬鹿野郎!」「小田お前はこの頃、何を遣らせても動作が遅くハキハキしない。隣の班の白髪上等兵等好くやって居るではないか、シャンとせい、早くやらんか」と大きな声で叱られた。白髪上等兵は私と同期である。
当時、叱られるのは当然なのだ。悲しいが思う様に動け無い。今まで信頼して貰っていた先輩上司の信頼を失った事は大変悲しく辛い。人間は信頼が最も大切なのに。しかし、残念だが体がどうにも動か無い。彼に叱られた事は私には大きなショックで非常に悲しい事であった。
後に為ってみれば、この頃玉古兵長自身も疲労して居り思う様に何事も出来ず焦って居たのだろう、無理からぬ事である。私はこうして気合いを入れられ奮起して頑張った。それが結果的には命を繋ぐ助けと為り全てについて彼に有難く感謝している。
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体調と言えば生命には直接関係無い軽易な事だが、転進作戦に入る前のタンガップに居た時の事である。ビ・ル・マ・か・い・せ・ん・と言う風土病の皮膚病に罹り、全身、特に手足一杯にデキモノガ出来て苦しんだ。
親指で押さえた位の大きさだが、無数に出来た。片腕に十個位、片足に十個位、何故か顔と頭それに胴体部分には出無かった。痒(かゆ)い事、痛い事、出来物だから膿(うみ)が出て汚い。数が多いし所構わずだから包帯の仕様も無い。
それ等は手の指や足の甲や男性のシンボルの先端に迄出来、誠に始末が悪い。痒く痛く汁が出て来る。男性ならばおよそどんな様子か想像出来るだろうが深刻で笑い処では無い。
石川軍医に見て貰い、薬を貰って約二ヵ月苦しみやっと治った。五十二年経過した今もその痕跡が太股当たりに薄く残って居る。私は幸い戦争による負傷は無いが、このビルマか・い・せ・ん・の痕が当時の戦線の証拠と言えようか。
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◆雨中の宿営
晴れの日もあるが、雨に濡れながら歩きやっと日暮れに為り宿る所を探す。為るべく先行部隊が屯した所で焚火をし火の気の残って居る所、そして一メートル四方でも木の葉で覆いをした場所があればそこに潜り込んで休むのだが、それは運が好い場合である。
大抵の場合は地面にゴロ寝である。雨が降って居る時は竹を背丈位の長さに切り三、四本並べ、その上に寝転び直接濡れた地面が背中に当ら無い様にし、装具を枕にし破れ掛けた携帯テントを体に掛けて横たわるのだ。雨が滲み込むので、野生の草や木の葉で大きいものがあればそれを携帯テントの上に置き覆うのである。
それでも激しい雨が夜中に降ると、体に巻き付けた携帯テントを通して雨が透つて濡れるし下からは並べた竹の上まで水が流れて来て浸かり、背中が濡れて来るので起き無い訳には行か無い。熱帯地方と言っても真夜中に背中まで雨に濡れると寒い。
明りが一つも無いので地面がどう為って居るのか分から無い。どんな降り方をして居るのか知れ無いが頭から被った携帯テントを雨が叩き雫が頬を流れる。雨は瀕死(ひんし)の兵士に降り掛かり、これでもかこれでもかと苦しめる。
前に通り過ぎた部隊が火の気を残して居る場合は稀で、大勢の部隊ならマッチを所持する者も居るが、四人や五人ではマツチはもう持って居ない。器用な兵隊が布で縄(なわ)を編んで火縄を作り携行して居た。それも雨に遭い長くは持た無かった。
何とか発火する物を持って居ても燃やし初めに為る紙一枚も無い。雨の山中ではグッショリ濡れた竹や木しか無い。生の木や竹の密林である。小雨も降って居る。
火を燃やし付けるのには困った。しかし窮すれば通じ人間は考える。生きる為に誰かが何かを遣る。青い竹の表面の皮の部分を剥ぎ、これを擦って乾かし細かく割って燃え点き易い細さにする。竹の表面の皮は湿って居ないし幾らか油気があるので、苦労はするが案外燃え始め易い。段々大きい火にし水筒で湯を沸かし煙に咽(むせ)びながら僅かな米を粥にする。
この頃、ひもじさを癒(いや)すに十分な物は無く飢餓の状態が続いた。私達四名は中隊主力より遅れ半ば落伍し掛かり乍ら愈々殿(しんがり)を行った。そんな或る日そこら辺りに馬の蹄(ひずめ)が二個転んで居た。先行した友軍が死んだ馬を心為らずも処分したのだろう。食べられ無い蹄のみが捨てられてあった。
日にちが経って居たが、蹄だから腐って居らず何とか食べられ無いものかと思案の末、時間を掛けて刻んだり削ったりして飯盒に入れて煮た。更に好く煮た。塩が無く味が無かったが、少しでも動物性蛋白源に為ればと思いガツガツと噛み砕いて食べた。
その為に下痢が激しく為る事は無かった。又、それを食べた為にどれだけ生き長らえたかどれだけ体力の維持に役立ったかも分から無いが・・・・
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◆命を支えた二合の米
ペグー山系を行ったり引き返したりして居る内に、日にちの経過と共にお粥で我慢して居たのが遂に一握りの米も無く為ってしまった。夕方露営の地に着いたが私には炊飯すべき米が無い。他の兵隊達は夫々に持ち合わせに応じて米を加減し飯や粥を炊いた。私は仕方無く筍と木の新芽を煮た。
食事が始まると中島上等兵が「小田、米が無いのか、これを食え」と言って、二匙(さじ)三匙のお粥を呉れた。その後で、彼は「小田、米が無いのか、俺は少々持って居るから、お前の持って居る象牙(ぞうげ)の印材と物々交換しょうではないか?」と言い出した。
元々彼は力持ちであり、最初から沢山の米を背負って居り、実際「未だ二升位は持って居るから大丈夫だ」と言った。
私のこの象牙は、昨年ラングーに無線技術教育を受けに行った時、財布を叩いて買った宝物で、米三十キロにも相当する値段で内地に凱旋する時に持って帰ろうと考えて居た大切な物であった。
しかし、命には替えられ無いと判断して、二合(三百グラム)の米と交換した。 彼は私を可哀相に思い、幾らか象牙に関心もあった。私は生きる為に米が絶対に必要であったからこの交換が出来た。
受け取った米を背嚢に仕舞った。だが、腹が減って居たので早速少しを炊いて食べた。美味しかった。身体が暖まり息を吹き返した。
この二合の米が二、三日間の命を繋いで呉れた。この二合が無かったならどう為って居たか、生命をこの頃落として居ただろう。米を沢山持って居た中島上等兵が一緒に居り私の命を助けて呉れたのだ。これも誠に幸運である。
七月十九日までにペグー山系の最後の集結地に集まる様に命令が出て居る事を誰からとも無く聞いて居たので一生懸命に歩いた。急が無くては間に合わ無い。我々四人は、愈々最後尾で中隊本部を追い掛けて行った。白骨の道標に沿うて裸足で歩き続けた。
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◆落伍しながらも辿り着く
先に象牙の印材と交換した二合の米を、少しずつ粥に炊いて食い延ばしながら毎日歩いた。しかしそれも無く為ってしまった。皆弱って居たが、少し元気な玉古班長代理と中島上等兵が先に行き、一人の兵隊と私が更に遅れてしまった。
到頭その夜は二人切りに為ってしまい、マッチも火の気も持って居らず炊くべき一粒の米も無いので、そのまま雨に濡れた地面に倒れる様に横になり眠った。幸いその夜は雨が降らず夜が明けた。
朝に為りトボトボと杖に縋(すが)り乍ら歩いて行くと、火を燃やした跡に僅かに火の気が残って居た。そこで一休みし湯を沸かして飲んだ。少しでも食べて居ないと今夜が危ぶまれるが食べる物が無い。
力無く二人で励まし合い歩いた。「もう後五百メートル先が集結地点の様だ」と道端にゴロリと寝て居る兵隊が教えて呉れた。そう言えば、その向うに大勢の人の気配を感じる。最後の力を出して歩き、やっとの事で師団司令部等の本隊に追い着く事が出来た。
決められた集結日の午前中にどうにか輜重聯隊の手島中隊長配下の自分の班に辿り着いてみると、私が遅れて居たその十日程の間に、戦友達も途中で落伍して中隊の人数は更に減ってしまって居た。そこに居る者も悄然として衰弱し切って居る。
午前中は筏(いかだ)にする竹を切り出す事に為り、直径二十センチ長さ二メートル余りの太く大きな筒一本を各自切って来た。シッタン河を渡るには竹を組んで筏を作り浮きにして、四人位が組に為り筏に掴(つか)まって泳がなければなら無いので竹の筒が是非必要である。
疲労困憊(こんぱい)し食べるものが無く足元はふら付き、弱い細い声しか出ないし汗も出無い状態であったが、その体に鞭打ちやっと竹を取って来て筒を準備した。
「夕方五時から下山行動開始」との連絡があった。山を下りて平野に出れば何か食う物があるだろう。それ迄もう半日の辛抱だが命が続くだろうか? ひもじいひもじい、少しでも腹に入れて置きたいが何も無い。耳鳴りが一層激しく為る上に体は寒さを感じる。
偶々、平井兵長が黒く煎(い)った籾を持って居た。私は彼に強請って一握り足らずを貰った。これは、籾を飯盒の蓋に入れて火にかけ煎(い)ったもので殻(から)が黒く焦げたものである。田舎育ちの私は、玄米の屑米(くずまい)を鍋に入れて煎り「焼き米」にしておやつの代わりに食べた事はあるが、焼いた籾を食べるのはこれが始めてで普通では食べられる様なものでは無かった。
しかし今は違う、焼けた籾の一粒一粒を噛み砕いてガシガシと食べた。籾の焼けた苦みが味と為って居た。湿りが来ない間はポロポロ砕けるが、湿ると砕け難く籾のガサガサした外の殻が喉に引っ掛かりそうだ。しかし、この黒く焼いた籾の百粒ばかりで幾らかのエネルギーが蓄えられた様に思われた。涙が出る程有難く平井兵長に感謝した。
考えてみると、十日間もの間本隊から遅れながらも、一緒に行動したからこそ本隊に追い付く事が出来、下山の日にどうにか間に合ったのだ。
一人で落伍して居れば絶対に本隊に追い付く事が出来無かった筈である。もし出発時間に遅れて到着したらペグー山系の中に取り残されてしまっただろう。誠に奇跡的な幸運に恵まれたのだ。一緒に助け合って行動した戦友に感謝の言葉も無い。
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一兵士の戦争体験 その18
その18
◆女性哀れ
このペグー山系で米が無く為り糧秣収集も上手く行か無い頃、看護婦であったか誰であったか知ら無いが、婦人三名ばかりが、それも兵隊の汚れた服を着て山道を喘ぐ様に嫌這う様にして居た。泥に汚れ血の気の無い顔をし本当に痛ましい姿である。
「兵隊さんお米が無いの、助けて下さい」と哀願したが、我々自身が自分の身体を運んで行く事さえ出来兼ねて居た時でもあり、やっとお粥で飢えを凌いで居た状況で、可哀相(かわいそう)にと思ったがどうする事も出来ず別れた。
御国の為に御奉公をと誓いながらここ迄来て、この様な哀れな姿に為り気の毒で可哀相で為ら無かった。その後再び彼女達の姿を見る事は無かった。当時の状況場所等から恐らく助かって居ないだろう・・・・心が痛む。泥に塗れ垢に汚れ、痩せ衰えヨロメキナガラ歩いて居た女性達の姿を私は一生忘れる事が出来ない。戦争、負け戦は苦しく悲惨で悲しいものである。
◆迫撃(はくげき)砲弾(ほうだん)炸裂(さくれつ)
次の日の昼の事である。突如、迫撃砲弾が山の中で樹木に覆われ絶対見え無いだろうと遮蔽して居る我が中隊を目掛けて飛んで来た。確に弾が落ちて来た。
こちらからは何処から撃って来ているのか見当も着か無い。迫撃砲弾は放物線(ほうぶつせん)を描いて来るから、見え無い向こうの谷から発射し弾は途中の山を弧を描いて此方の谷に、斜め上の方から落ちて来る事に為るのだ。
敵はどうしてこんなに正確に我々が隠れて居る所が分かるのだろうか。最近飛行機が私達の隠れ場所の上に飛んで着たり、偵察飛行に来た様子は無いのにどうしてこんなに正確に撃って来るのか分ら無い。
真面に砲弾はヒュル〜 ヒュル〜 ヒユル〜と音がして落下しパン パン パンと癇高(かんだか)い音がして炸裂(さくれつ)するのだ。思い掛け無い攻撃を受け私は何処へ避難しようかと慌てたが、少し先に五メートル四角位の大きな岩があり、それが半分に割れて居り、丁度人間が入れる程度の裂目が自然に出来て居たのを予め見て居たので咄嗟に思い出しその割れ目に滑り込んだ。願っても無い程好い場所で、余程の事が無い限りこの裂目に弾が落ちて来る事は無いと思った。
息つく暇も無く、ヒュル〜 ヒュル〜 ヒュル〜 パン パン パンと引っ切り無しの集中攻撃である。ピン ピン ピンと炸裂音が耳の鼓膜(こまく)を襲う。激しい勢いである。
土煙と硝煙(しょうえん)の臭いが岩の割れ目に流れて来る。皆はどうして居るのだろうか。誰の声もしない、じっと耐えて居るのだろうか。その内の一発が直ぐ近くで炸烈した。生きた心地は無く思わずお守りを持って居るかと確かめた。
微かに「やられた」とか「ウウン」と叫ぶ声が聞こえた。約二十分間続いただろうか、迫撃砲の攻撃は終わった。
しかし、私は暫く岩の間から出て行く気に為れ無かった。次第に兵士達の声が多く聞かれる様に為ってから外へ出てみた。その辺りの木の枝は折れ葉は飛び散り幹も裂かれ様子が一変して居た。皆の居る所に行ってみると、隣の十一班の班長である山本嘉兵衛兵長が首を遣られ一筋の血が流れ出て居る。破片が首に入り「痛い、痛い」と首を押さえている。
私は三角布を出しガーゼで血を拭き、リバノールをガーゼに湿(しめ)しその上を押さえた。大体流れる血は止まったがガーゼに血が滲んで出て来る。私は首だから助から無いのでは無いかと思うし、山本班長自身も首から出る血を見て助から無いと思った様である。
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しかし首の中でも致命的な部分から三、四ミリ外れて居たのであろう、命を落とさずに済んだのだが、山本班長はこの傷の為に以後の転進や行軍で非常に苦労をされたのである。その傷を庇う為装具や兵器を背負うにも非常に気を使い、傷が化膿(かのう)し無い様に手当てをし無くては為ら無い。しかも薬は無く天候は悪いし、疲労して体力は弱って居り毎日の行軍で傷は治ら無い。
傷口に蛆(うじ)が湧か無い様にしなければ為らず大変だが、彼は終戦の日まで良くぞ頑張って来られた。戦後収容所生活中、何時も首を傾けて居たがそのまま固まったのであろう。
戦後、俘虜(ふりょ)生活中にも、又復員後もこの破片を取り出す手術をしたものかどうかと考えられた様だが、危険な場所なので不自由ながらそのまま今日まで生活されて来た。
・・・最近の戦友会の会合の時にも「わしはよう助かったのだ。首を遣られ駄目だと思った。転進中蛆虫が湧いて多くの人が苦しんだが俺は幸運だった。皆に助けて貰い感謝する」と言って居られた。
又、この迫撃砲の攻撃で左肺上部を撃ち抜かれた中村上等兵が、ふら〜っ ふら〜っと私達の所へ歩いて来た。顔は蒼白で襦袢(じゅばん)は胸の所に血がベットリと着きギラギラと光って居る。襦袢は次第に大きく血で彩(いろど)られて行き、我々の所に辿り着くと同時にバッタリと俯せに倒れた。背中の側にも血が出て、血塗られた襦袢が体にベットリと着いて居た。伏せたままで「苦しい、苦しい」と言って居る。
我々は、余りにも大きい負傷の為どうして好いか分からず唖然とするばかりであった。そこへ志水衛生下士官が来て「皆の携帯する包帯と三角布で傷の所を縛(しば)ってやれ」と怒鳴った。皆で中村上等兵を抱き起こし襦袢を要約脱がせたが、深い傷が前から背中まで通って居る様でどす黒いドロドロとした血が固まり掛け体中血だらけで呼吸の度に血が滲み出て来る。
私は気持ちが悪く為り顔を背けた。志水衛生軍曹が応急の手当をしたがガーゼは直ぐに真っ赤に染まってしまった。頭を高くし仰向けに寝かせたが彼は興奮の為震え、顔は苦痛の為歪(ゆが)んで居た。 「休んでおれ、治るさ」「元気を出すんだ」と志水衛生下士官は大きな声で言い、もう駄目だろうと思っても、駄目だとは決して言わ無かった。
中村上等兵は私の隣の班で、古年兵であったが、私の郷里と同じ赤磐郡(あかいわぐん)で旧西山村(現在は山陽町・記憶が間違って居るかも知れ無いが)の出身だと聞いて居ただけに格別親しさを感じて居た。血塗られたこの姿に苦しいだろうナアと気の毒で為ら無かった。
今でも山陽町の辺りを通ると、一瞬彼の事が脳裏を掠める。又、三木兵長と山岡上等兵は先日分捕(ぶんど)って来た牛を殺して、肉の料理を始めた処を迫撃砲の直撃を受け即死したのである。
三木兵長は炊事班の班長として中隊全体の賄(まかな)いを長い間手がけて来たが、中々上手に料理を作り、皆から三木さん三木さんと慕われて居た。激戦中は銘々飯盒で炊くのだが、戦況が落ちついて居る時は三木兵長が纏めて炊事をして呉れたのである。
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この日も牛を捌くまでは彼の仕事と考え、山岡上等兵の協力を得て遣って居たのだが、そこを襲われたのである。 長い間マラリヤに罹(かか)る事も無く元気で、炊事の料理長役で中隊を支えて呉れて居たのに、砲弾の破片が帽子を貫き右の頭に入って居りアッと云う間も無く散って行かれたのである。
山岡上等兵も三木兵長と同時に即死したのだが、殺した牛の傍らで今まで元気だった二人がこの様に為ってしまい我々にはどうする事も出来ない。
三木さん、貴方はその日も中隊全員に肉の料理を食わせて遣ろう、衰弱した兵士に少しでも栄養のある牛肉でスタミナを着けて遣ろうと一生懸命に炊事班長としての本分を尽くして居られた。その最中の出来事故、責めても本望であったのでは無いかと敢えて慰めの言葉を探して捧げたい。日焼けした丸顔、前歯の金が好く似合い、大鍋の汁の味見をされて居た姿が今も目に浮かんで来る。
野宿の場所も敵に見つかってしまったし、これ以上糧秣収集する事は出来ず、ここに居れば居る程、攻撃を受けるだけである。
我が中隊は一刻も早くここを引き払い、師団司令部本隊に合流し無ければ為らない。師団司令部はこの頃ペグー山系の中程に宿営し他の地点に集結しその方面からシッタン平野に出る予定にして居た。我らの中隊は糧秣を集める為に今の地点に来て居たのだが、山系中程の司令部の所迄引き返し更に師団司令部が転進した後を追い他の集結地点に行かねば為ら無いのである。そして、その集結地点からシッタン平野に出る事に為るのである。
結局我が中隊は山の中を、行ったり来たりで十日も十五日も余分に歩か無ければ為らないのだが、総て師団からの命令であり仕方の無い事である。
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◆ペグー山系を引き返す転進命令
手島中隊長から出発の命令が出された。引き返しとは、ペグー山系を東から西に逆に登って行くのだ。夕方からの出発予定を更に早め、直ちに出発と為り銘々米を分けて運べる様にしたり兵器や装具を纏めた。
これから元来た道を山系の真ん中辺り迄引き返し、そこから分かれ山の中を迂回して他の地点に集結し以後、別ルートをシッタン平野に向けて出るそうだが、十日間もの行軍が又始まるとの事である。
全く、ウンザリだ。アア、又あの泥濘の道の行軍か、裸足(はだし)の行軍が続くのかと思うと悲壮な気持ちに為った。あの死の行軍が続くのかと思っただけでも堪ら無い。
しかし、今の地点から糧秣収集したシッタン平野に出てここを東に通り抜けるには、敵の警備が厳重で敵弾に遣られる事は明々白々だとの上層部の見解と判断だから仕方の無い事である。
出発準備が出来た。その時、中村上等兵は動けず歩いて着いて行け無い。今誰一人として元気な者は居らず、担架に乗せて運ぶ事など到底考えられぬ。皆自分の体が運べ無くて次々に死んで居る状況である。
手島中隊長は、師団そして聯隊長の命令により中隊を指揮して行かねば為らない。中隊長は「行軍に着いて行け無い者は仕方が無い」「片岡軍曹はその旨を、中村上等兵に伝えよ」と命令した。
片岡邦夫軍曹は中隊長の命令であり、中隊としてもそうし無ければなら無いのだとは分かって居たが、悪い役を仰せ遣ったものである。躊躇(ちゅうちょ)する暇は無い。中村上等兵が横たわって居る所に行って静かに言った。
「中隊は再び、山の中に逆戻りし行軍する事に為った。これから出発するがどうするか?」「着いて行けるか?」
暫く黙って居た中村上等兵は「着いて行けません」と答え、又暫く沈黙が続いた。「自分はもう動け無い、どうすれば好いか教えて下さい」と言った。彼の体は重傷を負い自分の装具や兵器、自決用の手榴弾を置いて居る場所迄取りに行く事さえも出来ないのだ。
「自分は、決して恨みません。殺して下さい」「その小銃で」と苦しい呼吸の間でやっとこれだけ言った。息詰まる沈黙の時間が続いた。
軍曹は、この小銃で撃ってしまおうか、本人の願いでもあり中隊長の命令でもありと思ったが、しかし、共に戦って来た戦友を自分の手で殺す事は出来ない。幾ら助から無い命でもそんな事は出来ない。出来る筈が無い。だが、出発の時間を遅らせる事は出来ない。それに敵が何時また攻撃して来るか分から無い。
早くしないと中隊長に叱られる。考える事は無い。断あるのみで軍曹は小銃に弾を込めた。しかし、彼の生命を断つ事は忍び無かった。幾ら戦いに明け暮れた為に荒(すさ)んだ気持ちに為って居ても、又、多くの死体を見て些か人間の温かい感情が麻痺して居ても、自分の友を手に掛ける事は出来ない。
「これに弾を込めたから、自分の足で引き金を引け」と言って銃を渡した。中村上等兵は、死ぬ覚悟を十分して居たのだろう、もう静かに考える程の余裕も感情も無かったのだろうか。与えられた銃の銃口を顎の下に宛がい、助けを借りて引き金に足の親指を乗せたと思った瞬間引き金は落ちてしまった。
顎からも口からも血が流れ落ちた。軍曹は銃を取り上げ、そして手を合わせ心から成仏(じょうぶつ)を祈った。それから、右手の親指を切り取りポケットに入れて別れた。中村上等兵の悲壮な気持ち、片岡軍曹の立場、その心境は図り知れ無いものがある。
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中隊長と兵隊との間に立つ下士官の苦労と心痛は大変なものであった。人の情けと勇気と正しい理性を備えた片岡邦夫軍曹も、それから二十日余り後、シッタン河を渡河した地点で戦死されたのだと後日聞いたが、哀れと言うか残酷と言うか、戦場はこの様に次々と尊い生命を奪い取って行くのである。何と言う事か。
更に出発に当たり、又あの山を登り歩くのかと前途を悲観して三、四名の者が相次いで自決したと聞いた。
後日聞いた話によると、この迫撃砲で小林軍曹が片手の上腕部を引き裂かれ石川軍医が直ちに止血し手術した。麻酔薬も無く、手術が進むに連れ激痛に耐え兼ね「殺して呉れ」と叫んだ。森脇衛生下士官が手助けをしてどうにか励まし励まし手術は終わった。
しかし片腕を切断する大手術を受けた小林分隊長は負傷の重さに耐え切れず、今後の転進ペグー山系の厳しい行軍に着いて行く事は困難だと前途を悲観し「死にたい」「殺してくれ」と叫んで居られた。本当に悲痛な最期が・・・・その様子は語るに忍び無いと終戦後に森脇衛生下士官から聞いた。
その他、迫撃砲弾で軽傷を受けた人も何人かあった様であり、マラリヤで動け無く為ったり砂擦(ず)れで足を痛めてしまったりした人も多かった。そんな中で着いて行け無いと判断した人の手榴弾の炸裂(さくれつ)する音が谷間に何度木霊した事か。
結局、糧秣収集の一週間だけで一中隊七十人中十三、四人がこの山麓で命を落とした事に為り、さしもの気丈夫な手島中隊長も「優秀な下士官、兵士を次々と失った」と慟哭(どうこく)されて居た。
シッタン平野をそこにしながら、又山の中に引き返し東から西に向かい坂道を登ったが、段々疲労は募るばかりである。敵機に発見され難い山中なので昼間の行軍だった。
二日ばかり歩いた日の小休止の時、私は下痢の為皆の出発に間に合わずホンの五分位遅れた。追い着こうと一生懸命に歩いたがもう追いつけ無い。到頭日が暮れた。落伍してしまったのだ。
中隊が纏まって歩くのは早いが、一人で歩くのはどうしても気ままに為り遅く為り追い着け無い。この山道は細くても一本道だから間違える筈は無いのだが完全に落伍してしまった。
夕方から激しい雨が降って来た。一人で木の枝に携帯テントを括(くく)り着け雨を凌いだが、飛沫(しぶき)や漏れる雨で濡れる。火を作る事も出来なくて飯を炊く事を諦め、死んだ様に眠り一夜を明かした後、朝から又歩き始めた。
一休みして居ると、そこへ玉古班長代理と他の小隊の顔見知りの光畑上等兵と中島上等兵が後から追い着いて来た。「どうして居るのか」と尋ねる。私は「少しの事で落伍して困っている」と答えた。「では、一緒に行こう」と励まして呉れた。この三人は中隊長から「少し遅れて最後尾を守れ」と命令を受け、三時間程出発を遅らせて来たのだ。
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後衞尖兵(こうえいせんぺい)を勤める位だから元気な三人であった。結局私はこの三人に救われたのであった。この事が無かったならば、私は追及(ついきゅう)出来ず必ず死んだであろう。好い人に合流出来勇気を出し歩いて行った。有難い事であり何と言う幸運な出会いだっただろうか。
暫く行くと道端に一人の兵隊が休んで居る。我々中隊の神田上等兵である。「どうしたのか」と尋ねると、「愈々、動け無く為ってしまった」と答えた。小さな焚火(たきび)をして居り、そこに飯盒を掛けて居た。
「元気を出して、一緒に行こうではないか」と勧めたが直ぐに返事は返って来なかった。
「一緒に歩くのも苦しいので、暫く休んでから」と答え、我々と一緒に行動しようとはし無かった。無理に引っ張って行く訳にも行かずそのまま別れた。その後彼はどう為ったか?
山道を喘ぎ喘ぎ登り、時々小川を渡るので下半身は何時も濡れ乍ら転進した。でも、四人だから心強い、この十日余りの行程を落伍して一人では生きて行ける筈が無い。自決か餓死で九十九・九パーセント死んで居たであろう。これこそ私に運があったのだとシミジミ思う。
道端で小休止すると堪え難い臭いが鼻を着く。近くで人が死んで居りその屍の腐乱(ふらん)した臭気である。自分も死んだらあんなに腐るのかと思うと遣り切れ無い。
玉古班長代理が私に向かって「小田よ、あんな姿に為ら無い様に頑張って行こう」と励まして呉れたが、自分に言い聞かせて居る様でもあった。私も一層、何が何でも頑張らねば為らないと心に期した。そう言った彼も又、半月後には帰らぬ人と為る運命だったのだが・・・・
小休止で一度そこへ腰を降ろせば、我々は臭(くさ)い臭いがしようとも動く元気が無くそこで休むのである。少しでも体力を消耗し無い様に余分な動作はし無かった。実際は何をしようにも出来ない程弱ってしまって居るのである。
毎日雨の中の行軍で携帯テントを頭から被って居るが、古びた一枚の薄いテント布だけでは役に立たず濡れ鼠(ねずみ)である。凄い雨が叩き着けて来る。痩せこけた体に容赦無く降り注ぐ。雨が頬を濡らすが時には自分の涙も一緒に流れて居た様だ。
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体温を奪われて寒い。だが熱帯地方だからこれ位で済んだのだ。もし、寒い地方であったならばもっと厳しい苦しさだっただろう。
米は濡らしてはいけない。米は靴下に二重に入れ、塩は小さい缶に入れるか飯盒の中盒に入れて居たので、どうにか雨に濡らさずに助かった。殆どの兵士が裸足で脛(すね)から下は何時も濡れて居り、冷えと下痢の原因と為って居た。
私は相変わらず耳鳴りがして居り血の小便をして居た。多くの兵士がマラリヤに遣られアメイバー赤痢に侵され疲労困憊(ろうこんぱい)の極みに達し落伍し取り残されて行った。
◆ピュー河を渡る
山坂を歩く内にシッタン河の支流でペグー山系の中を流れる幅三十メートル位のピュー河に出た。この十日程前に渡った時は一番深い所で腹の上あたりであったが今日はもっと水嵩(かさ)が増して居る様である。
今度は引き返すのだから、下流に向かって左岸から右岸へ渡るのだ。降り続く雨で水は濁り中程は私の背丈位ありそうだ。
渡れ無いかも知れ無い、流されるかも知れ無いと不安だ。水嵩が少なく為るのを待つ訳には行かない。一時も早く中隊の本隊に追いつかねば為ら無いし、水はこれから増して来るかも知れ無い。今、河を渡る決心をするより他に方法が無い。
米の入った背嚢や脱いだ衣服等を頭の上に乗せ河に入って行った。段々深く為って背の低い私の首まで来る。しかもかなりの強い流れで体が流されそうに為る。流れては大変と足を強く踏張り前へ進む。
足の下は岩だらけでゴツゴツした所があるかと思えば砂の所もあり、足を踏張れば踏張る程、足元の砂が掘れるので、首から顎まで水が来て流されそうに為った。頑張った。
更に進むと口まで来た。体が浮きそうだ、もう駄目だ浮き上がり流されそうだ。一瞬不安な気持ちが過ったが、愈々駄目なら荷物を捨てて泳げば弱っていても五メートルや十メートルは泳げると腹を括(くく)った。
若い時から多少の泳ぎは出来るので最悪の場合の心構えは出来ていた。だが、そこが一番深い所だった。次第に浅く為り対岸に上がった。やれやれ一難を凌(しの)いだ。
しかし、若干の兵器等は元の岸に残したままなのでもう一度取りに帰ら無ければならない。引き返して、要約残りの銃等を運び渡り終わる事が出来た。もしここで、後三センチ水位が高かったなら命は助かっても装具一式は流され、間接的にそれが命取りに為って居たかも知れ無い。
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このピュー河はそれより一時間後には奥地の降雨によって増水したと推測されるが、将に、間一髪で命拾いをしたのである。ここでも生死の境を越え本当に幸運であった。
余談に為るが、私は均整の取れた丈夫な体だが背丈が高く無い。一般的にはその事が健康とか生命に直接関係する事は無い。だが、この渡河こそは身長が命を左右する事に為ろうとした数少ない体験である。
幸い三センチの事でギリギリ助かったのだ。又一時間そこに到着するのが遅かった為らば事態は変わって居ただろう。思うだけでも恐ろしい。
ピュー河を渡った所で大休止する事にした。そこに竹を四本突き立てて木の葉で屋根を作ったお粗末な雨凌ぎの小屋が二つあった。夜中に雨が降っても好いし露天よりは有難い。新しく作る元気も無いし、元気であっても作業は一時間は罹るだろうし大変なので早速四人は喜んでその一つに入った。
しかし、そこにはお客さんの屍が二体あった。何れも死んでから日数が経っていないのか形もハッキリして居た。未だ臭いも微かであった。外に運び出した。幾らお粗末でも小屋は小屋、有難く泊まる事として濡れた衣服を焚火で乾かし少しの米を炊いて食べた。
この様に死人の近くに並んで寝る事も次第に麻痺したのだろうか、余り怖く無く為り当たり前の事に為り出した。それよりも成るべくエネルギーを使わ無い様に心掛けるのが生き延びる手段である。不要な労力を費やさ無い様にし体を労わらねばなら無い。
戦後の慰霊団
河の岸辺に馬が死んで居た。内地から運ばれて来た馬だ、可哀相に。誰の乗馬であったか、何処の部隊の輓馬であったか知ら無いが、もう腐って河岸の砂の上に屍を晒している。異様な臭いがする。馬は大きいだけに臭いも激しく範囲も広く為る。
もうこの頃は兵隊が死んでも馬が死んでも、穴を掘って埋めるにも道具一つ無く兵士にそれをする元気も体力も無く為り、残念だがもう行き当たりバッタリ死体はそのまま放置される有様であった。
この馬もここまで来るには随分苦労をした言だろう。人間が食べる物が無い位だから馬が食べる物は無く、酷暑の中で作業に従事し我が軍の為に尽くし犠牲に為ったのだ。この泥濘の道を人を乗せ荷物を乗せて歩いて来たのだ。
どんなに苦しかったか、どんなに悲しかったか。馬は涙を出さ無いし言葉は言え無いが心はあるのだ。人間と同じ様な心を持って居るのだ。
馬と言えども、平和な内地の自然と愛情に満ちた飼い主の事を懐かしく思い出し、郷里に帰り楽しい生活、馬として平穏な生き方をしたいと思ったのではなかろうか。馬は賢い動物であるだけに、悲しみながら苦しみながら死んで行った事だろう。ビルマに渡った何千何万と言う馬は殆ど全部がこの様な状況で死んで行ったのだ。可哀相に異境の果てで戦争の犠牲に為った馬達を心を込めて弔らってやらなければ済まないと思う。
つづく
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一兵士の戦争体験 その17
その17
◆歌に託す 林伍長
平素から優しく温和な人柄の林伍長は、聯隊本部付きで大阪外大の出身、本部で好く仕事が出来る人だと漏れ聞いて居た。その林伍長が草叢(くさむら)の中に転んで居た。色白童顔の面影は消え去り、昨日から激しい下痢で動く事が出来無い。しかもこの下痢はコレラであった。水を飲んではジャーッと下げ、嘔吐(おうと)もするのである。
もう、誰も彼の近くに行こうとしない。「水が欲しい。水が欲しい」と言って居る。しかし、その声にも力が無かった。不治の病で伝染性の強い病気である事、余命一日位しか無い事は彼も好く知って居る。
体は弱って居ても正確な頭と判断力は薄らいで居らず、決して治る事の無いコレラに自分が侵されて居ると感じた時の彼の気持ちや如何に。数十時間しか無い命と知り悲嘆に暮れ無い人があるだろうか。荒野の果て薬品一つ無く灼熱の中で苦しんで居るのだ。幾ら冷静に心を保っても喉の渇きはどうする事も出来ず水筒の水を飲み干し「水が飲みたい。水をくれ」「誰か水を呉れないか」と言って居る。
水を飲んでは下げ、飲んでは下げして刻々痩せ萎(しな)びてしまうのがコレラなのだ。聯隊本部の山本上等兵が自分の水筒に水を汲んで来て竹竿(たけざお)の先に括(くく)りつけ林伍長に差し出した。彼はそれをゴクリと飲み「有難う、俺は助から無い、死ぬ・・・・」「山本、わしはここで死ぬがお前が内地に帰ったら、故郷の父母にこの歌を伝えて呉れ」と言った。
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『身はたとえ ビルマの果てに朽ちるとも とどめおかまし大和魂』と言う辞世の歌を。そして「皆、アッチへ行って呉れ」と言い、手榴弾を自分で叩き轟音(ごうおん)と共に散って行った。実に見上げた最期であった。
この事があってから二、三日後、大西主計中尉もコレラに罹(かか)り自決された。主計は聯隊全部の女房役で財政全般を司る大役をされて居た。不治の病気コレラと知り自分の来るべき運命を悟り、部隊員が休憩して居る場所から少し離れた所まで這(は)う様にして行き自分の拳銃で蟀谷を撃ち抜いて逝かれた。
昨日まで元気な人もコレラに罹れば当時の戦場では薬も注射も無くもう助かる目途は無い。愛国の気持ちに燃えながらも、多くの兵士がコレラやペストで死への道を選ばなければなら無いのである。私達はこの伝染力の凄(すさ)まじさに恐れ戦いた。
◆戦車の攻撃
昨夜は夜間行軍をして昼間は細い道から入り込んだ灌木の間で大休止する事に為り、飯盒炊事をして飯を食べて居る最中、後の方向からドロ ドロ ドロと言う音が微かに聞こえて来た。 「敵の戦車が攻撃して来る!」と誰かが絶叫した。直ぐに兵器や装具を持ってその場を去ら無くてはなら無い。瞬間ポン ポン ポンと戦車からこちらを目掛けて射撃して来た。
皆慌てて雑草や雑木の間に身を伏せた。戦車のキャタビラの音とエンジンの音が近づく中で緊張し固く為り手を握り絞めた。逃げ出せば余計に敵に見られ易いだけである。
兎に角、体を草叢(くさむら)の中に隠して居るより他に方法が無い。愈々近づけばその時の事で見つかってしまえばそれ迄だ。私達は戦車に対抗出来る何物も持って居らず悲壮な覚悟を決めて居たが、戦車は我々の方には目を遣らずどうした事か通り易い大きい道の方へ出て行ってしまった。
危機一髪、危うく戦車の攻撃を受ける処だった。山の様な戦車を目の当たりにして彼我戦力の相違を思い知らされた。昼はこの様にして飛行機と戦車に攻撃され追われるので、出来るだけ山の中や樹木の繁った所を選んで逃げ遮蔽物の無い平坦地を行く時は夜行軍をせざるを得ない状況であった。
言うならば我が軍には、山の中の木の陰と闇夜だけが味方である。明るい昼と重火器と物量が敵の力であった。
この頃、交通の主要点、幹線道路、鉄道、主な町、便利の好い平坦地は完全に敵軍の支配下と為り、日本軍は山中に追い詰められ、ペグー山系を東へ横断しシッタン河を渡りビルマの東南マルタバン方面を目指して落ち延びて行くのみである。転進作戦と称して居たが実際は退却であり、敵中横断一千キロの道程は容易な事では無かった。
八 雨、飢餓、屍(しかばね)
◇ペグー山系の悲劇
◆屍から装具を失敬
やっと山系の西の入り口の部落まで到着した。我々は他の師団より一ヵ月も遅れて居り、更に同じ兵兵団の中でも殿であった。現地人は既に誰も居ない。しかも、大きな部隊が通過した後なのでもう米も無く家は蛻の殻で死体が散らばって残って居るだけである。
未だ死んで一日位だろうか、形が崩れて居無く蝿(はえ)が沢山集まって居た。黒い大きい蝿が一杯で気持ちが悪い。その死人の飯盒、水筒は既に取られて無い。勿論背負い袋の中に米は無さそうである。死を見届けた後に誰かが貰って行ったのだろう。
この頃は、色々の事情から兵器は勿論、飯盒や水筒さえ紛失した兵隊が多く、こうして必要で無く為った死人の道具を譲り受けるのだ。
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そんな或る日、山岡伍長が戦場で飯盒を無くして困って居た。丁度道端で死んだ兵隊が飯盒を手に持ったまま倒れて居り息もして居ないし足で一寸蹴ってみたが動か無いので伍長は飯盒を取り上げた。
その瞬間「ハンゴウー」とやっと聞こえる微かな声がした。死んで居ると思って居た兵隊は未だ生きて居り大切な大切な飯盒を取られた事だけは分かり必死で叫んだのだ。未だ生きて居たのだ。その恨めしい細い声が何時までも耳に残り忘れられ無いと彼は話して居た。
人情は人情だが臨終の人に飯盒はもう必要では無い。生きて歩いて居る人には飯盒は片時も無くては為ら無い命の次に大切な物である。無残、憐れな事であるが戦争とは絶体絶命どうしようも無いこんなものである。
上着も軍袴(ぐんこ)(ズボン)も、自分のものが焼けたりボロボロに為ったり無く為ったりすれば死人のを貰う。自分が裸足なら死者の靴、それも大分草臥れて居るのでも脱がせて失敬する事もある。 ペグー山系の悲劇がこの様に始まるのである。
◆米を確保し、最後尾で山系に入る
ペグー山系に入る前、米を集める為に今まで他の部隊が入って無さそうな部落を探した。運好く現地人は居らず籾と岩塩を手に入れ、たばこの葉と置き残した鶏五羽、豚一頭を捕らえた。長居は禁物、サッサと村落を引き揚げた。
丁度一日行程ばかり山系に入った所で、鉄帽に米を入れて搗いた。これからペグー山系の中に長い期間滞在する事に為るらしい。しかも輜重聯隊は師団司令部の将兵の分も確保して来いとの命令を受け、もう一度引き返して部落に取りに行った。
その部落はこれ迄に日本軍の部隊が通過した形跡が無く、現地人の姿も無く敵襲にも会わず相当量の籾と木製の臼を持ち帰る事が出来た。
二日を掛けて山の中で皆で籾を搗いて白米にした。しかし、兵兵団の司令部や主力は四、五日先に山の中程へ前進して居り我々は殿で山の中を追及(ついきゅう)する事に為った。
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ペグー山系はアラカン山脈の様に高い山では無く標高二百メートル位で、南北に約四百キロメートル東西に約八十キロメートル伸びる山塊である。この広大な山系には殆ど民家は無く行っても行っても山と谷、森林と竹薮の連続である。
道と言っても獣道(けものみち)を日本軍が最近急に歩ける楊に開いた山道で、細く柔らかく泥濘曲がった緩急の坂が混じったものであった。坂を登り、下り谷を越え水に浸かって河川を渡り、酷い泥濘の所もあり困難を極めた悪戦苦闘の道であった。
臼で搗いた白米を夫々に分配し、五〜七キログラム程度を持ち山系の奥に入って行った。師団司令部へ渡す米を皆で分けて携行して居るのだから、衰弱した体には堪え難く重い荷物で肩に食い込んだ。
もう、完全に雨期に入って居て雨の降ら無い日は無く、豪雨性の雨が降るかと思えばシトシトト降り続く雨もある。好くもこんなに雨が降るものだ。好く降ると感心すればする程猶更(なさら)降って来る。しかし、我々は全くの野宿だ。雨に濡れながら歩き雨に打たれて寝る。内地の乞食でも橋の下があり雨宿り出来るが我等にはそれさえも無い。
今までに大部隊が何組も何組も通った後の為、赤土の山道は粘って居り、田植えする田に入って居る様である。嫌、それよりもっと粘っこく赤土で壁土を作って居るのと同じ様な粘さであった。
最初の二日は所々だったが、三日目からはこの泥濘が延々と続くのである。一歩、歩いては、ズッポン、二歩、歩いてはズッポン、ズッポンと膝まで泥濘に入り足を抜き出すにも力が要り大変である。一日歩いても四キロ位しか進め無い。
泥濘膝を没すと聞いた事はあるが、まさしくその通りである。力尽きた兵隊が道の畔に蹲り息絶えて居る。息絶えて居るが小銃をここ迄持って来ておる。立派なものだ。
一歩泥濘、次の一歩も又抜かり込み、グッショ グッショ ビチー ビチーと粘り込んだ。粘った土の中に地下足袋はズルリと入る。その足を抜き出すにも力が要る。強く引き出さ無ければ抜け無い。やっと抜いて、次の足を泥の中に突っ込んで進んだ。
何処を通っても泥だらけである。こんな酷い道を私は見た事も聞いた事も無かった。例えが悪いかも知れ無いが、臼で搗いた餅の中を歩いて居る位の粘さである。ここら辺りのビルマの土は肌理の細かい赤土で、日本軍によって急いで造られたのでバラス等は全く入って居ない。
雨期で無ければこんな酷い事には為らないが、雨期の最中大部隊がニヤクリ、ニヤクリして通った後を、最後尾の我が部隊が進んで居るのだからこの様にネバイ泥濘に為って居るのだ。
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そんなある日の事、私が泥濘の中を一歩一歩足を運んで居ると前方の泥濘の中に兵隊が立って動こうとし無い。追い着いて好く見ると自分と同じ班の三方(みかた)上等兵ではないか。
動か無い筈、息絶えて居るではないか。立ったまま死んで居るのだ。彼は丸々と頬の張ったユーモラスな男であったがその顔も痩せ垢と土に汚れて居る。しかし彼である事は直ぐに分かった。小銃は持って居なかった。足がねばり込んで抜け無いで力尽き果て死んだのだ。
重心がそのまま残り、立ったままの姿である。私は唖然とした。世にこんな死に方があるのだろうか?酷(むご)い!
その頃私の班の者は皆銘々勝手に散り散りバラバラに歩いて居た。ここで何と処置して好いか判断も思考能力も無く弱り果てた。マゴマゴして居ると自分も落伍してしまう事に為る。困惑の極みの処へ運好く玉古班長代理と他に二名の兵隊が遣って来た。
玉古兵長は「三方(みかた)か、酷(むご)い事。立ったまま死んで居るのか?」「力が尽きたのか。皆で道の縁(へり)に運んで遣れ」とテキパキと指示した。四人掛で、やっと泥濘から引き出し道の縁に寝かせた。
「責めて右親指を切り取り、遺骨として持って行こう」と言った。誰かがビルマのダアー(斧)で指を切り取った。「お前持って行け」と私に指示された。その頃一枚の紙も無いので、私は木の葉に包みポケットに入れた。
この遺骨が内地の三方家に届いたらどんなに悲しまれるだろうか。しかし、考え方では親指一本でも届けられれば未だ良い方である。今迄にも行方不明に為った人の遺骨等どんなに為っただろうか?遺骨の無い人が大勢あるのだから。
瀬澤小隊長の親指の遺骨も本山上等兵が大切にして持って居たが、彼が行方不明と為ってしまったし、大西主計大尉や林兵長はコレラだったので屍に近寄れず遺骨を持ち帰る事が出来なかったと聞いて居る。この様に遺骨の無い人は大勢居るのだ。「三方君きっとお前の遺骨は郷里に届けて遣るからな」と誓った。
その日も夕方迄泥濘の中を歩き露営した。飯盒炊事の時、その火の中で三方上等兵の親指を火葬にした。尊厳な筈の火葬と炊事が一緒で申し訳無いが負け戦の最中はこんな事である。誰かが小さな布切れを持って居たのでそれに包み、背嚢の奥に遺骨を収めた。 自分の事だがその頃、私の地下足袋には土がべったりひっ付いて重い事重いこと。
泥濘中の行軍が続き一日の行程が予定の三分の一にも達せず、全く遅れてしまい、ペグー山系横断に予想外の日数を要する事に為った。もう、靴を無くして裸足(はだし)で歩く人も大勢出て来た。私の地下足袋もこの泥道で急に傷み、ゴムと布との間が口を開けて履く事が出来無く為り裸足に為った。
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裸足のままでは頼り無いので、ビルマ人のロンジの布端を引き裂き足に巻き着ける事にした。しかし、つるりと滑っては転び、滑っては転び、布にも土がべっとりと着き、数日の内にそれも破れてしまい愈々裸足の行軍が始まったのだ。
幸いペグー山系の中では森林が多く敵機に見つから無い。昼間の明るい間の行軍が出来たので地面が好く見え障害物を避けて進む事が出来た。しかし、裸足で泥濘を歩くのだから堪(たま)ら無い。水気で足はフヤけて泥だらけ、木の株や竹の折れ端で足を痛め無い様に用心して歩いた。ここで足を痛めたら最後であり命取りに為るのだ。酷い泥濘だが、その中に石も砂も無く粘土だから割合足を傷め無いで歩く事が出来助かった。
我々が平地より運び込んだ籾を白米にしたが、それを師団司令部に相当量渡し残りを夫々が分けて持ち、山に入って来たが日数を重ねる内に段々少なくなり心細い。
蛙を捕まえて食べた事もあるが、滅多に居るものでは無い。食物が無いので、誰かが「この木の実は食べられるぞ」と言うので、その実を千切って食べた事もあるが、味も無くガサガサとしたもので食べられる様な物では無かった。
◆盗まれた米
携行している米が少なくなり皆困り始めたある日、道の縁にゴロ寝した時の事である。疲労困憊(ひろうこんぱい)した体は何時しかグッスリ眠った。朝、目が覚めてみると背嚢の中の米が無い。『靴下の中に入れて居た米がゴッソリない!』一粒も無いのだ。
身体の中の血が逆流しそうだ。確かに昨夜は枕元に背嚢を置いて寝て居たが、眠って居る間に一升五合(二・二キログラム)の米がゴッソリ抜き取られてしまったのだ。
米が無ければ死ななければ為らず、そうで無くてもここ数日、米を節約し食い延ばしヒモジイ目をして居るのに。だが、誰が盗んだのか証拠が無い。聞いて歩く訳にも行かず、盗まれた盗まれたと騒ぎ立て無い方が好いだろう。
我慢、我慢、今日一日は食わ無くても死な無いだろうと思う事にした。だが残念でなら無い。悪い奴が居るものだ儂を殺す気か。一日中食べずにフラフラと皆に着いて歩いた。腹が立ち、腹が減る。畜生め!
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この日は昼歩き夕方山の凹地で大休止と為った。皆は銘々炊飯をして食べて居るが、私には炊飯すべき米が無く食べるものが無い。ああヒモジイ。何か食べたいけれども何も無い、体が弱るが仕方が無い。
心易い戦友に強請れば少し位は呉れたかも知れ無いが、これから何日も貰うばかりは出来無い。敢えて誰にも言わず我慢した。水筒に湯を沸かして飲んだが腹の足しには為ら無かった。『今夜盗み返すのだ、それより他に方法が無い。飢え死にして堪るものか』
乾坤一擲(けんこんいってき)遣るのだと決心した。この凹地には我が中隊の一部と他の部隊や落伍者達が入り乱れて休んで居た。腹が減って眠れ無い。それに今晩こそ何とかし無ければ自分が死ぬのだと思えば、ジッとして夜が更(ふ)けるのを待つより仕方が無い。眠っては行けない時間を待つのだ、興奮して眠れ無い。
木の繁った山の谷で真っ暗い夜だった。自分の休んで居る処を這い出して少し離れた所で四、五人が並んで寝て居る場所に行き一つの背嚢の口を開き靴下に入った米五合を静かに失敬した。更に離れた場所の兵士の背負い袋の中から、靴下に詰めた三合ばかりの米をも失敬した。
一つ取るのも二つ取るのも同じだ。闇の中で半ば手探りで事は成功した。参考までに軍隊では、内務班に居る時から員数合わせする事が重要な事で、その為には常に人の持ち物を盗む事が行われて居り、世間一般での盗みの感覚とは異質なものがあった。
その様な軍隊生活の中でもあり、この場合は将に生死の明暗を分ける時である。取られた物は取り返さ無ければ生きられ無い絶対の場面で、静かに反省して居る余裕の無い時である。
腹が減って仕方が無かったので、夜中であるが残り火を起こし早速炊飯して食べた。暖かいご飯が喉を越した時は久し振りで美味しかった。
この米でこれから暫く命を繋ぐ事が出来るとホッとした。その時一人の兵隊が闇の中からこちらへ歩いて来た。私は飯盒の飯を食べて居る最中であった。彼は夜中であるが自分の米が盗まれたのを何かで感じて起きて来たのだろう。こんな真夜中に飯を食うて居る私を闇を通して見て可笑しいと思ったのだろう。
「お前飯を食うて居るが、わしのを取ったのだな?」「わしのを返せ」と来た。私は「自分の物を食うて居るのが何が悪いか、腹が減ったから自分の米を炊いて食うて居るのが何故悪いか、人を疑うのも程々にせい」と切り返せば好かったのだが、そう嘘が言え無かった。
黙って居ると彼は私が取ったと感じとってしまった。私は咄嗟に嘘を着いてしまえ無かった。「米を返せ」「わしのを返せ」と迫って来た。
「返してやるわい」と言って米の入った靴下をポイと放り出した。かの兵隊はそれを拾ったが、闇の中で私を睨(にら)みつけ三発ゲンコツで殴った。
私は抵抗し無かった。既に腹に入れただけは儲(もう)けである。少々殴られても腹の中では消化されて居るのだから。それにもう一つの袋の米は私の背嚢の中に納まって居るのだから、歩留まり五十パーセントだと思い殴られるに任せた。
その兵隊は暗闇の中に消えて行った。暗闇の中の出来事でお互いに顔は分ら無いままであった。この様にして私は幾らかの米を入手出来生命を繋ぐ事が出来た。
夜が明け山中の行軍が始まった。この頃は飢えの為顔も痩せて居る筈なのに殴られて顔が腫(は)れて居たので、溝口曹長が直感で「小田、お前顔が腫れて居るがどうしたのか?」と尋ねられた。私は「蜂に刺されて腫れたんです」と体裁を整えて答えた。でも久し振りに腹が満ちて元気好く歩けた。
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◆筍(たけのこ)で命を繋(つな)ぐ
ビルマの山には竹薮(たけやぶ)が多く色んな種類の竹が生えて居るが、ペグー山系に入った頃丁度筍の生える季節で幾らでも生えて居た。これ幸いと筍の先の柔らかい部分のみを採って来て、灰の汁で灰汁を抜き湯がして食べた。お陰で空腹を満たして呉れた。
私は中学生の頃、筍を食べてジンマシンが体一杯に出て大変困り、医者へ行って注射して貰っ事があったので、筍を食う殊に抵抗を感じて居たが、腹が減るし米を節約しなければなら無いので用心しながら少しずつ食べた。しかし、幸いにジンマシンは出る事も無く助かった。
初めの内は塩の手持ちがあったが、塩が無く為ってからは茹でただけの筍を口にしたが、それは味が無くて食べられ無かった。
誰かが「こんな物は栄養に為ら無い」とか「腹の中を通るだけだ」とも言ったが、食べる物が乏しいのでこれを食べた。沢山食べ過ぎ消化不良を起こした人も居た。中にはこれが原因で体調を崩し命を絶った人も出た。でも全体としては飢えを若干でも凌ぐ事に為ったのではなかろうか。
私は筍の所為では無いだろうが、毎日水に浸かり冷えと体力の衰弱の為か、この頃又下痢が始まり回数が増え苦しい。何処にも下痢止めの薬ナどあろう筈が無い。
物知りの兵隊が炭を食べれば好いと教えて呉れて居た。炭は吸湿性がある。内地に居る頃腹痛の時、黒い粉の薬を飲んだ覚えがある。それに燃やしたばかりの炭ならば黴菌(ばいきん)は無い筈だ。「そうだ、これを食べよう」と決心した。
早速、飯盒で炊事した後、燃え残りの炭の奇麗そうな処を拾いあげガシガシと噛んだ。甘味も辛味も何も無い。燃え指しで炭に為って居ない部分は吐き出した。炭を口の中に入れてもナカナカ喉を通ら無いが、このまま下痢を続けて居ると命取りに為るから、治したい一心で薬だと思いかなりの量を歯で砕いて粉にして食べた。確かに効いた様で次第に下痢が治り、ここでも命拾いをし本当に嬉しかった。炭のお陰である。
・・・ともあれ、ペグー山系の筍は忘れられ無い。私は、未だに食卓に筍が出ると一瞬ペグー山系で食べた筍の事を必ず思い出す。複雑な感情で簡単には表現出来ないが、普通の野菜とは異なり筍に対しては特別な心の動きをするのである。
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◆次々と落伍して行く
私と一緒に二月に召集を受け同じ様にこの野戦部隊の金井塚隊に転属して来た戦友の小林君や山田君が自決したとか、大井君がポウカン平野で敵弾に倒れたとの悲しい知らせが風の便りに次々に耳に入って来る。
あの確り者の小林君、あの機転の効く大井君。姫路に入隊した頃、美人の妹さんが大井君の元へ面会に来て居たのを見た事があるが、それももう昔の夢と為って市まった。 しんみりと弔う時間も落ち着いて悲しむ余裕も無く、現実に直面して茫然とするのみである。
敵弾と飢えと疲労に死にそうな日々が続く。自分の人間らしい温かい感情は薄れてしまったのだろうか。ペグー山系の転進で、将校も下士官も兵隊も下痢を起こし衰弱し、又はアメーバー赤痢に為り歩け無く為り置いてきぼりに為る。自分から「頬って置いて行って呉れ」と言う者もある。
皆、元気に為り病気が治れば本隊に必ず追い着こうと思って居るのだが、実際は一度皆から遅れ山の中に残るともう追い着く事は出来ない。「落伍してはいけない、必ず追及するのだ」と決心はするものの体がどうにも為ら無い。
僅かな米を持って居ても数日分しか無い。そこで飢え死にするかある時期に自決するかである。この様にして一人、二人、三人と落伍して行く。彼等はその後どう為ったか実の処分から無い。殆どの人はその地に朽ち果てたのではなかろうか。
取り残され動けず、次第に無くなる一握りの米を眺め、自分に残された命の日数を数える事がどんなに大変な事か。望郷の念耐え難く息を引き取って亡く為って行かれた将兵の心中や如何に。
敢えて言うならば、最後に手榴弾を抱いて自決した人にしろ、次第に劣り自決する判断力すら失い餓死した人にしろ、敵の弾丸に当たり一瞬にして死ぬのに比較すると考える日日や時間が有り過ぎる程あった筈で一層哀れである。
内地の土をもう一度踏みたい、父や母の顔を何回も何回も思い出し一度で好いから会いたいと念じた事だろう。妻子のある人は写真を出して頬摺(ほほず)りをして別れを惜しんだ事だろう。残酷な時間が継続したのだ。余りにも哀れで悲惨な事である。これが戦争で負け戦である。
私はこの様にして別れた多くの戦友の事が何時までも忘れられ綯い。同じ班だったかどうか覚えて居ないが、笠原上等兵は私と一緒に馬の作業をし、私の輜重車が脱輪し引き上げるのに困った時助けて呉れた事があった。
軍隊では共同作業が多く助け助けられるのである。落伍する彼が最後に「小田、わしはもう動け無い、少し休んで行くから」と寂しく弱々しい声で言って道端に蹲ってしまった。細い雨が降り雨霧が辺りの山々を包んで居た。彼の顔と山河の光景が網膜に焼き付いて居り、歳月は流れても忘れる事の出来ない悲しく遠い日の出来事である。
・・・衣食足りた平和な今日では、到底想像も出来無い事であるが、日本の国を守り民族と家族を守り祖国の発展を祈りながらこの様にして多くの若い戦友が散って行ったのである。半世紀を経過した今も、白骨は雨期の豪雨と乾期の炎熱に晒されたままペグー山系の山深くに朽ち残されて居り痛恨の極みである。心よりご冥福をお祈りするばかりである。
二十一世紀の若人よ、祖国を守り日本国の発展を願いつつビルマに散って行った二十万人の霊魂が、無念の思いをしながら残って居る事だけは心に銘記して置いて貰いたい。
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◆命懸けの糧抹収集(りょうまつしゅうしゅう)
ペグー山系の中を苦難の転進をして居る頃、我が第一中隊の主力は手島中隊長以下約七十名に減って居た。
内訳は私の所属する第二小隊では、瀬澤小隊長戦死後は誰が小隊長の代理をして居たかも、浜田分隊長戦死後は誰が分隊長代理をして居たかも明確で無い。片岡邦夫軍曹が小隊長代理をし、若い森伍長が分隊長代理をして居たのかも知れ無い。
次々に指揮者が戦死し、兵士達は泥濘の中を息も絶え絶えに歩いて居る頃で、人事の任命も我々兵隊迄には徹底して知らされる余裕も無く 、指揮系統も明確で無い状況であった。
第三小隊も当初の黒田小隊長の後任である岸本小隊長が戦死されて居り、各分隊長も次々に戦死されその頃には片岡東一軍曹が小隊長代理を勤める等、指揮者が激減して居た。
私には確かな記憶が無いが、第一小隊は福田中尉が指揮し別の方面に転進して居たのだろうと思う。何れにしても、これ迄に第一中隊は編成当初の半分以下に激減して居たと思われる。七十名と言えば一個分隊の人数より少し多いだけである。そして既に将校は手島中隊長のみで、溝口曹長が指揮班長として細部の命令を直接兵士達に伝達し取り仕切って居た。
第一中隊は手島中隊長以下で、この頃から師団司令部直轄(ちょっかつ)部隊として行動をする事に為った。
ペグー山系に入ってから半月以上苦難の行軍を続け、山系中を流れるピュー河を渡り山系の東に到達した。眼下にシッタン平野が見える。更に進み山を下り平地に近い山麓の林が覆い被さる中に野宿する事に為った。
これから折りを見て平原を突破しシッタン河に挑(いど)むのだろう、もうあの屍の塁々とした苦難の山系へ逆戻りして歩く事は無いだろうと私達兵隊は思って居た。
師団司令部は山系の中程に宿営して居るのだろうが、手島中隊に米を取って来る様にとの命令を下して来た。我々自身も米が無く為って居るので兎に角糧秣を収集する事に為った。
山裾の中隊が屯して居る場所からシッタン平地に点在する現地人の部落へ取りに行くのだが、ナカナカ容易な事では無い。夜明け前に起き、山を出て平地にある部落を探し払暁(ふっぎょう)に襲うのである。
私達三人は斥候を命じられ、暗闇の中を一足先に部落の様子を探り報告する為に引き返して居ると、行き成り友軍が機関銃で撃って来た。未だ夜が明けて居らず薄暗いので、私の方からも機関銃を構えて居るのが見えず、機関銃手の方からも私達三人の姿が見え無かったからこんな事に為ったのだが、命令の不徹底があった為でもある。
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私達三人の方向を目掛けて行き成り薄暗い所から機関銃がダッ ダッ ダッと火を吹いた、丁度七、八メートルの至近距離からである。私はビックリして「友軍だ!友軍だ!」と叫び仰天し横跳びに走った。
他の二人はどう逃げたか知れ無いが銃口の前を飛び退いた。機関銃の銃口の高さは三十センチ位で私の股の間を弾が通ったと感じた。それも三発点射だから三発全部が股の間を通る事は無い。どう為ったのか知ら無いが足に当たら無かったのが奇跡的で不思議である。
機関銃は部落民を追い払う為に威嚇射撃(いかくしゃげき)をしたのだが、我々斥候三人は撃ち殺されるか重傷を負わされる処だった。当たる筈の関係位置であり、極めてタイミングも好く当然撃ち抜かれて居る筈だが、当たら無かったのだ。
その時足を遣られたらもうお終いだ。どうする事も出来なく為り死ぬより他に手段の無い戦況であった。神様は私を助けて下さったのだ。不思議だ。今思い出しても戦慄を覚えるし、復員後二、三回、夢でこの恐怖を見た事がある。
・・・この時の機関銃手であった光畑上等兵は私と共に復員し現在も元気で活躍中である。戦友会で会う度に「あの時はビックリした、行き成り闇の中から大声で『オイ!オイ!』と絶叫し小田君が飛び出て来たので『撃ち殺した』『しまった』と一瞬血が逆流した」と話す。
「当たら無くて好かった、当たったと思ったが本当に幸運だった」と当時を懐古するのである。当たって要れば光畑君も一生重い心の負担を背負って居ただろうから。両者にとり何事も無く誠に運が好かったのだ。
光畑上等兵は戦争中元気で重い機関銃を常に持ち、部隊の先頭に立ち敵軍を懲(こ)らしめ、味方を好く守り、ある時は宮崎師団長閣下の直接護衛をする等輜重隊の名誉を高からしめる貢献をした勇者である。彼は終始マラリヤにも罹らず下痢にも悩まされず元気者で通して来た。こんな人は極めて珍らしい。
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・・・戦後彼は私達と共にビルマへ数回慰霊団の一員として参拝して来て居るが、今日では数少ない生存者の中で私と親しい戦友の一人である。彼は敵に直面した回数も多く激烈な戦闘の話を好くしており貴重な存在である。
話を元に戻すと、平野の中にある十戸ばかりの部落に入る前に、機関銃で威嚇射撃して部落民を追い出した。現地人は素早く反対方向に逃げ出したので家に入り、米と塩そしてたばこの葉を取って帰った。その時一頭の牛を連れて引き挙げた。成果は上々と言う処であった。
この成功で師団司令部に渡す米も目標の三分の一程度と自分用が少し貯えられた。早速飯を炊き久し振りに腹が膨れる位食べた。塩と米だけでも美味しかった。
翌日は昼、斥候に出る事に為った。中村伍長と古角上等兵と私の三人が一組の斥候と為り、何処に部落があるか道順はどうか等を調べ、明日の未明に糧秣を失敬に行く部落の様子を偵察する為であった。
三人は山麓の隠れ場所を離れ平地に通じる約二メートル幅の道に出た。そこに西岡軍曹と小谷上等兵、富田上等兵の三人で一組の斥候が道端に休んで居た。私達の中村国男組は先に行くからと言って追い越して前にドンドン進んだ。
三百メートル位先に行った時、敏感な中村伍長が「自動車の音がする」「可笑しい、自動車のエンジン音だ、隠れよう」と言って、道の縁(へり)に沿った川の茂みの方へ下り隠れた。
隠れるや否や敵のトラックが、英印軍の黒人で頭にターバンを巻いた兵隊十人ばかりを乗せて目の前を通り過ぎて行った。私達は川の中から見上げた。三メートルも離れて居ない至近距離だ。気味の悪い事、見つかればそれ迄だ。エンジンの音が軽いのに好くも中村伍長は感じたものだと感謝した。
西岡組はどう為るだろうかと心配して居たら、銃声がパン、パンとし、何発もの射撃音が続いた。見つかったのだ。やがて銃声は聞こえ無く為ったがどうも遣られた様である。 私達中村組は、もう前進して行く元気も無く為り、さりとて後方に敵が居るのだからこの道を後退する訳には行か無い。道から直角の方向に離れ、雑木林を横切り大回りして中隊が屯している山麓にやっと帰った。
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暫くして西岡軍曹が一人で帰って来た。「小谷上等兵と富田上等兵は二人ともあそこで遣られてしまった。敵は自動車から降りて迄は追って来なかったので自分は助かったが二人遣られてしまった。残念で為らない」との事。流石下士官、激しい攻撃を今受けたばかりなのに慌(あわ)てず焦らず泰然(たいぜん)とした態度であった。
翌日の夜明けに二人の死体収容に行った。現地人に服を剥ぎ取られて居り痛ましい姿に為って居る。誰かが二人の親指を切り取り持ち帰った。大した弔(とむら)いも出来ないが許して呉れと合掌し皆で別れを惜しんだ。その日は米の収集はし無かった。
・・・小谷君は私と同じ二月に召集を受け、後に私と一緒に金井塚隊に転属に為って来た兵隊なので縁が深かった。岡山県御津郡(みつぐん)馬屋村(まやそん)の出身だと聞いて居たが、小まめに好く動き爽やかな感じの青年であった。
小谷お前も死んだのか!小柄でやや角張り気味で少し日焼けした顔が、何故か五十二年前のタイムカプセルを通して現われて来る。
もっと米を集めなければなら無いので、次の日にある部落を目指して五十人位で徴発(ちょうはつ)に行った。小さな小川があり冷たい砂と水を踏むと気持ちが好い。砂もきめが細かく足障りも好かった。靴を履いて居る兵隊はホンの一部で、私を含め多くの兵士は裸足であった。その時は何とも無かったが、これが後に大変な事に為ろうとは誰も予測しなかった。
それはさて置き、目指す農家は二十軒ばかりの集落である。その部落は約二十メートル幅の川を隔てて向う岸の小高い所にあり未明の薄暗い中に静かに佇んでいた。手前の川岸から機関銃で威嚇射撃をした。それに呼応して、皆一斉にザブザブと腰の上まで水に浸かりながら川を渡り部落に入った。その時誰も居ないと思って居た民家の中から小銃で撃って来た。
現地人は兵器を持って居たのだ。一昨日の事があり部落を守る為に武器の用意をしたのだろうか、パン パン パンと音が交錯した。変だなと一瞬感じたが、私は構わず家の中に入って行った。そして約一斗(十五キロ)の米を袋に入れた。かなりの量が取れたのでそれ以上は何も捜さ無かった。
外では銃声が響き犬が気が狂った様に吠えて居る。中隊の皆も活動が鈍い様だし家の中に入って来無い。可笑しい気配を感じた。
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私も早く出ようとしたが、銃声が激しく危ないと感じた。咄嗟に床の下に米を持ったまま潜り込んだ。暫くそこにしゃがんで様子を伺った。夜が段々明けて来るし犬は益々吠え立てる。
このまま時間を経過すると逃げ出せ無く為る。危ない!と判断するや否や床下より這い出て、一目散に川に向かって走り、重い米を背負い川へ飛び込みザブ ザブと水の中を走った。走ったと言っても水の中は歩く程しか進め無い。その部落から私を目掛けて弾が飛んで来る。前後左右にその水面に弾着を示す様に飛沫(ひまつ)が上がりもう駄目かと思った。
だが彼等は現地人だから射撃は上手で無いだろう等と考えてもみた。もし、背中に背負うた米に当たれば、一斗の米は貫か無いだろうと思いながら一生懸命に水の中を走った。
走ったと言っても、腰の上まで来る水の中では容易に進め無い。折角取った米を捨てては為らぬ。濡らしては為ら無いし転んでは何にも為ら無い。アア息が苦しいああ苦しい。敵からの照準を惑わす様にジグザグに進んでみたり走ってみたりした。
キツクテ溜まら無いがもう少しだ。ヨロケテは駄目だとザブザブと水を分けて走り、やっとの事で岸に辿り着いた。一気に土手を這い上がり土手の頂上から転げ落ちる様に反対側の斜面を降りた。
暫く動け無かったが助かったのだ。引き返して来た中で私が一番最後の様であった。殆どの兵士は状況不利と感じ、部落の中に入らず米も取らずに引き上げたのだった。結局三人が米を取って来ただけで成果は上がら無かった。それよりもここで叉三人の戦友が帰らぬ人と為った。
一昨日斥候に一緒に行った中村伍長は気合いの入った鋭敏な下士官で、今日も真っ先に民家に入り掛け階段を四段程上がった時、家の中から小銃で顔面を真面に撃たれ「ウ、ウ、ウ」と言って倒れ、階段をゴロゴロと転げ落ちた。見ると払暁(ふっぎょう)の薄明りの中で、ベットリと赤い血で顔が覆われ衣服も真っ赤に染まって居る。
だが彼は「わしは、もうお終いだ」「これを頼む、これは、瀬澤中尉の遺品の拳銃だ、持って帰って呉れ、頼むぞ」と言い終わら無い内にグッタリと為ってしまったと言う事である。
上官瀬澤小隊長の遺品をこれ程迄に大切に思い、内地の御家族に届け無ければなら無いと責任を感じて居たのである。
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私は通信班で中隊本部に一時所属して居た縁で中村伍長には特に親しく可愛がって貰って居り、又一昨日の斥候に出た時も彼が敵の自動車の音を感知し敏速な対応をしたお陰で命拾いをしたばかりなのに。その彼が今日はもう帰らぬ人と為ってしまった。彼を思い心の中を大粒の涙が流れ、運命の変化の大きさに戦いた。
中村国男伍長は中隊本部で川添曹長の下で、人事の事等中隊の重要な仕事を手伝って居り、将来が大いに嘱望(しょくぼう)されて居ただけに一層哀れで悲しかった。
この時縄田(なわた)兵長ともう一人の兵士も遣られたのか逃げられ無く為ったのか分から無いが、帰って来無かった。結局三名が戦死し糧秣はホンの僅かしか徴発(ちょうはつ)出来ず、大失敗に終わり中隊はスゴスゴと山へ引き揚げた。糧秣の確保掠奪(りゃくだつ)も死に物狂いで容易では無かった。
つづく
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一兵士の戦争体験 その16
その16
◆編上靴(へんじょうか)は破れ服も傷(いた)む
敵の監視偵察が厳しいので、我が軍が平地で遮蔽物の無い所を転進する時は夜間行動をせざるを得無かった。実際は退却であるが退却と言う言葉を避け、少しでも勇気を出す様に奮起を促し転進と称したのである。
山の中で大きな樹木や林に覆われて居て、敵の偵察機から見え無い所を進むの為らば昼でも好いが、それでも敵は我が軍の行動を不思議に好く知って居た。
偵察機以外にも、日本軍が及びもつか無い観測計器や電波兵器を持って居たのでは無かろうか。ともあれ毎夜の行軍が続き、ポウカン平野を西から東へ曲りくねった道を横断するのだ。
長い期間の行軍の為、履いて居た編上靴(へんじょうか)も遂に口を空けてしまった。修理出来る様な状態では無いので捨て、取って置きの地下足袋(じかたび)に履き替えた。この地下足袋が最後の履物だ。長くは持た無いかも知れ無いが、大切に履かなければなら無い。これが駄目に為れば、もう行軍には着いて行け無い。これこそ生命の綱である。
各人は持ち物を段々捨ててしまい、背負い袋の中には携帯テント一枚、上衣一枚、貴重品若干、靴下に入れた米、小さな缶に入れたガピーか塩を持ち、背負い袋の外には飯盒を括り付け肩に水筒を掛けて居た。
ガピーとは小魚と味噌状の物を煮詰めた日本では塩辛の様なビルマの食物である。着ている物は肌着の襦袢(じゅばん)か七部袖のシャツ、ふんどし、袴下(こした)(ズボン)、帽子、地下足袋で、どれも垢と土に汚れた破れ掛けの物ばかりであった。
帯革(たいかく・バンド)には帯剣(たいけん)と手榴弾をぶら下げて居た。小銃を持って居ない兵隊もボツボツ増え始めて居た。
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元気な兵士は、軽機関銃を担いで居り軽機関銃用の弾薬を携行して居る兵隊も居たが、人員も減少し兵器も少なくなり戦闘能力は当初の三分の二位に為っていたと思われる。
聯隊長戦死の後は、足を負傷して居るが金井塚大尉が聯隊の中の最右翼で聯隊本部に所属して居るので、取り敢えず一時指揮をする形と為って居た。担架に乗せられての行軍は歩く者以上に苦しいものがあったと思われる。
平坦な幅広い道で無いので担架は前後左右に揺れ滑り落ちそうに為ったことだろう。でも担いで貰っているので文句も言えず辛抱するより仕方が無い。気丈夫な現役軍人の誇りと責任感で、担架の上から配下兵士に大きな声で命令と激励をされて居た。間も無く植田大尉が聯隊長代理と為って采配(さいはい)を揮(ふる)われたのである。
◆担架(たんか)搬送と耳鳴り
担架と言っても竹で応急に拵えたお粗末なもので担ぎ難いものであった。乗って居る方も決して乗り心地の好い代物では無かっただろう。その頃戦闘で歩け無くなった兵士は第一中隊でも五、六人も居たと思うが、見捨てて行くに忍びず担架で搬送するのだが一人を四人で担架に乗せ運んで居た。
交替要員も必要であり、その人の小銃等の兵器を代わりに携行しなければなら無いので、都合直接十人の兵隊に負担が掛かった。それで居て乗せられて居る者も楽では無く不自由で、大変な気の遣い様であったと思われる。或いはイッソ死んだ方が増しだと思ったかも知れない。
私も毎日毎晩担架を担いだ。それ迄に体力の弱って居る体で担架を担ぐ事は大変な苦痛であった。こちらが担架に乗せて貰いたい位疲労して居るのに担がねばなら無いとは辛いが、でも仕方が無い。
この頃から私は耳鳴りが始まった。担架を担いで居ると耳がガンガンと鳴る。今までに経験した事のない現象で気持ちが悪く、脈拍と同じ間隔でガンガンと継続して耳が鳴って居る。偉い事に為ってしまった。自分の声も耳に響いて来る。
しかし、小休止と為り地面に横になり転がると止まるのである。起きて歩き出すと直ぐに又ガンガンと耳に響いて来る。栄養失調と貧血から来るのだろうと思うが、この耳鳴りは段々酷くなり聴力も衰えたように感じた。
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この苦しさ耐え難さは、本人で無いと分から無いと思う。耳鳴りがする。そんなに弱った自分の体、だが、担架は担がねば為ら無い。一人の負傷者の生命を助ける為に多くの人の労力が提供されたが、気が着くと担架を担いで居る人が次々に衰弱し落伍したり動け無く為り出して居た。
この様にして私の班や隣の班の田中上等兵、松下上等兵、山本上等兵が行軍から脱落して行った。担架を担ぐ為に自分の方が先に弱り落伍して死ぬ羽目に為り犠牲に為った兵はどんな気持ちがしたであろうか。担架に乗せられて居る人も耐えられ無い思いであった事だろう。
段々担架を担ぐ人の心も荒み、戦友である担架に乗って居る人を罵(のの)しり手荒く扱う様に為って来た。私も落伍し隊列から離れてしまえば担架を担が無くて済むと思った。でも落伍したらもう道が分ら無く為り結局は自分自身が本当に行方不明者に為り死を選ぶ事と為るのが目に見えて居る。
十日ばかりこの様な形での夜の行軍が続いた。知ら無い土地をグルグル曲がり、細い道を辿り岡を越え林を潜り東へ向かって転進した。広いポウカン平野の間を道なき道が、勝手に作られ勝手に消えながら部落間を繋いでいる。
その頃のある日、一晩中歩き小休止も何回かした。夜が明けてみると前夜出発した部落に回り回って帰って来て居るのである。先導者が悪いのかそれとも敵の警備を避けて居る内にそう為ったのか知れ無いが、ビルマの道はそれ程までに分かり難い。
夜の闇の中の事とは言え、不思議な事が起きるもので滑稽でもあり全くの骨折り損であった。ポウカン平野の中程、ポウカンと言う部落らしい所に集結した。そこには、我々より早く来ていた部隊も待って居り、又、同じ輜重隊でも第一アラカンからイラワジ河をパトン方面で渡河し他の経路を通って来た中隊本部や第三小隊等も居り合流した。
久し振りに会う戦友達も以前の張り切った姿は無く、疲労し悄然(しょうぜん)として居り垢に塗れて居た。それに上官や古年兵や同年兵が負傷したとか戦死したとか言う様な暗い話ばかりであった。兎に角、ここポウカンには可成り大きな兵力が集まった事に為った。その部落に四、五日滞在し、食料等を収集する事にしたがもう軍票は役に立た無い。日本軍が負けて居るから軍票が役立た無い事を現地人は好く知って居る。
従って部落民の米等を失敬するより他に生きる道が無い。勿論部落民は逃げて居り米と塩を捜した。椰子の実やマンゴーの実を捥ぎ取り鶏を捕まえ豚を殺して食べた。「ビルマ人よ許して呉れ、我々はもうどうする事も出来ないのだ、飢え死にしそうなんだ」と心の中で呟きつつ。
兵兵団も内地を出発した時は一万六千人だったが、この時点で約八千人に減って居た様だ。それにしてもこんなに大勢がこんな部落に集結したのだからこの土地の現地人には気の毒で大変迷惑な事である。米を取られ塩を取られ全てを失った上に、日本軍が通り過ぎた後には沢山の屍と動け無い瀕死の兵隊が残されて居るだけであった。
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◆浜田分隊長倒れる
ポウカン平野を幾日も掛けて歩きペグー山系に差し掛かる頃、浜田政夫分隊長がマラリヤに罹(かか)り竹の杖に縋りやっと歩いて居る。一歩踏み出し、私に「小田よ、儂、もうアカン」と言った。私は「幾ら苦しくても、頑張って行こうよ」と答え励ました。
しかし私も弱って居り大きい声は出無かった。体力が衰えると声も出無く為る。この頃から、声が弱々しく為りヒイー ヒイーと言うばかりである。か細い声しか出無い状態はこの頃から始まり、終戦後半年位続いたが、体力の回復と共に自然に治った。重病人が弱々しい声しか出せ無いが、それと同じである。
浜田分隊長は続けて「悪性のマラリヤに罹り、飯が食え無い。それに下痢をするんだ。高い熱が出て下らないんだ。儂も弱ったワイ」と言った。気の毒に思うがどうにも助けて挙げる方法が無い。今まで、凛々(りり)しい顔立ちの彼、軍人らしい気合いの入った立派な人柄、そんな人がよもやこんな姿に為ろうとは想像も出来なかった。
「小田よ、マラリヤは苦しいのう。今迄こんなに苦しいものとは思わ無かった。儂も分隊長として皆が病気した時元気を出す様にと気合いを入れて居たが、自分が為ってみると好く分かるのう。元気を出そうにも高熱でチットモ飯が食え無いのだからのう」「水ばかり飲みたくて仕方が無い」「何処かにマンゴーかパパイヤでも無いだろうか。バナナなら食えるかも知れ無いが」と問い掛けて来る。
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でも、何処の部落にも果物など残って居なかった。もし在ってもこの高熱では喉を越さ無いだろう。もう一度元気に為りたいと願う彼、何としてもこの病気から抜け出さなければなら無いと祈る彼、しかし日に日に衰弱して行く現実と迫り来る不吉な思いに悩まされた事であろう。
普通キリリとした服装で立派な下士官、模範的な態度のこの人がもうそんな風情は無く、破れた靴を履き小銃も帯剣も既に無く、真っ黒に汚れた背負袋をダラリと肩に掛けて居るのみで、帯革(バンド)に自決用の手榴弾が泥だらけになりブラ下っているだけである。
もう誰も、自分自身の体を運ぶのに精一杯で他人に手を貸す程の余力も体力も持って居なかった。自力で治り自力で歩くしか無かったのである。
それから数日後、誰からとも無く「浜田分隊長も自決されたのだ」と聞いた。私に取り直属上官の一人が又亡く為られてしまった。寂しく悲しい事が次々と起きるが感傷に耽(ふけ)って居る間は無かった。豪雨に打たれながら、遅れ無い様にと膝を没する深い泥濘(でいねい)の道を歩かなければならなかった。
ここで、編成当初からの第二小隊第四分隊の分隊長で、浜田分隊長の前任者であった藤野禎久軍曹の事についても記して置く。彼は細かい事に動じ無い豪快な性格と勇気を持った方であり、体格も好く力持ちであった。
ビルマに到着後間も無く他の部署へ転属されたので好く分から無いが、シッタン河渡河前に敵飛行機の爆撃を受け壮烈な戦死をされたと風の便りに聞いた。輜重車の車輪が六十キロ位あっただろうが、それをウエイトリフテングの選手の様に頭上に差し上げ、ワッハ、ワッハと高笑いされて居た豪快な姿が思い出され懐かしくもあり、戦争の残酷さ火薬の恐ろしさを痛感させられたのである。
前途有為(ぜんとゆうい)なピカピカの青年がこの様に帰らぬ人に為ってしまうとは、戦争とは言え誠に残念な事である。藤野分隊長にも父母兄弟があり又思いを寄せる美しい人があったかも知れ無いのに、戦いは全てを引き裂いてしまう。非情なものである。
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・・・お二人の在りし日の颯爽としたお姿を思い浮かべて、ご冥福をお祈りする。遠い昔の事であるが、記憶は今ここに蘇(よみがえ)って来てまるで夢を見て居る様である。ワープロを打つ手を休め暫し夢を追う。
◆命を繋(つな)ぐ為に
米が手に入ら無い。だが籾のママならあった。ビルマでは籾のまま保存して置き必要に応じて白米にする。その方が保存し易く味も失われ無い。それにそれだけの精米機械が無いからでもあろう。この部落で籾を見つけたが臼が無い。
現地人が隠してしまったのか幾ら探しても無い。仕方が無いので鉄帽に入れて帯剣の頭で搗いて玄米にし、更に白米にしたのだが一升(約一・五キロ)の白米を得様とすれば半日仕事である。
疲れ弱り果てた体には大変な労働であるが、食う為には省く事は出来ない。ヤッと搗き終わり正午頃飯盒炊事に掛かった。 その時敵機の襲撃である。皆出来るだけ煙を出さ無い様に心掛け遮蔽した場所に居るのに、敵は何処から監視して居るのか分ら無いが突如超低空で襲って来た。
この時も三機が西の山を這(は)う様に飛来したかと思う間も無くパリ パリ パリと激しく機銃掃射(きじゅうそうしゃ)をして来た。田舎道に沿うて弾着が土煙を上げて行く。息つく暇も無く三機が次から次にと撃って来る。
ヒュンーと言う機体が空気を切る音が聞こえる。家の細い柱の陰に隠れたり床下に隠れたりするが弾丸はそんな物は容赦無く突き破る。小型爆弾だろうかドーンと言う大きな音がする。民家は好く乾いて居り、直ぐに燃え始める。襲撃が終わるのを待って米と装具と飯盒を持って部落を出て行った。
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同じ班の妻鹿(めが)殿夫上等兵はこの襲撃で持ち物を失い装具を焼かれ困って居た。以後の転進や生命維持に大変支障を来した事と思うがどうしただろうか。
昔から鍋・釜提げて行くと言うが、生きて行くには飯盒と水筒が一番大切な物だ。これを打ち抜かれたり持って逃げる余裕が無く為ったりして置き去りにしなければなら無い場合もある。それに米と靴が大切であるが、激しい攻撃に遭えばどうする事も出来ない。これが戦場であり負け戦の現実である。
もうこの頃裸足(はだし)の人も少し出始めて居た。 追われ追われ乍らも、米を少しでも手に入れて置く事、そして何かを食う事である。暇さえあれば地べたに転がり寝て体力の消耗を防ぎ、体力を貯えて置く事である。
もう顔を洗う元気も無く、勿論体も洗って居らず汚れたまま二ヵ月以上が過ぎて居る。体も服も汗と泥だらけで、見すぼらしい姿であり乞食より汚く憐れで臭(くさ)い臭いを漂わせ、痩せたドブ鼠(ねずみ)と言った有様である。
皆んなが臭くて煤(すす)だらけの顔をして居るのだからお互いには構わないが、将に死に掛けた乞食の憐れな行列であった。
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◆牛を食うて
食う事に付いて小まめな小山上等兵が、アソコの部落に牛が居るから取りに行こうと言い出した。皆疲れ切って牛を執りに行く元気のある者は居ない。ベッタリと地べたに座り込んで鉄帽に籾を入れて帯剣の頭で搗いて白米にしたり、又別の人は先日取って来たたばこの葉を紙に巻いて吸うて居る者も居た。
しかも皆半病人で動く事も億劫である。しかし、小山上等兵は頻りに「オイ行こう、牛を取りに行こう、取って食おうではないか、牛を食うたら又元気がでるぞ、サア行こう」と強く誘った。
六人ばかりが腰を持ち上げ私も仲間に入った。目指す部落に着くと柵(さく)の中に赤毛の小柄な牛が一頭ポッンと立って居た。現地人が逃げる時急いだのでそのまま置いて行ったものらしい。
牛は我々が行ったので、これは只事で無いと感じたのか柵の中を急ぎ逃げ回り出した。ユツクリ捕まえる余裕は無い。どうせ殺すのだから射殺する事にし早速三丁の銃で頭を狙った。この可愛らしい目をした牛が逃げ出した。しかし、一瞬立ち止まった処を狙い撃った。何の罪も無い牛、可哀相だと思ったが仕方が無い。
パン パン パンと銃声が辺りに響いた。牛は倒れた。一瞬足をピク ピクと震わせたが、そのままで動か無く為った。今まで生きて居た牛を皆で殺してしまったのだ。誰かが、ダァーで首の皮を切り開いて頚動脈(けいどうみゃく)から血が好く出る様にした。皆で牛の腹に上がり踏み付けると首から鮮血が流れ出た。生(なま)暖かく泥(どろ)りとしたものであった。
これ以上部落内に長く居る事は無用、敵が何時来るか分から無いし現地人が反感を持ち逆襲して来るかも分から無い。大急ぎで四本の足を切り離し皆で担いで林の中に引き返した。
後足を担いだがズッシリと重く肉量を感じた。皆掛りで料理をしてありたけの飯盒で煮た。その他は携行出来、保存が効く様に焼肉にした。
当時、肉を沢山食べる機会が無かったので、しゃぶり着く様に食べたが、マラリヤで熱を出して居る者は他人が喜んで食べて居るのを見るだけで食べられ無い。それも憐れであった。
その夕方から肉を食べた者の半数が急に下痢を始めた。我々の胃腸は美味しいものを長い間食べて居らず何時もヒモジイ状態にあったので、急にカロリーの高いものを沢山食べるとこうした異常な現象を起こす事に為るのだが、誰もそんな事は考えず空腹を満たして居た。
体力を着ける為に食べたのがいけ無かった。私も沢山食べた為か腹が痛み下痢が始まった。米と塩又はガピーしか食べて居ない私の胃腸に肉は強過ぎたのだろう。一日三回の下痢が始まった。 ナカナカ治ら無い。今まで以上に体が弱って来る。あの時牛肉を食べ無かったらこんな下痢に為ら無くて済んだのに、と悔んでみても後の祭りだ。夜事の行軍は下痢の体には厳しく辛かった。
痔の手術をして居る私は、括約筋(かつやくきん)が弱く下痢が漏れそうに為り堪え切れ無く為る。と言って自分だけ立ち止まりお尻をハグリ用を足すと五、六百メートル遅れ取り逸れてしまう事に為る。汚い話だが、少々漏らし乍ら歩く事もあった。下半身便に汚れて臭く気持ちが悪い事この上も無い。
もうポウカン平野の真ん中より大分ぺグー山系に近い所に来て居り、やがて山系に辿り着けそうである。北へ向かったり南へ向かったり、時には西に向かって細い道を辿りながらも、総体的には東へ向かって転進して居る。
千人もの部隊が細い道を行くのだから、前の方で何が起きて居るか分からずに、進み方が早く為ったり遅く為ったり、止まったり、駆け足に為ったりし苦難な行軍である。兎に角前の人に遅れ無い様に、前の人を見失わ無い様に歩くだけである。
愈々、雨期に入った様で、厚い雲に覆われた夜道は一層暗く足元も見え無い。大粒の雨が降って来て段々激しく為る。携帯テントを頭から被り雨を凌(しの)ぐ。しかし、行軍は続く。テントを通して雨が体を濡らし下半身は何時もズブ濡れで冷たい。
南国と言ってもこんな時は寒い。凸凹の激しい道を探る様にして一歩一歩と歩く。冷たい雨が頬を流れる。涙は流して居ないが歯を食い縛り頑張った。足に豆が出来様が傷つこうが歩く事以外に生きる道は無いのだ。
一人取り残されれば全てはお終いである。餓死するか自決するか現地人に見つかり殺されるか助けられるか、又、敵英印軍に見つかり殺されるか助けられて捕虜(ほりょ)に為るかのドレかである。
色々の場面が予想されるが、先ず殆どは死神に取り着かれるだろう。何にしても当時の軍人為らば、生きて捕虜の辱(はづか)しめを受けたく無い、絶対に捕虜に為ってはいけ無いと教育をされて来て居た。
捕虜には絶対なら無い覚悟であっても自決する時を失い意識不明の状態の時、敵に見つかれば仕方が無い。弾に当たり取り残され動け無いまま昏睡状態の時、敵軍に見つかり気が付いたら英印軍の病院のベッドの上で生きて居た場合もあり、夫々特殊な事情の元にあった事を容認しなければなら無い。
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闇夜の行軍でも、豪雨の中でも時に十分間位の小休止があるが、ザーザーと降り仕切る雨の中では腰を降ろして休む訳には行かず立ったままである。しかし疲労が激しい時には、地面が濡れて居てもヘタヘタとシャガミ込んでしまうのである。
どうせ濡れており同じ事である。しかし休むとお尻から濡れて来て寒く為る。尻や下腹部が濡れるのが一番応える。 私の下痢は段々と回数が増え小休止の度に行かねば為ら無い様に為った。近くの草原に駆け込みピイピイ遣るのだ。碌に食べて居ないのに出るのは、どう為って居るのか、体内に貯えられた養分が引き出されるのだろう。
その内に便が粘液性に為り、絞る様な便通に悩まされる。この絞る様な便意はアメーバー赤痢の前兆だとか。栄養不足の体は段々痩せ衰え一層弱って来る。
下痢止めの薬等何処にも無く自力で直すより方法が無い。下半身を暖めれば好いのだろうが、雨に濡れ川を渡る事が屡々で何時も濡れて居たのでは治りようが無い。
以前からの耳鳴りがゴー ゴー ゴーと相変わらず続いて居る。耳の鼓膜も可笑しい。人が話し掛けて来ても声が鼓膜に跳ね返り可笑しい響きがする。自分で話す声が耳に響きガン ガンして耳も可笑しく為ってしまった。どうすれば好いのだ。
もう、この頃は負傷者を担架で運ぶ事を止めた。運ぶ人が次々に死んだり落伍してしまい犠牲が大きいので止めたのだ。そう為ると足を遣られ歩け無ければ自分で処置をし無ければなら無く為り自決者が増加して来た。
つづく
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一兵士の戦争体験 その15
その15
◇イラワジの大河を渡る
◆最後の渡し船
もうカマの渡河地点が近いと聞いて歩きに歩いた。それも工兵隊が渡して呉れるのは今日限りで明日からはどう為るか分から無いとの事である。やっと夜九時頃渡河点に辿り着いた。
暗いから辺りの景色や佇まいは好く分から無い。舟着場近くの平坦地で約一時間程待つと「乗船せよ」の命令が来て早速十トン位と思える船に乗船した。思いの他早く乗船出来て運が好かった。
昼は船を河岸にある大きな木の下に遮蔽して敵機に発見され無い様にし、夜陰に紛れて渡河行動を起こすのだが、その任務に当たる工兵隊の兵隊も大変な事と察する。それにボロ船だから兵隊の輸送の外に船の修理もしなければなら無い。
兎に角船に乗れた。闇の中で対岸は見え無いが、河幅三〜四キロと言われている大きな河だ。今は乾期の終わりで水嵩(みずかさ)も少ないが雨期の最盛期には凄い水量だろう。船は木造の古いものだが、対岸に向かって案外スムーズに進み始めた。
夜中なので敵の襲撃も無く無事に大河イラワジを西から東へ渡る事が出来た。実に幸運、最後の渡し船にスレスレで間に合い有難い事だ。工兵隊の人達に感謝し拝む様な気持ちで「有難う」と言った。明日以後はどう為る事か?
後で聞いた処では、次の日の昼間に敵に酷く遣られ船で渡れたのかどうか判然とせず、それ以後カマの渡河地点に遅れて来た兵士達は置いてきボリになり、自力で渡るより他に方法が無かったとの事。乾期とは言え大河で流れもあり自力の筏(いかだ)で泳いで渡った人は極く僅かしか無かった様である。
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◆渡河後
大河左岸の近くの山林に我が師団(兵兵団)主力は一週間程前から集結して居り、我々が追い着いてから後も更に五、六日間、後続の人が一人でも多く追及して来る事を待って居た。
私には自分の所属する輜重隊の事、それも第一中隊の第二小隊辺りの小範囲の事しか目の前に見え無いが、この山麓一帯に師団の大部隊が息を殺して待機して居たのである。
復員後戦争史を読むと、我々がこうしてイラワジ河をやっと渡河した頃にマンダレーやメイクテイラーで激戦が展開され、ビルマ方面軍総司令部は既にラングーンを放棄し東方のモールメンに退却して居り、兵兵団のみが西地区に取り残された形に為って居たのを知った。
ここに集結する迄は輜重聯隊(一◯一二◯部隊)も幾つかに分かれて行動して居た為、瀬澤小隊以外の集団がどんな戦闘や苦労をして来たか知る由も無かったが、ここで太田貞次郎聯隊長が五月十一日サンタギーの戦闘で敵弾に当たり壮烈な戦死をされたのを聞いた。
その時聯隊長の当番をして居た花田上等兵も同時に戦死した由。彼は私と一緒に二月召集で入隊した同年兵で、気持ちの良いニコニコとした人で入隊までは国鉄の職員をして居たと話して居た。 叉その頃の戦闘で、編成以来昨年十一月まで我々第一中隊の中隊長だった金井塚聯隊本部付き大尉も足を負傷され歩け無く為って居るのだと言う暗いニュースも聞いた。更に戦況が大変悪い事も知らされ、その上誰々が行方不明に為ったとか誰々が自決したのだと言う様な話ばかりだった。
渡河の翌日午後、我々が昨夜乗船したカマの渡河点を遠望すると、敵の迫撃砲(はくげきほう)が射ち込まれたり戦車砲も撃って来て居る様だ。砲声が聞こえ砂塵が舞い上がって居る様子が大河を隔てて遥かに見える。
昨夜船に乗れ無かった人達や、今日カマに到着したばかりの兵士達が撃たれて居るのだろう。どう遣ってこれを逃れどう遣って船も無く筏で大河を渡る事が出来るのだろうか。気の毒に思い心配で堪らない。
翌々日の夜明けに四、五人の兵が渡って来た。その人達の話によると、カマの部落は徹底的に飛行機と戦車で遣られたが、どうにか昼間は山の茂みに隠れ皆で筏を組み、夜に為り裸でそれに掴まり命からがら泳ぎ着く事が出来た。大変な目に遭ったとの事だった。
今我々の部隊が集結して居る所はイラワジ河の東側(左岸)で、山が多く敵の支配が浸透して居らず、しかも大きな木に覆われた地点で絶好の隠れ場所であった。そのお陰で幸いに飛行機からも地上部隊からも攻撃をされずに数日を過ごす事が出来た。
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◆雨期のはしり
その二日ばかり後の夜中に大雨が降って来た。五月中旬だが半年の乾期から雨期に入り掛けたのであろう。雨足は凄く真っ暗闇の中だから、どれだけどの様な降り方をして居るのか好く分から無いが、兎に角物凄い降り方である。「バケツの水をひっくり返す」処では無く、風呂の底が抜けた様で息も出来ない位だ。それに我々は全くの露天である。
夕方までは、夜中に大雨が降る事など全然警戒して居なかったので、大雨の襲来に対し慌てて携帯テントを頭から被り装具を中に入れ、ジッと小さく縮んで居るだけである。
携帯テントは、約百二十センチ四角の布で防水も悪く為って居り雨が浸み込んで来る。身に纏った一枚のこの布にバサバサ、バリバリと雨の固まりが打ちつけて来る。雨の固まりは体を揺さぶる様である。南国とは言っても夜中の豪雨は体温を奪い寒気がして来る。
私は岩の上に場所を取り眠って居たが、その岩にしがみ付いて堪えた。そこは周囲より少し高かったので幸い水浸しには為ら無かった。しかし米を入れた雑嚢が携帯テントの外に食み出て居たので中の米が濡れてしまった。暗闇の中、何処がどう為って居るのか分から無い。以後腐った米を食わねばならぬ羽目に為ったのだ。
篠(しの)突く様な雨は二、三時間も続いただろうか。動けば濡れるだけであり、携帯テントを体に巻き着け固い貝の様に為って長い時間辛抱した。その間誰も何も言わ無い。声を出しても雨の音で聞こえ無い。
真暗闇の中であり、何処が高い所か何処が低い所かどんな傾斜に為って居て何処が谷で水が酷く流れて居るのか見当が着か無い。装具を確り体に着けていなかったり少し低い所や谷がかった所に居た兵隊の中には、米も飯盒も装具までも大雨による激流に押し流されてしまった者も居た。
我々と行動を共にして居た衛生兵は、闇夜の鉄砲水で衛生用具や薬を入れた包帯嚢(ほうたいのう)を流されてしまい、夜が明けてから幾ら探しても何も無く茫然(ぼうぜん)として居た。幸い我々兵士は一人も流されずに済んだが、兎に角大変な被害を被った。どうする事も出来ない程物凄く激しい雨であった。
夜が明け、昼過ぎてから炊事をする為の水を汲みにイラワジ河の岸に行ってみると、濁り水が河一杯に為り流れて居た。昨日迄は筏で泳いで渡って来た人が僅かでもあったが、この水量ではもうどうする事も出来ない。何にしても私達はギリギリの最後の日に船で渡る事が出来たのだ。誠に幸運と言う他は無い。
ふと見ると、河岸に近い所をビルマ人の死体が流されて居た。後手に縛られ大きく風船の様に膨れ上がってプカプカと浮いて流れて居る。水死した場合男はうつ伏せに為り女は仰向けに為ると聞いて居たが、その通りにこの男もうつぶせに為って流れて居た。
英国軍に協力した為なのか、日本軍に協力した為か知る由も無いが、何れにしてもビルマが戦場に為って戦いに巻き込まれ、こんな憐れな姿になり上流から流され全く可哀相な事である。
誰に罪があるのだろうか?後手に縛られた上、河に流されなければならない時の心境や如何に。彼も一個の人格を持つ人間だ。全てを覚悟したとは言え生への執着は強くあったであろうに。仏教国であり、仏心の強い人達だろうが、どう思いどう諦めたのだろうか?戦争と言う名の元にこんな悲劇が繰り返されて好いのだろうか。
集結待ちの時限が来たのか?それとも大河の増水で落伍者の渡河の可能性が無く為りもうこれ迄と判断したのか、この集結地を離れて夜間行軍が始まった。
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◆ポウカン平野を東へ転進
この平野は大河イラワジの東に沿い南北におよそ三百キロ、東西におよそ六十キロ幅でペグー山系迄に広がる大平野である。その間を南北に幹線道路のプローム街道が貫きラングーンからプロームそして更に北へ延びマグエからエナンジョン方面に延びて居る。我々はそれを横断して東へ進むのだ。
初日は夕方からの出発だった。薄暗く為ったと・ば・り・の中を、木立の間や草原を縫う様に進んだ。谷や小川を渡り山道を登ったり下ったり、ウネウネと曲がった道無き道を前を行く人の姿を頼りに歩いた。二時間ばかり歩いた処で行軍は止まってしまった。今日はもう前進しないとの事だがその理由は分から無い。前方に敵が現われて進め無いのか?それとも道が分から無く為ったのだろうか。
その翌日は林の中をドンドン東の方向に進んだ。多くの兵士が一列縦隊に為って居るのだから3.9784キロにも為って居るのだろう。前方で何が起きて居ても分から無い。時折パンパンと銃声がして曳光弾(えいこうだん)が飛んで行く。
この辺りは木が生えて居ない緩い起伏の草原である。星明かりで岡の稜線が見通せる程度であった。こんな隠れる場所の無い所なので夜間しか動け無いのである。
幾晩か歩いたある夜の行軍中「陶山(すやま)大隊前へ」「陶山大隊早く来い」との命令が取継がれ前から後方へ向かって伝達されて来た。最後尾を守って居る陶山大隊は早く先端へ来て任務に着けと言う事らしいが、最前線と最後尾では数キロも離れて居て闇夜の細い道を進んで居るのだからそう簡単に最前部の発令者の所へ追い着け無いだろう。
大変だナアと感じ印象に残った。後日聞いたのだが、陶山大隊は岡山歩兵聯隊の第一大隊であり、この様に我々輜重隊は他の部隊と相前後して転進して居たのである。
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◇プローム街道を突破
◆感激の横断
行動を開始してから三、四日目、この日も夕方薄暗く為った頃から行軍を始めた。今夜はプローム街道を横切るのだから、敵に見つから無い様特に注意しなければなら無いとの命令が伝えられた。前の人に遅れ無い様に一生懸命に歩いた。遅れると闇の中方向が分から無く為ってしまうのだ。
その頃は既に主要道路は敵英印軍の勢力下にあり、昼間はプローム街道を敵軍の戦車や車両が往来して居た。その警戒線を見つから無い様に敵の警戒の手薄な所を夜の闇に紛れて突破し、東のポウカン平野に逃げ込まなければなら無いのだ。
真夜中頃に、アスファルトで舗装した幅十二メートル程のプローム街道へ出た。成るべく音のし無い様に静かに素早く渡った。感激の一瞬であった。前の部隊も後の部隊も幸いに見つから無いで無事突破する事が出来た。
我が師団は当時敵を攻撃するのでは無く、出来るだけ犠牲を出さ無い様敵中を潜り抜けビルマ方面軍の主流が居る東南端のサルウイン地区へ転進するのが目的であった。横断後も歩き続けた。少しでも早く本街道より遠くへ離れる様に小休止も無しに懸命に歩いた。
水筒の水はとっくに無く為り喉はカラカラでどうしようも無い。やがて夜が明けた。そこは大きい木の無い草原で所々に背丈位の灌木があった。私は草の露で喉を潤そうと試みたが宿った露は余りにも薄かったので上手く採(と)れ無かった。朝の内は敵の飛行機も来ないだろうと予測して、遮蔽出来る大きい木や林のある場所を見つける為日が高く為るまで歩き続けた。
結局適当な場所が無く、干からびた砂漠の様な感じの所に大休止する事に為った。所々に背丈程の葉の少ない刺(とげ)の木状の物がありその下に休む場所を求めた。太陽が昇るとこんな物は日陰の役を果たさずカンカラ干し同様だ。それに敵機からも見つかり易い場所である。
ここでも先ず水を探したが、乾いた大地の何処にも水は無い。好くもこんな所に大休止したものだと腹立たしく思ったが仕方の無い事。それでも誰かが一キロ程先にある井戸を見つけて来た。有難い!こんな兵隊が居るから助かる。
井戸は小さかったが充分に間に合う。飯盒で米を研ぎ、水を張り水筒に水を一杯入れて帰って来た。橋本上等兵が弱って居るので彼の分と自分の分を用意した。米の手持ちも乏しいので粥にし、イザ食べ様とすると彼は白湯(さゆ)は飲んだがマラリヤの熱に冒され米粒は喉を通らず一口も食べる事が出来ない。
「僕は食べられ無いから、小田お前食え。お前の米は先日、水に浸かって腐って居るだろうから俺のを食って呉れ」と言う。私の米は腐り掛けて居たが米の腐ったのは当たら無いと聞いて居たので、臭(くさ)い臭いがして旨く無かったが自分の飯盒から少しの粥を流し込む様にして食べた。
「橋本お前、食わないと今晩の行軍に着いて行けないぞ。何でも腹に入れて置けば好いんだ。お粥だから流し込めば好いんだ」と促した。彼は「ウン」と言っただけだ。暫くして「バナナでもあれば食えるかも知れないが」と言った。バナナを欲しがる彼の気持ちがいじらしいが、この荒野の何処にも食べられそうな物は無い。
例え高熱で粥が喉を越さ無くても、本当に梨やリンゴやバナナもあり設備の整った病院があり、特効薬の注射でもあるならば悪性マラリヤでも治る事があるかも知れない。
しかし、敗走の道を毎日辿っているこの状況では本人が頑張るより他に方法が無いのだ。患者に与えるマラリヤの良い薬は何処にも無い。衛生兵の手持ちも既に無く先日の大雨で衛生兵は包帯嚢(ほうたいのう)を失っており処置無しの状況である。お互いに在るのは一握りの腐り掛けの米と一匙(さじ)の岩塩のみである。
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◆橋本上等兵との別れ
夕方に生り曇り空の間に夕日が残る頃出発した。橋本君も皆と一緒に歩き始めた。日が暮れて段々暗く為って来た。特に暗い夜で前の人に着いて行か無いと道がどう為って居るのか分から無い。広い広い草原で立ち木は無く、道と言っても人が通ったので道に為って居るというものでクネクネと曲がっている。
路面は見えず、闇の中に前の人の姿を要約写し出す様にして歩く有様だ。私は夜、目が他の人よりやや弱く苦労した。何時も一番前を行く人はどんな良い目をして居るのだろうか?又、昼、偵察に行った人はこんな目印も無い野原の中の道を覚えて置き、夜部隊を誘導するのだが素晴らしい方向感覚を持って居る人だと感心し不思議に思う事が屡々あった。
二時間ばかり歩いて小休止と為った。私も崩(くず)れる様に地面に腰を降ろす。転がる様に横に寝てしまう兵士も居た。暫くして出発と為り闇の中に立ち上がり歩き始めたが、間も無く「橋本が居ないぞ」と誰かが言い出した。しかし長い隊列は容赦無く暗闇の中を進んで行く。
私達の小隊もこの流れの一部と為って最後尾辺りを行くだけで、誰も止まる訳に行かない。引き返し、先程休憩した所まで探しに行きたい気持ちはあるが、そう為ると闇夜の中で方向を失い自分も落伍者に為ってしまう恐れがあるのでどうにも為らない。
躊躇(ちゅうちょ)して居る頃、後方遠くで「ドーン」と言う手榴弾(てりゅうだん)の爆発音がした。
橋本上等兵が遣ったのだろうか。誰も悲痛の余りものも言わず黙ったままで闇の中を遅れまいとして歩いた。
私は最も仲良しの戦友を失ってしまった。これ迄にも何回か落伍しそうに為った彼を浜田分隊長が激励し皆で支え合い、彼も好くここまで頑張って来たのに到頭こんな事に為ってしまった。惜しい人を亡くしてしまったがどうする事も出来ない。嗚呼(ああ)!
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◆遺家族に思いを寄せて
私は終戦後、満二年間そのままビルマに抑留され昭和22年7月に復員して郷里に帰った。早い内に橋本君の御家族へ戦死された時の状況をお知らせしたいと思って居た。しかし私のみが生還し彼は帰って居ないのだから御家族にしてみればどの様に思われるか分からず、自分としては何も後ろめたい事がある訳では無いがナカナカ足が重く、又余計に悲しませる事に為るのではないか等と考え込みお訪ねする事を躊躇(ちゅうちょ)して居た。
その上、戦後の混乱期であり、自分の仕事の事や我が家の再建に追われても居た。昭和24年頃に為り思い切って御魂へのお祈りと御家族への報告を兼ねて訪問した。私は小学生の頃、高梁(たかはし)に住んで居たので土地勘(とちかん)があり、それに彼からも高梁の商店街や彼の家の在る場所までも聞いて居たので直ぐに分かった。
亡き戦友橋本梶雄君のお父さん、お母さん、奥さん、小学二年生位の男の子が居られた。内地を出る前に姫路の貨物駅に見送りに来て居られたこの四人のお姿を私は好く覚えて居たので特別に気の毒で為ら無かった。
見送りに来て居た時この男の子は、やっと歩ける位であったと記憶して居たが、この六年の間に大きく為って居た。橋本君が健在で復員されて居るなら好いのに、一番大切な主人、大黒柱が欠けて居る家庭は何と言ってもヒッソリと淋しく見受けられる。彼は仏壇に祀られて居るのである。
特に、ご両親は私の父や母に比べると十二、三才も老いて居られ、六十七、八歳だろうか働く事も出来ず一層愛おしく感じた。奥様は彼の年から推測して私より六、七才上で三十二、三才だろうか、専売局に勤務されて居る由であったが、女一人で家族を養って行かねばならないし大変な事だと思った。
彼が召集を受ける迄は大阪で大会社の若手エリートとして社宅に住み何不自由の無い生活をされて居たのだろう。何時の頃からか郷里の高梁に帰って生活し銃後(じゅうご)を守って居たが、彼の戦死公報が届いてからは一家の柱と為らざるを得ず働きに出られたのだろうと想像する。
一家の主人を失った遺族の家がどんなに苦しいか、淋しくどんなに困られて居るか、他人からは想像するだけで到底測り知れず私自身ここに書きながらも想像の範囲に過ぎず真実は分から無い。
戦争はこの様に寂しく悲しい家庭を数限り無く作ったのである。為政者は大きな罪を作ったのではなかろうか。 誰がその苦痛を償う事が出来るか。国は後年僅(わず)かばかりの年金を支払う様にしたが、それで遺家族の測り知れ無い悲しみや苦痛を癒(いや)せるものでは無い。
私は、仏前に合掌して在りし日を偲んで居ると涙が滲み出て仕方が無かった。彼と私との親密な戦友としての当時の事を御家族にお話をし、梶雄君が立派な兵士であった事や素晴らしい人間性を見せて頂いた事をお伝えし最後の決別の事を率直にお話した。
御家族にしてみれば、そんな話は聞いた方が好いのか聞か無い方が好いのか分から無い。聞けば余計に辛く為り聞いたとて生きて帰る訳でも無いのだが、私としては自分の心の中に何時までも残して置くよりは真実をお伝えした方が好いと思いお話をした。
子供さんには未だ好く分から無かったかも知れ無いが、ご両親様や奥様は我が子を我が夫を偲び涙された事だろう。
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その当時何回かお訪ねし心からお慰め申し上げて居たが、次第にご無沙汰する様に為り歳月も過ぎた。その間一粒種の息子さんも優秀なお父さんの血を受け継がれ、お母さんの慈愛に満ちた訓育を受け阪大を卒業され大手銀行に就職されて居ると聞いて居た。更に歳月が二十年三十年と過ぎる内に失礼な事だが忘れ掛けて居た。
平成七年秋、終戦後五十年に当たり私は戦争についての思い出の作文をある本の中に載せて頂いた。その作文の中に橋本上等兵の事を書いたので、昔を思い出しその本を御家族の橋本家へお送りした。それを機に奥様と二、三回電話でお話し、お墓参りを約束し平成八年春の連休に高梁のお家へ久々にお邪魔した。
故人梶雄さんの息子さんは大阪方面の自宅から、郷里の高梁にワザワザ若奥さん同伴で私に会う為に帰って来て居られ、梶雄さんの弟さんも津山からワザワザ来て待って居られた。全く久し振りにお目に掛かった奥様も年を召されて居たが元気で迎えて下さった。
息子さんは五十歳半ば前かとお見受けしたが、それこそ立派な紳士と為って居られた。全く世代は交替して居た。私も七十四歳、時は大きく流れて居た。
平成五年十一月に私は二回目のビルマ慰霊の旅をして、世界で三つの指に数えられるビルマで有名な古代仏教遺蹟パガンを訪ねた。その霊地の原野から拾って来た握り拳大の化石が家にあったので、この時それを持参して差し上げお供えした。それは、彼の遺骨は無く、戦後家族の元に届けられた英霊の木箱の中には、ビルマのものかどうかも分から無い砂が入って居たと聞いて居たからである。遅きに失したが遺骨の代わりにでもして頂けたらと思い持参した。
又彼が最期の日にバナナが欲しい、バナナなら食べられるかも知れないと言って居た事が脳裏に焼きついて居たのでバナナをお供えした。
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又この二回目のビルマのイラワジ河の中洲で慰霊祭をした時に慰霊文を捧げたが、それと同じものを朗読して供養申し上げた。それから、梶雄さんの立派な人と為りや戦地での勤務振りをお伝えした。
戦地で私と共に内地を懐かしみ、私に写真を見せて呉れ乍ら妻子の事を話されて居た事をお伝えした。五十一年経過していても、思い出話をして居ると屡々涙が滲んで来た。彼は私の心の中に生きて居るのだ。
何れにしても父戦死の後、母と子は懸命に生きこの様に成功されて居るが幼少年期は涙の出る様な日々であった事だろう。今も尚、その後遺症が残って居ないとは言え無い。その傷跡が深く残った家庭、幾らか時の流れと共に癒されたかも知れ無いが遺家族の人生はどんなに大きく左右された事だろう。全国で幾十万幾百万の方々が遺族として如何なる苦痛に耐えて来られたかを心しなければ為らない。
ここに橋本さんの事を詳しく書いたが、これは私が直面した一事例である。私が特にお世話に為った上官や親しかった戦友達、多くの方々のお墓参りを逐一すべき処を身勝手ながら彼を私の心の中で代表とし参拝させて頂いた様な事であり、お許し願いたいと思う。
つづく
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