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2018年06月28日

一兵士の戦争体験 その15


 その15


 ◇イラワジの大河を渡る

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 ◆最後の渡し船

 もうカマの渡河地点が近いと聞いて歩きに歩いた。それも工兵隊が渡して呉れるのは今日限りで明日からはどう為るか分から無いとの事である。やっと夜九時頃渡河点に辿り着いた。
 暗いから辺りの景色や佇まいは好く分から無い。舟着場近くの平坦地で約一時間程待つと「乗船せよ」の命令が来て早速十トン位と思える船に乗船した。思いの他早く乗船出来て運が好かった。
 昼は船を河岸にある大きな木の下に遮蔽して敵機に発見され無い様にし、夜陰に紛れて渡河行動を起こすのだが、その任務に当たる工兵隊の兵隊も大変な事と察する。それにボロ船だから兵隊の輸送の外に船の修理もしなければなら無い。

 兎に角船に乗れた。闇の中で対岸は見え無いが、河幅三〜四キロと言われている大きな河だ。今は乾期の終わりで水嵩(みずかさ)も少ないが雨期の最盛期には凄い水量だろう。船は木造の古いものだが、対岸に向かって案外スムーズに進み始めた。
 夜中なので敵の襲撃も無く無事に大河イラワジを西から東へ渡る事が出来た。実に幸運、最後の渡し船にスレスレで間に合い有難い事だ。工兵隊の人達に感謝し拝む様な気持ちで「有難う」と言った。明日以後はどう為る事か?

 後で聞いた処では、次の日の昼間に敵に酷く遣られ船で渡れたのかどうか判然とせず、それ以後カマの渡河地点に遅れて来た兵士達は置いてきボリになり、自力で渡るより他に方法が無かったとの事。乾期とは言え大河で流れもあり自力の筏(いかだ)で泳いで渡った人は極く僅かしか無かった様である。

 

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 ◆渡河後

 大河左岸の近くの山林に我が師団(兵兵団)主力は一週間程前から集結して居り、我々が追い着いてから後も更に五、六日間、後続の人が一人でも多く追及して来る事を待って居た。
 私には自分の所属する輜重隊の事、それも第一中隊の第二小隊辺りの小範囲の事しか目の前に見え無いが、この山麓一帯に師団の大部隊が息を殺して待機して居たのである。

 復員後戦争史を読むと、我々がこうしてイラワジ河をやっと渡河した頃にマンダレーやメイクテイラーで激戦が展開され、ビルマ方面軍総司令部は既にラングーンを放棄し東方のモールメンに退却して居り、兵兵団のみが西地区に取り残された形に為って居たのを知った。
 ここに集結する迄は輜重聯隊(一◯一二◯部隊)も幾つかに分かれて行動して居た為、瀬澤小隊以外の集団がどんな戦闘や苦労をして来たか知る由も無かったが、ここで太田貞次郎聯隊長が五月十一日サンタギーの戦闘で敵弾に当たり壮烈な戦死をされたのを聞いた。
 その時聯隊長の当番をして居た花田上等兵も同時に戦死した由。彼は私と一緒に二月召集で入隊した同年兵で、気持ちの良いニコニコとした人で入隊までは国鉄の職員をして居たと話して居た。 叉その頃の戦闘で、編成以来昨年十一月まで我々第一中隊の中隊長だった金井塚聯隊本部付き大尉も足を負傷され歩け無く為って居るのだと言う暗いニュースも聞いた。更に戦況が大変悪い事も知らされ、その上誰々が行方不明に為ったとか誰々が自決したのだと言う様な話ばかりだった。

 渡河の翌日午後、我々が昨夜乗船したカマの渡河点を遠望すると、敵の迫撃砲(はくげきほう)が射ち込まれたり戦車砲も撃って来て居る様だ。砲声が聞こえ砂塵が舞い上がって居る様子が大河を隔てて遥かに見える。
 昨夜船に乗れ無かった人達や、今日カマに到着したばかりの兵士達が撃たれて居るのだろう。どう遣ってこれを逃れどう遣って船も無く筏で大河を渡る事が出来るのだろうか。気の毒に思い心配で堪らない。

 翌々日の夜明けに四、五人の兵が渡って来た。その人達の話によると、カマの部落は徹底的に飛行機と戦車で遣られたが、どうにか昼間は山の茂みに隠れ皆で筏を組み、夜に為り裸でそれに掴まり命からがら泳ぎ着く事が出来た。大変な目に遭ったとの事だった。
 今我々の部隊が集結して居る所はイラワジ河の東側(左岸)で、山が多く敵の支配が浸透して居らず、しかも大きな木に覆われた地点で絶好の隠れ場所であった。そのお陰で幸いに飛行機からも地上部隊からも攻撃をされずに数日を過ごす事が出来た。

 

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 ◆雨期のはしり

 その二日ばかり後の夜中に大雨が降って来た。五月中旬だが半年の乾期から雨期に入り掛けたのであろう。雨足は凄く真っ暗闇の中だから、どれだけどの様な降り方をして居るのか好く分から無いが、兎に角物凄い降り方である。「バケツの水をひっくり返す」処では無く、風呂の底が抜けた様で息も出来ない位だ。それに我々は全くの露天である。

 夕方までは、夜中に大雨が降る事など全然警戒して居なかったので、大雨の襲来に対し慌てて携帯テントを頭から被り装具を中に入れ、ジッと小さく縮んで居るだけである。
 携帯テントは、約百二十センチ四角の布で防水も悪く為って居り雨が浸み込んで来る。身に纏った一枚のこの布にバサバサ、バリバリと雨の固まりが打ちつけて来る。雨の固まりは体を揺さぶる様である。南国とは言っても夜中の豪雨は体温を奪い寒気がして来る。
 私は岩の上に場所を取り眠って居たが、その岩にしがみ付いて堪えた。そこは周囲より少し高かったので幸い水浸しには為ら無かった。しかし米を入れた雑嚢が携帯テントの外に食み出て居たので中の米が濡れてしまった。暗闇の中、何処がどう為って居るのか分から無い。以後腐った米を食わねばならぬ羽目に為ったのだ。

 篠(しの)突く様な雨は二、三時間も続いただろうか。動けば濡れるだけであり、携帯テントを体に巻き着け固い貝の様に為って長い時間辛抱した。その間誰も何も言わ無い。声を出しても雨の音で聞こえ無い。
 真暗闇の中であり、何処が高い所か何処が低い所かどんな傾斜に為って居て何処が谷で水が酷く流れて居るのか見当が着か無い。装具を確り体に着けていなかったり少し低い所や谷がかった所に居た兵隊の中には、米も飯盒も装具までも大雨による激流に押し流されてしまった者も居た。
 我々と行動を共にして居た衛生兵は、闇夜の鉄砲水で衛生用具や薬を入れた包帯嚢(ほうたいのう)を流されてしまい、夜が明けてから幾ら探しても何も無く茫然(ぼうぜん)として居た。幸い我々兵士は一人も流されずに済んだが、兎に角大変な被害を被った。どうする事も出来ない程物凄く激しい雨であった。

 夜が明け、昼過ぎてから炊事をする為の水を汲みにイラワジ河の岸に行ってみると、濁り水が河一杯に為り流れて居た。昨日迄は筏で泳いで渡って来た人が僅かでもあったが、この水量ではもうどうする事も出来ない。何にしても私達はギリギリの最後の日に船で渡る事が出来たのだ。誠に幸運と言う他は無い。
 ふと見ると、河岸に近い所をビルマ人の死体が流されて居た。後手に縛られ大きく風船の様に膨れ上がってプカプカと浮いて流れて居る。水死した場合男はうつ伏せに為り女は仰向けに為ると聞いて居たが、その通りにこの男もうつぶせに為って流れて居た。
 英国軍に協力した為なのか、日本軍に協力した為か知る由も無いが、何れにしてもビルマが戦場に為って戦いに巻き込まれ、こんな憐れな姿になり上流から流され全く可哀相な事である。
 誰に罪があるのだろうか?後手に縛られた上、河に流されなければならない時の心境や如何に。彼も一個の人格を持つ人間だ。全てを覚悟したとは言え生への執着は強くあったであろうに。仏教国であり、仏心の強い人達だろうが、どう思いどう諦めたのだろうか?戦争と言う名の元にこんな悲劇が繰り返されて好いのだろうか。

 集結待ちの時限が来たのか?それとも大河の増水で落伍者の渡河の可能性が無く為りもうこれ迄と判断したのか、この集結地を離れて夜間行軍が始まった。

  

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 ◆ポウカン平野を東へ転進

 この平野は大河イラワジの東に沿い南北におよそ三百キロ、東西におよそ六十キロ幅でペグー山系迄に広がる大平野である。その間を南北に幹線道路のプローム街道が貫きラングーンからプロームそして更に北へ延びマグエからエナンジョン方面に延びて居る。我々はそれを横断して東へ進むのだ。
 初日は夕方からの出発だった。薄暗く為ったと・ば・り・の中を、木立の間や草原を縫う様に進んだ。谷や小川を渡り山道を登ったり下ったり、ウネウネと曲がった道無き道を前を行く人の姿を頼りに歩いた。二時間ばかり歩いた処で行軍は止まってしまった。今日はもう前進しないとの事だがその理由は分から無い。前方に敵が現われて進め無いのか?それとも道が分から無く為ったのだろうか。

 その翌日は林の中をドンドン東の方向に進んだ。多くの兵士が一列縦隊に為って居るのだから3.9784キロにも為って居るのだろう。前方で何が起きて居ても分から無い。時折パンパンと銃声がして曳光弾(えいこうだん)が飛んで行く。
 この辺りは木が生えて居ない緩い起伏の草原である。星明かりで岡の稜線が見通せる程度であった。こんな隠れる場所の無い所なので夜間しか動け無いのである。

 幾晩か歩いたある夜の行軍中「陶山(すやま)大隊前へ」「陶山大隊早く来い」との命令が取継がれ前から後方へ向かって伝達されて来た。最後尾を守って居る陶山大隊は早く先端へ来て任務に着けと言う事らしいが、最前線と最後尾では数キロも離れて居て闇夜の細い道を進んで居るのだからそう簡単に最前部の発令者の所へ追い着け無いだろう。
 大変だナアと感じ印象に残った。後日聞いたのだが、陶山大隊は岡山歩兵聯隊の第一大隊であり、この様に我々輜重隊は他の部隊と相前後して転進して居たのである。

 

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 ◇プローム街道を突破

 ◆感激の横断

 行動を開始してから三、四日目、この日も夕方薄暗く為った頃から行軍を始めた。今夜はプローム街道を横切るのだから、敵に見つから無い様特に注意しなければなら無いとの命令が伝えられた。前の人に遅れ無い様に一生懸命に歩いた。遅れると闇の中方向が分から無く為ってしまうのだ。

 その頃は既に主要道路は敵英印軍の勢力下にあり、昼間はプローム街道を敵軍の戦車や車両が往来して居た。その警戒線を見つから無い様に敵の警戒の手薄な所を夜の闇に紛れて突破し、東のポウカン平野に逃げ込まなければなら無いのだ。
 真夜中頃に、アスファルトで舗装した幅十二メートル程のプローム街道へ出た。成るべく音のし無い様に静かに素早く渡った。感激の一瞬であった。前の部隊も後の部隊も幸いに見つから無いで無事突破する事が出来た。
 我が師団は当時敵を攻撃するのでは無く、出来るだけ犠牲を出さ無い様敵中を潜り抜けビルマ方面軍の主流が居る東南端のサルウイン地区へ転進するのが目的であった。横断後も歩き続けた。少しでも早く本街道より遠くへ離れる様に小休止も無しに懸命に歩いた。

 水筒の水はとっくに無く為り喉はカラカラでどうしようも無い。やがて夜が明けた。そこは大きい木の無い草原で所々に背丈位の灌木があった。私は草の露で喉を潤そうと試みたが宿った露は余りにも薄かったので上手く採(と)れ無かった。朝の内は敵の飛行機も来ないだろうと予測して、遮蔽出来る大きい木や林のある場所を見つける為日が高く為るまで歩き続けた。
 結局適当な場所が無く、干からびた砂漠の様な感じの所に大休止する事に為った。所々に背丈程の葉の少ない刺(とげ)の木状の物がありその下に休む場所を求めた。太陽が昇るとこんな物は日陰の役を果たさずカンカラ干し同様だ。それに敵機からも見つかり易い場所である。
 ここでも先ず水を探したが、乾いた大地の何処にも水は無い。好くもこんな所に大休止したものだと腹立たしく思ったが仕方の無い事。それでも誰かが一キロ程先にある井戸を見つけて来た。有難い!こんな兵隊が居るから助かる。

 井戸は小さかったが充分に間に合う。飯盒で米を研ぎ、水を張り水筒に水を一杯入れて帰って来た。橋本上等兵が弱って居るので彼の分と自分の分を用意した。米の手持ちも乏しいので粥にし、イザ食べ様とすると彼は白湯(さゆ)は飲んだがマラリヤの熱に冒され米粒は喉を通らず一口も食べる事が出来ない。

 「僕は食べられ無いから、小田お前食え。お前の米は先日、水に浸かって腐って居るだろうから俺のを食って呉れ」と言う。私の米は腐り掛けて居たが米の腐ったのは当たら無いと聞いて居たので、臭(くさ)い臭いがして旨く無かったが自分の飯盒から少しの粥を流し込む様にして食べた。
「橋本お前、食わないと今晩の行軍に着いて行けないぞ。何でも腹に入れて置けば好いんだ。お粥だから流し込めば好いんだ」と促した。彼は「ウン」と言っただけだ。暫くして「バナナでもあれば食えるかも知れないが」と言った。バナナを欲しがる彼の気持ちがいじらしいが、この荒野の何処にも食べられそうな物は無い。

 例え高熱で粥が喉を越さ無くても、本当に梨やリンゴやバナナもあり設備の整った病院があり、特効薬の注射でもあるならば悪性マラリヤでも治る事があるかも知れない。
 しかし、敗走の道を毎日辿っているこの状況では本人が頑張るより他に方法が無いのだ。患者に与えるマラリヤの良い薬は何処にも無い。衛生兵の手持ちも既に無く先日の大雨で衛生兵は包帯嚢(ほうたいのう)を失っており処置無しの状況である。お互いに在るのは一握りの腐り掛けの米と一匙(さじ)の岩塩のみである。

 

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 ◆橋本上等兵との別れ

 夕方に生り曇り空の間に夕日が残る頃出発した。橋本君も皆と一緒に歩き始めた。日が暮れて段々暗く為って来た。特に暗い夜で前の人に着いて行か無いと道がどう為って居るのか分から無い。広い広い草原で立ち木は無く、道と言っても人が通ったので道に為って居るというものでクネクネと曲がっている。
 路面は見えず、闇の中に前の人の姿を要約写し出す様にして歩く有様だ。私は夜、目が他の人よりやや弱く苦労した。何時も一番前を行く人はどんな良い目をして居るのだろうか?又、昼、偵察に行った人はこんな目印も無い野原の中の道を覚えて置き、夜部隊を誘導するのだが素晴らしい方向感覚を持って居る人だと感心し不思議に思う事が屡々あった。

 二時間ばかり歩いて小休止と為った。私も崩(くず)れる様に地面に腰を降ろす。転がる様に横に寝てしまう兵士も居た。暫くして出発と為り闇の中に立ち上がり歩き始めたが、間も無く「橋本が居ないぞ」と誰かが言い出した。しかし長い隊列は容赦無く暗闇の中を進んで行く。
 私達の小隊もこの流れの一部と為って最後尾辺りを行くだけで、誰も止まる訳に行かない。引き返し、先程休憩した所まで探しに行きたい気持ちはあるが、そう為ると闇夜の中で方向を失い自分も落伍者に為ってしまう恐れがあるのでどうにも為らない。
 躊躇(ちゅうちょ)して居る頃、後方遠くで「ドーン」と言う手榴弾(てりゅうだん)の爆発音がした。
橋本上等兵が遣ったのだろうか。誰も悲痛の余りものも言わず黙ったままで闇の中を遅れまいとして歩いた。

 私は最も仲良しの戦友を失ってしまった。これ迄にも何回か落伍しそうに為った彼を浜田分隊長が激励し皆で支え合い、彼も好くここまで頑張って来たのに到頭こんな事に為ってしまった。惜しい人を亡くしてしまったがどうする事も出来ない。嗚呼(ああ)!

  

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 ◆遺家族に思いを寄せて

 私は終戦後、満二年間そのままビルマに抑留され昭和22年7月に復員して郷里に帰った。早い内に橋本君の御家族へ戦死された時の状況をお知らせしたいと思って居た。しかし私のみが生還し彼は帰って居ないのだから御家族にしてみればどの様に思われるか分からず、自分としては何も後ろめたい事がある訳では無いがナカナカ足が重く、又余計に悲しませる事に為るのではないか等と考え込みお訪ねする事を躊躇(ちゅうちょ)して居た。
 その上、戦後の混乱期であり、自分の仕事の事や我が家の再建に追われても居た。昭和24年頃に為り思い切って御魂へのお祈りと御家族への報告を兼ねて訪問した。私は小学生の頃、高梁(たかはし)に住んで居たので土地勘(とちかん)があり、それに彼からも高梁の商店街や彼の家の在る場所までも聞いて居たので直ぐに分かった。

 亡き戦友橋本梶雄君のお父さん、お母さん、奥さん、小学二年生位の男の子が居られた。内地を出る前に姫路の貨物駅に見送りに来て居られたこの四人のお姿を私は好く覚えて居たので特別に気の毒で為ら無かった。
 見送りに来て居た時この男の子は、やっと歩ける位であったと記憶して居たが、この六年の間に大きく為って居た。橋本君が健在で復員されて居るなら好いのに、一番大切な主人、大黒柱が欠けて居る家庭は何と言ってもヒッソリと淋しく見受けられる。彼は仏壇に祀られて居るのである。
 特に、ご両親は私の父や母に比べると十二、三才も老いて居られ、六十七、八歳だろうか働く事も出来ず一層愛おしく感じた。奥様は彼の年から推測して私より六、七才上で三十二、三才だろうか、専売局に勤務されて居る由であったが、女一人で家族を養って行かねばならないし大変な事だと思った。
 彼が召集を受ける迄は大阪で大会社の若手エリートとして社宅に住み何不自由の無い生活をされて居たのだろう。何時の頃からか郷里の高梁に帰って生活し銃後(じゅうご)を守って居たが、彼の戦死公報が届いてからは一家の柱と為らざるを得ず働きに出られたのだろうと想像する。

 一家の主人を失った遺族の家がどんなに苦しいか、淋しくどんなに困られて居るか、他人からは想像するだけで到底測り知れず私自身ここに書きながらも想像の範囲に過ぎず真実は分から無い。
 戦争はこの様に寂しく悲しい家庭を数限り無く作ったのである。為政者は大きな罪を作ったのではなかろうか。 誰がその苦痛を償う事が出来るか。国は後年僅(わず)かばかりの年金を支払う様にしたが、それで遺家族の測り知れ無い悲しみや苦痛を癒(いや)せるものでは無い。

 私は、仏前に合掌して在りし日を偲んで居ると涙が滲み出て仕方が無かった。彼と私との親密な戦友としての当時の事を御家族にお話をし、梶雄君が立派な兵士であった事や素晴らしい人間性を見せて頂いた事をお伝えし最後の決別の事を率直にお話した。
 御家族にしてみれば、そんな話は聞いた方が好いのか聞か無い方が好いのか分から無い。聞けば余計に辛く為り聞いたとて生きて帰る訳でも無いのだが、私としては自分の心の中に何時までも残して置くよりは真実をお伝えした方が好いと思いお話をした。
 子供さんには未だ好く分から無かったかも知れ無いが、ご両親様や奥様は我が子を我が夫を偲び涙された事だろう。

  

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 その当時何回かお訪ねし心からお慰め申し上げて居たが、次第にご無沙汰する様に為り歳月も過ぎた。その間一粒種の息子さんも優秀なお父さんの血を受け継がれ、お母さんの慈愛に満ちた訓育を受け阪大を卒業され大手銀行に就職されて居ると聞いて居た。更に歳月が二十年三十年と過ぎる内に失礼な事だが忘れ掛けて居た。
 平成七年秋、終戦後五十年に当たり私は戦争についての思い出の作文をある本の中に載せて頂いた。その作文の中に橋本上等兵の事を書いたので、昔を思い出しその本を御家族の橋本家へお送りした。それを機に奥様と二、三回電話でお話し、お墓参りを約束し平成八年春の連休に高梁のお家へ久々にお邪魔した。
 故人梶雄さんの息子さんは大阪方面の自宅から、郷里の高梁にワザワザ若奥さん同伴で私に会う為に帰って来て居られ、梶雄さんの弟さんも津山からワザワザ来て待って居られた。全く久し振りにお目に掛かった奥様も年を召されて居たが元気で迎えて下さった。

 息子さんは五十歳半ば前かとお見受けしたが、それこそ立派な紳士と為って居られた。全く世代は交替して居た。私も七十四歳、時は大きく流れて居た。
 平成五年十一月に私は二回目のビルマ慰霊の旅をして、世界で三つの指に数えられるビルマで有名な古代仏教遺蹟パガンを訪ねた。その霊地の原野から拾って来た握り拳大の化石が家にあったので、この時それを持参して差し上げお供えした。それは、彼の遺骨は無く、戦後家族の元に届けられた英霊の木箱の中には、ビルマのものかどうかも分から無い砂が入って居たと聞いて居たからである。遅きに失したが遺骨の代わりにでもして頂けたらと思い持参した。
 又彼が最期の日にバナナが欲しい、バナナなら食べられるかも知れないと言って居た事が脳裏に焼きついて居たのでバナナをお供えした。

  

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 又この二回目のビルマのイラワジ河の中洲で慰霊祭をした時に慰霊文を捧げたが、それと同じものを朗読して供養申し上げた。それから、梶雄さんの立派な人と為りや戦地での勤務振りをお伝えした。
 戦地で私と共に内地を懐かしみ、私に写真を見せて呉れ乍ら妻子の事を話されて居た事をお伝えした。五十一年経過していても、思い出話をして居ると屡々涙が滲んで来た。彼は私の心の中に生きて居るのだ。
 何れにしても父戦死の後、母と子は懸命に生きこの様に成功されて居るが幼少年期は涙の出る様な日々であった事だろう。今も尚、その後遺症が残って居ないとは言え無い。その傷跡が深く残った家庭、幾らか時の流れと共に癒されたかも知れ無いが遺家族の人生はどんなに大きく左右された事だろう。全国で幾十万幾百万の方々が遺族として如何なる苦痛に耐えて来られたかを心しなければ為らない。

 ここに橋本さんの事を詳しく書いたが、これは私が直面した一事例である。私が特にお世話に為った上官や親しかった戦友達、多くの方々のお墓参りを逐一すべき処を身勝手ながら彼を私の心の中で代表とし参拝させて頂いた様な事であり、お許し願いたいと思う。

 つづく

 

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