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2018年06月28日
一兵士の戦争体験 その14
その14
◆敵陣地を攻撃 戸部班長、藤川上等兵戦死
今ここに居るのは、木庭(こば)少将が率いる木庭兵団を主体とし歩兵、野砲、輜重の一部等が一緒に為り約千人の集団の様である。好く分から無いが、我らの退路は断たれて居り敵は既に堅固な陣地を構えて居る。
袋の鼠(ふくろのねずみ)として置いて、空から或いは地上機甲(きこう)部隊で殲滅(せんめつ)を図って居る様である。我々は何としてでも退路を遮断して居る敵の陣地を突破し無ければなら無いのである。
この敵陣を攻撃する為、私はマラリヤで弱り疲労して居たが小隊長から命令された。どんなに、フラフラして居ても従わ無ければ為ら無い。輜重隊から十名が選ばれ、その他の聯隊から来た者も含めて総員約二十名が歩兵の田中中尉の指揮に入り敵陣地の攻撃に行く事に為った。
敵は前方の森のお寺に陣を敷いて居る。我々は静かにこちらの林の間を縫って近づいて行った。林を抜けるとそこに川があった。先ず水筒に水を入れ元気を出して進むべく、二人が川に下りると敵が急に撃って来た。パリ パリ パリと機関銃の猛射である。
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ここは敵から見え無いだろうと思って居たが、敵は好く監視して居たのか、こちらがそこに出るや否や素早く弾を浴びせて来た。先の二人は慌てて引き返し我々も皆窪(くぼ)みに体を隠し伏せた。そしてジリジリと後に退き、水の事は諦めて大きく迂回(うかい)して攻める事にした。
灌木の間を抜けて行くとそこに通信線が敷いてあった。それは敵の陣地と我々が今進んで居る道を挟んで、反対側の山の上の陣地を連絡してあるものの様であった。後で分かったが山の上には迫撃砲の陣地が構築され睨んでいたのだ。中尉はこの通信線を切断する様命じ誰かが切断した。
敵陣地の方に少し進み分散、散開、着剣、弾込め、安全栓を開放して一斉に攻撃を開始した。雑木が点々と生えて居り我らの攻撃を適当に遮蔽(しゃへい)するのに役立つ様に思えた。
私も走ったり伏せたり小さい灌木の間に体を隠したり、又敵陣地目掛けて前進し走ったり伏せたりしながら突進した。だが、敵の陣地がある森は分かるが、完全に模擬(もぎ)遮蔽(しゃへい)して居るので愈々何処に敵の兵隊が居るのか分から無いので照準を決めて撃つ処までに為ら無い。
そうする内に敵の機関銃が撃って来た。これは自動小銃なのだが連続発射して来るので我々は機関銃かと思ったのだ。
日本軍は自動小銃を持って居ないのでそんな兵器がある事を知ら無かったのだが。ドッ、ドッ、ドッ、パリ、パリ、パリ、ヒュー、ヒュー、ヒューと弾が飛んで来る。しかし、敵陣地攻撃を命じられて居るので、弾の間を縫う様にして進み攻撃して行った。
私の左手を突進していた戸部班長が「やられた!」と叫び転んだ。チラリと見ると右腕から赤い血潮が流れ出て居る様であった。「うむ」と苦しそうな声を出した。それを横目でちらっと見ただけで私は尚も進んだ。
次の瞬間、これも私の左側を突進して居た藤川上等兵が「アッ、きんだまを遣られたッ」と大きな声で叫んだ。「天皇陛下万歳!」と言いながら灌木(かんぼく)の間に倒れ込んだ。
彼は支那事変の経験もあり、中隊の中でも一番のモサで為らして居た古年兵。荒れ馬もこの人の前に行けば大人しく為る程の歴戦の勇士で私の隣の班で初年兵からは恐れられて居た人だ。私は彼の側に行って介抱(かいほう)したり見届ける余裕も無く、敵弾の中でどうする事も出来無かった。灼熱の太陽がギラギラと照り着けて居た。感傷に耽る場合では無く攻撃前進あるのみだ。
◆悲喜こもごも、大変な一日
私は、やおら立ち上がり敵陣目掛けて尚も突進した。十歩ばかり駆け出した時、危険を感じ右前方に滑り込む様に伏せた。その瞬間敵弾が三〜四発飛んで来て、私が走つて居た姿に照準を合わせて居たのだろう、伏せした私の三十センチ左の地面に土煙を挙げた。間一髪、十分の一秒の差で助かった。
更に止(とど)めの射撃か確認の為か、もう一度同じ地点に三発撃ち込んで来た。慌ててはいけない、動くと見付かるので伏せしたままじっと七、八分間辛抱した。長い時間に感じた。
その後は伏せたまま後へ後へと這(は)いながら退いて行った。二百メートルばかり退いた所に大木があり、その木陰に体を横たえて休んだ。彼我(ひが)の弾丸の音も静かに為った様だ。
フト見ると、地面に大豆が生えて双葉に為った様に柔らかい芽が生えて居る。この数日間、飯もお粥も殆ど食べられず、マラリヤで弱って居るにも関わらず攻撃隊員と為り激しく戦った後だけに疲れ果てて居り、喉が乾いて堪ら無いので潤(うるお)いを得たく若芽の水分を吸収したい衝動に駆られた。
この芽が毒かどうか分から無いが、この大木から落ちた種が生えたもので、大豆の双葉に似て居るから大丈夫だろうと判断した。
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もしこれが毒で腹痛でも起こせばそれ迄の事と決心し、引き抜いて口に入れてみた。噛んでみたが別に悪くは無さそうだ。一本二本と抜いて食べた。美味しいと言うのでは無いが不味くも無い。水分が喉を僅(わず)かに潤して呉れ心地好かった。マラリヤで熱があるのに不思議にこの双葉は水分が多いので、噛(か)んで居る内に喉を越し食べられた。次々と二十本ばかり食べた。
遠くで「集合」と叫ぶ声がありその方に行くと、指揮官の田中中尉は腕を負傷し三角布で縛(しば)り吊って居た。数人が負傷して居り痛々しかった。又何人かが戦死して居り皆元気なく悄然(しょうぜん)として居た。
戸部班長を誰かが抱えてそこ迄来て居た。私の直接の班長であり真面目なお人柄、それに私には特に目を掛けて下さった方で近寄って「元気を出しなさい」と励ました。
虚ろな目で私を見て居たが返事は無かった。顔は青ざめ頭から頬を伝って赤い血が細く流れて居た。手と腕の方も遣られて居たのか服を通して血が滲み出て居た。その内、ガックリと頭を落とし息を引き取られた。今も、その時の蒼白な顔を思い出す。岡山県阿哲(あてつ)郡の出身だと聞いて居た。国に忠誠を誓いながら旅立たれたのである。
藤川上等兵の最期を見届けた兵士によると、草叢(くさむら)に倒れ込んだ後「藤川確りせい」と声を掛けたが「苦しい苦しい」と悶(もだ)えながら息を引き取られた由である。この方達は日本の発展を願い、国家に対しての忠誠心を確り持って居られ立派な最期を遂げられたのだが、本当に頭が下がる思いがする。皆奮戦死闘の攻撃をしたが、攻撃隊は無残に破れ敵の陣地は攻略出来なかった。
真昼中に、敵が陣地を敷いて居る所を正面より攻撃する事は難しい事である。敵の兵力がどれだけあるか知ら無いが陣地を真面に正面攻撃した事は無謀であったと、後で思った。しかし、上からの命令は直ぐに攻撃し突破せよだったのだろう。夜を待って夜間攻撃でもするのが賢明だったかも知れ無いが、後から気が着くだけの事である。
結局主力部隊約千人は大きく迂回(うかい)して転進するより仕方無く、アレコレと退路の捜索(そうさく)をして居た。その頃敵の偵察機が二機上空に現われた。そこは大きい遮蔽物の無い所で、僅かに高さ二〜三メートルの竹薮(たけやぶ)が点々と団子状に生えて居るだけで、空から見れば兵士の姿は丸見え、若干の馬と車もあり隠れる訳に行かない。敵機二機は小癪(こしゃく)にも超低空で旋回する。充分偵察して帰る積りだろう。
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敵機は一発も撃た無かった。友軍からも一発も撃た無かった。この頃は敵機を撃っても無駄である事を皆知って居た。敵機は暫くして去って行った。この偵察の結果が報告されると敵の大火砲や爆撃機に遣られると心配した。
しかし、その日は空襲が無くて助かった。太陽は容赦無く照り着け、皆埃(ほこり)と汗に汚れ顔は泥の様であり汗がギラギラと光って居た。
私は、幸いに食べた豆の双葉のエキスが効いたのか、マラリヤの熱が少し下がった様で凌(しの)ぎ易く感じる。不思議な事だがこの双葉が解熱剤に為った様である。汗が出て居り何にも増して嬉しく有難い事だ。
汗が出れば熱を発散させ次第に好く為るだろう。しかし、ここ十日間ばかり体は過労とマラリヤで弱り、食事も殆どして居ないので息絶え絶えである。一日も早く完全にマラリヤから治り体力を回復し元気にならねばならない。
今回のマラリヤは、タンガップで半年前、悪性マラリヤをして居たので幾らか免疫に為って居たのか、或いは幾らか軽い種類のものであったのか、兎に角行軍行動や激戦中ながら助かった。これも幸運、紙一重で命が繋がったのだ。又、私が身を伏せるのが十分の一秒遅かったなら、三発の弾丸が私の体を貫き更に追い打ちの三発が止めを差して居たであろう。
敵は、走りながら前進して居た私を狙い撃ったが、瞬間早く右手前方に伏せしたので私の体が過ぎた後、僅(わず)か三十センチの所を撃ち砂煙をあげたのだ。
不思議で為ら無いが、食べられるものか毒を持ったものか何か分から無いが、渇(かわ)きを癒(いや)す為決心して食べた豆の双葉がマラリヤの解熱効果に役立ったらしい。神様のお加護(かご)を二重にも三重にも頂いた運の強い日であった。
大変な一日も日暮れに為り、煙を出さ無い様にして飯盒で炊事をした。マラリヤの熱が少し下がって来たのか久し振りにお粥が喉を越した。「嬉しい。粥が僅かでも腹に入れば元気に為れるのだ」と希望が湧いて来た。
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◆平田上等兵、萱谷(かやたに)上等兵落伍
夕方に為り出発と為った。平田上等兵が「もう駄目だ、着いて行け無い」と言って立上がって来ない。「そんな事ではいかん、シッカリセイ」と浜田分隊長が叱った。彼はスゴスゴとやっと立ちあがった。もう、小銃も持っていなく帯剣も外していた。持ち物は飯盒と水筒だけで杖を突きながらトボトボと歩き始めた。
西の空が夕焼けして居る。子供の頃「ゆうやけ こやけで ひがくれて やあまあの おてらの かねが なる ・・・・」と歌った事を思い出すような美しい夕焼けだ。
しかし今、この夕焼けはそんな牧歌的なものでは無い。今夜も夜通し歩く厳しい行軍が待って居るだけである。敵に追われその目を潜りながらの逃げる時の夕焼けである。その真っ赤な夕焼けの中を平田上等兵は力無く歩いて居たが遂に道端に崩れる様に体を投げ出してしまった。
「コラ、確りせんかい」と分隊長が強く気合いを入れた。「許して下さい。放って行って下さい」と答えた。見上げた目にはキラリと光るものがあった。涙した目、赤い夕日がその雫(しずく)を真っ赤に照らして居た。
私は、彼が姫路駅を出る時列車の中で、父が持って来て呉れたぼ・た・餅・だと言って、私にも分けて呉れた時の事が思い出され、そのお父さんが彼の今の姿を見られたらどんなに悲しまれる事だろうかと胸が痛んだ。だが、部隊は容赦(ようしゃ)無く前進をして行くのだ。我々も部隊の流れに押されて夕闇の中を声も無く歩くのみだ。
真っすぐ進んで居るかと思うと、クネクネ曲がって野原の中や部落の間を行ったり来たりした。ザブザブと小川を渡り進んで行く。その内に、どちらに進んで居るのか分ら無く為ったが、イラワジ河のカマの渡河点を目標にして闇の中を歩いて居る事だけは確かであった。
今度は、「萱谷上等兵が落伍してしまった」と言う。彼も連日の強行軍と先日の敵陣地攻撃で疲れ果て、着いて歩く事が出来なくなり闇の中に残ってしまったのだ。闇夜の落伍は何時の間にか姿が無く為って居る。
行軍の流れに押されて、前の人に遅れまいと歩いて行ったり止まったりして居るが落伍した戦友を探す為に引き返す事は出来ない。隊列を離れると方向が分からず自分も行方不明に為ってしまうから仕方の無い事だ。
萱谷君も召集を受け、新兵として入隊以来苦労してここまで好く頑張って来たのに残念でなら無い。こうして原稿を書いて居る今も、彼のやや丸顔でやや唇が厚い感じや、着て居た服が何故か緑色の濃い目の物だった事などが鮮明に思い出されて為らない。
こうして一人、二人、三人、四人と同じ小隊の人が減って行き、残念で悲しい事が続く。取り残す、執り残される、行く人、止まる人、誠に悲惨な光景である。
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◆米の確保
携帯する米も無くなり、一日強行軍しても一合(百五十グラム)の米を炊き三回に分けて食べ、塩を舐めながら空腹と疲労を癒(いや)すのだが、段々乏しく為りそれすら出来無く為って来た。
その頃は部隊と言う形では無く、切れ掛かったうどんの様にバラバラと三々五々弱った者同士で歩いて居た。我々も同じ班の者七、八人で転進して居た。こんな様子で二、三日歩いた処十軒程の部落があった。見すぼらしい家並みだった。でも久振りに家のある所に来たのだ。ビルマ人は既に避難しており誰一人も居なかった。
直ぐに食物を探しに家に入り、沢山の葉たばこと塩の瓶を見つけた。だが、米は無い、米は現地人が素早く持ち出してしまったのであろう。探しても何処の家にも無かった。しかし、籾があった。沢山あったが、籾は米にし無ければ食べられ無い。幸い一軒の家に足踏みの石臼(いしうす)があったので早速搗(つ)き始めた。
疲労し切った身体には苦痛だったが皆で交替しながらやっと玄米にした。籾殻と玄米をさ・び・分・け・る・にはテクニックが要る。でも仲間には農家出の人も居り皆手伝って三時間ばかり掛けてやっと約一斗(十五キロ)の白米を拵えた。骨が折れたが成功だった。皆に分け、これで安心だ。
井戸から水を汲み米を磨(と)ぎ、飯盒を並べて薪(まき)に火を点け一方では水筒に水を入れ沸かした。玉古先任上等兵が班長代理として皆を好く纏め協力したので、ここ迄出来たのだ。疲れた体を労わり乍ら炊き上がるのを待って居た。
◆又も空襲
その時急に爆音がしたかと思う間も無く敵機が超低空で飛んで来た。ここは幅八十メートルばかりのなだらかな見通しの好い谷間であったが、その上手(かみて)から谷に沿って来た。
皆一気に横っ飛びに走った。家の無い側に大きい樹木が二、三本立って居たので、遮蔽する様にそこへ滑り込むや否や、その瞬間飛行機三機が家並みに沿い谷の上手より疾風の如く急降下しパリ パリ パリと機関砲を撃ち込んで来た。弾着がハッキリ砂煙で分かった。
旋回し二回三回と繰り返し攻撃して来た。三回目は小さな爆弾を夫々の飛行機から一発ずつ落として行つた。民家は燃え出した。好く乾燥した季節であり木と竹で出来た家だから真に燃え易い。
飛行機が去った事が確認出来たので直ぐに民家に引き返し、中に置いて来た装具や兵器それに先程分配した米や塩等を燃え始めた家の中からやっと取り出して来た。これもやっとの事、二分も後なら火災が激しく取り出せ無い位切羽(せっぱ)詰って居た。
飯盒炊事の方は、どうにか飯が炊けて居た。だが、長代(ながしろ)上等兵の飯盒はぶち抜かれ跳ね飛ばされていた。幸いに兵士に損傷は無く必要な米や塩を兎に角入手する事が出来た。焼けて居る部落を後にしそそくさと荒野に出て行った。
あちらに一塊(かたまり)こちらに一塊、落伍した者が一人二人三人と歩いて居る。皆イラワジ河の渡河地点を目指して歩いて居る。夜の行軍に疲れたのかどうか知らないが昼間もこうして歩いて居る。小人数だから、敵機から逃れ易いし昼の方が道が分かり易いからであろう。
そこを、負傷し杖に縋りながら歩いて居る人が居る。好く見ると、先日敵陣地を攻撃した時指揮を取ったあの歩兵の田中中尉である。元気の好かった彼も負傷したが、その傷の痛みと疲労でスッカリ弱って居て一歩一歩喘ぐように歩いている。数日の間にこうも変わるものかと驚くばかりである。
足も傷ついて居るのだ誠に歩き難そうである。戦場で足を遣られたら最後と思わなくては為らない。足は生命を支える為に絶対に必要なのに気の毒な姿だ。私は一瞬靖国神社への道を歩いて居る姿である様に感じた。戦争に容赦は無く残酷非情(ざんこくひじょう)である。
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◆瀬澤小隊長の戦死
とある林に差し掛かった時、他の経路を来た瀬澤小隊長ら二十名ばかりの一団と、運好く私達も一緒に為った。合流して安心感も手伝い気分が好く元気に為った。小隊長は元気そうであった。玉古班長代理が手短かに、分かれて以後四、五日間の様子を報告した。再会を喜び小隊長を先頭に平地や森の中を進んだ。小休止がありお互いに無事を確かめ情報を伝えあった。
更に林の間を行っている時、突如銃声一発、弾は一番前を進んで居た小隊長を直撃した。それも携帯して居た手留弾に当たり爆発した。 一瞬にして腹が抉(えぐ)り取られ倒れた。即死である。温厚な丸顔はもう残って居なかった。壮烈な戦死である。その辺りを見回したが、それらしい曲者(くせもの)は見つから無かった。現地人による狙撃(そげき)と判断された。
巨星落つ。第二小隊の芯、大黒柱を失ってしまった。昭和18年4月編成された金井塚中隊の小隊長として百二十名の部下を率い温厚誠実な人柄で人望の厚かった方であったが、突如この様な事に為ろうとは思いも拠ら無い事である。しかし、戦争は殺しあいの場であるから仕方の無い事かも知れない。
私達は小隊長の右の親指を切り、遺品として拳銃と時計、万年筆を携行した。屍を埋葬するに道具も無く、疲れ果てた我々にはそれをする元気も無かった。それより私達は一刻も早く渡河地点に辿り着かなければならなかった。
イラワジ渡河最後の乗船に間に合う様に。残念無念の思いで皆で深々とお別れの拝礼をし、屍を残してそこを去った。皆、黙々と沈みながら歩いた。
処で、私も瀬澤小隊長から信頼して頂きタンガップの山中に居る時には将校当番を仰せ仕かった。充分なお仕(つか)えも出来無いのに可愛がって頂いた関係の深い直属の上官である。
・・・私の軍隊生活、特にビルマ戦線で忘れられ無い大切なお方であり尊敬する立派なお人柄であった。姫路市の出身だと聞いて居たので一度お墓にお参りしたいと思いつつも、年月が過ぎてしまった。責めてこの本に残す事で感謝と慰霊の心を捧げさせて頂きたい。
瀬澤小隊は前述の通り、クインガレからグワへの南アラカン山脈越えの輸送で虎との戦いもあったが、任務を完全に果たした。ベンガル湾タンガップ地区で約一年間、警戒警備、保守管理など苦闘の生活をする間に戦況は悪化した。
昭和20年2月からは更に激戦地のタマンド地区へ前進し海岸の警備をした。その時敵の砲鑑から激しい襲撃を受け、五月始めまで第二アラカン、シンゴンダインを最後尾部隊として守り通し、以後殿で転進を開始した。
イラワジ河の右岸で戦闘し敵陣地の攻撃等、瀬澤中尉指揮の下で堂々と戦い、遺憾(いかん)無く任務を完遂し名声を挙げて来た。小隊長戦死後、兵力が暫時(ざんじ)減少しながらも中隊長の直接指揮下に入り、任務を遂行し小隊の名誉を高からしめた。しかし、編成時百二十名の者が終戦時には二十名少々に為って居た。
悲痛、百名の勇士は帰らぬ人と為ってしまった。復員後五十年が過ぎ今は数名に為ってしまった。以上が瀬澤小隊の戦史である。
ペグー山系辺りまでは誰かが、小隊長の遺骨や遺品を携行して居たと思うが、皆が死んだり落伍したりしてその後どう為ったのか私には好く分から無い。今は御冥福をお祈り申しあげ合掌するのみである。
つづく
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一兵士の戦争体験 その13
その13
◇第二アラカン山脈の守備
◆シンゴンダインで弾薬の警備
瀬澤小隊のアン河の渡河点での作業も一週間位で終わり、そこから東へ二十キロ位アラカン山脈を登りシンゴンダインと云う山の中の地点に移動した。深い谷と凄い山の間で、ここに貯蔵して居る弾薬と燃料等の警備に当たる事と為った。
既にこのシンゴンダインには、前線からここ迄辿り着いたものの力尽き次々と倒れた多くの将兵の死骸(しがい)が折り重なり、死の谷、恐怖の谷と呼ばれて居た。
その近くを通る時、死臭嘔吐(おうと)を催す程で耐えられ無い臭(にお)いである。我が小隊四十名はここで約二十日間、野積みされた弾薬の保管警備の仕事を続けた。この間に、前線から部隊を組み或いはバラバラに為り、多くの兵士が疲れ果てた姿でアラカンの大山脈を西から東へと登り後退して行った。
野砲(やほう)聯隊が砲を馬に輓(ひ)かせヤット此処迄登って来た。馬はもう疲労し切って居たのであろう、幾ら「前へー進めー」と号令を掛けても動か無く為ってしまった。一晩中「前へー進めー」「前へー進めー」と号令を掛けて居たが、翌朝迄に一キロ程しか登って居なかった。
野砲聯隊も大変だナアと思った。馬も食物を碌に貰え無いで重い大砲を引いて険峻(けんしゅん)を登るのだから可哀相な事である。この地点は第二アラカンを二日程登って来た処で未だ登り口である。頂上迄に未だ三十キロもありこれから先が案じられる。
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◆懐かしい人に出会う
こうした中、岡山の歩兵第百五十四聯隊が印度洋ベンガル海岸のカンゴウ方面より後退して来た。この折、バッタリ旧制岡山二中の同級生だった内田有方君に会った。正に奇遇、突然の出会いで懐かしい限りである。
彼は少尉の階級章を着けて居り逞しい感じの将校姿であった。既に、カンゴウでの戦闘を経験し多くの戦死者を出した直後らしかったが、彼は元気で精悍(せいかん)な感じさえした。お互いに健闘を祈り固く手を握りあい別れたが大きな励みと為り心の支えに為った。
もう一人は橘秀明(たちばなひであき)教官である。私が姫路で金井塚隊の教育隊に入隊した時、初年兵教育をして下さった方で特別に私を可愛がって下さった。見習士官室の隣の部屋を勉強しろと言って私の為にワザワザ貸して下さった恩人、橘少尉である。野戦編成に為った金井塚隊に私を送り出し別れを惜しんで下さったのである。
しかし、その後この方も他の部隊に転属に為り、こうしてビルマに来て居られここアラカンの山中で思いも掛けぬ奇跡的な出会いと為ったのである。本当に懐かしく涙が出る程嬉しい再会であった。好くも、広いビルマの中で会えたものだ。神様の思召しにより会わせて頂いたのだ。
別れてから二年ばかり経って居たのだがお互いに直ぐに分かった。橘少尉は「小田元気か。幹部候補生の試験は?」と先ず訊(たず)ねられた。それもその筈、私がこの野戦部隊の金井塚隊に転属に為ったのは、幹部候補生の試験が留守部隊の有元隊では行なわれず野戦部隊の金井塚隊に転属すれば受験出来るとの人事係准尉の言葉で、私も受験したいばかりに転属する事になりその結果ビルマの果て迄来た事に為ったのである。
その経緯を知って居られる方だけに、試験を受ける事があったかどうか心配して聞かれたのだ。私が今も普通の上等兵の衿章を着けて居るから、およそのことは察しながら。私は「試験は全く無いのです。もう戦争ばかりで、試験など行なわれ無いのです。でも、こうして元気ですし、皆に好くして貰っているので」と答えた。
「こんな戦況では、どうしようも無いからノオ」と慰(なぐさ)めて下さった。 橘少尉が何時までも私の事を心配して下さって居る事に感激し胸に熱いものが込み上げて来た。
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処で、将校なのに何故、ここを一人で歩いて居るのだろうか、当番兵も従えて居ないで、と不審に思った。一応将校としての拳銃、軍刀等の武器、背嚢(はいのう)等の装具は持って居られるが、落伍し掛かって居るのではないか?と心配に為った。
それ程弱っておられる様子では無いが何となしに不安を感じた。だが、私の教官であり私を一番可愛がって下さった見習士官、軍隊生活中で最も思い出に残る橘少尉に「どうか元気でいて下さい」と心を込めて言うのみである。
「お前も元気でな」と優しい返事が返って来た。そして、第二アラカンの山また山へ登って行かれる後姿に心から幸運をお祈りした。
・・・橘少尉は兵兵団(つわものへいだん)の我々輜重聯隊で無いのでその後の様子は全く分ら無い。生きて居られたら、終戦後二年も抑留されて居る間に風の便りで消息が分かる筈なのに何の音沙汰も聞く事が無かった。戦況不利の状況から推して、好く無い事が想像されあの時が今生(こんじょう)の別れになったのではないかと思う。
・・・五十二年の歳月が流れた今も尚(なお)懐かしい。色白、やや丸顔、黒縁の眼鏡を掛けた面影が目に浮かんで来て堪(たま)ら無い。橘教官、橘中尉、教育兵の私を特に心に掛けて可愛がって頂きました。消灯後ワザワザ、外出先から買って来た寿司を初年兵の私にご馳走して下さった事もありました。
軍隊生活は一般とは別世界の厳しい所故、人の情はより温かくより強く感じられるものである。これ等の御恩は決して忘れては為ら無いし、私の一生の意義ある思い出、軍隊生活の中の一際(ひときわ)懐かしい思い出として大切にし何時までも懐かしみ何時までも橘秀明中尉にお礼を申し上げたい。
本来為らば恩人の本籍地を調べ、消息を調べ、感謝し、お礼申し上げ無ければなら無いのだが、分から無いまま歳月が流れてしまった。凛々(りり)しく優しい面影が今も脳裏に浮んで来る。嗚呼(ああ)!
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◆悪性マラリヤ蔓延
第二アラカンの山中で引き続き弾薬や燃料の警備をして居た。四月下旬頃から五月当初に掛けて毎日、敵の大型飛行機二十機ばかりが編隊を組み我々の遥か上空を東へ向って飛んで行く。何処へ行って居るのだろうか?後で分かるのだが、その頃敵はビルマ中部の主要地域や平原に拠点を作り、陣地を確保して我が軍を攻撃し各所で優位に立ち、中部重要地点を占領し支配下に収めつつあったのだ。
我が兵兵団はビルマの西地区、アラカン山脈に取り残された状況と為って居たのだが、こうした中でも瀬澤小隊は一番西の最前線で引続き弾薬庫の警備をして居た。もう誰も使う事は無いだろう弾薬や荷物の警備はおよそ意味の無い仕事に為って居た。だが、その命令に従って居た。その間に多くの部隊が我々の所を通りアラカン山脈を越え後退して行った。
この山の中は前にも述べた通り、悪性マラリヤの根源地で兵士は次々に倒れて行った。昨日まで元気者で筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)として居た古参の松本上等兵が急に高熱に冒され日に日に衰弱して行った。ここ数日何も食べられず白湯(さゆ)だけ飲んで居る。例の如くやがて下痢が始まった。何処にも好く効く薬は無い。各自錠剤のキニーネ薬を僅か持って居るがそんなものは今更効か無い。
病の進行を見守り運に任せるだけである。寝て居る彼に蝿(はえ)が集って来るが、もう追い払う力も無く鼻の穴や唇辺りに群がるに任せて居た。やがて黙ったまま事絶えてしまった。気の毒な末路であった。彼は鳥取の出身で爽やかな感じの人であった。この有様を親や兄弟が見たらどんなに悲しまれるだろうか。
・・・今も、松本古年兵の白い歯並みが整った面白(おもじろ)の顔が目に浮かんで来るが、それも遠く過ぎし日の事である。
◆内地の短波放送
その日は四月二十九日で天長節の日であったと思う。手元に細々と食べるだけの米や乾パンがあり、敵も我々の所へ襲撃して来なかった。警備保管中の各種器材に混じり敵から分捕った無線機があった。
スイッチを入れてみると、壊れて無く音がするではないか。色々調節して居ると日本の短波放送が聞こえて来た。もう、二年近く日本の放送を聞いた事が無かっただけに懐かしく齧り着いて聞いた。放送は、
「毎日敵機の空襲で次々に家が焼かれて居る。今日も名古屋市が大爆撃を受けた。家は焼け建物は壊れても、国は焼け無いのです。今こそ国民は一丸と為って屍を越え灰燼(かいじん)を踏み越え鬼畜(きちく)米英を遣っ付けねば為りません。頑張り通そうではありませんか」
と悲痛な声である。 内地も大分遣られて居るのだと今更ながら驚いた。ビルマの現地もこの様に苦心惨憺(さんたん)して居るが、内地も空襲を受けて随分損害を被りながら日本中の皆が頑張って居るのだと思った。
シンガポール港の倉庫監視当番をして居た時、現地人が「先では日本が負ける。英国が必ず勝つ」と言って居たあの言葉がふと脳裏(のうり)に浮かんで来た。
戦争中の二年及びその後の抑留中の二年を通して、内地の放送を聞いたのはこの時だけである。勿論、他国の放送を聞いた事も無く全く放送は珍しい事であった。
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七 転進作戦
◇最後尾の小隊
◆第二アラカン山脈より転進を開始
置き去りに為って居た瀬澤小隊に後退転進命令が来た。もう、私達より前線の西方面に残った部隊は居ない。早々に東へ東へとアラカンを登り後退してしまったのだ。我が小隊が第二アラカン方面で愈々の最後、殿の部隊である。
責任者である小隊長瀬澤中尉は、この命令をどんなに待ち詫びて居られた事だろうか。忘れられてしまったのではないか等、責任者として考える事も多かった事だろう。我々の小隊が、日本軍の最後尾を守りながら、シンゴンダインを出発したのは五月三日位だと思う。
遅れて居るので昼夜を分かたず山を登った。アラカンの東の平地へ出る地点で、何処かの守備隊が待って呉れる事に為って居るので、一日でも一時間でも早く合流し無ければ為らないと懸命に歩いた。
山を登って行くと、今まで他部隊が居た宿営場所には、壊れた自動車や倒れかけの小屋が散らばり、駐留して居た場所に雑品が残され捨てられて居た。廃墟(はいきょ)と云うか、敗残後の片づけは必要無しと云うのか虚(むな)しい有様であった。屍を埋めた所も見受けられた。
二日程歩いた所で私は急に悪寒(おかん)を覚えた。マラリヤの発熱前兆(ぜんちょう)だ。仕舞った、偉い事が起きたと直感した。あのシンゴンダインの凄い奴だろうか?それなら助から無いかも知れ無い。
又、半年前にタンガップでマラリヤで死に掛けた時の事が思い出されて為ら無かった。あの時は未だ一ヵ所に駐留して小屋に住んで居たが、今度は毎日歩き通さ無ければ為ら無い悪条件の中であり、着いて行けるだろうかと暗澹(あんたん)とした気持ちに襲われた。
山を登って居るのに汗が少しも出て来ない。普通の健康状態なら当然汗が出るのだが様子が違う。熱が激しく為り山坂の行軍で疲労は募るばかりだ。只以前のタンガップの時に比べればお粥がホンの一口だけだが喉に入る。前回で少し免疫が出来て居るのかも知れ無い。
それに、苦しく弱りながらもどうにか皆に着いて歩いて居る。ここで落伍すればもうそれ迄で、山の中には何も無い。後から来る部隊は勿論、只の一人も居ない。有るのは死のみである。着いて行くより仕方が無い。泣く事も出来ない。汗が出れば好いのに全然出て来ない。
頂上を過ぎ二、三日坂道をドンドン下って来ると遥かに平地が見え始めた。後一日行程で平地に出られそうだ。小休止をした時、荷物を軽くする為に鉄帽を装具から外し竹薮(たけやぶ)の中に捨てた。今後の戦闘で鉄帽が必要な事があるとしても今の苦しさには耐えられ無いのだ。
瀬澤小隊長がこれを見て居たが「内地の工場で心を込めて製造して呉れた物だが、仕方が無いのう」と私の行為を認めて下さった。軍隊で兵器は最も大切なものなのだ。鉄砲と剣が一番ランクが高い。鉄帽はその次のランクだろうか。
そこを出発し山を下って行くと目指す平地では戦闘が展開されて居るではないか。大砲のドカン、ドガンと云う音が聞こえ砂塵(さじん)が濛々(もうもう)と起って居る。
我々を、アラカン道からの出口であるパダンの交差点で待って呉れて居る部隊が戦って居るのだ。やがて日が暮れたがその夜は徹夜で歩いた。肝心のパダンの出口を敵に押さえられて居たので山裾(やますそ)の細いかわせ道を進んだのであろう。
自分には好く分ら無いが人の後を取り逸(はぐ)れ無い様夜道を懸命に歩くだけである。夜の間に少しでも敵から離れた所迄逃げて置か無くてはなら無いのだ。喉が乾く。水筒の水はトックに空に為って居る。マラリヤの熱は依然として自分を苦しめ続けて居る。苦しく、キツク、フラフラに為りながらも歩き通した。小休止も無く、荒野の細道を南へ南へと逃れて行った。夜が明けたが行軍は続いた。
昨日の朝から二十時間も殆ど休み無く歩き通しである。この時、小隊長の命令で私達特に弱った者数人に、ビタカン注射をして呉れる事に為った。大した薬では無いと思ったが幾らか元気が出た。これも私には誠に幸運だった。
もし、この注射をして貰って居なかったら、私はここで落伍して居たかも知れ無い。それ程弱って居た。矢張りビタカンが効いたので歩けたのだ。
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そうして居る内に、敵の戦車が後から追っ掛けて来た。地響きが聞こえる。小走りに逃げた。何処をどう走ったか分から無いが、何時の間にか敵戦車は我々と離れた様だ。他の方向に行ったのだ。アア、助かった。
マダマダ歩き続けた、もう午後二時位だろう、暑い暑い、喉が乾きカラカラだ。私はマラリヤで特別苦しく汗も出ない。もう、二十時間も歩き通し、枯れ掛けた灌木が少し生えて居る荒涼(こうりょう)とした場所で大休止する事に為った。
とは言え、そこは水が無い原野の真っただ中である。フト見ると柿の実が落ちて居る。小さな実であるが、拾って食べた。何と、これが少し甘くて食べられた。マラリヤの熱があるのに不思議に食べられた。木の枝にも実が着いて居たがそれを取って食べる程の体力は無かった。
小さな柿を二個ばかり食べたので幾らか元気が出て、水を探してみようとナダラカナ起伏のある所を低い方へ低い方へと下りてみた。すると一番低い所に一メートル四方に水溜りが残って居た。ぼうふらが沸いて居たが水を見つけられたのは幸運だった。
飯盒と水筒に水を汲み沸騰(ふっとう)させて飲んだ。干涸(ひから)びた体に白湯(さゆ)の水分が入った。マラリヤに罹(かか)って居るのに不思議にこの時は汗が出て来た。汗が出たのが体に好かった。その後、お粥をホンの僅かだが口にする事が出来、携行して居た乾パンを少しだがお湯に漬けて食べる事も出来た。案外あのビタカン注射が効いたのかも知れ無い、どうあれ有難く嬉しい事だ。
乾パンの中に、赤、白、青のコンペイトウが入って居た。子供の頃お祭りでコンペイトウを買って食べた事が懐かしく思い出された。暑い午後を雑木の間で過ごし夕方又出発と為った。
この日の行軍で、我が班で二人の兵隊が日射病で倒れ落伍してしまった。普通なら涼しい所で静かにして居れば治るのだが、ここでは着いて歩いて行かなければ為ら無いのだ。
名前は覚えていないが、私が発熱して居る状態より彼らの方が元気であった様なのに、それに班長が大分励まして居たのにどうにも為らなかったのだ。彼ら二人はその後どう為っただろうか?飢餓の為死んだのだろうか、それとも苦悶(くもん)しながら自決したのだろうか?
夜行軍は続けられた。只着いて歩くだけである。どちらへ、どう行って居るのか分から無いまま夜通し歩いた。夜が明けると谷の様な凹地に入った。日陰一つ無い照り着ける太陽の下でやっと飯盒炊事をする事が出来た。幸いに空襲を受け無いで済んだ。私は食事の方は一口しか食べられ無い。やはり駄目かと心細く為った。
つづく
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一兵士の戦争体験 その12
その12
六 戦況不利
◇戦況の推移
◆敵機頻繁(ひんぱん)に来襲
山の中で敵の監視を逃れながらヒッソリと過ごして居る間に、戦況は急速に悪化し敵の飛行機は度々飛来し爆撃も頻繁に為って来た。好く晴れた日に爆音が西の方インド洋のベンガル湾方面から聞えたかと思うと、爆撃機が二十機ばかり見事な編隊を組んで飛んで来る。未だ新しい飛行機だろうか太陽に輝いて銀色にキラキラと光って居る。
我々の居る所から三キロ程離れたタンガップの町の上空に差し掛かったかと思うと、一斉にパラパラと光る物を落した。飛行機から離れた瞬間のみ見える物体であるが、その後は見え無い。十〜十五秒するとドカン、ドカン、ドカンと大きな爆発音が聞こえ、その辺りから土煙が幾つも跳ね上がった。一帯は煙に包まれてしまいやがて火災が発生して来た。
日本軍には反撃する手だては何も無く、敵は縦横無尽(じゅうおうむじん)に攻撃を仕掛けて来る。敵の為すままで、幾ら歯ぎしりをしても仕方が無い。これが友軍であれば、どんなに嬉しくどんなに頼もしい事かと思ってみても敵機だ。残念ながら私はビルマに来てから友軍の飛行機を殆ど見た事が無い。
やがて、この頃から敵の大編隊が我々の遥か上空を東に向かって飛んで行くのを見る様に為った。何処を爆撃しに行って居るのか分から無いが、多分ビルマ中部平原の日本軍の拠点や我が後方の陣地や基地の他、食糧倉庫や兵器倉庫を爆撃して居るのだろう。
そして、偵察機が私達の隠れて居る山の中を縫う様にして低空で偵察に来るので身動きも出来ない状況と為って来た。日中は大きく好く茂った木の下に隠れ煙を出さ無い様にし、暗く為ってから飯盒炊事をする生活を余儀無くされた。
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その頃、ビルマの女性二人が我々が居る山深い所へ物売りに来た。一人は中年、もう一人は娘らしく若かった。私はラングーンから原隊に復帰して以来ここ三ヵ月位現地人、特に女性等見た事が無かった。日本人が餅(もち)が好きだと云う事で、餅を作って売りに来たのだ。軍票の値打ちが下がりかけては居たが、未だ使えたのでそれで支払いをした。
娘の方は赤いロンジを腰に巻いて居たが魅力的で印象に残った。顔にはビルマ風の、木の汁の白いものを塗る化粧をして居り、足は裸足だったが何と美しいナアと女性を感じた。一服の清涼剤で心の和む一時であった。誰も同じ気持ちだったと思う。只それだけの事を今も覚えて居る。
時まさに昭和20年1月、ベンガル湾ラムレ島方面に敵の軍艦からの砲撃が開始され、我々の所にもその砲声が遠雷の様に響(ひび)いて来た。戦場間近しの感深く様相が大きく変わり暗い気持ちで正月を迎えた。正月らしい食物も無くやっと飢えを凌(しの)ぐ程度であった。
だが、経理担当の金田軍曹が餅米(もちごめ)を何処かで調達して来て、炊事班の三木兵長等が丹精込めて餅を作り一個ずつ配って呉れた。大正天皇の御製に「軍人(いくさびと)国の為にと射(う)つ銃の 煙のうちに年経ちにけり」とあるがそれを思い出した。実際ここビルマでの戦況は日に日に悪く為って居る中で、私は数え年で23歳、満年令でもう直ぐ22歳に為る昭和20年の正月を迎えた。
その頃は、敵が何時上陸して来ても戦える様に武装したまま仮眠(かみん)する夜も屡々あった。その後、敵機の偵察から逃れる為、住む場所を変えより深い山の中で大木の下に半地下式の穴を堀った。次第に追い詰められて行くのが犇々(ひしひし)と感じられた。
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◆ドイツが負けたと云うビラ
二月になった頃「イタリヤが負けドイツも降伏した。ヒットラーが死んだ。一葉落ち二葉落ちて天下の秋を知る」と書いたビラを英印軍が播(ま)いて行った。
それを拾った人から人へと次々に噂が流れて来た。半信半疑ながら大変な事に為ったと思った。あれ程強かったドイツ軍が何故負けたのか。日本はどう為るのだろう?負けはし無いだろうが、勝つ事は難しく憂慮すべき戦況だと思わざるを得ない有様だ。
味方からの情報は全く入ら無い。敵の散布するビラしか無い。敵の宣伝を信じはしないがこれを否定する確実なニュースは何処からも入って来なかった。
この頃、ラムレ島の守備に就いて居た鳥取の歩兵聯隊が、物凄い艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を受けて居ると聞く。強大な物量を持つ敵の攻撃に友軍は手も足も出ず苦心惨憺(くしんさんたん)して居るとの事であった。砲声は昼と無く夜と無く殷々(いんいん)としてここまで聞えて来る様に為った。
その島に私は居ないので好く分から無いが、実際そこで戦って居る兵士達がどんなに被害を被りどんな悲惨な状態に陥(おちい)って居るのかと思うと堪ら無い。只健闘を祈るのみであった。
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◆タマンド地区の警備と敵の襲撃
二月中旬に、瀬澤小隊はタマンド地区の海岸警備に当たる事に為った。ヤンコ川の上流の山中を出て海岸に沿い北へ向かって最前線に出動した。
数日間の夜行軍が続きタマンドの一部落の海岸に着いた。そこには現地人の家が二十軒ばかりあり、海岸の近くに公会堂の様な小屋があったのでそこに泊まる事に為った。野宿ばかりして来た者に取って、屋根のある家の中で休む事は有難い事であった。
ここに来たのは第二小隊の一部で、瀬澤小隊長以下浜田分隊長を含め第四分隊の四十名ばかりであった。この頃、既に小隊の中で第三分隊約四十名は他の方面に分散して居り小隊長の所を離れて居た。我々は周囲の状況を良く調査し敵の上陸に対処した。
ここは入江に為り小さな船着場と為って居て、ベンガルの海が前方に大きく開けて居た。好く見ると敵英印軍が上陸した形跡があり携帯食糧を食べた後の包み紙が捨てられて居た。
我が方の兵器は軽機関銃が二丁と小銃三十五丁余りで極めて軽装備である。弾丸の数は機関銃と小銃を合わせて二千発も無かったであろう。敵が艦砲射撃をしてどっと上がって来れば一溜(ひとた)まりも無い事は明らかである。しかし我々瀬澤小隊はここを厳守する事を命じられたのである。
もうこの頃は充分な食糧も無く、現地人の蓄えて居た籾を鉄帽に入れて帯剣の頭で搗いて籾から玄米(げんまい)玄米から白米へと時間を掛けて食べられる様にし、と・う・が・ら・し・の辛い刺激で食べて居た。
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ここで一寸、私の回りにどんな人が居たか思い出してみる。
瀬澤小隊長、この人は旧制中学校の図画の先生をして居た方で温厚な人柄であった。私はタンガップに居た頃、この方の将校当番を仰せ使った事があった。私は余り気性が鋭い方で無いので、充分に食糧を仕入れて来て小隊長に差し上げる事が出来たか否かは自信が無かったが、何かと心が通じ合って大変可愛がって頂き目を掛けて貰って居たのである。
浜田軍曹は分隊長で、張り切った下士官と言ったタイプの人情味のある聡明な方であった。
次に森剛伍長だが、シンガポールか何処かで最近下士官教育を受けてこの分隊に配置されて来たばかりで幾らか遠慮されて居り、若く人柄の整うた穏やかな方の様に見受けられた。分隊長見習い中と言った処であった。
戸部兵長は班長で真面目な方で班内を好く取り纏めて居り、古参の玉古上等兵は機関銃手として頑張り機転の効く人であった。戸部班長も玉古上等兵も、私を良い兵隊として常にその様に扱って下さった。厳しい軍隊で野戦の中にい乍ら温かい雰囲気の中に要られる事は本当に有難かった。
その他に田中古年兵、前田古年兵、松本古年兵、平田古年兵等が居た。そして、我々と同じ初年兵に橋本、妻鹿(めが)、長代(ながしろ)、三方(みかた)、中村、萱野(かやの)、山崎、中山等、その外同じ班内の人や他の班の人が二十名混じり合って、総員で四十名ばかりが行動を共にして居たと記憶して居る。
編成当時瀬澤小隊は百二十名居て、二個の分隊で六個の班で編成されて居たが、この時は既に色々の方面に分散され配置されて居たし既に数名は亡く為って居り、纏まって居たのはこれだけであった。
ここで思い出して書き出した方々はその後殆ど戦死され、内地へ復員出来たのは、妻鹿(十年前死亡)、中村(五年前死亡)、前田(三年前死亡)、田中、長代の諸兄と私だけである。班内でも大部分の方がビルマの地で散って行かれた。痛恨(つうこん)の限りである。
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サテ、この海岸の警備任務に就くに当り、森伍長を斥候長として私達三名で海岸線の偵察に出掛けた。我々が陣を敷いて居る湾は河口でもあり椰子の木も生えた緑の多い船着場であった。しかし海に向かって左手の方は岩ばかりの海岸が続きゴツゴツした処であり、右手の方即ち船着場の河を隔てた向こうはマングローブの茂った浜辺が続いて居り我々は重要地点を警備して居る事を悟った。
警備について二、三日後の深夜の事、ドゥ、ドゥ、ドゥと云うエンジンの音がして敵の砲艦が段々河口を上って近づいて来た。その時不寝番が「敵襲!敵襲!」と大きな声で叫んだ。皆武器を持ち外に出て予め用意した壕(ごう)に滑り込み、河口の方を見て居た。
小隊長が「射つな」「射つな」と命令した。「敵が上陸してここ迄来てから射つのだぞ。それ迄は射っては為らんぞ」と言った。射てばこちらの位置を知られるだけで、こちらが一発撃てば千発お返しが来る事が目に見えて居る。それにこちらは数える程しか弾薬を持って居ないのだから当然の命令だ。
そうする内にバリバリ、バリバリと敵の砲艦から砲撃が開始された。曳光弾(えいこうだん)が尾を引いて飛んで来る。高い木の枝が折れる音、飛び散る音が凄い。一旦止んだのでホッとした。
しかしそれも束の間、今度は少し角度を降ろして激しく撃って来た。地上スレスレに曳光弾が飛んで来て、我々は壕(ごう)の中で頭を縮めた。ガガガタと歯が震える。弾丸は我々が泊まって居る公会堂を貫いて居る。凄(すご)い恐ろしさだ。
砲艦一艘(そう)でこれだから、軍艦から攻撃を受けたラムレ島やチェトバ島はどんなに激しかった事かと思われた。敵の火砲と味方の火砲の比較は千対一、嫌万対一で、どうにも為るものでは無い。もう一つ不思議なのは我々がここに来てから一週間ばかりに為るが、敵の偵察機が来た事も無いし見え無い沖の方に居る敵の軍艦がここを監視して居る様でも無いのにどうして我々の存在が分かるのか。
常に木の陰に隠れて居る我々がどうして知られるのか。敵は我々日本軍が想像するより遥かに凄い探知器や観測計器を持って居るのだろう。霰(あられ)の様な攻撃が止んだ。静かで不気味な時間である。今にも敵が上陸して来るのではないかと、目を皿の様にし耳を欹(そばだ)てて居た。しかし、敵はエンジンを掛けて元来た方向に向かって引き揚げて行った。エンジンの音が遠くに去った後、やっと緊張が解れた。
「凄い奴だなー」と誰かが口を切った。「なかなか、遣りやあ〜がるナア」と誰かが答えた。「皆無事か」と浜田分隊長が尋ねた。やっと皆壕(ごう)から這い出て小屋に帰った。幸い誰も負傷して無くて助かった。興奮が納まらず誰も眠れ無い様である。
そうして居る間に「マスター」と外で呼ぶ声が聞こえる。何事かと思って出てみるとビルマ人が二人立って居る。一人が先程の弾で怪我をして居るので手当てをし薬を呉れと云う。中へ入れローソクを点(とも)し衛生兵を起こした。怪我人は背中を撃ち抜かれかなりの重傷である。
部落の長が連れて来たのだが、彼も緊張した趣(おもむき)で手には長槍を持ったままであった。それは彼らの身を守る為に用意したものらしい。衛生兵は傷口にヨウチンを流し込み包帯で縛り丁寧に処置をした。彼等は大変感謝して帰ったが、戦争の為に第三者迄こんな犠牲に為って居るのを見て本当に気の毒に思った。
それからは何時敵が上陸して来るか分から無いのでそれに備えより充分な警戒をした。私は橋本上等兵と共に、後方の少し高い山に行って見張りをする様瀬澤小隊長より命じられた。
それは敵艦が攻撃して来るのを早く見付ける為であったが、後から思うと、そればかりでは無く敵が上陸して来ると全滅する恐れがあるので、その場合にこの二人を連絡要員として残して置こうと考えたのかも知れない。二人は小高い山の上に上がり昼夜続けて見張りをし、敵の砲艦の様子を監視した。そこは海や入江の様子がかなり遠く迄見える適所であった。虎を警戒しながら過ごした。
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◆橋本上等兵と語る
橋本梶雄上等兵と私は、私が青野ヵ原に転属して来た時以来最初から特に仲良く助けあって来た仲で、今までに色々と身の上話をして来たが、ここでは二人だけであり時間は幾らでもあるので更に詳しく話をした。
彼は旧制高梁(たかはし)中学から秀才の行く旧制第六高等学校を経て東北帝国大学を卒業し、大阪で一流の会社に勤めるエリート社員で私より十二歳も年上である。温厚な人柄で、私の人生の大先輩、先生の様な人であった。先に述べた様に既に奥さんも子供さんもあり安定した家庭を持った方であった。
私は子供の頃、備中(びっちゅう)の高梁の町に住んだ事があり、岡山市で中学生活をし旧制高等工業学校は東北地方山形県の米沢市に行ったので、共通した土地の話が合い人生経験を教えられる事が多かった。元気で帰ったら、美味しいぜんざい屋に案内するから等と内地を懐かしんだものだった。
奥さんの写真を出して何回も見せて呉れた。その奥さんの写真の着物の柄は、姫路の駅に両親と子供さんを連れて送りに来られた時のそれである。
楽しい家庭が赤紙一枚でこの様に別れ別れに為るのかと思うと、気の毒でもあり現実の厳しさを感じ無い訳にはいかなかった。独身の私が想像する以上のものがあったであろう。
橋本君は年が三十三、四歳で兵隊としては決して若く無い。若い私が、こんなに苦しい思いをして居るのだから彼の肉体的精神的な苦痛は想像以上のものがあろうが、好く頑張って居られると感心したものだ。
私は自分の蝿(はえ)が追え無いのに、気が着けば彼の蝿を追う手助けをする程の親しい戦友であった。私は独り身であり両親の写真までは持って来ていなかったが、米沢のさくらんぼの話をしながら過ごす内に、親密さも更に深まりお互いに無事内地へ帰還出来る様にと祈りあった。
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◆アン河渡河地点の状況
こうした監視をして居る間にも、ここから二十キロ先のカンゴウ方面でも激戦が続き、岡山の歩兵聯隊が苦戦して居ると聞いた。この海岸警備は約二十日で打ち切られ次の地点に移動する事に為った。ここに敵が上陸して来無かったので助かったが来て居れば全滅して居ただろう。
更に北東へ行軍し移動が続けられた。その折、灌木の間に陣地を敷いて居た捜索(そうさく)聯隊の白井大尉に出会い、瀬澤小隊長が戦況を聞いた処、酷い負け戦に為り各部隊とも多くの損害を被り対応に苦慮して居るとの事であった。
私は白井大尉の勇姿を見たのはこの時が初めてであったが、この方面での戦争は日々苛烈(かれつ)に為って居る事を知った。
何の為に何処を目指して居るのか分から無いが、牛を貰って肉を食べての夜行軍、昼は木の下に隠れてフクロウの様な行動をした。もう、現地のセレーたばこも無く為った。畑にあるたばこの葉を取って来て乾かし、味が良かろうと悪かろうと吸って凌(しの)いだ。
飯盒炊事で少しでも煙を出すと敵機が低空で飛んで来て機関砲を射って来るので、余程注意しなければなら無い。敵機に対し何も出来ず只隠れるだけである。
一両日して第二アラカン道の西の入り口に当たるアン河の渡河(とか)地点に辿り着いた。そこで渡河作業をする事に為った。アキャブやカンゴウ方面から後退して来る兵士達の渡河を助けたり、ベンガル湾海岸方面より引き上げて来る弾薬等の渡河、運搬作業をした。
大多数の兵士は集団で来るので未だ纏まって居るが、落伍してフラフラ歩いて居る兵士達の姿は誠に惨めである。以前タンガップで見た姿よりもっと哀れで惨めであった。ボロボロに千切れた服、靴は殆ど履いて居らず裸足にロンジの切れ端を裂いた布を巻いて居る。杖を突いてトボ、トボと歩いて一人一人と来る。髭(ひげ)は伸び痩(や)せ衰え目は虚(うつ)ろで頬は落ち土色の顔は二十代の若い兵隊の姿では無い。
持ち物は雑嚢(ざつのう)に飯盒、水筒、自決用に手留弾一個を持って居るだけである。我々にも彼等を助ける食料も無ければ薬等勿論無い。哀れで気の毒にと思うのみでどうする事も出来ない。我々も野宿だが、彼等も道端の木の陰にゴロリと寝転ぶだけである。
休んだままで食べる物も無く動きもせず二、三日土の上に横に為ったままで、何時とは無しに事切れて行くのだ。
余りにも哀れで悲しい姿である。戦い、戦い、苦しみ、苦しみ、飢餓(きが)に悩まされ病魔に犯され、若い命が急速に衰え名も無き異境の原野に朽ち果ててしまうのである。
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その中で私は一人の知人に偶然出会った。彼は昨年ラングーンで共に無線通信の教育を受けた村井上等兵と云う鳥取の歩兵聯隊の兵士で、その後ラムレ島に行って居たがヤット此処まで帰る事が出来たとの事である。
過つての肉づきの良い紅顔の若武者の姿は無く、今は骨と皮ばかりでどす黒く汚れ垢(あか)だらけと為って居た。彼も他の人と同じ様に、杖(つえ)に縋って居た。
「ラムレ島に対する敵の攻撃は物凄く、全員の三分の二は海が渡れず、三分の一の俺達だけが筏(いかだ)を組み夜の間に海を泳いでヤット本土に帰って来たのだ。舟も無く敵の監視と攻撃が厳しいので昼間に渡る事は絶対に出来ない。その島で多くの戦友が餓死(がし)しつつある」と悲痛極み無き話であった。
再会したものの、衰弱した彼は多くを語る力も無くトボトボと去って行った。お互いにこれから大アラカンの山を越えて撤退して行かねばなら無いのだ。彼はラムレ島から此処まで来たので、もう大丈夫だと言ったが、これからどんな事があるのやらと彼の後姿を見送った。それ以後、村井上等兵の消息を聞いた事は無かった。
つづく
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一兵士の戦争体験 その11
その11
◇原隊復帰(げんたいふっき)
◆再びタンガップの山中へ
そうこうして居る間に、愈々教育効果試験も済み四ヵ月間の訓練を卒業した。彼を病院に残したままで元の輜重聯隊に復帰した。教育の効果試験の結果は私がトップだった様である。先にも述べたが、学生時代に基礎を習って居るし、真面目に学習したのだから当り前と言えばそれまでだが、聯隊本部に復帰の申告に行った時も金井塚中隊長に申告に行った時も大変褒(ほ)められた。
恐らく成績が原隊に通知されて居たのではないかと思われた。自分自身に取っては便利の好い首都ラングーンで、前線の苦労から開放されて勉強させて貰った上に聯隊や中隊内での印象も更に上がり有難い事であった。
タンガップの中隊本部に帰った頃は雨期も終りに近い九月中旬だった。私は激しい雨期の期間をアラカンの辺鄙(へんぴ)な山の中で無く都市ラングーンで食糧にも全く不自由せず過ごせたのだから、その事自体本当に有難い事であった。
主要な方に挨拶を済ませ、私の属する瀬澤小隊に帰ってみると、山の中の掘っ建て小屋の中に4・5人の兵隊が残って居た。建物は雨期を過ごして来たので古ぼけ痛んでおり、言わば乞食の小屋の様であった。殆どの兵隊は各場所に分散して海岸警備等の任務に行って居り、警備先でも皆この程度の小屋に住んで居るのだろうが、瀬澤小隊長も何処かの警備の指揮に当って居てここには居られ無いそうである。
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この兵隊達は皆半病人の様で顔色も悪く元気も無く、小屋の中の土間で小さな焚火(たきび)をして居た。
その兵隊達の話によると、中隊も小隊も分散して色々の所に配置されて居るが、雨 雨 雨の毎日で、山の中で食物は無く雨期の間に大勢の人が栄養失調やマラリヤで死んで行ったそうである。
この間もタンガップの倉庫が空襲で焼かれた為、物資が猶更欠乏し爆死した人もあったと云う暗い話ばかりであった。
私がもしラングーンに行かずここの警備任務を続けて居たら、悪性マラリヤに罹(かか)り、或いは食糧不足で病死して居たかも知れ無かった。幸運であった。
その後暫くして、西谷上等兵が不帰の客に為ったとの知らせが中隊本部に届いた。ヤッパリ駄目だったか、と私は暗然とした。
元気な頃、彼のお父さんから来た手紙も見せて呉れた事があったが、身内の人が聞いたらどんなに悲しまれるだろうか。彼は立派な病院で日本人看護婦に見取られて逝ったのだろうが、同じ聯隊の戦友に見守られる事も無く寂しくこの世を去って行ったのである。その後、遺骨がどう為ったか知ら無いが、今も在りし日の彼の特徴ある面影が思い起こされてならない。合掌
その頃、ヤンコ川の畔にある中隊の医務室は患者で満員であった。殆どの人がマラリヤで重い患者が多く赤痢の人も居たが、繁盛するのは医務室ばかりであった。しかし薬も乏しく悪質な病気にはどうする事も出来ない状態で只寝させて居るだけの様でもあった。
◆久保田上等兵の最期
久保田上等兵がマラリヤでもう五日間高熱が続き、全く何も食べていないので入院する事に為った。彼はこの間まで元気で作業して居たのに四十度の熱が出たきり下がら無くて、それに下痢までする様に為ったのだ。
私が牛車に乗せてタンガップの野戦病院に連れて行った。道なき道を行くのだから揺られ揺られて大変な苦痛だっただろう。それにどんな思いをしているのだろうかと心配だった。
やっと、野戦病院に着いた。「まいったなあ!」と彼が言った。「確りしろ大丈夫だ。病院に入れば薬も沢山あるし、少しすれば熱も下がるよ」と勇気付けた。しかし、病院とは名ばかり、我々が住んで居るあ・ば・ら・や・と何ら変わりが無い。
幾棟かの貧しい小屋が山中の薄暗く湿気の多い場所に建って居るだけである。ここも患者が一杯で空いて居る所が無かった。やっと一人分のスペースを見つけそこに入った。奥の方に大勢の患者が居る様だ。
でも薄暗くて好く見えず不潔な感じが溢(あふ)れて居る。こんな処で治るのだろうか?椰子の葉で造った窓の蓋(ふた)を押し上げて開ける元気も無く皆寝て居るだけなのである。その為暗く陰気な事この上無い。
病院はタンガップ地区に居る兵隊ばかりで無く、前線から傷ついて下がって来た者も居り患者で一杯だ。軍医も看護兵も足らず薬剤も何もかも不足している事は明らかであり、久保田上等兵を寝かせて「又来るから元気を出しておれよ」と勇気づけたものの心配しながら中隊へ帰った。
この野戦病院でどんなに多くの人が死んだのだろうか。金井塚中隊から入院した人がもう五人も死んで居るそうである。恐ろしい事である。それから一週間後「久保田上等兵の遺体を受領に行って来い」と命令された。やっぱり駄目だったのか彼は死んだのだ。私は愕然(がくぜん)とした。
◆屍(しかばね)の処理
この地で悪性マラリヤに罹れば治る事は殆ど無い。それに下痢を併発したとあっては仕方が無い。幾ら病院と言っても、薬は殆ど無く看護する兵隊が病気で倒れ次から次へと増える患者の世話をする事は出来ない現状である。
結局、病人や負傷者は自力で回復するより方法が無いのである。既に弱り切った体では為すべき手段も無く最期を待つのみである。死んでしまえば病院側も原隊に知らせるのが精一杯と言った処の様である。野戦病院やその勤務者が悪いのでは無い。戦況がこんなにも悪いのである。
この様にして、薄暗い竹で造った野戦病院とは名ばかりで手厚い看病も充分な薬も与えられず、亡く為って逝つた兵士達は、自分の運命はこれ迄かと諦めながらも、又生への執着と故国への夢には去り難いものがあったであろう。
案内されて行ってみると、久保田上等兵は昨夜十二時過ぎから様子が変わり午前三時に息を引き取ったとの事である。遺体には彼の毛布が被せてあるだけである。枕元には飯盒と水筒、薬の袋と少しの日用品があった。これが彼の全財産である。余りにも寂しい旅立ちである。彼にも内地に両親があり息子の武運を祈って居ただろうに・・・・浅黒い整った顔立ちの気持の良い男だった彼は、哀れな姿に変わり果てて居る。
・・・一年四ヵ月前内地出発の時、姫路駅から宇品駅に行く夜行列車の中で私の前の席に腰掛けて居たが、シンミリと「何時叉この汽車に乗れるだろうか?」と話し掛けて来た事を思い出し、私が彼の最期、遺体の処置をする様に為ろうとは露ぞ思いも掛け無い事であった。
迎えに行った我々三人は、彼の屍(しかばね)を担架に乗せて病院敷地内の火葬場に運んだ。この病院にそんな仕事をする兵隊も居るのだが、余りにも死人が多く手が回らず、疲労し切って居り処理が出来無いので、原隊の責任で遣って呉れとの事である。
そこには大きな穴が掘られ鉄の太い棒が数本渡されて居た。我々は教えられるままに久保田君の死体をその上に乗せた。近くの山から二時間も掛かって薪(たきぎ)を取って来て、斧(おの)を病院から借りて割り木を作り窯(かま)の中の方に放り込んだ。
屍の上にも一杯積み上げた。病院から灯油を十リットルばかり貰って来て屍の上や焚き木の上に掛けた。それは予めこの為に用意された油であった。
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内地からここ迄苦労を共にして来たのに、その友をこうして火葬にしなければならなく為った私、与えられた命令とは言え余りにも耐え難い事である。しかし、屍をこのままにして置く訳には行か無い。今ここでは感傷は無用である。
軽く合掌(がっしょう)し点火した。火は油の為か好く燃え広がり、ドンドンと燃え久保田君の着て居る服にも火が点いた。暫くその場を外した。その内なんとも言えぬ臭いが鼻を突き気持ちが悪い。体が焼けて居る臭いだろう。
この火葬場で次から次に大勢の人が白骨と為った事だろう。嘔吐(おうと)を催す臭いが立ち込める。大分時間も経過したので、臭(くさ)いのを我慢して行ってみると、内臓辺りが焼け切らずジュウジュウと音を立てて居た。長い棒で好く焼ける様に直し追加の薪を重ね、風上の林の中に行って待つ事にした。誰も口を効か無い。
私は「人間もこう為ってしまえばお終いで、全ては終わりだ。肉体はこの様に為ってしまったが、人の魂はどう為るのだろうか?故郷の国へ帰る事が出来御仏と為る事が出来るのだろうか。責めてそうであって欲しい」と思った。敵機に発見されると攻撃されるので、成るべく煙の出無い様に努めやっと焼き終った。多少焼け過ぎてボロボロに砕けた部分もあった。
幸いにこの時間に敵の飛行機が来なくて助かった。骨を入れる壷が無く適当な容器も無いので、もう必要の無く為った彼の飯盒に骨を拾って入れた。英霊に対しご無礼な事かも知れ無いが、これが一番安全確実な方法だと思わざるを得ない。大切に中隊本部へ持って帰った。命令とは言え戦友の屍の処理に当たる事はどんなに辛く悲しい事か。
その日の夕食は吐き気がして食事が喉を通ら無かった。ご遺骨はその後どう為ったか、内地まで届いただろうか?それは昭和19年11月頃の事で戦況は次第に悪く為り、その可能性は薄いと思われるが。届いて居る事をお祈りする。
◇悪性マラリヤで死の淵(ふち)に
◆発熱
雨期もスッカリ終わり晴天で平穏な数日が続いた。そんなある日、私達4・5人は、タンガップにある野戦の食糧倉庫に糧秣受領に行った。待って居る間に私は急に寒気がして来た。その悪寒は急激に増し、ガタ、ガタ、ガタと音を立てて歯が震えて来る。幾ら日の好く当たる場所に行ってみても寒いばかりである。
アア、マラリヤだと感じた。しかし、ラングーンで罹った三日熱位では無かろうか、そうであって欲しいと思った。そう為らば二、三日もすれば熱は引くだろうと思った。
しかし、糧秣(りょうまつ)を受け取り帰る間に悪寒(おかん)は急激に増し次に発熱を感じて来た。中隊に帰ると直ぐに医務室に行き診断を受けた。マラリヤだと云う事で医務室に続く病室に入った。ここも粗末な竹の小屋であった。
夕飯はホンの一口食べただけで何も欲しく無く、水やお茶が飲みたいばかりであった。夜に為っても熱は一向に下がら無い。体温計は四十・五度を指して居た。熱の為身体からは汗一つ出ず気持ちが悪い。
夜も更(ふ)けて来たが熱は下がら無い。うつらうつらと眠る様な眠ら無い様な一夜が明けた。朝飯は一匙(さじ)おかゆを口に入れてみたが全く味が無く喉を越さ無い。スッパイ梅干を一個だけやっと口に入れた。食後に苦い液体のキニーネを飲んだ。今飲んでも効く筈が無いし、食べていないのに飲むと反って胃に好く無いが責めてもの慰めだ。
体温を計ったが四十度のままで変わら無い。熱で頭がズキンズキンと痛む。少しの汗も出ず、つるつるとした肌触りである。毛布を被ってみても気持ちが悪い。熱の為に毛布の端がピリピリと震えて居る。毛布を脱いでみても気分は良く為ら無い。
隣に寝ている戦友が「小田どうか」と尋ねて呉れるが、「ウン」と答えるだけである。喉が乾く水筒のお茶をゴクリ ゴクリと飲んだ。何と美味しい事か。このお茶が堪らなく美味しい、一口では足り無くまた一口また一口と飲む。
「水やお茶を余り飲むと胃を弱くするからいけない」と軍医から言われて居るが欲しくて堪らない。キニーネで胃を傷めて居るのに水を飲むと更に胃を傷め下痢と為るのだが。胃に障害が起こり、アメーバー赤痢にでも為れば余計に衰弱する事は明らかである。
しかし、今の私にはお茶に勝るものは無いのである。こんな時にリンゴとかミカンがあれば食べられるのではないかと思ってみるが、この山あいには果物等何も無い。バナナさえ買う事も出来ない程の山の中である。又野生の果物がそうそう在る筈も無い。実際には果物があってもこの高熱では受けつけ無いだろうし、色々と思ってみるだけである。
ママよと思い、配給に為った日本のたばこを口にしてみたが、気持ちが悪いだけで受けつけられるものでは無い。やがて、石川軍医の診察が始まった。期待して診察を受けたが「これはマラリヤだ」と言っただけだった。
衛生兵がビタカン一本を注射し、キニーネを五粒ずつ飲む様にと言って袋を呉れた。午後もその夜も高熱が続き体が次第に弱って来る。眠ったり目が覚めたり、ウツラウツラして居る間にその夜も明けた。段々と心細く為って来る。食べる物は何も食べられずその日もお茶を飲むだけである。隣に寝て居る戦友が「心配するな、三、四日すれば好く為るよ大丈夫だ」と言って励まして呉れた。
それを聞くと、自分の事は贔屓目に考えられ、この熱はきっと下がり自分だけはきっと治ると思った。小便の為に建物外の便所迄行くのが苦痛に為り、フラフラする体を柱や庭の立ち木に掴まりながら支えて行くのがやっとであった。クラクラと目が眩(くら)む、アア情け無い。
小便の色は濃い茶色で、恐ろしい程の濃いさだ。血が溶けて出て居るのではなかろうか。気持ちが悪く長く見て居る気もしない。自分の床までやっと帰り身を投げ出す様に転ぶ。この様にしてその日も暮れた。石油ランプの明かりも無く暗い静かな夜が更ける。
少しでも寝ようと思っても熱に魘され眠れ無い。心臓の鼓動がドキドキと早く脈を打つ。何でこんなに早く脈を打つのだろうか、果たして治るだろうか?
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◆高熱が続く
先日久保田上等兵が罹って居た状態と同じではないか。そして多くの兵士が命を落とした悪性マラリヤではないか。一度発熱したら最後、余程の良い薬があるか余程の幸運に巡り合わ無いと高熱は何時までも続き、一週間もすると下痢を伴い脳症(のうしょう)を起こし意識不明と為り、更に三、四日すると死んでしまうと言われている。
私も、将に同じ症状の三日目である。あの暗い野戦病院行きと為るのだろうか。野戦病院に行けばそこで四、五日すれば脳症を起こし意識不明と為る。後二〜三日であの世行きに為るのかと思うと、暗然とした気持ちに襲われ不吉な事だけが頭の中を駆け巡る。夜明けに為りやっと浅い眠りに入る事が出来た。
朝に為り、飯盒に少しの粥(かゆ)を入れて呉れた。幾ら塩を入れても苦い、一匙(さじ)二匙口に入れてみたが食べる気がしない。粉味噌で作った汁も苦いだけで飲め無いので力無く向こうに押しやった。
隣の戦友に後片づけを頼んだ。飲めるのは水筒の水のみである。水が美味しい。でも、昨日辺りから下痢が始まり段々回数が多く為って来る。水を飲んではいけないのにガブガブ飲みたい。胃の中はどう為って居るのだろうか。素通りして下痢と為って排泄(はいせつ)して居るだけである。
今日はビタカンの注射をして呉れた。キニーネは胃に好く無い。続けて飲んで居るが今更(いまさら)効く筈も無い。フラフラしながら外の便所に行く回数が増えるが、もう堪ら無い。
私は痔が悪く、手術した事があり肛門の括約筋(かつやくきん)がやや緩いので、漏らさ無い様にするのが大変なのである。クラクラする頭、ヨロメク足元、濃い茶色の小便、血の様な粘液物が混じった大便、アア恐ろしい。
その日も暮れ、夜に為ったが熱は一向に下がら乃。体温計は四十度一分を指したままで、汗は全然出て来ない。衛生兵もこの悪性マラリヤにはホトホト手を焼いて居る。私も、次々に倒れ死んで行った兵士達の姿を見て来た。先日も久保田君の罹病(りびょう)から最後の姿を見届けたばかりであり、死の恐怖をヒシヒシと感じる。でも自分だけはそのコースを取らないで好く為るだろうと欲目な事を思うのである。
椰子の葉で葺(ふ)いた屋根の隙間から残月の明かりが病室に差し込ん居り、周囲の患者は寝静まって居る。内地から持って来て肌身離さず着けて居るお守りをもう一度固く握り直してみると、母の姿が思い浮かんで来る。
「敦ちゃん、お母さんが一生懸命信心して居るから、元気を出せ」「お前の為に一心にお祈りして居るから、お前はきっとお陰を頂けるから」と、母がハッキリ夢枕に立ち幾らか気分が落ち着いて来た。そして「神様どうか助けて下さい」と深く厚いお祈りをした。声には出さ無いが悲壮な願いであった。
高い熱に魘され体を反転させ、ウツラウツラして居る間に夜が明けた。昼中は今日も暑い日である。発病してから四日に為る。一日一日と悪く為って行くだけで、又しても不吉な予感に襲われる。
周囲の者も「小田はもう駄目だろう」と感づいて居るのだろう。誰も声を掛けて来無い。今日か明日には野戦病院に行く様な命令が来るのではないかと皆思って居る様である。午後に為ると熱に加え段々と下痢が激しく為って来た。衰えて行く体、急転直下奈落(ならく)の底に転落する様だ。今日もそのまま日が暮れて来た。
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◆救いの神
夕方、志水衛生伍長が病室に入って来て「小田どうだ」と尋ねられた。「ハア」と力無く答えた。勇気付ける為かワザワザ笑顔で親しそうに「弱ったか、熱が出て何日かのう」と聞かれた。私は「今日で四日ですが、ずーっと熱が出た切りで下がら無いんです。それに下痢も始まり・・・・」と哀願(あいがん)する様な気持ちで答えた。
神様にお祈りする様な心境で、それに知って居る人だけに些か甘えたい心理も働きつつ答えた。「そうか」と言って衛生伍長は立ち去った。
暫くして「小田一寸此方へ来い」と呼ばれた。病室を出て奥の部屋にフラフラしながら行った。誰も居ない治療室だった。もう室内は薄暗く為りカンテラに明かりが点されていた。
「腹ばいに為って尻を出せ、打って遣るから。この注射は人によっては好く効くんだ。だけどこれはもう殆ど無い、取って置きなんだ。もう補給も無いだろうし」と言いながら「痛いぞ、我慢しろ」と言って、グサリとお尻に一本打って呉れ「もう一本だ、こちらの尻だ」と言ってグサリと二本目を注射して下さった。
バグノールと云う薬だそうだが、当時貴重品中の貴重品だったのだろう。兵隊の私にもこんな戦況で辺鄙(へんぴ)な山奥に居る中隊の医務室に貴重な薬品が沢山在る筈が無い事は分かる。それを私に打って呉れた様である。
尻の注射は痛かったが、これ位有難い痛さは無く感謝の注射であった。注射が終わった後、志水衛生下士官は「元気を出して居らんといかんぞ」と一言励まして下さった。
しかし、熱は下がる事無く暗い夜は更けて行った。矢張り駄目なのだ、もう駄目なのだ、私の運命もこれ迄かと悩み不吉な事のみが頭の中を駆け巡り、眠るでも無く目覚めて居るでも無い状態が続いた。その内何時の間にか眠った様である。ふと目が覚めるともう朝だった。
少し気分が良いではないか。「少し好いぞ!」心が明るく為った。「シメタ、あの注射が効いたのだ」きっと志水伍長の措置が効を奏したのだ。有難い、志水伍長有難うと思わず手を合わせた。
体温を計ってみると三十八度だ。四日間ぶっ通しで四十度続いた熱が下がって居る。あのバグノールと云う注射が私には好く効いたのだ。病状により、何時でも誰にでもどのマラリヤにも効くのでは無い様であるが、私には幸運にもピッタリ効いたのだ。
昨日までは何も食べられ無かったのに、今朝はお粥(かゆ)が少し食べられた。昨日に比べ今日は本当に嬉しい。夕食のお粥はもっと食べられた。病気が快方に向かう時の嬉(うれ)しさは格別である。希望が湧きその夜は好く眠れた。
翌日、体温は七度五分に下がり下痢も止まった。素晴らしい治り方だ。不思議な位熱が下がり下痢も全く無く為った。私は死の淵から救われ、日々快方に向かい半月も経た無い内に元気に働く事が出来る様に為った。
三途(さんず)の川まで行って引き返して来た大変な幸福者である。この事は何時までも忘れられ無い。復員後戦友会で私はこの命の恩人に時々お目に掛かる機会に恵まれて居る。
つづく
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一兵士の戦争体験 その10
その10
五 ビルマ西部海岸警備
◇第一アラカン山脈を目指す
◆イラワジ河を西に渡る
昭和19年3月下旬、前進命令が第一中隊に下りた。大アラカン山脈を越えインド洋に面するタンガップの町に前進する事に為った。
イラワジ河の東側、左岸渡河地点近くに来た。敵機から見つから無い様にネットや木の枝で擬装(ぎそう)し、乗り場に至る道や船着場を覆う様にして居た。又道端のアチラコチラに止まって居るトラックにも充分な擬装をして居た。
ここで、珍しい人に巡りあった。金平操(かねひらみさお)さんである。同郷の可眞(かま)村弥上(やがみ)の出身で家が300メートル位しか離れて居ない。可真小学校では兄貴分で、しかも岡山二中に進んだ時も先輩として大変可愛がって貰い仲良くして頂いた方である。
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操さんは岡山師範学校(岡大教育学部の前身)を卒業され先生に為って居られたと聞いて居たが、長身でスマートな先輩で懐かしい。こんな所で好くもパッタリ会ったものだ、奇遇と云う他は無い。
何処の部隊に属して居たのか覚えて居ないが、本当に嬉しく元気で遣ろうと励まし合った。南方の軍隊生活で日に焼け、逞しく為って居られ野戦で苦労されて居る様子が伺われた。お互いに、軍務の途中でユックリ話す事が出来無いまま武運長久を心に祈り誓いあって別れた。その後操さんに会う事は無かった。
・・・操さんはその後、何処でどう為されたのだろうか?きっと苦労され戦死されたのだろう。ここでも又、立派な若い先生を失ってしまった。
戦争は苛酷(かこく)であり無残である。私は抑留生活二年をビルマで過ごし、昭和22年7月に復員し、郷里の弥上部落内を挨拶して回った。当然操さんの生家にも行った。既に戦死の公報が来て居り悲しんで居られた。私のみ生きて帰り悪い様な気持ちがしたが、イラワジ河畔(かはん)で会った時の事を話してお慰めした。
・・・その時、彼のお母さんは「戦死の公報は来て居ても、未だ操が帰って来ると思う。夜帰って来るかも知れ無いから、庭や入り口辺りに物を置か無い様にし操が躓か無い様に何時も片づけて居るのですよ」と言われた。
その時私は、操さんが元気で帰って来られるの為らば、ビルマの山河を何ヵ月も裸足で夜道を歩き通し大変な経験をして居るのだから、庭先の物や小石に躓く様な事は無い、もっと確りして居る筈だと思ったが、親はこれ程我が子の事を思って御出かと目頭が熱く為った事を今も覚えて居る。
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この辺りの河幅は3キロ位だったろうか。30トン程度の船で夜の闇に助けられ何事も無く無事渡河出来た。幸いこの頃は乾期の為水量も少無かった。渡ってしまうと何の事は無かった。
でも、渡河後は成るべく早く渡河地点であるセダンを離れ無ければ為らない。夜明け迄に10キロ程を歩いた。大した距離では無かったが装具の重さが肩に食い込んだ。それでも道も良いし平坦地であり夜間の涼しさで思う様に行軍が出来、ある部落に着いた。現地人は既に山の中に逃げ込んで何処も空き家に為って居たのでそこに入って休んだ。
次の日は朝より行軍だ。西へ西へ向かって歩く内にアラカン山脈の麓(ふもと)に近づいて来た。次第に林が多く為り道も埃(ほこり)だらけの道と為って来た。
時折友軍のトラックが埃を残して走って行った。我々は一個班に一つの輜重車のみは残して居り、出来るだけそれに荷物を積み積み切れ無いものは各自背嚢(はいのう)に詰めて背負い、車を皆で引いて汗みどろ埃だらけに為って歩いた。
午後に為ると緩やかな坂道が曲りクネッテ来た。夕方に為り大休止と為ったが、もうここは山の中で民家は無く露営である。
山から薪(まき)を拾って来て飯盒で飯を炊いた、幾人もの飯盒を並べて炊いた。出来上がる少し前水分が出無く為ると一つ一つ取り出し逆さにして置くと、良く蒸せ美味しく為り暫くすると食べ頃に為る。
もう何回と無く使用して来た飯盒なので貫禄(かんろく)が着き外側は真っ黒に為って居た。残りの飯盒で乾燥野菜と乾燥醤油で汁を拵える。干し肉や干し魚がある時は良いがこの頃は欠乏し掛けて居た。木の若芽を摘んで野菜代わりにしてみたが拙かった。
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◆第一アラカン山脈を越え
次の日も行軍は続いた。坂道は段々急に為り谷を渡り山を越えながら登り坂が多く為り標高も高く為って来た。乾期の最中だから山道の埃は我々が歩くだけでも濛々と舞い上がった。
この第一アラカン道は日本軍が2年前に造った道で、一応自動車が通れる様に応急的に造ったのだが、ビルマでは粒子の細かい土質の所が多く切り開いただけの道で、長い間雨が無く乾き切って居るので大変な埃が立つのだ。
3日目からは昼間の行軍はしない事に為った。敵の飛行機に見つからぬ様夕方から夜明け迄歩いた。夜は暑く無くて好かった。見も知ら無い曲がりくねった山道を夜行くのだから、どの方向に進んで居るのか全然分から無い。全体として西に向かってアラカンを進んで居り毎日登って行った。
黙々と前の人に遅れまいと歩くだけである。背嚢(はいのう)を背負い車を皆で押したり引いたりしながら、時には「ワッショイ ワッショイ」と掛け声を掛け元気を出して登ったが、疲れて何時の間にか黙ってしまうのである。
イラワジ河を渡ってから4日目、やっとニューワンギョと云う地名の所に着いた。ここはアラカン道の中央で山脈の頂上である。夜明けに着いた。そこには大きいチークの木が沢山茂って居た。寒い、寒い、標高1200メートル位だと誰かが言った。携帯の毛布二枚を引き被りやっと寒さを堪え眠りに着く事が出来た。
昼の間は休み夕方前にニューワンギョを出発した。暫く行くと見晴らしの好い所に出た。アラカン山脈の山々が雲海の上に頭を出し西の山に夕日が沈みかけ赤く染まって居る、何と美しい眺めであろうか。自然の偉大さその見事さに、暫し疲れを忘れ戦を忘れ目を奪われた。絵にしたらどんなに美しいだろうかなどと思った。
道は次第に下りが多く為った。開けた所は星明かりで助かるが高い林の間を行く時は真っ暗なので足元が全然見え無い。各班に一台ずつの輜重車を皆で力を合わせ引くのだが、下りはガラガラと惰性で早く転がるので、自分が転倒でもすると本当に危険であった。皆一生懸命に走った。暗闇の中を下って行く時は奈落の底に落ちて行く様であった。
当初携行した食糧も次第に減り途中の倉庫で支給を受けた。しかし、これまた少なく形ばかりの支給であった。飯を、塩とと・ん・が・ら・し・の辛さで食べて居る様なもので他に副食は何も無い。
私はこの行軍で肩と手が痺(しび)てしまった。銃を持ち重い背嚢が肩に食い込み、筋肉と神経が麻痺したのだろうか。日に日に痺(しび)れが増し手が殆ど動か無く為ってしまった。しかし、そんな事は言って居られ無い。苦しいのは自分一人では無い筈である。
銃を持つ手が痺れて居るので落ちそうに為る。足の豆も次第に大きく為り潰れて汁が出て居る。しかし、こんな事で挫(くじ)けては為ら無いと困苦欠乏の行軍は続く。
坂道を下ると言っても、中途では登り坂もあり道程は長い。ニューアンギョを出てから4日目の夜明け前、誰れかが「平地に出たぞ」と叫んだ。
印度洋海岸に沿うたタンガップの平野に来たのだ。平坦な道を2キロ位行った所で本道をそのまま4キロばかり直進すればタンガップの中心地に行くのだが、左へ曲がり細い脇道をうねうねと30分ばかり歩いて林の中に止まり大休止する事に為った。もう東の空が仄かに明るく為って来た。
ここまで歩いて来たのが、プロームとタンガップを結ぶ第一アラカン道170キロの横断道である。野宿野営の毎日だったが幸い虎にも遣られず無事到着したのである。しかし、第二小隊で途中三名の者がマラリヤに罹り落伍してしまった。その後どう為ったか知ら無い。疲れた体を毛布に包まり安堵(あんど)の気持ちでグッスリ眠った。
「皆起きろ」と云う浜田分隊長の声で目を覚ますと、もう太陽は空高く昇って居て時計を見ると十二時だ。「食事の用意をせい」との号令で、近くの川に行き水を汲み薪を集めて各自飯盒炊事をした。サテ、今日はどの様に為るのだろう。我々兵隊には予定は分から無い。命ぜられるままにするだけである。午後も休み疲労回復に努める事に為った。
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◇タンガップ地区の警備
◆ヤンコ川沿いと山中の生活
その次の日から色々の作業が始まった。当分ここに宿営する事に決まり家を建てる事に為った。竹を切って柱にし、梁(はり)を組み屋根と床の骨を造り割った竹で床を張るのだ。
屋根は椰子の葉を一枚づつにしたテッケと云うものを並べるだけ、横の壁に相当する所は竹を薄く編んだアンペラを取り付けるだけである。主な柱も屋根の椰子の葉も全て竹を割ってヘギにしたものを紐(ひも)代わりにして縛(しば)り固定するのである。竹細工の家である。
一個班の入れる宿舎の小屋を建てるのに一日あれば出来上がる粗末なものである。もう何回もこの様な家を建てて来たので作業も慣れて来た。結構これで住めるのだ。
以前に虎が屋根から飛び込んで来た事はあるが、そう簡単に壊れ無いし壊れたら直すのも簡単である。乾期には屋根のニッパ椰子の葉が萎(しぼ)み、その間から空が見えて居ても雨期に為り雨が降るとその湿りで葉が広がり案外漏ら無いのである。その国その地方で気候風土に適した住み方があるものだ。
ダァー
現地人はダァーと云う刀か斧(おの)の様な道具を一本持って居るがこれさえあれば全ての大工仕事が出来るのである。我々もダァーの使い方を覚え、器用な兵隊は上手に使う様に為った。設営に当たり、何人かはこうして住居を拵える作業をする。又、何人かはタンガップの町外れにある野戦倉庫に行って食料や嗜好品(しこうひん)を受け取り、幾らかの衣類等も受け取って来る。
又、当分転進が無いと見越して共同炊事をする事に為り、大きい鍋を使う為、それ用の竈を石と土で固めて作る等、分担して各種作業に精出した。又野菜や、鶏、家鴨(あひる)等現地人から購入出来るものはその様な収集班を決めて食料の確保を図った。
次の日は暇を見て川へ水浴に行き、十日間の垢(あか)を落とし洗濯もし爽やかな気分に為った。その時、急に爆音がしたので、川に食み出して居た大きい木の陰にいち早く隠れた。裸のままだ。双発双胴(そうはつそうどう)の飛行機が2機超低空で飛んで来た。ロッキードだと誰れかが教えて呉れた。薄黒い色をして居た。
敵は我々の中隊がここに来て居るのを察知したのか、それとも飛行中に今見つけたのかも知れ無いが、我々宿営地の上空を旋回し2回目には機関砲をパリパリと射ち込んで来た。3回、4回と旋回しては撃って来た。
ピューン ピューン と云う不気味な音、早くも昨日造ったばかりの宿舎が撃ち抜かれた。私は裸のまま木の下に隠れ身を震わせて居た。未だ、ここに到着したばかりで防空壕も掘って居なかったので避難する所も無かった。
こちらが一発や二発を撃っても仕方が無い。お礼返しが百倍も千倍も来るだけである。だが、どうした事か攻撃は4回で終わり飛行機は去って行った。ヤレヤレだ。しかし、兵隊の一人が大腿(だいたい)部を撃ち抜かれて重傷、二人が軽傷を受けた。
重傷の人には応急手当をして直ぐにタンガップの野戦病院に連れて行った。タンガップ地区に来た途端に重傷者を出し、敵に小屋を見つけられてしまい愈々最前線へ来たとの感を深くした。その翌日は、もっと山奥で大木があり好く遮蔽した場所への移転の作業が早くも始められた。
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◆弾薬倉庫等の警備
空から絶対見え無い場所を選び分散して小さい家を建てて宿る事にした。どの分隊も夫々暗い木立の下に粗末な小屋を建てた。ここはヤンコと云う地名だが民家も何も無い山の奥深くであった。もう日本軍は平地で部落のある様な所には住め無い程に敵の飛行機に追い詰められて居た。
我々瀬澤小隊は、馬がいないので輸送業務は無く為りタンガップ地区の警備に当たる事と為った。この地区にある弾薬倉庫、糧秣倉庫、被服倉庫、燃料廠(ねんりょうしょう)、海岸の警備、野戦病院の使役、その他兵站(へいたん)の各種勤務に就いたのである。
これらの品々は何れも山の中に分散し敵機に見られ無い様に遮蔽して野積みにされて居た。その監視に当たるのである。
私も弾薬置場の監視に就いた。弾薬置場と言っても山裾の樹木と草原の交じった寂しい所にある。大きい木の陰に弾薬箱を置き、更にその上を擬装(ぎそう)して集積して居り昼夜三交替の勤務である。
監視であるから銃を持ち節度正しく警備し周りを歩いて警戒するのであるが、考える事も無いし特別する事も無いので、一人ぽっちで夜空を眺めて居ると又しても故国の事が思い出される。これから先の事が明暗色々に頭を駆け巡る。
何時の日故国へ帰れるのだろうか?今に新兵が来れば交替して帰れるだろうが。戦いに勝ってしまえば凱旋(がいせん)だがどんなに嬉しいだろうか。
しかし、戦いはどうも見通しが明るく無い。今の我々には、新聞も無ければラジオも無い生活である。噂だが西南太平洋方面の海戦で次第に押されて居りサイパン島も危ないとか?事実ここでも日を追って敵の空襲が激しく為って来ており、友軍の飛行機等見た事も無い。戦況が次第に悪く為って行くのが分かる。
何であろうと戦い抜いて勝たねばならないのだ。与えられた軍務に精励すれば、それがお国の為なのだと思い返してみるが考えに前進は無く、何時も堂々巡りである。
暫く深夜の静寂が続く。急に近くの山で「ゴオー」「ゴオー」とビルマの山鹿であるノロが悲しそうに啼いた。虎にでも追われ逃げて来たのかも知れ無い。厳しい現実が襲い掛かって来た。銃を握り直し、警戒を続けた。私の空想と現実の隔たりは余りにも大きい。
この辺りはビルマの西海岸アラカン山脈の西側で、辺境地と言われる不便な所で経済的にも価値の無い所である。しかし戦略的には、英軍と印度軍が何時上陸して来るか分から無い重要な地点と為って居り、我が軍もこの地の防備に力を入れて居る。
ここからアキャブ方面にも通じており、海岸防備の為のラムレ島・チェトバ島への渡航地点にも為っており、行き来する人が泊まる場所と為って居た。
メニョーの兵站宿舎
私はその後、弾薬庫勤務からタンガップ兵站宿舎の勤務に為った。言わば旅館勤務と行った処だが、とてもそんな粋(いき)なものでは無かった。前線へ向かって行く兵隊は、アラカンの険峻(けんしゅん)を歩いて来たとは言え、衣類も痛んで居らず兵器もキチンと持ち顔色も好く元気で兵隊らしかった。
しかし、アキャブ方面から帰って来る兵隊は哀れだ。服はボロボロ、シャッもボロボロ、空の背嚢を背負い兵器は殆ど持って居ない。顔色は悪く杖をついてやっと歩いて居る。乞食(こじき)の様だ。飯盒と水筒をダラシナク持って居る。
兵站宿舎と言っても、屋根と座がある程度のお粗末なもので野宿よりは少し増しと言った処だ。「兵站はここですか」と細い弱い声で尋ねる。「ここです。どうぞ休みなさい」と答えるとホットした様子で疲労し切った顔に嬉しさが微かに窺われる。しかし一日二日と泊まる内に、そこで息を引き取ってしまう兵隊が何名かあった。
負傷したり病気に為ったり、アキヤブの方から後退を命じられ乗り物も無くやっとここまで辿り着くが、体力は非常に弱って居り息を引き取ってしまうのだ。気の毒な事と思う反面、これが日本の軍人兵士だろうかと唖然(あぜん)とするのである。
死体の片づけも私達勤務者の仕事だが、余りにも惨めな姿は目を覆うばかりである。二十日ばかり勤務したその頃、思い掛け無い命令が来た。
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◇無線通信教育隊に
首都ラングーン
◆首都ラングーンへ
私は、聯隊本部から突然「ラングーンで通信技術の教育があるから、教育を受けに行く様に」と命じられた。我が輜重聯隊から、私の他に、藤井、山本、西谷、矢野の各上等兵の計五人が選ばれた。
中隊本部へ行き金井塚中隊長に申告した。中隊長はレミナの町に居る時一緒に生活して居た関係もあり特に私の方へ向かって「確り勉強して来い」と激励の言葉があった様に思われた。それからタンガップの他地域にあった聯隊本部へ行き、ラングーンで教育を受ける旨の申告をした。
こんな場合何時でも、同年兵ばかりの時は私が引率者の立場で号令を掛けるのが当たり前の様に為って居り皆もその様に認めて居た。この時は後方、ラングーンへ向かう自動車に便乗させて貰う事に為り、タンガップを夕方出発し夜明けには大イラワジ河を渡りプローム迄来た。歩いて八日も掛かった山道を一夜の内に走った。流石自動車は早い。夜の内なら敵機に見つかる事も無い。
トラックの荷台に乗せて貰ったが、路面は凸凹道だから前後左右に揺れるやら上下に跳ね上げられてはドサンと落とされるやら、荷台には周囲の枠に掴まる以外には掴まる所が無いので五人は懸命に枠にしがみ付いて居た。
しかし、文句を言う処では無く自動車は本当に有難いものだと思った。運転手は一睡もせず大変な仕事だがこれも軍務の中、ご苦労な事である。太陽が上がる前に町外れの木立の茂みの中に入り車を止めた。大休止の後、夕方に為りそこを出発した。プローム街道を南南東に向けて走った。
舗装道路だから昨夜に比べれば雲泥(うんでい)の差で、荷台に仰向けに寝転び夜空の星を眺めながら進んで行った。気持ちの良い夜だった。幸い夜の事でもあった為空襲にも遭わず、次の朝はラングーンに着き、ビルマ方面軍司令部直轄(ちょっかつ)の森部隊の通信教育隊に編入された。
私達の兵兵団(つわものへいだん)(五十四師団)からは姫路の歩兵、鳥取の歩兵、姫路の野砲、姫路の捜索(そうさく)聯隊等からで、他の師団から選ばれて来た者を含めて総数約五十名であった。教育の内容は無線通信機器の操作技術に加えて、モールス信号の発信オペレーターの技術学習であった。
私は学生時代にそれ等の基礎を習って居たので、取り着きも好く皆より好く出来るし完全に頭の中にスイスイと入るので楽しかった。全体の雰囲気は良く軍隊の中としてはスマートな教育と言えよう。教育時間外も比較的自由に生活が出来る様にされて居た。 それだけに、厳しい教え方で無くても頭と体、指先と耳で、早く技術を修得しなければなら無かった。
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◆辺境タンガップとラングーン市内の比較
時折ラングーン地域にも空襲警報が発令されたが、敵機は現われず被害は出無かった。日曜日には市内に外出する事も許された。ビルマ人の住宅地にはブウゲンビリヤの真っ赤な花が咲いて居り、庭には美しい草花が咲き乱れて居た。家庭の温かい雰囲気が懐かしく思い出される。
市街の商店街では、日本の将校や兵隊が見物や買物をして居た。ビルマの若い女性が髪に花を飾り奇麗なエンジに色鮮やかなロンジを纏(まと)い皮製のサンダルを履いて2・3人が歩いて居る姿を見ると、今までアラカンの山や辺鄙(へんぴ)なヤンコ川岸で警備に当たって居た私にはとても美しく感じられた。この様に、和やかな女性の姿を見る 。男性も下はロンジだが上はスマートに洋服の上着を着て垢抜けしたビルマの衣装を身に着けて 。流石ビルマの首都である。
我がビルマ方面軍の総司令部が置かれて居た所だけに、日本人の経営する店もあり日本人の女の子をウエイトレスにしている喫茶店もあった。
戦友と一緒に早速入ってみた。久し振りに見る日本女性はとても色が白く天使の様な感じであった。コーヒーを一杯注文したが、内気な私は一言二言声を掛けただけだった。でも心が和む感じがした。市内にはもっと遊べる所があるのだろうが、我々兵隊には無縁な事だしどう為るものでも無かった。
只、ここで感じた事は、第一線の戦場と後方との大きな違いである。あの、タンガップの村落へ、アキャブ方面から戦いに破れ、食物も無く息絶え絶えに為り乞食の様な姿でボロボロの服を着て杖に縋り帰って来る兵隊と、後方のラングーンで整った服装に身を固め便利の好い恵まれた市内を闊歩(かつぽ)して居る兵隊を比較する時、同じ戦地と言っても場所によって大変な籤運(くじうん)の違いがあると思った。
私自身も、数日前まで深い山の中で、虎の出そうな深夜、弾薬庫の警備をして居た事を思うと、その境遇に雲泥の差があり今をシミジミ有難く感謝した。
ラングーンにも雨期が遣って来て毎日毎晩雨の日が続いた。室内での講義と教育はあるが屋外での実地演習は出来なかった。気分も何と無く重かった。
その頃のある日、急に寒気がして来た。ガタガタガタガタと震え出した。生まれてこの方こんな悪寒を感じた経験は無い。マラリヤかも知れ無いと思いながら3時間ばかり毛布に包まって震えた。それが終わると、こんどは熱が出て来た。ドンドンと高い熱に為り、ご飯もおかずも喉を通ら無く為ってお茶だけが欲しく為った。飯を食べ無いでお茶をガブガブ飲むと胃に悪いのだが、無性に飲みたい。
皆が学習に行き、自分だけ班内に取り残され熱に悩まされて居ると、健康の有難さがツクヅク感じられる。どう為る事かと心配で心細く寂しい事、何とも形容のしようが無い。
マラリヤで亡く為った谷田君を始めタンガップで悪性マラリヤで息を引き取って行った兵士達の悲しい姿が思い出され滅(めい)入ってしまう。軍医に見て貰い薬を飲み休む事数日、悪性で無く三日熱程度のものだったのだろう、幸い3・4日で熱が治まり元気な体に回復した。ヤレヤレと安心し嬉しかった。他に同じ程度の熱発患者が3・4人出たが、皆大事に為ら無くて済み訓練を続ける事が出来た。
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◆西谷上等兵の病
この頃、輜重聯隊から一緒に来て居た元気者の西谷矯正(にしたにきょうせい)上等兵がマラリヤと赤痢を併発し急激に衰弱した。
同僚であるが私が引率して来た責任もあり一生懸命に看病した。しかしここでは充分な手当が出来ないので、ラングーン市内にある陸軍の基地病院に入院する事に為った。少しばかりの彼の装具やお守り等を持ち、付き添って病院に行った。鉄筋の大きな病院で設備も整って居る様であった。
彼は私に、赤痢の事に付いて「絶対に外で物を買って食べてはいかんぞ、儂(わし)は菓子を食べてからこう為ったんだ。お前も気をつけろよ」と後悔の気持ちを込め注意して呉れた。
私は「ここは大きな病院だから薬もあり設備も良いからきっと治るよ」「通信技術の勉強の方は後から頑張れば好いのだから」と励まして帰った。その後見舞いに行った時、丁度内地から来て居る看護婦が「ご案内します」と言つて案内して呉れた。将に日本女性の優しい声である。
私の心は疼き清々しさを感じた。白衣が目に痛い程で白い肌が美しく黒い髪の匂いがホンノリと漂って来る。何故日本の女性はこんなにも美しいのだろうかと思いながら後について行くと「こちらです、どうぞ」と教えて呉れた。
少し位の病気をしてもこんな優しい女性に看護して貰えれば好いナア等と詰まらぬ事を考えた。 内科の部屋に入るとベッドが幾つも並んで居た。この部屋の人は皆重病なのか起きて居る人は居なかった。案内の看護婦は西谷君のベッドに近づき「ここです」と云うとそのまま出て行った。
西谷上等兵は気配を感じてこちらを向いた。私は「西谷、来たぞ」と言うと「有難う、好く来て呉れて」と元気の無い細い声で答えた。普段でも細い顔が一層痩(や)せて青く、くすんでおり目は窪んで居た。これが20歳台の青年かと疑いたく為る程衰弱して居た。
私は余りの変わり方に多くも語れず「充分養生して早く治れよ。お前は心臓が強いのだから大丈夫だよ」と励ました。それ程に西谷君の病状は重く、平素気丈夫な彼であったが病魔の侵すところい・か・ん・ともしがたく、闘病の日を過ごして居た。
私が思う以上に、その時の彼は看護婦さんを頼りにし祈る気持ちだった事だろう。他に現地採用のビルマ人看護婦達も甲斐甲斐(かいがい)しく働いて居るのが印象的であった。
タンガップの野戦病院は病院と言っても野宿同様の小屋で薬も設備も無く、死出に旅立つ人の溜(たま)り場の様なものであるが、それに比較しここで治療が受けられるのは幸運だと思われる。でも重い病気には適わ無いが。
何回か見舞いに行ったが、一進一退と云うより心配の方が多く為って来た。励まして遣るのだが、頷くだけで心無しか目には涙が光って居た。
異境の地に来て、華々しい戦いにも出られず、病気に倒れての苦悶(くもん)の日々。さぞ残念であろう。そして故郷の父母兄弟を思い懐かしんで居るのだろう。その内、看護婦二人がリンゲルを打ちに来た。毎日打つのだろうが、大きな針が痩せた太股に刺されて居る。
果たして治るのだろうか?彼が快方に向かうことを祈りつつ兵舎に帰った。 彼が私を頼りにして居るのが好く分かるので学習の合間を縫って何回も見舞いに行った。
つづく
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一兵士の戦争体験 その9
その9
◇輜重本来の輸送業務解除
◆馬や輜重車両全部を他部隊に渡す
ヘンサダに一週間居たが、私の所属する第二小隊はその間に他の部隊に車諸共(各班に一両づつ車を残し)馬も全部渡す事に為った。どんな事でこの様に為ったのか知ら無いが。一日掛で最後の点検整備を行い申し送りに必要な準備をした。
思えば去年六月以来共に苦労して来た馬とも今日限りお別れかと思うと胸を締め着けられるものがあった。
馬も知ら無い兵隊に使われるのだから馴れる迄辛い事だろう。何処に連れて行かれるのか分から無いが、北部ビルマ方面の輸送に使われるとの事、余り苦しい目に遭わ無ければ好いが。
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馬に取ってこの暑い国病気の多い国で、山また山、道なき道を馬糧も無く重荷を運び戦うのは辛く苦しい事であろう。思っただけでも可哀相である。大人しく利口な愛馬「金栗(きんくり)号」も連れて行かれる。私は自分の馬に髭面(ひげずら)を摺(す)り着け、首を撫(な)で鬣を解いて遣り暫し別れを惜しんだ。
馬は賢い動物だから全てを感じて居る筈である。惜別の情堪え難いものがある。瀬澤小隊百頭の馬よさようなら!元気でやれよ。涙 涙 涙 アア・・・・こんな事に為って馬と別れるとは夢にも思わ無かった。
引渡し業務が済むとその次の日から厩作業が無く為り気が抜けた。今まで一日たりとも一食たりとも欠ける事無く、餌を与え水を飲ませ馬体の手入れをして来て居たのに、急に居なくなると寂しくリズムが狂ってしまう。馬の世話は大変だったが居なくなると虚脱(きょだつ)感で放心した様だ。
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◆プローム方面に向う
馬の引渡しが済むと二日後には又移動出発だ。汽車に乗せられたが今度は今までと違い自分の装具と小銃等携帯の兵器だけなので簡単だ。夕方ヘンサダの駅を出発し夜が明けると広い平野の中を列車は走って居た。
所々に森があるがそこが集落や町である。かなり大きな町の駅に止まった。ビルマ人が「マスター マスター」 「セレー、バナナ、マンゴウ」と言って物売りに遣って来る。頭の上に竹で編んだ籠を乗せその中にそれ等を入れて居り器用に持ち運んでいる。
ビルマでの軍票
私がビルマ言葉で「ベラウレ、パイサンベラウレ」お金は幾らかと聞くと「これ五十銭(ゴジツセン)、これ一円(イチエン)」と答え商売に為る。ビルマでは日本軍の発行する軍票が通用するので欲しい物が買える様に為って居た。軍隊でも階級に応じ給料が支給され、我々兵隊にはホンの小遣い程度だがこの軍票が支給されるのでそれで買物が出来たのだ。
セレーは現地たばこだが、内地の桑の葉の様なものにたばこの軸とたばこの葉を刻んで入れ、万年筆位の大きさに巻き乾かした代物である。桑の葉と見えるのもたばこの葉かも知れ無いが。
用心して吸わないと火の粉がポロリと落ち服に穴があく恐れがある。でも日本のたばこの配給は殆ど無いので、兵隊はこれを買って好く吸うたものだ。その他にも、トウモロコシの鞘(さや)の様な物にたばこの葉を詰め込んだ大きい形の物等色々なたばこがあった。余り美味いたばこでは無かったが、そんな事は言って居られ無かった。
バナナも色々の種類があり、美味しいもの余り美味しく無いもの、大きいもの小さいもの、種のあるもの種の無いもの等があった。台湾の高雄で食べた程美味しい物は無かったが、我々の命を救い元気を着けて呉れたのはこのバナナであった。又、ドリアン、マンゴウ、パパイヤなど熱帯の果物が元気を着け命を繋ぎ、蘇らせて呉れたのだ。
貨物車の入り口の扉を開けて空気を入れて居るが、天井の鉄板が焼け着き暑くて堪ら無い。しかも停車中は風が入ら無いので特に激しい暑さと為る。何時発車するか分から無いので降りても汽車の近くを離れる事は出来ない。
列車が走り続ける。どの町にもどの村にも、大きいパゴダや小さいパゴダが、金色に又は真っ白に美しい姿で建って居る。村は貧しいがお寺は確りして居りシミジミ仏教の国である事を知らされる。
暫く行くと、焼けたばかりの大きな町に差し掛かった。3・4日前焼夷弾(しょういだん)で焼野ヵ原と為って居て、未だ燻って居る所もあり焼け残りの柱が黒焦げのまま立って居た。しかし、幸いに鉄道線路は遣られて居なかった。
午前十時頃に為って空襲警報が発令され列車は平野の真ん中に止まった。皆跳び降り線路より横方向百メートル位の所にある木立の中に隠れた。幸いに敵機は来無かったので再び列車に乗り発車した。午後四時頃プロームと云う駅に到着したが、そこにはホームがあるだけで駅舎等何も無かった。
プロームの町を歩いて行くと、ここも最近の火災で黒焦げの柱が立ったまま残って居た。かなり大きな町が無残な灰燼(かいじん)の町と化して居る。住んで居た現地人はどうして居るのだろう、近くに全く人影は見え無い。
この町はビルマ西部を流れる大河イラワジの中流部の左岸に位置しプローム鉄道の終点である。又、ラングーンから此処を通り、更に北に伸びて行く幹線道路プローム街道の中心地に当たり、ビルマで屈指の人口を持っている。それに、ここからイラワジを渡りアラカン山脈方面へ行く渡船場でもあり、非常に重要な地点である。その町の中心部分をこの様に焼かれて居るのだから敵の勢力が次第に伸びて来ている事が好く分かる。
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◆シュエーダン お寺の屋敷に駐屯(ちゅうとん)
我が中隊はこのプロームの町並みを通り抜け南へ二時間位歩いた。この辺りはもう長い乾期の為、草は枯れて茶色に為り落葉樹の木からは葉が落ちてしまって居た。内地の秋を思わせる光景の所を過ぎ、大木の茂る森に到着した。
そこには大きなお寺の屋敷があり、それに続き広い森林があった。このお寺の大きな講堂に泊まる事と為り要約落ち着いた。
この辺りには、何百年も経った小さなパゴダや古い壊れ掛けの仏像が沢山あり歴史のある地方である事が偲(しの)ばれるが、戦争中の仮の宿ゆえ情緒を楽しむ間は無い。ここでも馬が居ないのでする事が無く、体操をしたり班毎に相撲をしたりして体力と健康の維持に努めた。
中隊全員の約3分の2程度250人位がここに集結して居たが、ある日、全員で会食をした。会食と言っても何も無い、各自飯盒(はんごう)を持ち寄り一堂に会して飯を食べ顔合わせをしたと云うだけの事であった。しかし川添曹長が、これ迄の苦労を労い「今後何が起きるか分から無いが心身の鍛錬をして置け」との挨拶をされた。軍隊としては珍しく和やかな雰囲気を醸し出そうとした様であった。
予定通りの進め方だったのか、下士官の誰かが詩吟をした。続いて田舎歌手の山下一等兵が流行歌を上手に歌った。次第に場が和(なご)み拍手もあった。
次に誰も現われて来ない。これだけでは少し寂しいナア、どんな進行をするのだろうか?と思って居たら、中隊本部の中村伍長の大きな声がして「第二小隊の小田上等兵やれ」と声が掛かった。一瞬ドキリとし、困った事に為ったと思った。「居ないのか、早く出て来い」と再度声が飛んで来た。
もう仕方が無い、立ち上がり「ハイ」と答えた。何を歌おうかと思案したが、この場は軍歌では無く流行歌で軟らかく歌うのが好いと思った。よし映画「愛染(あいぜん)かつら」の主題歌「旅の夜風」を歌おうと決心した。 ♪「花も〜嵐も〜踏み〜越えて〜〜行くが〜男の〜生きる道〜」と大きな声で一生懸命に歌った。
拍手があったかどうか覚えて居ないが、兎に角責任を果たしてホッとした。 中村伍長は、川添曹長の下で庶務や人事係の仕事を直接遣って居り、遂最近上等兵の選考をしたらしいから、その時私の経歴や教育期間中の成績、又中隊本部通信班に所属した最近2・3ヵ月の評判等を好く承知して居て、少しでも皆にアピールして遣ろうとの咄嗟の気持ちから指名して呉れたのだろう。
後から考えると涙が出る程嬉しく有難かった。余程の事が無い限り末端の兵隊にこの様なチャンスが与えられる事は無い筈なのに・・・・
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その内、空襲の回数が次第に増え、ある日焼夷弾(しょういだん)に拠り近くで山火事が起きたので火消しに行った。川添曹長に着いて行ったのだが、長靴を履いて居るから足が重い筈なのに早く走る。流石に現役の曹長、気合いが入った人だと驚き感心した。
このお寺の敷地内には、他の部隊も来て居り見知らぬ兵隊とスレ違う事があった。最近内地から来たのだろうか、彼倮二等兵が私に対して先に敬礼するではないか。照れ臭かったが受礼した。初めての出来事だった。
そうだ自分は遂最近上等兵に為り三っ星を着けて居るからだ。軍隊に入ってからこの方、敬礼は何時もこちらが先にするものだと思い込んで居たので面食らった格好だ。『星の数』とは好く言ったものだ、ここは星の数が全てを決める社会なのだと実感した。
しかし、同じ中隊の中では顔は好く知って居るし、同期のものが少し位早く上等兵に為ったとて誰も敬礼等しては呉れ無い。野戦ではそんな事を言って居られない。我々の部隊に新兵が約一年遅れて補充されて来たが、ホンの小人数なので我々は何時まで経っても最下位にランクされた兵隊だった。年が経ち星の数が増え上等兵に為ろうと兵長に為ろうと下が来無いので立場は変わら無かった。
プロームの町を目指して敵機が又も夜八時頃爆音を轟かし遣って来た。真っ暗だから何機居るのか分から無い。爆音の響きから4・5機は来て居るのだろう。急にパアッ、パアッ、パアッと照明弾を次から次にと落とす。
十個位もあり落下傘(らっかさん)に吊るされて居るので、フワリ、フワリ、ユックリ落ちて来て地上を明るく照らす。その明るさは六キロ離れた此処でさえ影が映る程だから、真下は非常に明るく照らされて居る事だろう。不謹慎(ふきんしん)な事だが一瞬、美しい眺め珍しい光景であるとさえ感じさせられた。
ここプロームは、日本軍の兵站基地で、弾薬、食料、衣類等が集結されて居るので、敵は執念深く攻撃して来て居るのだろう。
地上を照らし、建造物を確認して於いてから焼夷弾や爆弾を投下するのだから仕方が無い。下からは敵機の姿は逆光で全く見えずそれに対空火砲も無いのだから敵の思うままである。やがて「ドンー」 「ドンー」と爆弾の破裂音が地響きを立てて聞こえ、夜空に火の手が上がるのが好く見えた。あの辺に友軍が居り痛めつけられ、大きな倉庫が燃えて居るのかと思うと身震いが止まら無かった。
◆内地からの便り
お寺の境内に居る頃内地からの便りが届いた。母からのものが二通あった。出したのはもっと沢山だったかも知れ無い。文面は父は元気に小学校へ勤めて居るが学校でも防空演習等で忙しく、本来の勉強や教育をする時間が足り無く為り困って居る事。
母は内助の仕事を色々して居り、妹は勤労奉仕で軍需工場へ働きに駆り出されて勉強が出来ないが、頑張って居る由だった。
母が一生懸命に私の事を祈って下さって居る事が、文面から伺われ有難く懐かしく読んだ。母の優しい顔が目に浮かび、何物にも勝る親と子の情愛の深さ切れ無い太い繋がりをシミジミ感じた。
この時、米沢の西澤とよ子さんからの手紙も受け取った。物資不足で困って居る事や勤労奉仕の事が書いてあった。女学校四年生に為ったが戦争中の事なので、上級学校を何処にしようかと思って居る事等が書かれてあった。
特に印象に残ったのは「小田さん元気で頑張って下さい。米沢のさくらんぼが一生懸命にお祈りし待って居ます」と書いてある文面であった。
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米沢のさくらんぼは淡黄の薄紅色で甘酸っぱく舌触りが爽やかであった。その時代の若者や我々学生達は、初恋の味がするもの初恋を象徴するものとして愛し食べた特産品だったので、彼女もその意味を込めて認めて呉れたのだ。
どんなに胸を時めかして呉れた事か、一文字一文字がどれ程優しく温かく、彼女をどんなに懐かしく思った事か。清純なセーラー服姿が目蓋(まぶた)に浮かぶ。
当時軍隊に出し入れする手紙は検閲(けんえつ)され、余り変な事は書け無い時代であったが、さくらんぼが待って居るのであれば幾ら検閲を受けても誰にも分から無い言葉であった。彼女と私にしか分から無い大切な味わいのある表現だった。
私はこの手紙をその後何回も何回も読み返し、ずっと服の内ポケットにしまい込んで肌身離さず持って居た。長い間持ち続ける間に外の封筒は破れ、汗に汚れ雨に濡れグシャグシャに為ってからも確り抱き絞め、お守り代りにし、少しでも時間があると開いて見危険な時もその事を思い出し勇気を出した。
しかし、敵に追われ、雨に遭い、水に浸かり、弾丸の中を潜る間に何時の間にか不覚にも失ってしまったが「小田さん、さくらんぼが待って居ます」と云う一節は何時までも心に沁(し)み込んで居て私を温め勇気づけ励まして呉れたのである。
つづく
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一兵士の戦争体験 その8
その8
◇レミナの町
◆中隊本部通信班へ所属
アラカン山脈
この町はアラカン山脈の南端山麓(さんろく)の東方20キロに位置する平地の中にある長閑な町であった。レミナに到着した頃、中隊本部に指揮班とは別に金井塚中隊長の側近に通信班が編成され、師団司令部と無線で連絡を取る様に為った。通信士、暗号士達が師団司令部等から派遣されて来た。
溝口通信班長、清水通信士兵長、平松通信士上等兵、三枝(さえぐさ)暗号士上等兵、原上等兵、中隊長当番構(かまえ)一等兵、それに無線機器に詳しいと云う事で私、小田一等兵が選ばれ配置された。中隊本部の全員が居る建物とは少し離れた所に大きな屋敷の上等な民家を借り上げ、無線アンテナを張りこの八人で一つ屋根の下で日常生活をする事に為った。
金井塚中隊長は陸軍士官学校出身のエリート大尉で、公式の場で全員に号令を掛ける時の威厳は素晴らしく近寄り難いものがある。我々兵隊からすれば雲の上の人で滅多に言葉を掛けて貰えるものでは無い。しかし、起居を共にし八人で毎回食卓を囲んで一家団らんの形で話して居ると親しみも増し、中隊長からも内輪的な話や冗談も飛び出し和やかな雰囲気を醸し出すのである。
逆に言えば、トップに立つ人の孤独を些かでも慰(なぐさ)める事が出来たのでは無かろうか。その頃、内地から何個かの慰問袋(いもんぶくろ)が届き、中隊長が受け取ったその中に松竹の映画女優水戸光子のプロマイドが入って居た。中隊長は独身でパリパリの最中で大いに喜び我々にも見せて呉れ楽しんだものだった。
2・3日後の夕食の時「今日、この家の持ち主のビルマ人にこのプロマイドを見せ、これが俺のワイフだと言って紹介して遣ったら、ミヤージカウネー(大変よい)美くしく綺麗だ素晴らしい奥さんを持って居られ幸せだと言って呉れた。他愛の無い嘘(うそ)が上手く行った」と話され明るく「ワッハッハッ。ワッハッハッ」と笑われたものだ。
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その頃ビルマのお祭りがあり、奇麗な衣装を纏った婦人が大勢出て舞ったり踊ったりして楽しく平和で長閑だった。又部落の運動会があり我々兵隊も参加する等良い雰囲気であった。
部落民は中隊長がトップである事を知って居るので、この通信班の所へ好くビルマのご馳走を作って持って来て呉れた。中隊長のお陰で我々もご馳走を一緒に頂いたが、食う事が楽しみな兵隊には嬉しい事であった。
この間、幾らかのビルマ人とも言葉を交わし接触する事も出来た。又、軍票で買物が出来、現地たばこのセレーやバナナ、マンゴウ等を買って食べたものだ。
ビルマでの戦争中の2年と戦後抑留中の2年の計4年間を振り返って見て、レミナでのこの様な生活が一番楽しい時であった。中隊長や溝口曹長(そうちょう)等中隊首脳の方と一緒に住み可愛がって頂き戦況も穏やかな良い二ヵ月余であった。
・・・しかしその後の惨憺(さんたん)たる転進作戦で、8人の内5人が戦死され、復員出来たのは溝口指揮班長と構(かまえ)兵長と私の三人だけだった。
その構君は爽やかな人間性を備え、戦争中も立派な働きをし復員後も元気で我々ビルマ会の世話をして呉れて居たが、四年ばかり前に亡く為られ今では語る相手は溝口さんと私だけに為りシミジミと寂しさを感じる。皆様のご冥福をお祈りし感慨無量、時は遠くへ流れ去って行く。
中隊本部は、この様にレミナに位置して居たが、各小隊は当時南部アラカン山脈を横断しクインガレーからインド洋側にあるグワ地点に向かって輸送業務を開始して居た。険しい山道で、車は使用出来ず馬の背中に荷物を乗せて運ぶ駄馬方式で、苦労し、全行程八十キロを六区間に分けて逓送(ていそう)して居た。
アラカンの虎
その頃通信班長の溝口曹長の提案で第一中隊の新聞を発行しようと云う事に為った。皆が一ヵ所に集まれ無いので責めてこれにより情報を伝達しようと云うのである。私に原稿を書く様に命令された。新聞と言ってもB四版で一枚位のものであった。それをガリバンで刷って各小隊各分隊に配布するのである。
ある時、我が中隊が輸送業務を遣って居る前線の山中に虎が出ると云う情報が入った。こちらは武装して居るし鉄砲を持って居るのだから、その内、虎を仕留(しと)めるだろうと興味本位に原稿を書いた。溝口通信班長に見て貰い、愈々ガリバンに掛け印刷し終えた所へ班長が急いで帰って来て「新聞は未だ配っては居ないだろうな」と尋ねられた。「未だです」と答えた。
「そうか、それで好かった」「虎が出て兵隊が遣られたり、闇夜に出て来て大変らしい。興味本位の記事は差し控えた方が好い状況だ。もっと深刻な様子らしいぞ」との事でその時の配布は取り止めに為った。
その後通信班もその輸送ルートの山の中、虎の出没する地点に前進して行った。当時通信班には馬が居ないので現地の小型の牛二頭に引かせる牛車に装具一式を乗せ山坂や谷を渡りやっと辿り着いた。ここは、本当にみすぼらしい竹で出来た家が5、6軒あるだけの山の中であった。我々通信班も野宿は出来ないので竹で小屋を造り虎に備えて周囲を竹の塀で固めた。
実際は気休めで、虎が入ろうと思えば一溜りも無い粗末なものであった。輸送を担当する分隊や班がこの近くにも分散して竹小屋を造り休んで居り馬は近くの林に繋(つな)いで居た。この付近に居る40人程の為に共同炊事場もあり纏めて飯とおかずを調理して呉れて居た。輸送班は我々通信班がここへ来る以前から奥へ奥へと山深い中を輸送して居た。
◇アラカンの虎
◆虎を捕る仕掛け
我々第一中隊は、昭和18年12月から19年2月頃まで南部アラカン山脈を横断し、クインガレーからグワへ向かって弾薬食糧等を輸送する任務を帯びて居た。
グワには兵兵団(つわものへいだん)の岡山歩兵聯隊第三大隊(畑大隊長)が警備に就いて居り、その部隊に補給をして居た。片道歩いて五日位の山又山の中の道、雑木が茂る細い道を馬の背中に荷物を乗せて運んで居た。
その間民家は無く、毎日野宿で山の中にゴロ寝をして居たが幸い乾期であった。その頃現地人から、この辺りに虎が居る事を聞いては居た。しかし、我々は多勢で居るから心強いし虎が居れば射ち殺せば好いと思い安易に考え高を括(くく)って居た。
夜も皆平気で無防備のまま露営しゴロ寝をして居た。その内、虎が出て来る事が分かり虎を獲ろうと云う事に為った。虎が通る道と思える辺りで真夜中に大火を燃やして待って居た。虎は火を嫌うと云う事で火を焚(た)きそれを10人位で囲み、皆外側を向いて虎が来るのを警戒しつつ虎を獲ろうと銃を持ち弾を込めて待って居た。でも暴発しては危険なので安全装置のみはセットして居た。
「虎の肉は美味いだろうか。皮はどうするか?」等と捕らぬ狸為らぬ、虎の毛皮の胸算用をした。「虎は死して皮を残すと云う位、貴重で高価なものと聞くが、どうするか?」等と云う話の最中に、誰かがタバコの火を着けようと火の方に向いてシャガミ込み背中を外側にした。
虎は人間の隙を狙って居たのだろう。瞬間、その兵隊目掛けて闇の中から突進して来た。直ぐ隣に居た兵隊が咄嗟に銃を突き出し構えた。勢い好く駆けて来た虎は急に止まったかと思う間も無く反転して、元来た方向に駆け出して逃げた。突風の様な一瞬の出来事であった。
安全装置を解除し発射したが、もう虎は何処へ逃げたか分から無い。闇夜に鉄砲とはこの事で、当たる筈も無い。この様に、虎が近くに来て居るのに人間は何人居ても全く気付か無いが、虎は夜行性でじっと人間の様子を伺って居るのだ。相対して構えれば来無いらしいが隙を狙って襲い掛かるものだと分かった。
◆虎による被害
ある日の夜中に馬の啼(な)き声が可笑しい。馬は本能的に虎の気配を感知するのだ。馬当番の兵隊は、馬の様子から虎が近くに来たのではないかと感じて当番兵2人の内の一人が薪を燃やそうとしてしゃがんだ。
その途端虎は後から隙の出来た笹山一等兵の首に一撃を食らわした。気絶したか即死したか分から無いが、虎は彼を口に咥えて逃げて行った。明くる日、私達10名ばかりが銃を持ちその後を辿り死体収容に行った。野原の草に血がポタリポタリと滴り、虎は兵隊を咥えたまま2メートルもある崖を跳び上がり跳び降り谷川を渡って居た。
ビルマの虎は、大きく小牛でも咥えて逃げると聞いて居たが、人間の一人やそこら軽々と、猫が鼠(ねずみ)を咥えた位に走って居た。虎は山を登り谷を跳び越え密生した雑木の中を潜り抜けて居た。昼間は人間も目が見えるし10人もの目があるからと思ったが、それでも不気味(ぶきみ)だった。大きい山を二つ越えて行くと途中に彼の着けて居た卷脚半(まききゃはん)や被服の破れが灌木に引っ掛かって居た。
雑草が踏み倒され通った後はハッキリ分かった。竹薮(たけやぶ)を通り抜けその奥の茂みの中に無残に食い千切られた笹山清一等兵の死体が在った。彼は私の隣の班で精勤に働いて居たのを好く見掛けて居たのに。
肉が裂け血が流れ出て余りにも悲惨で見て居られ無かった。我々は泣きながら彼の遺体を携帯テントに包み持ち帰り火葬にした。
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数日後、今度は現地人が虎に殺された。その死体を直径四十センチもある大きな木の根元に置き8メートルばかり上の枝の分かれた所に櫓(やぐら)を組み、明るい内に四人が登り夜に為り虎が食残しの死体を食いに来た処を上から射とうと段取りをして満(まん)を持(じ)して居た。
四人は夫々小銃を持ち弾を込め、暴発を防ぐ為安全装置をし何時でも撃てる様に準備して居た。夜十一時を過ぎ十二時に為っても虎は来無い。月も落ち夜が更けて皆ウトウトし始めた。
その時、虎は一気に大木に飛び着き駆け登り櫓に足を掛け松本節夫一等兵の太腿(ふともも)に爪を立てた。彼は引き落とされ無い様に木の幹にシガミ付いた。久山上等兵が咄嗟に銃を構えたが、慌てて居るので安全装置が解け無い。
虎の大きな頭、ギョロリと光る大きな二つの目玉を直ぐ目の前にして動転しながらも銃口で虎の頭を叩いた。虎は構えられたのでスルリと一瞬大木の幹を飛び降り音も無く走り去った。やっと安全装置を解いて撃ったが空しい技である。
虎は食べ残しの死骸を食べるより生きて居る人間を襲って来たのだ。それにその高さまで跳び上がる事が出来るのには驚くばかりである。結局一人の負傷者を出してしまった。松本一等兵はその傷が深く、黴菌(ばいきん)が入ったのかガーゼが太股を通り抜ける様に為り、後方の病院に送られたがその後彼の事は分から無い。
◆虎の恐怖
そんなある日、竹で造ったあばら屋で屋根は椰子(やし)の葉を並べただけの宿舎へ、夜中に屋根から虎が飛び込んで来た。床は竹を割って並べたものだからフワフワで太い虎の足を挟み、蚊帳(かや)が虎と人間に巻き着くと云う騒ぎが起きたが、幸いにして怪我人も出ず虎もビックリしただろうが逃げて行った。
それからは、虎が出そうだとか出たと為ると皆で「ワッショイ、ワッショイ」と大きな声で叫び毛布をバタバタ振り上げて大きく見せる事にした。尚、それ以後は不寝番も外に出無いであばら屋ながら家の中に居る様にした。
私も時に不寝番をしたが、鹿に似た動物のノロの啼く声を好く聞いた。誰かが虎に追われて啼いて居るのだと言って居たが、虎が近くに来て居るかと思うと気持ちが悪かった。
又、静かな夜中に、小動物が動くのか落葉がカサコソと音を立てると、虎が足音を忍ばせて来て居るのではないかと不気味な感じに為ったものだ。
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ある日の朝「昨夜は馬の様子が可笑しかった」と誰かが言った。草原や普通の土の上では虎の足跡は殆ど残ら無いのに、炊事場近くの土間が洗い水で濡れ軟らかく為って居た所を歩いたのであろう、足跡が窪(くぼ)んで着いて居たが足跡全体がハッキリと好く見える程では無かった。
虎はその後直ぐに炊事場の大鍋の中を歩いたのだろう、奇麗に洗ってある鉄鍋の中に一個だけ土に汚れた足跡が鮮明に残って居た。大きな足跡で直径二十センチもあった。猫の足跡と体の大きさから比較すると、この足跡だと大変大きな体をした虎である事が想像出来た。子牛でも咥えて逃げると言われて居るがその通りだと思った。
飛行機による爆撃銃撃も恐ろしいが、音がするので分かるし逃げる間がある。けれど虎は音も無く闇の中から直接人間目掛けて襲って来るから恐ろしい。虎は一夜に千里(四千キロ)を走ると昔から過大に言われて居るが、疾風の如き早業で全く夜の魔物である。
他にも虎の被害を幾つも直接見たり聞いたりした。当初虎を捕ろうと意気込んで色々仕掛けをしたが、私の中隊では結局虎を獲(と)った武勇伝は聞く事が無く悲しい被害を被っただけであった。大分後に為って他の部隊で、自動車のヘッドライトに幻惑され虎が轢(ひ)かれた事があったと聞いた程度である。それ程虎を獲(と)る事は難しく被害ばかりが出て本当に恐ろしかった。
◇マラリヤの始まり
◆谷田君の場合
虎に悩まされて居る頃、私と一緒に2月15日に召集で入隊し同じ様に金井塚隊に転属して来た谷田一等兵がマラリヤに侵され毎日高熱で次第に弱って居ると聞いた。 我々が今迄一般に聞いて居たマラリヤは、二日熱とか三日熱とかで、高熱が出ても出たり引いたりし三日、四日苦しむが、薬を飲み治療し休んで居るとその内大抵治る種類で死ぬ事は無いと思って居た。
しかし、ビルマには悪性のマラリヤがあり、元気な人も急に悪寒(おかん)に襲われ一気に四十度を越す高熱が出てそれが連続して下がら無い。何も食べられず水ばかりが飲みたい。薬は今更飲んでも効か無いし下痢も始まる。一週間ばかりすると高い熱の為脳症を起こし意識が無く為る。後は三、四日生きて居るだけで終わりと為る。極めて恐ろしい種類のマラリヤが蔓延って居るのだ。
私はその時悪性マラリヤの事は知ら無かったが、谷田君の熱は悪性マラリヤだったのだ。彼は松江の出身で27歳、早大を出てこれ迄大手の商社マンとして東京に井田との事でインテリであった。入隊直後の寒い日の訓練中に彼がポケットに手を入れて居たと云う事で、殴られるは蹴(け)られるはで大変絞られた事があり、余り軍隊が厳しいので驚き気の毒に思った事があった。
隣の班だが、その時から彼を好く覚えて居り親しくして居た。そんな事で、私には「これが結婚して五ヵ月目の新妻の写真だ。これが二人で撮った最近のものだ」と言って懐かしみながら見せて呉れて居た。人生において最も楽しい時でもあり前途に大きな希望を持って居た事が伺われた。「早く内地に帰りたいナア、そして会社でウンと働きたいナア」と好く語って居た。
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彼は知識人であり軍事訓練等も好く出来るのだが、生意気で真面目で無い様に古年兵に睨(にら)まれたのか、班内でも気の毒だナアーと感じる事があった。言わば軍隊向きでは無く寧ろ文化人で常識家であったのだろう。
その彼が今悪い病に苦しめられて居るのだ。早速見舞に行くと彼は弱い声で「小田よ、病気だけには為るなよ。病気したら辛いよ。俺のはマラリヤらしいが、お前も蚊には気をつけなければいかんぞ」と言って注意して呉れた。
「有難う」と答えたが、私にはマラリヤがどんなものか、悪性マラリヤがどれ程厳しいものか未だピンと来なかった。「元気を出すんだぞ、頑張れよ」と手を握った。高い熱の為熱い掌であった。
3・4人の患者が、ここから後送される事に為った。鉄の車輪で出来た輜重車に乗せられ悪い凸凹のガタガタ道を揺られて行くのである。落ち無い様に縁に板囲いをしてあるが鉄の車輪だから直接応える。病人を乗せる様な車では無い。
しかし山の中で乗り物はこれしか無い。輜重車よりは歩いた方が増しかも知れない。毛布に包まって行く谷田一等兵に、無理に大きな声で「後方の野戦病院に着けば薬もあり、看護も好くして呉れるからきっと治るよ。頑張って来いよ」と激励した。しかし本心、そんな行き届いた野戦病院があるだろうかと不安な気持ちで見送った。
谷田君の身の回りの品物は少ししか無く、奉公袋(ほうこうぶくろ)と書いた青い袋が目に着いた。御国の為に奉公するとの意味で名づけられたこの袋、国の為に働きたいと思って居るのに病気に為り残念に思って居るだろう。
この袋の中にあの楽しそうに撮った新妻の写真も入れて居るのだろうか。嫌、もっと体に近い肌の温もりが伝わるポケットに抱いて居るのだろう。ガタリと音を立て車は動き出した。心より全快を祈った。
しかし、願い空しく二週間の後に、小さな骨壷に入れられて彼は中隊に帰って来た。冷たく為った固体が谷田君だ。発病以来二週間、何を考えどんなに苦しんだ事だろうか。戦争に勝って凱旋(がいせん)し打ち振る日章旗に迎えられたい、楽しい家庭を築きたい、もう一度内地の土を踏みたい。それが叶えられ無いの為らば、責めて華々しく戦って散りたいと思った事だろうに。
次第に悪化する病魔に抗する事も出来ず涙も出無い苦しい気持ちで逝った事だろう。丁度一年前の二月に入隊した当時の姿が二重写しと為り哀れを誘った。この遺骨は内地に送還されたが、戦況悪化の折、無事遺族の元に届いたか否か私には分から無い。
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このクインガレーからグワに向けての困難な駄馬に拠る輸送業務、虎との戦いも終わるのだが、その間に数人の犠牲者を出した。
馬も内地とは異なる気候で馬糧も乏しく重労働。鼻カタルに為って鼻から鼻汁を引っきり無しに出し弱って行く病気に為ったり、せ・ん・つ・う・(激しい腹痛)で、立って居る力も無く為り倒れ苦しんだり、色々な熱帯の病気で数頭死んだ。
馬は本当に利口な動物で人間の愛情に好く馴(な)れ、一緒に生活して来たのに可哀相で為ら無い。戦争が無ければ住み慣れた田舎で平和な日々を送って居ただろうに。我々兵隊は、馬の為に随分苦労もさせられた。しかし切っても切れ無い間柄と為って居る。馬が悶(もだ)え死んで行くのを見ると哀れで為ら無い。馬はどんな気持で息を引き取って居るのだろうか、馬は馬為りに死が分かるのだろうか可哀相で痛ましい。
◆第二小隊十二班に帰る
三月上旬、命令が下り移動が始まった。山を下りクインガレーから後方に退き、懐かしいレミナの町を通り抜けヘンサダの町に来た。その間四日間の行軍が続いた。その頃、通信班が解散したので、私は金井塚中隊長や溝口班長と分かれて中隊本部から元の瀬澤小隊の自分の班に帰って来た。その時、寺本班長は他所に転属し古参の戸部兵長が班長に任命されて居た。
行軍は、輜重車に我々中隊の装備を乗せ馬に引かせて行った。ここ暫く山の中で幾らか標高の高い所に居たので余り暑く無かった。しかし、遮蔽物(しゃへいぶつ)の無い平地の道路では日中の暑さは矢張り応えた。
南部アラカンの山から降りて久し振りに見る町の様子は、子供達が元気で遊び若い娘達が奇麗にして居り何と無く和やかなものを感じた。
以前から、ビルマでは日本軍は軍紀を正しくして居り、現地人からひ・ん・し・ゅ・く・を買う様な事は一切して居ない。娘さんを見ても冷やかす様な事もせず、秩序正しい兵隊として行動して居た。けれども、久し振りに見る女性の優しい姿に思わず目がそちらの方に向くのは仕方の無い事であった。
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一兵士の戦争体験 その7
その7
四 ビルマでの軍務と移動
◇ビルマに進駐(しんちゅう)
◆ラングーン港で荷揚げ
甲板(かんぱん)に上がり感慨深い気持ちで初めてパゴダ(仏塔)を見た。緑の丘の上に建って居り、沈んで行く夕日に赤く彩られた黄金のパゴダは何とも言えない美しい姿をして居た。これがビルマでの第一の印象だった。夕闇が迫り町の明かりが点々と点(とも)され始める様子を眺めながら「愈々目的地ビルマに着いた」の感を深くした。
パゴダ(仏塔)
日も暮れ、今夜はこのまま船に泊まるものと思って居ると「各小隊は班内の部屋に帰れ」との放送があり、帰ってみると瀬澤小隊長から「本日これより下船作業をする。昼間に為れば敵機の襲撃を受ける恐れがある。夜間作業だから特に気を着けて遣れ」との命令である。
輸送船のブリッジと波止場側に照明灯が明か明かと点灯され、船のウインチがガラガラと音を立てて動き始めた。日本から遥々(はるばる)運んで来た兵器、弾薬、輜重車、馬具類、馬糧、食糧、雑品等多くの荷物を降ろす重労働が続いた。
深夜の作業と空腹でスッカリ疲れ果てた時「今夜の作業はこれで中止する」との命令が届いた。それと同時に一人に二個ずつの握り飯が配られた。腹がペコペコなので有難かった。
何時もの事だが手袋も無く、素手の作業だから手は汚れに汚れて居るが夜の事でどれ程汚れて居るか分から無い。しかし手を洗う水が何処にあるのか分から無いし照明が効く以外の所は暗くて危険である。それに疲れ切って居るので汚れた手で握り飯を受け取りムシャムシャと食べた。
やっと一息着き、各自の装具を枕にし臨港倉庫のコンクリートの上に寝転んだ。広々とした大地に足を伸ばして寝るのは久し振りで気持ちが良い。
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2・3時間寝たのだろうか、夜明けと共に「起床」の声が掛かり再び船から積み荷を降ろす作業が始まった。馬も吊り挙げられ次々と波止場に降ろされた。長旅で疲れて居るのと吊られる事に慣れた所為か暴れ無く為り扱い易(やす)く為った。
私の馬「金栗号」も無事着いた。遥々ビルマ迄連れて来られた馬達も可哀相なものだ。全ての荷物を降ろし終え全員下船したのはもう午後に為ってからだった。
今度は輜重車を組み立てて弾薬等全ての荷物を乗せた。波止場の倉庫に積んで置くのでは無く港から兵站宿舎迄運搬しなければならない。ここからは愈々本番だから、以前とは違いしなければならない仕事が沢山あって時間も掛かり労力も大変なのである。
長い間、船底に繋がれ運動不足に為って居た馬に、行き成り鞍を置いて弾薬等の荷物を沢山乗せた輜重車を引かせるのは厳しい事だが仕方が無い。
幸いラングーン港から宿営地まで八キロ程度で余り遠くは無く平坦な舗装道路であった。その上に、雲の多い日で暑くも無く人馬共に助かった。船から見えた大きなパゴダはシュエダゴンパゴダと言ってビルマで一番立派で有名なものであるが、その横をグルリと半周し回って行った。このパゴダは近くに来て見上げると実に大きく、周囲に小さなパゴダを沢山従えた素晴らしいもので目を見張った。
輓馬で輜重車を引いてそこを通り市内を進み、夜八時頃ラングーン駿河台宿舎に到着する事が出来た。馬を近くの林の中に繋ぎ飼(かい)を与え、決められた兵舎に入って携帯する装具を片付け終わった時は深夜に為って居た。ここで五日間過ごした。
軍馬の手入れ、兵器の手入れ、備品等の員数点検と整備を行なった。長い旅の後、しなければならない事は沢山あった。馬には青草を刈って来て与えて遣らなければならない。林の中に沢山の馬がアッチコッチの木の幹に繋がれて居た。勿論屋根も無く小屋も無い。
それを見張る当番を交替でするのだが、三日目の夜は私が当番に為った。日暮れ前に皆が来て馬糧と水、乾燥の草を与え馬体の手入れをして呉れたが、作業を済ますと皆は帰りその後は我が班では私一人である。
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班の馬は17頭、この夜は雲が多く真っ暗だった。頼りはローソクの灯(あか)りだけで一頭一頭の顔を覗いて見る。ユラユラするローソクの灯りの所為かどの馬も元気が無さそうだ。私は休む処が無いので土の上に腰を降ろして居ると居眠りが着きそうに為る。でも充分見張りをしなければなら無いので立ち上がり繋いだ綱が解け無い様に見直しをした。
ローソクも沢山無いので必要の無い時は消して居た。暗い夜で林の中ではどちらが馬の頭か尻か見当が着か無い。夜中、2時頃だろうかポツリポツリと雨が落ちて来た。困ったナアと思って居る間に凄い雨に為った。用意して居た外套(がいとう)を着た。立ったままが一番好い。薄い外套を通して雨が浸透して来る。外套の頭巾(づきん)に雨がザンザンと音を立てて降り注いで来る。
好く、バケツをヒックリ返す様な酷い雨だと表現をするがそんな事では無い。ドラム缶の水を頭から浴びせ掛けられる様だ。 馬には覆う物等何も無い。ズブ濡れに為ってしまって居るがどうする事も出来ない。篠突(しのつ)く様な雨は一層激しく為り、傾斜地を水が駆け降りて流れて来るのを足に感じる。真っ暗闇の中で何処がどう為って居るのか見当も着かない。
馬が時々身震いをして居る気配を感じる。私も馬もじっと我慢するより仕方が無かった。早速、ビルマの雨の洗礼を受けたのだ。これが雨期末期九月の雨だった。 先々この五、六、七、八、九月と続く長く激しい雨期の雨に泣かされ、多くの戦友が命を奪われる事に為ろうとは思わ無かった。
雨期に対し、十、十一、十二、一、二、三、四月は雨は一滴も降らず乾燥してしまい草は枯れ灌木(かんぼく)は葉を落としてしまう様な乾期と為る。それ程気候の変化が激しい風土とは知ら無かった。
◆ピュンタザの町に移る
4・5日後、ラングーンを離れ他所へ移動する事に為り早朝より丸一日掛けて、全ての荷物を兵站から運び出して、輜重車を分解し弾薬箱等多くの荷物を次々に鉄道の貨車に積み込んだ。列車は機関車、貨車共小型のものであった。馬も夕方に為り天蓋(てんがい)のある貨車に引き入れ順序好く並べて繋いだ。陸の上だけの作業なので乗船時のウインチを使用しての作業に比べると楽であった。
しかし、長い踏み板を貨車の端に掛け、傾斜した板の表を馬に歩かせるのだから滑ら無い様に注意する必要もあり少しの事故でも起こさ無い様にしなければなら無かった。積込み作業中、フト見ると貨車の隅に小型のサソリが2、3匹蹲っていた。用心用心。
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馬に飼を与え厩当番を貨車に残し、我々はその晩は疲れた体を庇いつつ駅の倉庫の中でゴロ寝した。夜中に蚊がブンブンと顔を刺しに来たが跳ね除け跳ね除け眠った。
何処へ連れて行くのか知ら無いが、我々を乗せた貨車は北に向かって走って居る様だ。貨車の箱には左右に入り口の開口部があるだけで全く風の入る所が無い。日中は天蓋(てんがい)が焼けて暑い事暑い事、馬も同様に暑い思いをして居る筈だ。
山の無い広い平野や田園の中を、玩具の様な汽車は遅いスピードでコトコトと走って行った。半日位してピュンタザと云う町に着いた。マンダレー街道に沿った町で鉄道の機関庫がある一寸した町だった。レンガ造りの確りした家や木造でトタン屋根の家が多かった。その様な中程度の町であった。中心に大きな池のある町で、現地人は皆民族の衣装を着て居た。この町の比較的良い家を借り上げて使用した。
我々は異国の兵であるが、一つ場所に別に兵舎を建てて住むのでは無く地域混住の様な状態で民家を借りて住んで居るので、町の人々に接する機会が多く幾らかビルマ人の生活や言葉を見聞した。この頃は、日本軍の勢力が強く、敵の飛行機はこんな普通の町を空襲して来ないので安心して地域内に混住出来たのである。
◆当時のビルマに付いて
民家を借りて居るのだから道を通るビルマの子供が遣って来る。親しそうに「マスター」「マスター」と言って来る。何処の国の子供も可愛いいものである。大人達も道を通って居て目を合わせるとニッコリ会釈し「日本の兵隊さん、今日は」等と片言の日本語で挨拶をする。
初めて見るビルマ人は、男も女も大人も子供も皆ロンジと言って、丁度女性の腰巻きに似たもので少し余裕のある筒状に為って居るものを前の方で絞り大きく結んで腰に巻き付けて居る。別の紐(ひも)で縛(しば)って居るのでは無くロンジの端で上手に結んで居るのだが決して解けて落ちる様な事は無い。下には何も纏ってい無い。上半身にはエンジと云う袖の着いた薄手の上着を着て居る。それだけである。
戦場に架ける橋
男のロンジは茶色等地味なものが多く、女のは赤や緑等派手なものが主で、エンジは白い布のものが普通である。普段の作業着とお祭りで着るものとは色も物も違う。又、上流階級の人の身に着けている者には絹地に金糸銀糸を刺繍(ししゅう)した艶やかなものもある。
履物は普通、皮草履かサンダルの様なものを履いて居るが、子供達は裸足(はだし)が多く大人も農夫等は裸足で固い足の裏をして居る。
ビルマ人の大部分は、我々日本人や中国人と同じ黄色人種で、しかも日本人と殆ど変わら無い様な顔付きをして居る。強いて言えば、我々が夏に日焼けして居る位の色で、中国系の人は美人も多くスリムなスタイルの人が多い。ビルマ人にも色々な人種があり、印度系の人は色が濃くそれ為りの顔立ちをして居る。だが、多くの人は日本人と似て居るので先ず親近感を覚える。
ビルマは長い間英国の支配下にあったのだが、それを駆逐した日本人だと云う事で敬意を以て戦勝者を歓迎して呉れて居る様でもある。日本軍もビルマ進駐当初より軍規を守り決して現地人に対し悪い事はしないで良好な親善と宣撫(せんぶ)工作の結果信頼されて居た。
一般的に貧しいが、仏教国で皆が仏心を持って居て素朴で好感が持てる。後で分かった事だが民族の主流はビルマ族で、カレン族・シャン族・チン族など多くの部族・種族から生って居る様である。
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広い平野に恵まれ、米の大産地だが原始的農作業で牛や水牛による農耕が主である。田舎に行く程住居は見すぼらしく、丸木と竹の柱に竹で編んだアンペラの様な物で周囲を囲み、屋根は椰子(やし)の葉で葺(ふ)いたものであった。寒い国で無いからこれで住んで行けるのだ。
日常生活の主な道具は「オウ」と云う焼き物の瓶(かめ)で、これに水を入れて運んだり米を炊いたり、おかずもこれで煮る等万能の器である。女の人が上手にこの瓶を頭の上に乗せ水を運び、又大きな籠(かご)を頭に乗せバナナやマンゴーを売って歩いたり重い荷物を運んで行き来して居るのを見た。
ビルマでは何と言ってもパゴダだ。ラングーンを初めどんな田舎の町や村に行っても大小様々なもの、金色に輝くものから白亜に引き立つもの時には形の珍しいものなどがある。又、仏像が各地にあり様々な形や姿勢をして居る。
それにポンジーと称する僧侶が多い。僧侶は地域の指導者で知識人であり子供を集めて寺子屋式教育をして居る。又男の子は一度は小坊主に為って修養する事に為って居る。朝は托鉢(たくはつ)に出るのが日課で、大人から子供の坊さんまでが一列に行儀好く並んで歩いて居るのを見掛けた。
僧侶が修行の為お経を唱えながら鉢を持って家々を回りご飯やおかず等の施しを受けるのだが、市民もお祈りの気持ちで托鉢に喜捨(きしゃ)をして居た。ビルマ人の心はこの様にして培(つちか)われて来たのである。 又、僧侶は直ぐにそれと分かる黄色の法衣(ほうい)を着て居るが、格別な地位と考えられて居る。法衣を女性には触れさせず、母と言えどもその例外では無い事に為って居て厳格なものとされて居る。
・・・以上は50年余り前の戦争当時の状況であるが、現在は都市ラングーン(ヤンゴン)辺りは自動車も増え単車も走りテレビも上層階級には普及しており、僅かではあるが高い建築物も建ち変化して居る。しかし、その文明開化のスピードは遅く基本的に大きな変化は無く民情はそのままの様である。尚、政情不安定を伝えられて居るが早く平和で文化的な国として発展する事を祈念する。
・・・戦争中、一部には日本軍に敵対行為をした者も居たがビルマ人の温かい心に支えられ、終戦後の2年間の抑留(よくりゅう)生活中も陰に為り日向(ひなた)に為り俘虜(ふりょ)の我々日本人を気の毒に思って助けて呉れた。その気持と恩を忘れる事は出来無い。これは私個人だけで無く生還した戦友達皆のお礼の言葉である。
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本筋に話を戻そう。ピュンタザの一ヵ月は、空襲も無く平穏な日々が過ぎ要約雨期も終わりに近づいた。汚い話だが、便所に行き下をみるとその辺りで大きな魚が糞塗れに為りバチャバチャ遣って居る。今まで雨期で一帯の水溜まりの中を泳いで居た魚が便所の辺りに来て居る間に雨期が終わり、そこに取り残されてしまい糞魚に為って弱って居る所だ。この様に雨期には家の下迄水が来て湖に為るのだ。
その頃乾期を迎え火祭りが行なわれ、現地人が奇麗なロンジやエンジを着て集まって来た。ビルマの女性は髪にブウゲンビリヤの花を飾るのが好きで、若い女性の華やいだ姿もチラホラ見え若者達も楽しそうであった。我々は見るだけで、中に加わる程の親しさには為って居なかった。
何処の国でも女の子は美しいものだと感じた。メロデイーに合わせて日本語で「今日は〜楽しい〜水祭り〜水を掛けましょう〜あの〜人に〜」と替え歌として歌われて居た。こうして季節の変わり目を祝い豊作を祈願するのだ。
私達のこの頃の楽しみは、鉄道機関区にある大きな風呂に入りに行く事だった。長い期間水浴だけだったのでお湯に入り伸び伸び出来た事は有難く忘れ難い事であった。以後ビルマに居た四年間でドラムカンで湯を沸かし入ったのを除けば、湯ぶねのある風呂に入ったのはこの時だけであった。
ある日、飛行機が一機飛んで来た。「これは日本軍のだ」と誰かが説明した。頼もしく思い飛行機を見上げた。しかし残念乍ら私はその後ビルマに居る間中友軍の飛行機を一回も見る事は無かった。この様に次第に制空権を英印軍に握られてしまうのであった。
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平日は内地に居る時と同じ様に、厩作業や馬運動をし青草を刈って来て与え兵器の手入れをした。又時には士気の高揚(こうよう)図る為野外演習が行われた。 一ヵ所に纏めて炊事場があり、各班は飯上げにそこに行き持ち帰って分けて食べた。ビルマ米は内地米に比べるとパサパサして味が落ちるが、段々と慣れてこんなものかと思う様に為って来た。
軍服もボツボツ傷み掛け、膝拳の所が破れ始めたので木陰の下で慣れ無い手つきで補修し、その後序に洗濯をした。 ♪ 「泥に〜塗れた軍服を〜洗う〜貴方の〜夢を見た〜、本当に 本当に ご苦労ね〜」と云う歌を口ずさみ乍ら。我が家に居れば母親が針仕事も洗濯もして呉れるだろうナアと思いつつ身の廻りの事をした。
その後多少時間もありビルマに来て初めて軍事郵便の葉書を書いた。両親や、勤務先の東京の会社を始め、米沢の彼女 西澤とよ子さん、内田富士雄君の浦和の家等に送った。検閲(けんえつ)があるので元気に遣って居ると近況を知らせる型通りの文面にしか為ら無いが、心の中では本当に懐かしい思いを込めて書いた。
◇移動は続く
ビルマのお寺
◆モダン村お寺の境内
その後、十月上旬には移動が命じられ再び汽車輸送でヘンサダへ行き、そこから河を渡る事と為った。大きい舟が無いので馬を泳がせて幅30メートル位の河を渡ったが、馬も初めての事で馴れ無い泳ぎは下手だが一生懸命に泳いだ。
小舟に乗った兵隊が手綱を持って誘導し勇気付けて遣りやっと渡る事が出来た。又、蚊の大群に襲われ眠る事もどうする事も出来ず一夜を明かした事等、苦しい旅を3、4日続けて後、田園の真っただ中のモダン村と云う平和な部落に着いた。
我々十二班はお寺の境内の一棟を借りた。他の棟には僧侶や中学生や小学生位の子供の坊さんが大勢住んで居り朝夕のお勤めをして居た。我々も一層軍規を厳重に守る様注意した。
同じ境内なので井戸は共同使用で水浴もお互いに時間をズラして決まり好くした。広い境内の離れた林の中に馬を繋いだ。大人の坊さんも青年の坊さんも子供の坊さんも日本語を好く勉強して居る様子で「馬を叱らずに一草を与えよ」と標語を書いて置くとそれを読む様に為って居た。
戦いに勝った国の威信は大したものだと思うと共に、僧侶が知識人の上位にあると言われて居るがまさにそうだと実感した。収穫時を迎えた広い平原の田んぼ一面に稲がタワワに実って居た。流石米の国ビルマであると感じた。
その頃「敵の空挺(くうてい)部隊がグライダーの大編隊で、日本軍の守備の薄い地帯に一気に降りて来るから警戒を充分する様に」とのお達しがされたが、この辺りでは全くそんな気配は感じられずノンビリして居た。
◆歩哨(ほしょう)に立つ
深夜一人で歩哨に立って静かに澄んだ月を見て居ると、何時しか私の心は内地へ帰って居り内地の月も同じ様に出て居るだろうにと思った。星が美しいが、ここは南に寄って居るので内地で見る星座とは少し違う。遥か南の地平線の上に南十字星が十の字を象りサソリ座も大きく端から端まで姿を見せて輝いて居た。
今頃家では何をして居るだろうか?田舎の小学校の校長として父は、戦時下の教育に苦労して居られるだろうナア。 母は父の任地の学区で官舎に住み地元の人との融和に努め内助する立場だが、我が親ながら素晴らしい人柄だから、きっと円満に遣って居られるだろうと信頼して居る。
何にしても物資が無い時勢で苦労されて居るだろう。妹は学校の寮に泊まり勉強して居るが、食物が少なくそれに勤労奉仕で苦しい目に遭って居るのではないか?と思い巡らすのであった。
私が学生生活をした山形県米沢市。下宿させて貰った西澤家には大変お世話に為ったが、戦時下で物資の欠乏はそこにも及んで居るだろう、どんなにされて居るだろうか。取り分け、仄かに思いを寄せて居た言葉の綺麗なとよ子さんは、当時県立女学校(現在高校)へ一番で合格出来たとお母さんが喜んで居られたが、もう女学校の高学年に為り娘らしく為った事だろう。
才媛の面影が懐かしく思い出されて来る。その彼女も今頃はモンペ姿で勤労奉仕に駆り出されて居るのだろうか。
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青春時代、学生時代を過ごした所は誰にとっても懐かしい所だ。紅葉の吾妻(あづま)山、松川の清流、山並みに輝く雪景色、上杉神社の佇まい。それに私は米沢市民の礼儀の正しさと人情の豊かさ親切な心を忘れる事は出来ない。
又、学友達殆どの者が軍隊に入り気合いを入れ頑張って居るだろうが、何処でどんなにして居るか?お互いの消息も無いが皆の顔が浮かんで来る。
一年間勤務した東京無線電機株式会社の川添課長や斉藤係長を初め、先輩、同僚達はどんなにされて居るだろうか?私の手掛けた軍用無線機は実用化され活躍して居るだろうか?
イラワジ河
何時まで、このビルマの地に居なくてはなら無いのだろうか?丈夫で再び内地へ帰れる日が来るだろうか。戦争に勝って早く帰れれば好いが、そう為れば、あの会社に勤めうんと仕事をするのだが。
それから西澤とよ子さんにどの様にして自分の気持ちを伝えようか、等と空想を描いてみるのである。内地を出発以来、新聞も無ければラジオも無く太平洋戦争がどう為って居るか全然分から無い。只、戦争は容易には終わら無い戦い抜かなければなら無いらしい。どうも暗雲に閉ざされて居る様で明るさが感じられ無い。しかし、負ける様な事はあるまいと自分に言い聞かせるのである。兎に角、我々は確りビルマで戦うのだ。そうすれば、何時かは帰れる日が来るのだ。そんな思いが頭の中で堂々巡りをする。
歩哨(ほしょう)に立って誰にも邪魔されず、この様に過ぎし日を懐かしみ、現実を肯定し自分を労わり将来を描いて居ると交替の兵隊が来る。「不寝番交替(ふしんばんこうたい)」「異常なし」「ご苦労さん」と瞑想(めいそう)は破られる。
こうして、比較的平穏な日々が過ぎて行った。しかし鉄道が爆撃を受け直径十メートルもある大きな穴が開いて居るのを見た。この頃から敵の爆撃がビルマの中部平原に対してボツボツ始まった様である。このお寺の敷地に宿営したのは二十日ばかりで又移動した。
今度は鉄道利用、徒歩行軍、その後イラワジ河の支流を舟に乗って遡り、三日ばかり掛けて次の部落レミナへと進んで行った。
つづく
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一兵士の戦争体験 その6
その6
◇宇品港出港
輸送船
◆積込み作業
6月下旬の夜は短く早く明け、目が覚めた時は列車は宇品駅に着いて居た。ここも貨物のホームである。昨日荷物を積み込んだ貨車も馬を積んだ貨車も横の線路に到着して居た。早朝から、荷物や馬を貨車から降ろす作業、それを艀(はしけ)に乗せる作業、艀から輸送船へ積み込む作業が始まった。
荷車・輜重車
分解した輜重車を車体と車輪に分け貨車から降ろす。港が浅いと大きい船は岸壁に着か無い。そこで波止場から本船迄、全ての積み荷を台状で縁に柵の無い艀(はしけ)と云う舟が運搬するのである。
艀に荷物を乗せ、200メートル程沖に停泊中の本船に横着けしウインチで巻き上げる。ここでは船舶兵が居て、荷物の置き場所や置き方を厳しく指示して居り専門家の彼等に従わざるを得ない。車体は車体ばかり、車輪は車輪ばかり纏め、場所を取ら無い様に所定の船倉の奥深い場所から詰めて置くのだが、一回に十台分位の輜重車がウインチで釣り上げられて行く。次から次に運び込んでも限りが無い。
兵器や弾薬、各種の装具、馬糧、兵隊の食糧等の積込みが済むと次は馬の番である。貨物列車から馬を引き降ろし波止場迄連れて来るのだが、馬も昨夜一晩中汽車に揺られて疲れて居る上に列車の乗り降りは馴れて居ないので、踏み板の上を歩かせる時は滑りそうに為り大変だった。
それより、艀には縁(へり)に柵が無いので確り鼻を持って居ないといけない。一匹の馬でも暴れ出すと大変だ。馬は驚き慌てる性質を持って居り海に落ちる様な事に為ると人間も危ない。兎に角艀の上でガタガタし無い様に用心することだ。
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次は、艀の馬を本船のウインチで吊り上げて搬入して行くのだが、馬絡(ばらく)で馬の腹を締め様とするとガタガタと暴れる奴も出て来る。そしてウインチで引き上げ様とすると急に走り出す馬も居り、又暴れ回る馬も居るのでそんな時は我々は必死で馬の鼻のろ・く・を捕まえて置かねば為らない。一歩誤れば、海に落ちてしまう。
危ない事この上も無い。馬絡(ばらく)で馬の腹を締めてウインチに掛ける困難な作業は、古年兵でモサの藤川上等兵や横田上等兵達気合いの入った兵隊が遣って呉れ助かった。馬もガタガタして居るが、ウインチで吊り上げられてしまうとどの馬も観念するのかじっとしてしまう。不思議なもので、一本でも足が地面に着いて居る間は暴れて居るが離れたら自分の力が及ば無いと感ずるのか大人しく為る。
一頭一頭吊り上げては船に入れ吊り上げては船に入れるのだが、足が船の床に着いた途端に又暴れ出すものもあり緊張の連続であった。
続いて船底の馬房(ばぼう)に入れるのだが、船底の馬房の仕切りは狭く一頭一頭がやっと入れる位の大変窮屈なもので、身動きも出来ない位詰め込まれ、しかも、船に揺られ揺られて何日も動け無いのだから馬も本当に可哀相なものである。この様にして馬が全部運び込まれる迄には相当な時間が掛かった。
やっと終わったと思って居たら、新規に弾薬が沢山送られて来てそれを積み込む作業が別に増えた。皆蟻の様に一列に並んで艀まで弾薬箱を肩に担ぎ、積み込みを済ませるとヘトヘトだった。
戦場では弾丸が無ければ戦え無いし弾丸が命である。だが、今日の場合疲れ切って居た上に余りに多く重たい弾丸だったので「有り過ぎるのも困りものだ」等と苦し紛れの声も聞こえて来た。朝から晩まで働きやっと積み込みが完了した。輜重隊はその名の通り輸送部隊であるから荷物や持ち物が多く乗船も大変である。長い夏至の頃の早朝より日暮れ前までタップリ一日掛かった。
船内に馬の当番と積み荷の監視当番を残し日が暮れる頃やっと宿屋に着いた。大勢の兵士が泊まるのだから充分なサービスを期待するのは無理であるが、何しろ入隊以来五ヵ月も女の人と話した事が無いのだから「兵隊さんご苦労ね、明日は外地に出て行かれるのお元気に」と優しく声を掛けて呉れ、一生懸命に世話して呉れる気持ちが自然に伝わって来て有難く嬉しかった。
ここでは久し振りに畳の上で、軍隊ではアルミの茶碗にお碗アルミの箸で情緒が無いが、お膳で出された飯を食べた。又軍隊では昼夜通し同じ肌着と服なのに此処では浴衣に着替えた。その上軍隊では寝具は毛布だが、ここでは触りの良い夏布団に寝る事が出来、内地の娑婆(しゃば)の夜を些かでも味わう事が出来た。
「何時の日にか再び畳の上でお膳の飯を頂く事が出来るだろうか?」と思いつつ休んだ。皆寝静まったのか、柱時計がコチコチと時を刻んで居た。
◆乗船
我々は銃と剣そして装具一式を背負い艀(はしけ)からタラップを登り本船に乗船した。セレベス丸と云う5000トン級の貨物船である。暫くして船内の狭い階段を上がったり下がったりして、私達十二班に与えられた場所へ入って行った。
真に狭い、高さも広さも。元々貨物船で荷物を入れる場所を上下二段に仕切って居るので、高さ一メートル弱で立つ事は絶対出来無い、這(は)って奥に入るより仕方が無い。 一人当たりの面積は五十センチ角も無い様だ。装具を置くと一杯だ。荷物をキチンと置き人間が座っただけでギュウギュウの箱詰めである。一人が横に寝る為には三人が外に出て行か無ければ面積は取れ無い状態で息詰まる様だ、無茶だ。
それに薄暗くて照明も極めて悪く、薄汚く人間の居られる様な場所では無い。しかしどうしようも無い。それだけの広さと高さしか与えられて居ないのだ。敵の潜水艦に遣られたら人が一杯で船室から逃げ出すことは絶対出来無い。
装具を置いて甲板(かんぱん)に出てみた。遠くに広島市の北の山が、近くに宇品の町並みが見える。気が着くと他に貨物船が二艘(そう)居り兵隊を一杯乗せて居た。同じ輸送船団を組むのだろう。どの船も水や油の補給をして居り、アチコチに連絡用のモーターボートが走って居た。
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夕方近くに為り錨(いかり)が引き上げられた。何の合図も無く船は動き始めた。他の二艘も動き始めた。
夕闇の彼方に小さな町の灯火が次第に遠退(の)いて行く。戦友の橋本二等兵や三方二等兵達と何時までも甲板に立ち舷側(げんそく)の手摺りを固く握って居た。若い兵士の胸に熱いものが込み上げて来て声も出無い。唯(ただ)黙ったままであった。
これで、愈々内地ともお別れだ。父母兄弟、妻や子供の住むこの国を出るのだと重苦しい気持ちに包まれて居り、征途(せいと)に就くと云う勇ましいものでは無かった。
船での一夜が明けた。甲板へ上がって見ると関門海峡を通過して居る所だった。船団は六艘(そう)に為って居た。下関の端の部落へ大きな声をすれば届く程だが、もう内地と私達の間には絶対に届か無い遠い遠い隔たりがあった。何時しか船団は五島列島の沖を走って居り、漁師が小舟から手を振って居た。船団は南西に向け進んで居る。
次の日、夜が明けてみると様子が可笑しい。何処だろう?「関門海峡を瀬戸内海へ入った所だ」と皆が言って居る。確かにそうだがどうしたのか分から無い。船団が忘れ物をして引き返したのでも無かろうが、命令が変わるのだろうかお粗末な事だ。
戦況が好く無いのか敵の潜水艦が接近したとの情報によるのかも知れ無いが、上層部が何かにつけ、狼狽えて居るからだろうと思った。次の日は又出発だ。再び五島列島沖を通過して居るが二、三日が浪費された事に為る。
◇輸送船内の様子
◆寿司詰
軍歌で「アーアー堂々の〜輸送船〜」と勇ましく歌われて居るが、実態は貧しく非常に窮屈(きゅうくつ)である。どの船も、各船室は兵隊が寿司詰めに為って居る。船倉の深い部分に輜重車や弾薬を積み、馬も深い船底の辺りに居るが、そこに新鮮な空気を送る為に扇状の大きな幕で前進方向からの風を捕らえ、布製の大きなダクトを通して船底の方へ空気を送る仕掛けがされて居た。貨物船を俄かに改装したのでこの様に為って居るのだろう。
それに、千人もの人を急に乗せる事に為ったのだから便所が足り無い。当然の事だ。対策は?甲板外側の手摺(てすり)りの外に食み出して木組みがされて居る。丈夫な木と板で出来て居るが、屋根も無ければ囲いも無い。吹き通しで床は二枚の板が適当な間隔で渡してあるだけである。
空も周囲も下の海面も好く見える。眺望絶佳(ちょうぼうぜっか)の完全な無臭トイレだ。そこで便をするのだが、始めは余程糞(くそ)が溜まってからで無いと出て来ない。それに風の強い日には吹き飛ばされそうだし、下を見ると波頭が上下に5、6メートルも動いて居り、海面が遠く為ったり近く為ったりで大便をするのも恐ろしく勇気が必要と為るのだ。
飯と汁を各(おのおの)の飯盒(はんごう)と飯盒の蓋(ふた)へ貰って食べるのだが、所定の班内の場所は狭くて入れ無いので浮浪者の様に甲板のアッチコッチニ座り、適当に食べる。食べた後はホンの僅かの水で洗う。おかずは塩干魚(えんかんぎょ)等で変わりばえもしないが、船の飯は蒸気で炊いてあり幾らか塩気もあり、案外美味しいのが責めてもの慰(なぐさめ)めだ。
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その後、船団は東支那海に入ったのか前後左右に大きく傾き揺れる様に為った。私は、宇野・高松間の国鉄連絡船に乗った事はあるが、こんな大きい船に乗って居ながらこんなに揺れるのは初めてであり、気持ちの悪い事と云ったら酷いものである。立てばフラフラ、ヨロケ通しである。寝転んでも目が舞、酷い船酔いで飯も喉を通らず激しい空嘔吐(からおうと)をするばかりである。
戦友も三分の二以上が酷い船酔いで弱って居る。酔って居ない者が馬の世話や飯上げ等をして呉れた。何処に行っても堪ら無い。気分転換と思い馬の所に行ってみたが、そこは馬糞の臭(にお)いで余計に気分が悪く為るだけで処置無しである。
二、三日が経過し船の揺れが納まり掛けると船酔(ふなよ)いはケロリと治り忘れた様に為った。飯は食べられるし足取りも確りして来た。甲板に出ると太陽が眩しい。大分南に来たのだろう。沖縄列島だろうか小さな島が遥かに見えた。
船は昼も夜も走り続けて居る。だが、何時もジグザグコースで行くので日にちばかりが過ぎ案外南への距離は伸びて居無い様であった。ジグザグコースを取るのは潜水艦の攻撃を避ける為だそうだ。
素人の私でさえ、そんな事では避けられはし無いだろうと思った。敵の潜水艦はもっと速度も早いし優秀な観測機と正確な魚雷を持って居る筈である。子供騙しも好い処だ。でも、ジグザグをし無いよりはした方が好いのかも知れないが。
ジグザグコースで蛇行し進んで居るのだが、前の船と次の船の方向の違いは直角と言っても好い位なので、五日掛かる処を十日掛かるのは当たり前の事である。これは昭和18年7月の事だが、この時既に敵の潜水艦に対し、かくも戦々恐々(せんせんきょうきょう)とした有様だった。
◆船内の生活
もう一週間位体を洗って居ない。各人、飯盒(はんごう)に一杯の水を貰い洗うのだが、先ず顔を洗い頭と体に移る。上手に使わ無くては直ぐに無く為ってしまう。水がこんなに貴重で有難く有効に使えるものとは今まで思った事も無かった。幾らか清潔に為り気持ちが好かった。
処で、飯盒には色々の使い道があり、水入れ、お米入れ、飯炊釜(めしたきかま)、お汁の鍋、おかず入れの食器として使われる外、この様に洗面器代りに為ったり、場面によっては汚物入れとして使われるかと思うと貴重品入れとも為った。
勿体無い事だが、一番安全な保管方法として戦友のお骨入れに為る事も屡々であった。将に万能の道具であり、後の話に出て来るが敗走千里の道で最後には命の次に大切なものと為るのである。
船の中で割り当てられた場所は非常に狭いので、上甲板(じょうかんぱん)の設備や荷物の間に横たわるだけの場所が見つかればそこへ寝るのだ。場所取りもその日の早い者勝ちである。何時も我々は救命袋を携えて居りそれを枕にして居た。幸いに熱帯地方の海上だから寒く無くて有難い。雨と露が凌げれば好いのだ。
そんな一等場所が取れ無いと、厩に行き馬と馬の間に渡した境の太い木の枠の上で寝る事に為るが案外悪く無い。馬も時には大きなお・な・ら・を落とす、丁度私の頭の辺でやるから堪ら無い。だが暫くの辛抱だ。
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船の中は狭いので時に総員上艇(じょうてい)と云う訓練があり大変だったが、平日は朝晩皆で体操をしたり軍歌を歌ったりして士気の高揚を図って居た。
好く晴れた日の航海は例え戦場に運ばれて居ても緑の島等が見えると爽やかで楽しいものであり、船が白波を残して進んで居る様は一幅の絵に為ると思えた。又、何時敵の潜水艦に遣られるかも知れ無いと思うと心配でもあったが、どう思ってみても仕方の無い事であった。
ある闇の夜「潜水艦が居る。全員非常体制に入れ」の命令が出た。甲板に上がり救命袋を身に着け、遣られたら直ぐに海に飛び込める体制で暫く緊張の時間が続いた。船の灯火は全部消して居り不気味な時が流れたが幸い攻撃されずに済み事無きを得た。
何日目に為るであろうか、台湾の東側を南に向け航海して居る。花蓮港(かれんこう)の町には気がつか無かったが、確かに高い山並みが海岸に迫って居た。それに沿って更に南下し台湾の南端の岬をグルリと回り進路を北へ取り高雄(たかお)港に着いた。
子供の頃に高雄の事を地理で習って居たが愈々来たかと思った。波静かな青い港があり辺りに南国の樹木が茂り、熱帯の果物が実り何だか不思議な魅力を感じた。
◇ビルマへの道のり
◆高雄へ上陸
「馬を上陸させて休ませよ」の命令である。船底に居る馬を一頭一頭ウインチで吊り上げ波止場に降ろした。この港では直接岸壁へ接岸出来て艀(はしけ)は不要であり幾らか楽であった。
しかし、瀬澤小隊だけでも百頭からの馬で、波止場から五百メートルばかり離れた公園らしき場所に連れて行き繋(つな)ぐのだから、全部終る迄には五時間程掛かったと思うが、兵隊に取っても馬に取っても大変な仕事である。
陸の上で馬糧(ばりょう)を食うて居る馬は嬉しそうである。新しい水を一杯飲んで体調を整えて居るのだろう。我々も久し振りに陸地に上がり大きな風呂に入り体の垢(あか)を落しサッパリすると格別な嬉しさが湧いて来た。
台湾の本場でバナナを買って食べたが素晴らしい美味しさである。生まれてこの方こんな美味しいのを食べた事は無かった。 何日ここに泊まれるのだろうか?と思って居ると「出発準備」の命令だ。馬を降ろして一晩(十二時間)しか経って居ないではないか何たることか。
それでは、馬も兵隊も疲れるだけでは無いか。上の方の意志統一が出来て居ない証拠か。だが兵隊達がそんな事を言ってみても始まら無い。どの辺の上層部相互の食い違いか知れ無いが命令は命令だ。合理性等どうでも好い、命令が全てを支配するのが軍隊なのだ。
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早速、馬を船室に入れる作業に取り架かった。馬絡(ばらく)に縛られ馬は一頭一頭吊り込まれて行った。馬もこんなにして吊り上げられるのは嫌だろう。全員掛で又約五時間掛かった。幸い誰にも怪我は無く順調に乗船作業が出来、直ぐに出航した。
何の為か知ら無いが、次はボウコ諸島の馬公(まこう)に錨(いかり)を降ろした。しかし三時間程でそこを出港した。それからもジグザグコースを取りながら南へ南へと航海した。割合平穏で波も静かな日が続き、船内の生活も今迄通りでこんなものかと馴れて来た。
その頃厩当番に就いた。馬の糞を熊手の様な物で掻き出し集めてクレーンに乗せ海に捨てる作業、馬に餌を配分して遣る作業、水を飲ませる作業、異常は無いかと見て回るのだが多くの馬だから結構仕事がある。馬との関わりも半年になり常に用心は必要だが馴れて来た。馬も我々の方に馴れて来たのだろう、言う事を好く聞く様に為って居た。
護衛艦(ごえいかん)が高雄(たかお)辺り迄来て居たが、その後この航海には着いて居ない。どうしたのだろうか。 又、初めの内は飛行機が時々飛んで監視して呉れて居たのに、今頃は全く姿を見せて呉れ無いのが心配だ。輸送船団は無防備の丸裸、遣られればそれだけの事で助かる事は先ず無いだろう。
◆サイゴン(現在ホーチミン市でベトナムの首都)へ上陸
数日後、船団は大河メコン河を上り始めた。我々にも当時仏領インド支那のサイゴンに行く事が直ぐに分かった。6六千トン級の船が自由に航行出来る大きな河である。サイゴンの港に到着すると直ぐに下船(げせん)を命じられた。
宇品で乗せた全ての物を降ろして臨港の倉庫に搬入して置き、兵士は各自の装具一式を携行し馬と共に市内を行進して兵站(へいたん)宿舎に着き、馬は仮の厩(うまや)に繋いだ。
早朝よりまる一日掛の大仕事であった。前にも述べた様に輜重隊は多くの荷物、弾薬、食料等を同時に輸送して居るので、船からの積み降ろしが大変なのである。
ここでセレベス丸と別れた。好く此処まで無事に運んで呉れて有難う。市内を行くと、サイゴンは小パリーと言われるだけに美しい町並み緑の芝生の中に瀟洒(しょうしゃ)な建物が並び、商店街も奇麗に整い樹木が多く、垢抜(あかぬ)けのした美しい家があり清潔な感じのする街であった。若い女性が涼しげな美しい衣装で自転車で往来して居たのが印象に残った。
日本軍の佐官や尉官の車が行き来し、時に黄色の旗を立てた将官を乗せた自動車が人目を挽いて居た。流石南方総軍指令部のある拠点だけに日本軍人が威張って町の中を行き来して居る様であった。
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兵站宿舎での給与は良く、食料、砂糖、外国たばこ等を与えて呉れた。宿舎と厩が離れて居たので、飼(かい)を与える為にその間の道を行ったり来たりした。もっと街の様子を見たいと思ったが外出の機会が無く到着と出発の時に町並みを通っただけで残念だった。
10日ばかり滞在したが出航の日が決まり、その前日に船から降ろし倉庫に入れて置いた弾薬や輜重車等の荷物と馬を終日掛けて輸送船に搬入した。重労働も全員が一致協力して頑張るから遣れるのである。私の馬「金栗号(きんくりごう)」は体格は並みの大きさ、流れ星の栗毛で大人しい性質で私に好く馴れて居たが、積込みの合間に「お前も吊られたり降ろされたりで、ご苦労さん」と言って首を叩いて遣った。
当日は宿舎を片付け掃除を済ませ装具一式を携行して乗船した。美しいサイゴンの街に別れを告げ出港した。緑の平野が広く開ける中をメコン河が流れ輸送船団はその河を下って海に出た。
南の空は青く澄み海は静かでキラキラと真夏の太陽に輝く。その中を白波を立てて船団は進んだ。この頃はジグザグコースは止めて南に向かって一路航海して居る。鏡の様な海の中を右や左に島を眺め乍ら航海し数日の後にシンガポールに入港した。
シンガポール
◆シンガポール(当時は昭南島(しょうなんとう))へ上陸
入港の前に船から見る風景、私はこんな美しい景色を見た事は無い。海の色は翡翠(ひすい)の様に澄んで居り島の緑が冴えて居る。心がウットリとし見惚れる様だ。無銭旅行には勿体無い位だ。
しかし船が着けば重労働が待って居ると思うと気分が落ち着か無い。やがて接岸し、当然の事ながら下船命令が伝達された。何時もの様に荷物を全部降ろし弾薬箱や大型の荷物、分解した輜重車等を波止場に近い倉庫に格納した。
馬と兵隊は中兵営の宿舎迄五〜六キロを歩いて行った。朝から晩まで休む間も無い作業の連続で夕刻に為りやっと落ち着いた。ヤレヤレと思って居ると、一時間も経た無い間に「明日乗船せよ」の命令だ。どう為って居るのか?ものも言え無い程あっ気に取られたが命令である。
一夜が明け、馬を連れ装具を持ち波止場に行った。昨日格納したばかりの夥しい荷物を倉庫から運び出し、ウインチで輸送船に吊り込んだ。次に馬も一頭一頭馬絡(ばらく)で吊(つる)し船倉へ入れた。もう何回もするので作業には大分慣れて来たが、危険は付き纏いやはり大変な労働である。皆一生懸命したがタップリ一日掛かり、夜遅くやっと狭い船室に潜り込む有様であった。
夜が明け出航は何時だろうかと思い待って居た。その日は何も無く終わろうとした頃今度は「明日下船せよ」の命令が出された。全く猫の目の様に好く変わる、嫌、猫の目もこんなには変わら無いだろう。
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参謀達が、何かの情報により決めるのだろうが、更にはもっと偉い人がその他の状況から「それではいかん」として変更に為るのかも知れ無いが末端では大きく振り回されっ放しだ。しかし命令は絶対である。絶対だからこそこう為るんだろうが、兎に角大変なロスだ。負け戦の前兆とはこんなものだろうか?
命令に従い再び下船作業を丸一日掛でやっと終え、その日も夜に為り、中兵営に再び帰って来た。もうクタクタである。思えば忠実な軍隊であり兵隊である。その後二十日間位シンガポールの兵站宿舎であるコカイン兵舎に宿泊した。特別な訓練は無く、馬の世話と点呼と体操、軍歌演習、時に駆け足をして過ごした。
市内に出たのは二回ばかり、食糧の受領にトラックに乗り通った程度でアチラコチラを見物する機会は無かった。でもその時の、朝の霧に包まれた爽やかな空気、奇麗なアスファルトの街路、高いビル街、そこをロバがパカパカと車を引いて軽快に走る美しい街並みの印象は忘れられ無い。
大きいビルが所々に建って居り、その間に椰子(やし)の木が高く伸びて葉を拡げて居た。広い庭に緑の芝生を持つた豪華な住宅もあり素晴らしい南国の都市は見ただけでも長い船旅の疲れが癒(いや)された。
又、真昼の暑い最中に、夕立の様な大粒の雨が30分間位降るスコールが毎日あり、何とも気持ち好く暑さを忘れさせて呉れ有難かった。市街地から少し離れた場所を通った時、その広場に夥しいトラックや自動車の残骸があった。敵味方両方の物であろうが只驚くばかりの量である。一年半前に日本軍がこの地を攻略した時の戦争の爪跡がここに鮮明に残って居るのである。
南方軍総司令部の一部
シンガポールには南方軍総司令部の一部が置かれ、我々の居る兵営の近くにある立派な邸宅は将校宿舎として使用され、高級将校が乗用車に黄色や赤の旗を靡かせて出入りして居た。この様に街は日本軍の権力下にあった。
私が臨港倉庫の監視当番の任務に就いた時、その近くで英軍の捕虜が車で荷物を運搬して居る姿を見た。20人位の集団を、鉄砲を持った小柄な日本兵が監視して作業が行なわれて居た。暑い熱帯の太陽光線を浴び、帽子も被って居らず上半身裸である。白人の白い皮膚が赤色に日焼けして汗を流して居た。
「哀れだ、気の毒だナア―」と一瞬感じた。「でも捕虜だから仕方が無いではないか」と頭の中で肯定した。
シンガポール陥落時の山下将軍とパーシバル将軍の会談の姿を思い浮かべた。勝者と敗者の立場の違いはどうする事も出来ない。2年後よもや逆の姿に為ろうとは私は思っても居なかった。
倉庫の監視当番をして居たが、些か退屈し波止場の方に行ってみた。そこでインド系の顔をした現地人と出会い、私の片言英語と彼のシンガポール英語で話を交わした。手真似足真似を加えながら相対して話をするとかなり意味が通じる。
「日本から何時来たか?何歳か?お前の名前は?兄弟は何人居るか?」等単純な会話をした。しかし、彼はその後に「イングリッシュ、シュワー、ヴィクター」英国が必ず後で勝ち日本が負けるだろうと言った。 理由を言ったか否かは今では記憶に無いが、戦いの広がりが急だったのでシンガポールでは、英軍の戦闘体制が未だ整わず戦力を固めて居ない先に攻撃されたので負けた。しかし、根本的に両者の装備、近代兵器の程度の差を見て彼等はそう感じて居たのだろう。
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私も入隊前に友人の内田君が「シンガポールで捕獲した戦利品のレーダーが優れた性能を持ち、日本はその真似をして試作して居る」と言って居た事を思い出し、嫌な情報としてこの予言者の事が頭の中にこびり付いて離れ無かった。
シンガポールのコカイン兵舎に駐屯中特別の訓練は無く、次の命令待ちの状況で時間に余裕がありのん気に過ごした。幹部候補生の試験の事は常に頭の片隅にあったが、何時試験があると言った情報も無く目的が目の前に無い上に戦地に向かう途中と云う気持もあり、それに切瑳拓磨(せっさたくま)する相手も無くて遂安易な方に陥り勝ちで勉強らしい勉強もせず漫然と日を過ごして居た。
南国の夜空は澄み南十字星やサソリ座が美しい。内地は今八月で蒸し暑い夜が続いて居る筈で、こちらの方が寧ろ爽やかな様に思われた。
20日位経ったある日、乗船命令が来た。予てから、「ジャワは天国ビルマは地獄」と言われて居た。ジャワは気候も良いし戦況も落ち着いて居るが、ビルマは気候が悪く病気も蔓延して居りしかも戦況が悪いと云う意味であったが、ビルマで使用する軍票(ぐんぴょう)その紙幣が渡された。
これで行く先は地獄のビルマと決まったのだ。セレベス丸と同じ様な貨物船を改装した輸送船に今度も丸一日掛けて荷物と馬を運び込んだ。その次の日にシンガポール港の岸壁を離れた。美しい町よさようなら。
船団は六艘位か、好く分ら無いが北へ向かって舵が取られた様だ。ペナン沖で輸送船が敵の飛行機に遣られ無残な残骸(ざんがい)を晒していた。それを目前に見て我々の船も何時遣られるか分から無いと思うと急に不安に為って来た。
戦地に近づくに連れて飛行機と潜水艦の恐怖を一層感じる様に為った。更に北上を続けて居ると、突然「空襲警報」の声。甲板に上がってみると西の空に点々と飛行機が見えた。
二機がこちらへ向かって飛んで来る。キラキラと太陽に輝いて居るなと思って見ていると、爆弾が落とされた。かなり離れた所に居た貨物船が攻撃され一艘が爆撃を受けて沈んだ。アッと云う間の出来事で夕闇の迫る頃であった。幸いに我々の船団では無かった。
翌日船団はラングーン港を目指し大きな河を上って行く。前方の森の上に金色に輝く塔を発見した。大西一等兵が「あれがパゴダだ」と教えて呉れた。近づくに従い段々パゴダが大きく見えて来た。
つづく
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一兵士の戦争体験 その5
その5
三 野戦部隊の出征
◇野戦部隊の編成
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◆野戦部隊金井塚隊と留守部隊有元隊
昭和18年4月初めに大規模な動員が下令(かれい)され野戦部隊が編成された。姫路の輜重兵第54聯隊もその編成の中に組まれ金井塚中隊長以下殆どの人が動員された。それに加え今迄に支那事変に行った軍歴のある人や、経験の無い新兵等多くの人が召集され部隊が編成された。
我々2月に入隊した教育中の者は留守部隊として残された。そしてこの留守部隊は有元隊と名付けられ我々教育中の者の他に今迄の金井塚隊の中に居た人も若干はその留守部隊に残された。それに加えて別に下士官や古年の兵隊が召集されここへも穴埋めに大勢入って来た。
野戦部隊と為った金井塚隊は全員姫路の北東20キロにある青野ヵ原(あおのがはら)演習場の兵舎に集結し内地を出る迄の間待機しながら訓練を受ける事と為った。部隊名は54師団で師団長は片山四八閣下、通称「兵(つわもの)兵団」で、輜重兵第54聯隊は聯隊長太田貞次郎中佐で通称10120部隊と称した。
部隊の編成は聯隊本部の他に、第一中隊は輓馬(ばんば)中隊で中隊長金井塚久中尉、第二中隊は自動車中隊、第三中隊も自動車中隊と為って居た。 私達はそのまま留守部隊有元隊で引き続き橘教官の元で訓練を受けて居た。しかし大仲助教と大森助手は野戦要員として出て行ったので助教と助手は他の人に替わって居た。その様な中で私は消灯後の勉強を遣って居た。
橋を渡る輜重部隊
5月終わり頃のある日、留守部隊有元隊の人事係の大仲准尉(じゅんい)より急に呼び出しがあり「小田二等兵、お前は好くやって居るらしいが幹部候補生の試験を受ける気はあるか?」との質問があった。
これに対し「ハイ、有ります」と私は即座に答えた。かねがね、この時勢ならば軍隊に3年や4年は引っ張られるから甲種幹部候補生の試験に合格し見習士官に為り将校に為らねば為らぬと思って居たので、その様に答えた。
「そうか、優秀な者には元気を出し、幹候を通って貰わ無くては為ら無いんだ。だが、ここの有元隊は留守部隊で幹部候補生の試験は無いんだ」 「外地派遣の部隊54師団の輜重聯隊(しちょうれんたい)為らばその試験があるからその方へ行ってはどうか? 今まで金井塚隊に居た事でもあり馴染みもあろうから」と話された。
私は色々考え幹候を受けたいし、この間まで所属して居た金井塚隊には親近感もあり、それに外地と言ってもジャワへ行くのでは無いかと噂もされて居り、ジャワなら内地に居るのと余り変わら無いのではないか等と思い俄かに金井塚隊へ転属する事に為った。
◆留守部隊有元隊から野戦部隊金井塚隊へ転属
私の外に教育兵から二十名ばかりの者が選ばれて転属する事が決まった。この転属が後に大変な運命の岐路(きろ)に為ったのだがその時は想像も出来無かった。
橘教官を初め同期の教育兵達が皆で送別会をして呉れた。送別会と言っても別に酒や料理がある訳では無い。酒保(しゅほ)から僅かな菓子を買って来て食べる程度の事であったが、野戦へ行く者を心から送って呉れた。その折、橘見習士官が別れを惜しみ歌を歌って下さった。
♪「今宵(こよい)出船(でぶね)か〜 お名残(なごり)惜しや〜 暗い波間に〜 雪が散る〜 船は見えねど〜 別れの辛さ〜 沖にゃ鴎(かもめ)も〜 啼(な)くわいな〜」
と・・・今でもこの歌を歌うと、その時の光景や橘教官の面影が思い出され言い知れぬ懐古の情が湧いて来るのである。
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転属の日、私は同期の兵隊約二十名を引率して留守部隊の人に挨拶を済ませた後、トラック一台に乗り青野ヵ原の輜重聯隊の聯隊本部に到着し申告(上官へ申し出、伝えること)をした。その時、各人の配属先が指示され、夫々の中隊、小隊、分隊、班に分かれて行った。私は金井塚中尉の率いる第一中隊の中の瀬澤少尉の率いる第二小隊で、藤野軍曹の第四分隊で、その第十二班で班長寺本上等兵の配下に編入された。班員は二十名だったと思う。
参考として、輜重聯隊の総数は約800名で、その内第一中隊の総数は約400名であった。第一中隊の中には、編成前の金井塚隊に居た川添曹長(かわぞえそうちょう)や藤野軍曹、助教だった大仲伍長や木下上等兵等、知った顔が先々に会った。
十二班には寺本班長の次に古参の上等兵や一等兵が約半数居り知ら無い人ばかりだった。残りの半数はこの度初めて入隊した新兵であった。私も新兵の部類だった。寺本班長は、私が入隊して以来今日迄の事や教育訓練中の事を知って居たらしく、その様に皆に紹介して呉れた。皆も快く受け入れて呉れ殆ど違和感は無かった。寧ろ、特に親切にして呉れた様に思われた。
南方に行くのだから、それ為りの服や装具や兵器が支給された。又、厩に行くと元の金井塚隊から連れて来た馬だから見覚えのある馬が沢山居た。
倒れ込む馬に水を飲ます兵隊
十二班には17頭の馬とそれに見合う輓馬用車両が十数台あつた。馬には「金月」とか「金並」とか「金紫」等と名前が付いており「金月」は橋本二等兵が担当し「金並」は松本一等兵が「金紫」は田中一等兵が担当する様に責任者が決められて居た。色々様子が分かった頃私には「金栗」と云う名前の馬が割り当てられた。
毎日の訓練や内務班での生活や厩の作業も留守部隊の有元隊でしていた事と余り変わりは無かった。戦友の誰彼とも仲良く為って来た。馬の運動の為乗馬してかなり遠い小野の町辺りまで行く事もあり、緊張もするが楽しい時でもあった。
◇外泊と肉親
家族とのお別れ
◆惜別の情
内地出発の日が間近に迫ったある日、一泊二日の外泊が許された。「お前達、もう直ぐ外地に向かう。一日家に帰って来い」とのお達しがあり私も帰らせて貰った。
今まで内地に居り余り感じ無かったが、ここ一週間以内に外地に出て行けばもしかすると再び内地へ帰れ無く為るのではないかとシンミリ思う様に為って居た。家には、電報で帰宅の旨を連絡して置いたので、両親と、妹も岡山女子師範学校(岡山大学教育学部の前身)の寮から帰って待って居た。皆、もう私が外地に出発する事の覚悟はして居た様であった。私も余り多くを話す気に為れ無かったが、家族に会えて一泊出来た事は確かに嬉しい事であった。
今まで、毎日の内務や訓練で忙しく「これから外地に行くが死ぬ事に為るかも知れ無い」等と深く考える余裕は無かったが、こうして家に帰り静かな時を持つとしみじみ考えさせられるのであった。
夕闇が迫る頃、縁側に出て庭を眺めると南天(なんてん)の花が白く咲きかすかな香りを漂わせて居た。子供の頃から庭先にあった南天だが、再び生家に帰りこの南天を見る事があるだろうか? 遠くに佇む懐かしい山の輪郭を夕闇が包みこんで行く。
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この頃、既に戦況は苛烈(かれつ)の度を加え、悪化の方向に向かって居るのを感じて居たから尚更(なおさら)そんな事を思ったのであろう。その晩は、材料の乏しい時勢ではあったが、母が都合して来て呉れた鶏肉の鍋を囲み親子四人で食べた。お互いに思う事は一つだが誰も口に出さ無い静かな夕食だった。
暫くして母が、近所の様子や出征した人の話を次々にした。これらは今の私達に取っておよそ意味の無い話でしか無いのだが、辛さを紛らわす為に話して居るのだった。そして自分の置かれて居る境遇が如何なるものかをツクヅク感じさせられた。
久し振りに、田舎の五右衛門風呂に入った。この四ヵ月の間、ユックリした気分で風呂に入った事は無かったが、今日は入浴中に着て居る物を盗まれる心配も無く悠然と風呂を楽しむ事が出来た。又、柔らかいフワフワとした布団の感触に何とも言えナイ幸福感を味わう事が出来た。それは母に抱かれた幼い日を思い起こす様であった。真っ白い枕カバー、それは王子様に為った様な気持ちがした。
静かに夜が更けて行く。隣の部屋の明かりも消えて居る様だ、枕にポタリと涙が一と滴・・・・眠れ無い・・・・そうだ、遺書を書いて置こう。
「遺書」
「お父さんお母さん、愈々外地に向かって出て行く事に為りました。僕はもう、二度と帰って来る事が出来ないかも知れません。生まれてからこの方、二十年余り本当にお世話に為りました。
私は今まで、本当に幸福に過ごして来る事が出来たと思って居ます。何とお礼申し上げて好いか分かりません。このご恩をお返しする事も無く出征して好きます。私は日本人として恥ずかしく無い様御奉公して来ますから安心して居て下さい。
足った一人の妹の幸福を願うと共に、僕が居なくても妹と一緒に幸せに遣って下さい。又、親戚の人や私の友人にも宜しくお伝え下さい。
私はもう何も言えません、只これだけを書き留めて置きます。もしもの時はこの遺書と同封の東京で最後の散髪をした時の髪の毛を祀(まつ)って下さい。お元気で」
と認め、やっと眠りに着いた。夜が明けると、弥上(やがみ)の氏神様「見上(みかみ)神社」と、先祖のお墓にお参りした。何時の間にか時間が来て親子四人揃って四キロの山道を歩いて万富駅に来た。妹は岡山行きの列車に乗り、両親と私の三人は姫路行きの列車に乗るので別れた。その時妹が「兄さん元気でね」と言って呉れたが声は潤(うる)んで居た。
加古川駅に着き青野ヵ原方面行きの軽便列車に乗り換えた。速度の遅い列車が小さい駅に止まり止まりして行く。乗客は比較的多く私達三人は立って居た。 両親と愈々最後の別れの時が迫って来た。今生(こんじょう)の別れに為るのかと思うと涙が出て来てジーンと胸が詰まって来た。
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だが「俺は男の子だ。若い立派な兵隊だ」そのプライドで他の乗客に涙を見られたく無く、気づかれたくも無かった。じっと涙を堪えたがどうしようも無かった。両親はどんな気持ちだっただろうか? 恐らく私以上に悲痛な思いであっただろう。もう、惜別の情耐え難く話す事も顔を見る事さえも出来なくなり、只俯いて居るだけであった。
青野ヵ原駅まで行ってから別れると為るともっと辛く為るので一駅手前で父母は下車した。私は別れがこれ程辛いと思った事は無かった。小さな列車は直ぐに発車した。気を取り直し涙を拭き終わる頃、青野ヵ原駅に着いた。我に返り元気好く大門廠舎(だいもんへいしゃ)の門を潜った。
・・・四年後、無事復員してから後に、妹から母がその当時何回も「その時の別れが辛かった。敦巳(あつみ)にもう会え無いか、もう有れッ切り敦巳と別れてしまうのかと思うと悲しくて悲しくて、身が引き裂かれる思いがした。本当に辛い別れであった」と話して居た由を知り、親が子を慈(いと)しむ思いの強さに心を打たれた。
◆最後の日
愈々、青野ヵ原を出発する事に為った。何処へ行くのか知ら無いが長い旅が続くのである。今日一日は携行品の手入れ、検査、兵舎の後片付け等で忙殺(ぼうさつ)された。
馬達も明日の出発を知って居るのだろうか?静かに休んで居る。このボロ兵舎でも今日が最後かと思うと矢張り懐かしい。もう消灯後三十分も経過しただろうか、静かに為った兵舎を不寝番が歩いて行く。その足音だけが耳に残る。
◇青野カ原(あおのがはら)出発
◆瀬澤小隊長の出発号令
愈々出発の日だ。慌タダシイ数時間が経過し「出発」の号令が掛かった。第一中隊第二小隊は乗馬の瀬澤小隊長を先頭に、第三分隊次に第四分隊の十班十一班そして私の属する十二班の出発、愈々私の番に為った。
持った手綱を少しシャクった。私の馬「金栗」は前へ一歩を踏み出した。引いた輜重車(しちょうしゃ)がゴトリと音を立て動き出した。力強いスタートである。長い長い輜重車の列が続いた。
乗馬は小隊長、分隊長、班長達。輜重車には兵器を積んだ車、弾薬を積んだ車、装具を、食料を、馬糧等を積んだ車が、長蛇の列を作って進んだ。実に壮観、勇ましい征途(せいと)である。
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◆見送る人、見送られる人
街道にはアチラコチラに大勢の人が出て居て見送って呉れて居る。雄々しい姿ではあるが六月末の太陽は容赦無く照り着ける。これだけの大部隊が行進するのだから砂塵(さじん)は濛々と立ち体は汗にグッショリ濡れ、目ばかりがギョロギョロする感じであった。でも、私達は殊更(ことさら)に元気好く見送って呉れる人の前を通り過ぎて行った。遠くで田植えをして居る人達も仕事を止めてこちらに向き手を振って送り励まして呉れて居た。
その時私はその人の名前は知ら無かったのだが、有吉獣医下士官も埃(ほこり)に塗れて行軍して居た。フト見ると、その傍(そば)に上品な着物を着た女性が懸命に歩いて居る。有吉下士官の奥さんであろう。主人を見送る為に来て馬部隊に付いての行軍、離れず付いて行かれる姿を見て大和撫子(やまとなでしこ)の心意気夫を思う心の熱さに感激した。他に、その様な父母、兄弟らしい姿を幾組も見かけたが誰々とは記憶して居ない。
夕方姫路の市内に着き一晩露営(ろえい)した。 次の日は、朝から貨物列車への積込み作業。先ず輜重車を分解して乗せた。次に兵器、弾薬箱、食糧、馬糧、それに各種器材の搬入をした。次に馬を一つの貨車に六頭ずつ積み込むのだが、馬も我々も馴れ無い事で案外時間を費やし夕方まで掛かった。
私は先日両親と別れをしたばかりであるし、会えば別れが余計に悲しく為るので連絡をしなかった。この日は遠い所からワザワザ送りに来て居た方も多かった。 自分と同じ班で、何時も並んだ場所に居り助け合って居た橋本二等兵の奥さんが、二歳位の男の子と年老いた両親を伴って送りに来て居たが、胸の中はいかばかりかと察するだけでも気の毒であった。
そこは鉄道線路脇のバラスがゴロゴロした貨物の荷揚げ場で、汚くゴミゴミして居て屋根も碌に無い。女や子供にはそこに居るのが痛々しく気の毒に思われた。それに湿度の高い暑い日であった。奥さんの着物は、白地に桔梗(ききょう)の花が紺色に染め出されたスッキリした柄のもので何故か印象に残って居る。
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私は未だ一人身だが、こうして愛しい妻があり可愛い子供があればどんなに別れが辛い事だろうかと思うと気の毒で堪ら無かった。この五人の家族が元気で再び会えれば好いがと考えずには居られ無かった。
互いに別れを惜しんで居た様であったが、忙しい積込み作業中であり初年兵の一兵卒に充分な時間は与えられ無かった。彼は皆に気兼ねもあるので早々に別れて積込み作業に加わった。橋本君こそ私と一番仲良しだったので私はこの時の様子を何時までも鮮明に覚えて居る。
やっと握り飯で夕食を済ませた頃は夏の日も暮れて居た。それから馬の当番だけを残し、中隊全員で姫路護国神社に参拝し武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈り黙祷(もくとう)をした。
闇夜で不気味な位静かであった。灯籠(とうろう)の薄い光だけが心に残った。もう何事も決まって居るし決心も既に出来て居り静かに祈りを捧げるのみであった。 それから姫路駅横手から次々に客車に乗車した。何回か人員の点呼があった。もう夜の事でもあり一般人は誰も近づけ無い様にして居り駅員以外誰もホームに居なかった。
千人針を縫う留守家族
汽車が動き始めた。向かいのホームに憲兵が三人立って居た。列車は堅く鎧戸(よろいど)を降ろし、山陽線を西へ下って行った。向かいの席に腰掛けて居た久保田二等兵が「何時又この汽車に乗れるだろうか」と私に向かって呟く様に言った。
暫くすると平田古年兵が包みから、ぼ・た・餅・を出して「今日親父が持って来て呉れたんだ。一つだが挙げ様」と言って呉れた。我が子可愛さに一生懸命に作って来たぼ・た・餅・だ。砂糖が好く効いて居り特別美味しく頂いた。皆は一日の作業で疲れた所為もあり誰も無口に為って居た。
私は、この内何人帰れるのだろうか?とそんな事を思って居たが、何時しか単調な列車のリズムに誘われ眠って居た。
つづく
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