2018年06月28日
一兵士の戦争体験 その5
その5
三 野戦部隊の出征
◇野戦部隊の編成
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◆野戦部隊金井塚隊と留守部隊有元隊
昭和18年4月初めに大規模な動員が下令(かれい)され野戦部隊が編成された。姫路の輜重兵第54聯隊もその編成の中に組まれ金井塚中隊長以下殆どの人が動員された。それに加え今迄に支那事変に行った軍歴のある人や、経験の無い新兵等多くの人が召集され部隊が編成された。
我々2月に入隊した教育中の者は留守部隊として残された。そしてこの留守部隊は有元隊と名付けられ我々教育中の者の他に今迄の金井塚隊の中に居た人も若干はその留守部隊に残された。それに加えて別に下士官や古年の兵隊が召集されここへも穴埋めに大勢入って来た。
野戦部隊と為った金井塚隊は全員姫路の北東20キロにある青野ヵ原(あおのがはら)演習場の兵舎に集結し内地を出る迄の間待機しながら訓練を受ける事と為った。部隊名は54師団で師団長は片山四八閣下、通称「兵(つわもの)兵団」で、輜重兵第54聯隊は聯隊長太田貞次郎中佐で通称10120部隊と称した。
部隊の編成は聯隊本部の他に、第一中隊は輓馬(ばんば)中隊で中隊長金井塚久中尉、第二中隊は自動車中隊、第三中隊も自動車中隊と為って居た。 私達はそのまま留守部隊有元隊で引き続き橘教官の元で訓練を受けて居た。しかし大仲助教と大森助手は野戦要員として出て行ったので助教と助手は他の人に替わって居た。その様な中で私は消灯後の勉強を遣って居た。
橋を渡る輜重部隊
5月終わり頃のある日、留守部隊有元隊の人事係の大仲准尉(じゅんい)より急に呼び出しがあり「小田二等兵、お前は好くやって居るらしいが幹部候補生の試験を受ける気はあるか?」との質問があった。
これに対し「ハイ、有ります」と私は即座に答えた。かねがね、この時勢ならば軍隊に3年や4年は引っ張られるから甲種幹部候補生の試験に合格し見習士官に為り将校に為らねば為らぬと思って居たので、その様に答えた。
「そうか、優秀な者には元気を出し、幹候を通って貰わ無くては為ら無いんだ。だが、ここの有元隊は留守部隊で幹部候補生の試験は無いんだ」 「外地派遣の部隊54師団の輜重聯隊(しちょうれんたい)為らばその試験があるからその方へ行ってはどうか? 今まで金井塚隊に居た事でもあり馴染みもあろうから」と話された。
私は色々考え幹候を受けたいし、この間まで所属して居た金井塚隊には親近感もあり、それに外地と言ってもジャワへ行くのでは無いかと噂もされて居り、ジャワなら内地に居るのと余り変わら無いのではないか等と思い俄かに金井塚隊へ転属する事に為った。
◆留守部隊有元隊から野戦部隊金井塚隊へ転属
私の外に教育兵から二十名ばかりの者が選ばれて転属する事が決まった。この転属が後に大変な運命の岐路(きろ)に為ったのだがその時は想像も出来無かった。
橘教官を初め同期の教育兵達が皆で送別会をして呉れた。送別会と言っても別に酒や料理がある訳では無い。酒保(しゅほ)から僅かな菓子を買って来て食べる程度の事であったが、野戦へ行く者を心から送って呉れた。その折、橘見習士官が別れを惜しみ歌を歌って下さった。
♪「今宵(こよい)出船(でぶね)か〜 お名残(なごり)惜しや〜 暗い波間に〜 雪が散る〜 船は見えねど〜 別れの辛さ〜 沖にゃ鴎(かもめ)も〜 啼(な)くわいな〜」
と・・・今でもこの歌を歌うと、その時の光景や橘教官の面影が思い出され言い知れぬ懐古の情が湧いて来るのである。
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転属の日、私は同期の兵隊約二十名を引率して留守部隊の人に挨拶を済ませた後、トラック一台に乗り青野ヵ原の輜重聯隊の聯隊本部に到着し申告(上官へ申し出、伝えること)をした。その時、各人の配属先が指示され、夫々の中隊、小隊、分隊、班に分かれて行った。私は金井塚中尉の率いる第一中隊の中の瀬澤少尉の率いる第二小隊で、藤野軍曹の第四分隊で、その第十二班で班長寺本上等兵の配下に編入された。班員は二十名だったと思う。
参考として、輜重聯隊の総数は約800名で、その内第一中隊の総数は約400名であった。第一中隊の中には、編成前の金井塚隊に居た川添曹長(かわぞえそうちょう)や藤野軍曹、助教だった大仲伍長や木下上等兵等、知った顔が先々に会った。
十二班には寺本班長の次に古参の上等兵や一等兵が約半数居り知ら無い人ばかりだった。残りの半数はこの度初めて入隊した新兵であった。私も新兵の部類だった。寺本班長は、私が入隊して以来今日迄の事や教育訓練中の事を知って居たらしく、その様に皆に紹介して呉れた。皆も快く受け入れて呉れ殆ど違和感は無かった。寧ろ、特に親切にして呉れた様に思われた。
南方に行くのだから、それ為りの服や装具や兵器が支給された。又、厩に行くと元の金井塚隊から連れて来た馬だから見覚えのある馬が沢山居た。
倒れ込む馬に水を飲ます兵隊
十二班には17頭の馬とそれに見合う輓馬用車両が十数台あつた。馬には「金月」とか「金並」とか「金紫」等と名前が付いており「金月」は橋本二等兵が担当し「金並」は松本一等兵が「金紫」は田中一等兵が担当する様に責任者が決められて居た。色々様子が分かった頃私には「金栗」と云う名前の馬が割り当てられた。
毎日の訓練や内務班での生活や厩の作業も留守部隊の有元隊でしていた事と余り変わりは無かった。戦友の誰彼とも仲良く為って来た。馬の運動の為乗馬してかなり遠い小野の町辺りまで行く事もあり、緊張もするが楽しい時でもあった。
◇外泊と肉親
家族とのお別れ
◆惜別の情
内地出発の日が間近に迫ったある日、一泊二日の外泊が許された。「お前達、もう直ぐ外地に向かう。一日家に帰って来い」とのお達しがあり私も帰らせて貰った。
今まで内地に居り余り感じ無かったが、ここ一週間以内に外地に出て行けばもしかすると再び内地へ帰れ無く為るのではないかとシンミリ思う様に為って居た。家には、電報で帰宅の旨を連絡して置いたので、両親と、妹も岡山女子師範学校(岡山大学教育学部の前身)の寮から帰って待って居た。皆、もう私が外地に出発する事の覚悟はして居た様であった。私も余り多くを話す気に為れ無かったが、家族に会えて一泊出来た事は確かに嬉しい事であった。
今まで、毎日の内務や訓練で忙しく「これから外地に行くが死ぬ事に為るかも知れ無い」等と深く考える余裕は無かったが、こうして家に帰り静かな時を持つとしみじみ考えさせられるのであった。
夕闇が迫る頃、縁側に出て庭を眺めると南天(なんてん)の花が白く咲きかすかな香りを漂わせて居た。子供の頃から庭先にあった南天だが、再び生家に帰りこの南天を見る事があるだろうか? 遠くに佇む懐かしい山の輪郭を夕闇が包みこんで行く。
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この頃、既に戦況は苛烈(かれつ)の度を加え、悪化の方向に向かって居るのを感じて居たから尚更(なおさら)そんな事を思ったのであろう。その晩は、材料の乏しい時勢ではあったが、母が都合して来て呉れた鶏肉の鍋を囲み親子四人で食べた。お互いに思う事は一つだが誰も口に出さ無い静かな夕食だった。
暫くして母が、近所の様子や出征した人の話を次々にした。これらは今の私達に取っておよそ意味の無い話でしか無いのだが、辛さを紛らわす為に話して居るのだった。そして自分の置かれて居る境遇が如何なるものかをツクヅク感じさせられた。
久し振りに、田舎の五右衛門風呂に入った。この四ヵ月の間、ユックリした気分で風呂に入った事は無かったが、今日は入浴中に着て居る物を盗まれる心配も無く悠然と風呂を楽しむ事が出来た。又、柔らかいフワフワとした布団の感触に何とも言えナイ幸福感を味わう事が出来た。それは母に抱かれた幼い日を思い起こす様であった。真っ白い枕カバー、それは王子様に為った様な気持ちがした。
静かに夜が更けて行く。隣の部屋の明かりも消えて居る様だ、枕にポタリと涙が一と滴・・・・眠れ無い・・・・そうだ、遺書を書いて置こう。
「遺書」
「お父さんお母さん、愈々外地に向かって出て行く事に為りました。僕はもう、二度と帰って来る事が出来ないかも知れません。生まれてからこの方、二十年余り本当にお世話に為りました。
私は今まで、本当に幸福に過ごして来る事が出来たと思って居ます。何とお礼申し上げて好いか分かりません。このご恩をお返しする事も無く出征して好きます。私は日本人として恥ずかしく無い様御奉公して来ますから安心して居て下さい。
足った一人の妹の幸福を願うと共に、僕が居なくても妹と一緒に幸せに遣って下さい。又、親戚の人や私の友人にも宜しくお伝え下さい。
私はもう何も言えません、只これだけを書き留めて置きます。もしもの時はこの遺書と同封の東京で最後の散髪をした時の髪の毛を祀(まつ)って下さい。お元気で」
と認め、やっと眠りに着いた。夜が明けると、弥上(やがみ)の氏神様「見上(みかみ)神社」と、先祖のお墓にお参りした。何時の間にか時間が来て親子四人揃って四キロの山道を歩いて万富駅に来た。妹は岡山行きの列車に乗り、両親と私の三人は姫路行きの列車に乗るので別れた。その時妹が「兄さん元気でね」と言って呉れたが声は潤(うる)んで居た。
加古川駅に着き青野ヵ原方面行きの軽便列車に乗り換えた。速度の遅い列車が小さい駅に止まり止まりして行く。乗客は比較的多く私達三人は立って居た。 両親と愈々最後の別れの時が迫って来た。今生(こんじょう)の別れに為るのかと思うと涙が出て来てジーンと胸が詰まって来た。
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だが「俺は男の子だ。若い立派な兵隊だ」そのプライドで他の乗客に涙を見られたく無く、気づかれたくも無かった。じっと涙を堪えたがどうしようも無かった。両親はどんな気持ちだっただろうか? 恐らく私以上に悲痛な思いであっただろう。もう、惜別の情耐え難く話す事も顔を見る事さえも出来なくなり、只俯いて居るだけであった。
青野ヵ原駅まで行ってから別れると為るともっと辛く為るので一駅手前で父母は下車した。私は別れがこれ程辛いと思った事は無かった。小さな列車は直ぐに発車した。気を取り直し涙を拭き終わる頃、青野ヵ原駅に着いた。我に返り元気好く大門廠舎(だいもんへいしゃ)の門を潜った。
・・・四年後、無事復員してから後に、妹から母がその当時何回も「その時の別れが辛かった。敦巳(あつみ)にもう会え無いか、もう有れッ切り敦巳と別れてしまうのかと思うと悲しくて悲しくて、身が引き裂かれる思いがした。本当に辛い別れであった」と話して居た由を知り、親が子を慈(いと)しむ思いの強さに心を打たれた。
◆最後の日
愈々、青野ヵ原を出発する事に為った。何処へ行くのか知ら無いが長い旅が続くのである。今日一日は携行品の手入れ、検査、兵舎の後片付け等で忙殺(ぼうさつ)された。
馬達も明日の出発を知って居るのだろうか?静かに休んで居る。このボロ兵舎でも今日が最後かと思うと矢張り懐かしい。もう消灯後三十分も経過しただろうか、静かに為った兵舎を不寝番が歩いて行く。その足音だけが耳に残る。
◇青野カ原(あおのがはら)出発
◆瀬澤小隊長の出発号令
愈々出発の日だ。慌タダシイ数時間が経過し「出発」の号令が掛かった。第一中隊第二小隊は乗馬の瀬澤小隊長を先頭に、第三分隊次に第四分隊の十班十一班そして私の属する十二班の出発、愈々私の番に為った。
持った手綱を少しシャクった。私の馬「金栗」は前へ一歩を踏み出した。引いた輜重車(しちょうしゃ)がゴトリと音を立て動き出した。力強いスタートである。長い長い輜重車の列が続いた。
乗馬は小隊長、分隊長、班長達。輜重車には兵器を積んだ車、弾薬を積んだ車、装具を、食料を、馬糧等を積んだ車が、長蛇の列を作って進んだ。実に壮観、勇ましい征途(せいと)である。
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◆見送る人、見送られる人
街道にはアチラコチラに大勢の人が出て居て見送って呉れて居る。雄々しい姿ではあるが六月末の太陽は容赦無く照り着ける。これだけの大部隊が行進するのだから砂塵(さじん)は濛々と立ち体は汗にグッショリ濡れ、目ばかりがギョロギョロする感じであった。でも、私達は殊更(ことさら)に元気好く見送って呉れる人の前を通り過ぎて行った。遠くで田植えをして居る人達も仕事を止めてこちらに向き手を振って送り励まして呉れて居た。
その時私はその人の名前は知ら無かったのだが、有吉獣医下士官も埃(ほこり)に塗れて行軍して居た。フト見ると、その傍(そば)に上品な着物を着た女性が懸命に歩いて居る。有吉下士官の奥さんであろう。主人を見送る為に来て馬部隊に付いての行軍、離れず付いて行かれる姿を見て大和撫子(やまとなでしこ)の心意気夫を思う心の熱さに感激した。他に、その様な父母、兄弟らしい姿を幾組も見かけたが誰々とは記憶して居ない。
夕方姫路の市内に着き一晩露営(ろえい)した。 次の日は、朝から貨物列車への積込み作業。先ず輜重車を分解して乗せた。次に兵器、弾薬箱、食糧、馬糧、それに各種器材の搬入をした。次に馬を一つの貨車に六頭ずつ積み込むのだが、馬も我々も馴れ無い事で案外時間を費やし夕方まで掛かった。
私は先日両親と別れをしたばかりであるし、会えば別れが余計に悲しく為るので連絡をしなかった。この日は遠い所からワザワザ送りに来て居た方も多かった。 自分と同じ班で、何時も並んだ場所に居り助け合って居た橋本二等兵の奥さんが、二歳位の男の子と年老いた両親を伴って送りに来て居たが、胸の中はいかばかりかと察するだけでも気の毒であった。
そこは鉄道線路脇のバラスがゴロゴロした貨物の荷揚げ場で、汚くゴミゴミして居て屋根も碌に無い。女や子供にはそこに居るのが痛々しく気の毒に思われた。それに湿度の高い暑い日であった。奥さんの着物は、白地に桔梗(ききょう)の花が紺色に染め出されたスッキリした柄のもので何故か印象に残って居る。
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私は未だ一人身だが、こうして愛しい妻があり可愛い子供があればどんなに別れが辛い事だろうかと思うと気の毒で堪ら無かった。この五人の家族が元気で再び会えれば好いがと考えずには居られ無かった。
互いに別れを惜しんで居た様であったが、忙しい積込み作業中であり初年兵の一兵卒に充分な時間は与えられ無かった。彼は皆に気兼ねもあるので早々に別れて積込み作業に加わった。橋本君こそ私と一番仲良しだったので私はこの時の様子を何時までも鮮明に覚えて居る。
やっと握り飯で夕食を済ませた頃は夏の日も暮れて居た。それから馬の当番だけを残し、中隊全員で姫路護国神社に参拝し武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈り黙祷(もくとう)をした。
闇夜で不気味な位静かであった。灯籠(とうろう)の薄い光だけが心に残った。もう何事も決まって居るし決心も既に出来て居り静かに祈りを捧げるのみであった。 それから姫路駅横手から次々に客車に乗車した。何回か人員の点呼があった。もう夜の事でもあり一般人は誰も近づけ無い様にして居り駅員以外誰もホームに居なかった。
千人針を縫う留守家族
汽車が動き始めた。向かいのホームに憲兵が三人立って居た。列車は堅く鎧戸(よろいど)を降ろし、山陽線を西へ下って行った。向かいの席に腰掛けて居た久保田二等兵が「何時又この汽車に乗れるだろうか」と私に向かって呟く様に言った。
暫くすると平田古年兵が包みから、ぼ・た・餅・を出して「今日親父が持って来て呉れたんだ。一つだが挙げ様」と言って呉れた。我が子可愛さに一生懸命に作って来たぼ・た・餅・だ。砂糖が好く効いて居り特別美味しく頂いた。皆は一日の作業で疲れた所為もあり誰も無口に為って居た。
私は、この内何人帰れるのだろうか?とそんな事を思って居たが、何時しか単調な列車のリズムに誘われ眠って居た。
つづく
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