2018年06月28日
一兵士の戦争体験 その6
その6
◇宇品港出港
輸送船
◆積込み作業
6月下旬の夜は短く早く明け、目が覚めた時は列車は宇品駅に着いて居た。ここも貨物のホームである。昨日荷物を積み込んだ貨車も馬を積んだ貨車も横の線路に到着して居た。早朝から、荷物や馬を貨車から降ろす作業、それを艀(はしけ)に乗せる作業、艀から輸送船へ積み込む作業が始まった。
荷車・輜重車
分解した輜重車を車体と車輪に分け貨車から降ろす。港が浅いと大きい船は岸壁に着か無い。そこで波止場から本船迄、全ての積み荷を台状で縁に柵の無い艀(はしけ)と云う舟が運搬するのである。
艀に荷物を乗せ、200メートル程沖に停泊中の本船に横着けしウインチで巻き上げる。ここでは船舶兵が居て、荷物の置き場所や置き方を厳しく指示して居り専門家の彼等に従わざるを得ない。車体は車体ばかり、車輪は車輪ばかり纏め、場所を取ら無い様に所定の船倉の奥深い場所から詰めて置くのだが、一回に十台分位の輜重車がウインチで釣り上げられて行く。次から次に運び込んでも限りが無い。
兵器や弾薬、各種の装具、馬糧、兵隊の食糧等の積込みが済むと次は馬の番である。貨物列車から馬を引き降ろし波止場迄連れて来るのだが、馬も昨夜一晩中汽車に揺られて疲れて居る上に列車の乗り降りは馴れて居ないので、踏み板の上を歩かせる時は滑りそうに為り大変だった。
それより、艀には縁(へり)に柵が無いので確り鼻を持って居ないといけない。一匹の馬でも暴れ出すと大変だ。馬は驚き慌てる性質を持って居り海に落ちる様な事に為ると人間も危ない。兎に角艀の上でガタガタし無い様に用心することだ。
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次は、艀の馬を本船のウインチで吊り上げて搬入して行くのだが、馬絡(ばらく)で馬の腹を締め様とするとガタガタと暴れる奴も出て来る。そしてウインチで引き上げ様とすると急に走り出す馬も居り、又暴れ回る馬も居るのでそんな時は我々は必死で馬の鼻のろ・く・を捕まえて置かねば為らない。一歩誤れば、海に落ちてしまう。
危ない事この上も無い。馬絡(ばらく)で馬の腹を締めてウインチに掛ける困難な作業は、古年兵でモサの藤川上等兵や横田上等兵達気合いの入った兵隊が遣って呉れ助かった。馬もガタガタして居るが、ウインチで吊り上げられてしまうとどの馬も観念するのかじっとしてしまう。不思議なもので、一本でも足が地面に着いて居る間は暴れて居るが離れたら自分の力が及ば無いと感ずるのか大人しく為る。
一頭一頭吊り上げては船に入れ吊り上げては船に入れるのだが、足が船の床に着いた途端に又暴れ出すものもあり緊張の連続であった。
続いて船底の馬房(ばぼう)に入れるのだが、船底の馬房の仕切りは狭く一頭一頭がやっと入れる位の大変窮屈なもので、身動きも出来ない位詰め込まれ、しかも、船に揺られ揺られて何日も動け無いのだから馬も本当に可哀相なものである。この様にして馬が全部運び込まれる迄には相当な時間が掛かった。
やっと終わったと思って居たら、新規に弾薬が沢山送られて来てそれを積み込む作業が別に増えた。皆蟻の様に一列に並んで艀まで弾薬箱を肩に担ぎ、積み込みを済ませるとヘトヘトだった。
戦場では弾丸が無ければ戦え無いし弾丸が命である。だが、今日の場合疲れ切って居た上に余りに多く重たい弾丸だったので「有り過ぎるのも困りものだ」等と苦し紛れの声も聞こえて来た。朝から晩まで働きやっと積み込みが完了した。輜重隊はその名の通り輸送部隊であるから荷物や持ち物が多く乗船も大変である。長い夏至の頃の早朝より日暮れ前までタップリ一日掛かった。
船内に馬の当番と積み荷の監視当番を残し日が暮れる頃やっと宿屋に着いた。大勢の兵士が泊まるのだから充分なサービスを期待するのは無理であるが、何しろ入隊以来五ヵ月も女の人と話した事が無いのだから「兵隊さんご苦労ね、明日は外地に出て行かれるのお元気に」と優しく声を掛けて呉れ、一生懸命に世話して呉れる気持ちが自然に伝わって来て有難く嬉しかった。
ここでは久し振りに畳の上で、軍隊ではアルミの茶碗にお碗アルミの箸で情緒が無いが、お膳で出された飯を食べた。又軍隊では昼夜通し同じ肌着と服なのに此処では浴衣に着替えた。その上軍隊では寝具は毛布だが、ここでは触りの良い夏布団に寝る事が出来、内地の娑婆(しゃば)の夜を些かでも味わう事が出来た。
「何時の日にか再び畳の上でお膳の飯を頂く事が出来るだろうか?」と思いつつ休んだ。皆寝静まったのか、柱時計がコチコチと時を刻んで居た。
◆乗船
我々は銃と剣そして装具一式を背負い艀(はしけ)からタラップを登り本船に乗船した。セレベス丸と云う5000トン級の貨物船である。暫くして船内の狭い階段を上がったり下がったりして、私達十二班に与えられた場所へ入って行った。
真に狭い、高さも広さも。元々貨物船で荷物を入れる場所を上下二段に仕切って居るので、高さ一メートル弱で立つ事は絶対出来無い、這(は)って奥に入るより仕方が無い。 一人当たりの面積は五十センチ角も無い様だ。装具を置くと一杯だ。荷物をキチンと置き人間が座っただけでギュウギュウの箱詰めである。一人が横に寝る為には三人が外に出て行か無ければ面積は取れ無い状態で息詰まる様だ、無茶だ。
それに薄暗くて照明も極めて悪く、薄汚く人間の居られる様な場所では無い。しかしどうしようも無い。それだけの広さと高さしか与えられて居ないのだ。敵の潜水艦に遣られたら人が一杯で船室から逃げ出すことは絶対出来無い。
装具を置いて甲板(かんぱん)に出てみた。遠くに広島市の北の山が、近くに宇品の町並みが見える。気が着くと他に貨物船が二艘(そう)居り兵隊を一杯乗せて居た。同じ輸送船団を組むのだろう。どの船も水や油の補給をして居り、アチコチに連絡用のモーターボートが走って居た。
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夕方近くに為り錨(いかり)が引き上げられた。何の合図も無く船は動き始めた。他の二艘も動き始めた。
夕闇の彼方に小さな町の灯火が次第に遠退(の)いて行く。戦友の橋本二等兵や三方二等兵達と何時までも甲板に立ち舷側(げんそく)の手摺りを固く握って居た。若い兵士の胸に熱いものが込み上げて来て声も出無い。唯(ただ)黙ったままであった。
これで、愈々内地ともお別れだ。父母兄弟、妻や子供の住むこの国を出るのだと重苦しい気持ちに包まれて居り、征途(せいと)に就くと云う勇ましいものでは無かった。
船での一夜が明けた。甲板へ上がって見ると関門海峡を通過して居る所だった。船団は六艘(そう)に為って居た。下関の端の部落へ大きな声をすれば届く程だが、もう内地と私達の間には絶対に届か無い遠い遠い隔たりがあった。何時しか船団は五島列島の沖を走って居り、漁師が小舟から手を振って居た。船団は南西に向け進んで居る。
次の日、夜が明けてみると様子が可笑しい。何処だろう?「関門海峡を瀬戸内海へ入った所だ」と皆が言って居る。確かにそうだがどうしたのか分から無い。船団が忘れ物をして引き返したのでも無かろうが、命令が変わるのだろうかお粗末な事だ。
戦況が好く無いのか敵の潜水艦が接近したとの情報によるのかも知れ無いが、上層部が何かにつけ、狼狽えて居るからだろうと思った。次の日は又出発だ。再び五島列島沖を通過して居るが二、三日が浪費された事に為る。
◇輸送船内の様子
◆寿司詰
軍歌で「アーアー堂々の〜輸送船〜」と勇ましく歌われて居るが、実態は貧しく非常に窮屈(きゅうくつ)である。どの船も、各船室は兵隊が寿司詰めに為って居る。船倉の深い部分に輜重車や弾薬を積み、馬も深い船底の辺りに居るが、そこに新鮮な空気を送る為に扇状の大きな幕で前進方向からの風を捕らえ、布製の大きなダクトを通して船底の方へ空気を送る仕掛けがされて居た。貨物船を俄かに改装したのでこの様に為って居るのだろう。
それに、千人もの人を急に乗せる事に為ったのだから便所が足り無い。当然の事だ。対策は?甲板外側の手摺(てすり)りの外に食み出して木組みがされて居る。丈夫な木と板で出来て居るが、屋根も無ければ囲いも無い。吹き通しで床は二枚の板が適当な間隔で渡してあるだけである。
空も周囲も下の海面も好く見える。眺望絶佳(ちょうぼうぜっか)の完全な無臭トイレだ。そこで便をするのだが、始めは余程糞(くそ)が溜まってからで無いと出て来ない。それに風の強い日には吹き飛ばされそうだし、下を見ると波頭が上下に5、6メートルも動いて居り、海面が遠く為ったり近く為ったりで大便をするのも恐ろしく勇気が必要と為るのだ。
飯と汁を各(おのおの)の飯盒(はんごう)と飯盒の蓋(ふた)へ貰って食べるのだが、所定の班内の場所は狭くて入れ無いので浮浪者の様に甲板のアッチコッチニ座り、適当に食べる。食べた後はホンの僅かの水で洗う。おかずは塩干魚(えんかんぎょ)等で変わりばえもしないが、船の飯は蒸気で炊いてあり幾らか塩気もあり、案外美味しいのが責めてもの慰(なぐさめ)めだ。
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その後、船団は東支那海に入ったのか前後左右に大きく傾き揺れる様に為った。私は、宇野・高松間の国鉄連絡船に乗った事はあるが、こんな大きい船に乗って居ながらこんなに揺れるのは初めてであり、気持ちの悪い事と云ったら酷いものである。立てばフラフラ、ヨロケ通しである。寝転んでも目が舞、酷い船酔いで飯も喉を通らず激しい空嘔吐(からおうと)をするばかりである。
戦友も三分の二以上が酷い船酔いで弱って居る。酔って居ない者が馬の世話や飯上げ等をして呉れた。何処に行っても堪ら無い。気分転換と思い馬の所に行ってみたが、そこは馬糞の臭(にお)いで余計に気分が悪く為るだけで処置無しである。
二、三日が経過し船の揺れが納まり掛けると船酔(ふなよ)いはケロリと治り忘れた様に為った。飯は食べられるし足取りも確りして来た。甲板に出ると太陽が眩しい。大分南に来たのだろう。沖縄列島だろうか小さな島が遥かに見えた。
船は昼も夜も走り続けて居る。だが、何時もジグザグコースで行くので日にちばかりが過ぎ案外南への距離は伸びて居無い様であった。ジグザグコースを取るのは潜水艦の攻撃を避ける為だそうだ。
素人の私でさえ、そんな事では避けられはし無いだろうと思った。敵の潜水艦はもっと速度も早いし優秀な観測機と正確な魚雷を持って居る筈である。子供騙しも好い処だ。でも、ジグザグをし無いよりはした方が好いのかも知れないが。
ジグザグコースで蛇行し進んで居るのだが、前の船と次の船の方向の違いは直角と言っても好い位なので、五日掛かる処を十日掛かるのは当たり前の事である。これは昭和18年7月の事だが、この時既に敵の潜水艦に対し、かくも戦々恐々(せんせんきょうきょう)とした有様だった。
◆船内の生活
もう一週間位体を洗って居ない。各人、飯盒(はんごう)に一杯の水を貰い洗うのだが、先ず顔を洗い頭と体に移る。上手に使わ無くては直ぐに無く為ってしまう。水がこんなに貴重で有難く有効に使えるものとは今まで思った事も無かった。幾らか清潔に為り気持ちが好かった。
処で、飯盒には色々の使い道があり、水入れ、お米入れ、飯炊釜(めしたきかま)、お汁の鍋、おかず入れの食器として使われる外、この様に洗面器代りに為ったり、場面によっては汚物入れとして使われるかと思うと貴重品入れとも為った。
勿体無い事だが、一番安全な保管方法として戦友のお骨入れに為る事も屡々であった。将に万能の道具であり、後の話に出て来るが敗走千里の道で最後には命の次に大切なものと為るのである。
船の中で割り当てられた場所は非常に狭いので、上甲板(じょうかんぱん)の設備や荷物の間に横たわるだけの場所が見つかればそこへ寝るのだ。場所取りもその日の早い者勝ちである。何時も我々は救命袋を携えて居りそれを枕にして居た。幸いに熱帯地方の海上だから寒く無くて有難い。雨と露が凌げれば好いのだ。
そんな一等場所が取れ無いと、厩に行き馬と馬の間に渡した境の太い木の枠の上で寝る事に為るが案外悪く無い。馬も時には大きなお・な・ら・を落とす、丁度私の頭の辺でやるから堪ら無い。だが暫くの辛抱だ。
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船の中は狭いので時に総員上艇(じょうてい)と云う訓練があり大変だったが、平日は朝晩皆で体操をしたり軍歌を歌ったりして士気の高揚を図って居た。
好く晴れた日の航海は例え戦場に運ばれて居ても緑の島等が見えると爽やかで楽しいものであり、船が白波を残して進んで居る様は一幅の絵に為ると思えた。又、何時敵の潜水艦に遣られるかも知れ無いと思うと心配でもあったが、どう思ってみても仕方の無い事であった。
ある闇の夜「潜水艦が居る。全員非常体制に入れ」の命令が出た。甲板に上がり救命袋を身に着け、遣られたら直ぐに海に飛び込める体制で暫く緊張の時間が続いた。船の灯火は全部消して居り不気味な時が流れたが幸い攻撃されずに済み事無きを得た。
何日目に為るであろうか、台湾の東側を南に向け航海して居る。花蓮港(かれんこう)の町には気がつか無かったが、確かに高い山並みが海岸に迫って居た。それに沿って更に南下し台湾の南端の岬をグルリと回り進路を北へ取り高雄(たかお)港に着いた。
子供の頃に高雄の事を地理で習って居たが愈々来たかと思った。波静かな青い港があり辺りに南国の樹木が茂り、熱帯の果物が実り何だか不思議な魅力を感じた。
◇ビルマへの道のり
◆高雄へ上陸
「馬を上陸させて休ませよ」の命令である。船底に居る馬を一頭一頭ウインチで吊り上げ波止場に降ろした。この港では直接岸壁へ接岸出来て艀(はしけ)は不要であり幾らか楽であった。
しかし、瀬澤小隊だけでも百頭からの馬で、波止場から五百メートルばかり離れた公園らしき場所に連れて行き繋(つな)ぐのだから、全部終る迄には五時間程掛かったと思うが、兵隊に取っても馬に取っても大変な仕事である。
陸の上で馬糧(ばりょう)を食うて居る馬は嬉しそうである。新しい水を一杯飲んで体調を整えて居るのだろう。我々も久し振りに陸地に上がり大きな風呂に入り体の垢(あか)を落しサッパリすると格別な嬉しさが湧いて来た。
台湾の本場でバナナを買って食べたが素晴らしい美味しさである。生まれてこの方こんな美味しいのを食べた事は無かった。 何日ここに泊まれるのだろうか?と思って居ると「出発準備」の命令だ。馬を降ろして一晩(十二時間)しか経って居ないではないか何たることか。
それでは、馬も兵隊も疲れるだけでは無いか。上の方の意志統一が出来て居ない証拠か。だが兵隊達がそんな事を言ってみても始まら無い。どの辺の上層部相互の食い違いか知れ無いが命令は命令だ。合理性等どうでも好い、命令が全てを支配するのが軍隊なのだ。
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早速、馬を船室に入れる作業に取り架かった。馬絡(ばらく)に縛られ馬は一頭一頭吊り込まれて行った。馬もこんなにして吊り上げられるのは嫌だろう。全員掛で又約五時間掛かった。幸い誰にも怪我は無く順調に乗船作業が出来、直ぐに出航した。
何の為か知ら無いが、次はボウコ諸島の馬公(まこう)に錨(いかり)を降ろした。しかし三時間程でそこを出港した。それからもジグザグコースを取りながら南へ南へと航海した。割合平穏で波も静かな日が続き、船内の生活も今迄通りでこんなものかと馴れて来た。
その頃厩当番に就いた。馬の糞を熊手の様な物で掻き出し集めてクレーンに乗せ海に捨てる作業、馬に餌を配分して遣る作業、水を飲ませる作業、異常は無いかと見て回るのだが多くの馬だから結構仕事がある。馬との関わりも半年になり常に用心は必要だが馴れて来た。馬も我々の方に馴れて来たのだろう、言う事を好く聞く様に為って居た。
護衛艦(ごえいかん)が高雄(たかお)辺り迄来て居たが、その後この航海には着いて居ない。どうしたのだろうか。 又、初めの内は飛行機が時々飛んで監視して呉れて居たのに、今頃は全く姿を見せて呉れ無いのが心配だ。輸送船団は無防備の丸裸、遣られればそれだけの事で助かる事は先ず無いだろう。
◆サイゴン(現在ホーチミン市でベトナムの首都)へ上陸
数日後、船団は大河メコン河を上り始めた。我々にも当時仏領インド支那のサイゴンに行く事が直ぐに分かった。6六千トン級の船が自由に航行出来る大きな河である。サイゴンの港に到着すると直ぐに下船(げせん)を命じられた。
宇品で乗せた全ての物を降ろして臨港の倉庫に搬入して置き、兵士は各自の装具一式を携行し馬と共に市内を行進して兵站(へいたん)宿舎に着き、馬は仮の厩(うまや)に繋いだ。
早朝よりまる一日掛の大仕事であった。前にも述べた様に輜重隊は多くの荷物、弾薬、食料等を同時に輸送して居るので、船からの積み降ろしが大変なのである。
ここでセレベス丸と別れた。好く此処まで無事に運んで呉れて有難う。市内を行くと、サイゴンは小パリーと言われるだけに美しい町並み緑の芝生の中に瀟洒(しょうしゃ)な建物が並び、商店街も奇麗に整い樹木が多く、垢抜(あかぬ)けのした美しい家があり清潔な感じのする街であった。若い女性が涼しげな美しい衣装で自転車で往来して居たのが印象に残った。
日本軍の佐官や尉官の車が行き来し、時に黄色の旗を立てた将官を乗せた自動車が人目を挽いて居た。流石南方総軍指令部のある拠点だけに日本軍人が威張って町の中を行き来して居る様であった。
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兵站宿舎での給与は良く、食料、砂糖、外国たばこ等を与えて呉れた。宿舎と厩が離れて居たので、飼(かい)を与える為にその間の道を行ったり来たりした。もっと街の様子を見たいと思ったが外出の機会が無く到着と出発の時に町並みを通っただけで残念だった。
10日ばかり滞在したが出航の日が決まり、その前日に船から降ろし倉庫に入れて置いた弾薬や輜重車等の荷物と馬を終日掛けて輸送船に搬入した。重労働も全員が一致協力して頑張るから遣れるのである。私の馬「金栗号(きんくりごう)」は体格は並みの大きさ、流れ星の栗毛で大人しい性質で私に好く馴れて居たが、積込みの合間に「お前も吊られたり降ろされたりで、ご苦労さん」と言って首を叩いて遣った。
当日は宿舎を片付け掃除を済ませ装具一式を携行して乗船した。美しいサイゴンの街に別れを告げ出港した。緑の平野が広く開ける中をメコン河が流れ輸送船団はその河を下って海に出た。
南の空は青く澄み海は静かでキラキラと真夏の太陽に輝く。その中を白波を立てて船団は進んだ。この頃はジグザグコースは止めて南に向かって一路航海して居る。鏡の様な海の中を右や左に島を眺め乍ら航海し数日の後にシンガポールに入港した。
シンガポール
◆シンガポール(当時は昭南島(しょうなんとう))へ上陸
入港の前に船から見る風景、私はこんな美しい景色を見た事は無い。海の色は翡翠(ひすい)の様に澄んで居り島の緑が冴えて居る。心がウットリとし見惚れる様だ。無銭旅行には勿体無い位だ。
しかし船が着けば重労働が待って居ると思うと気分が落ち着か無い。やがて接岸し、当然の事ながら下船命令が伝達された。何時もの様に荷物を全部降ろし弾薬箱や大型の荷物、分解した輜重車等を波止場に近い倉庫に格納した。
馬と兵隊は中兵営の宿舎迄五〜六キロを歩いて行った。朝から晩まで休む間も無い作業の連続で夕刻に為りやっと落ち着いた。ヤレヤレと思って居ると、一時間も経た無い間に「明日乗船せよ」の命令だ。どう為って居るのか?ものも言え無い程あっ気に取られたが命令である。
一夜が明け、馬を連れ装具を持ち波止場に行った。昨日格納したばかりの夥しい荷物を倉庫から運び出し、ウインチで輸送船に吊り込んだ。次に馬も一頭一頭馬絡(ばらく)で吊(つる)し船倉へ入れた。もう何回もするので作業には大分慣れて来たが、危険は付き纏いやはり大変な労働である。皆一生懸命したがタップリ一日掛かり、夜遅くやっと狭い船室に潜り込む有様であった。
夜が明け出航は何時だろうかと思い待って居た。その日は何も無く終わろうとした頃今度は「明日下船せよ」の命令が出された。全く猫の目の様に好く変わる、嫌、猫の目もこんなには変わら無いだろう。
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参謀達が、何かの情報により決めるのだろうが、更にはもっと偉い人がその他の状況から「それではいかん」として変更に為るのかも知れ無いが末端では大きく振り回されっ放しだ。しかし命令は絶対である。絶対だからこそこう為るんだろうが、兎に角大変なロスだ。負け戦の前兆とはこんなものだろうか?
命令に従い再び下船作業を丸一日掛でやっと終え、その日も夜に為り、中兵営に再び帰って来た。もうクタクタである。思えば忠実な軍隊であり兵隊である。その後二十日間位シンガポールの兵站宿舎であるコカイン兵舎に宿泊した。特別な訓練は無く、馬の世話と点呼と体操、軍歌演習、時に駆け足をして過ごした。
市内に出たのは二回ばかり、食糧の受領にトラックに乗り通った程度でアチラコチラを見物する機会は無かった。でもその時の、朝の霧に包まれた爽やかな空気、奇麗なアスファルトの街路、高いビル街、そこをロバがパカパカと車を引いて軽快に走る美しい街並みの印象は忘れられ無い。
大きいビルが所々に建って居り、その間に椰子(やし)の木が高く伸びて葉を拡げて居た。広い庭に緑の芝生を持つた豪華な住宅もあり素晴らしい南国の都市は見ただけでも長い船旅の疲れが癒(いや)された。
又、真昼の暑い最中に、夕立の様な大粒の雨が30分間位降るスコールが毎日あり、何とも気持ち好く暑さを忘れさせて呉れ有難かった。市街地から少し離れた場所を通った時、その広場に夥しいトラックや自動車の残骸があった。敵味方両方の物であろうが只驚くばかりの量である。一年半前に日本軍がこの地を攻略した時の戦争の爪跡がここに鮮明に残って居るのである。
南方軍総司令部の一部
シンガポールには南方軍総司令部の一部が置かれ、我々の居る兵営の近くにある立派な邸宅は将校宿舎として使用され、高級将校が乗用車に黄色や赤の旗を靡かせて出入りして居た。この様に街は日本軍の権力下にあった。
私が臨港倉庫の監視当番の任務に就いた時、その近くで英軍の捕虜が車で荷物を運搬して居る姿を見た。20人位の集団を、鉄砲を持った小柄な日本兵が監視して作業が行なわれて居た。暑い熱帯の太陽光線を浴び、帽子も被って居らず上半身裸である。白人の白い皮膚が赤色に日焼けして汗を流して居た。
「哀れだ、気の毒だナア―」と一瞬感じた。「でも捕虜だから仕方が無いではないか」と頭の中で肯定した。
シンガポール陥落時の山下将軍とパーシバル将軍の会談の姿を思い浮かべた。勝者と敗者の立場の違いはどうする事も出来ない。2年後よもや逆の姿に為ろうとは私は思っても居なかった。
倉庫の監視当番をして居たが、些か退屈し波止場の方に行ってみた。そこでインド系の顔をした現地人と出会い、私の片言英語と彼のシンガポール英語で話を交わした。手真似足真似を加えながら相対して話をするとかなり意味が通じる。
「日本から何時来たか?何歳か?お前の名前は?兄弟は何人居るか?」等単純な会話をした。しかし、彼はその後に「イングリッシュ、シュワー、ヴィクター」英国が必ず後で勝ち日本が負けるだろうと言った。 理由を言ったか否かは今では記憶に無いが、戦いの広がりが急だったのでシンガポールでは、英軍の戦闘体制が未だ整わず戦力を固めて居ない先に攻撃されたので負けた。しかし、根本的に両者の装備、近代兵器の程度の差を見て彼等はそう感じて居たのだろう。
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私も入隊前に友人の内田君が「シンガポールで捕獲した戦利品のレーダーが優れた性能を持ち、日本はその真似をして試作して居る」と言って居た事を思い出し、嫌な情報としてこの予言者の事が頭の中にこびり付いて離れ無かった。
シンガポールのコカイン兵舎に駐屯中特別の訓練は無く、次の命令待ちの状況で時間に余裕がありのん気に過ごした。幹部候補生の試験の事は常に頭の片隅にあったが、何時試験があると言った情報も無く目的が目の前に無い上に戦地に向かう途中と云う気持もあり、それに切瑳拓磨(せっさたくま)する相手も無くて遂安易な方に陥り勝ちで勉強らしい勉強もせず漫然と日を過ごして居た。
南国の夜空は澄み南十字星やサソリ座が美しい。内地は今八月で蒸し暑い夜が続いて居る筈で、こちらの方が寧ろ爽やかな様に思われた。
20日位経ったある日、乗船命令が来た。予てから、「ジャワは天国ビルマは地獄」と言われて居た。ジャワは気候も良いし戦況も落ち着いて居るが、ビルマは気候が悪く病気も蔓延して居りしかも戦況が悪いと云う意味であったが、ビルマで使用する軍票(ぐんぴょう)その紙幣が渡された。
これで行く先は地獄のビルマと決まったのだ。セレベス丸と同じ様な貨物船を改装した輸送船に今度も丸一日掛けて荷物と馬を運び込んだ。その次の日にシンガポール港の岸壁を離れた。美しい町よさようなら。
船団は六艘位か、好く分ら無いが北へ向かって舵が取られた様だ。ペナン沖で輸送船が敵の飛行機に遣られ無残な残骸(ざんがい)を晒していた。それを目前に見て我々の船も何時遣られるか分から無いと思うと急に不安に為って来た。
戦地に近づくに連れて飛行機と潜水艦の恐怖を一層感じる様に為った。更に北上を続けて居ると、突然「空襲警報」の声。甲板に上がってみると西の空に点々と飛行機が見えた。
二機がこちらへ向かって飛んで来る。キラキラと太陽に輝いて居るなと思って見ていると、爆弾が落とされた。かなり離れた所に居た貨物船が攻撃され一艘が爆撃を受けて沈んだ。アッと云う間の出来事で夕闇の迫る頃であった。幸いに我々の船団では無かった。
翌日船団はラングーン港を目指し大きな河を上って行く。前方の森の上に金色に輝く塔を発見した。大西一等兵が「あれがパゴダだ」と教えて呉れた。近づくに従い段々パゴダが大きく見えて来た。
つづく
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