2018年06月28日
一兵士の戦争体験 その13
その13
◇第二アラカン山脈の守備
◆シンゴンダインで弾薬の警備
瀬澤小隊のアン河の渡河点での作業も一週間位で終わり、そこから東へ二十キロ位アラカン山脈を登りシンゴンダインと云う山の中の地点に移動した。深い谷と凄い山の間で、ここに貯蔵して居る弾薬と燃料等の警備に当たる事と為った。
既にこのシンゴンダインには、前線からここ迄辿り着いたものの力尽き次々と倒れた多くの将兵の死骸(しがい)が折り重なり、死の谷、恐怖の谷と呼ばれて居た。
その近くを通る時、死臭嘔吐(おうと)を催す程で耐えられ無い臭(にお)いである。我が小隊四十名はここで約二十日間、野積みされた弾薬の保管警備の仕事を続けた。この間に、前線から部隊を組み或いはバラバラに為り、多くの兵士が疲れ果てた姿でアラカンの大山脈を西から東へと登り後退して行った。
野砲(やほう)聯隊が砲を馬に輓(ひ)かせヤット此処迄登って来た。馬はもう疲労し切って居たのであろう、幾ら「前へー進めー」と号令を掛けても動か無く為ってしまった。一晩中「前へー進めー」「前へー進めー」と号令を掛けて居たが、翌朝迄に一キロ程しか登って居なかった。
野砲聯隊も大変だナアと思った。馬も食物を碌に貰え無いで重い大砲を引いて険峻(けんしゅん)を登るのだから可哀相な事である。この地点は第二アラカンを二日程登って来た処で未だ登り口である。頂上迄に未だ三十キロもありこれから先が案じられる。
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◆懐かしい人に出会う
こうした中、岡山の歩兵第百五十四聯隊が印度洋ベンガル海岸のカンゴウ方面より後退して来た。この折、バッタリ旧制岡山二中の同級生だった内田有方君に会った。正に奇遇、突然の出会いで懐かしい限りである。
彼は少尉の階級章を着けて居り逞しい感じの将校姿であった。既に、カンゴウでの戦闘を経験し多くの戦死者を出した直後らしかったが、彼は元気で精悍(せいかん)な感じさえした。お互いに健闘を祈り固く手を握りあい別れたが大きな励みと為り心の支えに為った。
もう一人は橘秀明(たちばなひであき)教官である。私が姫路で金井塚隊の教育隊に入隊した時、初年兵教育をして下さった方で特別に私を可愛がって下さった。見習士官室の隣の部屋を勉強しろと言って私の為にワザワザ貸して下さった恩人、橘少尉である。野戦編成に為った金井塚隊に私を送り出し別れを惜しんで下さったのである。
しかし、その後この方も他の部隊に転属に為り、こうしてビルマに来て居られここアラカンの山中で思いも掛けぬ奇跡的な出会いと為ったのである。本当に懐かしく涙が出る程嬉しい再会であった。好くも、広いビルマの中で会えたものだ。神様の思召しにより会わせて頂いたのだ。
別れてから二年ばかり経って居たのだがお互いに直ぐに分かった。橘少尉は「小田元気か。幹部候補生の試験は?」と先ず訊(たず)ねられた。それもその筈、私がこの野戦部隊の金井塚隊に転属に為ったのは、幹部候補生の試験が留守部隊の有元隊では行なわれず野戦部隊の金井塚隊に転属すれば受験出来るとの人事係准尉の言葉で、私も受験したいばかりに転属する事になりその結果ビルマの果て迄来た事に為ったのである。
その経緯を知って居られる方だけに、試験を受ける事があったかどうか心配して聞かれたのだ。私が今も普通の上等兵の衿章を着けて居るから、およそのことは察しながら。私は「試験は全く無いのです。もう戦争ばかりで、試験など行なわれ無いのです。でも、こうして元気ですし、皆に好くして貰っているので」と答えた。
「こんな戦況では、どうしようも無いからノオ」と慰(なぐさ)めて下さった。 橘少尉が何時までも私の事を心配して下さって居る事に感激し胸に熱いものが込み上げて来た。
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処で、将校なのに何故、ここを一人で歩いて居るのだろうか、当番兵も従えて居ないで、と不審に思った。一応将校としての拳銃、軍刀等の武器、背嚢(はいのう)等の装具は持って居られるが、落伍し掛かって居るのではないか?と心配に為った。
それ程弱っておられる様子では無いが何となしに不安を感じた。だが、私の教官であり私を一番可愛がって下さった見習士官、軍隊生活中で最も思い出に残る橘少尉に「どうか元気でいて下さい」と心を込めて言うのみである。
「お前も元気でな」と優しい返事が返って来た。そして、第二アラカンの山また山へ登って行かれる後姿に心から幸運をお祈りした。
・・・橘少尉は兵兵団(つわものへいだん)の我々輜重聯隊で無いのでその後の様子は全く分ら無い。生きて居られたら、終戦後二年も抑留されて居る間に風の便りで消息が分かる筈なのに何の音沙汰も聞く事が無かった。戦況不利の状況から推して、好く無い事が想像されあの時が今生(こんじょう)の別れになったのではないかと思う。
・・・五十二年の歳月が流れた今も尚(なお)懐かしい。色白、やや丸顔、黒縁の眼鏡を掛けた面影が目に浮かんで来て堪(たま)ら無い。橘教官、橘中尉、教育兵の私を特に心に掛けて可愛がって頂きました。消灯後ワザワザ、外出先から買って来た寿司を初年兵の私にご馳走して下さった事もありました。
軍隊生活は一般とは別世界の厳しい所故、人の情はより温かくより強く感じられるものである。これ等の御恩は決して忘れては為ら無いし、私の一生の意義ある思い出、軍隊生活の中の一際(ひときわ)懐かしい思い出として大切にし何時までも懐かしみ何時までも橘秀明中尉にお礼を申し上げたい。
本来為らば恩人の本籍地を調べ、消息を調べ、感謝し、お礼申し上げ無ければなら無いのだが、分から無いまま歳月が流れてしまった。凛々(りり)しく優しい面影が今も脳裏に浮んで来る。嗚呼(ああ)!
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◆悪性マラリヤ蔓延
第二アラカンの山中で引き続き弾薬や燃料の警備をして居た。四月下旬頃から五月当初に掛けて毎日、敵の大型飛行機二十機ばかりが編隊を組み我々の遥か上空を東へ向って飛んで行く。何処へ行って居るのだろうか?後で分かるのだが、その頃敵はビルマ中部の主要地域や平原に拠点を作り、陣地を確保して我が軍を攻撃し各所で優位に立ち、中部重要地点を占領し支配下に収めつつあったのだ。
我が兵兵団はビルマの西地区、アラカン山脈に取り残された状況と為って居たのだが、こうした中でも瀬澤小隊は一番西の最前線で引続き弾薬庫の警備をして居た。もう誰も使う事は無いだろう弾薬や荷物の警備はおよそ意味の無い仕事に為って居た。だが、その命令に従って居た。その間に多くの部隊が我々の所を通りアラカン山脈を越え後退して行った。
この山の中は前にも述べた通り、悪性マラリヤの根源地で兵士は次々に倒れて行った。昨日まで元気者で筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)として居た古参の松本上等兵が急に高熱に冒され日に日に衰弱して行った。ここ数日何も食べられず白湯(さゆ)だけ飲んで居る。例の如くやがて下痢が始まった。何処にも好く効く薬は無い。各自錠剤のキニーネ薬を僅か持って居るがそんなものは今更効か無い。
病の進行を見守り運に任せるだけである。寝て居る彼に蝿(はえ)が集って来るが、もう追い払う力も無く鼻の穴や唇辺りに群がるに任せて居た。やがて黙ったまま事絶えてしまった。気の毒な末路であった。彼は鳥取の出身で爽やかな感じの人であった。この有様を親や兄弟が見たらどんなに悲しまれるだろうか。
・・・今も、松本古年兵の白い歯並みが整った面白(おもじろ)の顔が目に浮かんで来るが、それも遠く過ぎし日の事である。
◆内地の短波放送
その日は四月二十九日で天長節の日であったと思う。手元に細々と食べるだけの米や乾パンがあり、敵も我々の所へ襲撃して来なかった。警備保管中の各種器材に混じり敵から分捕った無線機があった。
スイッチを入れてみると、壊れて無く音がするではないか。色々調節して居ると日本の短波放送が聞こえて来た。もう、二年近く日本の放送を聞いた事が無かっただけに懐かしく齧り着いて聞いた。放送は、
「毎日敵機の空襲で次々に家が焼かれて居る。今日も名古屋市が大爆撃を受けた。家は焼け建物は壊れても、国は焼け無いのです。今こそ国民は一丸と為って屍を越え灰燼(かいじん)を踏み越え鬼畜(きちく)米英を遣っ付けねば為りません。頑張り通そうではありませんか」
と悲痛な声である。 内地も大分遣られて居るのだと今更ながら驚いた。ビルマの現地もこの様に苦心惨憺(さんたん)して居るが、内地も空襲を受けて随分損害を被りながら日本中の皆が頑張って居るのだと思った。
シンガポール港の倉庫監視当番をして居た時、現地人が「先では日本が負ける。英国が必ず勝つ」と言って居たあの言葉がふと脳裏(のうり)に浮かんで来た。
戦争中の二年及びその後の抑留中の二年を通して、内地の放送を聞いたのはこの時だけである。勿論、他国の放送を聞いた事も無く全く放送は珍しい事であった。
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七 転進作戦
◇最後尾の小隊
◆第二アラカン山脈より転進を開始
置き去りに為って居た瀬澤小隊に後退転進命令が来た。もう、私達より前線の西方面に残った部隊は居ない。早々に東へ東へとアラカンを登り後退してしまったのだ。我が小隊が第二アラカン方面で愈々の最後、殿の部隊である。
責任者である小隊長瀬澤中尉は、この命令をどんなに待ち詫びて居られた事だろうか。忘れられてしまったのではないか等、責任者として考える事も多かった事だろう。我々の小隊が、日本軍の最後尾を守りながら、シンゴンダインを出発したのは五月三日位だと思う。
遅れて居るので昼夜を分かたず山を登った。アラカンの東の平地へ出る地点で、何処かの守備隊が待って呉れる事に為って居るので、一日でも一時間でも早く合流し無ければ為らないと懸命に歩いた。
山を登って行くと、今まで他部隊が居た宿営場所には、壊れた自動車や倒れかけの小屋が散らばり、駐留して居た場所に雑品が残され捨てられて居た。廃墟(はいきょ)と云うか、敗残後の片づけは必要無しと云うのか虚(むな)しい有様であった。屍を埋めた所も見受けられた。
二日程歩いた所で私は急に悪寒(おかん)を覚えた。マラリヤの発熱前兆(ぜんちょう)だ。仕舞った、偉い事が起きたと直感した。あのシンゴンダインの凄い奴だろうか?それなら助から無いかも知れ無い。
又、半年前にタンガップでマラリヤで死に掛けた時の事が思い出されて為ら無かった。あの時は未だ一ヵ所に駐留して小屋に住んで居たが、今度は毎日歩き通さ無ければ為ら無い悪条件の中であり、着いて行けるだろうかと暗澹(あんたん)とした気持ちに襲われた。
山を登って居るのに汗が少しも出て来ない。普通の健康状態なら当然汗が出るのだが様子が違う。熱が激しく為り山坂の行軍で疲労は募るばかりだ。只以前のタンガップの時に比べればお粥がホンの一口だけだが喉に入る。前回で少し免疫が出来て居るのかも知れ無い。
それに、苦しく弱りながらもどうにか皆に着いて歩いて居る。ここで落伍すればもうそれ迄で、山の中には何も無い。後から来る部隊は勿論、只の一人も居ない。有るのは死のみである。着いて行くより仕方が無い。泣く事も出来ない。汗が出れば好いのに全然出て来ない。
頂上を過ぎ二、三日坂道をドンドン下って来ると遥かに平地が見え始めた。後一日行程で平地に出られそうだ。小休止をした時、荷物を軽くする為に鉄帽を装具から外し竹薮(たけやぶ)の中に捨てた。今後の戦闘で鉄帽が必要な事があるとしても今の苦しさには耐えられ無いのだ。
瀬澤小隊長がこれを見て居たが「内地の工場で心を込めて製造して呉れた物だが、仕方が無いのう」と私の行為を認めて下さった。軍隊で兵器は最も大切なものなのだ。鉄砲と剣が一番ランクが高い。鉄帽はその次のランクだろうか。
そこを出発し山を下って行くと目指す平地では戦闘が展開されて居るではないか。大砲のドカン、ドガンと云う音が聞こえ砂塵(さじん)が濛々(もうもう)と起って居る。
我々を、アラカン道からの出口であるパダンの交差点で待って呉れて居る部隊が戦って居るのだ。やがて日が暮れたがその夜は徹夜で歩いた。肝心のパダンの出口を敵に押さえられて居たので山裾(やますそ)の細いかわせ道を進んだのであろう。
自分には好く分ら無いが人の後を取り逸(はぐ)れ無い様夜道を懸命に歩くだけである。夜の間に少しでも敵から離れた所迄逃げて置か無くてはなら無いのだ。喉が乾く。水筒の水はトックに空に為って居る。マラリヤの熱は依然として自分を苦しめ続けて居る。苦しく、キツク、フラフラに為りながらも歩き通した。小休止も無く、荒野の細道を南へ南へと逃れて行った。夜が明けたが行軍は続いた。
昨日の朝から二十時間も殆ど休み無く歩き通しである。この時、小隊長の命令で私達特に弱った者数人に、ビタカン注射をして呉れる事に為った。大した薬では無いと思ったが幾らか元気が出た。これも私には誠に幸運だった。
もし、この注射をして貰って居なかったら、私はここで落伍して居たかも知れ無い。それ程弱って居た。矢張りビタカンが効いたので歩けたのだ。
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そうして居る内に、敵の戦車が後から追っ掛けて来た。地響きが聞こえる。小走りに逃げた。何処をどう走ったか分から無いが、何時の間にか敵戦車は我々と離れた様だ。他の方向に行ったのだ。アア、助かった。
マダマダ歩き続けた、もう午後二時位だろう、暑い暑い、喉が乾きカラカラだ。私はマラリヤで特別苦しく汗も出ない。もう、二十時間も歩き通し、枯れ掛けた灌木が少し生えて居る荒涼(こうりょう)とした場所で大休止する事に為った。
とは言え、そこは水が無い原野の真っただ中である。フト見ると柿の実が落ちて居る。小さな実であるが、拾って食べた。何と、これが少し甘くて食べられた。マラリヤの熱があるのに不思議に食べられた。木の枝にも実が着いて居たがそれを取って食べる程の体力は無かった。
小さな柿を二個ばかり食べたので幾らか元気が出て、水を探してみようとナダラカナ起伏のある所を低い方へ低い方へと下りてみた。すると一番低い所に一メートル四方に水溜りが残って居た。ぼうふらが沸いて居たが水を見つけられたのは幸運だった。
飯盒と水筒に水を汲み沸騰(ふっとう)させて飲んだ。干涸(ひから)びた体に白湯(さゆ)の水分が入った。マラリヤに罹(かか)って居るのに不思議にこの時は汗が出て来た。汗が出たのが体に好かった。その後、お粥をホンの僅かだが口にする事が出来、携行して居た乾パンを少しだがお湯に漬けて食べる事も出来た。案外あのビタカン注射が効いたのかも知れ無い、どうあれ有難く嬉しい事だ。
乾パンの中に、赤、白、青のコンペイトウが入って居た。子供の頃お祭りでコンペイトウを買って食べた事が懐かしく思い出された。暑い午後を雑木の間で過ごし夕方又出発と為った。
この日の行軍で、我が班で二人の兵隊が日射病で倒れ落伍してしまった。普通なら涼しい所で静かにして居れば治るのだが、ここでは着いて歩いて行かなければ為ら無いのだ。
名前は覚えていないが、私が発熱して居る状態より彼らの方が元気であった様なのに、それに班長が大分励まして居たのにどうにも為らなかったのだ。彼ら二人はその後どう為っただろうか?飢餓の為死んだのだろうか、それとも苦悶(くもん)しながら自決したのだろうか?
夜行軍は続けられた。只着いて歩くだけである。どちらへ、どう行って居るのか分から無いまま夜通し歩いた。夜が明けると谷の様な凹地に入った。日陰一つ無い照り着ける太陽の下でやっと飯盒炊事をする事が出来た。幸いに空襲を受け無いで済んだ。私は食事の方は一口しか食べられ無い。やはり駄目かと心細く為った。
つづく
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