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2018年07月05日
硫黄島 祖父の戦争体験記 番外編
素敵な「自転車と家庭水族館」管理人のつぶやき
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読書後のお礼
引用させて頂きまして誠に有難うございます。負傷したとは言え、取り敢えずはご祖父様が無事にご帰国出来た事は何よりです。読者としては心から安堵しました。貴重で掛け替えの無い尊い生命を永らえたのは、幾つもの幸運と偶然、それ等を生み出した氏の人間性に寄る処が大きいのですネ。
その後、四国の警察に復帰されたのか?再婚されたのか?ご祖父のその後の生き方にも大いに興味を持たれますので、次回はその様な執筆を期待したいと存じます。
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欧米の軍隊と日本との違いは何だったのでしょうか?
そう思い下記ヤフー知恵袋のレポートを参照しました
sav********さん 2012/6/4 第二次大戦で「兵士の強さ」を国毎に見ると明らかに日本兵が群を抜いてると思うんですが その理由は何でしょう? 個々の戦闘を見ると、勝ってる戦闘では素晴らしい戦闘力を見せ、負けた戦闘でも物量差を考えても脅威的な粘りを見せて敢闘精神を最大限まで発揮して相手を苦しめてます。
日本古来からの武士道精神が功を成したのでしょうか? 当時の日本人は忍耐力が凄かったのですか?後、日本は教育で柔道や剣道を習わせてますが 白兵戦等でその効果があって戦果に良い影響が出たのでしょうか?
ベストアンサーに選ばれた回答
mer********さん 編集あり2012/6/5
日本は忍耐力はそうでも無いんです。 日本人はセッカチなんです。ですから直ぐに攻撃をしたがるし地味な事は好ま無いのです。寧ろロシア兵やトルコ兵などが忍耐強いと言う。
一例は、沖縄戦で当初は持久戦を唱えて居たが我慢出来ずに攻撃を行い失敗しました。後に米軍は、あのまま持久戦を続けられていたら厳しかったと言ったとか。叉旅順戦では、毎日の対壕戦術で穴掘りをして、こんな事するなら早く攻撃したいと不満を言っていました。
或る日乃木将軍がロシア軍の取手がすり減った鋤(スキ)をみて「うちの兵にこのスキを見せよう、ロシア軍の防御が成功している理由が判る筈だ、我々が成功をするにはロシア兵と同じく必死に穴を掘ることだ」と言ったが、兵達は直ぐには理解出来ず攻撃をしたがったと言う。(乃木将軍が正しかったのは歴史が証明している)
何故そこまで戦ったのか。先ず一般に言われる、捕虜に為る事が出来無い。これは、恥と感じるのと得体を知れない軍隊に降伏して何されるか判ら無い(例えば北朝鮮軍に降参出来るか?)、降伏した兵の家族は白い目で見られる雰囲気等、当時の思想や国民の感情が最後まで戦う事を選んだんでしょう。
叉地勢的理由もあります。特に島での戦いは逃げる事が不可能で最後まで戦う覚悟を決めていたと思います。(若しくは、連合艦隊が来るまで時間を稼ぐとか)後は、島の大きさ、防御資材の量、兵力、地形、弾薬・食料の量、指揮官の能力等々で粘り強さが変わります。
後、印象の悪い「赤紙」 基本的に徴兵は当時国民の義務で、世界の国では一般的で当たり前の事でした。
中には嫌がった人も居ますが、活躍する機会とかで勇んで出る人も居ました。そして、ドイツを参考に作られた郷土部隊で編成される日本軍は、知り合いや隣の町や市とかで仲間意識が強く為ります。その中で戦闘すれば、仲間の為に戦うし敵を討ちたいと思うし色々でしょう。逆に降伏したり敵前逃亡もすれば故郷に伝わる。
後、白兵戦は良い影響はありませんでした。寧ろ自動火器豊富な米兵相手には不利でした。それに、剣道とか柔道は闘争心を向上させるものです。
追記・・・白兵戦を仕掛けたと云うより、日本軍は島に多くの野戦砲を揚陸出来ず火力支援が期待出来ない為、夜陰とジャングルに紛れて浸透戦術で米軍の陣地を突破しようとしましたが、多くは障害と火力で封じられました。 接近戦(白兵戦)に自信があったので無く砲迫の火力支援を受けられ無かったからです。以上
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ベストアンサー以外の回答
iik********さん 2012/6/6.
普通「兵士の強さ」は@能力A士気の2つによって変わると言って好いでしょう。@の能力に付いては、無くは無いですが、これによって強い!と明確に言える軍隊は歴史的にも余り無い。現代「精鋭アメリカ軍」みたいに信じている人が多くてビックリしますが、実際的には明確な欠点があって違いが出る場合位でしょう。
当時の日本軍は、世界的にも「実戦経験」の豊富な軍隊だったので、その意味では一目置かれる存在ではありました。ドイツにスペイン動乱・ソ連に干渉戦争〜北方戦争・イタリアにエチオピア戦争と云う存在が如何に大きかったか、逆に一次大戦後の近代戦闘の経験に乏しい米軍が1.5流扱いを受け初期には間抜けな立ち回りをしている様は、兵士と云うより軍全体のレベルでの「能力」とは言えるでしょう。
叉日本軍は、欧米列強軍と比べても兵士の識字率が高く使用言語もほぼ統一出来ているのは強みですが、識字率の低さで命令伝達が滞った3次中東戦争のアラブ軍、一つの命令を20数言語に翻訳する必要のあった一次大戦のオーストリア軍でも無ければそれ程の差は無いでしょう。
更に日本兵が体格的に小柄で近視が多い事も、兵士の能力としては不利な要素でしょう。(実質的にはデカいだけの現代より強靭ですが)
長々書きましたが、普通、兵士個人の強さに最も影響するのは、時代・地域に関わらず殆どは「士気」の違いなのです。 第二次大戦では連合軍兵士、特にアメリカ兵は明確な意識無しに戦った為、マア総合的に勝ち戦だったから良かったものの「士気」は概して低く、同質同数の枢軸軍には一度も勝て無かったり多少の優位でも負けたと言われます。
一般に歴史上では「士気」は、奴隷戦士より自由戦士で高く、内政的に堅実な陣営ほど高く、兵達の社会帰属意識が高い程、権力への参画が多い程高く、伝統がある方が高いのが普通です。デモクラシーとミリタリズムは互いを涵養し合ったと云う言葉もそう云う事実を説明しています。
日本に限らず「自由、平等」と「徴兵制」はペアで登場する制度であるのは「フランス革命」の進行が「徴兵制」を初めて現出させるのでも明確です。
こう云う言い方を理解出来無い人は多い様ですが、日本兵の強さは結局、彼等が最終的には熱烈に戦争を支持したからに他為りません。
今までの時代よりも現代の若い人の方が理解出来るのではないでしょうか? 戦前の昭和恐慌は、現代以上に若い人々の雇用の機会を奪って行ったのです。「大学は出たけれど」と云う時代でした、列強は植民地とのブロック経済で不況を突破しようとしましたがそれは日本を更に苦しめたのです。 結局、世界的な不況脱出には戦争が必要でしたが、その傾向は日独伊で顕著だったのです。
三菱造船所では、好況期の3分の一に縮小した工員数を戦艦武蔵建造の為元の規模に戻しました、日中戦争の動員は若者達に居るべき場を提供し、しかもその立場は社会の信頼と期待を得る場所だったのです。そりゃあ頑張りますよ!
日本では、日清・日露・世界大戦と、実は社会の絶大な支持で参戦して居るのです。 現代政治学的には、民衆は戦争に反対して居たと云う責任逃れを容認する事にも意味がありますが、歴史学としては無知なだけです。質問者さんはかなり冷静に見ているのでそうした結論に辿り着けるかと思います。
因みに、剣術みたいなものは身体を鍛える効果はありますが、戦争の技ではありません。殆どの戦国大名が、健康法以外での剣術に無頓着なのが良い例です。 以上
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◇ ◇ ◇
成程です・・・私も戦争には反対ですが、当時の国民の気持ちとしては「戦争によって何とかしたい!」と云う気持ちが強かったのだと思います。だから戦争を煽るマスコミに期待して、新聞の購読数は戦争を煽る戦争記事と比例してうなぎ登りに上がったのです。
政治家の常として「国民に迎合」し「戦争を煽る体質」がこのように自然に国内で醸成されて行く・・・戦争に批判的だった新聞の購読拒否運動が起きたり、反戦勢力は国民の熱気に押されて萎んでしまい「威勢の良い好戦的国民気質」が生まれた様ですネ。戦後多くの新聞社が「反省」を述べて居ますが、確かに色々な報道規制があったにしろ、国民が望む好戦的な戦争記事を書か無くては読んで貰え無い事情があったのです。商業主義の会社が利益を無視して反戦を唱え続けるのは困難な時代でもあったのです。
ですから私は、一握りの少数の好戦者が居たから戦争を始めたのでは無く、多くの国民の熱烈な支持の下でこの戦争は始まったのだと考えて居ます。だからです・・・「戦争は反対だ戦争は悪だ」とハッキリ理解している人でも、何かの事情で一気に好戦的人間に変化する危険があると云う事を歴史的な事実として私達が認める事で、大勢の声に流され無い強い個の意思を鍛えて行く事が必要だと考えています。その一つとして、このブログでは時々「個人としての戦争体験」を載せて居るのです。
確かに、私達が住む日本の国が平和で安全な国として永続するには何等かの施策が必要です。果たして戦前のような軍隊・国防軍が必要なのか?現状の自衛隊で好いのかを含め、その思索や方法や組織も国民全員で時間を掛けて議論する必要があります。憲法問題もその中の大きな地位を示すのです。
その中には、何でも数の力で押し通す現状の政権の在り方、そしてそれを生み出した国民とその選挙制度を広く深く見詰め直す時間も大いに必要だと考えます・・・
以上
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2018年07月04日
硫黄島 祖父の戦争体験記 その7(おわり)
祖父の戦争体験記 その7(おわり)
この地方の状況
この地方はメキシコとの国境に近い。冬でも寒くないのだ。大西洋の岸だ。地下資源が多く鉄パイプを地下に打ち込みガスを出す。炊事もストーブもそのガスでやる。燃料は只である。
私は7月に来て12月に為ったが、未だ雨は1回も降ら無い。不思議な国である。内地ならこんなに日照りが続いたら草も木も枯れてしまうがここは草も木も成長している。
黒人
この地方は住民が全て黒人である。女は髪が縮れて長く為らない。内地の金仏の頭の様だ。色は真っ黒であり鍋の底よりまだ黒い本当の黒人である。元の奴隷が住んでいる所なのだ。
金の網の間からこの地方の部落が好く見える。我等の小屋の周りに青い草が生えた。ズンズン大きく為り、直ぐに木に為る。草か木か判らんようになる。又、ヒマの木があった。ハシゴを架けんと実が取れん程大きく為り、草で無く大木に為っている。
家の中にも外にもサソリが沢山居る。人間に噛み付いた事は無いが私は見つけ次第に殺した。南方の毒サソリでは無いと米国人は言っていた。こんなことばかりして我等は毎日を過ごしていた。
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汽車に乗る
昭和20年12月8日、この日は我が海軍が真珠湾を攻撃した日であり、米国に取っては忘れられ無い日である。この日我等捕虜は全員汽車に乗るのだと言われた。
サア大変だ、殺されるかも知れんが汽車に乗らん訳にはいかんから仕方無くゾロゾロ汽車に乗る。内地に帰ると言う者あり殺されると言う者ありデマは飛ぶ汽車は走り出す。私の考えでは我等は船に乗せられて実弾訓練をする目標にするのだと思った。撃ち沈められるのだと思った。どうせられても止むを得んと思う。
汽車は我等の思いを乗せて野を越え山越え走り続ける。トンネルを抜けて雪の山を見て走る。何日も何日も走って大平原の駅に着いた。大陸を横断して太平洋岸のシヤトルに着いた。真っ白な雪の街に為っていた。昭和20年12月13日、再びシヤトルに着いたのである。
乗船
大きな船に乗れと言う。何百人も居る日本の捕虜を乗せる。太平洋の真ん中で撃ち沈めるのか内地に帰すのか我等には全く判らない。1週間走った。大時化と為った。船は波の下を潜る、その都度ドーンという音が物凄い。船はミシミシ鳴る。割れて沈むのではないかと思うほどだ。食事も出来ぬ程揺れる。しかし食事も沢山呉れるし傷の手当も毎日して呉れるのだ。殺す積り為れば傷の手当はせんだろうから、或いは我等は生きて日本に帰れるのではないかと思う様になる。
日本見ゆ
21日間走り続けた。遂に日本の島が見え出した。アア日本だ伊豆の大島だ、見える。戦争に行く時見たあの島が2年後の今日叉見えた。何たる幸運ぞ。
船は東京湾に入る。米国の艦が沢山居る。夢に見続けた我が日本だ、祖国日本に帰ったぞ。妻や子供に生きて帰ると言ったあの言葉は今こそ本当に為ったぞ、父は帰ったぞと心で叫んだ。昭和21年1月4日浦賀に着いた。
昭和19年2月27日同じ東京湾を出てから満2年だ。あの時の気持ちは忘れん、命は無いと思っていた。その東京湾に今帰った。米国の船で米国の服を着て今帰った。傷を受けながらも今帰った。硫黄島で死を覚悟したこと幾度ぞ。過ぎし戦争を思い出す。涙が出る。日本は焼け野原だ。東京湾の中も米国の軍艦が一杯だ。日本は負けたのだ。早く日本の土を踏みたい。上陸したい。
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上陸す
浦賀の港に船は着いた。我等病人は車で上陸、元気な奴は歩いて上陸する。私は元日本の海軍病院に入院する。国立病院と為っていた。軍医も看護婦もそのまま居る。
戦陣訓に生きて虜囚の辱めを受くる無かれ、散るべき時は清く散れとある。我等は散るべき時に散らず虜囚の辱めを受けたのだ。島流しか死刑に為ると思ったりしたが心配無用であった。我が軍は既に無く、軍法会議も無く為って居た。我等は復員軍人として扱われるのである。有難い。病院では日本の看護婦の世話に為る事に為った。昭和21年1月4日であった。
私の背中の傷口はまだ膿が出ている。船の中でもずっと手当を受けて来た。今度は日本の病院で世話に為るのだ。
生きて帰ると誓って国を出た。この東京湾から船出した。あれから2年遂に帰った。今度こそ妻と子供と共に暮らせるぞ戦争は終わったのだ。母にも妻にも兄弟にも生きて帰ったことを知らせたが返事は無い。そのうち傷がまた化膿した。軍医に手術して呉れと頼んだが麻酔薬が無いので手術は出来んと言う。私は生のままで好いから切って膿を出して呉れと頼んだ。
軍医は生のまま切り開いて呉れた。上半身裸で椅子に座る。軍医はメスで切る。血は飛ぶ看護婦は向こうに顔を背ける。軍医は切り開いた、痛い、泣いても叫んでも致し方ない。自分が頼んだのだ。辛抱するより致し方がない。
長い間掛かって軍医は「好し済んだ」と言った。軍医は「わしも辛抱強いがお前も好く我慢したナア、痛いと一口も言わ無かったナア」と驚いていた。私は脇の下は汗でビッショリだ。痛いとは言わ無かったが、死ぬよりましだから切って貰ったのだ。泣いたり叫んだりする訳にいかんのだ。その夜大熱が出た。手術の熱である。私は何にも判らなくなった。
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妻の夢
大熱で魘(うな)されながら眠った。不思議な夢を見た。妻が髪振り乱して上半身裸で濁流の中に立っている。左足がチンバになっている。100メートルも幅のある大河の真ん中に居る。私に来いと招く。2年間忘れたことの無い妻だが濁流の中には行けぬ。
それでも河に入り歩いて近づく。背が合わん、深いもう行けん私は泳ぎが出来ん。引き返して陸に上った。目が覚めた。
夢だった。妻の身に異常があったのだ。私の戦死の報で再婚したのか或いは死んでいるのではないかと思う。そこへ、産春兄から手紙来る。思った通り妻は昭和20年6月14日、子供2人を近親者に頼み、自分は夫のもとに行くと言って病死したと言う。
防空壕を掘る奉仕作業に出ていて左足に古釘を刺して傷を受けて居たのが、遂に破傷風と為って髪振り乱して手を突っ張ったり反り返って苦しがり死んだと云う。
私は困った。今度こそ戦争は終わったので親子仲良く暮らせると思うたのに妻は死亡、子供は2人残り我が身は傷ついて今大熱に苦しんでいる。世の中は物資が無い喰う米も無い。4回も召集され最後に生きて帰ったというのに神は助け給わぬのか。
妻に死なれ二人の子供を養って生きていかねば為らぬ運命に為った。まま為らぬものである。サア大変だ、私は何時退院出来るか判らん。昨夜の夢は正夢であった。私の傷が重くとても助からんと思った妻は私を呼んだのだ。川の中へ行ったら私は死んで居ただろう。引き返して岸に上ったので助かったのかも知れん。1日も早く帰って子供を引き取り養わねば為らぬ。重大責任が出来た。
私の戦死
私は昭和20年3月17日硫黄島に於いて戦死と為り町葬も済んで忠魂墓地に墓標が出来ている。死ぬべき私は生きて帰る。生きている筈の妻が死んでいる。運命は私を未だ苦しめるのだ。2年前善通寺の兵舎へ面会に来て呉れた妻、あれが永久の別れと為ったのである。私も出発の時、妻とは別れに為る様な予感がしたが本当となった。
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習志野へ
昭和21年1月8日、日赤のマークを着けた汽車で我等は千葉県の津田沼駅に着く。習志野元陸軍病院に入院。看護婦も軍医も昔のまま。寝台には陸軍伍長高橋利春と書いて呉れた。
自由に外出も出来る。闇市でいわしや団子など買うて来てストーブで焼いて喰うたりする。またケンカする奴も出る。手も足も無いのが居る、色々だ。町の婦人会が慰問演芸会を開いて招待して呉れる。私は一日も早く土佐に帰り2人の子供の世話をせねば為らぬが傷はまだ治ら無い。
世話課へ
或る日患者が揃って白衣のままで汽車に乗り、足の無いのや手の無いのが松葉杖を突いて千葉の津田沼から東京に向かった。
街は一面焼け野原である。元の司令部が今は県世話課と為っている。そこに我等は押し掛けた。県は驚いた。かたわ者ばかり押しかけたから堪らん。軍服と靴を呉れと申し込んだのだ。県では米軍の服と靴を取り上げて日本の服と靴を呉れた。
こんなことは病院に言わず皆黙っていた。言ったら叱られる。東京の焼け野原に、米軍人と日本の女が手を繋いで歩いていた。笑って楽しそうである。負けても我等は日本の軍人である。日本の女は馬鹿だナアとみんなで腹を立てたが、女もそうしないと喰え無かったのであろう。止むを得んことだったであろうが、当時私達はそんなの見て腹を立てたものだった。大和なでしこと言われた日本の女性が敵と手を繋いで身を売るのか、情けない奴だと思った。夕方千葉に帰った。
岡山へ
昭和21年2月2日、汽車で岡山の国立病院に送られた。背中の膿が止まらぬ。毎日診て呉れる。治らん。歯も一本抜かれた。軍医は、傷の付近の肉が腐っている。モモの肉を切って植えると言う。私は病院を無断で抜け出して岡山の街を歩いてみた。焼野原の岡山を歩くと戦争の激しさが判る。
病院の裏の山にも登った。四国が見える。あの向こうに土佐がある。早く帰りたいと思いながら山を下る。病院にコッソリ入る。命無いものと思っていたが、命があるとなると身内の所に早く帰りたい。妻は死んでも子供は居るのだ。今頃どうして居るだろうと思うと飛んで帰りたいがまだ傷は治らぬ。
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高知へ
私は、モモの肉を植えなければ治らぬと書いた書類を持って只一人岡山から高知に行く事に為った。白衣のまま汽車に乗ったが立ち通しだ。誰も席を譲って呉れるものなし。汽車は満員である。
朝倉に着いて兵舎の病院に行ってみれば米軍の歩哨が立っている。聞いてみた。国立病院は高知駅の裏に日赤の間借りをしていると言う。叉高知に引き返さなければ為らぬ。朝倉駅に行けば、切符の割り当てが無いから売らんと言う。市電で行けと言う。市電を利用して高知に着いた。
焼野原である。要約訪ね宛て入院した。書類も渡した。ヤレヤレ、これで飯に在り付いた。早く入院せねば夕食に困る。金は無いし宿屋も無い焼野原だ。
高知病院
高知の病院は食器なし。竹の節を切って茶碗にしている。水筒も竹製、何にも竹だ。金の茶碗に金の箸は軍隊なれど、ここでは竹ばかりなり。高知から中村へ手紙出す。高知まで帰ったことを知らせる。
妻の父と繁兄が来た。話を聞いた。妻は死に子供二人は繁兄が見ていると言う。私は早く帰りたい。帰らねば為らぬのだ。面会人は中村へ帰った。私は軍医に頼んだ。退院させて貰う様頼んだ。傷は痛いが、帰ってから治せるだろうと考えた。軍医は「お前は恩給診断をしてからにせよ」と言ったが、その様な事は眼中に無く子供に会いたさに帰して貰った。軍医は治癒と書いて呉れた。治った退院だ許可が出た。
しかし、この無理な退院が後日物凄い不利に為るのであるが、この時は考えていなかった。後日法改正に為り恩給が復活した。私も請求するが、治癒と為って居る為傷害恩給が却下されてしまった。先目の見えぬ人間である。賢い奴は治っても治らんと言って恩給に在り付いたのが多いのだ。
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帰る
昭和21年2月29日、私は只一人退院した。背中にホータイをして病院を出た。久礼からバスで中村に帰る。母も子供も喜んで呉れた。勝幸は私を覚えていた。勝は数え年7歳に為っていた。智恵子は5歳に為っていた。
両親が死に、伯父に当たる繁春兄に養われて居た。
私が引き取って養うこ都に為ったが、妻の無い男が子供2人抱いて養うのは容易な事では無い。当時金は無く米は無く、マッチに至るまで配給制度であり喰うものが無いのだ。朝早く起きて飯を炊き子供に喰わせ、掃除洗濯後始末、忙しい事話に為らん。大変な事に為った。
智恵子は繁兄に暫く預けて、私は勝幸の世話をする事に為った。戦争も終わったのだ。私は永久に軍隊に行く事は無い。これから人間並の生活が出来るのだ。その時に、神は何故私から妻を奪ったのか情け無く為った。妻さえ生きていて呉れたらどんなに幸福であったか判らん。どんな苦労も厭わぬものを、世はまま為らぬものである。
自分の墓は自分で取り去り、戸籍も復活した。子供も入籍した。昭和21年3月までの日記である。後日の参考とせられたい。終戦後からは毎日の日記に書いてある。
昭和21年3月までの従軍記を終わる
元陸軍工兵伍長 勲八等 高橋利春
おわり
素敵な「自転車と家庭水族館」より
ご愛読いただき有難うございます。引用させて頂いた筆者の方々に謝意を表します。全く大変な目に遭われても最後まで生き残りこの様な手記を作成頂き、私どもに貴重な体験談を残されたのは、この上なく貴重で尊い事だと謹んで御礼申し上げます。
最早、戦の勝敗を度外視した「単に死のみを求められた」筆者達のご健闘は、決して無駄死にでは無く残された私達への悲しいながらも「何か大きな教訓」を残されたものと存じます。これも、生き残ってその経験を後塵に託された強い意志があっての事だと存じます。この様な生き残った方達にはその後も多大なるご苦労もなすったものと察します・・・
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硫黄島 祖父の戦争体験記 その6
祖父の戦争体験記 その6
幕舎に行く
軍医の居る幕舎に着いた。軍医が診て呉れた。私は水は飲ませて貰ったが腹は空いている。4日も食っていない。手で口の中に入れるもの呉れと動作をする。直ぐ判った。
缶詰を呉れた大豆を煮たものであった。全部喰ってしまった。軍医は傷に白い薬を掛けてから傷が重いから野戦病院に行きますと言う。殺さんのかと不思議に思っているとジープが来た。後部が抽斗に為っており、それを引き出して2人で私を投げ込んだ。押し込んでカギを掛けて走り出した。道で無いから堪らん。砲弾の穴だらけだ。
車は出たり入ったりドンドンバタバタ走るが、体が引き出しの中でアチラに当たりコチラに突き当たり、背中の傷も打ち当てられ死ぬ思いである。泣いても喚いても死んだとて見向いて呉れる者は無い。敵さんに捕まっているのであるから止むを得ん次第だ。
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米軍病院
野戦病院に着いた私は引き出しの中から出され軍医が診て呉れた。喰うものは呉れるし、これは本当かな夢ではないか戦死してあの世に来ているのではないかと思った。二世の米国軍人が沢山居るので聞いてみた。硫黄島は3月17日我々が占領した。日本は負けたと言う。
私は無駄な戦争をしたものだ。日本軍2万は玉砕したのか、知ら無かった。俺も死んでいた方が好かった。何故生きているのか、何時米軍に殺されるか判らん。捕虜生活は辛いものだ。
ガム島
昭和20年3月24日、硫黄島の西海岸からガム島に送られる事に為った。大きな船に乗せられた。米国軍人が機関銃を持って我等を警備している。船は出た。何日も走ってガム島に着いた。
ヤシの大木が全部中央部から折れている。満足に立っている木は只の一本も無い。草葺きの土民の小屋に沢山の捕虜と共に入れられた。手の無い者足の無い者色々だ。我等の仲間も沢山居る。恥ずかしい事は無い。毎日日本語の判る将校が調べる。私は何を聞かれても知らん存ぜんで通した。私は完全に死ぬのを米軍が助けて呉れたのだから有難いと思っている。
ハワイへ
傷は段々良く生って行く。ガム島で10日間も過ぎた。我等は大きな汽車ほどあるバスに乗せられた。港まで運ばれた。大きな輸送船団が着いている。米国に帰る看護婦が大勢乗って居る。看護婦は皆少尉である。皆美人に見える。長い間女を見て無いので美人に見えたのかも知れない。
10隻位の船団である。我等は一つの船に乗せられた。船は出た。何処に行くか言わんので判らない。船は毎日走る。日本の捕虜が一名死んだ。水葬にすると言う。布を巻いて海中に投げ込む。それで終わりである。船はその付近を3回まわって葬式終了した。我等は黙祷した。
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海軍病院へ
私の傷も化膿した。大熱が出た。米国の看護兵が体温計を見て驚いた。水銀が上にあがり計れ無い様に為っている。45度以上である。私も自分が判らん様に為った。夢に米軍の兵隊が話している。日本の捕虜は米国に連れて行って殺すと言っている。翌朝目が覚めてみると、米兵が日本語で話す訳が無いから、私の聞いたのは熱の為そんな夢だった事がわかる。
船は10日でハワイに着いた。元気な奴は歩いて上陸する。私はタンカで降ろされた。2階のあるバスに乗せられる。黒ん坊の運転手だ。鍋の底より未だ黒い。笑って歯の見える方が顔である。海軍病院に着いた。昭和20年4月24日である。長い船旅は終わる。
傷は痛い。ハワイ真珠湾の見える丘の上の病院で養生する事に為った。昭和16年12月8日に日本が空襲した所なのだ。敵さんに取っては恨みの深い土地である。海が浅いので日本の沈めた船が半分以上水から出ている。焼けたままに為っている。
病院
手術せず毎日傷口に薬を着ける。膿は止まらぬ。傷口から大きな骨片が出て来た。2ヶ月入院した。今日まで海軍(マリン)の病院だったが、陸軍(アミ)の病院に引き渡される事に為った。大きなトレーラーバスに乗せられてハワイを走る。暫くして、陸軍の収容所に入れられた。
ドイツ、イタリヤの捕虜も沢山居り、我等とは別のキャンプに入れられて居る。朝鮮人の捕虜は日本人と別にして入れられて居た。
使役
毎日草引きや掃除をさせられる。運動の為らしい。夕方に為るとドイツの捕虜とイタリヤの捕虜が鉄条網の傍に来て国歌を歌う。我等はドイツやイタリヤの国歌を歌う。共に万歳を叫んで別れる事に為っている。私も君が代を歌った。異国の空で捕われの身で歌う君が代は自然に涙が出て止まらない。不思議なものである。
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朝鮮人
朝鮮は日本の領土であり朝鮮人は日本人であった。兵隊にも軍属にも朝鮮人は沢山いた。ハワイで彼らは日本上陸の訓練をして居た。釜山に上陸し祖国朝鮮を日本から取り戻すと言っていた。(朝鮮人の捕虜)
米国へ
昭和20年6月、ハワイで2ヶ月養生して米国に送られる事に為った。6月21日、ハワイから米国輸送船に乗せられる。東に東に進む。10隻位の船団で行く。10日目に山が見えて来た。富士山そっくりの山がある。半分雪を被り美しい。海中にはオットセイみたいな動物が沢山顔を出して泳いでいる。変な声で鳴いていた。
遂に私は見たことも無い米国本土に送られたのだ。両側に陸のある入り江の海を北に進んでいる。暫くして港に入る。物凄く船の多い港だ。シヤトルと云う所だと知らされた。
上陸す
昭和20年7月1日、船から桟橋に下りる。街の中を歩かんと検疫に行けん。500メートル位歩かされた。10メートル置きに米軍の歩哨が銃を持って立っている。街の中は見物人で一杯だ。男も女も沢山見ている。話し合っているが英語だから我等に判らん。日本の捕虜だと言っているのであろう。幾ら悪口を言われても全然判らない。
検疫所に入れられ丸裸にされる。頭から白い水を掛けられる。消毒薬だ。終わって汽車に乗せられた。人間の運命とは全く判らないものだ。又私は何処に行くのか判らず汽車で行くのだ。
汽車
汽車は走る。野を超え山を越え走る走る。2日間走り続けた。サンフランシスコに着く。この日は7月3日であった。汽車を降りて小舟に乗せられてエンゼル島と云うところに着いた。ここに収容所があり、入れられた。
各人にタバコが配給された。自分の寝台に置いて用件を澄ませ帰ってみるとタバコは盗まれていた。探してみると、我等より先に来ていた海軍の捕虜が盗んだ事がわかった。我等は後から来て仲間に入れて貰うので文句は言え無い。私は盗まれた事は言わ無かった。言えば我等陸軍の者は海軍の奴等に虐められるのだ。
自分等が盗んでおいて騒げばリンチを加えるのだ。彼等は実に同じ日本軍の捕虜なのにリンチを加える。私はこの目で見た。
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リンチ
ある陸軍の下士官が食堂に行った。炊事係は海軍の捕虜が遣っている。それに対して文句を言ったらしい。その日の夕方彼等海軍の炊事係等に呼び出された。米兵の居らん所でリンチを加える。大勢の捕虜の見ている前で顔を殴る腹をける拳骨で突き捲る、すみませんと謝るのを殴り捲る。
見る見る間に殴られる下士官は顔が紫色に為った。腫れ上がって行く。後難を恐れて誰も止める者がいない。同じ日本人であり同じ軍人である。捕虜と為り心細い生活をしているのに同胞を異国の土地で殴るなんて、彼等は軍人で無い暴力団の様な奴等だ、腹が立つが誰も口を出さ無い。
捕虜の内部では、こんな事も行われて居たのだ。或いは殺して便所の中に捨てたと言う話もあった。米国の便所は口が小さく中が広いので、落とし込んだら人間の一人位は判らない様に出来ている。
移転
僅か4、5日、この島を去らねば為らぬ時が来た。小さな舟で大河を登って行く。このエンゼル島と陸地を繋ぐ鉄の大橋がある。上は車道下は人道で2階で造ってある。米国の兵が、あれ程大きな橋が日本にあるかと言うので、日本には未だ大きいのがあると言うと、彼は驚いていた。私はウソを言って遣った。
あんな大きな橋は日本には無かった。船はズンズン登って行く。5キロ位行った頃岸に着いた。新しい収容所があった。我等は入れられた。全員に注射をせられた。風邪の予防注射だそうなが、物凄い痛い注射だった。ここでは仕事は無くて毎日歌ったり踊ったりで暮らしていた。
汽車に乗る
ここで今度は汽車に乗せられた。内地の様な黒い汽車で無い。赤や黄色の美しい汽車だ。我等は汽車は黒いものと思っていたが美しい色があることを知った。大陸を横断するらしい。食事は缶詰ばかりだ。アア日本の米と味噌汁が欲しいナアと思った。
缶詰は旨くないが喰わねば死ぬから喰うのみだ。毎日毎日汽車は走る。汽車の窓から見た米国の状況をそのまま書いてみる。
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畑の中の汽車
毎日走る、畑が続く。畑の中に鉄道の線が引き込んである。水道も大鉄管で縦横に引き込んでいる。この水は各所に分かれて畑に分布し、クルクル廻る道具を着けて在り、雨の降らぬこの地方に雨を降らせるようになっている。雨が何ヶ月も降らんので人口で雨を降らせて農作物を作るのだ。
又、鉄道は出来た農作物を運搬するものであり、貨車を突っ込んで来てそれに農作物を積み込み機関車が引き出して行くのだ。日本はこんな所は無いこんな広い畑も無い。ケタが違うのだ。
作物
大根や人参の多いこと、何日走っても山が無い。野菜畑ばかり支那大陸と同じである。日本の北海道など問題に為らぬ。アメリカがこれ程広いとは私は知ら無かった。
汽車の窓から製材所が見えた。大きな材木を挽き割る片方がベルトコンベヤーに為っていて、それに挽き割ったものが倒れる。向こうに行って崖下に落ちる。下は火の海であり燃えてしまう。中味の好い所だけ取って木材として使用し後は捨ててしまうのだ。贅沢なものだ。日本人には考えられ無い。恐れ入った次第なり。持てる国と持て無い国との違いである。
こんな大国を相手に戦争をして勝てる訳が無いではないか。日本魂も軍人精神も神風も打ちてし止まんも、物量と機械文明の前には何の役にも立たず、我が国は段々戦争は不利に為って行くのであるが、今の私は捕虜としてアメリカ大陸を横断しているのである。勝つのか負けるのか全く知る由も無いが汽車は大陸を横断しつつあるのだ。
山林
汽車は山林に入る。山と言っても平地に木が生えているのだ。日本の様に高い山で無い。平野が山林だ。直径1メートルもある大木が乱立しているのだ。行けども行けども同じ山林が続いている。木材は機械鋸で切り倒し、クレーンで貨車に積み込み機関車が引き出して行く。
平地だから、鉄道を山の中に引き込んである。世話無い。日本の様に高い山から出したり谷底の木を出すので無いから仕事が捗る。木材は幾らでもあるのだから自由自在に切り出して好い所を採り後は捨てるのだ。何と豊かな国であることよ。何時間走っても同じ様な大森林の中から抜け無い。その広いこと無尽蔵だ。汽車は日本人捕虜を乗せて行方も知れず走り続けるのである。
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横断
昭和20年7月28日、この汽車は米大陸を横断してテキサス州に着いた。ケネデーと云う所だ。ここに収容所がある。我等はここに入れられた。下士官と将校は同じ所、兵と軍属は同じ所に入れられた。沢山の先輩が来ていた。主として海軍の捕虜だ。大佐から兵まで随分居る。
小さな家が沢山あって、その中に5名位ずつ入れられる。私は下士官だから下士官ばかり4名一緒に入れられた。寝台も4つある。自由に一戸を使って好い。内地の村位広い所に家が幾らでもある。皆夫々4、5名ずつ入った。家具など一切無し。
軍神に会う
真珠湾攻撃の軍神は9人であるが、本当は10人行ったのである。一人生きて捕まったのである。それで九軍神と騒がれたのである。人間魚雷に乗って我が身諸共敵艦に突進するのだから必ず死ぬのだ。只一人岸に突き当たり動け無くなり捕まったのが、捕虜第1号の海軍の酒巻少尉である。
この少尉にこの収容所で会うことが出来た。高知県の越知町の人だと本人は言っていたがウソか本当か判らん。人間こんな時は好くウソを言うものであるから。毎日仕事なし遊んで暮らす。草をひいたりして我が家の付近を綺麗にする位が仕事である。食事は1日3回食堂に行けば喰える。毎日手当として10セント呉れる。店もあるのでその10セントで何でも買える、安い。
1里四方位のところに金網が張られてある。逃亡は出来ない。四隅にはヤグラがあって高い所から歩哨が見張っている。逃亡すれば機関銃で撫でられる様に出来ている。気の狂った海軍の将校が一人居った。只一人毎日柳の下でグルグル回って何かブツブツ言っていた。捕虜に為り気が狂ったのだと海軍の兵は言っていた。
化膿する
私は毎日のんきに遊んでいたが、傷が化膿して食事も出来んように為った。係に言うと軍医に診て貰えと言う。診て貰った。切り開いて呉れと頼んだ。ウンと言って切り開いて膿を出して呉れた。軍医が切り口から指を入れて探って骨の片を沢山出した。
肩まで穴が抜けていると言った。骨の欠片は全部出せんと言った。弾丸傷が中から膿んで居た。ガーゼを口から詰め込んだ。痛いこと死ぬ思いである。叫ばず居れん。叫んでも泣いても外国である、知る者はない。戦争だから止むを得ん。病室に入れられた。
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入院
入院してみると日本人患者ばかり沢山居った。歩いて行ける様に為った。楽に為った。点呼にも出られる様に為った。点呼に遅れると、ヘイ、カマワンと言って連れて行かれる。営舎に入れられる。パンと水だけで3日間過ごさ無ければ為らぬ。これが点呼に遅れた処罰である。国が変われば何から何まで変わるものだ。
病死
私が入院中、別の捕虜が一人死んだ。米国まで来て死んだのだ。全員集合させられ自動車で墓地に行くのを見送った。何時自分がこう為るかわからんのだ。又何時日本に帰れるのか、或いはこのまま日本に帰る事はないのか、それが判らんのである。米国で殺されるかも知れないと思うと心細いこと甚だしい限りだ。
つづく
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硫黄島 祖父の戦争体験記 その5
祖父の戦争体験記 その5
3月11日
昨夜は寝ずに陣地作りをしたが夜が明けた。3月11日なり。戦争は我軍に不利なり。必死の防戦も空しく段々と押されている。
考えてみると、ここ数日穴掘りや斬込みばかりである。戦死者も多かった。負傷者も多かった。元気な奴は骨と皮である。まともな兵は居らぬ。第一喰うものがないのだからである。支那からずっと一緒に戦ってきた谷川政一上等兵も死んだと聞かされた。頭に手榴弾を受けて、鉄カブト諸共頭が飛んだという。可愛そうな事をしたものだ。この友は出征途中、大阪駅ホームで妻と最後の別れを惜しんでいた兵だが、本当にあれが最後の別れであったのだ。
部隊に帰る
私のように生きていれば、次の戦いに出される訳だが、天山も敵が来なくなった。残った兵を集めて北部落の陣地に帰る事に為った。皆喜んだ。九死に一生を得て今ぞ部落の部隊に帰れるのだ。要約帰り着いた。陣地の中には負傷した者など沢山居った。私等を見て、好く帰って来たと大変喜んで呉れた。これで暫く休ませて呉れると思って喜んでいたがそうは問屋が卸さん、次の命令が出される。
3月13日
私は3月1日付で陸軍伍長に任ぜられて居た。死に土産の進級と思う。何れ死ぬのだからその土産だ。果して次の斬込命令が来たのである。今度は下士官として兵を指揮する事に為った。島は半分取られ、ジリジリ押されて3分の1も残って居ない様な状況だ。
今度の斬込が我が部隊最後の斬込である。1000に1つも生きて帰れる見込みは無い。必ず死である。今度は生きて居ても帰る所も無いであろう。この陣地も数日で落ちる。死は決定的と為った。これから斬込の準備をしなければならない。
昭和20年3月13日、最後の斬込命令が出された。下記の8名が決まった。
斬込分隊長 矢野 千郎 軍 曹 高知県 予備役
隊 員 高橋 利春 伍 長 高知県 〃
〃 吉岡 富造 伍 長 愛媛県 〃
〃 横山 義範 上等兵 高知県 〃
〃 石崎 薫 上等兵 愛媛県 〃
〃 林 正吾 上等兵 徳島県 〃
〃 木村 甫 一等兵 徳島県 補充兵
〃 野口勝二郎 一等兵 徳島県 〃
我等は工兵であり爆弾作りは専門家である。忽ち20キロ爆弾を各自が作った。これを背負って敵の戦車に我が身諸共飛込むのである。夜に為るのを待って爆弾を各自背負う。銃を下げた。誰も何にも言わぬ。言いたくも無い。明朝は嫌でも散らねば為らぬのだ。再びこの陣地に戻る事は無いのである。戦局は不利、師団司令部も危ない状況である。
サア出発だ。陣地に残る負傷兵は沢山居る。我等の出発を見て、一緒に死にたい連れて行ってくれと泣く兵も居る。私が仲の好かった高橋為数上等兵は足を撃たれ養生していたが、私に、連れて行って下さい共に死にたいと泣きながら頼むのである。私も可愛そうに思って、歩けるかと言うと歩けますと立ち上がったが再びバッタリ倒れた。
お前は無理だ、養生して治ってから斬込め、と慰めて出発した。あの上等兵の悲壮な顔は、今も忘れられ無い。
我等8名は穴陣地を出た。暗く為っている。弾丸が飛んで居る。横山上等兵が「高橋班長、今夜は敵弾が妙に飛んで来るのう、地面にブスブス入るが普段と違うなぜよ」と言った。あの声は忘れられ無い。
私は各兵の間を30メートル離して行く事にした。集団で行くと一人に弾丸が当たれば全員死ぬる。背中の爆薬に火が点き吹き飛ぶからである。それでは戦車に飛込めず目的が達せられないからだ。
陸からも海からもタマは飛んで来る。その中を天山に向かって進んで行く。明朝天山に来る戦車を破壊せねば為らぬ。私は日本を発つ時必ず生きて帰ると妻子に言ったがどうも約束は果たせ無い事に為った。死なねば為らぬ運命に為った。生きていても米無い水無い弾丸無いどの道生きられ無いのだ。妻子に許せよ私は生きて帰れない事になったと心で詫びた。今は只死を覚悟で進んで行くのである。
天山着
天山は何時も来ているので地形が判っている。横穴陣地に入る。天山に着いたのだ。朝まで休む事に為る。
昭和20年3月14日の朝に為る。今日が我等の命日と為るのだと誓う。交代で穴の出口で敵の来るのを待つ。私が交替して敵の方を見ていると、目の前がピカッと光った。ドカンと音がして私は土砂の中に埋まった。
砲弾が目の前に落ちたのだ。不発であった。助かったが、爆発して居れば木っ端みじんに為っていた訳だ。私は、何時でも死に直面すると何かが起こり助かるのだ、不思議である。
戦車来る
来る筈の戦車は未だ来んので飛込む訳には行かぬ。交代で見張る。戦車が来たぞーと見張りは叫ぶ。私が行ってみた。本当に来た。今迄3回も斬込に行ったが戦車が来んので助かったが今度はそうはいかん、戦車が来た。
茶色で大型M4という最も恐ろしい奴が来たのだ。200メートル位遠くに居る。大砲を突出し機銃を左右に着け火炎放射器も着けている。我等8名の死ぬ時が来たのだ。どう考えても助かる見込みは無い。覚悟は出来ている。恐れはせぬが死は我等に刻々と迫って居るのである。
別の陣地に4名を連れて見張りをしていた矢野軍曹が、戦車が来たぞー戦闘準備と叫んで走って来た。その顔色は蒼褪めている。私は早く見付けて居たので慌て無い。どうせ死ぬのだから恐ろしく無い。死ねば好いのだ。戦車に飛込めば好いのだ。他に道は無いのだ。
敵は前方を火炎放射器で焼き払い、機関銃で掃射し大砲でドカンドカンと撃ってズルズルと進むだけだ。これを繰り返している。1時間に10メートルも進ま無い。我等は戦車が10メートルに近づいたら飛び出せと決めている。一番先に飛込むのは私であり2番は矢野軍曹だ。3番は吉岡伍長、4番は横山上等兵、5番は石崎上等兵、6番は林上等兵、7番は木村一等兵、8番は野口一等兵と決めてある。
戦車は何10台も居り、我等は8名だから8台しか破壊出来ないが止むを得ん。二度は飛込めぬのだから、残った戦車は我軍の方に雪崩込むであろう。
私は4回目の召集なり。今日ここで死ぬとは運が悪い。しかし戦陣訓にも書いてある。散るべき時は清く散れである。その散るべきときが来たのだ。清く散るより他に方法は無いのだ。私は覚悟している。皆の顔を見た。みんな無言で頷いた。準備は終わった。10メートルまで戦車が近づくのを待つ。
私は兵に、好く休んで置けよと言って置いて穴の出口に行き、戦車を見詰めていた。矢野軍曹も今は同じ陣地で飛込む時期を待っている。一斉に飛込むが総指揮は矢野軍曹が執ることに為っている。幾ら待っても戦車は10メートルまで来無い。我軍の飛込みを恐れているのだ。後90メートルで私は飛込むのだと見詰めている。90メートル近づけば私が一番先に飛込んで見せるぞと自分に言い聞かせていた。その時意外な事が起こった。
決死隊
後90メートル進んで来るのを待っている私の80メートル位前に、一人の日本兵が這いながら先頭の戦車に近づくではないか。只一人だ。私が飛込むと決めていた戦車に向かって近づく。アッと云う間の出来事だ。戦車目掛けて飛込んだ。我が身と共に戦車に飛込んだのである。忽ち起こる爆音に戦車は火を吹き燃え始めた。ヤッターと私は叫んだ。
敵さん騒ぎ出した。日本の斬込隊が居ると知ったから大変だ。敵は火炎放射器で焼き出した。火炎はボーボー黒煙と共に真っ暗い。一寸先も見え無くなった。先頭の戦車を遣られたので敵さん怒ったに違いない。2番目の戦車が先頭になり大砲で撃ち捲る機関銃で撫でる火で焼く、物凄い。
花と散る
この我等より先に飛込み見事に戦車1台破壊した兵は何処の部隊の誰かは知る由も無いが、南海の島で花と散った。只一名のみだ。他部隊の生き残りかも判らん。知っているのは私一人だから功績を認める者は無い。誰の為に死んだのか、国の為とは言いながら爆弾を背負って戦車に飛込み戦死したのだ。
数刻の後は私もあの様に飛込んで散るのであると思った。世の中には不思議な事も奇蹟も起こる。私が飛込む戦車に味方の兵が飛込み、予定は狂ってしまったのも奇蹟だし私が今この様に当時の事を書いているのも奇蹟である。
生きる者が死に、死ぬべき者が生き残る。驚くべき事である。私が飛込んで死ぬ筈の戦車に別の部隊の兵が飛込んで死んだ。敵さん進まず、付近を焼き払い撃ち捲りしている。我等8名は出るに出られず非常に困った。出れば焼かれる撃たれる、目標の戦車に近づけぬ。何にも出来ぬ。戦車が近くに来るのを待つより方法は無い。じっと待つ。
この時だ。天地も崩れる様な大音響と共に地鳴り震動が起こった。黒煙立ち込め一寸先も見えぬ。ゴーゴーピカピカドンドンバリバリドカンドカン我等も身体が飛び上がる程震動する。何事が起こったか、地震か火山の爆発かと思う。何十台、何百台の戦車は我等の頭上を強行通過して行ってしまった。
生き埋め
敵は1台やられたので強行手段に出たのだ。台風の様に走り去った。我等はどうも出来ぬ。戦車に着いて来た海兵隊は我軍の陣地の出入口全部に手榴弾を投げ込んで潰して行く。我等は地中深く生き埋めに為った。天晴れの作戦だ。我等に飛込む隙を与えず穴の出入口を埋めてしまった。見事我等は戦に負けたのだ。
脱出
戦車に飛込んで死ぬ筈の我等8名は地中深く埋められた。空気と食料、水が無い。そのままではミイラに為る。地上に出るより生きる道は無い。出ることに決まった。
銃剣で土を掘り起こし、他の者がその土を後方に手で運ぶ。暗い所で必死で作業する。何時間経ったか判らんが、人間の頭位の穴が出来た。空気の心配は無くなった。外の様子は判らん。出ても命の保証は無い。誰も先に頭を出す者が無い。私が頭を出した。敵は居らぬ。夜に為っていた。照明弾が高く上り、明るく為ったり暗く為ったりしている。
穴の出口にはガソリン缶が沢山積んである。それで穴を広げて出る事に為った。次から次と穴から出る。全員出た処で矢野軍曹は、我等は斬込に失敗したが仇を打たねば為らぬ。一先ず我等は北部落に帰る。失敗を報告して次の命令を待つ。これから海に出て、水際を通って北部落に行く、と言う。それ行けとばかり動き出した。
3人戦死
照明弾が上っている時は這いながら行き、暗く為れば走りして海岸へ海岸へと行く。敵に発見されていない。100メートルも行った時、高い所に出た。我先にと飛び降りる。忽ち機関銃の音と共に火を吹いた。
パッパッと火が出て明るく為る。飛び降りた者は遣られた。待ち伏せにあったのである。後方に下がり砲弾の穴の中で調べてみると、吉岡伍長、岩崎上等兵、木村一等兵は戦死、野口一等兵は自分が来た方向に走った、行方不明である。残念である。
矢野軍曹戦死
4人を失った我等は矢野軍曹指揮の下に更に北へ100メートルも行った。海に出るに都合の好いところがある。ここは2メートル位高くなり、下に飛ば無ければ為らぬ。矢野軍曹自ら飛降りた。バリバリドンドンピカピカと機銃が火を吹き矢野軍曹は遣られた。助ける事も出来ぬ。敵は何処にも居ったのだ。
又1名失った。誰か一人でも北部落に辿り着き、状況を報告し無ければ為らぬが、敵の中を通って行くには容易では無い。敵は夜間絶対に動かぬ。動く奴は日本軍と決まって居るので見つかれば殺される。何とかして敵の中を突き抜ける事を考えなけば為らぬ。
下士官は2人遣られた。今度は私が指揮を執らねば為らぬ。残ったのは私と横山上等兵と林上等兵の3人と為る。中の好かった同県人の矢野軍曹も死んだ。涙が落ちる、止むを得ん戦争なんだ。
横山上等兵戦死
横山上等兵も同県人だが彼は私よりずっと若い。残った3人で又行く。伏せたり這ったり歩いたり進んで行く。暫く行くと、飛び降りるに都合の好い所があった。用心せんと下に又敵が居るかも知れん。横山が伸び上がりながら下を覗いた。
アッ痛いと言った。うつ伏せに為った。下から銃声が起こった。遣られたのだ。私が引き起こしたが駄目だった。胸から背中に掛けて撃ち抜かれていた。残念で為ら無い。
次から次へと死んで行く。今度は早く行か無いと夜が明ける。夜が明けたら御仕舞だ。忽ち発見せられて命は無い。
林戦死
私は林と2人に為った。林よ今度は海に出ず陸の真ん中を通って行こうと相談してその様にした。起きては這いながら行く。照明弾が上がれば伏せる。暗くなれば這って行く。随分行った。100メートルも前に敵の歩哨が2人見える。林よ右の歩哨は俺が殺す左の歩哨はお前が殺せ、その中を突っ走るぞと命令した。
2人はジリジリと進む。林上等兵は立ち上がった。ウロウロ見回している。私は慌てた。小さい声で林よ伏せよ林早く伏せんかと言うが返事をしない。その内パンと銃声があった。林はそのまま俯せに倒れた。走り寄って引き起こして見たがもの言わぬ。胸から背にかけて撃ち抜かれていた。何故こんな所で立ったのか判らん。
8名脱出したものが私一人に為ってしまった。生きる望みは無い皆死んだ。私も死のうと覚悟を決めた。東の空は明るく為った。夜明けだ。夜が明けたら駄目だ敵の真ん中だ直ぐ遣られる。
私も撃たれた
私一人残った。今度は走った。海の方に向かって走った。小高い所がある。明るく為ったので好く見える。飛び降りるべく覗いたその時だ、下から上に向けて敵が撃った。私は胸に焼け火箸を突き刺した様に感じたと同時に息が出来ぬ。
真っ逆さまに落ちた。アア私も遂に遣られた。全員死んだか情け無いと思った。血は飛び身体が動かぬ。気が着いたら敵の目の前だ。沢山米兵が居る、その前に私は落ちているが生きて居た。突然立ち上がり、横にある横穴陣地に走り込んだ。物凄く血が流れる。シャツもズボンも血で染まった。穴の壁に背中を押し付け少しでも血を止めようとしたが何の効き目も無かった。
敵さんは穴の口に火炎放射器を持って来て奥に向けて火で焼き出した。私の所まで火は届か無かった。もう少し前に居ったら焼き殺される処であった。私は左腕から背中に掛けて貫通銃創を受けていた。息をすると体が膨れるのでそれが痛いのだ。死ぬ苦しみであるが息をせん訳にはいかん。
全滅
最後に残った私も遂に遣られた。斬込に行った8人全員が遣られた訳だ。皆死んだのだから死ぬのは当たり前である。私もやがて死ぬ。医者も薬も無い。食うものも水も無い、死は目前だ。恨むことは無いと自分に言い聞かせた。
目は眩む血は物凄く出る。身体中冷たく為った。駄目かと諦めた。穴の奥から日本兵が出て来た。誰だヤラレタかと言う。この通りヤラレタと傷を見せる。奥へ来いと言う、着いて行く。奥に敗残の日本兵が沢山居った。傷ついたのや病人ばかり居った。
私の傷をシャツとゲートルで手当して呉れた。カンメンボーを少し呉れた。水が無ければ喰えぬ。人間重傷を負い血が出ると水が欲しくて堪らん様に為る。その時水を遣ると必ず死ぬ。それでもあれば飲む。死んでも飲む、飲まねば居れんのだ。
私も水を呉れと頼んだが、すずめの涙程しか呉れぬ。無いものは飲めんのだ。土の上に転がって痛さを堪える。傷は化膿して腫れて来た。左手は全然動か無くなった。疼く、息が出来ぬほど痛い。
米軍は穴の出入口を探して爆破して行く。今日も何ヶ所も爆破した。日本兵を穴の中に埋め込み出られ無くする作戦だ。出入口は至る所に開けてあり少し位埋めても空気の通わぬ心配は無い。空気はあるが水と食料が無いので何れ全員死ぬに決まっているのだ。重傷者は早や随分死んだ。水の代わりに自分の小便を飲む者もある。
歩兵の元気な奴は脱出する相談をしている。敵の小舟を盗み北硫黄島に逃げると言う。潮の流れを利用すれば行けると話している。我等重傷者にも話はあったが、とても一緒に行ける状態では無いので断った。10人位が夜を利用して外に出た。恐らく全員死んだであろうと思う。
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我等は食料が無いから明日頃は死ぬより致し方が無い。私は他の者に話してみた。君等脱出するかここで死ぬかどうすると言うと、私は動け無いのでここで死にますと言う返事ばかりだ。実際に動けん奴ばかりだ。
私は穴の中で死ぬより外に出て味方の居る所に行って死にたい。北部落に帰り状況を報告して水を貰って飲んで死にたかった。このまま喰わず死ぬより出ようと考えた。穴の口まで這って来たが出口が高いので片手で出ようとしたが身体を支える事が出来ず傷は痛い、身体は持ち上げることが出来ん。
又諦め元の所に転んで寝る。一晩中痛さに悩まされる。夜は明けた。喰うものは無い水も無い。今晩は出なければ明日は穴の中で死ぬ、出ようと又夜を待って這い出て行く。
その晩何回も何回も片手で身体を浮かす練習をする。落ちては上り又落ちる。長い時間掛かって遂に出ることに成功した。夜で照明弾が上ったり落ちたりしている。目的は北部落の味方の陣地だ。明るい時は座る、暗く為れば這って行く。右手で這い左手は動かぬ。少しずつ進む。北部落に帰って飯を貰い水を飲んだら死ぬと決めている。
立って歩いてみる。歩ける。海岸の30メートル位の断崖に出た。闇に透かしてみると人間が近づく。只一人だ。敵だったらそのまま死に繋がる。私は重傷者だ手が動かん銃も無い。合言葉は山と川である。私は山と言ってみた。川と答えがあった。友軍だ。日本兵であった。
互いに寄り合った。私は彼に事情を話して連れて行って呉れと頼んだが彼は元気なのだ。足手纏いと思ったかズンズン行った。私は残された着いて歩けんのだ。その男浜に下りた。そこで手榴弾の音がした。銃声も起こった。彼が敵に出会ったのであろう。死んだに違いない。私もそう為るやも知れんが行くより方法が無い。
目標物は砲弾で飛んでしまい方角が判らん。夜だから特に判らん。海に出て北に歩くより仕方無い。30メートルも高い崖が砲弾で撃ち砕かれて45度位の坂に為りザラザラの土と石に為っている。
私はズルズル滑り降りて行く。途中で岩がそのまま残っていた。夜だから判らず真っ逆さまに落ちた。途中背中の傷が化膿しているのを岩に打ち着けながらドンドンと落ちた。10メートルも落ちた。砂浜に落ちた。背中の傷が破れて膿がドッと流れ出しヌルヌルと為り流れ出る。背中だからどうも出来ん。流れっパナシである。ズボンまで血の膿で染まってしまった。アアこれで死ぬのか、残念であるが誰も居らんので手当して貰う事も出来ない。
それでも立ち上がり、砂浜を歩いて水際に行き着いた。海は戦争を知らずにザーザーと小波が立っていた。水を飲みたくて喉が焼け付きそうだ。海水は潮だから飲めぬ。付近にドラム缶が流れ着いていた。私は米軍の飲料水かも知れんと思ったので、石でカンカン叩いてみたがナカナカ開か無い。その音が敵さんに聞こえぬ筈はない。直ちに発見された。
2名が私を追って来る。射殺される。私は銃無し手榴弾一発のみ自殺用に持っているが使用出来ぬ。元の方向に逃げる。砂だから足跡は残る。敵さん足跡を追って来る。背中の傷が破れてヌルヌルに為っている。左手は完全に動かぬ。岩影に隠れ様と近寄ると、そこにも敵は銃を構えて私の近づくのを待っている。直ぐに私は姿を隠して元の方に走る。
先程落ちた所に来た。45度の崩れた坂を登る。這いながら右手を使用して掻き上がる。左手は全く動か無い。途中で私は力尽きて気を失ってしまった。
精も根も尽き果てた。4日も喰わずに穴の中で寝ており、今晩穴を抜け出してこの苦労だ。傷は化膿する、今破れて膿の出放し、敵に追われて居れば気を失うのも当たり前である。ここは日本軍の死体が山を為しており、その中に私が気を失ったのだから敵さんも死体と私との区別が着かず遂に私を見失い追跡を辞めたものと思われる。
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私が気が着いたのは朝に為っていた。45度の上り坂の中央部まで這い上がり四つん這いに為っていた。私は死んで居て今生き返ったのか全く意識が無い。坂を登り切り砲弾の穴に入った。
硫黄が吹き上げている。尻が暖かい。昨夜の出来事で私の身体は冷え切っていた。背中の傷から血膿が出放しであり、喰わず飲まず4日だから自分で自分のことが好く分から無い。傷ついてから何日ぞ、4日に為る筈だ。今日ここで死ぬであろう。3月18日だと思う。私の生まれは明治44年3月18日だ。死ぬのも今日、昭和20年の3月18日だ。
このまま自然死か、穴から出て射殺されるか自殺用の手榴弾で自殺するより方法は無い。命の無い事だけはハッキリしている。傷は重い喰うもの全く無し水も無し死より方法無い。
手榴弾を出してみた。振り上げた。しかし軍の命令は最後の一兵と為るも尚ゲリラと為り敵を悩ませ、である。今私は最後の一兵と為ったが死んでは為らん。ゲリラと為るのだと思い返して手榴弾を雑のうに仕舞った。
米軍の飛行機が一機私の頭上を地面スレスレに飛んだ。日本は玉砕したのだナアと思った。私の行く処は既に無く為って居るのだ。北部落にも味方は居らぬ。行くだけ無駄だと思う。女房や子供、母や兄弟に会いたいと思うが最早生きる事さえ出来ないのだ。
私はこの身体は生きる力は無い、死ぬなら敵の陣中に行って死んだ方が軍人らしくて好い。そうしよう。戦友は皆死んだんだ。死ぬのが当たり前なのだ、死のうと考え砲弾の穴から出た。敵に取り囲まれた。敵は10人位だが銃を全部私に向けている。動けば蜂の巣の様に為って死ぬのだ。止むを得ん、俺は死ぬのだ。何でこの命が惜しかろう。撃てと胸を叩いて見せた。
アメリカ軍の硫黄島占領
米軍は首を横に振り座れと手で指示する。私は座る。鼻の高い、背の高い青目の兵隊は銃を私に向けたままだ。私はどうも出来ぬ。殺すなら殺せ。覚悟は出来ているのだ。彼等の言うままに為る。
水を飲ませて呉れ、死ぬ前に水を飲ませて呉れと手で指示する。左手は動かんので右手で示す。兵隊は自分の水筒を呉れた。飲んだ飲んだ大きな水筒の水を飲んでしまった。サア満足だ殺して呉れと座る。彼等は私に来いと招く。着いて行く。私を中にして歩いて行く。私もヤケクソだ殺しやがれと着いて行く、何処までも着いて行く、日本軍の死体の中を歩いて行く。
つづく
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2018年07月03日
硫黄島 祖父の戦争体験記 その4
祖父の戦争体験記 その4
祖父の戦争体験記 その4
上陸開始
昭和20年2月27日、砲火を浴びてから10日目に敵は日本軍全滅と見て南海岸に上陸を開始した。小舟で近づく米軍を水際まで寄せて置いて、スリバチ山の砲兵は一斉に砲火を浴びせ敵を全滅させた。この戦には勝った。栗林中将は敵が上陸するまで攻撃しては為らぬと命令していたのに、現地の軍は命令を無視して攻撃して全滅せしめたのである。
後が悪い結果と為ったのである。我軍の健在を知った敵は迂闊に上陸しない。南海岸一帯は前にも増して飛行機が群がり爆弾の雨を降らし始めた。砲弾も集中した。ムチャクチャの攻撃である。恐ろしいことだ。しらみつぶしに撃ちまくる。地形が変わってしまった。
現地で指揮する栗林中将
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遂に上陸
今度はムチャクチャ撃って爆弾の雨を降らせ、島を打ち砕いてから上陸を開始した。敵の一部は上陸してしまった。空と海とを捕られている我軍は都合が悪い。兵隊や武器弾薬の補給は出来無い。敵の方は毎日増加するばかり。日本軍は昼間は出られ無い。出ればたちまち空から遣られる。
夜間を利用して斬込作戦に出た。各隊夫々5、6名位で斬込部隊を作り、暗夜に敵の陣地に斬込を掛けるのである。幕舎でも兵器でも何でも好い、敵のものは全部爆破するのだ。
斬込と云うのは刀で斬込むのでは無い。爆弾を持って敵陣に飛び込むのだ。初めのうちは非常に成功したが、敵に知れたので余り成功しなく為った。誰も帰って来なく為った。全部やられるのだ。米軍もマイクを戦場に仕掛けて、我軍が斬込むのを手に捕る如く知り、時期を見て機関銃の一斉射撃を浴びせ全滅させるのである。
マイクの事は我軍も気付か無かった。それで大分遣られたのである。我軍も手を替え品を替え攻撃したが、皆遣られた。敵は毎日増加するばかり、我軍は毎日死んで行くが、それでも斬込より他に勝てる方法が無い。毎夜各隊各様に斬込をかけるのだ。私は神風が吹いて今に日本軍が勝つだろうとも思っていた。
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工兵戦闘
我等工兵は歩兵のように戦闘はせんと思ったら大間違いで、硫黄島のように包囲されては、工兵でも海軍でも砲兵でも軍人である限り戦わなければなら無いのだ。
どの部隊も毎日斬込に行く。工兵は爆薬の取扱いには慣れている専門家だ。20キロの爆弾を自分で作って背中に負い、我が身諸共敵陣に飛込むのを斬込と名付けて実行した。帰る者は無くなった。毎日死んで行く。
私達四国の部隊は半分父島に残り半分が硫黄島に居るので、非常に少ない人数だ。隊長の来代大尉は、敵機が来ると穴の中で震えていたが敵機が去ると穴から出て大きなことばかり言う臆病者だったが、敵の上陸する前、病気と言って師団の命令を貰い、飛行機で内地に引き挙げてしまった。
隊長が内地に帰った後には父島から中尉の人が来ることに為っていた。早く来れば好いと私は思って待っている。ある日工兵が来たとの情報があった。しかし来たのは兵のみである。中尉は父島を出る時船を爆撃されて死んだという。我等の部隊の隣に居った鹿児島の歩兵第145連隊(池田部隊)付の工兵少尉が一人我隊に来た。これで少尉2名、准尉1名、後は下士官と兵のみである。(石坂少尉、宮崎圓少尉)
アメリカ軍の火炎放射器攻撃
第1回斬込
工兵も軍人であるから戦わなければ為らぬ。夜間を利用して敵陣に斬込に行かねば為らぬことに為った。最初に斬込む者が決まった。我等工兵部隊に属していた輜重兵伍長以下特務兵6名である。皆さん直ちに2階級進んだ。班長の佐賀謙好伍長は曹長に為った。特務兵は上等兵や兵長に為った。嬉しそうに新しい階級章を付けて斬込準備をしていた。
その夜20キロ爆弾を背負って敵陣に斬込んで行った。只の1名も帰って来なかった。戦争とは本当に惨いものである。人の命を紙くずの如く殺すのである。
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第2回斬込
第1回は2階級進級して死んで行った。第2回は進級は無い。私も行かなければ為らなく為った。天皇の為国の為、東洋平和の為死ぬのだが、私は死にたく無かった。しかし喜んで死ぬような顔をしていただけだ。
班長は矢野千郎軍曹、私を入れて5名であったが兵の名前を忘れた。20キロ爆弾を作った。夜に為った。各人が背負った。明朝天山に来る敵の戦車に飛込み戦車諸共我が身も死ぬのである。命令を受けて出発した。走ったり伏せたり止まったりで、要約にして天山に着いた。
横穴に入る。朝まで戦車を待つことにする。泣いても笑っても明朝は死なねば為らぬ。色々と頭に浮かぶ。身内の事、妻や子供の事思い出される。やがて穴の中で朝が来た。今か今かと戦車の来るのを待つ。戦車が来たら命は無いのだが待たねば為らぬ。幾ら待っても戦車が来ん。戦車が来ないのにどうも出来ぬ。一同顔見合わせて待っている。
不思議なことに、私は過去3回の戦争でも絶対に死ぬ筈の時に生き残った。今回も戦車が来んので未だ生きている。母や妻子が神に祈って呉れるお陰かとも思う。幾ら待てども戦車は来ぬ。夕方まで待ったが戦車が来無いので引きあげる事に為った。
皆喜んだ。北部落に引きあげて帰った。腹ぺこだ。昨夜から何にも喰っていない。穴の中では、好くも生きて帰ったナアと皆不思議がり、喜んで呉れた。
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第3回目の斬込
元山飛行場は捕られ、飛行機は只の一機も無い。天山に戦車は必ず来る。どうしても天山で敵を食い止めんことには司令部も危ないのだ。我等は斬込に行って戦車が来ないので飛込まず帰って来たのに、又行けという。一度死に損なった者は生きて帰ってはいかんのかも知れない。今度こそ、行って死なねばならぬ。
分隊長 矢野千郎 軍 曹 高知市○○乙○○
隊 員 高橋利春 伍 長 高知県○○郡○○村○○
隊 員 西森道晴 上等兵 高知県○○郡○○○村○○
隊 員 横山義範 上等兵 高知県○○郡○村○○○
その他6名であったが名前は忘れた。今思い出せ無い。夜になり20キロ爆弾を背負い、銃を持ち残りの兵に見送られ出発した。二度と帰らぬ積りであった。海上から撃って来る。機関砲も物凄い。黄燐弾が落下する。危なかった。
天山の手前に、広島の藤原部隊が居る。歩兵である。この部隊の居るところに来た。各々20キロ火薬を背負っている。天山に斬込に行くと言うと歩兵は非常に喜んで、工兵来て呉れたか、確り頼むぞ、将校まで出てきてありがとう頼むぞと礼を言う。しかし我等は明朝死なねば為らぬのであり、ありがたく無かった。歩兵に別れを言って我等は天山に向かって歩く。海から盛んに弾丸が飛んで来る。要約天山に着いた。
天山着
今夜は我等工兵10名のみ斬込み死ぬものと思って出て来たが、同じ工兵の他の分隊が出て来た。我等の後を追って来たのだ。私は只事では無いぞと直感した。我等が出発した時残っていた分隊も出て来た。全員死ぬ積りだと思った。何れにしても我等工兵は生きては帰れないのだ。戦車が来れば飛込むのだ。我が身と共に散るのだ。死にたく無いが止むを得ん。戦争に勝って内地に帰ることは無いのだ。死ぬのだと思った。
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陣地入る
我等の後から来た佐伯分隊は、天山の横穴陣地に入る。軍医も海軍も砲兵も、憲兵まで来ている。そこへ我等工兵が割込んだので一杯に為る。連日の戦争で穴の中は死体で一杯、入口も出口も中の方も死体は山に為っている。我等は友軍の死体を踏んで出入りする。哀れなれど戦争だから止むを得んのだ。
現地入り
我等は穴の中で少し休んだ。明朝斬込む場所を話し合う。そして決定した。それでは現地に行こうと穴を出る。我軍の死体を沢山踏んで出て行く。グニャグニャする、気持悪い。坂を登って行く。月が出ていた。明朝死ぬなんて思えない静かな夜だった。各人自分の入る穴を掘るのだ。タコツボといって縦に掘るのだ。夢中で掘る。このタコツボから戦車目掛けて飛込むのである。
佐伯軍曹の死
我等が一生懸命に穴を掘っていると、佐伯軍曹が見回って来た。私は軍曹の顔を見て驚いた。月の光で見る顔は青白く、目はつり上がり口は歪み、この世の人とは思えぬ。私は思った。軍曹は死相が出ている。この人は死ぬと直感した。果せるかな、その夜遅く戦死した。一番先に死んだ。人間死ぬ前は人相が変わる事を知った。(佐伯重見軍曹だ)
内海兵長死す
佐伯軍曹の分隊に居る内海光男兵長も、この夜戦死した。銃弾が盛んに飛んで来る、それに当たったのだ。
西森上等兵戦死
我等の分隊は夜通し穴を掘り朝になった。穴は出来たが、フタを作らねば空から飛行機で見られて全滅だ。各自夫々自分の掘った穴にフタをする為、木の枝や草や土のカタマリなど集めて来る。その時、高知県梼原村出身の西森道晴上等兵が、アイタヤラレタと叫んで右手で左手首を押えている。
私が直ぐ隣に居ったので走り寄って見ると、小銃弾で撃ち抜かれている。血が流れている。ホータイを出して縛ってやった。私は西森とは特に親しかったので、矢野軍曹に相談して兵を1名つけて西森を下の横穴陣地に行かせた。そこに軍医も居るから診て貰え、その位の傷では死にはせんと言い聞かせて下がらせた。
西森はスマンと言って下がって行った。間も無く我等は戦車に飛込むのであるが、西森の方が好かったかも知れんのうと話したりした。
フタは済んだ。各自掘った穴に入りフタをする。持っていた握り飯を喰う。直ぐ死ぬ身でも腹は減る。戦車を待つがまだ来ん。そのうち明るくなり日が出た。私は穴の中からフタを少し突き上げて外を覗いて見た。直ぐ下の海には敵の軍艦が沢山居り、陸に向けてドカンドカンと撃ち捲っている。空には小さな飛行機が沢山来てグルグル回って日本軍の行動を見ている。
兵隊の一人でも見ようものなら、地面スレスレまで下りて来て機関銃で掃射する。爆弾を落すから堪らん。私は静かにフタを下ろして又穴の中で座る。戦車の来るのを待つ。そのうち戦車は来ず夜に為った。ヤレヤレと穴から出て背延びする。
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それから穴にはいり座る。外が騒がしいので首を出してみると、味方の兵が交代に来たと言うのだ。我等は申し送って交代する。私は又戦車に飛込まずに助かった。私は死に直面すると必ず何かが起こって必ず助かる。今までも不思議に助かっている。
我等交代して元の横穴に下がって来た。大勢の死体を踏んで陣地内に入る。次の命令を待つ事に為った。私は、朝手を撃たれた西森上等兵を探した。彼は軍医に診て貰ったが手当を受けて死んで居た。腕や足などの傷で死ぬ事は無いが何故か死んでいた。私は看護兵に頼みて後、自分の分隊に帰り報告した。
陸地の3分の1は占領せられ、残る北部落に向けて敵はジリジリ攻めて来るのだ。とても勝てる見込みは無いが、生きている限りは戦わなければ為らぬ。我々の居るこの陣地は山の中を掘り抜いたもので、ナカナカ広い。何れの部隊が使用しても好いのだ。
各部隊は、ここから夫々斬込んで行くのだ。我等も叉、直ぐ歩兵の散兵壕掘りに出された。メクラ弾丸が飛んで来るので危ないこと甚だしい。今日は陸軍記念日なのに戦争に休みは無い。陣地作りばかりさせられる。戦争は辛いものなりと思う。
つづく
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硫黄島 祖父の戦争体験記 その3
祖父の戦争体験記 その3
敵来る
昭和20年2月17日、私は10人位で高射砲の陣地作りの作業指導に行った。父島で世話になった砲兵隊で顔見知りばかりなり。
昼食をご馳走になって雑談に花を咲かせていた。その時、この部隊に電話が入る。敵機動部隊北上中その数約800なり、である。サア大変だ、来るものが来た。戦争だ。敵は内地に行くのでない硫黄島に来たのだ。
軍人である我等、恐ろしいだの命が惜しいなど口には出せない。皆喜んでいるような顔はしているが内心は穏やかでない。次々と電話が入る。南硫黄島付近を北上中と云う。もう直ぐ硫黄島に来るのだ。この部隊の兵も我等工兵も少しも騒がぬ。作業を続行する。夕方終わり、我が陣地に帰る。帰っても誰も騒いでいない。皆平気な顔をしている。その夜は穴の中で寝る。朝になった。
包囲さる
昭和20年2月18日、私は目が覚めた。穴の外に出て海上を見て驚いた。平常驚かない私であるが、この時ばかりは驚いた。海面一杯敵の軍艦である。島は完全に包囲されている。恐れていたものが遂に来た。私は生まれてこれ程多い軍艦を見た事がない、聞いた事も無い。
大部分の艦は錨を下ろしている。大本営発表では、米国には最早軍艦は無い、爆弾も無くセメントの爆弾を落していると言うが、軍艦が無い処では無い。大艦隊が目の前に居るではないか。戦艦は白い40センチ砲を6門揃えて島に向けている。大艦隊は全部砲身を島に向けている。どの艦も一発も撃たぬ。不思議である。私は全員に知らせた。
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応戦準備
我等工兵もこの時とばかり武器も弾薬も飲料水も、何でも地上にあるものは全部地下穴に引きずり込む。敵は撃って来ない。飛行機も全く飛ばぬのだ。嵐の前の静けさである。無気味である。我方も一発も撃たぬ。実に静かである。お陰で我等は地上にあったもの全部地下に引きずり込んでしまった。
硫黄島最高司令官栗林忠道中将は全部隊に命令を下した。
「諸士待望の敵来る、諸士は太平洋の防波堤と為り最後の一兵たりとも尚ゲリラと為りて敵を悩ますべし」
である。最後の一兵たりとも戦えとは聞いたが、最後の一兵と為っても死なずゲリラと為って戦えと言うのである栗林中将は玉砕を覚悟でこの様な命令を出したものと思われる。胸中は察しられる。2万の部下と共に死ぬ積りであったかも知れない。
攻撃始まる
24時間何事も無く過ぎた。敵さんこのまま帰ってくれ、頼む、と思ったがそうはいかん。島に向けていた40センチ砲以下一斉に火を吹いた。島には大地震が起こった。火柱は天に届くと思われる様だ。黒煙は島を覆う、鉄片はウナリを生じて四散する。
直径1メートルもあるラワンの大木も根の方が上になってフッ飛ぶ。轟音は雷が100も200も一度に落ちたような物凄さである。地下30メートルの穴の中でも身体が飛上る。正にこの世の地獄と為った。
続いて母艦からグラマン機が飛出して来た。その数の多いこと空一面であり、昼間だのに暗く為った。雲も見え無いほど多く飛んで来て機銃掃射をする。小型の爆弾を無数に落す。兵隊を見れば地面スレスレまで下って追い掛け必ず殺す。草も木も空中高く舞い上がる。
近くの母艦から来るので、入れ替わり立ちかわりだから空には何時も同じ位が舞っている。空一杯である。日本の機銃の様にトントントンドドドウなどの音で無い。何十機も一度に掃射する音は、雨の様にザーザーである。スコールが降るような音である。何物も残さず地上のものをなぎ倒すのである。
次はサイパンから大型機B24が何十機も揃ってやって来る。ブルンブルンと唸りながら来る。銀色である。1万メートル以上の空を飛んで来るので、日本の高射砲など届かない。下の方でバンバンと広がるだけだ。敵さん日本の高射砲の高さを計算に入れて弾丸の届かぬ高さで来るので平気で飛んで来る。
戦闘機も日本は全部遣られているので手も足も出ない。島の上に来た奴は1トンという恐ろしい爆弾を落す。次から次と落すその音は恐ろしい。気の弱い奴は気ちがいになる。ヒューヒューと音を立てて落ちる。続いて大地震が起こる。炸裂する。岩石も土砂と一緒に中天に舞い上がる。そして落下する。
直径10メートル、深さ5メートル位の穴が地面に出来る。人間が居れるような状況に無い。まるで地獄である。連絡等で外に出た日本軍は必ず殺される。夜間を利用して出るより方法は無い。
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夜間の攻防
夜間は敵さん照明弾を数多く打ち上げ、落下傘に吊るした。照明弾は空中に長いことあって地上を照らすのである。次から次と夜通しで島全体を昼の様に明るくする。歩いていると空と海から良く見えるので直ぐに弾丸が飛んで来る。手の出しようも無い。これからどう為るか判らんが、命の無くなるのは判っている。
運が悪いのだ。内地勤務であれば、こんなことには為らないのにナアと思う。どう思ってもしょうがない。今は戦わなければ為らぬ。
我が軍は毎日死んで往く。敵は多い。上陸した奴をやっつけるより無い。我軍は彼等の上陸を待って一発も撃たずに地中に居るのだ。命令があるまで我軍は撃て無いのだ。一発でも撃てば忽ちむらがる飛行機にやられる、全滅する。敵に我軍陣地を知られたら大変なんだ。
地中30メートルに我軍全部無事なのである。今は只彼等の上陸を待っているのである。砲弾は物凄く為るばかりである。硫黄島は敵の砲弾によって打ち砕かれて、方角も判らなく為った。目標物が全部遣られたら方角は判らなく為る。目的地に行け無くなる。
10日間引続いて撃ちまくるのであるから、島に砲弾の当らぬ所は無い。草も木も一本も無くなった。支那の戦争もこれ程酷くは無かった。米軍も10日間撃ちまくって日本軍の抵抗が無いので、全滅したと思ったかも知れん。上陸気配が見え出した。地中にある日本軍は生きて居たのだ。
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硫黄島 祖父の戦争体験記 その2
祖父の戦争体験記 その2
南進命令
我等の居る父島にも空襲は来る。硫黄島が危ない、飛行場のある硫黄島が危ないと誰もが感じた。太平洋の戦争は硫黄島に主力をおかれた。内地の部隊も続々と行く。父島の我々をそのまま置く筈がない。南進命令が来た。私は父島の方が好い、硫黄島に行く事は嫌だったがそんな事は許されぬ。喜び勇んで行く風を装っていた。
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父島を出る
昭和19年6月30日、その夜我等は軍装をして暗闇の中を出て行く。扇浦港から上陸用船に乗り込み、住みなれた父島を後に二度と帰れぬ硫黄島に向かった。昼間は敵に見つかるので夜間を利用して出発した訳なり。我等を載せた船は出た。二見港を後に南に向かって走る。
私は郷里を出る時妻子に生きて帰ると言って出たが、どうも生きられぬ様な気がするのである。空が明るく為った。船は全速で走っている。何時とは無しに日本の飛行機が一台と駆逐艦が出て来て船を守って呉れる。ジグザグ行進が始まった。敵の潜水艦を交わす為為り。どうか無事で硫黄島に着くよう祈る。ボカチンをやられたら泳げない私は死ぬより外に道はないからである。
藤邨清一等兵と二人で甲板に出て話しながら行く。親兄弟妻子のことを考えながらじっと沖を見ている。これは誰も同じことを考えているのではなかろうか。南の方に島が見えて来た。あれが硫黄島だ。海面に平ぺったい島が絵の様に浮かんでいる。
昭和19年7月1日、船は硫黄島の南海岸に着いた。兵は上陸する。荷物の陸揚げを手伝いする。今空襲が来たら全滅だと思いながら仕事をしたが幸いな事に来なかった。父島で一緒に居った武蔵野部隊の世話に為り、横穴に入り食事もご馳走に為る。顔見知りばかりだ。我等も戦場に来たのだ。
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7月2日
その夜穴の中で夜を明かした。我らが昨日上陸した事は早くもサイパンの敵に知れた。空襲が来た。地方人も沢山居るのに空襲は物凄い。地方人も兵隊の横穴に逃げ込む。病人などが困った。私たちの近くにお産をした女の人が居った。自分は動けず赤ん坊と共に自分の家に居た。
哀れなり敵の機銃掃射が始まった。直径5寸ぐらいの木が横に千切れて飛ぶ恐ろしい奴だ。銃でなくて砲という方が本当だ。爆弾は所嫌わず落す、火災が起こる、物質は焼ける、兵は死ぬ。我等陸軍は僅かしか来ていないが応戦する。空中戦も始まる。地獄のようになった。
送還
数十分で敵機は去る。住民は危ないので内地に強制的に引き揚げさせられる。着の身着のままで便がある毎に内地に送られる。最後に駐在巡査も引き揚げた。島は男ばかりで女気は無い。牛や豚等は軍の食料となった。
部隊来る
毎日毎日内地から新しい部隊が来る様に為った。野砲も来た。高射砲、ロケット砲、通信隊、憲兵まで来た。戦時態勢と為って行く。米軍の空襲も毎日定期的に来る。B24という大型機が1万メートルの上空をやって来る。ブルンブルン音を出して来る。沢山銀色に光って遣って来る。
我が高射砲部隊が一斉に火を吐くが飛行機まで弾丸は届かず飛行機の下でバンバン炸裂する。敵は平気でブンブン飛んで来る。どうする事も出来ぬ。
それから数日経って大空襲が来た。次から次へと波状攻撃だ。ドスンドスン大型のバクダンを落す。上空には何時でも敵機が居る状態だ。バリバリドンドンザーザー雷の様な爆弾の雨の音、火柱上る、大木も根が上になって空から落ちて来る、岩石も降って来る、地鳴り震動する、恐ろしき戦場と為る。
敵さん落すだけ落し撃つだけ撃って帰って行った。島には火災が起こり弾丸の上に爆弾が落ちたのでパチパチ小銃弾のように独りで飛んで来る、危ない危ない近寄れ無い。やれやれ今日はこれだけか命が助かったと私はホッとした。それも束の間であった。忽ち全員顔色変えた。
遠くの海面に敵の大機動部隊が現れた。それ今度は上陸ぞ、これは大変だと思う。陣地は出来ていない。今上陸せられたら勝つ見込みは無いが戦争だから止むを得ん。各部隊戦闘準備に入る。
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諸君の命は貰った
我等の小隊長、宮崎圓(マドカ)少尉は小隊を集めて訓辞する。敵は上陸するものと思われる。諸君の命はこの小隊長が今日只今貰った。皇国の為戦って死んで貰いたい。勿論小隊長も諸君と運命を共にすると言った。私は小隊長に命を貰われた。
生きて帰ることは出来なく為った。軍人は戦場に死すは本分であるが今死にたく無い、生きて妻子に会いたいと思ったが顔には出さず喜んで死ぬような顔をしていた。皆同じ考えでは無かったかと思う。求めて死にたい奴は居らんと思う。
墓穴を掘る
小隊長に命を捧げた我等は自分の入るタコツボを掘る事に為った。各自この自分の掘った穴に自分が入って敵の上陸部隊と戦い、その陣地で死ぬのだという墓穴である。胸まで入り、鉄砲で敵を狙い射ち一歩も退いては為らぬのだと言う。
皆掘る掘る、首だけ出る位掘った。サア来い我等は日本軍人だサア来いと待ち構えた。私も生きられぬとわかれば見事に死んで見せるぞ。妻子には生きて帰ると言って家を出たが最早生きる望みは無くなった。止むを得ん。許せ、父は死ぬがお前らは地下から守ってやるぞと心で叫んだ。今日までの命であった事を深く心でわびた。
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攻撃始まる
7隻の敵艦隊は白い姿を見せて近付いて来る。砲門を開いた。物凄い音と共に砲弾が落下する。それが炸裂する、この音が又物凄い。鉄片が飛ぶ音ウナリて飛ぶ。何十もある砲門から一斉に砲弾が来る。草も木も皆飛んでしまう。空襲よりまだ恐ろしい。
火薬庫も飛行場も火の海と為る。上陸するまで我等工兵は手も足も出ん。私はどうせ今日死ぬのだと思うから頭を出して敵の軍艦を見ていた。益々激しく砲弾が落ちて来る。火薬庫の上にも砲弾は落ちたので小銃弾がパンパン四方八方に自ら飛び散る様に為った。数時間射ち捲った敵弾の為、島は穴ばかりに為った。大火災は至る所に起こった。
上陸か
敵は急にピタリと砲撃を辞めた。それ上陸ぞ、我等の番が来たぞと応戦準備に入る。全員生きる望みを絶たれた。何故俺は4度も召集を受け最後にこの南の島で死なねば為らぬのか、何の罰か、未だ1回も戦争に行かぬ者も居るではないか。神は人間を救うと聞くが私は神に見離された。内地に残した妻子はどうなるのか、そんなことを考えたりしながら敵の上陸して来るのを銃を構えて待った。
上陸せず
敵艦は上陸する気配無し。我等は今か今かと待っている。艦隊はクルリと廻り後向きに為って帰って行くのだ。どうした事かアッケに取られた。上陸と見せて引返した。見る見る内に水平線の彼方に消えて行ったのだ。的が外れた。やっぱり神は助けたもうたぞ。皆安心した。
小隊長に差し上げた命は又返して貰った。一先ず安心した。次は何時来るか判らない。支那の戦争と違い艦砲で遣られるから恐ろしい。
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移動
我等工兵部隊は他部隊の陣地を借用して住んでいるので自分の陣地を作らねば為らぬ。その為北部落に移動する事に為った。小さな島でも歩けば遠い。行軍で南海岸から北部落まで歩いた。今空襲せられたら命は無いと思いながら歩いたが幸い空襲は無かった。
陣地作り
我等は北部落に来たが陣地が無い。作るまで仮寝する。ヤシの木の下、タコの木の下、バナナの下など夜露を凌ぐところに自分の分隊の寝る所を作る。寒く無いから何処でも眠れるのだ。私らはタコの木の下であった。分隊長は小池軍曹であった。
毎日工兵独特の横穴陣地を掘る。ツルハシで起こし、スコップでモッコに入れる。それを担ぎ出す。裸でフンドシ一つで土方をするのだ。汗が身体中流れる。体に土が散り掛かる。ジュンと鳴って身体に付く。痛い。土は火山島だから熱い。
我等も米不自由水不自由着替え無し風呂無し、木の下にゴロ寝で暮らすのだ。飲料水は雨水を天幕に受けてそれを使う。早く自分等の入る穴を作らんと空襲が来たら大変だ。
地下30メートルないと空襲に遣られる。高い崖が至る所にあり、それを利用して横に穴を掘って行く。平地は陣地に為らん。
私は西海岸に最近来た歩兵部隊の穴掘り指導に行かされた。空襲が毎日来る。歩兵に穴を掘らせる。火薬で破壊して掘り進む。地中で他の方面から来る穴と連結せねば為らぬ。その様な事は工兵でないと判らん。右に掘れ左に掘れ上に掘れ等教えて掘り進む。歩兵は私の言う事を好く聞く。私も詳しく無いが歩兵は私の言う通りに掘って行く。毎日私はここに通った。
人間頭飛ぶ
ある日相変わらず西海岸の歩兵の部隊に指導に行った。40メートル位のガケを横に掘る。昼食後の休み時間皆穴の外に出て休む。岩影で雑談して居た。その時空襲警報が出た。それ今掘った穴へ走れと歩兵に言ったが、仕事中は命令だから私の言う事を聞く歩兵も休み時間は私の言う事を聞か無い。
逃げる必要は無いと言って動かぬ。ここには落さんと平気である。私は危険を直感したので歩兵と別れ走った。横穴に飛び込んだ。その時早くも飛行機は来た。爆弾は地響き立てて落下した。黒煙と共に火柱が立ち、砂煙で何も見え無くなった。飛行機は海上に去った。
私は今別れた歩兵が気になり走って行って見た。誰も居らぬ。地形が変わっている。土煙が残っている。私はオーイオーイ叫んでみたが返事が無い。
それもその筈なり。全員死んでいる。探してみると、アチラにもコチラにも散り土に塗れて居る者、半分埋まっている者足や手の無い者沢山だ。歩兵も沢山来た。
死体を数えてみると一人足らん。探すうち、遥か遠く飛ばされて下半身を土に埋められ座っている。好く見ると頭が無い。頭の頂上の皮が破れて頭がい骨が全く無い。皮には目も鼻も耳もついている。こんな死に方は見た事が無い。
支那の戦争以来死んだ人を随分見たが、これは珍しい死に方である。私の言う事を聞いてあの時逃げて呉れたらこんな死に方をせんで済んでいたものを可愛そうにと思った。
人間は誰でも他の者の言う事は聞きたがらんものだ。それが災いを招いたのだ。歩兵の看護兵が死体の頭の皮の中へ脱脂綿を詰め込んで頭のカッコウを作り、その上からホータイをした。元の通り頭は出来たが中身は脱脂綿である。この様に人間の頭の皮が残り中身の無いのを見た事が無い。人間の死に方には色々あるものだと思う。看護兵の措置は戦友に対するセメテモノ思い遣りだと感じた。
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予感
予感と云うものはある。暑い夏の夜だった。私は疲れた身体をタコの木の下に横たえて眠った。ゴロ寝た私は赤痢で腹痛がして便所に度々行かねば為らぬ。今夜はどうも空襲がある様な気がする。隣に眠っている仲良しの藤邨一等兵に、オイ横穴の掘りかけに行って寝んか、どうも変な気がするから、と揺り起こした。
藤邨一等兵は、私は行かんでありますと言って起き無い。止む無く私は一人で行った。10メートル位離れた掘りかけの横穴に行って横に為ったその時だ。
爆弾
只一機陸地スレスレに日本の方向から飛行機が来てドカドカドカーンと沢山の小型弾を落して南方に去った。私は驚いた。分隊は無事かと立ち上がった。兵長殿、兵長殿、分隊全部遣られました、叫んで来た兵がある。見れば頭に血が流れて物凄い。早速傷の手当をして遣る。
私は小隊長宮崎少尉の所に飛んで行き報告する。小隊長と共に分隊の所に来て見ると小隊全部遣られている。暗くて好くは分からんが、4個分隊居らんようだ。1分隊、3分隊、4分隊、衛生分隊、全部吹き飛ばされている。2分隊は無事である。岩影にいた2名は助かっている。30名ばかり全滅である。
宮崎圓少尉は、今晩は暗くてどうも為らんのう、夜が明けたら良く探してみよう、と云う事に為った。生き残った兵の手当をして引き挙げた。どうも為らず手のつけ様が無いのだ。火をつけて探す事は出来ぬ。敵に陣地を知らせる事に為るので夜間火を点けて仕事をする事は出来ぬのだ。戦争とは誠に恐ろしい事である。
葬式
翌朝早く、宮崎少尉と生き残った4名の兵と2分隊の兵とで死体を探した。千切れた死体を集める。全部集めて硫黄の吹いているところを掘って埋める。藤邨一等兵が居らぬ。幾ら探しても死体が見付からぬ。一同アチコチ探した。居った居った、20メートル位西方、バナナの木の下の谷間に土砂と共に打ちつけられて下半身を埋め、座った様になって死んでいる。最早どうも出来ぬ。
その場を掘って葬って遣った。小隊長宮崎少尉は地方では神官であるから、高天原を祈って葬式をした。我等も手を合せた。小隊長は、藤邨も一緒にここに葬ったら好かったのうと涙を流した。
小隊の大部分は死んだが、私はこの日も無事に生きていた。予感で助かったのだ。分隊長の小池軍曹もこの日死んだ。私の任務も益々重く為った。
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不発弾
又ある日、矢野軍曹と私は敵状偵察に行った。夜間で暗い。目の前に大きな砲弾が落ちた。私と矢野軍曹は土砂に埋まった。耳も聞こえず目も見えぬ。気が付いたが死んでいない。顔見合わせて笑った。その砲弾は地中深く入ったが不発であった。もし爆発していたら私等二人は木っ端みじんであり二度と帰らぬ人となっていたのであるが、この時も私は助かった。
硫黄島状況
硫黄島は北方に北硫黄島、南方に南硫黄島があり、その中間にあるのが我等の居る硫黄島なのである。北と南は無人島である。我等の居ったのは、縦6キロ、横3キロ位の島である。これに2万余りの陸海軍が居ったのだ。
東京から約1050キロ位、火山島で中央部から煙を噴き上げている。一年間に10センチ位盛り上がっている。西にスリバチ山があり、150メートル位の山でパイプ山と我等は呼んだ。中に火口がありパイプのようになっているのでそう呼んでいた。
水 水は無い。川も無い沼も無い。雨水を利用して飲料水にするのだ。毎日スコールという雨が降る。5分間位だが大雨と為る。終わると晴天と為る。兵は天幕に受けて使う。野原も海面も湯気が立っている。海水は湯に為っている。その箇所は魚も寄り付か無い。地面は何処に座っても尻が熱い。湯気のところへ飯盒を埋めて置くと飯が出来る。
樹木 タコの木というのがある。一本の幹から枝が沢山出て、それが全部地中に入り、何れも根が出て成長する。数十本で幹を抱き上げているものもある。タコが頭上に幹を差し上げた様に為っている。
これの実を打ち割り、中の白いところを喰うと旨い。その他バナナ、パパイヤ、ヤシ、ネム、ラワン等があり、後に兵の食料と為った。ヤドリ木などは飯盒で炊いて喰うたが、ガシャガシャして喰え無かった。草も木も兵が喰ってしまった。
農作物 野菜は出来ない。畑にはパイナップル、麻薬のコカイン、野菜のゲランなどがあるが人間が喰え無い。常夏の国であるから一年中草木は成長している。
生物 蛇やトカゲ、ムカデ等全然いない。地面が熱いので冷血物は生きられんのであろう。鳥はメジロが沢山居る。カラス、スズメ等居らない。メジロは人間を見ても逃げることを知らないので、兵は好く採って焼いて喰った。
空襲 空襲は毎日来る。必ず来る。定期便と名をつけていた。B24という大型の飛行機で、銀色に光り輝きながら大編隊でブルンブルンと飛行して来る。
島の上空から一斉に爆弾を落す。物質は飛ぶ、兵は死ぬ。大損害である。日本の高射砲は飛行機までは届かない。下の方で炸裂するだけである。
敵さん平気で遣って来るのだ。日本の高射砲の届かぬ様に1万メートル以上の空を飛んで来るので撃ち落すことは出来ぬ。1トン爆弾を落されると、地面に10メートル直径位の大穴が出来、土砂が中空から降ってくる。物凄い音だ。火災は起こる物資は吹き飛ぶ大損害である。
艦砲
昭和19年秋と為る。敵の機動部隊が多く来る様に為った。毎日来る。島を打ち砕いて帰って行く。兵は死ぬ、物資は吹き飛ぶ、空襲以上の損害だ。地中の陣地に居っても身体が上下に揺れる。
兵は少なくなり、米も水も無くなり大変だ。兵は腹が減るので米を盗んで生のまま握って齧る。それが非常に旨い。見付かったら銃殺せられる。軍法会議も何も無い。刑は直ちに執行せられるのだ。恐ろしい事だ。
明治節
昭和19年11月3日、明治節だ。内地の部隊に居ると外出日だが、軍隊は戦争が本分であり、戦争中は外出など全く無い。米軍は日本の祭日を良く知っている。祭日は特に多く爆弾が来る。その後必ず艦砲射撃がある。陸地は大損害である。空襲より砲撃の方が未だ損害が多い。兵も物資も大損害を受けた。
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親子弾
私はある日、兵5名を連れて北部落を歩いていた。その時日本の方角から只一機飛行機が近付いて来る。私は敵と直感して兵と共に岩影に身を隠した。敵は兵がいないので親子弾を落して逃げた。
この爆弾は恐ろしい奴だ。1発が10発に為り、10発は数千発に砕けて飛び散る。100メートル四方の生物は必ず死ぬという奴だ。飛び散る鉄片のウナリは物凄い。私等はこんなのは初めてである。もう少し見付けるのが遅かったら…。我等は岩に隠れて助かった。全員死ぬところであった。
私が早く見付けて岩の影に隠したので全員助かった。毎日の重労働で兵は骨と皮と為り、それでも文句を言うものは無く、陣地作りを遣っている。弱い者は死ぬ。強い者は生き残る。死んだらその場に埋める。生きていれば重労働だ。
工藤軍曹死す
工藤という軍曹が居った。彼は兵を情け容赦無く扱き使う。上官の命は天皇の命だと言う。兵は好く思わないが止むを得ず従っている。彼は病気に為った。岩の陰に寝ていた。軍医も居らぬ南洋の島で、誰にも看取られず淋しく死んだ。その場に埋められた。
悪いことをすると罰があたるという。本当だ。天皇の命も通用せず死んだ。人間死ぬ時は如何なる悪人も真心に為ると言う。彼も、兵を虐めたことを後悔して死んだことであろう。哀れである。
新年
昭和19年も終わり、硫黄島にも春が来た。新年である。昭和20年の正月である。日本本土を離れて1000キロ余り、餅も無い、酒も無い、金も無い、買う店も無い正月だ。敵機は毎日来る。夜も来るよ鵜に為った。我等を眠らせ無い神経作戦である。新年おめでとうと誰も言わ無い。めでたく無いのである。
つづく
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硫黄島 祖父の戦争体験記 その1
・・・私の祖父は昭和61年に他界しました。それからもう20年近くが経とうとしていますが、祖父は「戦闘体験記」なる手記を残していました。祖父は明治45年(大正元年)生まれで、日中戦争当初から4度にわたって召集を受け、太平洋戦争中は最大の激戦地の一つ「硫黄島」へ従軍していました。戦後、その時の記憶や手帳に書いてあった記録を元に書き残したようです。
この手記は大きく分けて3部構成と為っており、第1部と第2部は中国戦線、第3部が硫黄島戦の記録となっています。このページでは硫黄島戦の記録を公開しています。
硫黄島では約2万1千の日本兵が戦い玉砕、生還したのは僅か千人程だったと言います。祖父の所属していた混成第一旅団工兵隊は、278名中13名しか生還しなかったとのことです。硫黄島での体験を綴った非常に貴重な手記を記録として残さねばと考えた時、ホームページ上での公開と云う方法を思いつきました。以下、戦闘体験記を公開しています。
(注)非常に長い為、分けて公開しています。全て原文のまま記載。
召集
兵庫県西宮署に勤務中の私に召集令状来る。今回は4回目である。昭和19年2月6日の事なり。私は3回戦争に行き、九死に一生を得て帰ったのに神は私に又行けと云われるのかと思ったが、そんな事は口にも出さぬ。戦に臨み敵に当るのが軍人の本分である名誉なのだ。直ちに署長に報告する。
本署で送別を受け我が家に帰る。隣近所に挨拶に廻り、女房子供には必ず生きて帰る心配するなと言い聞かせ西宮駅から汽車に乗り善通寺に向かった。土佐の母や兄弟にも会いたかったが時間が無い。直接入隊する。
昭和19年2月9日の事だった。
入隊
第4回目の軍隊なり。自分の家の様なもの。召集された者は顔見知りのものばかりである。オイ、又来たかや、おお頼むぞ。過ぎし3度の戦場に思いを馳せる。2月と云うのに夏物の被服が支給される。南方行きは直ぐ知れる。
独立工兵東部第2753部隊が編成された。隊長は來代良平大尉である。中尉2名、少尉2名、准尉1名主計軍曹1名、その他下士官兵278名の小部隊である。私は兵長だから下士官勤務である。
早速週番下士官を命ぜられた。忙しいのなんの食事の世話、演習の世話、面会人の世話、目が廻る忙しさだ。面会人は一人30分で外出は許可に為ら無い。面会所で大勢一緒に面会するのだから詰まらぬ話も出来ぬ。最後の別れと思うのか面会人の多いこと、妻子あるものばかりの兵だから面会人は特に多いのだ。
私の面会
私にも面会人が来た。西宮から妻が2人の子供を連れて面会に来た。汽車の切符も買え無い時代に好くも善通寺まで来たものだ。自分の配給米を食わずに私の為に貯めて握り飯を作って持って来てくれた。私は兵長の服を着ていた。勝幸を草の上に座らせて智恵子を抱いて遣る。3人が握り飯を食う。何にも話すこと無し、死に行く者と見送る者とだ。只顔見合すだけで総てが判る。30分の面会時間は過ぎた。
勝幸は私の若い時の洋服を仕立て直して着ている。子供服など売って無い時代だ。智恵子は何にも知らず母の背中で笑っている。勝幸も父が戦争に行くのを何と思ったであろう。死ぬかも知れぬ父を見て何と思ったか、小さい背中を私の方に向けて営門を出て行く。振り返り笑う妻。見送る私も涙が出る。
帝国軍人だ、陸軍兵長だ、泣く訳にはいかんのだ。顔で笑って心で泣いて私は妻子と別れた。妻は私の帰りを待たず病死するのであるが、この時は私には判らなかった。私は物事を気にしない方であるが、この時ばかりは気に為った。神様が私に妻との最後の別れをさせて下さったのだと今でも信じている。
私の妻との面会の後、今度は土佐から繁兄が老母を連れて面会に来た。嬉しかった。西宮から入隊したので土佐へは帰れず母に会いたいと思っていたが今こそ会う事が出来た。来て呉れなかったら会わずに戦争に行ってしまう処だった。好く来て呉れた。母と兄とにお礼を言った。30分の面会時間は過ぎ去った。
老いた母は兄と営門を出て行く。別れは辛いものだ。私も顔では笑っているが心では泣いていた。帝国軍人はどんな時でも泣かれんことに為っていたのであるが独り涙が出て来た。
今まで3度戦争に行ったが、家族が面会に来て呉れたことは無かった。それが今回は妻子も母も兄も来て呉れた。如何も可笑しい。私は今回の戦争で死ぬのではないか、神様が面会させて呉れたのではないかと思う様になった。妻と別れの様な気もした。それがピッタリ当るのであるがこの時は判らなかった。
出征
昭和19年2月22日、朝早く起こされた。善通寺は寒かった。サア出発だ。今度見送り人は無い。見送っては為らないことに為っていた時代だ。汽車で善通寺を発し高松に向かう。高松の桟橋で連絡船を待つ。長い時間待たされる。その間の寒いこと震え上がる、歯がガタガタ鳴る。
何分冬に夏服を着ているので寒い。要約船が来た。皆乗る。船は1時間で宇野に着く。宇野から汽車に乗る。ガタゴト揺れて大阪に着いた時は夜に為っていた。大阪方面に出稼ぎ中の兵の家族はホームに来ていて窓越しに面会している。兵は下車を許されず、面会人は乗車を許され無いのである。軍律は厳しいものである。
谷川上等兵
私と並んで座っている高知県出身の谷川政一上等兵、支那の戦争からずっと一緒だった戦友なり。この人後日硫黄島で戦死するのだがこの時は判らなかった。私が九死に一生を得て復員し清水警察署勤務中彼の妻に会い、谷川上等兵の戦死を知らせた。彼の妻は、夫は帰るかも知れないと待っていたが、私の詳しい話を聞いて戦死と知り再婚した。
富士山
汽車は大阪を出て東に向かう。その夜が明けて富士山が見える。昭和19年2月23日の朝だ。あの富士山を二度と見る事が出来るであろうかと私は思いながら汽車は東に向かう。汽車は東京の品川駅に着く。下車命令が出た。
この駅は私に忘れられる訳が無い。過ぐる年弟が戦死し遺骨を受け取りに来た駅だ。又父が上京してこの駅に下車後病気と為り宿舎で死んだ時兄が遺骨を取りに来た駅だ。今私が降りた、戦争に行く為に下車したのだ、不思議な事だ。父の病死した病院の前を通って私等の行軍は行く。暫くして寺に着いた。この寺で宿泊すると云うことに為った。寺の娘さんや家族とトランプなどして遊んだ。外出はできない。3日間休んだ。
出発
昭和19年2月26日、突然出発命令来る。東京港芝浦まで行軍する。桟橋に大輸送船が横付けに為っている。歩兵部隊が続々と乗船している。芝殿丸と云う大きな船だ南方行き専門の船らしい。我等工兵も乗り込んだ。何千人乗ったか判らんが船内はスシヅメ身動きも出来ん程詰め込まれた。
この頃日本軍は負け戦であり、南方行きは途中でボカチンに遭い満足に目的地に着く船は少なかった。海のモクズと為るものばかりの時代である。船は動き出した。私は甲板に立ち沖を見た。黒い雲が立ち込めて大時化の様態を示し、私は不吉な予感がした。今度行く所は好くないぞ、或いは私は死ぬのではないかと思う。
船は伊豆の山々を見て南下するばかり、八丈島を左に見て進んでいる。何処に行くのやら判らん、ジグザグ運行が始まる。敵の潜水艦を避ける為だ。日本の飛行機も出て来た。空を廻って我等の警備をして呉れる。我等はボカチンに備えてイカダの乗り移り訓練をする。少しも遊ばせては呉れないし休ませて呉れないのだ。
父島
長い船旅を終えて今朝はヤシの木高くそびゆる暖かい南の島に着いた。これは日本の小笠原諸島の父島である。私は生まれて初めて見る島だ。二見港に入港する。我が輸送船の大きいのが港に沢山居るが、横腹や後部に大きな穴を開けられ辛うじて浮かんでいる。戦争の傷だ。魚雷に遣られたのだ。我等は好く無事に着いたものよ。
行軍で島の東側扇浦という部落に行く。3月なのに真夏の暑さである。民家の納屋を借りて兵舎にしている。東京の武蔵野部隊と同居する事に為る。同じ工兵隊だからである。
父島
山はタコ、ヤシ、ゴム、松、杉その他雑木が生い茂っている。島民も大勢居る。陸海軍の兵隊も沢山来ており日本の慰安婦が沢山来ている。平和な島だった。敵の近接に伴い我等が増強された訳だ。我等は毎日陣地作りをする。トンネルを掘ったり橋を架けたり道路を作ったり、敵上陸に備えて作業する。未だ敵は来ない。
空襲
平和は束の間だった。或る日突然大空襲に見舞われた。夢は破られ忽ち戦場と為る。大村という街は火の海と為る、港の船は沈められる焼かれる大破されてしまった。敵機は去ったがどうも呑気に暮らしている訳にはいかない、愈々戦時状態に為って行く。
毎日陣地作りが忙しく為った。私は兵長だから下士官代理として内勤と為り、事務所で事務を執る事を命ぜられた。これから重要な事務を執らねば為らぬ、大変である。
大波に遭う
各部隊から毎日1名軍司令部へ命令受領に行かねば為らぬ。工兵から私が行くことに為った。下士官でなければ為らぬが、私は兵長だから下士官勤務である。私等の居る扇浦から大村の司令部までは海を渡って行くか陸を大きくまわって歩くしか行く方法は無い。毎日私は海を渡っていた。
今日は大波である。しかし陸を歩いては間に合わぬ。無理を頼んで小舟に乗った。船頭に聞いた。大丈夫かと言うと、危ないもし舟が沈んだらフカが喰うと言う。それでも渡して貰った。
水は舟に飛込むビショヌレに為る、要約渡って司令部に駆け付ける。各隊の下士官は来ていた。エライ人の言う事を筆記して持ち帰った。任務は無事終わった。それ以来私は早く出て陸を歩いて廻り、舟には乗らなかった。危ないので歩いた。
ペリリュー島
ペリリュー島
ペリリュー島を落した米軍はサイパンテニヤンを落した。悲報は父島の我等にも届いた。玉砕という。我等南に向かって黙とうする。皆泣いた。
サイパン島には日本人が多く、婦女子に至るまで軍と運命を共にしたのである。男は軍に徴用されて戦い玉砕、女子供は海中に身を投じ自殺した。敵軍に身を汚されるのを恥として自害したのだ。婦女子が海中に身を投ずるのを目撃した米軍はその恐ろしさにアッと言ったまま開いた口が塞がら無かったという。
黒髪を海になびかせて死んで行くのは悲惨な出来事である。戦争はこんなに恐ろしいものなのだ。内地の女性にこんな事が出来るであろうか。ガム、サイパン、テニヤン島の女性は当時はアッパレやまとなでしこであるとかおみなえしであるとか言われたのである。
つづく
2018年06月28日
一兵士の戦争体験 その26 (おわり)
その26 (おわり)
十一 復員への道
◇ビルマを後に
◆メイクテイラーを出発
待ちに待った内地に帰る命令が下りた。メイクテイラー一年半の抑留生活の終わりに当たり、そのキャンプに居る全員が集合し宮崎師団長閣下の訓示を受けた。
その要旨は、戦争中の苦労に対する慰労と抑留生活も秩序を保ち日本軍人の誇りを持ちこの日を待った事への労い、戦没者をこの地に残す無念さ、更に人類の歴史に置いて戦争は絶えず起き決して無く為って仕舞わ無いと言うものであった。
出発の日は早朝に起き持ち帰る装具一式を外に出し、宿舎を解体し一ヵ所に寄せて燃やした。赤い大きな炎が天に舞い上がった。灼熱の太陽に照らされ暑く熱く強く印象に残った。
完全に後始末をし、メイクテイラー駅に行き列車に乗った。メイクテイラーよさようなら。それは、昭和二十二年六月十四日であった。
首都ラングンーに到着、港近くのテントで四、五日待機し、希望が大きく膨らんだ。それでも未だ『騙されて居るのでは無かろうか』と多少の不安が残って居た。
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◆辞世の句
今まで我々が抑留されて居る間に、ビルマで戦った将兵の内、戦争犯罪者として英国軍に拘束され刑務所に入れられた人達があると聞いて居た。日本の国の為に上からの命令で行動して来た者を連合国側はどの様な犯罪として咎(とが)めたのか分から無いが多くの人が一方的に裁きを受けた。
我々がラングーンに来て初めてその人達が戦犯者収容所で処刑されて居るのを知った。ミンガラドンの掲示板にその方々の辞世の句が貼られて居た。復員を目前にした私達の仲間の誰かが謹んでそれを写して来た。
ここに、そのホンの一部だが紹介し死刑に処せられた戦士の無念さを偲び心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。
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刑執行の前夜 呼び出しの 沙汰にも声の高らかに 廊を隔てて名残惜しめり
迫り来る 時限りあり 限り無き 思いぞ尽きし この夜短かし
朝 夜もすがら 語りし友は儚くも 刑の露と今消えてけり
刑場に 唱う万歳 我も又 答えんとして 身を正しけり 辞世 憲兵大尉 松岡 憲郎
運命とて 微笑み露く 益良雄(ますらお)の 清き心や神ぞしるらん 緑川大尉
消え去りし 友の御霊(みたま)を 伏し拝み 同じ草葉の かげに入るかも
吾が命 二十と八の誕生に 忠義の鬼と 化してゆくなり 鈴木曹長
君が世の 寿(ことおぎ)唱(とな)えて 神の召す台に上がりて花とちりなむ 獄ニ想ウ 田室曹長
月 落 百 鳥 啼 破 睡 清 冷 大 気 流 獄 壁 白 魂 清 々 心 満 誠 忘 向 死 憶 皇 路 ■
◆復員
六月十九日 復員船熊野丸に乗船した。タラップを上がり日本人の看護婦を見た時、初めてこれで間違い無く日本へ帰れると確信した。この看護婦の色の白い事、清らかで美しい姿を見て内地がより一層恋しく為った。
安心して所定の場所に荷物を置いた。小型の航空母艦で内部は輸送船に改装されて居た。小型にしろ、航空母艦が良くぞ戦火を潜り抜け残って居たものだ。その熊野丸はラングンーの岸壁を離れた。
この地に残した十九万の英霊に鎮魂(ちんこん)の祈りを捧げビルマと別れた。シュエダゴンパゴダが段々遠く為って行く。パゴダよ英霊を守って下さい。何時までも。
熊野丸は前にビルマに出陣する時の輸送船の寿司詰め状態より大分余裕があり楽だった。それに船の速度も早く、潜水艦を避ける為にジグザグで航行する必要が無く一路進むので割合早く日本に帰る事が出来た。
豊後(ぶんご)水道を通過する時、甲板に上がって見ると漁船が手を振って迎えて呉れた。これでやっと内地に帰る事が出来たのだと思うと感激一入で胸が詰まり、目頭が熱く為った。後に聞いた田端義夫の「帰り船」の歌そのものである。
おわり
参考資料
佐藤幸徳師団長
撤退英断1万の兵救う 佐藤幸徳
2015年12月17日 05時00分
庄内町余目の古刹(こさつ)乗慶寺。ここに眠るのが、同町出身の旧陸軍中将・佐藤幸徳(1893〜1959)だ。佐藤は1944年のインパール作戦で、上官の命令に背いて自身が率いる師団を撤退させた。補給が断たれ、飢えと傷病、英軍の猛攻に晒されての事だった。その決断で救われた兵の命は1万を超えると言われる。
この寺を、インパール作戦の激戦地コヒマでの戦闘に参加したロイ・ウェランドさん(94)ら英国退役軍人と関係者が訪れた。訪問は昨年10月。作戦から丁度70年後の節目だった。一行は、法要に参列し佐藤の墓に献花した。軍刀や勲章、作戦で使われた地図等遺品約130点を保管した施設も見学した。
訪問を仲立ちしたのが、英国在住で日英和解の為の活動を続ける「英国ビルマ作戦協会」の会長を務めるマクドナルド昭子さん(64)だ。
東京生まれの昭子さんは、結婚を機に移住した英国で1998年 天皇、皇后両陛下の訪英を機に反日感情を煽る報道に衝撃を受けた。双方の和解が必要と感じた昭子さんはその年同協会に加わった。活動の中で、父親がインパール作戦に参加し佐藤の師団に所属して居た事を知った。
「父の命が助かり、今の自分があるのは佐藤中将が撤退を決断したお陰」2010年に初めて乗慶寺を訪ね、墓前で手を合わせた。昭子さんを初め兵の子孫迄が命の恩人と呼ぶ佐藤は豪胆な人柄で知られた。戦後の1953年に発行された、従軍記者の体験記を纏めた「秘録大東亜戦史 ビルマ編」で、共同通信社社会部の今井幸彦氏が記して居る。
「『東条(英機)に嫌われてネ、追っ払われたんだよ……』と師団長は面白そうに酒を含みながら笑うのだった。(中略)眼光は鋭く、底には激しい気魄きはくが感じられた」
再三に渉る補給要請を無視し続けた司令部に対しては、撤退の際に「“第十五軍司令部首脳の戦術能力は士官候補生以下”と言う痛烈な無電をぶっ放した」と言う逸話を披露している。
戦後70年の今年、昭子さんは庄内町を訪れる代わりに、11月に東京の英国大使館でウェランドさんと旧日本兵の対面を実現させた。海外のメディアも集まったこの場で、昭子さんが語り掛けたのは、矢張り佐藤への感謝の言葉だった。
「私がこうした活動を出来るのも、佐藤中将が命令に反した事で父を初め多くの命が救われたからです」
昭子さんは、これからも英国やインドの関係者を庄内町に招き、相互理解を深める一助となる考えだ。
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勝敗決めた補給の差
インパール作戦での日英の戦いはどの様なものだったのか。ウェランドさんが昨年、庄内町を訪れた時の証言を紹介する。
ウェランドさんは、佐藤が師団長として指揮して居た第31師団が一時的に占領に成功した要所・コヒマを巡る戦闘に参加した。日本軍の侵攻が続き、コヒマやインパールの北方に位置する拠点・ディマプールを奪われる事を英軍は警戒して居た。
日本軍はインド人で構成される「インド国民軍」と共闘して居り、英軍は作戦での敗退によってインドの独立運動が勢い付く事を恐れて居た。ウェランドさんの部隊はディマプールを出発しコヒマ奪還に向けてジャングルの中を行軍した。
途中、日本兵は木の上から葉っぱで身を隠して狙撃して来た。手当たり次第に機関銃を撃って応戦するが、日本兵は体を紐で木に括り付けて居る為命中しても落ちて来ない。敵を倒したのか分からず恐怖を覚えた。
コヒマに入ってからは両軍の兵力差が如実に表れた。英軍が5000発程の砲弾を撃っても日本軍の反撃は僅か1、2発に留まる日もあった。英軍は食料や弾薬を飛行機からのパラシュートで補給して居たが、日本軍には補給が無かった。それを見たウェランドさんは「日本に勝てる」と確信した。
英軍の勝利に終わったが、双方に多くの死傷者が出た。コヒマでの攻防は、独ソ戦の激戦地・スターリングラード(現・ボルゴグラード)に例えられる事もある。
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インパール作戦
ビルマ(現・ミャンマー)を占領した日本軍が1944年3〜7月、インド北東部のインパールの攻略を目指した作戦。
牟田口廉也中将が立案、指揮した。食料や武器・弾薬が不足し補給も無い劣悪な環境下で大敗。マラリアや赤痢にも苦しみ、参加した日本兵約10万人の内3万人が死亡4万人の傷病兵が出たとされる。戦後、無謀な作戦の代名詞と為った。約2万3000人の第31師団を率いた佐藤は、全滅を防ぐ為に上官である牟田口中将の命令を無視して撤退。命令が絶対とされた当時、異例の行動だった。
参考 おわり
素敵な「自転車と家庭水族館」管理人から
長い間愛読いただき有難うございます。一兵士の従軍記はこれで終わりです。著者に深く御礼申し上げます。
戦争体験記とは、召集され軍隊に入りそして実際戦地に行き戦い、そして敗れて終戦と為り俘虜と為り帰国出来た、所謂、戦死された方々からみれば実に幸運な人達が書き残したものです。
が、自分の行動や心情を書き記し、そしてそれを公表しようとするまでには、恐らく可成りの時間と精神的葛藤を乗り越えた挙句のものなのです。私の廻りの戦争体験者は、殆どの方が戦争については一切語らない人が多いのです。アンナ理不尽で無謀で過酷で非人間的な日常を一日でも早く忘れ去りたいとするのが人間の本音なのです。
それでも戦争の実際の、恐怖心に惨(むご)さ悲しさを書き残す決心した訳には深い理由があるのです。それは誰もが同じで「この様な戦争が二度と起こしては為らない」とする熱い心情から来ています。その行動が「自衛だ!国防の為だ!」と幾ら「愛国心の発露」の結果だとしても「戦争」をしては為らない・・・と言いきるのは、その体験者にしか判らない深い思いからなのです。その意味でも、本ブログでは何度か「戦争体験記」を取り上げるつもりですが、宜しくご愛読ください・・・
一兵士の戦争体験 その25
その25
◇俘虜(ふりょ・抑留者)生活
◆パヤジー収容所
昭和二十年十一月初め頃チェジャンジーの山の中の宿営地を後にして列車に乗り、ビルマの中南部地域にあるパヤジー収容所に到着した。
広い原野の中に有刺鉄線に囲まれた大きな収容所があった。数万人の旧日本兵がここに集められ有刺鉄線の柵の外は自動小銃を持った英印軍兵士が厳重に警戒して居た。
収容所は竹と椰子の葉で屋根を葺いた小屋が沢山並んで居た。愈々(いよいよ)本格的な収容所生活の始まりである。有刺鉄線で囲まれた柵は旧日本兵の逃亡を防止する為と現地人との接触を防止し警護をし易くする為だろうが厳重なものであった。
衛生管理を良くする為に深い穴を堀り、便所として蚊や蝿の発生を防止しその捕獲に注意を払って居た。
又、防虫剤や消毒剤のスプレー散布が好く行なわれ伝染病防止対策が為されて居た。これは英印軍の方式によるもので今迄の日本軍では考えられ無かった事である。
食料は少なく腹が減って困った。カロリーは十分あると言うのだが量が足ら無い。全体の労働作業の出来映えにより加減されるのだとか色々取り沙汰されたが、交渉したので少しだけ増やして呉れた。又配給されたバターやチーズを、ビルマ人が柵の外に持って来る多量の米と交換し空腹を凌ぐ事が出来た。英印軍の警護兵もこの様な物々交換をするのを黙認して居た。
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日にちが経つに連れ与えて呉れる食料は少無いながらも次第に増えて来た。 又、日用品も僅かだが配給された。炊事する為の薪に困った事もあったが何とか切り抜けた。
服には背中にP・O・W(俘虜)と、大きなスタンプが押してあり中古ながら清潔な物が支給された。戦争俘虜と言う烙印(らくいん)を押され敗戦者と言う卑屈(ひくつ)な立場に置かれて、毎日労務に引き出されての生活は楽しいものでは無い。 しかし、食べる物が無く飢え死にして居たペグー山系の中の体の苦痛に比べれば増しである。
労務と言っても、病人や留守をする炊事当番等は作業に出無くて好かったのだから、負け戦の最中よりは今の生活の方が体に無理は無く楽だった。作業が相手側の為のもので、自分の国の為のもので無い事に抵抗を感じ積極的に為れず、言われた作業を済ますと宿舎にサッサと引き上げた。何時も作業が終わる時間が早く来ないかと思う様な毎日だった。
パヤジー収容所に居る頃植田大尉が聯隊長として着任され「戦いに敗れたが、日本人としての誇りを持ち、耐え難きを耐え、統制の取れた組織を保ち頑張ろう」と挨拶と訓示をされた。今もその時の様子をハッキリと覚えて居る。
尚、その頃は土の上に枯葉や枯草を敷き寝て居たが、初めて毛布が一枚ずつ配給され嬉しいと思った。何故なら、転進作戦の途中から長い間毛布は無く寒い思いをして居たので。
パヤジーに居る頃の或る日、トラックに乗り作業に出た。序に、横に寝た姿で大きく有名なペグーの仏像を見た。寝た仏像は珍しいと思ったが、俘虜の身だから降ろして貰えないのでトラックの上から遠く拝観した。
・・・戦後ビルマへ二度慰霊団の一員として行った時、再びこれを見て俘虜当時を思い出し感慨深いものがあった。
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◆メイクテイラーでの俘虜生活
パヤジーで二ヵ月を過ごし、二十一年一月に列車に乗りマンダレー鉄道で北に向かいメイクテイラーに到着した。ここは、マンダレーの南西約百五十キロの所で、雨量も少なくサラリとした気候で暑いけれど住み好い地方だった。
大きな湖があり鉄道交通の要衝で飛行場もあった。遂十ヵ月前には彼我の大激戦が展開された地域で、破壊された自動車が山の様に一ヵ所に集められて居た。町らしい所は見当ら無かった。
少し前から、輜重聯隊を今までの一中隊、二中隊、三中隊で無く県単位の兵庫県、岡山県、鳥取県の三つの出身地別に、将校、下士官、兵隊を共に分け直し編成した。
これは、今迄の軍隊組織、上下階級の意識を多少でも緩和する為であり気分転換を図ったもので、この事は色んな意味で成功だったと思う。その様にして、秩序を保ち節度を守り抑留生活を過ごした。
我々は民家から離れた広い原野へ到着した。一両日すると大きなシートと、小屋を造る為の木材と結束(けっそく)材料、それに竹等の材料その他副材料を沢山トラックで運んで来た。比較的大きく丈夫なシート張りの小屋を建てた。今迄の椰子の葉と竹だけで造ったものとは規模や頑丈さが違う上に衛生的な建物であった。
便所は、ここでも深い穴を堀り上に板を渡した簡単なものであったが、消毒剤が常に散布され蝿や蚊の発生を防ぎ衛生的にされた。初めの内は小川で水浴をして居たが、後にはドラム缶を据え着けて風呂を造り湯を沸かし入浴した。
石鹸の支給もあり体を清潔に洗い日常生活も次第に向上して来た。又この頃に為ると、体の回復と共に、黄色い土色の爪とは全く異なった奇麗な新しい爪が伸びて来てクッキリ段が着いた。四〜五ヵ月経ち全部奇麗な爪に生え替わった。
ここ迄元気に為ると、特別な病気に罹(かか)れば別として衰弱により命を落とす事は無く為ったと自信が持てる様に為った。健康に為るのは本当に嬉しく心に明るい希望が持てる様に為った。
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◆食物
食糧の支給は、英印軍のもので小麦粉が主体でバターやチーズ、それに食油類が多く、羊や魚、野菜の缶詰等であった。カロリー的には足りるのかも知れ無いが、我々日本人は米が主食だから食べる量が足り無い。それに若い最中だから腹が減る。
我々が収容されて居るキャンプの柵の外にビルマ人が米を持って来て、これをバター類と物々交換をした。ビルマは米の産地で幾らでもあり、現地人の中には英国製の缶詰や珍しい物を食べたい人もあり結構交換が成立した。ビルマ人の日本人に対する好意もあり、それに見張りのインド兵も黙認の形を取って居りお陰でひもじさを補う事が出来た。
この頃は炊事をする人が専門に選ばれ、皆の分を纏めてして呉れるので大いに助かった。その人達が物々交換も一括して呉れる様に為り次第に食べる事の心配が無く為った。
収容所生活では、重い患者は英印軍の病院に入院し、病人と日常の炊事班、班内当番、その他若干の者等何パーセントかの人を残し後の全員が使役に出て行くのである。又、全員休日の日も決められ、無茶な労働が強いられた訳では無く俘虜に対する扱いとしては苛酷では無く比較的正しく扱われたと思う。我々にしてみると、初めの数ヵ月は一生労働させられるのでは無いかとの不安があった。
しかし、その後は色々の情報から、待って居れば何時かは内地に復員出来るとの希望が出て来た。でも、その時期に着いては全く分ら無かった。
余談に為るが英印軍の食料は清潔で運搬し易い様に殆ど全部が缶詰で供給されて居た。戦争中の我々ビルマ前線の飢餓状況を思う時、食糧補給態勢が全く違いその差異の大きさに驚くばかりであった。
それから食料品の缶詰等の運搬や倉庫からの出し入れ作業の時に上手に少し失敬して帰る事もあった。これを見つけて怒るニグロ兵、知らぬ顔をして居るインド兵等色々である。
我々も一年を過ぎると食物が少なくて飢えて居るのでは無く、運搬中に数を誤魔化したり少し盗んだりして実益とスリルを楽しんで居る節もあった。だが、美味しい物を沢山食べたいのは人情であり、若い俘虜にあり勝ちな事である。
食べる事に続いて飲む事だが、キャンプ生活が落ち着き日にちが経つと、器用な人が酒を作る事を始めた。黒い板砂糖から醸造するらしいのだが、案外簡単に出来る様であり酒の好きな人は喜んで飲んで居た。質しメチルアルコールで悪酔いする傾向があった。私も一、二回飲んでみたがマアマアの味だった。早く復員して畳の上で日本酒を飲んでみたいと思った。
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◆作業
英国印度軍の指示による労働作業であるから、日本の国や自分達の為のもので無く全て相手側の為のものだから、釈然(しゃくぜん)としないものがあった。しかし俘虜の立場では仕方の無い事であった。
作業は、近くのメイクテイラーの駅に行き、貨物の上げ降ろしをする作業が多かった。炎天下でする作業は楽では無かった。でも昼休みは一時間あるし途中で十分間の休憩時間もあった。
時々メイクテイラー空港に行き輸送機へ荷物を積み降ろしする作業もあった。飛行機に乗るのは初めてで珍しかった。その他穴堀り、草取り、土木作業、重量物運搬等色々の作業をした。遠くへ作業に出る時はトラックが来て我々を運ぶのだが、一度に大勢運べるし必要なら何台でも来て作業場へ短時間で連れて行くので誠に能率的に作業に取り掛かれた。
因みに、私がビルマに来て戦争中の二年間で輜重隊に居りながら、私は一中隊で輓馬隊だが、二中隊も三中隊も自動車隊なのにトラックに乗せて貰った事は殆ど無かった。只、通信技術の教育を受ける為タンガップからラングーンの往復に乗せて貰った事があっただけである。
それ程日本軍はトラックの輸送力が貧弱であった。我々は何時もテコテコと日数を掛け疲労困憊して歩くだけであった。 俘虜に為り作業に出てみて、彼我の輸送力に何百倍もの違いがあり行動力の桁が全然違う事を痛感させられた。
又、作業の事だが日本人が今までに見た事も無い超大型の運搬車を持って来て必要な特殊運搬をするので、全く比較に為ら無い能率である。それに、土木作業には大型、中型、小型のブルトーザーを持って来た。
人間五十人分にも相当する作業を一気に片づけるのだから全く驚異である。新しい道路を建設する位の事は造作が無いのである。 日本兵が百人掛で十日掛かる仕事を、二、三日で完成してしまうのである。我々日本軍がスコップとつ・る・は・し・で汗を流し流しするのと雲泥の相違である。
作業能率が二桁以上違う。こんな相手と戦争をしたのだから勝てる筈が無い。相手を知り驚くばかりである。ともあれ、この様な大型機械の間で人の手で出来る部分を割り当てられ作業をした。
作業は色々あり、便所の穴堀りから時には英人将校の日常生活、掃除の手助けを割り当てられる事もあった。当たり前だと割り切ればそれ迄だが複雑な心境であった。変わった処では、私を含めて三人が本隊より離れて泊まり込みで、英印軍の馬二十頭余りの飼育管理の手伝いに十日程行った事がある。私は通訳をする内に、二人のロンドン生まれの兵隊と仲良しに為り段々会話が好く通じる様に為った。
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◆たばこに付いての思い出
たばこに付いて少し記録して置くと、戦いの最初の内は内地の「誉(ほまれ)」とか「ゴールデンバット」等を配給で貰ったり買って吸って居たが、それが無く為ると現地たばこ(セレー)を買って吸った。
前にも述べたが、人差し指位の大きさにたばこの葉を巻き、中に鋸屑(のこくず)の様な物が入って居り、比較的辛く無いものを好く吸ったものだ。その他にと・う・も・ろ・こ・し・の鞘(さや)にたばこの葉と鋸屑状のものを巻いた太い物、たばこの葉のみをギッシリ巻いた辛口の物等があった。
セレーは中の屑がポロポロと零れて落ちるので、衣服に火の粉が落ちて焼ける恐れがあり用心して吸わ無ければ為ら無かった。日本軍が優勢な時は軍票で買う事が出来た。しかし戦況が悪く為り負けて来ると軍票の価値が無く為り買う事が出来無く為った。それに、山の中を逃げるばかりだからたばこも欠乏し無く為ってしまった。
その後、糧秣収集の時、煙草の葉を失敬して来る。たばこを吸う兵士に取っては米・塩に注ぐ必需品で大切なものであった。又、運好く何処かでたばこ畑を見れば青い葉を捥ぎ取り携行した事もあった。私自身たばこが好きだったのでこれを得る為に非常に苦労した。死にそうに為る程苦しくても、たばこは欲しくて止められ無かった。でも、転進中の山の中でたばこが無ければ仕方が無い事だった。
終戦で俘虜と為り収容所の有刺鉄線の柵の中に入れられてからは、どうにも為らず困り果てた。その頃から英印軍の命令する作業に出る事に為った。「窮(きゅう)すれば通(つう)ず」と言う言葉があるが、作業場に行くと英印軍兵士の捨てたたばこの吸い殻がありそれを拾って持ち帰り、薄手の紙に巻いてたばこを作るのである。
初めの内は矢張り日本軍人の誇りがあり、コッソリと拾って居た。乞食でもあるまいしと自尊心に悩んだ。しかし棒の先に針を着け突き刺すと屈ま無くても楽に拾え、しかも拾って居るのを人に気づかれ無いで済むので、情け無い事だと思いつつもそんな事をした。「モクヒロイ」と呼んでかなり長い間皆が遣って居た。
俘虜と為って半年位経った頃から、英国のたばこ「ネビーキャツト」を十日に一箱位配給して呉れる様に為った。又、作業が個人的なものだったりすると英国の将校が一箱呉れる場合もあった。又作業中に盗んだ缶詰や配給に為ったバターやチーズをビルマたばこのセレーと交換したりした。そんな事をして迄たばこを吸った。何れにしても、戦争中及び抑留中たばこを吸う為に大変な苦労と犠牲、そして恥を掻き乍ら過ごしたのである。
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◆キヤンプ内の娯楽等
メイクテイラーへ来た頃から皆顔色も好く為り、頭の髪や顎の髭(ひげ)も奇麗に剃り清潔に為り元通りとは言え無い迄も元気に為り規則正しくリズムある生活が出来る様に為った。
若い者同志であり体が弱って居る間は誰も黙って居たが、健康が回復するに従ってお色気話や女性の話が出る様に為った。心の中では、何時帰れるか分から無い不安が常にあったが、それはそれとして明るさを取り戻して来た。
厚紙を切って碁盤(ごばん)と碁石を作り囲碁を楽しむ者、将棋をする者、マージャンも竹細工で牌(ぱい)を作り遊んで居た。器用な人が居て飛行機の残骸のアルミ板を切りギターを作る人、それを奏(かな)でる人、習う人、詩や歌を作る人、英会話を勉強する人、戦記や名簿等を整える人、色々の趣味で憂(う)さを払い、希望を持ち、人間としての存在を確かめつつ内地に帰る日を待ち詫びた。
毎日全員で朝礼と体操をした。この頃は元の中隊編成で無く県別の編成に切り替わって居たが、階級制度に準じて組織を守りお互いに秩序ある生活をした。
「烏合の衆(うごうのしゅう)」で無く整然とした体制を整えて居り、これと言ったトラブルも殆ど無かったのは日本軍人の素晴らしい処である。
私も身体が元気に為り、英会話を習ったりバレーボール等をして楽しんだ。メイクテイラーは雨が少なく生活し易い環境でお陰で病気に為る人も少なく助かった。作業に出る以外はこれと言った仕事も無いのだから、呑気と言えば呑気な生活であった。
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それに、演芸会を見る楽しみが出来て来た。初めは、誰かが皆の前で歌を歌って聞かせる程度のものだったが、それが好評で次第に規模内容共に充実し、素人ながら役者に為る人は労務に出無いで芝居の練習をし、衣装や楽器等も作り劇団を編成した。娯楽の無い俘虜生活の中で皆に歓迎された。
皆も作業に出た時、布切れやペンキを持ち帰り衣装を縫う人に協力した。兵隊の中には器用な人や色々の職業の人が居るので何でも出来た。裏方さんが何人も居りカツラでも見事な物を造るし、何処からか白粉(おしろい)を持ち帰り顔に化粧をし女形の美人に仕上げた。
舞台も兵隊の大工さんが確りした物を拵え、照明装置も作業に出た時部品を貰って来て配線した。夜間照明の下では本当の女性かと思われる程に変装し立派な役者が出来上がった。
更にギターやマンドリン、尺八に太鼓等も手製で作り華やかに演奏した。全て本式である。こうして、一ヵ月に一、二回芝居が興業された。その度にヤンヤ ヤンヤの拍手で皆の楽しみに為った。男性ばかりの収容所生活ではこの様な女形が大変モテ、中にはこの女形に惚(ほ)れる人も出て来る有様だった。
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◆ビルマ人の好意
戦争の当初、日本軍がビルマ全域から英国軍を駆逐し我が軍の勢力下に収めた頃はビルマ人が歓迎し好意を示したのは当然であり、その後平穏な頃も引き続いて良好な関係が続いて居た。
しかし、昭和十九年の後半から日本軍が劣勢に為って来ると軍票の値打ちも下がり遂に只の紙切れに為り、これで物を買う訳に行か無く為った。二十年に入ると我々は愈々戦闘態勢に入り山の中で生活し現地人との友好的接触も無く為り軍票を使用する様な機会も閉ざされた。
食べる物が欠乏し、貰ったり拾ったり、失敬したりし無ければ生きて行け無く為り、この頃からビルマ人に迷惑を掛ける事と為った。こう為るとビルマ人の中の一部の人や被害を被った地域によっては、日本軍に対して反感を持つ者も出て来た。
しかも日本軍が敗れ武装解除され俘虜収容所に入れられてしまえば全く知らぬ顔で好いのだ。しかし、そこがビルマ人、仏教国で仏心があると言うのか或いは同じ黄色人種の親しさからか、或いは一時にしろ英国を排除した力を尊敬したのか大多数のビルマ人は何時迄も我々に親切にして呉れた。
収容所の回りに張り巡らしてある有刺鉄線の外に来て物々交換をして呉れた事が日本兵に取っては大いに助かった。英軍から配給に為ったチーズやバター等を沢山の米と替える事が出来たのは有難かった。
又我々が英軍のトラックに乗せられて、作業の為に少し遠い所に出て行った時など、印度兵が運転して居るが休む為に部落の中に止まるとビルマ人が直ぐに差し入れに来て呉れるのだ。日本兵が俘虜生活で可哀相だと思い、ビルマたばこのセレーを沢山持って来て呉れバナナやマンゴを呉れるのだ。握り飯迄作って呉れる事もある。
負け戦の最中には大きな迷惑を掛けて居るのに済ま無いと感謝した。印度兵が自動小銃で警備して居ても、それに構わず俘虜の我々に与えて呉れるのだ。この温かいビルマ人の心を忘れる事は出来無い。私は感激し今も忘れられ無い思い出である。
この様に現地人から恩を受けて居る私達は、出来る事があれば報いたい気持ちで心よりビルマ人の幸福を願うものである。
つづく
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