2018年07月04日
硫黄島 祖父の戦争体験記 その7(おわり)
祖父の戦争体験記 その7(おわり)
この地方の状況
この地方はメキシコとの国境に近い。冬でも寒くないのだ。大西洋の岸だ。地下資源が多く鉄パイプを地下に打ち込みガスを出す。炊事もストーブもそのガスでやる。燃料は只である。
私は7月に来て12月に為ったが、未だ雨は1回も降ら無い。不思議な国である。内地ならこんなに日照りが続いたら草も木も枯れてしまうがここは草も木も成長している。
黒人
この地方は住民が全て黒人である。女は髪が縮れて長く為らない。内地の金仏の頭の様だ。色は真っ黒であり鍋の底よりまだ黒い本当の黒人である。元の奴隷が住んでいる所なのだ。
金の網の間からこの地方の部落が好く見える。我等の小屋の周りに青い草が生えた。ズンズン大きく為り、直ぐに木に為る。草か木か判らんようになる。又、ヒマの木があった。ハシゴを架けんと実が取れん程大きく為り、草で無く大木に為っている。
家の中にも外にもサソリが沢山居る。人間に噛み付いた事は無いが私は見つけ次第に殺した。南方の毒サソリでは無いと米国人は言っていた。こんなことばかりして我等は毎日を過ごしていた。
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汽車に乗る
昭和20年12月8日、この日は我が海軍が真珠湾を攻撃した日であり、米国に取っては忘れられ無い日である。この日我等捕虜は全員汽車に乗るのだと言われた。
サア大変だ、殺されるかも知れんが汽車に乗らん訳にはいかんから仕方無くゾロゾロ汽車に乗る。内地に帰ると言う者あり殺されると言う者ありデマは飛ぶ汽車は走り出す。私の考えでは我等は船に乗せられて実弾訓練をする目標にするのだと思った。撃ち沈められるのだと思った。どうせられても止むを得んと思う。
汽車は我等の思いを乗せて野を越え山越え走り続ける。トンネルを抜けて雪の山を見て走る。何日も何日も走って大平原の駅に着いた。大陸を横断して太平洋岸のシヤトルに着いた。真っ白な雪の街に為っていた。昭和20年12月13日、再びシヤトルに着いたのである。
乗船
大きな船に乗れと言う。何百人も居る日本の捕虜を乗せる。太平洋の真ん中で撃ち沈めるのか内地に帰すのか我等には全く判らない。1週間走った。大時化と為った。船は波の下を潜る、その都度ドーンという音が物凄い。船はミシミシ鳴る。割れて沈むのではないかと思うほどだ。食事も出来ぬ程揺れる。しかし食事も沢山呉れるし傷の手当も毎日して呉れるのだ。殺す積り為れば傷の手当はせんだろうから、或いは我等は生きて日本に帰れるのではないかと思う様になる。
日本見ゆ
21日間走り続けた。遂に日本の島が見え出した。アア日本だ伊豆の大島だ、見える。戦争に行く時見たあの島が2年後の今日叉見えた。何たる幸運ぞ。
船は東京湾に入る。米国の艦が沢山居る。夢に見続けた我が日本だ、祖国日本に帰ったぞ。妻や子供に生きて帰ると言ったあの言葉は今こそ本当に為ったぞ、父は帰ったぞと心で叫んだ。昭和21年1月4日浦賀に着いた。
昭和19年2月27日同じ東京湾を出てから満2年だ。あの時の気持ちは忘れん、命は無いと思っていた。その東京湾に今帰った。米国の船で米国の服を着て今帰った。傷を受けながらも今帰った。硫黄島で死を覚悟したこと幾度ぞ。過ぎし戦争を思い出す。涙が出る。日本は焼け野原だ。東京湾の中も米国の軍艦が一杯だ。日本は負けたのだ。早く日本の土を踏みたい。上陸したい。
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上陸す
浦賀の港に船は着いた。我等病人は車で上陸、元気な奴は歩いて上陸する。私は元日本の海軍病院に入院する。国立病院と為っていた。軍医も看護婦もそのまま居る。
戦陣訓に生きて虜囚の辱めを受くる無かれ、散るべき時は清く散れとある。我等は散るべき時に散らず虜囚の辱めを受けたのだ。島流しか死刑に為ると思ったりしたが心配無用であった。我が軍は既に無く、軍法会議も無く為って居た。我等は復員軍人として扱われるのである。有難い。病院では日本の看護婦の世話に為る事に為った。昭和21年1月4日であった。
私の背中の傷口はまだ膿が出ている。船の中でもずっと手当を受けて来た。今度は日本の病院で世話に為るのだ。
生きて帰ると誓って国を出た。この東京湾から船出した。あれから2年遂に帰った。今度こそ妻と子供と共に暮らせるぞ戦争は終わったのだ。母にも妻にも兄弟にも生きて帰ったことを知らせたが返事は無い。そのうち傷がまた化膿した。軍医に手術して呉れと頼んだが麻酔薬が無いので手術は出来んと言う。私は生のままで好いから切って膿を出して呉れと頼んだ。
軍医は生のまま切り開いて呉れた。上半身裸で椅子に座る。軍医はメスで切る。血は飛ぶ看護婦は向こうに顔を背ける。軍医は切り開いた、痛い、泣いても叫んでも致し方ない。自分が頼んだのだ。辛抱するより致し方がない。
長い間掛かって軍医は「好し済んだ」と言った。軍医は「わしも辛抱強いがお前も好く我慢したナア、痛いと一口も言わ無かったナア」と驚いていた。私は脇の下は汗でビッショリだ。痛いとは言わ無かったが、死ぬよりましだから切って貰ったのだ。泣いたり叫んだりする訳にいかんのだ。その夜大熱が出た。手術の熱である。私は何にも判らなくなった。
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妻の夢
大熱で魘(うな)されながら眠った。不思議な夢を見た。妻が髪振り乱して上半身裸で濁流の中に立っている。左足がチンバになっている。100メートルも幅のある大河の真ん中に居る。私に来いと招く。2年間忘れたことの無い妻だが濁流の中には行けぬ。
それでも河に入り歩いて近づく。背が合わん、深いもう行けん私は泳ぎが出来ん。引き返して陸に上った。目が覚めた。
夢だった。妻の身に異常があったのだ。私の戦死の報で再婚したのか或いは死んでいるのではないかと思う。そこへ、産春兄から手紙来る。思った通り妻は昭和20年6月14日、子供2人を近親者に頼み、自分は夫のもとに行くと言って病死したと言う。
防空壕を掘る奉仕作業に出ていて左足に古釘を刺して傷を受けて居たのが、遂に破傷風と為って髪振り乱して手を突っ張ったり反り返って苦しがり死んだと云う。
私は困った。今度こそ戦争は終わったので親子仲良く暮らせると思うたのに妻は死亡、子供は2人残り我が身は傷ついて今大熱に苦しんでいる。世の中は物資が無い喰う米も無い。4回も召集され最後に生きて帰ったというのに神は助け給わぬのか。
妻に死なれ二人の子供を養って生きていかねば為らぬ運命に為った。まま為らぬものである。サア大変だ、私は何時退院出来るか判らん。昨夜の夢は正夢であった。私の傷が重くとても助からんと思った妻は私を呼んだのだ。川の中へ行ったら私は死んで居ただろう。引き返して岸に上ったので助かったのかも知れん。1日も早く帰って子供を引き取り養わねば為らぬ。重大責任が出来た。
私の戦死
私は昭和20年3月17日硫黄島に於いて戦死と為り町葬も済んで忠魂墓地に墓標が出来ている。死ぬべき私は生きて帰る。生きている筈の妻が死んでいる。運命は私を未だ苦しめるのだ。2年前善通寺の兵舎へ面会に来て呉れた妻、あれが永久の別れと為ったのである。私も出発の時、妻とは別れに為る様な予感がしたが本当となった。
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習志野へ
昭和21年1月8日、日赤のマークを着けた汽車で我等は千葉県の津田沼駅に着く。習志野元陸軍病院に入院。看護婦も軍医も昔のまま。寝台には陸軍伍長高橋利春と書いて呉れた。
自由に外出も出来る。闇市でいわしや団子など買うて来てストーブで焼いて喰うたりする。またケンカする奴も出る。手も足も無いのが居る、色々だ。町の婦人会が慰問演芸会を開いて招待して呉れる。私は一日も早く土佐に帰り2人の子供の世話をせねば為らぬが傷はまだ治ら無い。
世話課へ
或る日患者が揃って白衣のままで汽車に乗り、足の無いのや手の無いのが松葉杖を突いて千葉の津田沼から東京に向かった。
街は一面焼け野原である。元の司令部が今は県世話課と為っている。そこに我等は押し掛けた。県は驚いた。かたわ者ばかり押しかけたから堪らん。軍服と靴を呉れと申し込んだのだ。県では米軍の服と靴を取り上げて日本の服と靴を呉れた。
こんなことは病院に言わず皆黙っていた。言ったら叱られる。東京の焼け野原に、米軍人と日本の女が手を繋いで歩いていた。笑って楽しそうである。負けても我等は日本の軍人である。日本の女は馬鹿だナアとみんなで腹を立てたが、女もそうしないと喰え無かったのであろう。止むを得んことだったであろうが、当時私達はそんなの見て腹を立てたものだった。大和なでしこと言われた日本の女性が敵と手を繋いで身を売るのか、情けない奴だと思った。夕方千葉に帰った。
岡山へ
昭和21年2月2日、汽車で岡山の国立病院に送られた。背中の膿が止まらぬ。毎日診て呉れる。治らん。歯も一本抜かれた。軍医は、傷の付近の肉が腐っている。モモの肉を切って植えると言う。私は病院を無断で抜け出して岡山の街を歩いてみた。焼野原の岡山を歩くと戦争の激しさが判る。
病院の裏の山にも登った。四国が見える。あの向こうに土佐がある。早く帰りたいと思いながら山を下る。病院にコッソリ入る。命無いものと思っていたが、命があるとなると身内の所に早く帰りたい。妻は死んでも子供は居るのだ。今頃どうして居るだろうと思うと飛んで帰りたいがまだ傷は治らぬ。
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高知へ
私は、モモの肉を植えなければ治らぬと書いた書類を持って只一人岡山から高知に行く事に為った。白衣のまま汽車に乗ったが立ち通しだ。誰も席を譲って呉れるものなし。汽車は満員である。
朝倉に着いて兵舎の病院に行ってみれば米軍の歩哨が立っている。聞いてみた。国立病院は高知駅の裏に日赤の間借りをしていると言う。叉高知に引き返さなければ為らぬ。朝倉駅に行けば、切符の割り当てが無いから売らんと言う。市電で行けと言う。市電を利用して高知に着いた。
焼野原である。要約訪ね宛て入院した。書類も渡した。ヤレヤレ、これで飯に在り付いた。早く入院せねば夕食に困る。金は無いし宿屋も無い焼野原だ。
高知病院
高知の病院は食器なし。竹の節を切って茶碗にしている。水筒も竹製、何にも竹だ。金の茶碗に金の箸は軍隊なれど、ここでは竹ばかりなり。高知から中村へ手紙出す。高知まで帰ったことを知らせる。
妻の父と繁兄が来た。話を聞いた。妻は死に子供二人は繁兄が見ていると言う。私は早く帰りたい。帰らねば為らぬのだ。面会人は中村へ帰った。私は軍医に頼んだ。退院させて貰う様頼んだ。傷は痛いが、帰ってから治せるだろうと考えた。軍医は「お前は恩給診断をしてからにせよ」と言ったが、その様な事は眼中に無く子供に会いたさに帰して貰った。軍医は治癒と書いて呉れた。治った退院だ許可が出た。
しかし、この無理な退院が後日物凄い不利に為るのであるが、この時は考えていなかった。後日法改正に為り恩給が復活した。私も請求するが、治癒と為って居る為傷害恩給が却下されてしまった。先目の見えぬ人間である。賢い奴は治っても治らんと言って恩給に在り付いたのが多いのだ。
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帰る
昭和21年2月29日、私は只一人退院した。背中にホータイをして病院を出た。久礼からバスで中村に帰る。母も子供も喜んで呉れた。勝幸は私を覚えていた。勝は数え年7歳に為っていた。智恵子は5歳に為っていた。
両親が死に、伯父に当たる繁春兄に養われて居た。
私が引き取って養うこ都に為ったが、妻の無い男が子供2人抱いて養うのは容易な事では無い。当時金は無く米は無く、マッチに至るまで配給制度であり喰うものが無いのだ。朝早く起きて飯を炊き子供に喰わせ、掃除洗濯後始末、忙しい事話に為らん。大変な事に為った。
智恵子は繁兄に暫く預けて、私は勝幸の世話をする事に為った。戦争も終わったのだ。私は永久に軍隊に行く事は無い。これから人間並の生活が出来るのだ。その時に、神は何故私から妻を奪ったのか情け無く為った。妻さえ生きていて呉れたらどんなに幸福であったか判らん。どんな苦労も厭わぬものを、世はまま為らぬものである。
自分の墓は自分で取り去り、戸籍も復活した。子供も入籍した。昭和21年3月までの日記である。後日の参考とせられたい。終戦後からは毎日の日記に書いてある。
昭和21年3月までの従軍記を終わる
元陸軍工兵伍長 勲八等 高橋利春
おわり
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ご愛読いただき有難うございます。引用させて頂いた筆者の方々に謝意を表します。全く大変な目に遭われても最後まで生き残りこの様な手記を作成頂き、私どもに貴重な体験談を残されたのは、この上なく貴重で尊い事だと謹んで御礼申し上げます。
最早、戦の勝敗を度外視した「単に死のみを求められた」筆者達のご健闘は、決して無駄死にでは無く残された私達への悲しいながらも「何か大きな教訓」を残されたものと存じます。これも、生き残ってその経験を後塵に託された強い意志があっての事だと存じます。この様な生き残った方達にはその後も多大なるご苦労もなすったものと察します・・・
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