2018年07月03日
硫黄島 祖父の戦争体験記 その1
・・・私の祖父は昭和61年に他界しました。それからもう20年近くが経とうとしていますが、祖父は「戦闘体験記」なる手記を残していました。祖父は明治45年(大正元年)生まれで、日中戦争当初から4度にわたって召集を受け、太平洋戦争中は最大の激戦地の一つ「硫黄島」へ従軍していました。戦後、その時の記憶や手帳に書いてあった記録を元に書き残したようです。
この手記は大きく分けて3部構成と為っており、第1部と第2部は中国戦線、第3部が硫黄島戦の記録となっています。このページでは硫黄島戦の記録を公開しています。
硫黄島では約2万1千の日本兵が戦い玉砕、生還したのは僅か千人程だったと言います。祖父の所属していた混成第一旅団工兵隊は、278名中13名しか生還しなかったとのことです。硫黄島での体験を綴った非常に貴重な手記を記録として残さねばと考えた時、ホームページ上での公開と云う方法を思いつきました。以下、戦闘体験記を公開しています。
(注)非常に長い為、分けて公開しています。全て原文のまま記載。
召集
兵庫県西宮署に勤務中の私に召集令状来る。今回は4回目である。昭和19年2月6日の事なり。私は3回戦争に行き、九死に一生を得て帰ったのに神は私に又行けと云われるのかと思ったが、そんな事は口にも出さぬ。戦に臨み敵に当るのが軍人の本分である名誉なのだ。直ちに署長に報告する。
本署で送別を受け我が家に帰る。隣近所に挨拶に廻り、女房子供には必ず生きて帰る心配するなと言い聞かせ西宮駅から汽車に乗り善通寺に向かった。土佐の母や兄弟にも会いたかったが時間が無い。直接入隊する。
昭和19年2月9日の事だった。
入隊
第4回目の軍隊なり。自分の家の様なもの。召集された者は顔見知りのものばかりである。オイ、又来たかや、おお頼むぞ。過ぎし3度の戦場に思いを馳せる。2月と云うのに夏物の被服が支給される。南方行きは直ぐ知れる。
独立工兵東部第2753部隊が編成された。隊長は來代良平大尉である。中尉2名、少尉2名、准尉1名主計軍曹1名、その他下士官兵278名の小部隊である。私は兵長だから下士官勤務である。
早速週番下士官を命ぜられた。忙しいのなんの食事の世話、演習の世話、面会人の世話、目が廻る忙しさだ。面会人は一人30分で外出は許可に為ら無い。面会所で大勢一緒に面会するのだから詰まらぬ話も出来ぬ。最後の別れと思うのか面会人の多いこと、妻子あるものばかりの兵だから面会人は特に多いのだ。
私の面会
私にも面会人が来た。西宮から妻が2人の子供を連れて面会に来た。汽車の切符も買え無い時代に好くも善通寺まで来たものだ。自分の配給米を食わずに私の為に貯めて握り飯を作って持って来てくれた。私は兵長の服を着ていた。勝幸を草の上に座らせて智恵子を抱いて遣る。3人が握り飯を食う。何にも話すこと無し、死に行く者と見送る者とだ。只顔見合すだけで総てが判る。30分の面会時間は過ぎた。
勝幸は私の若い時の洋服を仕立て直して着ている。子供服など売って無い時代だ。智恵子は何にも知らず母の背中で笑っている。勝幸も父が戦争に行くのを何と思ったであろう。死ぬかも知れぬ父を見て何と思ったか、小さい背中を私の方に向けて営門を出て行く。振り返り笑う妻。見送る私も涙が出る。
帝国軍人だ、陸軍兵長だ、泣く訳にはいかんのだ。顔で笑って心で泣いて私は妻子と別れた。妻は私の帰りを待たず病死するのであるが、この時は私には判らなかった。私は物事を気にしない方であるが、この時ばかりは気に為った。神様が私に妻との最後の別れをさせて下さったのだと今でも信じている。
私の妻との面会の後、今度は土佐から繁兄が老母を連れて面会に来た。嬉しかった。西宮から入隊したので土佐へは帰れず母に会いたいと思っていたが今こそ会う事が出来た。来て呉れなかったら会わずに戦争に行ってしまう処だった。好く来て呉れた。母と兄とにお礼を言った。30分の面会時間は過ぎ去った。
老いた母は兄と営門を出て行く。別れは辛いものだ。私も顔では笑っているが心では泣いていた。帝国軍人はどんな時でも泣かれんことに為っていたのであるが独り涙が出て来た。
今まで3度戦争に行ったが、家族が面会に来て呉れたことは無かった。それが今回は妻子も母も兄も来て呉れた。如何も可笑しい。私は今回の戦争で死ぬのではないか、神様が面会させて呉れたのではないかと思う様になった。妻と別れの様な気もした。それがピッタリ当るのであるがこの時は判らなかった。
出征
昭和19年2月22日、朝早く起こされた。善通寺は寒かった。サア出発だ。今度見送り人は無い。見送っては為らないことに為っていた時代だ。汽車で善通寺を発し高松に向かう。高松の桟橋で連絡船を待つ。長い時間待たされる。その間の寒いこと震え上がる、歯がガタガタ鳴る。
何分冬に夏服を着ているので寒い。要約船が来た。皆乗る。船は1時間で宇野に着く。宇野から汽車に乗る。ガタゴト揺れて大阪に着いた時は夜に為っていた。大阪方面に出稼ぎ中の兵の家族はホームに来ていて窓越しに面会している。兵は下車を許されず、面会人は乗車を許され無いのである。軍律は厳しいものである。
谷川上等兵
私と並んで座っている高知県出身の谷川政一上等兵、支那の戦争からずっと一緒だった戦友なり。この人後日硫黄島で戦死するのだがこの時は判らなかった。私が九死に一生を得て復員し清水警察署勤務中彼の妻に会い、谷川上等兵の戦死を知らせた。彼の妻は、夫は帰るかも知れないと待っていたが、私の詳しい話を聞いて戦死と知り再婚した。
富士山
汽車は大阪を出て東に向かう。その夜が明けて富士山が見える。昭和19年2月23日の朝だ。あの富士山を二度と見る事が出来るであろうかと私は思いながら汽車は東に向かう。汽車は東京の品川駅に着く。下車命令が出た。
この駅は私に忘れられる訳が無い。過ぐる年弟が戦死し遺骨を受け取りに来た駅だ。又父が上京してこの駅に下車後病気と為り宿舎で死んだ時兄が遺骨を取りに来た駅だ。今私が降りた、戦争に行く為に下車したのだ、不思議な事だ。父の病死した病院の前を通って私等の行軍は行く。暫くして寺に着いた。この寺で宿泊すると云うことに為った。寺の娘さんや家族とトランプなどして遊んだ。外出はできない。3日間休んだ。
出発
昭和19年2月26日、突然出発命令来る。東京港芝浦まで行軍する。桟橋に大輸送船が横付けに為っている。歩兵部隊が続々と乗船している。芝殿丸と云う大きな船だ南方行き専門の船らしい。我等工兵も乗り込んだ。何千人乗ったか判らんが船内はスシヅメ身動きも出来ん程詰め込まれた。
この頃日本軍は負け戦であり、南方行きは途中でボカチンに遭い満足に目的地に着く船は少なかった。海のモクズと為るものばかりの時代である。船は動き出した。私は甲板に立ち沖を見た。黒い雲が立ち込めて大時化の様態を示し、私は不吉な予感がした。今度行く所は好くないぞ、或いは私は死ぬのではないかと思う。
船は伊豆の山々を見て南下するばかり、八丈島を左に見て進んでいる。何処に行くのやら判らん、ジグザグ運行が始まる。敵の潜水艦を避ける為だ。日本の飛行機も出て来た。空を廻って我等の警備をして呉れる。我等はボカチンに備えてイカダの乗り移り訓練をする。少しも遊ばせては呉れないし休ませて呉れないのだ。
父島
長い船旅を終えて今朝はヤシの木高くそびゆる暖かい南の島に着いた。これは日本の小笠原諸島の父島である。私は生まれて初めて見る島だ。二見港に入港する。我が輸送船の大きいのが港に沢山居るが、横腹や後部に大きな穴を開けられ辛うじて浮かんでいる。戦争の傷だ。魚雷に遣られたのだ。我等は好く無事に着いたものよ。
行軍で島の東側扇浦という部落に行く。3月なのに真夏の暑さである。民家の納屋を借りて兵舎にしている。東京の武蔵野部隊と同居する事に為る。同じ工兵隊だからである。
父島
山はタコ、ヤシ、ゴム、松、杉その他雑木が生い茂っている。島民も大勢居る。陸海軍の兵隊も沢山来ており日本の慰安婦が沢山来ている。平和な島だった。敵の近接に伴い我等が増強された訳だ。我等は毎日陣地作りをする。トンネルを掘ったり橋を架けたり道路を作ったり、敵上陸に備えて作業する。未だ敵は来ない。
空襲
平和は束の間だった。或る日突然大空襲に見舞われた。夢は破られ忽ち戦場と為る。大村という街は火の海と為る、港の船は沈められる焼かれる大破されてしまった。敵機は去ったがどうも呑気に暮らしている訳にはいかない、愈々戦時状態に為って行く。
毎日陣地作りが忙しく為った。私は兵長だから下士官代理として内勤と為り、事務所で事務を執る事を命ぜられた。これから重要な事務を執らねば為らぬ、大変である。
大波に遭う
各部隊から毎日1名軍司令部へ命令受領に行かねば為らぬ。工兵から私が行くことに為った。下士官でなければ為らぬが、私は兵長だから下士官勤務である。私等の居る扇浦から大村の司令部までは海を渡って行くか陸を大きくまわって歩くしか行く方法は無い。毎日私は海を渡っていた。
今日は大波である。しかし陸を歩いては間に合わぬ。無理を頼んで小舟に乗った。船頭に聞いた。大丈夫かと言うと、危ないもし舟が沈んだらフカが喰うと言う。それでも渡して貰った。
水は舟に飛込むビショヌレに為る、要約渡って司令部に駆け付ける。各隊の下士官は来ていた。エライ人の言う事を筆記して持ち帰った。任務は無事終わった。それ以来私は早く出て陸を歩いて廻り、舟には乗らなかった。危ないので歩いた。
ペリリュー島
ペリリュー島
ペリリュー島を落した米軍はサイパンテニヤンを落した。悲報は父島の我等にも届いた。玉砕という。我等南に向かって黙とうする。皆泣いた。
サイパン島には日本人が多く、婦女子に至るまで軍と運命を共にしたのである。男は軍に徴用されて戦い玉砕、女子供は海中に身を投じ自殺した。敵軍に身を汚されるのを恥として自害したのだ。婦女子が海中に身を投ずるのを目撃した米軍はその恐ろしさにアッと言ったまま開いた口が塞がら無かったという。
黒髪を海になびかせて死んで行くのは悲惨な出来事である。戦争はこんなに恐ろしいものなのだ。内地の女性にこんな事が出来るであろうか。ガム、サイパン、テニヤン島の女性は当時はアッパレやまとなでしこであるとかおみなえしであるとか言われたのである。
つづく
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