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2018年06月28日

一兵士の戦争体験 その26 (おわり)


 
 その26 (おわり)
 

 十一 復員への道

  
 ◇ビルマを後に

 ◆メイクテイラーを出発

 待ちに待った内地に帰る命令が下りた。メイクテイラー一年半の抑留生活の終わりに当たり、そのキャンプに居る全員が集合し宮崎師団長閣下の訓示を受けた。
 その要旨は、戦争中の苦労に対する慰労と抑留生活も秩序を保ち日本軍人の誇りを持ちこの日を待った事への労い、戦没者をこの地に残す無念さ、更に人類の歴史に置いて戦争は絶えず起き決して無く為って仕舞わ無いと言うものであった。

 出発の日は早朝に起き持ち帰る装具一式を外に出し、宿舎を解体し一ヵ所に寄せて燃やした。赤い大きな炎が天に舞い上がった。灼熱の太陽に照らされ暑く熱く強く印象に残った。
 完全に後始末をし、メイクテイラー駅に行き列車に乗った。メイクテイラーよさようなら。それは、昭和二十二年六月十四日であった。

 首都ラングンーに到着、港近くのテントで四、五日待機し、希望が大きく膨らんだ。それでも未だ『騙されて居るのでは無かろうか』と多少の不安が残って居た。

 

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 ◆辞世の句

 今まで我々が抑留されて居る間に、ビルマで戦った将兵の内、戦争犯罪者として英国軍に拘束され刑務所に入れられた人達があると聞いて居た。日本の国の為に上からの命令で行動して来た者を連合国側はどの様な犯罪として咎(とが)めたのか分から無いが多くの人が一方的に裁きを受けた。

 我々がラングーンに来て初めてその人達が戦犯者収容所で処刑されて居るのを知った。ミンガラドンの掲示板にその方々の辞世の句が貼られて居た。復員を目前にした私達の仲間の誰かが謹んでそれを写して来た。
 ここに、そのホンの一部だが紹介し死刑に処せられた戦士の無念さを偲び心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。

 

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  刑執行の前夜 呼び出しの 沙汰にも声の高らかに 廊を隔てて名残惜しめり
 迫り来る 時限りあり 限り無き 思いぞ尽きし この夜短かし
 朝  夜もすがら 語りし友は儚くも 刑の露と今消えてけり
 刑場に 唱う万歳 我も又 答えんとして 身を正しけり  辞世 憲兵大尉 松岡 憲郎 
 運命とて 微笑み露く 益良雄(ますらお)の 清き心や神ぞしるらん  緑川大尉  
 消え去りし 友の御霊(みたま)を 伏し拝み 同じ草葉の かげに入るかも
 吾が命 二十と八の誕生に 忠義の鬼と 化してゆくなり  鈴木曹長
 君が世の 寿(ことおぎ)唱(とな)えて 神の召す台に上がりて花とちりなむ 獄ニ想ウ 田室曹長
 月 落 百 鳥 啼 破 睡 清 冷 大 気 流 獄 壁  白 魂 清 々 心 満 誠 忘 向 死 憶 皇 路 ■

 ◆復員

 六月十九日 復員船熊野丸に乗船した。タラップを上がり日本人の看護婦を見た時、初めてこれで間違い無く日本へ帰れると確信した。この看護婦の色の白い事、清らかで美しい姿を見て内地がより一層恋しく為った。
 安心して所定の場所に荷物を置いた。小型の航空母艦で内部は輸送船に改装されて居た。小型にしろ、航空母艦が良くぞ戦火を潜り抜け残って居たものだ。その熊野丸はラングンーの岸壁を離れた。

 この地に残した十九万の英霊に鎮魂(ちんこん)の祈りを捧げビルマと別れた。シュエダゴンパゴダが段々遠く為って行く。パゴダよ英霊を守って下さい。何時までも。
 熊野丸は前にビルマに出陣する時の輸送船の寿司詰め状態より大分余裕があり楽だった。それに船の速度も早く、潜水艦を避ける為にジグザグで航行する必要が無く一路進むので割合早く日本に帰る事が出来た。
 豊後(ぶんご)水道を通過する時、甲板に上がって見ると漁船が手を振って迎えて呉れた。これでやっと内地に帰る事が出来たのだと思うと感激一入で胸が詰まり、目頭が熱く為った。後に聞いた田端義夫の「帰り船」の歌そのものである。

 おわり

 
 参考資料

     9-3-2.jpg 佐藤幸徳師団長

 撤退英断1万の兵救う 佐藤幸徳

 2015年12月17日 05時00分

 庄内町余目の古刹(こさつ)乗慶寺。ここに眠るのが、同町出身の旧陸軍中将・佐藤幸徳(1893〜1959)だ。佐藤は1944年のインパール作戦で、上官の命令に背いて自身が率いる師団を撤退させた。補給が断たれ、飢えと傷病、英軍の猛攻に晒されての事だった。その決断で救われた兵の命は1万を超えると言われる。
 この寺を、インパール作戦の激戦地コヒマでの戦闘に参加したロイ・ウェランドさん(94)ら英国退役軍人と関係者が訪れた。訪問は昨年10月。作戦から丁度70年後の節目だった。一行は、法要に参列し佐藤の墓に献花した。軍刀や勲章、作戦で使われた地図等遺品約130点を保管した施設も見学した。
 訪問を仲立ちしたのが、英国在住で日英和解の為の活動を続ける「英国ビルマ作戦協会」の会長を務めるマクドナルド昭子さん(64)だ。

 東京生まれの昭子さんは、結婚を機に移住した英国で1998年 天皇、皇后両陛下の訪英を機に反日感情を煽る報道に衝撃を受けた。双方の和解が必要と感じた昭子さんはその年同協会に加わった。活動の中で、父親がインパール作戦に参加し佐藤の師団に所属して居た事を知った。
「父の命が助かり、今の自分があるのは佐藤中将が撤退を決断したお陰」2010年に初めて乗慶寺を訪ね、墓前で手を合わせた。昭子さんを初め兵の子孫迄が命の恩人と呼ぶ佐藤は豪胆な人柄で知られた。戦後の1953年に発行された、従軍記者の体験記を纏めた「秘録大東亜戦史 ビルマ編」で、共同通信社社会部の今井幸彦氏が記して居る。

「『東条(英機)に嫌われてネ、追っ払われたんだよ……』と師団長は面白そうに酒を含みながら笑うのだった。(中略)眼光は鋭く、底には激しい気魄きはくが感じられた」
 再三に渉る補給要請を無視し続けた司令部に対しては、撤退の際に「“第十五軍司令部首脳の戦術能力は士官候補生以下”と言う痛烈な無電をぶっ放した」と言う逸話を披露している。
 戦後70年の今年、昭子さんは庄内町を訪れる代わりに、11月に東京の英国大使館でウェランドさんと旧日本兵の対面を実現させた。海外のメディアも集まったこの場で、昭子さんが語り掛けたのは、矢張り佐藤への感謝の言葉だった。
「私がこうした活動を出来るのも、佐藤中将が命令に反した事で父を初め多くの命が救われたからです」
 昭子さんは、これからも英国やインドの関係者を庄内町に招き、相互理解を深める一助となる考えだ。

 

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 勝敗決めた補給の差

 インパール作戦での日英の戦いはどの様なものだったのか。ウェランドさんが昨年、庄内町を訪れた時の証言を紹介する。
 ウェランドさんは、佐藤が師団長として指揮して居た第31師団が一時的に占領に成功した要所・コヒマを巡る戦闘に参加した。日本軍の侵攻が続き、コヒマやインパールの北方に位置する拠点・ディマプールを奪われる事を英軍は警戒して居た。
 日本軍はインド人で構成される「インド国民軍」と共闘して居り、英軍は作戦での敗退によってインドの独立運動が勢い付く事を恐れて居た。ウェランドさんの部隊はディマプールを出発しコヒマ奪還に向けてジャングルの中を行軍した。

 途中、日本兵は木の上から葉っぱで身を隠して狙撃して来た。手当たり次第に機関銃を撃って応戦するが、日本兵は体を紐で木に括り付けて居る為命中しても落ちて来ない。敵を倒したのか分からず恐怖を覚えた。
 コヒマに入ってからは両軍の兵力差が如実に表れた。英軍が5000発程の砲弾を撃っても日本軍の反撃は僅か1、2発に留まる日もあった。英軍は食料や弾薬を飛行機からのパラシュートで補給して居たが、日本軍には補給が無かった。それを見たウェランドさんは「日本に勝てる」と確信した。
 英軍の勝利に終わったが、双方に多くの死傷者が出た。コヒマでの攻防は、独ソ戦の激戦地・スターリングラード(現・ボルゴグラード)に例えられる事もある。

 

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 インパール作戦 

 ビルマ(現・ミャンマー)を占領した日本軍が1944年3〜7月、インド北東部のインパールの攻略を目指した作戦。
 牟田口廉也中将が立案、指揮した。食料や武器・弾薬が不足し補給も無い劣悪な環境下で大敗。マラリアや赤痢にも苦しみ、参加した日本兵約10万人の内3万人が死亡4万人の傷病兵が出たとされる。戦後、無謀な作戦の代名詞と為った。約2万3000人の第31師団を率いた佐藤は、全滅を防ぐ為に上官である牟田口中将の命令を無視して撤退。命令が絶対とされた当時、異例の行動だった。

 参考 おわり



 素敵な「自転車と家庭水族館」管理人から
 

 長い間愛読いただき有難うございます。一兵士の従軍記はこれで終わりです。著者に深く御礼申し上げます。

 戦争体験記とは、召集され軍隊に入りそして実際戦地に行き戦い、そして敗れて終戦と為り俘虜と為り帰国出来た、所謂、戦死された方々からみれば実に幸運な人達が書き残したものです。
 が、自分の行動や心情を書き記し、そしてそれを公表しようとするまでには、恐らく可成りの時間と精神的葛藤を乗り越えた挙句のものなのです。私の廻りの戦争体験者は、殆どの方が戦争については一切語らない人が多いのです。アンナ理不尽で無謀で過酷で非人間的な日常を一日でも早く忘れ去りたいとするのが人間の本音なのです。

 それでも戦争の実際の、恐怖心に惨(むご)さ悲しさを書き残す決心した訳には深い理由があるのです。それは誰もが同じで「この様な戦争が二度と起こしては為らない」とする熱い心情から来ています。その行動が「自衛だ!国防の為だ!」と幾ら「愛国心の発露」の結果だとしても「戦争」をしては為らない・・・と言いきるのは、その体験者にしか判らない深い思いからなのです。その意味でも、本ブログでは何度か「戦争体験記」を取り上げるつもりですが、宜しくご愛読ください・・・
 





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