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2018年06月28日

一兵士の戦争体験 その20



 その20


 九 敵中突破

 ◇マンダレー街道と鉄道突破

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            牟田口司令官

 ◆闇夜の中を

 夕方前に集結地を出発した。何千人何万人もの死体と落伍者を残し地獄のペグー山系と別れた。

 皆、余り装具も兵器も持って居なかった。私は三ヵ月にわたる死の行軍で小銃も無くして居り、持ち物は帯剣と自決用の手榴弾と空の背嚢、その中に空の飯盒があり水筒をぶら下げているだけであった。

 筏を組む為に用意した青竹はかなり重いが、それを担いで山を下った。平地に出た頃には日は暮れて居り一回小休止をした。「間も無く街道と鉄道を横切るが、音を出さ無い様に静かに素早く渡るのだぞ」と改めて注意が為された。
 闇夜の中を歩いた。平原の中、小川の中、田んぼの畔(あぜ)の上を滑り滑りヨロメキながら歩いた。水が一面溜まった水田の中をも横切り歩いた。誰もものを言わ無いで前の人に遅れると道が分から無く為るので一生懸命に歩いた。ナカナカ道路も鉄道も現われて来ない。原野の中の道無き道を、只管(ひたすら)西から東へ向かって歩き続けた。

 どの部隊が、どの様な順序で撤退して居るのか分から無いが、千人余りが私達と同じ梯団(ていだん)を組み師団司令部も一緒であった。
 小川を渡る時は腰まで浸(つ)かり、畔(あぜ)を歩くと小さな刺(とげ)の草が裸足にチクチクと刺さり痛かったが、野いちごの刺の様に固い物で無くて我慢出来た。ヌルヌルの土の上は滑り易く暗闇の中に転んだ者も居た。しかし、軟らかい土の上を裸足で歩くのだから多人数であっても足音を立てずに進む事が出来た。数時間も休み無く歩きに歩いた。

 疲労衰弱した兵士達は、喘(あえ)ぎ喘ぎゴチャゴチヤに為りながら歩いた。我々の中隊も一丁の重機関銃を銃身と脚に分解し重いので交替しながら担(かつ)いで行った。私も銃身を担いだ。歩く事がやっとの自分には五十キロもある銃身は大変な重さである。闇の中を一緒に為ったりバラバラに為ったり取り逸れたり、ヨロメキ乍ら歩いた。
 三メートル程の溝を渡り土手を上がると、そこに舗装した道路が横に伸びて居て一気に横切った。幅約十メートルのマンダレー街道である。続いてマンダレー鉄道をも踏み越えた。感激の一瞬である。しかし立ち止まり感傷に耽る時間は無かった。

 

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 一刻も早くその地点を離れる必要があった。この幹線は敵の支配下にあり敵が厳重に警備して居るラインである。昼間は敵の機動部隊が頻繁に行き来して居るので、我が軍は警備の薄い夜、闇に紛(まぎ)れ鼠(ねずみ)の様に越えるしか無いのである。後日、輜重隊の記録によると二十年七月二十一日午前二時と記されて居る。
 横切り終わると一層速度を早め、田んぼの畔道を東へ東へと突き進んだ。真っ暗闇の中を、前の人に遅れまいとして歩いた。誰が何処を行って居るのか全く分から無い。直ぐ前を行く兵士の姿のみが頼りであった。

 畔を歩いて居ると畑があった。暗いので好く分から無いがどうやら砂糖きび畑らしい。急いで一本折ってみると砂糖きびだ。皮を剥(む)いて噛(か)むと甘い汁が口の中を潤して呉れる。美味しい、貪る様に汁を吸った。
 腹の空いた身体に沁み通る様であった。二、三本食べた。重い竹の筒を持ち歩き歩き食べるのだから、落ち着か無いし前を行く人を見失ってはいけない。砂糖きび畑も終わった。ウネウネと曲がった畔を小休止もせず歩き続けた。
 もうマンダレー街道を横断してから三〜四時間経っただろうか、夜が明け始めた。それでも辛抱強く道無き道を東へ向かって進んだ。

 コンモリと木の茂った部落に到着した。百軒程の村が田んぼの中にポツンとあった。部落に入るや米と塩を探した。部落の現地人は驚いた様子で、全く予知しない出来事であった為、逃げるにも逃げられず抵抗する事は無駄であり、親切にして好いものか英印軍に知らすべきか否かと迷った様子であった。
 日本軍が直接ビルマ人に危害は与え無いと分かって居ても狼狽して居た。 その内、ビルマ人は部落の外に逃げて行った。
 我々は米を手に入れ、早速飯を炊き久し振りにご飯らしいものを食べた。私は玄米しか手に入れる事が出来ず、それを好く煮て食べた。玄米だから消化が好く無いだろうと思い好く咀嚼(そしゃく)して食べた。長い間飢えに苦しんで居たので腹一杯食べた。ヤレヤレ一眠りしようかなと思った時、敵が砲撃をして来た。
 これ以上部落内に居る事は危険だと判断し野原に出た。大平原には大きい木も無く遮蔽物が無かった。我が軍はクモの子を散らした様にバラバラに散って逃げた。敵の射つ弾丸がアチラコチラで炸裂した。しかし、大事に至ら無い内に夜の帳(とばり)に包まれ長い一日が終わった。

 

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 分かれ分かれに為って居たが、何時とは無しに集まり中隊は纏まった。昼間は行動が出来ないので、その日も又夜道を歩き始めた。一晩中歩いたが夜が明けてみると元の所に舞い戻って居た。「骨折り損の草臥れ儲(もう)け」と言った処で、ビルマの荒野の中では色々の事が起きる。ブツブツ言っても仕方が無い。弱り切った体は余計に疲労するだけである。これも戦争だ。

 又も下痢が始まった。玄米を食べたのが行け無かった。長い間禄に食べて居ないのに一気に米のご飯を食べたので胃腸が着いて行けず下痢と為った。下痢が以後も長く続き私を苦しめた。
 今夜も夕方から行動を開始し、闇の中シッタン平野を東の方向に歩いた。夜明けに小さい農村に辿り着いた。ヤレヤレ大休止だと思い地面に身体を横たえた。この部落よりシッタン河までは後三日の行程らしいと聞いた。

 ◆重機関銃(じゅうきかんじゅう)を収容(しゅうよう)に行くが

 その時中隊長から「伊多(いだ)軍曹と小田、長代(ながしろ)、米田(よねだ)の兵隊三名は、三日前マンダレー街道を横断した際所在不明に為った兵士と重機関銃を助け収容(しゅうよう)して来い」との命令を受けた。「必死の覚悟で捜(さが)し助けて来い」と念を押された。大変な事である。

 重機が取り逸(はぐ)れたのは三日も前の事であり、夜々(よるよる)歩いて来たので道は分から無い。分かるのはここより西の方角と言う事だけである。しかし中隊長にしてみれば、師団司令部から預かった大事な重機関銃を無くしたと為ると、幾ら状況が悪いと言っても責任を感じる事は当然で、この「収容命令」と為ったのである。

 丸山班長以下五、六名が取り残されて居るので助けて来なければ為ら無い。考えてみると、丸山班長以下全員が責任感強く、重機関銃を運ぶ為に中隊に着いて来れ無く為ってしまったのである。それ程重機は重かったのである。
 伊多(いだ)軍曹は大変困難な事と思ったが、返す言葉も無く命じられた通り「行って来ます、只今出発します」と答えた。伊多軍曹は三人の兵隊に対し「我々は生きて中隊に追及出来無いと思う。ここに一握り砂糖がある。お前達好く味わって置け」と言って砂糖を少しずつ分けて呉れた。この砂糖は昨日か一昨日部落で、せ占めたのだろうが貴重品である。

 私も決死の覚悟をした。西の方角に向かって出発、兎に角西の方へ草原を歩いた。或る地点で小休止をした処、一度休んでしまうと身体の自由が効か無く為り草叢の中に寝込んでしまった。
 目を覚ますと真昼に為っており太陽が上から照り着ける。背丈程の草叢の中だが、日陰が無いので暑くて堪ら無い。敵の飛行機が三機飛来して来た。私達は見つから無いかと心配したが飛行機は上空を飛んで旋回(せんかい)し向こうに見える部落を攻撃した。間も無く火の手が上がった。

 雨期の間でも今日は好く晴れた日で、空には雲一つ無く、西には先日まで我々が苦闘した痛恨(つうこん)のペグー山脈が見え、東は果てし無くペグー平地が続き遥か遠くにシャン高原が見える。

 夕方に為り目指す西の方向に歩き始めたが、日が暮れ方向も定まらず道も分から無いので田んぼの中の民家に入り休んだ。飯盒で飯を炊き食べ弱った体を休める為眠った。
 野宿と違い幾ら粗末な家でも家の中は有難い。それに薪は家の一部を壊せば直ぐに間に合うので簡単に炊事が出来た。濡れた衣服も乾かす事が出来て助かった。

 翌日も、当ての無い事だが兎に角マンダレー街道の方向を目指し四人で歩いた。雨期の最中だから何処も水びたしで腰を下ろして休む所が無い。それに私は下痢をして居るので余計に苦しい。
 その時、前方に小さな部落があり、その取っ掛かりに寺院がありその端に二階建てのハウスが目に着いた。そこに行って休もうと畔道(あぜみち)を伝って進んで行き、もう後五十メートル位まで近づいた時、そのハウスから「パン」「パン」「パン」と突然銃撃して来た。田んぼの水面に弾が当たり水飛沫を上げた。思いも掛けない事でビックリした。

 四人の前後左右に弾丸が飛んで来た。三丁位の小銃で狙い射って来る。咄嗟に水田の中に身を伏せた。広い水田の真っ只中(ただなか)で遮蔽物は何も無い。 我々四人の姿は相手から丸見えだ。何時までも伏せして居る訳には行か無い。お互は、銘々勝手に立ち上がり田んぼの中を走って逃げた。走ると言っても水田の中は走れるものでは無い。
 それに敵から真っすぐ逃げたのでは照準(しょうじゅん)にされるので、ジグザグに逃げては伏せ、伏せては逃げ息の続く限り走った。我々を敵弾が追って来て水面に「パッ」「パッ」「パッ」と飛沫(しぶき)を上げた。
 水面に伏せたり、ジグザグに逃げたりして敵から四百メートル程離れ一息着いた。幸い誰にも弾が当たら無かった。だが全身水浸しで泥だらけである。背嚢の中まで濡れて居た。

 敵と言っても、現地人だろうから鉄砲の扱い方が上手で無く、我々をもっと引き着けて置いてから射って着て居たら誰かが遣られて居ただろう。彼等も怖かったので早い内から撃って来たので私達は助かったのだ。ここでも泥んこに為りながらも紙一重スレスレで命拾いをしたのだ。

 次の日も天気だったので夕方迄灌木の茂みに体を隠して休んだ。夜に為り方向が分から無いので、アバラ小屋を見付け潜(もぐ)り込んだ。
 昼間は敵に見つかるので行動し難いし夜は道が全然分から無い。疲れ切って居るので行動が緩慢で体が動か無い。重機収容の任務を帯びて居るが如何(いかん)ともし難い。悶々(もんもん)の内に二日三日四日が過ぎて行く。
 師団司令部や私達の一中隊はシッタン河へ向かって前進しただろう。そんな事を思うと早く中隊へ追い付か無いとシッタン平野に取り残されてしまう事に為る。この平野は敵の勢力下にあり動く事も容易では無いのだ。

 

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 重機関銃はどうしても見つから無い。仕方無く中隊へ追い着く事にした。シッタン平野に下りてからは、米に有り付け塩やガピー等も徴発(ちょうはつ)する事が出来たので体力も少し回復しつつあった。しかし私は玄米を食べて以来下痢(げり)が続き、一日に幾度も排便するので体調が良いとは言え無かった。焚火の後の炭を下痢止めと思いガシガシと噛んで食べた。
 次の日は朝から本隊に追い着くべく東に向かって歩いた。だが、本隊は既に東へ移動し、シッタン河手前二キロの地点に行って居た。月明りの夜遅く師団が屯して居る付近まで追い付いた。これでヤレヤレ一先ず安心だ。シッタン河の手前に取り残される事は無いと思った。

 翌朝、中隊長に重機収容が出来ないまま復帰した事を告げた。叱られはしなかった。この責任を負わされた伊多軍曹は、それ迄にペグー山系で迫撃砲弾で頭を負傷し包帯をして居たのに、重い任務を果さ無ければなら無い心境は如何だっただろうか。
 一兵卒の私とは責任の度合いが違うが、好く判断され的確な措置を取られた事と感心した。流石優秀な下士官だと思った。その後私は自分の十二班に帰った。帰ると言っても散り散りバラバラで誰も居なく道端で力無く佇んで居た。

 ◆玉古班長との別れ

 そこへ溝口指揮班長が来て「アソコで玉古(たまご)班長が死んで居るから行ってみよ」と指示された。遺骨を収拾して葬って遣れとの意味である。玉古兵長は貧しい民家の中、その片隅の押入れの様な所で壁に凭れ掛かる様にして死んで居た。
 触ってみると未だ温もりが残って居た。一週間程前には私は彼と一緒に四人で行動し、彼が引っ張って呉れたからこそ私はペグー山系を歩き通せ助かったのに。私に取って命の恩人がこんな事に為ってしまった!

 思い返せば、私が青野ヵ原に転属した時から「小田よ」 「小田よ」と言って可愛がって呉れ、何かと感化を受けて居たのに。軍隊では先任の古年兵に好意を持って貰える事は特に嬉しく有難い事だった。思い出は尽き無いが、今は感傷に耽る間は無く何とかし無ければなら無かった。
 自分もヘトヘトだったが私一人だけである。農家に鍬(くわ)があったので庭先に穴を掘った。土は黒い色をして居り雨期でもあり、軟らかくて掘り易かったが体力が無いので深くは掘れ無かった。穴を堀り終えると家に入り彼を抱き抱え自分の背中に背負った。薄い肌着を通して彼の冷たく為り掛けた身体が私の背中にベッタリと覆い被さって来た。

 死人を背負うのは難しい。死人は手を貸して呉れ無いから背負い難かったが、彼は小柄で痩せて居たのでどうにか背負って外に出て穴まで運んだ。出来るだけ大切にし滑らかに優しく穴に入れ様としたが、私に力が無いのでギコチナクドタリと音がして穴に入った。
 生きた人ならこんな落ち方はしないがもう一つの物体なのである。丁寧に土を被(かぶ)せて合掌した。疲労し切った自分にはそれだけの事しか出来なかったが悔いは残ら無かった。

 

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 ・・・その時の事は、今でも鮮明に脳裏に焼きついて居り忘れられ無い。私と関係の深かった玉古源吉班長の最期のお世話が出来、些かでも御恩に報いる事が出来たと思って御冥福を心よりお祈りする。
 この文章を書いている今も、玉古班長が機敏に動かれて居た姿や、額(ひたい)が広く、冴えた目元の顔が思い出されて為ら無い。又彼は大工さんで、頭も切れるタイプで我々の住む小屋を建てる時にも大いに活躍し、機関銃手としても好く任務を果たされ、我が班で無くては為ら無い重要な人であった事を思い出す。
 私の属する十二班の歴代班長がこの様に次々に去って行かれ悲しく残念至極である。

 ◆血に染まったシッタン平野

 重機関銃収容に行った私達四人は田んぼの中で敵に射たれた時に、筏にする竹の筒を無くしたのでそれに替わる物を作ら無ければ為ら無かった。それが無ければシッタン河は渡れ無いのだ。
 この辺りには竹薮が無いのでビルマ人の家を壊しその材料の竹を取り出し何本か纏めて筏を作るのだが、古い竹で割れたのもあり細くて頼り無いものだった。それを縛る紐が無いのでアレコレ算段して、苦心して作るのに一日掛かった。 夜に為り河を偵察に行ってみた、為るほど凄い。星明かりで対岸は好く見え無いが二百メートル以上はありそうだ。

 その土手一杯に盛り上がる様に黒々と水が流れて居る。岸の近くでも流れは早く中程では渦を巻いて居るとの事である。雨期の最盛期で大変な河だ。これを見て、余程確りした筏で無いと駄目だと思った。それに疲労困憊した今の体では耐えられ無いだろうと思った。そこで筏の組み替えを考えた。「バナナの太い軸が浮力があるのだ」とも聞いたが実行は難しい。

 ペグー山系を出発してからシッタン河に差し掛かる迄に、我々の梯団(ていだん)は約一週間を要したが、その間にも多くの犠牲者を出した。飛行機の銃撃に倒れる者、落伍してしまい行方不明に為った者、弱り果て自決する者等色々である。確実に兵士の数が減少して居る。
 今日も、マラリヤで苦しんで居た北浜上等兵が遂に死を選んだ。一軒のボロ家に長代上等兵達四、五人が休んで居た。彼は仲の良かった長代上等兵へ「お世話に為ったが、わしは行く」と小さな声で伝え外に出て行った。皆弱って居り、もう誰も止める者も居なかった。止めた処でどう為るものでも無い。
 彼は死期が近いと覚悟したからだろう。可哀相にと思ってもどうする術(すべ)も無かった。お互いに皆重病人であり自分の命を支えるのに精一杯、お互いに死に直面して居り冷静に考えるユトリも無かった。私自身もそうであったが、死んだ方が楽だとさえ思った事がある。

 

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 二十五歳の青年北浜上等兵。目元の美しい彼も長い敗走の間に髪は伸び放題、髭(ひげ)は顔を覆い今は見る影も無く痩せ衰え垢に汚れ黄色く為った顔、恐らく高熱に冒されて居たのだろう。
 彼が外に出て行ってから暫くして「ドガン!」と言う手榴弾の破裂音がした。彼は自ら命を絶ったのだ。こんな事が随所に起りシツタン平野は阿修羅(あしゅら)の巷(ちまた)と為った。
 今晩渡河予定だったが予定変更と為った。近くに舟があるのを見着けたのでそれを取りに行く事に為り、私もその一員と為った。シッタン河に沿って四キロばかり上流に行った所に民家がありその軒先に舟があった。
十人ばかりで担いだり田んぼの水の上を引いたりして持ち帰り、その夜は数名で舟の整備をした。『舟で渡れるぞ』と喜びユックリ休んだ。

 ここ三、四日は不思議と天気が続き今日も朝から好く晴れて居る。愈々今晩は渡河だと思うと、大きな期待と恐怖が入り交じって来る。処が、日本軍の作戦を知った敵は空陸一体と為って攻撃して来る。シッタン河に沿った部落を何回も空襲し、機関砲を射ち小型爆弾を落として行く。我々は家の床下に隠れたり部落外の田んぼの間にある木の影に隠れたりした。
 私は背丈位ある竹で編んだ大きな籾の槽(おけ)の間に蹲り一日中そこに居た。敵のするがままで他に良い方法は無い。
 嵐の様な機関砲の弾、耳を劈く爆弾の破裂音、逃げたとてどうしょうも無い。弾が当たれば当たれだ、当たるなら即死する様に当たれとさえ思う。
 フト母からの手紙を思い出した。母が金光教(こんこうきょう)を一心に信心して呉れて居るから大丈夫だ、敵弾は当たるものかと信じると妙に心が落ち着いた。又、西澤とよ子さんから来た手紙の一節「米沢のさくらんぼが待っています」を思い出し、私は死な無いと予言してみるのである。

 部落の一部が燃え出した。固唾(かたず)を飲んで様子を伺い思わずお守りを握り絞めて居た。この空襲で隣の十一班の班長小田兵長と二階堂上等兵が機関砲の弾を頭に受け最期を遂げた由、苦労してここまで来たのに誠に残念で悲しい事だ。
 この様に、我々手島中隊は師団司令部と一緒に行動し戦火の被害を受けて居るが、その他の聯隊でも大変な犠牲者があり多くの血がこの平野に流されたのである。

 英印軍(えいいんぐん)の優勢な力にシッタン河河畔に追い詰められた我々は、竹の筏に掴まり泳いで渡河を決行するか、渡河を諦めここで最後迄戦い通すか、自決するかの決断に迫られた。

 多くの者は渡河手段を選択したが、既に負傷したり体力が衰弱した者は泳げ無いのでここに残らざるを得無かった。残った兵士は以後数日間、敵弾に晒され生命を落とす事と為ったかと思われる。

 

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 ・・・終戦後に分かった事だが、傷つき意識不明と為り何時の間にか現地人に助けられた者もあった。又、自決出来無いままやっと生きて居る処や、昏睡(こんすい)状態の処を英印軍に拾われ捕虜に為った者もあった。
 戦争中に、或いは抑留(よくりゅう)期間中にビルマ人に為った人が沢山あると当時から聞いて居たが、この様な状況の中で色々の運命を辿らざるを得無かった。
 余談に為るが、竹山道雄の「ビルマの竪琴」とか、梶上英郎の「ビルマ曼陀羅」等の書籍にビルマ人に為り生活して居る状況が書かれて居るが、多くの日本兵がビルマ人と為ってしまった。
 その経過は色々だろうが、辛く、悲しく、耐え難い困難があったに違い無い。私が想像する様な単純なものでは無く大変な犠牲を被(こうむ)られた方々である。戦争の為に、生きていながら日本に帰れず人生が全く変わったのである。

 

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 ・・・私は昭和五十八年一月、ビルマ慰霊の旅に行った際、トングーと言う町に泊まった。トングーは、我々がシッタン河を渡河した地点の近くで多くの戦死者を出した所である。
 この町にはホテルが無いので校長先生の家に泊まらせて貰った。朝市を見てブラリと歩いて居ると一人の中年の女性が私の傍に来て「日本人か?」と尋ねる。「イエース」と答えた。すると手真似とビルマ語でこちらに来て呉れと誘う。
 女に誘われて行くのは危険かとも思ったが、普通の女であり朝市の買物帰りである。それにビルマ人だから日本人に好意を持っての話であり、悪だくみがあってで無い事は直ぐに分かった。その時私は一人であったので多少の警戒はしながら着いて行った。

 二百メートルばかり行くと、醤油屋の様な大きな構えの家に案内された。家族で朝食をして居る様子であったが、家の主人を紹介して呉れた。この主人は英語で話掛けて来た。「日本人ですか、ご苦労さん、一寸待って下さい」と言って、十六、七歳の女の子を連れて来た。
「この子のお父さんは日本の兵隊さんです」「この子のお父さんは日本人です」と紹介して呉れた。私の心はジーンと痺(しび)れた。この可愛らしい娘の中には日本人の血が流れて居るのかと思うと、いじらしく不憫(ふびん)に感じられた。
 彼女は勿論ビルマ語しか話せ無い。ビルマ人の多くは中国系で日本人と殆ど変わら無い。見た目には普通のビルマ人であるが、兎に角日本の血を引いて居るのかと思うと胸に応え戦争の落とし子の幸せを祈らずには居られなかった。「お父さんは今いますか?」と尋ねると「二年程前に死にました」と言う答えが返って来た。
 お父さんは実際は未だ生きて居るのかも知れ無いが、何かの都合で出て来ない方が好いので、死んでしまった事にして居るのかも知れ無い。詮索は無用である。戦争の影響の大きさとその深さを肌で感じさせられた。
 この子のお父さんはどの様な事で生き残り、ビルマ人に為らざるを得なかったのか知る由も無いが、あの戦争で生死の境を彷徨っている間にこの様な運命を歩むしか無かったのだろう。誠に気の毒な事である。

 私の心は疼(うず)いた。彼女はビルマ語、私の英語を主人が通訳して伝えて呉れるもどかしさはあったが、宿に帰り日本から持って来た土産物、日本製の布地、シャープペンシル、ライター等沢山持ち出し彼女に渡し「幸せに遣りなさい」と祈り別れた。

 これは、私が直面した一例であるが、ビルマに残った人の幸せと、日本ビルマ混血児の幸福を心から祈った。

  つづく

 

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