2018年06月28日
一兵士の戦争体験 その21
その21
◇シツタン河の渡河作戦
◆小舟で渡れる
我々手島中隊の者は舟でシッタン河を渡る事に為った。昨夜舟を収拾(しゅうしゅう)して来た苦労が報われた訳だ。私はその時、日にちの感覚は明確で無いが、輜重兵ビルマ戦線回顧録(かいころく)に拠ると、シッタン河は五つの作戦区分に分かれ渡河したが、第一中隊は師団司令部等と同じ右縦隊中央突破縦隊に属して居り、渡河した日は二十年七月二十六日と記されて居る。
日が暮れると行動が開始された。渡河地点まで約一キロを歩いて行った。部隊毎に順序好く並ぶ。舟は小さいので四人しか乗れ無い。漕ぐ人が別に二人乗り計六人である。この突破縦隊は何百人も居り一晩では渡り切れ無い。
この地点に、もっと部隊が居たのか、他にもう一艘あったのかも私には好く分から無い。私達は三時間程待つ内に順番が来たので河岸に行き装具を持って舟に乗った。暗闇の中に水は岸に溢れんばかりにと・う・と・う・と流れて居た。水はどれ程濁って居るか分から無いが黒いうねりの様に見え大変な水量で圧倒されそうである。流れの速さも凄く目測で毎秒三メートルと記録されて居る。
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岸を離れ兵隊二人が一生懸命に漕いで居る。我々は兵隊の指示通りに飯盒で舟の底に溜まる水を汲み出した。舟の整備もしたのだろうが、可成り浸水して居る様である。皆祈る様な気持ちで乗って居ると、舳先(へさき)を上流に向けて漕いで居るのに流され流されして居る。
暗いので好く分から無いが流れは渦を巻いたり湧き上がる様な所もあった。 河の中程を過ぎると対岸が黒ずんで薄く見え出した。次第に近づく。もう直ぐだ。舟が岸に着いた!
岸にしがみ付き草の根を固く握りながら這(は)い上がった。三、四メートルも土手を攀じ登った。こちらの平地の方が水面に比べ大分高い様だ。兎に角シッタン河を無事に渡ったのだ。筏を押して泳いで渡るのでは無く舟に乗り労せずして渡れたのだ。 漕手の兵士に心から「有難う、有難う」と感謝のお礼を言った。将に「生」への喜びの一瞬である。
小舟は次の人を迎える為に帰って行った。舟の着く位置も多少異なるし暗闇の中では先行した人が何処に居るか分から無い。岸の小高い草叢に腰を下ろして暗黒の流れを振り返り眺めて居ると、私達は非常な幸運に恵まれ小舟のお陰で渡れたのだと感激一入であった。
誰が漕手をしたのか知ら無いが、その兵隊だって弱って居た筈である。元々漁師か何かで舟を漕ぐ事に慣れて居たのかも知れ無いが大変な仕事だったと思う。その漕手で、皆を渡して呉れた人は果たして最後迄転進をし内地に帰ったのだろうか?幸運に私達の第一中隊主力は夜明け迄に渡河を完了したようだ。
・・・最近本誌の執筆に当たり、当時指揮班長をされこの渡河についても細部の取り仕切りをされて居た溝口登元准尉に聞いた処、その時の漕手は堀、三枝、山崎の各上等兵で、この人達が好く遣って呉れたので皆渡河出来たと感慨を込めて教えて下さった。
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他の部隊の一部は、夜が明けてしまい渡河出来ずそこに残ったままと思われる。昼は敵の飛行機が偵察し、流れて居る日本軍兵士が居ると機関銃で撃って来るし下流の岸からは敵や現地人が撃って来るので、舟であろうと筏であろうと渡河は不可能である。それに長時間水の中に居ると、弱り果て筏から手が離れ溺死してしまうのである。
私は、渡河地点近くに民家があったがそこには入らず、バナナ畑に入って休んだ。日が高く為った頃敵機が数機飛来して、昨日迄我々が居た対岸の部落を目がけて銃撃し始めた。ここから見ると約千五百メートル離れた所であるが、こちらが高台なので手に取る様に見える。小型爆弾の炸裂する音や、機関砲の音も聞こえて来る。やがて、火の手が上がり煙と炎が遠望される。将に地獄絵図さながらである。
あれ程遣られると全滅したのでは無いかと思われた。良くぞ昨夜、十時間前に渡河して居たものだ。一日遅れて居たらあの硝煙の中に居るのだと思うと何とも言え無い戦慄(せんりつ)を覚えた。敵は、我々が渡河点前に集結して居ると思い徹底的に攻撃をして居るのだ。マタマタ、シッタン平野に多くの若い血が流されて居るのだ。敵の攻撃を受け傷つきながらも運のある人はその夜、筏に縋り渡河して来た。だが多くの人は濁流の藻屑(もくず)と消えた。
その夜渡って来た人に聞いた処によると、その日の攻撃は物凄く、大変な犠牲者が出て屍が累々として重なり、渡河も各人の筏で銘々(めいめい)に泳いで来たので多くの人が流されたとの事であった。
◆シッタン河の悲劇
既にビルマの主要部分は敵の支配下に落ち、このシッタン平野も英印軍に制圧されて居た。敵の勢力下にある地帯を突破する悲壮な作戦である。その為に突破梯団が組まれ、渡河区分も大きく五つに分かれ渡河地点も三十キロに渉る長い展開であった。
場所によって河幅も流れの速さも異なり、又ペグー山系を下りた所からシッタン河迄の距離も異なるし地形もマチマチ、敵の警戒度合いも場所により異なって居たが何処も厳しいものであった事に違いは無かった。
シッタン河渡河は我が軍団に取り最大の難関であり決死の一大作戦であった。世界の戦史に末長く残る極めて稀な激しい渡河作戦であったと言える。 渡河した将兵の殆どは竹の筏に装具を乗せ四、五人で組に為り筏に掴(つか)まり泳いで渡ったのである。それも夜の闇に紛れての行動である。人間の体力のみではどうにも為るものでは無い。
流れは右に曲がり左に折れ怒涛(どとう)の如く荒れて居る。波も立ち目線も筏に掴まって居るのだから低く、周囲の様子も分かり難い最悪の条件である。それに皆疲れ切って居る。対岸を目指して泳ぎ出したものの、浮かぶ筈の筏はアッと言う間に沈み乗せた兵器は流れ去り、筏は身軽に為って再び浮き上がりこれに取り縋(すが)った兵士は急流に押し流され多くの命が奪われた。
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濁流に翻弄され激流に呑まれ、泳いで居ても筏から手がズルズルと離れ激流の波を頭から被る。筏はグルグル回ったりバラバラに分解したりして「助けて呉れ!」「助けて呉れ!」と叫びながら多くの人が流されて行く。やっと対岸に近づいたと思ったらアレヨアレヨと言う間に沖に押し戻されてしまう。もう諦(あきら)め様としながらも又岸に向かって泳いで筏を押したと言う。
私は、渡河出来た人からの話しか聞いていない。渡河出来無くて流された人、即ち死んだ人の話を聞く事は出来無いが、その人達は下流へ流されて居る時どんな目に遭いどんなに悲痛な思いをした事か。その事を忘れる訳には行かない。
私達の中隊に舟が無かった為らば、私は筏で泳ぎ渡る体力は無く急流に流され渦に巻き込まれ死んで居ただろう。元気な時には二百メートルや三百メートル泳げる人も、水泳の選手で幾らでも泳げた人も、今は痩せ衰え極度の栄養失調で半病人、体が駄目に為って居るからこの流れを泳ぎ通す事は到底困難な事である。
次から次に「助けて呉れ!」「助けて呉れ!]と叫びながら流されて行く声。「軍旗(ぐんき)を持って居るのだ、助けて呉れ!」と絶叫しながら流される、元気な旗手が腹に巻きつけて泳いだのだろうが、何分重い旗でありしかも水に濡れれば重く体の自由が効か無く為ったのかと想像する。後に為って聞いたのだが、幸いにこの軍旗は渡河に成功し、終戦迄大切に守られて来た由である。
「助けて呉れ!」と言う声は聞こえても暗黒の闇、何処を流されて居るのか分から無い。よしんば声の所在が分かっても長い棒やロープや浮き輪がある訳では無く、精々「頑張れー」と声援するだけで為すべき手段が無い。その人自身の努力と運しか無いのだ。流れの表面に沿って岸に近づくのを待つだけである。
熱帯地方とは言え夜の水の中、次第に手も足も痺れ筏から離れ沈んで行くのだ。心臓麻痺で死ぬ人もあろうし、流れて行く内に夜が明け敵に撃たれた兵士もあっただろう。私は後日、他の河の橋桁(はしげた)に白骨を乗せた筏が引っ掛かって居たのを見た。
身体は本人がロープで筏に括(くく)り着けたのだろうが、そのまま息が絶え朽ち果てて骨のみが筏の上に残されて居るのだ。誠に哀れと言うより言葉が無かった。筏に掴まり流され、息絶える迄の相当の時間、この戦友達は何を思い何を願って居たであろうか?故国を思い、父母妻子を懐かしみ、どんなに残念無念の思いをしながら死の時を待っただろうか。
流れる間に放心した者もあるかも知れ無い。又理性的に自決を覚悟した人もあっただろうが、装具の中から手榴弾を取り出す事も、流れる水の中ではママ為らず流れに身を任すだけと為り死ぬに死ねず最期を待ったのだろうが、こんなに酷(ひど)い事がこの世にあるだろうか?
不利な戦とは、こんなものである。歓呼の声に送られ勇ましく征途に着いた将兵が無情にも、夥しい数、こうしてシッタン河の藻屑(もくず)と為ってしまったのである。
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終戦後の抑留期間中に、他の師団で当時シッタン河の下流に布陣して居た兵士から聞いた話だが、
「毎日毎日夥しい屍が筏と共に流れて来て、禿鷹(はげたか)が舞い降りて屍の肉を食べその惨状は実に目を覆うものがあった」
「河口付近は満潮で筏が海に流れず溜(た)まり、死者の腐臭(ふしゅう)が一帯に充満して居た」
と聞いたが悲惨の極みと言う他は無い。
シッタン河に流された確かな人数を把握して居ないが、英印軍の集計によると六千の遺体が流されて居たと記録されて居る。しかし沈みながら流れて居るものや、岸に引っ掛かった屍等を合わせると一万にも達するのでは無かろうか。
これも後日聞いた話で一例であるが、岡山の歩兵聯隊では、渡河前千人居た者が渡河直後五百人に半減して居たとの事で、各聯隊共に似た様な惨状であった事が想像される。この夥しい死体を河は飲み込み、大部分は流れて海に行ったのだろう。しかし途中に引っ掛かった屍の処理を現地人はどの様にしたのだろうか?これも大変な作業だった事と思う。
全世界の何処にこんな河があるだろうか。世界の戦争史の中で稀に見る悲劇である。永遠に流れるシッタンの流れよ、この河に散って行った日本兵士を何時までも弔って呉れ。私達はシッタンの悲劇を永久に忘れては為ら無い。私の命ある限り無き戦友に哀悼の誠を捧げなければならない。
ペグー山系の餓死、シツタン河での水死、ここに数万人もの犠牲者を出しながら撤退作戦は更に続けられた。
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◇シャン高原での戦い
◆シッタン平地からシャン高原へ
渡河後昼はバナナ畑に退避、夜は民家に入り食糧を集め飯盒炊事をしてどうにか飢えを凌ぐ事が出来た。三日ばかり集結の為その辺りに止まった。幸いに敵の攻撃は河のこちら側には及んで来なかった。
渡河により各梯団とも人数が激減して居た。又しても夜間の行軍が始まった。目指すはビルマの東南のモールメン地区で、ビルマ方面軍司令部は既にその地区へ後退して居た。
そこ迄の道程はマダマダ遠く二百キロも先であった。シヤン高原の道はクネクネと曲がり細く為ったり太く為ったりして居た。平地を過ぎ森林部を抜けナダラカナ山間部へと毎日夜間の行軍が続いた。敵の地上部隊は未だここ迄は来て居なかったが、飛行機による追跡と機銃掃射は続いた。
又、至る所に地雷が仕掛けられて居た。我々より先行して居た兵士が地雷に遣られ倒れて居り、死体がアチラコチラに散らばって居た。
或る日の事である。道の真ん中に将校が座って居る。何で端に座ら無いで真ん中に居るのかと不審に思い近づいて見ると、地雷に遣られ上半身のみが路面にドッカリと倒れずに立って居る。下半身は吹き飛んで居るのだ。叉、ペグー山系程では無いが、シヤン高原の道端にも体力が尽き果て自決した兵士の屍が至る所に残され惨状を呈して居た。
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終戦後、秋田衛生下士官から聞いた話だが、彼も落伍し無い様に一生懸命に歩いて居た。路傍に屍が点々とあるのは当時としては珍しい事では無かった。彼がフト見ると、仰向けの死体の口の中から芽が青く出ている。好く見ると、生の籾を食べようとして口の中に入れたがそのまま息を引き取った姿だ。
死体の兵隊は米が無く為りやっと籾(もみ)を現地人の家から取る事が出来たが、これを白米にする力も無く火に掛けて焼いて食べる事も出来無いまま体力が衰え、籾のままを食べようとして口に入れたがそのまま息絶えて居るのだ。
そこへ雨期の雨が適当に口の中に降り注ぎ籾から芽が出て青く育って居るのである。屍の口の中で籾が発芽して青い芽が育つ、そんな事がこの世にあって好いのだろうかと思ったとの事。
我々はコウモリの様に夜歩き夜明けと共にあばら家でもあれば潜り込み、敵の飛行機に見つから無い様にして東南モールメンの方向に転進を続けた。しかし、敵英印軍は日本軍の動向を好く偵察して居り飛行機で山林の上空にも飛来し機関砲で撃って来る。
シャン高原はアラカン山脈の様に高くは無いが起伏が連続して居り、雨期で谷川は増水し激流と為って居る。幅十メートル程の川でも、岩を咬(か)み飛沫を挙げて滝の如く流れて居り歩いてこの川を渡る事は出来ず行き止まりである。
幸いな事に、先行の工兵隊だろうか、上手(じょうず)に大木を川の上に切り倒し向う側からも大木を切り倒し川の中程で交叉させて曲がったり上下して居るが、兎に角橋を拵えて呉れて居たので難なく川を越える事が出来た。
でも、丸木で先の方は細く、他部隊の将校は滑り落ち死んだとも聞いた。そんな事をして激流を越えた事もあるが、激流で無く腰まで漬かって歩いて渡れる所が多かった。
ここの道は泥濘は無く歩き易かった。しかし、相変わらず裸足で竹の杖に縋(すが)りながらの後退である。 山の間を細い道に沿って行くと、時に山間民族チン族の部落が十軒〜十五軒点在して居た。住民は我々が行く前に素早く逃げて居り、顔を合わす事は無く豚や鶏はそのまま置いてきぼりに為されていた。
辺りには水田も無く家の中には米は無かったが、部落には椰子の木が何本かありバナナが何本かあった。我々は当時大部隊としてでは無く分散して行動をして居たので案外食物に有り付く事が出来た。
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吹けば飛ぶ様な竹細工のあばら家でも、雨に打たれて地面にゴロ寝するより家の中は遥かに有難かった。ある部落で柵の中に居る子豚に目を着け、兵隊三人で追い掛けたが豚は必死に逃げるので捕まら無い。仕方無く小銃で仕留めた。豚の料理も荒い事だが肉を裂き薄切れにし肉汁や焼肉にした。
椰子の実が為って居るが高い木を登るのにも技術が居る。それに弱った身体では登れ無い。偶々大きい鋸(のこぎり)があったので引き倒した。その方が労力が要ら無かったので悪いと思ったがそうした。高い木がバタリと音を立てて倒れた。椰子の実が沢山着いて居り皆で分けて食べた。
長い間果物らしいものも食べて居ないので堪ら無く美味しい。現地人に対しては椰子の木を切り倒して済まないと思ったが許して欲しい、我々は今命を繋ぐのに一生懸命であり食べ無ければ死ぬのだ。
一度や二度、豚や鶏を食べたとて急に元気に為るものでも無い。人によっては急に食べたので体が腫(は)れたり下痢を始めるものも居た。こうして我々が通った後は、部落は荒らされ食物は無く為り家の一部は焚火に燃やされ、後には日本兵の屍が残され或いは瀕死(ひんし)の兵隊がそのまま残って居るだけであった。
こんな事は不本意な事であり、現地人に対し誠に気の毒な事である。しかし我々は戦いに破れ敵に追われ食物が無く毎日をやっと生きて居るのだ。
雨期の最盛期は過ぎたが、マダマダ雨は激しく降る。ボロボロの携帯テントに包まりながらトボトボと歩いて行くだけである。雨の中で地面に竹を敷き身体の上に木の葉を覆い寝るのだ。時には焚火で被服を乾かす事もあるが、濡れたまま寝る場合が多い。疲れ切って居るのでそれでも眠れる。
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恨めしい雨は小降りに為ったが未だ続いて居た。その頃はシャン高原の中程ユアガレと言う部落を目指して歩いて居たと思う。 私達第一中隊本部に有吉(ありよし)獣医下士官が居た。敵弾に右足下腿を酷く遣られ、太い木を松葉杖の様にして身体の半分の重さを乗せ片足で歩いて居た。傍にマウンテンと言う青年が付添装具等を持ち手助けをして居た。
この人はビルマの獣医で、ずっと以前から有吉軍曹を慕い気が合い日本軍に協力し転進中も苦労を共にして居た。
この青年の並々為らぬ援助のお陰もあり、普通なら重傷で着いて行ける様な状態で無いのに毎日早めに出発し途中の小休止もしないで歩き抜かれて居り、その精神力その忍耐強さに敬服した。私は、転進中の長い期間気の毒な姿を見て居たが、本当に好く辛抱(しんぼう)されたものであると驚いた。負傷して居ない私がヘトヘトなのに、足に重傷を負いながら良くぞ歩かれたものだと感心した。
・・・彼の若い奥さんが、青野ヵ原から姫路迄の最後の行軍の時、和服姿で彼の傍を離れ無い様にして見送りされて居た。六月下旬の暑い日で軍馬車両が濛々(もうもう)と砂塵を立てて進む中を一生懸命歩いて居られた姿が目に浮かんで来た。
その真心が通じ合ったのでは無かろうか。その後無事復員され元気で今日を迎えて居られる。今だに、歩き方に後遺症が残って居る様だが、有吉獣医軍曹の忍耐強さを尊敬し簡単にここに記す。
・・・有吉義夫氏は、最近私宛にあの重傷で転進中マウンテン君に助けて貰ったのに何のお礼をする事も出来無いままに為って居り心残りだ。恩人マウンテンさんに感謝のお礼を、ビルマの人達に心からお礼を申し上げたいと、切々とした手紙を送って来られた。ここに明記して置く。
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◆輜重隊の活躍
私は一兵隊だから全体の事は好く分から無いが、当時第一中隊は手島中隊長の指揮の下で私達の第二小隊と、片岡東一軍曹や光畑上等兵等の第三小隊、及び溝口指揮班長や志水衛生軍曹等の本部指揮班の総勢約七十名が固まって行動して居たと思う。
中隊長以外の将校は既に戦死されて居たので、指揮班長の溝口准尉が細部の指示を与えて居た。戦力が貧弱に為って居りこれが第一中隊の主力であった。
こうして、第一中隊即ち、手島中隊長以下の主力は師団司令部と一緒に行動をし、師団長の直接警護をしたり司令部の食糧を調達したりして居た。シッタン河渡河の折も、我が中隊の光畑機関銃手が師団長の舟に乗り直接身辺をお守りした。師団司令部の参謀達を小舟で渡したのも我が中隊の兵士であり、そんな事で師団参謀を近くで見る機会も多かった。
前にも述べたが、編成最初からの太田聯隊長は二十年五月十一日戦死され、金井塚聯隊付き大尉も負傷され、その後は植田中尉が聯隊長代理をされて居た。
我々がペグー山系に入った頃、畑聯隊長が着任されて居たが、聯隊や中隊は分散し転進して居たので我々は直接拝顔する事無しに指揮命令を受けて居た。内地に居る時とか一ヵ所に集結して居る時であれば、聯隊長の着任は全員揃って厳粛(げんしゅく)にされただろうが、こんな戦闘中で特に状況の悪い最中では末端には徹底され無かったが仕方の無い事であった。
ともあれ、我々は畑聯隊長の指揮下で後半の転進作戦を実行したのである。 手島中隊長は、頑強な身体の持ち主で鳥取県出身の方であった。中隊がタンガップ方面の警備に当たって居た頃の昭和十九年十一月中旬、聯隊本部付きから当第一中隊へ着任され、以後一番苦しい時に中隊を掌握し転進作戦を指揮されたが、途中、敵弾で片腕を負傷し、三角布で吊し乍らも常に勇敢に陣頭に立ち中隊を終戦まで率い大任を果されたのである。
武士の魂を立派に備えた方の様にお見受けして居た。無事復員をされたが残念な殊に昭和二十六年頃逝去された。もっと長生きされ、日本の発展を見守って頂き、輜重隊戦友会にも来席して頂きたかった。堂々とした体躯で先頭指揮されて居た当時の雄姿が懐かしく今も目蓋(まぶた)に浮かぶ。合掌
つづく
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