2018年06月22日
美化され過ぎた明治維新に今新たな見直しが・・・その2
美化され過ぎた明治維新に今新たな見直しが・・・その2
「維新正観─秘められた日本史・明治篇」
蜷川 新著
批評社の紹介文をそのまま紹介する。幕府側から見た明治維新を知る事の出来る貴重な本である。
明治維新の正しい見方
「維新」の名は美しく世人には響くけれども、事実は極めて醜悪に満ちて居る。我々が国定教科書で教えられた事の大部分は偽瞞の歴史である。その真実の究明から新日本の「民主」を推進したい。「序文」より
尊王攘夷から始まった志士達の行動
尊皇攘夷の旗の下、幕府の開国政策に無謀な異議を唱え、孝明天皇の毒殺を初めとする奸策と狡知に依って倒幕・権力詐取に成功したのが薩長の奸賊集団であった。幕末維新史の実相を、史実に即して大胆にして且つ独自の視点から「正観」した明治維新論。類まれ為る名著の翻刻版である。幕末・維新史に関する文献は様々にあり、様々な視点から分析されて居るが、この本程当時の事実に即して書かれた本は珍しい。何故なら著者は明治6年生まれで幕臣小栗上野介の縁戚(甥)に当たる人物だからである。
徳川幕府の開国政策は、ペリーが東インド艦隊を率いて1853(嘉永6)年6月3日(7月8日)浦賀沖に来航し開国を求めるアメリカ大統領国書を提出した事によって大きく進展するが、老中阿部正弘等を中心に、諸大名から庶民まで幅広く意見を求めて開国への準備を進めて居た。
翌1853(嘉永7)年1月(1854年2月)ペリーは再び浦賀へ来航し、3月3日(3月31日)に日米和親条約が結ばれ下田と箱館を開港したのに続けて、8月には日英和親条約が、12月には日露和親条約が夫々締結されて幕府の開国政策は大きく進展したのであった。
叉、幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為に万延元年(1860年)1月、大老井伊直弼の発案により正使新見正興・副使村垣範正・監察小栗忠順(上野介)をアメリカから回送されたポータハン号と幕府の軍艦咸臨丸の2隻の軍艦に乗ってアメリカに向けて品川沖から出帆した。使節団一行はアメリカの地で大歓迎を受け、更にヨーロッパに向けて見聞を広めて帰国したのだが、その間に大老井伊直弼は桜田門外で暗殺されてしまった。
この様に幕府の開国政策に無謀な異議を唱え「尊皇攘夷」と云う時代錯誤も甚だしいこの攘夷運動に決起したのが薩長土肥の勤王志士と言われる謀略集団であった。
孝明天皇は頑な攘夷論者であったが、孝明天皇の妹和宮と第14代将軍家茂の結婚に依って公武合体を推進し、攘夷派の無謀を譴責(けんせき)して倒幕の愚挙を排撃し長州藩と公家の7卿の処分を宸筆(しんぴつ)の勅許を以て公式に伝えたのである。
これに憤激したのが薩摩の西郷吉之助・大久保利通・長州の木戸孝允(桂小五郎)・井上馨と公家の三条実美・幽閉されて居た岩倉具視等下級公家の陰謀集団である。彼等は薩摩藩や長州藩とは関係無い中で、倒幕へ向けて様々な陰謀、奸策を巡らし、暴力や毒殺による暗殺等あらゆる策謀を図ったのである。
桜田門外事件と孝明天皇毒殺事件
こうした動きがある中で、大老井伊直弼は安政の大獄と言われる粛正を断固として敢行し、尊皇攘夷派を抑え込みながら開国へ向けて大きく舵を切って行ったが、その反動とも言える事件が勃発し、更にその後に孝明天皇の毒殺と云う一大事件が勃発した。将に暴虐の連鎖による内乱へと突き進んで行ったのである。
安政7年3月3日(1860年3月24日)桜田門外で大老井伊直弼が水戸徳川家の家臣によって斬殺され、慶応2年7月20日(1866年)大阪城内で第14代将軍家茂が毒殺されたが(同年8月20日まで伏せられた)、著者の父親の蜷川左衛門尉親賢は当時小姓組頭で将軍家茂に近侍して居た為極秘事を好く知って居たのである。
更に宮中に於いては、岩倉具視が妹を女官として宮中に潜り込ませ孝明天皇の毒殺を試みたが、一度目は失敗し、二度目に孝明天皇を毒殺したが、岩倉の妹女官は薩摩に連れて行かれ斬殺されたと云う。
一般に、孝明天皇は1866年12月25日に天然痘で亡く為った事にされて居るが、一度目の毒殺は失敗に帰し、12月11日頃から症状が出始めて居たが17日から便通もあり食欲も回復し熱も順調に下がり始めて居た。二度目の毒殺で21日から膿が出始め23日には膿の吹き出しも収まって全快に向かって居た。病状が急変したのは25日激しい下痢と嘔吐、最後には体中の穴等穴から出血と云う激しい死に様だったと云う。
「風評では(孝明天皇)崩御の原因は天然痘と言われたけれども、幾年か後に私は裏面の消息に精通する日本人から、帝は毒殺されたのだと教えられた」(遠山茂樹著『明治維新』211頁)
江戸城無血開城と戊辰戦争
当時の武士には武士道の矜恃が未だ残って居たが、薩長の反幕集団には武士では無く郷士と云う武士階級(士分)の下層に属した人々が多く「尊皇」の志も無いまま損得利害だけで天皇毒殺と云う大それた犯罪もそれ程の抵抗無く行われた。
その端的な事例は、西郷吉之助等が江戸市中に放った500人近い組織的強盗団である。無頼の徒と化した強盗団は、放火・掠奪を恣にして50万両に上る江戸市民の財物を強奪したと云う。(この記録は残って居る)この強盗団による謀略を誘い水に幕府を挑発し江戸薩摩藩邸への攻撃を誘い出した。西郷は谷干城(たにたてき)に「戦端開けたり。速に乾君(板垣退助)に報ぜよ」と放言したと云う。
西郷は幕府を内戦に引き込む為の策謀を巡らし、その為だけに無頼の徒と化した強盗団を放ってあらん限りの掠奪を繰り返したのである。西郷と云う人は、謀略・奸策長けた人で根が陰湿な所為か江戸無血開城を巡って幕臣の勝海舟と密談した際に、奥羽越列藩同盟諸藩への武力攻撃を江戸無血開城と引き替えに断行する脅しを掛けた節がある。
勝は優柔不断な人で幕臣であるにも関わらず西郷の脅しに屈服してしまったらしい。江戸無血開城は「如何為る事があっても慶喜の首を取る迄は・・・」と言い張った西郷がイギリス公使パークスに脅されて中止させられたのである。
「徳川慶喜が恭順の意を示し、謹慎・平伏して居るのに江戸武力総攻撃とは何事か・・・」とヨーロッパ社会の掟(倫理)を楯に抵抗され、もし総攻撃するならイギリスも黙ってはいないと脅されたからである。
その後に続く混乱の中で、西郷・大久保・木戸・岩倉等薩長の無頼の徒が偽造した私文書でしか無い「王政復古の大号令」「倒幕の密勅」「会津、桑名の藩主誅殺」の勅や鳥羽伏見の乱で幕府方を驚かせた錦旗の偽造(京都の染物屋が作った)に依って「尊皇攘夷」と云う時代錯誤の王政復古運動を倒幕・権力奪取へと摩り替えて行ったのである。
従って権力掌握後の薩長は、恥も外聞も無く舌の根も乾かぬ内に「尊皇攘夷」の衣を脱ぎ捨てて開国・欧化を一挙に推し進め幕末・維新史を捏造して行ったのである。
第15代将軍慶喜は世に言う「大政奉還」に依って徳川幕府の政治統治に終止符を打ち、新たな国内体制を構築する為の上奏文を認めて居る。(書いたのは三河の幕臣永井玄蕃頭と言われて居る)
「前略、当今外国の交際日に盛為るにより、愈朝権一途に出不申候ては、綱紀難立候間、従来之旧習を改め、政権を朝廷に奉帰、広く天下之公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と可並立候、云々」
慶喜は、幕府権力を朝廷に帰一して広く天下の公議を尽くして合議制の下で協力し、皇国を保護すれば必ず諸外国と並び立つ事が出来る事を宣言して居るのである。この上奏文は、五箇条の御誓文と基本的な枠組みは同じである。慶喜の上奏に対し朝廷は、
「祖宗以来、御信任厚く、御依頼在らせられ候えども方今宇内の形勢を考察し、建白の趣旨、尤に思し召され候間、聞こし召され候。
猶天下と共に、同心尽力致し、皇国を維持、宸禁を安んじ奉るべき御沙汰に候事。大事件外夷一条は、衆議を尽し、其余諸大名同じく仰出され等は、朝廷 両役(伝奏、議奏)に於て取扱い、自余の儀は、召しの諸侯上京の上、御沙汰これあるべく、それまでの処、徳川支配地、市中取締等は、是れまでの通りにて、追て御沙汰に及ぶべく候事」
として10万石以上の諸侯に直ちに上京すべき事を命じたのである。徳川親藩の諸侯や有力諸侯は、朝廷の意向に賛意を持って居たが、掠奪無頼の徒と化した集団の薩長には倒幕・権力奪取の野望しか無い。事前に行われた小御所会議で叉も岩倉具視の背後に控える薩長の陰謀と暴力によって会議は制圧されてしまうのである。
尾張藩主徳川慶勝・越前藩主松平慶永・広島藩主浅野長勲・土佐藩主山内容堂・薩摩藩主島津忠義・岩倉具視・三条実美が列席して居たが、薩長・岩倉側の旗色が悪く為るや否や、薩摩の岩下万平が西郷に相談すると、西郷は「岩倉に向かい、貴殿の懐剣は利れるもの為りや否やと問うてみよ」と脅しを掛ける様に伝えたと云う。
西郷は天皇の面前でも構わずに山内容堂を刺せと示唆したのである。慶喜は、こうした薩長の陰謀を阻止するだけの胆力も先見の明も持ち合わせて居なかった。幕府軍と長州軍が戦った蛤御門の変で、幕府軍は長州軍を敗退させるが、二度に渉る長州征討に失敗し慶喜は数十万の兵を見捨てて松平容保と共に江戸に帰還してしまった。
小栗上野介の処刑
勘定方奉行の小栗上野介は、帰還した慶喜に薩長軍を打ち破る秘策を奉じるが、慶喜には最早戦意も無く、小栗上野介に胸倉を掴まれても只黙って居るだけであった。将軍の器で無い慶喜は只管命乞いの為に恭順の意を示す為上野寛永寺に引き籠って謹慎してしまった。
小栗上野介は、仕方無く故郷の上野国権田村へ引き籠る為に帰郷し東善寺に寓居するが、そこへ西郷の指図で江戸市中であらん限りの暴虐を繰り返した無頼の盗賊団が押し掛け、小栗上野介には「7000人の暴徒が潜んで居る、7千余人を撃退する武力がある」「朝廷に反逆する企図がある」と喧伝(けんでん)し、発砲、放火、掠奪を繰り返した。
更に薩長軍に命令された高崎藩・安中藩・吉井藩の3藩の藩士1000人が東善寺を囲み、捕縛される理由も無いまま烏川畔の河原で斬首され、挙げ句鮮血に塗れた首を武竿の先端に突き刺し路傍に立て梟首の辱めを与えたのである。
こうしてあらゆる権謀術策を弄して権力を詐取した薩長は、血塗られた明治維新政府(藩閥政府)を樹立し、五箇条の御誓文とは似て非なる近代国家を作り出して行ったのである。
ネジレにネジレた明治維新政府は、日清・日露戦争に勝利を収め更なる海外侵略を目論み、朝鮮・中国への侵略を現実化してアジア・太平洋戦争へと突入し崩壊してしまうが、近代日本の保守思想にはこうした忌まわしい歴史が底流と為って流れて居るのではないかと思う。 (引用終わり)
色々なご意見はあるだろうが、これ程貴重な歴史の証言は無いだろう。小栗忠順の甥が書いて居るのだから。時間のある方には一読を勧めたい。
<蜷川 新 略歴>
1873(明治6)年5月生まれ(1959年8月没)。東京大学法学部卒、同大学院国際法専攻、法学博士。ベルサイユ講和会議、ワシントン軍縮会議等、政治、外交、赤十字国際会議に列席。
第1次世界大戦後、「平和時の赤十字」を提唱し、5大国代表と協議し1919年赤十字社連盟を創立した。歴史の専門家では無いが、法学的視点から幕末・維新史の特異な分析を試みる。
以上
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